賢者のリビングルーム

この前、次男(G5・10才)の面談が学校であったんです。
9月から新学年が始まって、初めての面談。
担任のMr. Cotterとゆっくりお話しするのも初めてです。

Mr. Cotterは見た目も学者のような、とても知的な印象の人。
でもとても優しい目をしていて、白いあごひげが似合っていて
まさに賢者って感じなのです。

そんな先生に、「何かお母さんが気になることはありますか?」
って聞かれたものだから、

わりと最近に次男から聞いたことをそのまま伝えました。

それは、

「先生とか周りの人の英語が時々ぼくわかんない。」

ってことです。
先生、うちの子そんなこと言ってるんですよォ〜

わたしはこれを知って本当に衝撃でした。
きみは5年生にもなって今まで学校で何やってたんだ!?!?って感じですよ。

それを聞いて、Mr. Cotterも少し驚いて
「そうは思ってなかった」と言っていました。

確かに次男くんは母国語である日本語の方が
上手に理解したり説明できたりするところがあります。

これは、第一言語のアドバンテージが
今でも勝っているからなのではないかと考えてます。

けど、カナダで生まれ育って、毎日学校行ってるのよ?
それで英語わかんないってどういうこと?


Mr. Cotterはしばし考えてから、

「質問の答えはね、一つとは限らないんだよ。」
というような話をし始めました。

「今日、KyleとMakylaが授業中に違うことを言っていただろう?覚えてる?」
「でも二人とも間違ってはいなかったよね?」
「同じことを違う言い方で言っていただけだったのがわかるか?」
「答えっていうのは一つではなくていいのだよ。」
「そして、自分の意見を持つというのもよいことだ。」

次男くんは神妙に聞いてうなずいてました。
ちゃんと理解できてます。

そんな様子を見てMr. Cotterは、

"Good!"

と言って微笑み、面談は終了したのでした。



・・・なるほど。
うちの次男くんは、

間違ったことを言う=自分の理解が足りていない

という解釈を持っていて、

それが、彼を「学校で使う言葉=英語」がときどきわからない
という気持ちにさせていたみたいです。

Mr. Cotterはそれを「恐れるなかれ」と言ってくれたようです。

すごい、やっぱり賢者だ。

そしてこちらが賢者のリビングルーム。
三者面談もここで。

こっちの学校の先生は、自分の教室を自分のやり方でアレンジします。
次男くんの教室には小さいソファーを3つ並べたリビングルームスペースがあります。
先生やお友だちとの会話もはずみそうで、なんかいいよね。

奥にあるの先生のデスクから、
先生が振り返りながら子どもに声かけてる様子も目に浮かびます。

なんかホッとする場所だったな〜
子どもたち、きっとここでいい時間を過ごしてるだろうなって思いました。

前回の記事でみなさんにいただいた反応など。

前回のブログ記事にたくさんの反響をもらいました。あまりに拡散して自分のコントロール外に行ってしまったので、本当によかったのかって、自問自答してばかりで、正直言って寿命が縮まる思いでした。今朝くらいからようやくスローダウンしてきたようです。

これだけ広まった理由は、共感してくれる人が多かったということと、多くの人に気づきのきっかけを提供できたということだった思ってます。よかった。

留学生の方へ、という内容でしたが、実際のところ保護者である立場の方の反響が大きかったように思います。親御さん、学校、留学関係者の方々です。「娘といっしょに読みました。」「学生といっしょに話し合いたいです」というようなコメントに触れて、書いてよかったなと思いました。

逆に、「出会い系を利用した出会いが全部ダメとは思わない」という反論も届いたりしました。その際にどのような注意が必要か、アンサーブログ記事をまじめに書いてくれた人もいました。理解できる内容ではあるんですけど、それでもわたしが「母国語圏にいないのだからダメ」って言い切ったのは、ブログに書いた理由です。

