感動CM

一条真也です。
ブログ「怖いCM」には、かなりの反響がありました。
しかし、怖いCMを紹介するだけでは「新ハートフル・ブログ」の名にふさわしくないので、今度は感動のCMをご紹介しましょう。やはり「家族」をテーマにしたCMに名作が多く、YouTubeにも大量にアップされています。


最初に紹介するのは、東京ガスのCMで、「家族の絆・お弁当メール」篇。
どこの家庭にもある、お母さんはわが子のお弁当を作る光景。
この何気ない日常の営みの中に、限りない母の愛があるのです。
わたしは、初めてこのCMを観たとき、不覚にも泣きました。
わたしの妻も、毎日、朝早くから起きて、中学生である次女のお弁当を作っています。いつか、次女も母の愛に心から感謝する日が来ることでしょう。


サントリー宣伝部は、これまでに数多くの名作CMを生んできました。
特に、サントリーオールドにはハートフルな内容のものが多いです。
その中でも、最高の名作として知られるのが「娘の相手」篇です。
國村隼演じる父親、伊藤歩演じる娘が登場するCMはシリーズ化されていますが、この「娘の相手」篇はクライマックスともいうべき作品で、娘の恋人を加瀬亮が演じています。3人とも素晴らしい演技で、短編映画のような味わいがあります。わたしにも2人の娘がいるので、他人事ではありません。父親ならば、「残念だな、やな奴なら一発殴れたのにな」というセリフを一度は吐いてみたいですね。
また、このCMはBGMが素晴らしい。名曲「夜がくる」です。
そう、赤坂見附サントリー東京本社のすぐ近くにある「東京の止まり木」ことカラオケスナックDANで、わたしがよく歌い、必ず1位をゲットする歌です。詳しくは、ブログ「夜がくる」をお読み下さい。


最後に紹介するのは、「幸せの寿命」という東芝のCMです。
LEDが10年にわたって長持ちすることをアピールする内容ですが、ある家族の歴史を影絵を使って描いており、そのセンスが素晴らしい!
そもそも影絵というアートは観る者のノスタルジーを刺激する力を持っていますが、「家族」がテーマとなれば、その効果は増し、感動も倍増します。
「家族愛」を見事に表現した作品であると言えるでしょう。



この3本の他にもYouTubeには「家族愛」をテーマにした感動CMがたくさんアップされており、中には驚異的な再生回数となっているものもあります。じつは、ホームビデオ関係の作品が多いのですが、わたしには観る者を力づくで泣かせようとする内容が多いように感じました。結婚式や法事などの場面を描いた冠婚葬祭関連のCMも多いのですが、やはりホームビデオのCMで「家族愛」を描くのでは、あまりにも安直な印象が否めません。お仕着せの感動よりも、さりげない家族の愛情を描いた作品こそ、泣ける感動CMではないでしょうか。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年11月23日 一条真也

登呂遺跡

一条真也です。
久能山東照宮から日本平ロープウェイに乗って、日本平駅に降りました。
そこから今度は、有名な登呂遺跡に向いました。
静岡市駿河区登呂5丁目にある弥生時代後期の農業村落址です。
たしか、小学校の社会科の授業で「登呂遺跡」の名を初めて知りました。


登呂遺跡にやってきました

登呂遺跡にて

修学旅行生たちも訪れていました

登呂遺跡の全景図



登呂遺跡は、1943年(昭和18年)、軍需工場建設工事の際に偶然発見されました。そして、同年および、47〜50年と65年に発掘調査が行われました。
遺跡は3つのパートから成り、沖積地の自然堤址上に立地する集落址、後背低湿地の微高地を利用した水田址、さらに森林址とから成り立っていました。
住居址は平地住居で、12軒が完全な形で発掘されました。
倉庫は住居址群の中に4本柱のもの2棟が存在しました。その形態は、残存していた木材や銅鐸絵画などから、高床式の切妻造りと推定され、一木造りの梯子や鼠返しなどが備え付けられていました。
水田址は集落の南東に接する低湿地に存在し、7万5000余平方メートルにわたって広がっていました。木杭、矢板などを並べてつくった畔により区画され、堰を設けた水路が南北に走っていました。


遺跡のすぐ隣には鉄塔やマンションが・・・

復元された1号住居の前で

復元された1号住居の中

杵で臼を衝きました



現在の登呂遺跡には、復元倉庫や住居もあり、観光客でにぎわっています。
わたしが訪れた日も、修学旅行生たちが見学に来ていました。
ただ、遺跡の隣接地に鉄塔が立っており、さらに普通の住宅やマンションが建ち並ぶ光景には違和感を感じました。貴重な文化財の景観を守るためにも、もう少し何とかならなかったのでしょうか?
そんなことを考えながら、わたしは復元住居に入ったり、杵で臼を衝きました。
まるで弥生人になったような不思議な気分を味わいました。


火起こしにチャレンジしました

見事に火が起こりました!



