「和の精神と平和」訴え

一条真也です。
12月に入って日本中がクリスマス色に染まっています。
もともとキリスト教の行事であるクリスマスが普及したのも、日本人の「和」の精神があってこそ、です。今朝の「西日本新聞」に『和を求めて』(三五館)の紹介記事が掲載されました。バリ島から帰国した直後で、まるで現地ガイドのように日焼けしたわたしの写真も一緒です(苦笑)。
いやあ、「インド(ネシア)人もビックリ!」ですね(笑)。


西日本新聞」12月5日朝刊



記事は、「サンレー社長で作家 一条さん80冊目著作」「『和の精神と平和』訴え」の見出しで、以下のように書かれています。
「冠婚葬祭会社『サンレー』社長で作家の一条真也=本名・佐久間庸和=さん(52)が、80冊目の本『和を求めて』(三五館)を出版した。副題は、『なぜ日本人は平和を愛するのか』。一条さんは『日本の和の精神が平和に通じることを訴えたい』と語る。
一条さんは早稲田大学卒業後の1988年、初の著書『ハートフルに遊ぶ』を刊行。以来、経営や宗教、死生観などさまざまなテーマで執筆してきた。
和を求めて』は2012年の『礼を求めて』、13年の『慈を求めて』に続く3部作の完結編。本書では、聖徳太子が制定したとされる十七条憲法の一文『和をもって貴しとなす』に触れ、「神道、仏教、儒教の考えが融和している。和を尊ぶ日本では、多数決主義、西欧的民主主義は根づかない」と指摘している。一条さんは、『日本には神道、仏教、儒教が混在し、「日本教」とやゆされることもあるが、ハイブリッドな宗教感覚とも言える。他人を排他せず争いを生まない考え方だ』と肯定的に評価。一方で『今、和の精神が薄れつつある。和の尊さを伝えたい』と述べた」


ホテルの客室から富士山が見えました



今朝、東京のホテルで目覚めると、客室の窓から富士山が見えました。
わたしは、三度の飯より富士山が大好きです。
富士山を目にすると、「きっと、いいことがあるぞ!」と思います。


富士山は「和」のシンボルです!



富士山は数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えましたが、日本人の「和の精神と平和」のシンボルです。『和を求めて』にも「富士山〜日本人の本質と誇り」という一文が掲載されています。
東京出張を終え、これからスターフライヤーに乗って北九州に帰ります。


和を求めて

和を求めて

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年12月5日 一条真也

「ハッピーエンドの選び方」

一条真也です。
東京に来ています。ブログ「『永遠葬』卓話」で紹介したイベントの後、島田裕巳氏との対談本企画の打ち合わせをしてから、わたしは「ANAインターコンチネンタルホテル東京」から銀座の「シネスイッチ銀座」に向かいました。映画「ハッピーエンドの選び方」を観るためです。


ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「第71回ベネチア国際映画祭ベニス・デイズBNL観客賞などを受賞した、人生の終盤に差し掛かった老人たちの最期の選択に迫るヒューマンドラマ。監督の実体験をベースに、命尽きる瞬間まで自分らしく生きようとする人々の姿をユーモアを交えて映す。ベテラン俳優のゼーブ・リバシュとレバーナ・フィンケルシュタインが夫婦役で出演。死に直面しながらもポジティブに生きる主人公たちの姿に勇気と元気をもらう」


ハッピーエンドの選び方」の映画ポスター



また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「発明が好きなヨヘスケル(ゼーブ・リバシュ)は、妻のレバーナ(レバーナ・フィンケルシュタイン)と共にエルサレムの老人ホームに住んでいる。ある日、彼は死の床にある親友マックスに、何とか自らの意志で穏やかな最期を迎えられる装置を発明してほしいと頼み込まれる。人のいいヨヘスケルはレバーナの反対にも耳を貸さず、新たな発明に挑む」