けどダメなものはダメ!って言ってしまう理由は、なによりわたしが自分自身ではなくて、子どものことを思うお母さんの立場だからかなあ。。。なんていう結論にたどり着きました。やっぱり、ちょっと心配な場所に子どもを送りだしたら、より安全な道を選んで歩いて欲しいです。

記事は事件が結末を迎えた翌日にポストしました。注目されやすいタイミングで目を引きやすいタイトルをつけて、おかげで記事が拡散しました。自分のあざとさが嫌になりました・・・。

けれどもメディア報道がなくなると反応がすっと引いて行くのを目の当たりにして、言っといてよかったかな、と。何より憶測で被害者を叩いたりするどうしようもない人たちには、辟易としてしまいます。それらと肩を並べてネットに残り続けるのであれば、もっと声を大にして言ってもよかったかとすら思います。

ツイッターでシェアしてくれた人たちです。コメント興味ある方、よかったら見てください。
http://bit.ly/2dPk6xI

シェアしてくれた方、ありがとうございました。特に海外在住者の皆さんのネットワークの広さ&強さがすごいと改めて思いました。

「母国語以外を話すときにいつもとは違う行動、判断をしてしまう件」、しかるべき方々がもうちょっと掘り下げた方がいいと思うのですけど、どうなんでしょ?専門の方にお預けしたいです。

バンクーバー日本人留学生の事件に思うこと

海外に留学している方、これからされる方、
特に女性のみなさんへ

今回の事件、被害に遭われた日本人留学生のNさん行方不明発覚の当初から
情報提供をお願いする手伝いをしていました。
街中でビラを配ったり、オンラインで呼びかけたりしました。

そんな中、カナダに滞在する日本人留学生の過ごし方に関する
様々な情報にたくさん触れることになりました。

そして、事件とは直接の関係がないかもしれませんが
留学中の日本人女性たちの心配な行動を知ることになりました。

かなり安易に出会ったばかりの男性と
二人きりの時間を持っている人がいるということを知りました。

出会い系アプリを利用して現地男性と出会っている留学生も
決して珍しくないと知りました。

これは、事件被害者のNさんが、
出会いアプリを利用していたと言っているわけではないです。
その情報は聞いていません。どうか誤解のないようお願いします。

捜索活動で知った情報として、
カナダに留学中の日本人女性の方の中に、
そういう人が少なからずいるようだという、一般的な話です。


今回の事件に対するカナダ現地の方々の反応も、
Don't trust a stranger. というコメントが多数みられます。

「見ず知らずの人を信用するな。」

知らない人について行ったらだめですよって。
そんなの日本でも幼稚園に行ってる時から言われてますよね。

わかってます。自分は大丈夫、そう思いますか?
でもそれ、本当ですか?

よく考えてください。

その大丈夫は、
日本で日本語を話している時の判断じゃないですか?
英語で話している自分にも同じことが言えますか?

英語を勉強中の多くの留学生にとって、きっと違うと思います。

知っていてください。

あなたがこの英語圏で英語を話しているとき、
あなたの判断力、判断基準は
日本語を話している時のそれとは違ってくるものです。

これは、第二外国語として英語を話しながら
16年カナダで過ごしてきているわたしが
自分の経験からつねづね思っていることでもあるんです。

英語でうまくコミュニケーションしなくては。
会話についていかなくちゃ。
聞きのがさないようにしなくちゃ。
理解できてないことを悟られたくない。
できないって下に見られたくない。

背伸びしたくなることがあるんです、どうしても。
上手くやれてる自分になりたいんです。

日本語だったら自分はもっとイケてるんだけどって思うと、
そのギャップに苦しんだりすることがあるもんです。
また安心を取り戻したい、英語でもそれに近づきたいと思うのです。

