HAB放映

一条真也です。
3月28日、HAB(北陸朝日放送)の「とくとくミィー5ch」で金沢紫雲閣において17日の日曜日に開催されたイベントが紹介されました。3月15日に制定された「冠婚葬祭互助会の日」、御供田幸子さんのお笑いショーについても紹介されています。

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

HAB「とくとくミィー5ch」より

 

2024年3月29日  一条真也

テレビ金沢放映

一条真也です。
3月28日、テレビ金沢の「マル得配便」で金沢紫雲閣において17日の日曜日に開催されたイベントが紹介されました。3月15日に制定された「冠婚葬祭互助会の日」についても紹介されています。

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

テレビ金沢「マル得配便」より

 

2024年3月29日  一条真也

『ちょうどいい孤独』

ちょうどいい孤独

一条真也です。
『ちょうどいい孤独』鎌田實著(かんき出版)を読みました。サブタイトルは「60代からはソロで生きる」です。著者は、1948年東京生まれ。医師・作家・諏訪中央病院名誉院長。東京医科歯科大学医学部卒業。1988年に諏訪中央病院院長、2005年より名誉院長に就任。地域一体型の医療に携わり、長野県を健康長寿県に導いた。日本チェルノブイリ連帯基金理事長、日本・イラク・メディカルネット代表。2006年、読売国際協力賞、2011年、日本放送協会放送文化賞を受賞。著書多数。


本書の帯

 

本書のカバー表紙にはハリネズミの絵が描かれ、帯には「孤独を味方につけて、『人生の満足度』を上げませんか?」「健康や人間関係を壊さない、カマタ流“個立有縁”のすすめ」と書かれています。また、カバー前そでには、「普段は誰かとつながっていながら、『ひとりでいたいときにはひとりで異様』という具合に、『ちょうどいい孤独』を楽しんだらいいと思います」と書かれています。


本書の帯の裏

 


アマゾンより

 

アマゾンの内容紹介には、以下のように書かれています。
「家族や友人がいても、『孤独』だと感じる時間は必ずある。そこをどうやって自分自身の時間をポジティブなものに転換していくか。その方法次第で、人生が幸福なものか、不幸なまま終わってしまうかが決まっていくなら・・・・・・。孤独を積極的に楽しんで、『人生の密度』を高めていきませんか。コロナ禍において提唱された新しい生活様式は、『個のすすめ』でした。買い物も散歩も外食も、原則としてひとり。人混みを避け、極力人に合わないことを強いられた日々。強烈に『ひとり』を実感されられた時間の中で、多くのひとはひとりで生まれて、ひとりで死ぬという『孤独』の本質を見たはずです。本書は、孤独を癒すのではなく、孤独を楽しむことを提案しています。孤独“に"生きるのではなく、孤独“を"生きる。つまり『望んで得る孤独』のすすめです。孤独を楽しめれば周囲の雑音に惑わされることなく、自分自身の本来の姿に立ち返ることができます。精神的な自立は、家族や友人との付き合い方も風通しのいいものに変わっていくでしょう。『孤高』を求めるのではなく、ゆるやかな孤独を楽しむ。そんな大人の生き方の提案です」


アマゾンより

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに◎「人生100年時代の『ソロ立ち』のすすめ」
第1章◎「ちょうどいいひとり時間」は人生を変える
第2章◎群れない、束縛されない「ソロ活」のすすめ
第3章◎さびしいという孤独感を減らして
    「孤独力」を上げる

第4章◎家族や集団の中でこそ
    「ソロ精神」を発揮しよう!

第5章◎「老いの坂」を下りるスキルをどう身につけるか
第6章◎老いの「ソロ立ち」であなたも孤独名人になれる
おわりに代えて◎カマタの老いのソロ立ち


 

はじめに「人生100年時代の『ソロ立ち』のすすめ」の冒頭を、著者は「新型コロナウイルスの世界的大流行を受けて提唱された新しい生活様式は、『個のすすめ』です。買い物も散歩も外食も、原則としてひとり。人混みを避け、極力人に会わないことを強いられるようになりました。そのせいもあるのか、『孤独』が一種の“ブーム”になっています。若者の間で流行っている『ぼっち』や『ソロ活』は、その典型でしょう」と書きだしています。



著者は孤独には「望まない孤独(消極的孤独)」と「自ら望んで得る孤独(積極的孤独)」があると考えているそうです。望まない孤独は、孤独を否定的にとらえ、「自粛生活を強いられて人付き合いが減り、さびしくて元気を失った」と孤独を感じるというもの。反対に「望んで得る孤独」は、「人と会えなくてさびしいけれど、その分、自由な時間ができたのでやりたいことがやれるようになった」と、好意的なとらえ方をするものだそうです。



親や子がいようと、配偶者や友達がいようと、わたしたちは結局、「ひとり」なのだと、著者は言います。みんな、ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。夫婦で生活していても、いつかどちらかが必ず死ぬ。命の最期は「個人戦」だというわけです。これが「孤独」の本質であるとして、著者は「家族がいても、人間の根源的な孤独は癒すことができない・・・・・・。私たちが棚上げにしていたこの厳然たる事実を、新型コロナ禍が見つめ直させてくれたのです」と述べています。

 

 

そこで著者は、“孤独を癒す”のではなく、“孤独を楽しむ”ことをすすめています。孤独“に”生きるのではなく、孤独“を”生きるということです。つまり「望んで得る孤独」のすすめです。『人生論ノート』で有名な哲学者の三木清は、「孤独は感情ではなく、知性に属さなければならぬ」と語っています。「自分らしく生きるために、その行動によって孤独になることもある。それは知性による孤独であって、とても尊いものだ」というのです。



「『ソロ立ち』『ソロ活』『ぼっち』という新しい波」では、ポストコロナは、これまでの「縦社会」の規律や忖度をぶち壊して、「これからどうすればいいのか?」をみんなで考えていかなければいけない時代であると指摘しています。社会全体で「なぜ、ひとりでいてはいけないのか?」という問いにも、根源的な答えを見つけていかなければならないとして、著者は「他人に甘えず、媚びへつらうことなく、ひとりのメリットを享受すること。その半面、友人や集団の中では十分なコミュニケーションが取れること。そんな『孤独の楽しみ方』を知る人たちが、新しい社会や次の仕組みをつくっていくのではないかと考えています」と述べています。

 

 

「『ちょうどいい孤独』を探す」では、本書では、さまざまな角度から、「孤独」の楽しさ、素晴らしさを考えていくことが示されます。ただ注意すべきなのは、本書は「孤高」をすすめる本ではないということ。著者は、「巷では、孤独のプラスの側面を強調して『孤高』という言葉を使い、『超然とした態度で理想を追い求める』著書も人気です。確かにこれは、孤独の理想に近づこうとするものだと思います。でも、誰もがそんなに高尚な生き方ができるわけではありません。そこで、普段は誰かとつながっていながら、『ひとりでいたいときにはひとりでいよう』という具合に、『ちょうどいい孤独』を楽しんだらよいと思っています」と述べています。

 

家族や友人がいても、「孤独だ」を感じる時間は必ずあります。どうやって自分自身の時間をポジティブなものに転換していくかが大切ですね。極論すれば、その方法次第で、人生が幸福なものか、不幸のまま終わってしまうかが決まっていくとして、著者は「孤独を積極的に楽しめる人と、孤独を否定的に感じる人とでは、『人生の密度』が大きく変わってくるように思います。『孤独はラッキー』なのです。『自分だけの、自由に自分勝手に使える時間』、それが『ちょうどいい孤独』です」と述べるのでした。



第1章「『ちょうどいいひとり時間』は人生を変える」の「『ソロで生きる力』を磨く時代」では、働く高齢者が4人に1人になったことが紹介されます。これを受けて、著者は「政府は生涯現役で活躍できる社会をつくるなどと『きれいごと』を言っていますが、こんな言葉に惑わされてはいけません。政府の思惑などに躍らされることなく、自分の都合のいい時間に、家計の足しになるような面白い仕事をするなど、自分流のソロ立ちを自分自身で決めるのです。『ソロで生きる力』を磨く時代になったということです」と述べています。


