『唯葬論』に仕掛けられた爆弾

一条真也です。
ブログ「『永遠葬』に反響続々!」で紹介したように、先日、「サロンの達人」こと佐藤修さんが『永遠葬』(現代書林)に対して素晴らしい感想を寄せて下さいました。そして先程、23日の深夜、今度は『唯葬論』(三五館)についての深遠なメッセージを寄せて下さいました。一読して、思わず唸りました。


唯葬論』の書評(「CWSコモンズにようこそ」より)



佐藤さんのHP「CWSコモンズにようこそ」の左欄にある「ブック」をクリックすると読めます。最初に、佐藤さんは以下のように述べられています。
一条真也さんが、ご自分で『これまでの執筆活動の集大成』というほど、思いを込めた『唯葬論』が完成しました。
その思いの深さは、『唯葬論』という書名にも表れています。世界観、歴史観、そして人間観。そうしたものの基底に『葬』を置いた、一条真也の世界が見事に描き出されています。『葬』とはなにか。
一条さんは、人間のすべての営みは『葬』というコンセプトに集約されると言い切ります。表現を変えると、『葬儀とは人類の存在基盤』であるというのです。単なる行為ではなく、存在基盤であり、発展基盤だというのです。そして、『葬という行為』には人類の本質が隠されているという基点に立って、世界と人間文化と文明、そして過去と未来を解きほぐしていくのです」



続いて、佐藤さんは以下のように述べられています。
「本書は18章からなっていますが、最初に置かれているのは『宇宙論』。そして最終章が『葬儀論』。それこそマクロコスモスからミクロコスモスまでが、つながりながら縦横に論じられていきます。それも単なる私見の展開だけではなく、先人が語ってきたことや蓄積されてきた歴史や考古学の知見を踏まえながら、論を展開しています。ちなみに、本書の構成は、宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論です。この目次だけでも圧倒されます」



ここからが佐藤さんの真骨頂で、以下のように論を展開されています。
「人類の文明も文化も、その発展の根底には『死者への想い』があったと一条さんは言います。しかし、問われるべきは『死』ではなく『葬』。だから『唯死論』ではなく『唯葬論』だと書いていますが、『唯死論』と『唯葬論』では、ベクトルがまったく違った世界になっていくように思います。
さらに、『唯葬論』は、『葬』の本質にある『関係性』から、論が時空間を超えて広がっていきます。たとえば、葬によって、人類は環境として与えられた自然世界とは別の、『もう一つの世界』を創造し、自らの生きる世界の次元を豊かにしたという議論が広がるのです。『葬』を起点に置くことによって見えてくるダイナミズムに気づかされます。『死』に関してはよく語られますが、『葬』がこれほど広範囲に、また体系的、哲学的に語られたことを、私は寡聞にして知りません。私は、たくさんの示唆と気づきをもらいました」
これを読んで、わたしは深く感動しました。特に「『死』に関してはよく語られますが、『葬』がこれほど広範囲に、また体系的、哲学的に語られたことを、私は寡聞にして知りません」というお言葉には魂が震える思いがしました。


仕掛けた爆弾を発見されました(「CWSコモンズにようこそ」より)


しかし、佐藤さんの本当の凄みは次のくだりにあります。
「ご紹介したいメッセージはたくさんありますが、とてもこの短い紹介記事には書けません。ぜひ本書をお読みいただければと思いますが、一つだけ、本書に埋め込まれている爆弾のような文章を紹介しておきます。
そこに、本書のもう一つの意味が読み取れると思うからです。
ちょっと長くなりますが、本書から引用します」

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今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるだろう。
「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味がある。
「葬」にはいつまでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりつく。
一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘う。「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、葬式は「送式」、そして葬祭は「送祭」となる。(『唯葬論』より)

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この文章を引用して、佐藤さんは以下のように述べます。
「挑戦的なメッセージです。
一条さんは、『葬』を起点に世界を語りながら、『葬』より『送』だというのです。『唯葬論』を提唱しながら、『葬』よりも『送』? 混乱します。
私は、こう勝手に受け止めました。
一条さんの提唱する『唯葬論』は、その根幹にある『葬』そのものもまた、常に捉え直していくというダイナミズムを内在しているのだ、と。実は、一条さんはずっと以前から、『月面葬』や『天空葬』を提唱しているのです」



わたしは、これを読んで大変驚きました。佐藤さんは「本書に埋め込まれている爆弾のような文章」と表現されていますが、たしかに「爆弾」かもしれません。梶井基次郎丸善に仕掛けた爆弾は檸檬でしたが、わたしは『唯葬論』に『永遠葬』という爆弾を仕掛けたのです。ちなみに、『月面葬』も『天空葬』も、『永遠葬』の1つです。それにしても、わたしがこっそり仕掛けた爆弾をいとも簡単に発見されて度肝を抜かれました。流石です!