シネスイッチ銀座で観ました



シネスイッチ銀座は、大勢の観客で溢れていました。それも高齢女性がほとんどでした。この日は、レディース・デイだったのです。
わたしは、入魂の卓話と新企画の打ち合わせを終えた直後に観賞したので、その疲れから不覚にも寝てしまい、冒頭20分ほどを見逃してしまいました。それでも、ストーリーは理解できました


認知症の妻を安楽死させる



この映画はイスラエル映画です。
イスラエル版“おくりびと”」と呼ばれています。
おくりびと」といえば、ブログ「おみおくりの作法」で紹介した映画は「イギリス版“おくりびと”」と呼ばれていました。日本版もイギリス版も「おくりびと」は葬儀の話でしたが、イスラエル版は安楽死の話でした。
地方では上映されない作品なので、どうしても観たかったです。


ユダヤ教の宗教観がありました



認知症」や「安楽死」を題材とした作品だけに重苦しさはありましたが、時折のユーモアがほどよい感じに中和してくれました。
イスラエルが舞台ということで、この映画の背景にはユダヤ教の宗教観がありました。すなわち、死は「帰天」という考え方です。一神教が根付いていない日本だと、このような死の描き方は難しいかもしれません


老いない人間、死なない人間はいない



この映画のメインテーマは、なんといっても「安楽死」です。
わたしはどうも「死」や「葬」の専門家として見られているらしく、よく「一条さんは安楽死尊厳死についてどう思われますか?」などと質問されることが多いです。じつは尊厳死については肯定しているのですが、安楽死については今ひとつ割り切れない思いを抱いています。というのは、そこには人間をモノとみなし、死を操作の対象ととらえる思想が見え隠れするからです。現代の医療テクノロジーの背景には、臓器移植に代表されるように人間を操作可能なモノとみなす生命観があるわけですが、そうした生命観は患者の側も共有しているといるのではないでしょうか。現代の安楽死は、自らの命や身体は自分の意志で左右できる道具であるかのような価値観に根ざしており、わたしには違和感があります。


映画リーフレットより



安楽死マシンが世間的に認知されたら、社会的に公開「姥捨て」が蔓延するのではないかという危惧もあります。老人を口減らしのために捨てるという「姥捨て」の話は、古代北欧のエッテクルッパの伝承をはじめ、ヨーロッパ・アメリカ・中国・アフリカなど、世界中に見られます。その真偽は置くとしても、「老い」を排除すべきであるという意識は汎文化的であると言ってよいでしょう。


映画リーフレットより



また、安楽死マシンは「ポックリ信仰」も連想させます。
自分自身や家族の穏やかな死を願うのがポックリ信仰ですが、その根底には介護を受けることは「家族に迷惑をかける」ことであり、「みじめ」なことであり、可能ならば避けたいという考えがあります。すなわち、ポックリ信仰とは「介護の否定」であり、「延命治療の否定」でもあるのです。日本には「ポックリ寺」なるものもあるそうですが、この安楽死マシンを常備した施設が誕生すれば、それが真の「ポックリ寺」となるでしょう。


「終活」をテーマとした作品でした



そして、この映画は「終活」をテーマとした作品でもあります。
わたしは、『決定版 終活入門』(実業之日本社)という本を書きました。
日本人の寿命はついに男女とも八十歳代を迎えました。仏教は「生老病死」をいかに考えるかを説いたものです。そして今、八十年代を迎え、「老」と「死」の間が長くなっているといえます。長くなった「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか――そのための活動が「終活」です。


決定版 終活入門

決定版 終活入門

いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」を悟り、「人生の終わり」を考える機会が増えたようですね。高まるブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。


どのように人生を修めるか・・・・・・



「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるのではないでしょうか。老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」なのです。


銀座のクリスマス模様が綺麗でした



老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
映画を観終わった後、目にした銀座のクリスマス模様が綺麗でした。
この映画は『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)で取り上げました。


死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本

死を乗り越える映画ガイド あなたの死生観が変わる究極の50本

*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2015年12月5日 一条真也