老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)

 

「高齢者の3割は友達がいない」では、高齢者たちが抱いている不安についての原因を探ります。NPO法人「老いの科学研究所」の調査では、身体能力が衰えること、認知症の心配などに混じって、「孤独やさびしさ」を訴える人が多いと言います。孤独を怖がるあまり、「病気になったらどうしよう」と不安でたまらなくなる。その背景を探ると、「一緒に楽しく過ごせる仲間がいない」というさびしさが潜んでいるそうです。「幸福の科学」というのは有名ですが、「老いの科学」という言葉は初めて聞きました。でも、拙著老福論〜人は老いるほど豊かになる(成甲書房)という本もあるように、「老い」について考えることは「幸福」について考えることにほかなりません。


「人間は『ひとりでいたい』欲求を持つ存在」では、アフリカで誕生した人類は、周囲に住む猛獣たちの標的になりやすい脆弱な存在だったことが指摘されます。そこで生き延びるためにコミュニティーを作りました。でも、一緒にいると息が詰まってしまい、やがてコミュニティーから離れたいという欲求を持つ者も出てきました。そして世界へと散らばって行ったのです。こうした人たちがいたから、人類は“出アフリカ”に成功し、何万年もの時間をかけて「グレートジャーニー」の旅に出かけ、全世界に定住するようになったのです。著者は、「つまり人間というものは『群れたい』欲望と『ひとりでいたい』欲求の両方を併せ持つ存在です。ただ、『群れたい』欲望が強すぎると集団の中で埋没してしまうし、『ひとりでいたい』欲求が旺盛だと社会的孤立が深まってしまいかねません。この両方のバランスを上手に取ること、それが現代に適した生き方なのではないかと思います」と述べます。



「『孤独力』を磨けば『孤立』は招かない」では、孤独と孤立はまったく別物であることが指摘されます。孤独は自分が望む場所と時間を自分で選ぶこと、つまり「自立」した人間のことです。「自立」はよく誤解されているように、何もかもすべて自分の力で行うことではなく、本当に頼らなければならないときに頼れる相手がいる状態のことであるとして、著者は「それと正反対に、孤立は、いざというときに頼れる人が誰もいないという状態のこと、あるいは社会から外れて生きなければならない状態のことです。当然、頼るべき相手も存在しません」と説明します。



「孤独の醍醐味は個人の価値に気づくこと」では、「絆」という言葉が取り上げられます。東日本大震災のとき、メディアは被災地から、続々と感動的な映像や心温まる場面を送り続け、これが「絆」という言葉に象徴されました。しかし、「絆」というのは本来、「人を縛る」ものなのであるとして、著者は「親子の絆、夫婦の絆、地域社会や共同体の絆は“安心”の基礎になるものですが、時と場合によっては、理不尽な形で個人を縛りかねないものになってしまいます」と述べています。



どんなときに絆が必要になるか、あるいはどこまでの範囲で絆を求めるか。それは本来、さまざまな局面によって異なるはずです。でもいつの間にか、社会全体で盲目的な「絆」の大合唱が起きるようになり、「私は本来、絆を好まない」とか「これ以上の絆は重荷になります」なんて口に出すことが、はばかられるようになってしまったと指摘し、著者は「よく考えてみてください。日本人はずっと自分の周囲の共同体を『大事にするもの』として挙げてきたのです。江戸時代は『お家』、つまり所属する藩でした。明治以降は『お国』、つまり国家です。そして戦後社会になって以降は『わが社』です。そしていまは『家族』になってきたというわけです」と述べるのでした。



絆は本来、馬や鷹などの家畜を立木につないでおくための綱のことを言いました。呪縛や束縛の意味にも使われてきました。また最近、絆は話題につながるための大切なものとされていますが、著者は「絆には落とし穴があることを忘れないようにしたいものです。時と場合によっては、お家、お国、家族ほど、個人を振り回すものはありません。これらは、ある人には絶対的な位置を占めます。僕にとっても国家、諏訪中央病院、地域、家族は間違いなく大切なものですが、半面、人によってはこれに締めつけられることがあるのです。必ずしも個人を守ってくれるものではなく、ときに個人の生き方や自由に抵触する場合もあるのです」と述べています。わたしは基本的に絆を重視する人間ですが、この著者の意見は傾聴する価値があります。



第2章「群れない、束縛されない『ソロ活』のすすめ」の「子どもの頃から『ひとりでいたい』人間だった」では、「孤独」という言葉は英語では「Loneliness」「Solitude」の両方があることが紹介されます。孤立は「Social Isolation(ソーシャル・アイソレーション)」です。著者が「ソロ活」「ソロ立ち」という場合、「さびしさ」の意味合いが強い「Loneliness」より「隔絶された」という意味合いが強い「Solitude」を意識しているそうです。

 

著者は、「自分で意識的な隔絶『Solitude』をはかり、積極的に孤独を楽しもうとするものです。Enjoy Solitude、あえて孤独になってもOKなのです」と述べます。また、「Loneliness」の「さびしい」「哀しい」という感情は、人間が生きていく上で大切なものだとして、著者は「これらがなくなってしまったら、大切な経験を忘れていってしまうように思います。『Loneliness』の大切さを忘れないようにしたいと思って、僕は生きてきました」と述べるのでした。



「人生は思い通りにならない。だからこそ思い通りに生きればいい」では、貧しかった幼少時代、「本」が著者のかけがえのない友達だったことが明かされます。著者にとって本は、人生の土台をつくってくれただけでなく、人生の分かれ道にさしかかったとき、「どう生きたらいいか」を指し示してくれたそうです。そして本は、「人生は不条理だ」ということも教えてくれたとして、著者は「人生は思い通りにはいきません。それを感じたとき、『人は思い通りに生きればいいのだ』と、自分の思考を形づくれたのも、本を読んできたからだと思っています。いわば僕は、本を読むことで、『孤独』の価値に気づくことができたのです」と述べています。


「人生という『ひとり芝居』がある」では、ともにいろいろな人々が集まって1つの芝居をつくっていく場として病院をとらえます。そんな考えを抱いていた著者は、やがて「ひとり芝居」に興味を持つようになりました。例えばマルセ太郎のひとり芝居。永六輔立川談志も激賞していましたが、彼はもともとパントマイム俳優、ボードビリアンですが、自ら劇作家になってシナリオを書き、芝居を演じたのです。著者は、「それはまるで、スクリーンのない映画館で映画を見るような空間になっていました。僕が大好きなフェデリコ・フェリーニの『道』やマルセル・カルネ天井桟敷の人々』、チャップリンの『ライムライト』、松本清張の『砂の器』などをマルセ太郎はひとり芝居で、見事に演じたのです」と述べます。

 

「孤独と不安をごちゃ混ぜにするな」では、著者は「個」を確立するために、孤独の中に身を置き、自分の価値を見つけ出していく作業を繰り返すことで、ぶれない価値観を形成していこうとしたことが明かされます。人生の壁を打ち破っていくときも、スポーツアスリートとして成功していくときも、ビジネスマンでも物書きでも、孤独であることはマイナスにならないばかりか、強いパワーを生み出していくとして、著者は「大事なことは、孤独と不安をごちゃ混ぜにしないことです。野球の試合で満塁のピンチに立たされたストッパーは、孤独の中でマウンドに立ち、敵の打者と立ち向かう。ヒットを打たれたり、落ちるボールが暴投になってキャッチャーが後逸すれば、3塁ランナーがホームに入ってしまいます。そんなギリギリの緊張と不安の中で、ストッパーは大事な1球を投げなければなりません。その不安をどうやって乗り越え、頼れるピッチャーになるか・・・・・・。それは自分を見失わず、チームのためと同時に、自分の人生、自分の成功のために、その1球を信じて投げること。それが大事なのだと思います」と述べるのでした。


