装丁家・大貫伸樹の装丁挿絵探検隊

2019-01-12 しん散歩(15)…古い写真は富士街道1丁目か5丁目か?

【しん散歩(15)…富士街道の古い写真は1丁目か、5丁目か?】

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写真は『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市の「昔と今」』(西東京市中央図書館、西東京市郷土資料館)から転載しました。写真左の場所と同じ場所いう写真右の平成5年に撮影された場所に行って、最新の写真を撮影しました。それが、下記の写真です。

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左の古い白黒写真と、今回撮影した写真が同じ場所であるというのだが、どことなくしっくりこない。なぜなのか? 今回は、富士街道を北東方向(西武池袋線・石神井公園駅方向)に向かって13時頃に撮影しました。影は右から左に投影されています。しかし昔の写真の影は左前方から右方後向に投影されています。

 つまり、白黒写真の左の写真と右の写真は同じ場所で撮影したのではないかという疑問が湧いてきました。左の古い写真は北東ではなく南西に向かって撮影されたものなのではないのか? 富士町1丁目ではなく富士町5丁目ではないかと思われますので、改めて検討してみようと思います。 

 

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・写真上=富士街道(撮影年不明)、『なつかしの田無・保谷』より転載。)

・写真下=上と同じ場所を平成30年(2018)11月撮影。富士街道交差点から南西(西武柳沢方面)に向かって撮影。


 富士町1丁目にはかつて下田水車がありました。そして、その水車を回した田柄用水が富士街道には流れていたはずです。そう思って、白黒写真を眺めてみましたが、はっきりとした水路は読み取れませんでした。富士町2丁目には小字名が一里塚、高塚など江戸の街道を思わせるような地名がありましたが、保谷町から保谷市へと市政が施行された時に、それらの地名は地図上から消されてしまいました。


白黒写真があまりに古い写真なので、撮影場所がどこだったのかを決める手がかりがなかなか見つかりませんでした。下記の地図は、富士街道の富士町交差点から高塚交差点あたりの昭和12年の地図ですが、南側と北側に家と樹木があるのは高塚交差点と富士町交差点のあたりだけです。白黒写真が『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市のむかしと今』のキャプションのとおりに「富士町1丁目付近」だとすると、富士町交差点しかそれらしい場所はありません。

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滝島 俊さんからのコメント…… ですよね? なので、この2か所が候補なのですが、撮影方向が西だとすると、?高塚交差点より西(用水は左;南側)、?富士町交差点より西(用水は右;北側だが、手前で富士街道から北に90°曲がっているので、写真では写らない)かな? と思っているのです。

富士町交差点(撮影時期を昭和初期とすると、富士街道と関道の交差点)が有力でしょうかね?(水車小屋は撮影ポイントより東寄りか?)


撮影方向が西だとすると番地は富士町1丁目ではなく、富士町5丁目ということか? 昭和12年の地図を見ますと、富士町交差点の西側、富士街道北側の家の西側で田柄側用水は北に向かって曲がっていますね。つまり白黒写真右側の家の奥のところで曲がってしまたということですね。新たな資料が何か出てこないと、白黒写真の場所確定は難しいですね。


富士町交差点にあった『百札所巡礼成就塔』(寛政4年[1792]建立)『保谷の石仏と石塔一』より転載。現在は泉町・如意輪寺に移転されてこの場所にはない。最初の白黒写真とほぼ同じ場所だが、2枚の写真には、共通点が全くないので、場所の確定の役には立たないですね。

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話は、白黒写真の場所の特定から逸れてしまいますが、写真の左端の石碑が、富士町交差点から如意輪寺に移転された『百札所巡礼成就塔』寛政4年[1792]建立。

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「保谷に自動車が入ったのは昭和の初め(1926年頃)で、乗用車はアメリカのフォードが1台だけだったそうです。当時、国産車は少なく、外国車が、95パーセントを占め、その大部分がアメリカ車でした。しかし、アメリカ車といっても完成品が輸入されたものは少なく、アメリカから運ばれた部品を組み立てたものが大部分でした。フォードとクライスラーは横浜、GMは大阪にそれぞれ組立工場が、ありました。」(『なつかしの田無・保谷…写真で見る西東京市のむかしと今』)と、自動車が保谷村?にあることが、すごいことだったようですね。


