安保と団塊世代

一条真也です。
東京に来ています。台風11号の接近で、天気が悪いです。
ブログ「『唯葬論』打ち上げ会」で紹介したように、昨夜は途方もない書である『唯葬論』(三五館)の見本が出て、赤坂見附で祝杯をあげました。
しかし、すぐ近くの永田町では安保法案で大荒れでしたね。


プラカードって、AKB48じゃあるまいし!



昨日の衆議院の特別委員会において、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が与党の単独採決により可決しました。与党は今日中に法案の衆議院通過を図る方針です。委員会の会議場では野党による怒号が飛び交い、台風11号に負けない荒れっぷりでしたが、民主党のプラカードには笑ってしまいましたね。「強行採決反対!!」「アベ政治を許さない」などはまだわかるとしても、「自民党 感じ悪いよね」といったプラカードはどう考えてもコントでしょう。だいたい、野党の無策が与党の単独採決を招いた大きな原因なのに、プラカードしか思いつかないなどというのはプロの政治家として情けない。わたしは一介の唯葬論者に過ぎませんが、心からそう思います。「お願いだから、やめて〜!」と絶叫した辻元清美議員をはじめ、「パフォーマンス政治、ここに極まれり」といった感じです。
そもそも、プラカードなんて市民運動家が使うものでしょう。それとも、民主党の議員は今でも市民運動家の感覚なのでしょうか。ならば、某作家のように「お願いだから、議員をやめて〜! 」と言いたくなりますね。
まったく、AKB48の「心のプラカード」じゃあるまいし!


わたしは、「安保関連法案の通過で、団塊の世代の人々の多くは地団太を踏むだろうな」と思いました。60年安保闘争のときには高校生だった彼らは、70年安保闘争では大暴れしました。団塊の世代とは、1947〜49年(広くは51年)に生まれた人々です。作家で経済評論家の堺屋太一氏が命名しました。約700万人(広くは1000万人超)と人口も多く、消費文化や、都市化などを経験した戦後を象徴する世代です。この世代の人口は、文字通り大きな塊を形成しています。団塊の世代は、ベビーブーマーともいわれ世界的な現象です。というのも、先の第二次大戦も、太平洋戦争も世界的な規模だったからです。ただ日本においては特殊な側面があります。それは戦前と戦後では社会規範が大きく変化したからです。

 

戦後、日本はアメリカ主導の下、民主主義国家として生まれ変わりました。それはすなわち戦前の価値観を否定する社会でした。あらゆる価値観が否定され、新しい日本という国が生まれたのです。それを具現化してきた人々が「団塊の世代」です。そして今、戦後70年を迎え、団塊の世代が「葬儀」に関わってきているのです。団塊の世代は、同時に全共闘世代でもあります。何人かはあの時代の政治闘争の経験者であり、それだけに現代史にひとかたならぬ興味をもっていた世代ということができます。



こうした「団塊の世代」をわたしは「唯物論の世代」だと思っています。彼らがどのような葬儀やお墓を希望するのか、わたしは非常に注目しています。なぜなら、団塊の世代の大きな特徴が「宗教嫌い」だからです。言うまでもなく、葬儀とは宗教儀礼にほかなりません。
日本国民は海外から無神論者のようにいわれますが、神を信じていないわけではないとわたしは思います。ただ一神教世界宗教に比べ、多神教の日本人がいい加減に映るだけだからです。でも、団塊の世代の多くは、明らかに宗教を嫌っている気がします。これは戦前・戦中の国家神道に対するアレルギーだと思います。親たちが信じすぎた国家神道によって、日本は世界戦争を起こし、敗北してしまった、悪いのは宗教である、という図式です。実際、核家族化が進む中で、団塊の世代は日本的な伝統の継承が薄らぐという環境の中にもいました。



団塊世代は、古い共同体が生んだ最後の世代です。戦争に負けて帰ってきた男たちによって、彼らは生を受けました。ゆえに彼らの精神には、否が応にも古い日本が刻印されているわけですが、それを否定することで、自分たちの存在理由を高めてきたといえます。だからこそ、彼らは、古い日本を否定し、大都市に集まり、新天地である郊外にマイホームを求めました。郊外には、面倒な人間関係も古くさいしきたりも必要なかったわけです。ただ自分たちだけの家族がいて、自分たちだけの幸せがあればよかった・・・・・・。
そこに宗教が入り込むスキマはありませんでした。墓参り、村祭り、年忌法要などは、すべて仕事を理由にして参加しない。ある意味で、団塊世代は宗教的な一連の行為を無意味だと思ったわけです。その結果、血縁も地縁も希薄化していき、「無縁社会」が到来しました。



国家神道へのアレルギーは、団塊の世代が有する「反抗心」の表れだと思います。団塊世代は戦争を知らない世代ではありますが、その親は青春時代に終戦を迎えています。戦後、占領政策によって価値観の強制的な転換政策があったにせよ、戦地から引き揚げてきた父親や空襲などを体験している母親は「教育勅語」によって教育されてきた世代なのです。
教育勅語」が戦前の学校教育の柱であったことを考えれば、団塊の世代の両親は、一応に「人の道」に外れることを厳に戒める教育をしていたのではと想像できないでしょうか。



団塊の世代は小中学校で「個人主義」、「平和主義」に基づいた教育を教員から受けていますが、家庭では、「愛国心」や「公」の精神を持った祖父母や両親から躾けられた世代でもあったはずです。戦前と戦後の価値観が大きく転換していくことに悩むことはなかったにしても、総じて貧しかった時代でもあり、子供心に、日本に勝ったアメリカの物質的な豊かさ、民主的な夫婦や家庭などに憧れない方が不自然というものです。身を粉にして働く両親に育てられながらも、新しい時代の理想的な生活とのギャップが時に反抗心となって現れることもあったことでしょう。
このような「団塊の世代」について、わたしは『永遠葬』(現代書林)の中で詳しく書きました。ぜひ、お読みいただきたいと思います。


永遠葬』といえば、アマゾンの「よく一緒に購入されている商品」として、宗教学者である島田裕巳氏の著書『0葬』(集英社文芸単行本)とカップリングされています。一部では「永遠の0対決」などと呼ばれているようですが、もともと『0葬』への反論本として『永遠葬』を書いたので、望むところです!
今夜、『永遠葬』の打ち上げ会が予定されています。
それにしても、70年安保を闘い抜いた全共闘の闘士たちは、今回のプラカード作戦をどう思っているのでしょうか?
最後に一言。戦後70年、わたしたちが一番心がけるべきことは何か?
それは、「死者を忘れてはいけない」ということではないかと思います。


永遠葬

永遠葬

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年7月16日 一条真也