「『ヤマアラシの哲学』に学ぶ」では、「ヤマアラシのジレンマ」という寓話が紹介されます。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが唱えたもので、フロイトも心理学に応用したといわれています。ヤマアラシは、寒いとかたまって過ごす習性がありますが、みんなが鋭い針を持っているので、くっつくと痛いですね。やむなく離れると、今度は寒くてたまらなくなります。これが「ヤマアラシのジレンマ」です。コロナ禍で「ソーシャルディスタンス」が叫ばれた時期もこれと同じだとして、著者は「人が人が接する機会が少なくなり、特に若者たちの出会いや、恋愛のチャンスが減り、少子化が加速しかねません。こんなふうに物理的、肉艇的な要因で少子化が進むというリスクと、ソーシャルディスタンスで出会いが少なくなって結婚数が減るというリスクがあります」と述べます。



「コロナ禍時代に『上手に距離を取る』7つのポイント」では、「孤独」とは、「単独で生きろ」という意味ではないことが指摘されます。夫婦でいても友人といても、お互いの距離を保って、個人としてきちんと存在し続けることが大事なのだとして、著者は「夫婦もソロ、成長したら子どももソロ、そんな形で家族がゆるやかにつながっていけば、おたがいが生きやすくなります。そして寒くなったらヤマアラシのように、上手に針を折りたたんでくっつき合う。いたずらに『離れろ』ではなく、『刺すこともある』ことを知って、どうすれば『血を流さずにくっつき合えるか』を考える。それが知恵というものなのです。個性的な人間は皆、針を持っています。それを認め合うことが大事です。それがないと人間関係は面白いものにならないし、発展もしない。僕はそう考えています」と述べます。


第3章「さびしいという孤独感を減らして『孤独力』を上げる」の「孤独は本物の伝染病」では、2019年の世界経済フォーラムダボス会議)で、アメリカのイエール大学のローリー・サントス教授が「孤独は本物の伝染病だ」と述べたことが紹介されます。それを裏づけるように、全米の大学調査でも60%以上の学生が孤独を感じているそうです。イギリスでも16歳から24歳で40%、70歳以上の高齢者で40%が孤独を感じているのです。著者は、「日本でも、コロナ禍でむしろ若者の孤独感が強まっているというデータが出ていますが、そのほか、こんな意外なデータもあります。それは、既婚者のほうが孤独感が強いというもの。なるほどなあと思います」と述べます。

 

 

いま巷には「孤独のすすめ」関連の書籍が溢れていますが、著者は「安易にその風潮に乗っからないで欲しい」と訴えます。決して「孤独本」を批判するわけではないとしながらも、その多くは「人生で成功した人たち」「人生強者」の筆による人生論で、どちらかといえば“強者の論理”が展開されているからだといいます。著者は、「生きるための指針としては大事です。でも深刻な社会的孤立や激しい孤独に悩む人たちには、あまり参考にならないと思うのは、医師である僕の偏見でしょうか。孤独感にさいなまれている人やSOSを出す仲間がいない、貧困の中にいる人に、『孤独はいいもんだ』などと言い放つ勇気は、僕にはありません」と言うのでした。



「追い込まれ孤独は減らしたい」では、未婚化の増加による孤立化が大問題であると指摘しています。2015年に65歳以上の男性に占める未婚者の割合は5.9%でしたが、2040年には14.9%になると報告されています。未婚者には配偶者だけでなく子どももいないでしょうから、孤立のリスクは高まる一方です。日本は圧倒的な“ひとり暮らし社会”だということができるとして、著者は「幸い、2015年の『生活困窮者自立支援制度』施行以降、社会的孤立に関しては自治体などが幅広い相談に応じるようになりましたが、真のセーフティネットとして機能するまでには、まだ時間がかかりそうです」と述べています。


「まずは居場所づくりから」では、「孤立感」は一生ついてくる問題だと指摘しています。心地よい人間関係やコミュニティーを構築できれば、人生の最期まで自分らしく幸せに生きることができるはずだといいます。著者は、「最近ではこれをSNSに求める人もいますが、果たしてどうでしょう。『SNSの世界は“ふわっとしたつながり”だからです』と、SNSで活躍するある人が教えてくれました。『どこか現実感がなく、本当につながってないから、心底、相手に心を許せない。だから孤独を感じる』というのです。そこで、本当の意味でつながっていて、心の底から楽しいと思えるような居場所や、心を許せる友達がいれば、彼らも安心するはずだと感じます。だから『リアルな世界での友達専用のアカウントをつくったりする』のだそうです。これはいい工夫です」と述べます。


ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「人間は孤独でいる限り、彼自身であり得るのだ。だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ」と語っています。孤独を愛することこそが、真理を追求することにつながるというのです。これを敷衍して「孤高」と表現する人もいます。超然とした態度で理想を追い求めることですが、誰しもが真似できるものではありません。それは「孤独のすすめ」本と同じで、「人生の強者」だからこそ到達できる境地であるとして、著者は「僕たちのような凡人で、いつも道に迷い続けている者には、あまり参考にならないかもしれません」と述べています。



第4章「家族や集団の中でこそ『ソロ精神』を発揮しよう!」の「老いの孤独を遊ぶ」では、ビートルズジョン・レノン、アップル創業者スティーブ・ジョブズも、若い頃はみんな孤独だったことが紹介されます。孤独だから天才が生まれたわけではないかもしれませんが、孤独な時間が、自分の中に埋もれている「何か」、自分も周囲も気づかない大切なものを引っ張りだすのではないかとして、著者は「人間は動物学的には弱い存在です。だから人類が誕生したアフリカのサバンナで生き抜くために、家族をつくったり仲間が集まったりしてきました。だからソロになると、さびしさや哀しさ、孤独を感じてしまう。それは人間の本能といっていいかもしれません」と述べます。

 

「ひとりの時間で人生の軌道修正」では、つらい状況に陥ったとき、仲間とはしゃいで元気を取り戻すのもいいですが、仲間からちょっと離れてみると、人生の軌道修正がしやすくなるとアドバイスしています。仲間外れが怖くて自分を偽り続けていると、本当の自分を見失ってしまいかねません。本当の自分を取り戻すには、ひとりになる時間も必要であるとして、著者は「じっとしていれば、自分の心の声に耳を傾けられ、ひとり時間で心が落ち着いてきます。そして、本来の自分ときちんと向き合えるようになると、今度は自分自身を大事にしたいという気持ちが、自然と芽生えてくるはずです。「自分自身が幸せと感じられる瞬間は何か」に気づき、そのために何をしたらいいかが見えてくるからです。これが『心に余裕が生まれる』ということです。『心が満たされる』と言い換えてもいいと思いますが、いままで無理していたことが無理でなくなり、これまで以上に、自分のことを好きになれるはずです」と述べるのでした。


「ぼっち」は、特にいまの若い世代に好感を持って迎えられているそうです。著者は、「この世代は、マイペースすぎるとか、何を考えているのか・・・・・・、なんて批判されがちな世代ですが、彼らの『ベタベタとしない』カラッとした気質は、僕は好ましいと感じています。媚びへつらうことがないので、行動や思考が明確だからです。彼らは、“集団でつるんで”“空気を読み合う”日本の環境に辟易しているのかもしれません。だからこそ『孤独を楽しめる人』になろうと思っている。『なぜ、ひとりでいてはいけないのか?』を真剣に考えるようになって、『孤独=いけないこと』という先入観を持たなくなっているのです」と述べています。


「孤独は人間の本能」では、ネット社会では見知らぬ誰かと趣味や関心事を気軽に共有できることが指摘されます。それで受ける恩恵もありますが、その半面、「誰かと、いつもつながっていないとダメ」という強迫観念にかられがちになる。それが孤独感につながったりします。でも、本当に大切な「つながり」って何なのかと問う著者は、「よくよく考えると、たいして重要ではないつながりが多いと気づくかもしれません。職場の仲間、趣味のサークル、友人たち・・・・・・、仲間が増えるほど、対応に費やす時間が膨らんでいきます。でも、そこから自分の中に残るものはそう多くない。気づけば誰かの愚痴を聞く相手になったり、第三者の悪口やうわさ話に首を突っ込むことになっていたなんてこともあります。そんなことをしているうちに、肝心の自分がどこかに飛んでいったりしていることもあります」と述べます。