富士町交差点から南西方向を撮影してみました。電柱が道路の左側にあるのが、なんとなく白黒写真のイメージに近い感じがします。年月が経過しても電柱の位置は、あまり大きく変わることはないので、この場所はしっくっり来るような感じがします。

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「ふじ大山道…現在の東京都練馬区から大山へ向かうものである。

富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。東京都練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に、1753年(宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ 三里 府中江 五里」と陰刻された道標が建立されており、練馬区指定文化財となっている。東京都道311号環状八号線・東京都道441号池袋谷原線・東京都道8号千代田練馬田無線・東京都道12号調布田無線・東京都道・神奈川県道19号町田調布線・神奈川県道・東京都道57号相模原大蔵町線などが近似したルートを辿っている。

経路:川越街道下練馬村(東京都練馬区北町1丁目付近) - 田無(西東京市)- 別記[注※] - 押立の渡し(多摩川) - 長沼(稲城市) - 図師(町田市)− 府中通り大山道を経て大山へ  ふじ大山道

[注※]田無 - 押立の渡し間は、千川上水を柳橋で渡り武蔵境駅方面へ向かったという説と、この説の道ができたのは明治以降であり、江戸時代には西武新宿線西武柳沢駅西側にある六角地蔵石幢から南へ向かう榎ノ木通り、深大寺街道、大師道(途中、境浄水場で中断)を通ったのではないかという説がある。また、途中の調布飛行場で道が消滅している部分があるといわれる。」(『ウィキペディア〈Wikipedia〉』)。


トップのカラー写真を差し替えてみました。白黒写真を撮影した場所は、新青梅街道の北側に残る田柄側の暗渠の位置から判断すると、もう少し下がって富士街道と関道の交差点辺りから撮影したのではないかと思います。田柄用水は、カラー写真の「Joshin」の看板の手前(東)辺りを北に向かってながれ、新青梅街道を渡ったものと思われます。赤丸の所に田柄用水の暗渠がある。

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昭和38年11月に富士町交差点を空撮した写真ですが、交差点の左に田柄用水が工事中の深奥ね街道を横断しているのが写っています。『百札所巡礼成就塔』があったのもこの交差点の左の角で、ちょうど新青梅街道によって削り取られたあたりです。

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新青梅街道ができる前は、白黒写真の右側の家は青梅街道を横切る田柄用水の東側にあったとすれば、このくらい東側から撮影していたようですね。

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庚申塔 富士町1の16の16  この庚申塔は、一里塚に次の大乗妙典供養塔とともに富士街道の北側に立っていたが、宅地造成のため如意輪寺の住職墓地の前の南に昭和35年に安置されている。元あったところには、今は一力菓子店になっている。桶屋の下田粂吉さんと奥さんの話によると自分の地所にあったので、如意輪寺へ墓参或いは地蔵さんの日には花や線香をあげて供養しているとのことである。」(『保谷郷土史研究会資料』)時されており、駄菓子屋「一力屋」の建物ができる以前は庚申塔と大乗妙典供養塔があったようだ。写真は、今は閉店してしまった駄菓子屋「一力屋」。

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如意輪寺の墓地にある石仏移転を示す看板。この看板によると、4基並んでいるうちの右の2基が、富士街道沿いの上保谷村字一里塚から、移転されてきたもののようです。

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富士街道の練馬区との市境に高塚という交差点があります。交差点の南西が富士町三丁目、北西が富士町2丁目。高塚という地名は今は無くなってしまい、交差点名にだけ残っています。高塚の「塚」というのは、

「築 (つ) く」から出た言葉で,高く築いた場所をさしており,人工的に土を丘状に盛った場所をいう。畏怖され,神聖視されていることが多い。塚は,本来その場所が墓所であったとか,かつての祭場,祭壇であったと考えられてきているが,同時に平地よりも一段高くなったところを神聖視するという考えも古来からあった。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)、とありますが、この辺には、現在それらしき塚は見当たりません。小字名「高塚」といわれていたくらいだから昔は「塚」があったのだろうか?

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