性格のタイプにもよると思いますが、特に女性にとって、
コミュニケーションは自分の存在を示す大きな部分をしめてます。

だから、英語ができないためにそれに支障がでると
自分の価値が下がったような焦りの感情がでてきます。

その劣等感が「無意識」にあなたの判断力、判断基準を操作してます。
バイアスがかかってるんです。かなり無意識に。

その劣等感を補おうとして、いつもとは違う判断をしているんです。
そういうことがあるんです。

それを知っていてください。

そしてその無意識のバイアスはやっかいなことに、

自分に理解しやすいことを話してくれる人
自分が知ってることを話させてくれる人

そんな人を好意的に受け取るようにさせます。

さらに、

褒めたりして自分を認めてくれる人を
過剰に好意的に受け取るようにさせます。

極め付け、

そんな自分を頼ってくれる人がいたら、
もう嬉しくなっちゃって「よし、何でも助けるよ!」
ってさせてしまうことがあるんです。

道を聞かれて知ってる場所だったらやけに張り切って
その場所まで案内までするとか、

日本語教えてって言われたら、
Of course!!なんてすぐに了承してしまうとか、

なにかに誘われたら、なんか断れなくなっちゃうとか。

そんなこと、身に覚えないですか?
それが無意識バイアスの仕業なんです。

自分は変なやつにはひっかからない、
ちゃんと気づけるっていうあなたのいつもの判断力、判断基準は
日本語を話しているときのもの。

英語を話しているときは正しく操作してない、
それをどうか知っていてください。自覚していてください。

わたしはある程度は流暢に英語を話すようになったけど
そうなった今でも英語を話す自分に余裕があるとは思ってません。

特に知り合ったばかりの人とは背伸びして話してます。
良い印象を持ってもらいたいと思う場面ならなおさらです。

文化の違いもあり、NOと言わなきゃいけないときは、
タイミングと言い方を見つけるのに苦心します。
断るくらいだったらもう引き受けてもいいか、
せっかくわたしに頼ってくれたのだし・・・みたいな。

グループで話すのは今でも難しいです。
割って入っていくだけでなく、同時に複数発言があると
とてもじゃないけど会話についていけない・・・。

だから、できれば会話は1対1でしたいですよ。
じゃないと本当に何言ってるかわかんないもの。
それ、すっごくわかります。

それがカナダ16年生の今のわたしです。

けどね、

いくら1対1の方が話しやすくても、
いくらその方が楽しくて、心地よくても
いくらその方が英語の勉強になるのだとしても

そしてもしかしたら、

英語を話す人と仲良くなれる入口を探していたとしても

出会ったばかりの人と
周りに人のいない場所で二人きりになっちゃダメです。

(家、車、夜、トレイルなど、他の人と隔離された場所)

そして母国語じゃない出会い系アプリはやっぱりダメです。
いつもの判断ができない英語環境では危険が大きすぎます。

人は普通、いきなり1対1の状況で出会うことは少ないですよね。
最初はクラスメイトだったり同僚だったり友だちの友だちだったり。

声をかけてきてくれた人の誘いに早々に乗っかったり
出会い系アプリを通じて最初から二人きりで会うというのは
その人をちゃんと知る機会をうばってしまいます。

その人をちゃんと知る
自分と気が合いそうな人かどうか知るっていうのは
その人の自分への態度っていうよりは

その人が周りの人とどう関わっているかというのを見て
きちんと判断できたりしないですか?

人から信頼されたり好かれているところを見ながら
安心して信頼したり、好きになったりしてませんか?

逆に周りの人と良好な関係が築けていない人を好きになったりしますか?

