西田幾多郎記念哲学館

一条真也です。
ブログ「加賀紫雲閣起工式」で紹介した神事および直会の後、わたしは石川県かほく市にある「西田幾多郎記念哲学館」へ向かいました。初訪問ですが、以前からぜひ一度訪れたかった場所です。


憧れの場所についにやって来ました!

西田幾多郎記念哲学館の正門で

安藤忠雄氏の設計です

西田幾多郎記念哲学館の案内碑



京都大学名誉教授であった西田幾多郎博士は、日本を代表する哲学者であり、京都学派の創始者として知られ、主著『善の研究』などによって、その独創的な哲学は「西田哲学」と称せられています。この西田博士は石川県の生まれであり、その生誕地であるかほく市には、博士の功績を顕彰する日本で唯一の哲学の博物館「西田幾多郎記念哲学館」があります。


「無」の墨跡をモチーフとしたデザイン

前衛的な空間です



この施設の館長である大木芳男氏は、公式HPにおいて、次の挨拶文を掲載されています。
「哲学者西田幾多郎博士は、明治3年5月19日石川県かほく市(旧石川県河北郡宇ノ気村)で生まれ、明治24年東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学、哲学の道に進み、昭和20年6月7日鎌倉で75歳の生涯を閉じました。この間、第四高等学校をはじめ数々の学校で教鞭をとり、日本初の哲学書『善の研究』をはじめ数々の論文を発表し、京都大学京都大学教授時代には多くの門下生を世に送り出しました。退職してなお、死の直前まで思索を練るなど、その思想はのちに『西田哲学』とまでいわれ、我が国を代表する世界的哲学者と評価されています」


西田幾多郎銅像

西田幾多郎銅像とともに


かほく市(旧宇ノ気町)では、博士の業績を後世に長く顕彰するため、昭和43年に西田記念館を開館しました。以後博士の直筆原稿や墨蹟、写真の展示品を通して多くの方々に博士の学問に対する姿勢、人柄に触れていただくと同時に、各種講演会、講座を開催し、哲学する心を広く発信してきました。また、昭和49年には京都の西田邸から、書斎『骨清窟』を博士が生きていた当時の雰囲気をそのままに移築し公開してまいりました。
その後、広く博士に関する資料の収集を進めてきましたところ、記念館が手狭になってきたことを受け、石川県のご支援で、世界的建築家安藤忠雄氏の設計による『石川県西田幾多郎記念哲学館』として、内容をさらに充実し、平成14年6月8日落日が望める眺望豊かな砂丘地の高台にオープンしました」


哲学へのいざない

歩きながら哲学する



大木館長は、公式HPにおいて、さらに述べます。
「20世紀は科学の発展と破壊、そして物の豊かさを追求した時代でした。21世紀は豊かな心を育み自然と共生する時代だといわれています。周辺の『哲学の杜』と併せ、当館が皆様の『心のオアシス』となるよう願いながら皆様のご来館を心からお待ちしております」


西田哲学は“禅”の影響を受けています

至る所に階段があります

階段を上がったり下りたりしました

階段と哲学は相性がいい?



この施設は安藤忠雄氏が設計されており、哲学の博物館だけに「考えること」をテーマにした思索に耽ることが出来るように随所に独創的な意匠や工夫が取り入れられています。
施設には展示室のほか、西田博士に関する図書を中心に哲学の図書入門書から専門書をそろえた「図書館」、瞑想の空間でもある「ホワイエ」、講演会・コンサート・映画上映などに利用できる「哲学ホール」、和室と洋室が選べる「研修室」、日本海や霊峰・白山連峰が眺望できる「展望ラウンジ」、喫茶室「テオリア」があります。
展示室は3つあり、展示室1は「哲学へのいざない」、展示室2は「西田幾多郎の世界」、展示室3は「西田幾多郎の書」という構成になっています。


書斎「骨清窟」の前で

「骨清窟」の説明板



また博物館の敷地内には、西田博士の書斎であった「骨清窟」があります。昭和49年、京都にあった西田邸が取り壊される際、書斎「骨清窟」部分のみ故郷かほく市(旧宇ノ気町)へと旧西田記念館に移築され、平成22年に現在の博物館の敷地内に再度、修復移築されたそうです。平成15年には、国の登録有形文化財に認定されています。