 

「誰かといたいときにだけ、誰かといればいいのだ」では、著者は読者に「もっと孤独になって、そして人とつながれ」と訴えます。一見、矛盾しているように思えますが、人生には「ひとりがいい」という場合と、「みんながいい」という場合があるとして、著者は「もし僕たちが『ひとりでも生きていける』というのなら、それは僕たちがそれでも生きていける場所にいるからなのです。『ひとり』と『みんな』、どちらが欠けても人は生きていけないし、また楽しい人生は送れません。大事なのは、『ひとり』と『みんな』のバランスをどうとるか、です」と述べます。

 

 

ここで、著者は面白い記事を紹介します。長編大作失われた時を求めての著者であるマルセル・プルーストの交友関係に関する記事です。19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスのパリで「ベル・エポック(よき時代)」と呼ばれた芸術・文化運動が花開きました。この運動を代表する小説家のプルーストや詩人のポール・ヴァレリーらの創造性を育んだのが「孤独」だったと、ベル・エポックの芸術家に詳しいお茶ノ水女子大学の中村俊直名誉教授は語っているそうです。プルーストは『失われた時を求めて』の大半を、パリのアパルトマンにあつらえた「コルクの部屋」で書いたといいます。この部屋は、外音を遮断してひとり「孤独」に執筆するための空間でした。著者は、「かつて日本でも、売れっ子作家に原稿を執筆してもらうため、旅館やホテルに『缶詰め』にしたことがありますが、その源流は、フランスにあるのかもしれません」と述べています。



第5章「『老いの坂』を下りるスキルをどう身につけるか」の「人生の最後の最後は『個人戦』」では、人間が健康でいるためには、生活習慣や食習慣、運動などに加えて、「人間関係も大事だ」と言われていることが指摘されます。アメリカの国立健康統計センターによると、支え合えるパートナーがいる人、つまり既婚者の死亡率は、結婚経験のない人や離婚した人、配偶者と死別した人に比べて低いという結論を出しています。しかし怖いことに、すべての結婚がいい人間関係につながるとは限らないとして、著者は「夫婦という人間関係は健康にいい結果をもたらすけれど、足を引っ張ることもあるのです。つまり、結婚生活は『質』が大事だということです。ブリガムヤング大学の研究では、幸せな結婚生活を送っている人は、独身者より死亡率が低かったけれども、結婚生活がうまくいっていない人は、独身者より死亡率が高いという結果になりました」と述べています。



「『ひとり時間』を大切にして生きがいを見つける」では、著者が47年間、長野の平均寿命日本一の地域で健康づくり運動に関わった結果、野菜を食べることや減塩を心がけるよりも、もっとも効果があったのは「生きがい」だったことが紹介されます。生きがいを支えているのは、小さな農業でした。その地域の老人たちは、80歳になっても85歳になっても、小さな畑で作物をつくり、JAに卸していたのです。著者は、「孤独にはリスクがつきまとうことを忘れないようにしたいものです。孤独の早期死亡リスクは肥満の2倍といわれています。孤独のほうがアルツハイマー病になるリスクが2倍という論文もあります」と述べます。「社会とのつながりの多さ」が最も健康寿命に影響を与えているということは、ソロ活でひとり時間を楽しむことで自立し、「ひとり時間」に強い人間になる一方、社会とのゆるやかなつながりを忘れないのが大事ということになります。



「ひとり力を鍛える健康ソロ活」では、「太陽の光を浴びる」ことが取り上げられます。朝起きて太陽の光を浴びると、「セロトニン」が分泌されます。「幸せホルモン」と呼ばれる物質で、朝の太陽が睡眠・覚醒リズムを整えるのにとても大事です。コロナ禍中のステイホームでは夜更かしや昼夜逆転が起きやすかったです。朝、やる気が湧かない子どもや若者たちのリズムを整えてあげることも大事ですが、みんながソロ活をして、自分自身の健康は自分で守るという意識が大切だとして、著者は「孤独を大事にしようと思ったとしても、部屋に閉じこもってはいけません。孤独を大事にしようとするからこそ、朝一度は太陽に当たること。それがよい孤独を持続させていくために大切なことです。ひきこもりは決して、よい孤独ではありません」と述べています。



「老いの性は『生の本能』『死の本能』を目覚めさせる大切なもの」では、老いの孤独は、認知症の発症を2倍増加させ、肥満よりも2倍、死亡リスクを高めることが指摘されます。このリスクを回避するには、ソロ立ちをして孤独の時間をつくるとき、自我リビドーという生きる力を上手に利用しながら、「自分らしくいること」をどれだけ楽しめるようになるかが、大事なところだといいます。人が「孤立している」と過剰な心配をしてくれたり、ひとり暮らしだったとしても、他人の目なんか気にせず、自分の中で幸せ感を持った孤独を楽しむことによって、「本当の幸い」が理解できるようになるとして、著者は「ものや地位、人生で勝ち得たポジションは、ちっぽけなものです。物質や環境に負けない孤立は、自分自身が感じている幸せ感によって支えられています。他人の目を気にしないことです」と述べます。


「次の人たちのために」では、「ジェネラティビティ」という言葉が取り上げられます。これは心理学者エリクソンの造語で、次の世代のために生きることを意味しますが、そうすることでオキシトシンが分泌され、少しずつ体が自由に動かなくなっても、「ジェネラティビティ」を意識することで、自分が生きている意味が見えてくるといいます。著者は緩和ケア病棟で回診を続けています。そのときにいつも患者さんの「ライフレビュー」というものにこだわっているそうです。その人の人生を振り返ることです。そのうちに、「先生、面白かったよ、いい人生だった。満足だよ」とか、「大変だったけど、後悔はないよ」などと語ってくれるそうです。また、息子さんやお嫁さんに「よく看てくれてありがとう」お孫さんに「人生は大変だけど、面白いぞ。でも努力しないとな、その面白さがわからないんだ」など、農業をやり続けてきたおじいちゃんが、まるで哲学者のように、次の世代に言葉を残すといいます。まさに、「ジェネラティビティ」です。


「心を許せる誰かがいれば、人間は生きていける」では、2016年のオランダ映画「孤独のススメ」が紹介されます。妻に先立たれた孤独な中年男を主人公に、2人の男性の奇妙な共同生活を描いた作品です。オランダの小さな田舎町で暮らす中年男性のフレッドは、愛する妻に先立たれ、たったひとりの息子は仲違いの末に家を出てしまい、孤独な毎日を過ごしています。ある日、彼の前にひとりの男が現れ、物語は意外な展開を見せます。著者は、「愛する伴侶を失い、孤独感にさいなまれて頑なになっていたフレッドが、見知らぬ男に心を開き、周囲の視線にもめげず、平穏な毎日を過ごす日々が、悲喜こもごもの中に描かれます。伴侶でも友人でも、人間には心を許しあえる人間が欠かせないものだと、感じさせてくれる1本です」と述べています。

死ぬまでにやっておきたい50のこと

 

第6章「『個立有縁』・・・・・・ここからが本番」では、人生があと1年だとしたら、自分の喜びややりたいこと、役割などのリストをつくって、「家族のため」「誰かのため」に生きるのではなく、自分の人生の総仕上げ、いままでとは違って、自分らしい生き方を目指してみてはいかがでしょうかと提案します。これが60代からのソロ立ちの核心であるとして、著者は「60代、ここからが本番。60代になったら、『個立』することを心がけるといいでしょう。自分の『個』で自分の人生をコントロールしていく。孤独の時間を大切にしながら、小さな縁を粗末にしないことです。『個立有縁』。これがカマタ流ソロ立ちのフィロソフィーです」と述べます。わたしは死ぬまでにやっておきたい50のことイースト・プレス)という本を書きましたが、「個立有縁」とは良い言葉ですね。