そういうのを見る機会って、出会いのプロセスでとても大事なことです。
すっとばしちゃダメですよ。

下心があってあなたにだけ取り繕った態度をとるなんて
意外と簡単なことです。

日本人女性がイージーだと言ってる人は
日本人女性を信頼させる方法を知っているからそう言うのでしょう。

最初から1対1っていうのは、
やっぱりその人の本当の姿が見えてない可能性大きいですよ。

限りある留学期間、
のんびり構えずたくさん出会いたいかもしれないけど

それで出会い系アプリなんかでお手軽に出会っちゃダメ。
出会ってすぐに二人でどこかに行く誘いに乗るのもダメ。

さっき話した「無意識バイアス」がかかった壊れた判断力で
飛び込んでいくようなものじゃないと思います。

きちんとオーガナイズされたランゲージエクスチェンジや
ボランティアグループに参加したり、
他にも出会いを広げる方法いっぱいあるじゃないですか。

日本にいるときのあなたは、
楽しいお話ができたり、気配りができたり、人に頼られたり、
大勢の会話の中心にいられる人だったかもしれないです。

英語でそれが発揮できないのはとてもストレスですよね。
1対1のシチュエーションの方がラクチンに思えるでしょう。

でも大丈夫。

ちゃんとあなたを見て慕ってくれる人が英語圏でもいます。
その出会いは一生の宝物です。
留学に来て良かったって思わせてくれます。
それは泣くほどうれしいことです。

そんな出会いを見つけることに大切な時間を使ってほしいです。

その出会いのためには、等身大の自分でいることです。
英語は少しずつしか上達しないかもしれません。
それでも背伸びしすぎず、
少しずつ出会いの輪を広げていったらいいと思います。

そして英語に四苦八苦しながらでも
等身大のあなたが、この人いいなって思ったら
きっとその人はあなたにとって大切な存在だと思います。


今回のような凶悪な事件は、
カナダの人たちにもショッキングなもの。

バンクーバーはやっぱり綺麗で素敵な街です。
自然と街が溶け込み、様々な文化の人が行きかう街です。
そんな様子はカナダの寛容さを象徴するかのようです。

それをぜひ知って欲しいと思います。

でも、ここまで最悪の事態にならずとも
日本人留学生の弱点を知った心無い人たちの悪意ある行動によって
身体や心を傷つけられる人がいることも知ってください。

でもそれって、バンクーバーだからではなく
言葉の通じない場所ではどこでも起こりうることなのです。

だから世界中どこでも、留学、海外旅行に行くなら
周りの環境が違うだけでなく
自分自身がいつもと違うことを知っていてください。

そしたら、自分を守ることができます。

悲劇が繰り返されないよう、心からそう思います。

最後に、

わたしはNさんを直接は知りませんでした。
彼女を探すため、自分に協力できることがあったので
彼女の無事を祈りながら情報提供の呼びかけを続けていました。

彼女が無事に戻ったら会いたかったです。
ここに書いたようなことを伝えたいと思っていました。

彼女はとてもがんばり屋さんだったと聞いています。
とても行動的だったと聞いています。
英語もそこそこ出来て、さらに上を目指していたそうです。

そんな彼女が、極悪な人間のターゲットにされ
理由はわかりませんが、その人と行動を共にして、
つけ入られる隙を作ってしまいました。

前科があり、何十回も警察に通報されているような人です。
警察発表では、決まった住所もなかったようで
逮捕時もバンクーバーから遠く離れた場所でテントを張っていたそうです。

そんな人ですよ?
日本語で会話をしていたら、どこかでこの人の言動はおかしい、
そう気づけたのではないでしょうか。

その不自然さに気づけないのは、

英語をきちんと話そうとか、
自分をよくわかってもらおうとか、
この人が困っているから助けてあげようとか、

何か違うことに意識を奪われ
通常の判断力、判断基準を失っていたからではないでしょうか?

