「恋愛」のすばらしさ

仕事してた時は仕事が生きがいだった。
気晴らしは趣味の領域でこなしてた。
だから、地域のつながりがなくても生きてこれた。
でも仕事辞めたら急に地域のつながりの重要さに気づかされた。


なぜだろう。


便利さを追求して作ってきた現代の社会は、私たちのつながりを仕事と趣味の領域に二分してしまってるのだ。


都市の家庭はとっくにプライベート化して、地域とのつながりが切れている。
仕事の持つ意味はどんどん脱色され、経済合理性の論理で塗りつぶされている。
趣味の世界は生々しい生活とは距離をとる。


「生活」が孤立している。
掃除したり、洗濯したり、食事を作ったり、
寝たり、風呂に入ったり、トイレ行ったり、ボーっとしたり。
生々しいそれらの「生活」が孤立している。


皮肉だが、情報ネットワークが発達した現代で、地域につながりを持たないと、社会は全体主義になる恐れがある。
個別化の先にあるのは、メディア(テレビやネット)から流布される大きな物語の復活だ。
政治的な操作が加えられた大きな物語の復活だ。


「生活」が個別の領域に閉じ込められていることの恐ろしさよ!


私たちが地域とのつながりを犠牲にして得ているものは膨大なプライベートの「生活」の時間だ。
でも、いくらプライベートの「生活」を確保しても、一人で自室にこもる毎日は、容易にメディアの流す物語に回収されてしまう。
やりたいことをやろうと、プライベートの時間を確保したのに、流される。
自分がわからない。


だから、本当に自分のやりたいことを見つけようとする。
本当の自分、素の自分が、自分の足でできることを見つけようとする。
いったいそれは、どんなことがあるのだろうか。
レパートリーを考えてみたが、「哲学」と「恋愛」くらいしか思い浮かばなかった。


ここで、「恋愛」を考えてみよう。
恋すると今までの「生活」がずっと色濃く感じられる。
なまの自分が、「生活」の中で恋焦がれ、心を痛めている実感がある。
恋愛関係に悩み、送る「生活」は苦しくても生きてる実感がある。
だから「恋愛」はいい。「恋愛」しろよと勧めたくなる。
「恋愛」は孤立した私たちの「生活」を他者に開き、つながりを回復する。
これは全体主義の物語に対抗する。


恋愛万歳!


でも待てよ。
なんか安易じゃないか?
確かに「恋愛」はいいものだけど、ちょっと変じゃないか?
この違和感は何なのだろうか。
最後の「恋愛万歳!」と手放しで「恋愛」を称揚してしまっていいのだろうか。
「恋愛」を神格化してしまったら、「恋愛は善いものだ」という全体主義になってはしまわないだろうか。