最後に佐藤さんは以下のような言葉で締めくくって下さいました。
「一条さんは、本書をこれまでの集大成と位置づけました。
それは同時に、これからの出発点だということでしょう。
本書は、世界の新しい捉え方を示唆してくれます。
私も本書を読んで、自らの生き方も含めて大きな示唆をもらいました。
しかし、あえて言えば、この世界観、歴史観、人間観に基づいた、一条真也さんの世界や歴史に向けての『唯葬論』的メッセージを期待したいです。
当然一条さんはもうお考えでしょうが、自作が楽しみです」
佐藤さんの言いたいことはよくわかります。次回作である『儀式論』(仮題、弘文堂)でリクエストにお応えしたいと思います。


ようやく紹介して下さいました(「CWSコモンズにようこそ」より)



今回も、佐藤さんの書評には大変勇気づけられました。
いや、今回ほど勇気づけられたことはありません。
これまで著書を上梓するたびに、わたしは佐藤さんに献本させていただいてきました。そのたびに、佐藤さんはHP「CWSコモンズにようこそ」の「BOOK」のコーナーで丁重な感想を寄せて下さいました。しかし、今回はちょっと様子が違ったようで、なかなか『唯葬論』を読み出すこと、また読み進めることができなかったそうです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その詳しい事情が以下の奥様への挽歌ブログに綴られています。
節子への挽歌2896:迎えに行ってきました
節子への挽歌2908:「すべての人間は、死者とともに生きている」
節子への挽歌2915:来世での選択



8月20日、佐藤さんが綴られている挽歌の番号と奥様が旅立たれてからの日数が一致しました。一時、佐藤さんは挽歌が書けなくなられたそうで、40日以上のずれが生じていましたが、命日が来るまでに一致させようと頑張れたそうです。佐藤さんは「まあほかの人にはどうでもいいことでしょうが、私にはすごく気になることだったのです」とブログに書かれていますが、佐藤さんほど故人への想いが人間にエネルギーを与えることを知っている方も他にいないでしょう。いずれ、奥様への挽歌は3000回目の偉業を達成することでしょう。これほど亡き愛する人への想いが綴り続けられたことを、わたしは寡聞にして知りません。



じつは23日の日曜日、松尾芭蕉に関する資料を読みました。
そこには、芭蕉が過酷な『奥の細道』の旅に出かけたのは西行の五百年忌に、その跡を追うためだったことが詳しく書かれていました。
芭蕉が日光で詠んだ、「あらたふと 青葉若葉の 日の光」という句があります。これは一般的に東照宮参詣にあたって徳川家康の徳をたたえた句であるなどとされていますが、実際は違います。日光はもともと「二荒」と書き、「ふたら」と読みました。「ふたら」とは「補陀落」のことです。それはPoratakaがもとで、観世音菩薩のお住まいになるところです。ですから、芭蕉は日光でのこの句で観音様の慈光をたたえ、西行の冥福を祈っているというのです。芭蕉西行の歌のある場所を訪ねて奥泉に行き、出羽三山に行き、象潟に行き、敦賀半島の先端の種の浜まで廻ったのです。



「俳聖」の芭蕉は「歌聖」の西行を心の底から敬愛し、思慕していました。芭蕉の心には「死者への想い」があったのです。『奥の細道』は「死者への想い」によって書かれた本だったのです。まさに『唯葬論』の世界です。
ちなみに、西行が最も多く詠んだのは「月」の歌であり、芭蕉が最も多く詠んだのは「月」の句でした。これも『唯葬論』の世界です。
最後に、書評を書いていただいた佐藤さんに心より感謝申し上げます。


唯葬論

唯葬論

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年8月24日 一条真也