彼女が無防備だとか、甘いとか、軽率とか
そういう人であったと言っているのではないんです。

そんな人でなくても、
がんばってると、そしてがんばっているからこそ
知らずとそうなることもあるんです。
しかも無意識で。

だから気を付けるとかじゃなくて、
そのような状況から有無を言わさず離れなくちゃダメなんです。
そこにいちゃダメなんです。

出会ったばかりの人と
周りに人のいない場所で二人きりになっちゃダメなんです。
これは日本から外に出たら常識だと思わなくちゃ。

それ知っていてくれたら、
命を落とさないで済んだのではないかと考えずにはいられません。

まだ若く、素敵に輝いていた女性が
夢半ばでこんなひどい犯罪に巻き込まれてしまうなんて、
どんなにか、どんなにか悔しいことでしょう。

彼女を知らないカナダの人からも、
彼女の死を悼む声が方々からたくさんあがっています。
いつかご家族の元にも届き、ほんの少しでも心の癒しになりますよう。

ご冥福を心からお祈りしています。

おひさしぶりです。長男くん、小学校卒業しちゃいました。

ものすごく久しぶりの更新です。実に4年ぶり!!えーーー?笑
理由はあれこれあるんですけど、また始めたいと思ったのは、今でもこのブログを読んでくださったり、シェアしてくださる方がたくさんいるのがうれしかったからです。

そして、子ども英語学習について言いたいことがいーーーっぱいあるのは、相変わらずです!

子どもたちも大きくなりました。長男が12歳、次男が9歳です。長男は先月小学校を卒業し、来月9月からセカンダリー(中高が一緒になっている5年間の学校)に入学します。いやほんと、早いもんですねー!!

今の彼らの英語と日本語のバランスですが、2人とも日英ともにネイティブと言えると思います。読み書きについては長男、次男ともに日本語が圧倒的に弱いです。ただ、込み入った話の理解力は、未だに日本語の方が高いようです。これは次男だけかと思ったら、かなりアカデミックな英語に触れているはずの長男も同じように言っていました。不思議ですね〜。母国語パワー、おそるべし!

今日はご挨拶がてらなので、記事はこの辺で失礼します。

代わりに、長男が卒業生代表に選ばれてスピーチをしたので、ぜひぜひ見てください。
けっこういいこと言ってます!!わたしも頑張らねば、と思いました。


ざっくり訳。

この学校にはいろんな人がいることがすごいと思います。
いろんな文化、人種、言葉が数えきれないほど混ざり合ってます。
すごく珍しいことだとお母さんは言ってましたが、
僕にはとても普通のことなのであまりそう思っていませんでした。
でもよく考えたら、これはすごいことだと思います。

ここで勉強していたということは、将来とても役立つと思います。
世界中で悲しい出来事が違う文化と文化の間で起きています。
でもこの学校で過ごす中で、違う文化を学んだり、
違う文化の人と出会ったり友だちになったりするのはとても大切なことで、
楽しいことでもあると知ることができました。
卒業して、将来、僕たちが世界のどこかで
もっと開かれた社会(Open-minded Community)を
始める一人になれると思います。

最後にこのスピーチを、友だちへの感謝で終わりにしたいです。
友だちなしに、この学校生活は考えられないです。
みんなたくさんの想い出をいっしょに作ったかけがえのない友だちです。
(・・・と、想い出トークが続きます)

(そして最後に)
Friendship is like soccer. You cannot make a goal alone. You need others to assist the goal. Thank you.

↑最後にこれを決めセリフとしてどーーしても言いたかったらしい。
彼は今もサッカー大好き少年なのです。

これからまたどうぞよろしくお願いします。

あえて言う。「でる単」はやっぱり出ない。

グロービッシュって言葉を数年前に聞いて、数ヶ月前、このブログを始める頃にもいろいろ気になって、それで買った本がこれ。


グロービッシュ実践勉強法

この本が想定している読者は、ビジネスシーンで英語を使う必要があり(または必要を感じていて)、でも英語学習に苦戦している人たちです。必要最低限の英語グロービッシュを学ぶことがどれだけ得策か、ということを学習の要点や方法といっしょに説明している読み物です。

Amazonでのレビューが良かったことと、グロービッシュの本質がわかるように思ったのでこの本を選んで買ったのですが、実際この本を通じてわたしが考えたかったことは、今の日本の子どもたちが、将来のためにどんな英語をどのように学ぶべきかということでした。