「恨み、憎しみを抱えた女性の見事なソロ立ち」では、10年ほど前、恨みつらみ、憎しみをたくさん抱えながら、末期の乳がんで入院してきた患者さんがいたことが紹介されます。死を覚悟したのか、彼女は最期の瞬間に聴きたい音楽のテープをつくり始めまたといいます。最後に選んだ曲はエディット・ピアフ「バラ色の人生」でした。恨み、つらみを持って生きてきても、最後は自分の人生を「バラ色」と肯定しながら、「いいことも悪いこともあった、水に流してあの世へ行こう」という歌詞の名曲です。著者は、「彼女はすべてを受け入れたのだと思います。穏やかな顔で旅立ちました。家族の中でいじめられ続け、彼女は早くしてソロ立ちをしました。だから強かったのだと思います」と述べます。「人生に満足していない人が3人に1人以上」だそうですが、著者は「何かを水に流してしまえば、もしかしたらバラ色の人生であったことに気づくかもしれません。まずソロ立ちをして、いやなことは水に流してみませんか」と述べるのでした。

 

ちょうどいい孤独

ちょうどいい孤独

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2024年3月29日  一条真也

石川テレビ放映

一条真也です。
3月27日、石川テレビの「SHOPてチョーダイ!」で金沢紫雲閣において17日の日曜日に開催されたイベントが紹介されました。3月15日の「冠婚葬祭互助会の日」についても紹介されています。

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

石川テレビ「SHOPてチョーダイ!」より

 

サンレー名誉会長である佐久間進が初代会長を務めた一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会は、2023年(令和5年)に創立50周年を迎えたことを記念して、3月15日を「冠婚葬祭互助会の日」に制定しました。この番組に紹介されたことによって、1人でも多くの方々に浸透することを願っています。

 

2024年3月28日  一条真也

「12日の殺人」

一条真也です。
東京に来ています。27日、冠婚葬祭文化振興財団の会議に出席した後、出版関係の打ち合わせをしました。夜は、ヒューマントラストシネマ有楽町でフランス・ベルギー合作映画「12日の殺人」を観ました。カタルシスなきミステリーでしたが、リアリティはありました。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
「ポリーヌ・グエナのノンフィクションを原作に描くスリラー。小さな町を舞台に、ある女子大生の殺人事件を追う二人の刑事が、難事件に翻弄される。『悪なき殺人』などのドミニク・モルが監督などを手掛け、同作に出演したバスティアン・ブイヨンが主人公の刑事を演じている。『素顔のルル』などのブーリ・ランネールのほか、テオ・ショルビ、ジョアン・ディオネらが出演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「10月12日の晩、大学生クララの死体が発見される。昇進したばかりの刑事ヨアン(バスティアン・ブイヨン)と、ベテラン刑事のマルソー(ブーリ・ランネール)が事件を担当し、彼女の周りの人物への聞き込み捜査を始める。やがて事件が計画的な犯行であることが判明するが容疑者の特定は難しく、解決の糸口が見えなくなる中で、やがてヨアン自身もこの事件にむしばまれていく」


ドミニク・モル監督は2019年のドイツ・フランス映画「悪なき殺人」でも、不条理な殺人事件を描いています。解説・あらすじ第32回東京国際映画祭で観客賞と最優秀女優賞を受賞したサスペンスです。フランスの山間にある人里離れた町で、吹雪の夜に1人の女性が失踪し、何者かに殺されて見つかります。農夫のジョゼフ(ダミアン・ボナール)、彼と不倫しているアリス(ロール・カラミー)、その夫であるミシェル(ドゥニ・メノーシェ)が疑われますが、彼らはある偶然の出来事で事件とつながっていたのでした。事件はアフリカのコートジボワールにまでつながっていき、やがて思わぬ方向に向かいます。


そのドミニク・モル監督の最新作である「12日の殺人」は実話をベースにしていますが、冒頭でいきなり美しい女子大生が火だるまになって殺されるショッキング・シーンが展開されます。被害者の周囲には怪しい男がたくさんいて、すぐに犯人は見つかるだろうと思うのですが、なかなかそうはいきません。観客は何度も肩透かしを食い、ついには無力感さえ抱きます。犯人が特定できない刑事ヨアン(バスティアン・ブイヨン)の焦りや苦悩が痛いほど伝わってきます。そう、この映画は謎解きや犯人探しのミステリー映画ではなく、ヨアンという刑事の心情に焦点を当てたヒューマン・ドラマなのです。ヨアンだけでなく、被害者であるクララの短い人生にも焦点が当てられます。


ミステリー映画というと、一般的には推理小説のような謎解きを楽しむ作品というイメージが強いです。特にアメリカでは、ブログ「オリエント急行殺人事件」で紹介した映画のように、ハリウッドでアガサ・クリスティ原作の映画化が何度も繰り返されています。つまり、迷宮事件の謎を解く面白さといったものが主流なのです。では、「12日の殺人」のようなフレンチ・ミステリー映画の魅力とは何か。アメリカ映画とはかなり異なるものなのか。「MOVIE WALKER」において、パリ在住のジャーナリスト・佐藤久理子氏は「個人的な見解を言わせてもらうなら、フランス映画の場合はもっとドラマに寄ったものが多いという印象だ。事件が解決する醍醐味、あるいはアクションやヴァイオレンスの激しさで見せるというより、人間の暗く重い側面をじっくりと見つめるシリアスな作品が目につく」と述べています。


フレンチ・ミステリーといえば、ブログ「落下の解剖学」で紹介した2023年のフランス映画が思い浮かびます。第76回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞し、第96回アカデミー賞では脚本賞に輝きました。夫が不審な転落死を遂げ、彼を殺害した容疑で法廷に立たされた妻の言葉が、夫婦の秘密やうそを浮かび上がらせます。ベストセラー作家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は、夫と視覚障害のある11歳の息子(ミロ・マシャド・グラネール)と人里離れた雪山の山荘で過ごしていましたが、あるとき息子の悲鳴を聞きます。血を流して倒れる夫と取り乱す息子を発見したサンドラは救助を要請しますが、夫は死亡。ところが唯一現場にいたことや、前日に夫と喧嘩をしていたことなどから、サンドラは夫殺害の容疑で法廷に立たされることとなり、証人として息子が召喚されるのでした。



また、佐藤氏も指摘していますが、わたしは「12日の殺人」から、デヴィッド・リンチが監督した大ヒットTVシリーズツイン・ピークスを連想しました。劇場版は、アメリカ・フランス合作映画ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間」として、1992年に公開されました。ワシントン州の北西部に位置するディア・メドウという田舎町にて、殺人事件が発生。町内のウィンド川において、テレサ・バンクス(パメラ・ギドリー)という17歳の少女が、他殺体となって発見されます。バンクス殺害事件は未解決に終わってしまいます。捜査の中途にあって、担当の特別捜査官が突然の失踪を遂げたのです。その捜索にあたったデイル・クーパー特別捜査官(カイル・マクラクラン)は、鋭敏なる直感によって事件の再発を予言するのでした。1年後、ディア・メドウの北東に隣接する田舎町のツイン・ピークスにて、17歳のローラ・パーマー(シェリル・リー)が何者かに殺されます。


ローラ・パーマーの輝くばかりの美貌は、亡きテレサ・バンクスを髣髴とさせますが、その内面は荒廃するばかりでした。ローラの高校生活は平凡極まるものでしたが、その実態はコカインに依存しながら複数の異性と関係する自堕落の日々だったのです。「12日の殺人」を観ていると、クララとローラ・パーマー、ヨアンとデイル・クーパーの面影が重なってくる気がしました。クララも異性関係は奔放な娘だったようですが、親友の少女が「彼女をただの男好きみたいに思わないで。優しくて、いい子だったのよ!」と叫ぶシーンがありました。また、傷心のクララの両親が愛する娘の墓参りをするシーンには胸を打たれました。考えてみれば、殺人事件には必ず被害者がいて、必ず遺族がいて、そこには常にグリーフが生まれます。そう、「12日の殺人」という映画は、単なる謎解きや犯人探しのエンターテインメントとしてでなく、グリーフの発生源として殺人事件をとらえた悲しみの物語なのです。