博物館の公式HPには次のような説明が掲載されています。
西田幾多郎の生涯は財政的にも非常に苦しいものでした。西田家は、もともとは十村(とむら。加賀藩独特の役職で、庄屋に代官所の役割を附したもの)の家柄であり、西田が生まれた頃は非常に裕福だったと言われています。しかし、その後、西田が社会に出るころには、父得登の事業の失敗もあり、財産のほとんどが処分されていました。西田家の没落後、長らく借家住まいをしていた西田が初めて自分の家を持ったのが、52歳(大正10年)、京都帝国大学で教鞭をとっていたときでした」


「骨清窟」の説明板



さらに、公式HPには以下のように書かれています。
「この家には随所に西田のこだわりを見ることができます。その代表的なものが書斎です。この書斎にはテラスが設けられており、西田を訪ねる人々は、玄関を通ることなく、直接書斎へアプローチできました。西田は、来るものは拒まずといった姿勢でこの書斎に訪問者を受け入れ、議論にふけったと言います。この書斎は、西田が執筆活動を行い、友と語り合った、まさに『西田哲学』が作られた場でした」


「骨清窟」とは何か



西田はこの書斎に室町時代の禅僧寂室の詩に基づき「骨清窟」と名付けています。
その由来は、以下の通りです。
「風撹飛泉送冷声
前峰月上竹窓明
老来殊覚山中好
死在巌根骨也清」



これは以下のように読みます。
「風は飛泉を撹(みだ)して冷声を送り
前峰月上がりて竹窓明らかなり
老来殊に山中の好きなるを覚ゆ
死して巌根に在れば骨もまた清し」


京都の「哲学の道」にて

哲学の道」を歩く



西田幾多郎といえば、 ブログ「哲学の道」で紹介したように、京都の永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水に沿った散歩道を思索に耽りながら歩いたことが知られています。
その後、西田幾多郎の愛弟子田辺元三木清らも好んでこの道を散策したことから、いつしか「哲学の道」とも言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と命名されました。
ちなみに哲学の道のなかほどにある法然院の近くには西田博士の「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行なり」という歌碑があります。


哲学はグリーフケアに通じる

深い人生の悲哀をどう癒すか(空の庭園にて)



西田幾多郎は、「日本史上最高の哲学者」と呼ばれました。
そしてブログ『死の哲学』で紹介した田辺元は、西田の弟子であり、「第二の哲学者」と呼ばれました。じつは、西田幾多郎田辺元も、ともに幼な児を亡くすという経験をしており、グリーフケアの観点から見ても注目すべき哲学者であると思っています。特に、田辺元などは独自の「死の哲学」をうち立てたことで知られます。もともと哲学の祖であるソクラテスは「哲学とは死の予行演習である」と述べています。
そう、哲学と死には密接な関係があるのです。そのあたりは、もうすぐ上梓する『唯葬論』の中の「哲学論」で詳しく書きました。


5F「展望室」にて

図録とマンガを購入しました



西田幾多郎田辺元三木清らに代表されるように、京都大学は日本における哲学のメッカです。そして、現在の京都大学を代表する思想家といえば、「バク転神道ソングライター」こと京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二先生の名をあげなければならないでしょう。じつは宗教哲学者である鎌田先生は、2012年11月4日に西田幾多郎記念哲学館を訪れ、「『ほんとうのさいわい』をさがして――宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』を中心に――」という講演を行われています。



鎌田先生といえば、ブログ「ムーンサルトレター120信(10周年)」で紹介したように、わたしと満月のたびに交わしているWEB上の往復書簡「シンとトニーのムーンサルトレター」が今月で第120信を数え、なんと開始から10年が経過しました。これを記念して、鎌田先生とは『満月交感 ムーンサルトレター』(水曜社)の続編を上下巻で刊行する予定です。お楽しみに!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年6月18日 一条真也