なので、各所にでてくる学習法あたりにはあまり興味がもてなかったのだけど、仕事に英語が必要だと思ったときに、どれだけグロービッシュが手っ取り早いかを説いている部分は、「だよなあ〜、だよなあ〜」と激しくうなずきながら読んでいたのでした。

グロービッシュってなに?っていう方へ、この本にある表現をかりて説明するとこんな感じ。

  • 非ネイティブのための英語
  • 終わりのある英語学習
  • 1500語+派生語のみ使う(当事者間が理解できる専門用語は使用可)
  • 発音は完璧でなくてよい
  • 「書く」「話す」ことは圧倒的にらくになる
  • 非ネイティブの「これでいいや」という開き直り英語

※グロービッシュはグローバル+イングリッシュの造語

要するに、これだけの英語で用は足りる、余計なことに学ぶ時間は惜しい、と言っているわけです。これからの英語社会は、そのほとんどの人が第2外国語として英語を話すわけだから、複雑な表現は排除されなくては、逆にコミュニケーションが成り立たないと言うものです。(これは、移民社会のカナダでわたしが生活していても実感できることです。)

子どもの英語学習を考える場面でも、わたしはこのグロービッシュの考え方に基本的に賛成です。

ただし、これから英語をどんどん学んでいける子どもにとっては、グロービッシュがルール付けている英語表現を制限するような縛りは得策とは言えないと思います。それはそれでもったいない。例えば、グロービッシュのルールとして、ユーモアや比喩、イディオムは使わないというのがありました。確かにこれらのことは、文化背景と大きく関連づいているので、外国語としてその言語を学ぶ者にとっては最もハードルの高いものです。

逆に言えばその言語が話される社会をより深く理解したり、より深く関わりたいと思ったときに、大きな助けになる部分でもあります。また、このような表現は、歌や絵本、ポエムなどによく登場します。子どもの柔らかな感性で、これらの表現を英語の語感といっしょに学ぶのは、英語を楽しみながら学び続けるのに不可欠な要素だと思います。なので、子どもが学ぶべき英語もグロービッシュであるべきだとは思いません。もっと活き活きとした英語を学んで欲しいです。一切の制約はなくてよいと思います。

わたしが言いたいのは、子どもに英語を学ばせたいと思っている親御さんに、自分の子どもが学ぶべき英語の最低ラインについてあらためて考えて欲しいということです。ストレートに言うと、使える英語を子どもに学ばせたいのであれば、学習する英語のレベルを引き下げることが必要だと言うことです。わたしたち親世代がやってきた英語学習には、はっきり言って無駄がたくさんあります。

大学受験のとき、英語はわたしの得意科目でした。当時の受験生の多くが持っていた青春出版の「試験にでる英単語」通称、「でる単」。この単語集の売りは、最も重要な単語から順番に掲載している、ということ。たしか1500語くらいあったのですが、わたしは全部の単語の意味とスペルを完璧に暗記しました。一番最初のページに出てきた単語が hypocrite(意味:偽善)であったこと、今でも憶えています。

だけど、この「でる単」の一番に出てくる単語 hypocriteを、カナダ生活12年で一度も使ってないし、この主婦的日常生活では一度も耳にしていません。出ないじゃん、でる単!っていう感じです。その後に続く単語、patriotism(意味:愛国心) もしかりです。前にママ友たちが何かの戦争映画の話で盛り上がっていたときに(わたしは聞き取りに苦労して話題についていってなかったけど。笑)この単語が一瞬聞こえてきて、「あ、出た!」と思ったものです。


試験にでる英単語―実証データで重大箇所ズバリ公開 (青春新書)
すごい、いまだに改訂され売れ続けてた!今、いちばん最初に出てくる単語はいったい何だろう?