 

2024年3月28日  一条真也

金沢から東京へ

一条真也です。
3月27日の朝、金沢に定宿で目覚めました。今朝の金沢は気温3度で、とても寒かったです。早めの朝食を取って、2時間ほど書き物をした後、わたしは、JR金沢駅へと向かいました。昨日までは雨でしたが、今日は素晴らしい晴天で陽射しが眩しいため、サングラスをかけました。

JR金沢駅の前で

JR金沢駅の改札口で


JR金沢駅のホームで

北陸新幹線かがやき508号で東京へ

金沢駅からは10時05分発の北陸新幹線かがやき508号に乗って、東京に向かいます。この日、東京へ行くのは、副理事長を務める一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の会議に出席するためです。会議後は、「出版寅さん」こと内海準二さんに会って、次回作『ロマンティック・デス』『リメンバー・フェス』のR&Rブックス(オリーブの木)の打ち合わせ、映画君の忘れ方の原案である拙著愛する人を亡くした人へ(現代書林)の文庫化の打ち合わせなどをする予定です。現在、東京のホテル宿題が信じられないほど高騰しているのですが、この日は銀座の小さなホテルに泊まることにしました。

北陸新幹線かがやき508号車内で


車内ではマスクを着けました

グランクラスの軽食(洋食)が出されました


軽食(洋食)の中身

 

かがやき508号のグランクラスに乗車しましたが、北陸応援割の効果もあってか、車内は賑わっており、ほぼ満席でした。それで、マスクを着用しました。また車内では、グランクラス用の軽食が提供されました。ランチには時間が早いし、朝はホテルでしっかり朝食を取っていたのであまりお腹は空いていませんでしたが、せっかくなので頂戴しました。乗り物で食べる食事は美味しいですね。

車内では読書をしました

 

機内では、いつものように読書しました。この日は『編集者の読書論』駒井稔著(光文社新書)を読みました。週刊誌、翻訳書の編集に従事し、その後「光文社古典新訳文庫」を創刊した駒井稔がエッセイ風に綴る、読者と同じ立ち位置でもある編集者ならではの、気取らぬ読書論です。話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作家、歴史的人物、古典、短編作品、自伝、児童書などへと縦横無尽に広がります。魅力的な本にどのように出会うのか。挫折した長編作家の作品にはどのようにアプローチしたらよいか。執筆や出版の舞台裏が描かれた、知る人ぞ知る一作は? なぜか紹介されるどの本も全て読みたくなる不思議な語り口。気楽に読んで楽しめ、古今東西の未読の本の存在にわくわくさせられる、「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」です。大変楽しく読みました。

車窓より


車窓より


車窓より

車窓より

 

はくたか568号ですが、途中の長野駅から多くの人が乗ってきて、グランクラスも満席になりました。すべて欧米の乗客でしたね。金沢のホテルでは、イタリア人やスペイン人が多かったです。ときどき車窓から景色を眺めましたが、空をくねくねと生き物のように泳いでいるような雲を発見しました。ブログ「龍を見ました!」で紹介したように、わたしは昨年10月24日の早朝に別府湾で見事な龍のような雲を見ましたが、自然界には多くの龍が存在しているのかもしれませんね。

JR東京駅に到着しました

JR東京駅のホームで

 

12時36分に東京駅に着きました。東京の気温は15度でした。いきなり半袖の外人とかいましたね。東京駅はものすごい人の数です。わたしは、八重洲中央口のタクシー乗り場に向かいましたが、50人ぐらい人が並んでいました。ほとんどが白人でした。「早く、円安終われ!」と心の中でつぶやきながら並びました。


JR東京駅の八重洲中央口の前で


タクシーはすごい行列でした!

 

約15分後、ようやくタクシーに乗り込みましたが、運転手さんが「すみません、まだ2週間しか経験なくて、道を知りませんので、よろしく!」と言うではありませんか。ギョッとしましたが、カーナビに住所を入れて、無事に銀座のホテルへ行き着きました。そこからは新橋に向かって財団の会議に参加します。その後、「天下布礼」の同志である内海さんに久々に会えるのが楽しみです!

 

2024年3月27日 一条真也

『孤独こそ最高の老後』

孤独こそ最高の老後 (SB新書)


一条真也です。
『孤独こそ最高の老後』松原惇子著(SB新書)を読みました。著者は1947年、埼玉県生まれ。昭和女子大学卒業後、ニューヨーク市立クイーンズカレッジ大学院にてカウンセリングで修士課程修了。シングル女性の今と老後を応援する団体であるNPO法人SSS(スリーエス)ネットワーク代表理事。シンガーソングライターや映画製作の活動も行い、自らが孤独な老後を充実していることを体現しています。『女が家を買うとき』(文藝春秋)で作家デビュー。一貫して「女性ひとりの生き方」をテーマに執筆、講演活動を行っています。他の著書には、『「ひとりの老後」はこわくない』(海竜社)、『老後ひとりぼっち』(SBクリエイティブ)、『クロワッサン症候群』(文藝春秋)などがあります。


本書の帯

 

本書の帯には「1000人以上の孤独老人の実態からわかった『孤独ってこんなに自由で楽しい!』」として、「適度な緊張感が出て、病気にかかりにくくなった」「お金が自由に使える。家族にあげなくていい」「趣味に没頭できる! 無理に妻と一緒にいないほうがいい」「終活って、ひとりだとこんなにスムーズにできるんだ」とあります。


本書の帯の裏

 

また、帯の裏には「孤独を避けようとするほど不幸になる」として、「老人ホームでは『退屈』と『老人だらけ』というストレスに悩まされる」「養女も後妻も、遺産がほしくて早く死んでほしいと願っている」と書かれています。さらに、「孤独なほうが健康・お金・人間関係・終活の全部がうまくいく」として、「回復に専念でき、無駄な病院通いが減る」「人に頼れない分、適度な緊張感が出て病気にかかりにくくなる」「ひとり分だと、老後資金の予測が簡単になる」「孤独の解消を子どもや孫に求めると、お金だけタカられて終わる」「妻に近づくより、自分ひとりの時間を満喫したほうがお互いに幸せ」「薄い関係の友達が少しいれば十分」「終活なんて実は簡単。『エンディングノート』ならぬ『エンディングファイル』を作ればいいだけ」「信頼できる遺言執行人さえ見つかれば、終活の9割は終了」と書かれています。

 