また、弥生時代の道具を使って火を起こすことにチャレンジしました。
初体験でしたが、インストラクターの方によれば、わたしは非常に筋がいいそうです。わたしは、「心の中の火を燃やせ」とか「これは、要するにピストン運動ですよね」などとブツブツ言いながらも、ひたすら火を起こすことに情熱を燃やしました。すると、ものの3分もすると焦げ臭い匂いがして、火が起こりました。


復元された祭殿の前で



祭殿も復元されており、両側の斜めの柱が特徴的でした。
また、登呂遺跡からは、さまざまな遺物が多数出土しました。たとえば、丸木弓、鹿角製釣針などの狩猟・漁労具を、木製の剣・鍬・鋤・田下駄、石包丁、双手槽、丸木舟、臼、竪杵、砧などの農具、建築用材、織機、五弦琴、土器、指輪形・腕輪形銅製品などの装飾品などです。いずれの出土品も、登呂の人々の日常生活をかいまみるような貴重な遺物ばかりです。


登呂博物館の前で



登呂遺跡は、敗戦直後の日本では異例の大規模かつ組織的な調査がなされました。また、これを契機として日本考古学協会が設立されるなど、学史的意義もきわめて大きかったとされています。
登呂遺跡は、弥生時代の東国の農耕形態を解明する上で、奈良県唐古遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡とともにもっとも重要な遺跡です。1953年には特別史跡に指定され、72年には静岡市立登呂博物館がオープンしました。


ゆるキャラの「トロべー」に会ったよ♪

博物館内のようす

博物館内のようす

祭祀の道具なども展示されていました



わたしは登呂博物館に入り、多くの展示物を見学しました。
受付の女性に「ここは写真はOKですか?」と訊ねると、「フラッシュを焚かなければ大丈夫ですよ」と言われました。やっぱり、博物館はこうでなくちゃ!
じつは、ここを訪れる前、わたしは「登呂遺跡ゆるキャラを作ればいいのに。名前はトロちゃんとか・・・」と思っていたのですが、博物館に入ってすぐ、ゆるキャラの「トロべー」に遭遇しました。なんだ、やっぱり、ゆるキャラがいたんですね。まあ、人間が考えることは似たりよったりですな。
博物館内には弥生時代の祭祀の道具なども展示され、勉強になりました。
また、埋葬の様子なども説明されていて、興味は尽きませんでした。



さて、弥生時代といえば農耕社会が成立したことで知られますが、その基本は「相互扶助」であったとされています。これに関連して、興味深い新説をネットで知りました。画家で国学者の白井忠俊氏は、自身のHPで「縄文考 ヤマトとは何か?」という文章を書いていますが、その中で白井氏は「現在もっとも重要なのは『人と人が助け合う相互扶助の“ツナがり”』です。私は言葉の“ツナ”に込められた思いを考えると、日本語とは縄文人が積み上げて作り出した『ヤマトコトバ』であることを強く感じます」と述べています。
白井氏は、日本語(ヤマトコトバ)は縄文時代から続く言語であるという前提に立ち、「ヤマトコトバ」の“ヤマト”にはどのような意味があるのかを推論します。
そこに縄文時代から続く祖先の知恵があると考えられるからだそうです。



画家である白井氏は「風景」に注目し、「日本」をイメージする最も有名でポピュラーな景色というものを2つ考えます。
ひとつは富士山が見えること、もうひとつは太平洋から日の出が見えること。
現代でもお正月に必ず使われるイメージ画像は「富士山」と「初日の出」です。
白井氏は「富士山が見える物件、美しい日の出が見える物件は今でも高い付加価値があります。古代人にとっても景色が居住地域を決定する要素であってもいいのではないでしょうか?」と推察するのです。


さらに、白井氏は次のように述べています。
「“ヤマのフモト”の“ヤマ”は『富士山』を表すと考えます。
縄文人が暮らす地域、そして富士山が見える地域で話される言葉。それがヤマトコトバであると考えてみましょう。するとヤマトコトバが産まれ・育まれた地域は関東・東海となります。ですので、ヤマトコトバの発祥は関西でも九州でもないと考えてみます。教科書的には日本文化の起源に奈良・京都をイメージしますが、それは弥生時代古墳時代以降です。
そして、もうひとつ重要なことは奈良・京都から富士山は望めません。
縄文時代から考えると多くの人々が暮らした場所は関東・東海となります。
弥生時代から人口密度の高い地域が近畿まで広がります。この拡大領域が“ヤマト”と呼ばれた地域の広がりと考えることはできないでしょうか?」


博物館の屋上からのながめ

富士山のフモトで暮らす人々とは?



「富士山」と「日の出」をことのほか大切にする人々、それが日本列島に早い段階から暮らしていた日本人の祖先だと考えられます。
ならば、まさに登呂遺跡に住んでいた古代人はそれに相当します。
静岡市ならば、富士山も見えるし、駿河湾に上る初日の出も拝めるからです。
そして、富士山のフモトで暮らす人々という点も、ぴったり当てはまりますね。
実際、登呂博物館の屋上から、見事な富士山を見ることができました。
登呂遺跡を訪れて、久々に古代へのロマンに火がついたように思います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2013年11月23日 一条真也