過去の日本の英語学習目標は、受験戦争が際限なく高く吊り上げていたと思います。おかげで使いもしない(場合によっては、現在使わない古い表現の)様々な単語やイディオムを憶えることに、子どもたちは貴重な時間を費やさなくてはなりませんでした。そして、英語への苦手意識や、英語嫌い、間違うことを恐れて話せない、などの弊害が生まれたと思います。

子どもにもっと実践的な英語を学ばせようと、日本の教育の現場も変わってきていると思います。でも、親御さんの意識はそれと一緒に本当に変わっていますか?自分が苦労して学んだ(あるいは途中で挫折してしまった)英語のゴールを、そのまま子どもに引き継いではいませんか?英語の勉強は際限がないと言われたのは過去のものです。そこから子どもを解放する意味で、グロービッシュの考え方は大きなヒントをくれたので、みなさんにもご紹介しました。

あ、それ以上レベルの英語についてですけど、もちろん必要になることもあると思います。でもそれって、どんどん専門性が増す表現ってことですよね。だからそれは、子どもが自らの意志で、自分の進みたい分野に身をおきながら必要になったときに、必要な表現を学ぶのが一番、というのがわたしの考えです。そのときのスタートラインとして、わからないことを聞けるだけのコミュニケーション能力を伴った英語力が、今の子どもたちに求められている最低限の英語レベルとも言えそうですね。

ではでは。

Who are Special Needs Children?

身体的障害や学習障害などがあって、学校生活に参加するために何らかのサポートを必要としている子どもたちは、英語環境では Special Needsと呼ばれています。

政府が実施するアセスメントテストでSpecial Needsの子どもであると判断されると、学校では、その内容に沿ったサポートを受けられることになっています。ニーズの程度によっては、マンツーマンの個別サポートが提供されます。

Special Needsの子どもたちのニーズが個々に違うことを考えれば、必要に応じたサポートを個別に判断され、学校という社会に参加できるように(あるいは、参加できるようになるまで)側らでその子どもを充分に理解できる大人が見守りつつ、手を差し伸べられる体制はとてもいいですよね。


最近になって「Special Needsの子ども」という言葉について、考えたことがあります。

実はわたしたち家族が住むカナダBC州では近年、学校の先生たちが何度かストライキを行っています。現在も労働闘争が継続中で、この1年で休校が3日、まともな成績表は一度も受け取れていません。先生たちは、子どもたちの学校環境をよくするという意味で、自分たちの労働環境の改善を訴えています。

中でも、政府財政が教育予算をカットが起因して、特にこのSpecial Needsの子どもへのサポートが現場で行き渡らないことが問題視されています。担任の先生は、Special Needsの生徒とまで認定されていないまでも、実際には学習についていけない、学校という社会に充分に適応できていない子どもを一人で見ることになります。その結果、Special Needsではない子どもたちが充分な学習の機会を得られないという状況も引き起こしていると言われます。

そのような問題は、おそらく日本でも学級崩壊の問題などで同じように指摘されていませんか?わたし、とっても違和感を感じるんですよね、この話題に。

この問題が、Special Needsの子どもだけを個々に、その他の子どもを束ねて扱ってしまうように思うからなのだと思います。学校という社会に無難に参加できるようであれば、その瞬間から個々へのアテンションがなくなってしまうような印象があるからかな。もちろん現場では、とても頑張ってくれている先生がいて、可能な限りどの子どもにも個々の注意を向けてくれています。でも、限界があるのも事実。

語弊があるかもしれないですけど、本来の意味で言うならば、子どもはみんなSpecial Needsですよね。必要としているサポートは内容も程度も十人十色で百人百様です。じゃあ、誰が子ども一人一人のニーズを最も的確にくみとって、最も必要としているサポートを的確なタイミングで提供できるかって言ったら、そこはやっぱり先生じゃない、学校じゃない、親なのだなと思ってしまいます。

親はその子が将来社会に自力で適応していけるまでの責任があります。っていうことは、大人社会に適応できるようになるその日まで、自分の子どもはずっとSpecial Needsの子。そばで見守って、一番必要なサポートを必要なタイミングで差し出してあげたいです。ずっとずっとSpecial Needsの子どもでいさせてあげたいです。