カバー裏表紙には、「孤独は『敵』ではなく『強力な味方』」として、「老後は孤独だと不安になりますか? 健康や病気、お金、人付き合い、人間関係、生きがい、終活などで。確かに、配偶者や子どもが近くにいれば、安心できるかもしれない。でも、周囲に人がいるからこその不自由さや拘束もある。実は孤独こそが、至福の老後を約束する。著者は70歳を超えた今までずっと独身であると同時に、これまで1000人以上の孤独老人を見てきた上で、そう確信するに至った。そこで本書では、孤独をうまく味方に付け、老後を幸福にする方法を、誰でも実践できるかたちで提言する」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 孤独を避けようとするほど不幸になる
1 孤独を避けようと、老人ホームに行くと・・・
2 規則がない自由な有料老人ホーム。
  一見魅力的なようで実は・・・
3 高級有料老人ホームで見た異様な光景
4 孤独を避けようと、定年後に夫が妻に近づくと・・・
5 孤独を避けようと、養女を迎え入れると・・・
6 孤独に耐えきれず、後妻を迎え入れたら
7 孤独老人になるのを嫌うのは日本人だけ
第2章 孤独なほうが、むしろ老後は幸せになれる
1 わたしも孤独を味方に付けて幸せになった
2 孤独老人と言われようが、
  自分が幸せならそれでいいことだ
3 親も子どももいない。兄弟仲も悪いが、ひとりで幸せ
4 孤独を充実した人生に飼えた男
5 孤独でなければ芸術は生まれない
6 孤独を愛せる人は、どこに住んでも幸せになれる
第3章 孤独なほうが健康対策もうまくいく
1 “老後不安に備える”が、そもそもの間違い
2 孤独だと、病院へのかかわり方も自分で選べる
3 病気のときこそ、ひとりに限る
4 認知症になっても大丈夫。オランダには
  ひとり暮らしの認知症の方がいっぱいいる
5 死にかかわる病気は発見されてからでも遅くない。
  ひとりのよさは、がんと戦わなくていいこと
6 孤独の価値がわからない人が、
  朝からクリニックに並ぶ
第4章 老後資金は、
    自分ひとりが楽しめる小遣いさえあれば十分
1 ひとりだと老後資金の予測ができる
2 賃貸でひとりでも、安心した老後が送れる
3 月に4万円稼げれば、楽しい老後が送れる
4 ひとりだからこそできる、
  スーパーボランティアから学ぶことあり
5 孤独から逃れるためのお金は、自分のためにならない
第5章 人間関係も生きがいも、
    孤独ベースのほうがうまくいく 
1 夫婦いつも一緒より、
  各人が孤独を満喫するほうがいい 
2 これからの心地よい人間関係は
  「男ひとりに、女二人」
3 孤独だと、人付き合いのストレスも激減する
4 気を遣わない身内で孤独を紛らわせようとすると、
  トンデモナイ目に遭うことが・・・
5 ひとりが気になるのなら、
  人間よりも猫を求めるほうが正解
第6章 死に支度こそ、孤独なほうが進めやすい
1 終活は、妻にも子どもにも内緒でこっそりと
2 終活なんて実は簡単。「エンディングノート」ならぬ
  「エンディングファイル」をつくるのがコツ
3 死後のことより、終末期の準備をしよう
4 信頼できる「遺言執行人」さえ見つかれば、
  終活の9割は終了
5 そもそも家族は、あなたの言う通りにはしてくれない
「おわりに」


「はじめに」で、著者は以下のように書いています。
「わたし自身も、70歳を過ぎていてずっと独身だから、孤独老人のひとりだ。これほどの孤独老人を見て、自分でも孤独老人として生きてきた中で、孤独が果たしてそれほど悪いことなのか、困ることなのか、が疑問だったのだ。孤独でもいつも明るく楽しく生きている老人はたくさんいる。しかも、『健康』『お金』『終活』『人間関係』の不安もそれほど抱えていないし、実際に困っていない。一方で家族がいたり、家族や友人といつも一緒にいれば、不安は全部解決するのだろうか?絶対にそんなことはないはずだ。後は孤独が悪いことではなく、むしろ孤独こそ最高の老後にするのに必須であるとまでわたしは確信している」


第1章「孤独を避けようとするほど不幸になる」の1「孤独を避けようと、老人ホームに行くと・・・」では、「老人ホームでは毎晩のように『死にたい!』の大合唱が聞こえる」として、孤独を避けるためにホームに移ってきた老人も多いのでしょうが、確かに物理的な面では孤独は解消されていると指摘。職員はいるし、老人もたくさん住んでいる。でも、精神的には満たされたとは決して言い難いといいます。それなのに、なぜ「死にたい!」という声が絶えないのでしょうか。それは、老人ホームに入れられた老人は、どんなに立派なところを用意されても、家族に捨てられたという思いがあるからでしょう。


「家族に捨てられたという被害妄想を抱く」として、著者は、老人は自分が家族の邪魔になっていることを敏感に察知すると指摘します。家族から「お母さん、いつまで生きるつもりなの?」と面と向かって言われなくても、早く死んでほしいと思われていることくらいはわかるとして、著者は「娘に遠慮がちにつぶやく『死にたい』の言葉の裏には『知らない人の中で、死ぬまで暮らす精神的苦痛から抜け出したい。早くラクになりたい』という思いがあるからではないだろうか」と述べるのでした。



1-4「孤独を避けようと、定年後に夫が妻に近づくと・・・」では、「30年以上もほったらかしにした妻に、いまさら寄り添うほうが勝手過ぎる」として、「男性は一生、会社に勤めていたほうがいい」と皮肉のひとつでも言いたくなるほど、定年夫はどうしようもないと指摘します。著者は、「おそらく、人生のほとんどを会社という組織の中で過ごしてきたため、思考がロボット化してしまい、人間としての生き方を見失ってきたのではと思われる。その点、出世コースから外れたサラリーマンはラッキーだ。現役のときから会社以外の道を考えているので、人間関係も幅広く、退職後もスンナリと違う世界に入ることができる」と述べています。


問題は、退職するその最後の日まで会社中心の生活を続けていて、若い女性社員から花束をもらって去る管理職の人だとして、著者は「気がつくと、子どもは自分の家庭を持ち、父親には見向きもしない。妻は妻で自分の友達と集まって何やら楽しそうにやっている。『あれ?』『俺の居場所は・・・?』『誰がこの家族を養ってきたと思ってるんだ??』すでに、会社という組織の中で威張っていられる自分の居場所はなく、自分の尊厳を満足させてくれる名刺も肩書きもない。昨日までのイキイキした人生、あれは何だったのか。こんな言い方をしたら失礼だが『夢だったのよ』と言ってさしあげたい。しかし、その幻想に気づくサラリーマンは、役職が高くなるほど少なくなる」と述べます。キツイですね!


「定年後の夫婦円満のコツは、妻との距離感を変えないこと」として、著者は、これまでに、そんなに会話がなかった夫婦が、老後になって急に会話のある夫婦になれるはずもないので、会社に代わる自分がイキイキできる場所を探したいと述べ、さらに「定年男性よ、自分の世界を持とう。妻に関心を持つのはやめよう。妻を自由にさせよう。自分の孤独は自分で癒すのが定年男性の務めだ。サラリーマンのときと同じように、朝早く家を出て、夕方家に帰ろう。そして、妻を決して干渉しないことだ。妻にラインなどでメッセージを送りすぎるのも禁物。あなたはもう管理職ではないのだから、人を管理することはできない。ニコニコしていれば、『あの人、最近楽しそうに出かけるけど、何をしているのかしら?』と、ミステリアスなあなたに妻は、関心を持つに違いない」と述べるのでした。


1-5「孤独を避けようと、養女を迎え入れると・・・」では、「早く死んでほしいと願う養女を受け入れるよりも、大切なこととは?」として、ひとり身の高齢者は、お金を持っているふりと、寂しい顔を表に出してはいけないと訴えます。また、こんなときに子どもがいたらと弱気になってもいけません。ひとりで生きてきた人は、孤独なのは当たり前なのですから、人生終盤で血縁を求めたら、これまでの自分の生き方を否定することとなるとして、著者は「養女になる人を悪く言う気はないが、養女は、あなたが死ぬのを指折り数えて待っている。あなたが長く生きたら、どんな目に遭うか知れない。そしてあなたがめでたく死んだ暁には、あなたの高級マンションでセレブ生活を謳歌するに違いない。そこへ、お金の臭いをかぎつけたイケメンが入り込に・・・。さあ、『火曜サスペンス劇場』の始まりだ」と述べるのでした。


1-6「孤独に耐えきれず、後妻を迎え入れたら」では、「孤独に耐えきれない交霊男性は、お金目的の女性にとって絶好のカモ」として、著者の持論が以下のように展開されます。それは、「若いときは、生命力があり人生は上り坂だが、55歳をピークに下り坂に転じる。幸運にも老人になる手前でこの世を去れればいいが、後は衰弱するだけの高齢期から先を生きていくのは、そう簡単なことではないだろう。65歳の身体状況のまま、95歳までいられるならいいが、年々体が弱り、年々判断力が鈍りながら30年も生きるのは、蛇の生殺しに近い。更に、よぼよぼになればなるほど、社会からも家族からも気にされず、見向きもされなくなる。おそらく口にこそ出さないが、孤独で死にたいと思っている老人は多いはずだ」という持論です。