Mr. Chan, Our kids need you.
今日の記事は、長引く教育行政問題やら労働組合問題やらのおかげで、来年から学校を去らなくてはならなくなったある先生のことを思いつつ、考えたことを書いてます。子どもたちにあんなにも慕わる、子どもたちの一人一人と接して、キンダーからG7までの全校生徒を誰より知っている先生を結果として追い出してしまう、子どもが求めていることを本当の意味で最優先に出来る体制になっていない教員労働組合、言い分はいろいろあるだろうけどやっぱり間違ってます。

小学生男子がはまる本、キャプテンアンダーパンツがおもしろ〜い!

この前、子どもが学校のライブラリーで借りてきておもしろかった本、キャプテンアンダーパンツ。


The Adventures of Captain Underpants

Amazonで調べたら、日本語版も出てて「パンツマンたんじょうのひみつ」とかいう、何だかアンパンマンの1話みたいなタイトルになってました・・・笑 スペイン語とかも見かけたし、とにかく子どもに大人気の本なのですね。

どのくらい人気かというと、Indigoっていう大きい本屋さんのキッズコーナー入り口には、殿堂入りの子どもの定番人気キャラのイラストが勢ぞろいしているのだけど、日本でもおなじみのトーマス、はらぺこあおむし、おさるのジョージに混ざって、キャプテンアンダーパンツもいつもの白ブリーフ姿で登場しちゃうくらい。笑

  

英語を勉強するときって、その教材の内容がつまらなかったり、自分の年齢には幼すぎて内容に興味が持てなかったりということがよくありますよね。それもそのはず、初歩の英語で表現できることは限られていて、日常の単純な事柄しか表現できないのですから。

その意味で小学校低学年向けのこの本は、表現はとってもシンプルでやさしいものでありつつ、おばかな楽しさがあって、大人のわたしもついつい引き込まれて読んでしまってます。学校にまつわる単語も出てきて、英語育児お母さんも読みたいかも?

先日わたしが実際に読んだのは、シリーズ5作目のこちらなんですけど。


Captain Underpants and the Wrath of the Wicked Wedgie Woman


ジョージとハロルドという、学校の問題児2人組みが授業中に書いたマンガのヒーロー、それがパンツいっちょの正義の味方、キャプテンアンダーパンツなんですね。決してかっこよくない、弱点ありまくりのヒーローなんですけど、ある時からそのヒーローが現実世界に登場するんです。しかも、校長先生にある仕掛けをするとキャプテンアンダーパンツに変身して、空まで飛んでしまうんです。シリーズ5では、定年間近の意地悪な女の先生がウェジーウーマンという悪役に変身して現れ、キャプテンアンダーパンツと対決するなんていう、なんとも小学生男子がよろこびそうな内容でしょ?

本の中身はイラストと少な目の文章、それとジョージとハロルドが描くマンガ(このマンガに含まれるスペルミスがいい感じなんです。)という構成で、チャプターにわかれてストーリーが展開、とにかく一気に読める読みやすさです。ほどよくマンガと小説の中間なので、スラングたっぷりの英語コミックを読むよりは、かえって理解しやすいと思いました。対象年齢は1〜4年生くらい、とのことですが、大人のわたしも(特に男の子2人の母親としては)おもしろくて笑いながら読みました。

長男8才は、クラスで大流行だったようで、友だちと回し読みしていました。次男5才にはわたしが読んであげていたのですが、ストーリーを全部理解できていなくても、絵とたくさんの会話フレーズだけで楽しめるらしく、ゲラゲラ笑ってました。

そうそう、全部わかんなくてもいいんですよねー。英語の本を読んで楽しんだ。その事実が残ることに大きな意味があると思います。英語勉強中の中高生が読むのにいいと思いますし、中学レベルの英語くらいなら大丈夫!と思う親御さんはぜひ、お子さんに読んであげながら楽しんでみてはどうでしょう〜?

ではでは。