2014年頃にマスコミを騒がせた後妻業の女・筧千佐子被告が起こした青酸化合物による連続殺人事件がありました。あのときに、著者は「後妻業」という仕事に目を付けた女性のしたたかさに驚いたといいます。逮捕された女性はどこにでもいるおばさん風の人でしたから、なおさら驚かされたそうですが、単身高齢男性にやさしい言葉で近づき、「女」をちらつかせながら相手の気を惹き、籍を入れさせる。孤独な男性の心理を突いた頭のいいおばさんの詐欺事件と言わざるを得ないとして、著者は「彼女は相手が死ぬのを待ちきれずに、相手を殺してしまったので大きな事件となったが、一般社会でもこれに近いことが行われている気がする」と述べます。


また、「孤独で寂しい男性と、お金がほしい女性の間で結婚が成立する」として、今の日本では、離婚してしまうと女性は収入が激減しがちで、国からの保証を何も受けられなくなってしまうことが指摘されます。そんな女性を救う受け皿がないのが今の日本です。ひとたび事故や病気になると、生活困窮者になりかねないのです。著者は、「大手企業に勤めている人にはわからないと思うが、レールから外れた人間を無視する社会が存在するのが今の日本だ。そういう女性たちがすべて後妻業詐欺をすると言っているわけではないが、貧困が生み出した現象といえなくはないだろう。どこかの首相が『女性活躍時代』と声高に叫んでいるが、政府がやるべきことは、女性が『活躍』ではなく『自立』できる対策ではないのか。人間がひとりで生きていけない社会は、憲法の『基本的人権』に反するとわたしは思う」と述べます。わたしも、まったく同感です。


著者は、一般の結婚も、見方を変えれば男女間の取引きであるといいます。永久就職とはよく言ったもので、「籍」を入れさせてもらうことで、食いっぱぐれを防ぐという意味で同じだというのです。著者は、「愛は素敵だし、愛を信じたいが、女性にとっての結婚の価値は『愛』ではなく『籍』というのがわたしの見方だ。『籍』ほど、女性にとり魅力的なものはない。そして、『籍』ほど恐ろしいものもない。それが今の日本の戸籍制度だ。一方、狙われる高齢男性のほうだが、こちらはこちらで悲壮感の嵐に襲われている人が多い。もう、歩いている姿を見ているだけで、寂しそう。こういう言い方をしたら失礼だが、日本の男性は、女性に触れることに至福の喜びを感じているように見える。信じられないぐらい、男性はお触りが好きだ。一方、日本の女性はひとりだからといって、再婚どころか男性との触れ合いを求める人は少ない。女性が望むのは男性の経済力だけと言ったら、怒られるだろうか」と述べ、2018年にマスコミを騒がせた「紀州ドンファン変死事件」を取り上げるのでした。


1-7「孤独老人になるのを嫌うのは日本人だけ」では、「『人は孤独なのが当たり前』をわかっているドイツ人は老後も明るい」として、著者には、日本人ほど孤独を恐れる民族はいないように思えてならないことが明かされます。日本人のいいところは書き尽くせないほどあるし、外国に行くと日本の素晴らしい文化を誇りに思うとしながらも、日本人ほど「自分」を持たない人たちはいないと、ヨーロッパに行く度に痛感させられるといいます。それと同時に、日本人ほど孤独を避けようとしている民族はいないのではないかと思うそうです。著者いわく、ドイツ・オランダでは、人間としての「自立」が早いといいます。両国では18歳で、ひとりで生活することで大人にさせられるのです。


このように早い時期から、自分の行先を考え、決断し、自立して社会で生きなければならないので、孤独についても子どもの頃から学び、身に付いているのです。ドイツでは「人は孤独なのが当たり前」という考え方を誰もが持ちます。なぜなら、「自立」と「孤独」はセットだと知っているからです。著者は、「人に委ねて自己決定することなく生きてきた人には、はっきり言わせてもらおう。個人を持たない自立していない日本人は、群れから離れて『ひとり』になることを恐れるが、自分で自己決定して生きてきたドイツ人は、『人間は本来ひとり』という認識なので、孤独をすんなりと受け入れて楽しんで生きているのだ」と述べるのでした。


第2章「孤独なほうが、むしろ老後は幸せになれる」では、1「わたしも孤独を味方に付けて幸せになった」では、「孤独は避けるものではなく、友達にすると頼もしい存在になる」として、著者が自宅とは別に一時的に賃貸マンションを借りようとしたところ、不動産会社から断られたエピソードが披露されます。理由は、60歳過ぎのひとり暮らしだからでした。著者は、頭を後ろから殴られるほどのショックを受けたそうで、「自分は自立しているつもりだったが、社会は認めてくれない。子どもがいないというのは、老いてからこういう目に遭うのか。このまま年を取ったら、どういう扱いを受けるのか。家族のいないわたしは、ひとりぼっちにされるのだ。いや、ひとりぼっちなのだ。60代は、自分の孤独とどう向き合って生きていけばいいのかを探っていた。宗教の必要性も感じ、お寺にも通った」と述べています。


そして、ついに本格的にシニアに突入した70歳を迎えたときに、著者の「孤独への恐怖」は「孤独を愛そう」という気持ちに変わったそうです。ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」でも歌われていますが、孤独を友達にしていくことに気づいたのです。そこに気づいてからの著者は、自分でもびっくりするほど人を求めなくなったとして、「人を求めなくなったら、他人に少しだけだがやさしくなった。誰とも会わずに、ひとりで音楽もかけずに、静かに家にいると心が落ち着く。専門家によると、70代はもっとも体が安定するときらしいが、精神も同じように安定するのだと、体験から思う」と述べるのでした。



2-2「孤独老人と言われようが、自分が幸せならそれでいいことだ」では、「今の高齢者の不安は、孤独に年をとること」として、著者は、長生き大国日本において、今のシニアの不安は、墓や葬式の問題から「孤独に年を取ること」に移っていると述べます。「終活ブーム」に乗り、墓も葬式も決めた。延命治療もしないと決めた。そして次に浮上したのが、孤独な老人になる不安でした。著者は、「持ち家で、年金生活。蓄えもある。老後の経済的不安のない恵まれたシニアでありながら、幸せにほど遠い心で暮らしているのがわかる。でも、孤独な老人は本当に寂しい老人なのだろうか。孤独で幸せな老人もいるはずだ」と述べています。



2-3「親も子どももいない。兄弟仲も悪いが、ひとりで幸せ」では、「『ひとりが寂しい』は、単なる先入観。人を欲さなければ、ひとりは自由で気楽!」として、「ひとりを寂しい」と思うか、「ひとりは自由で素晴らしい」と思うか。わたしたち日本人は、「ひとりは寂しい」とどこかでインプットされ続けてきたため、ひとりの素晴らしさに気づかずに、人生を終えてしまう人が多いと述べます。「ひとりが寂しい」と思う背景には「人を欲する」気持ちがあるからです。人を欲さなければ、ひとりでいても寂しいという気持ちは起こらないとして、著者は「若いときに、やたらと寂しくなったのは、人を欲して人で心を埋めようとしていたからではないか。誰もいないこと、ひとりぼっちなことは、年を重ねるうちに、寂しさではなく解放感に変わる。その感覚は、その年になってみないとわからないことのひとつだろう」と述べるのでした。



2-4「孤独を充実した人生に変えた男」では、「『なるべく家にいないように過ごす』ではなく「好きなことばかりして過ごす」に発想を切り替える」として、著者は、家に帰ると妻がいるのは、夫にとりかなりのストレスだといいます。著者が母親と同居してわかったことのひとつに、「ただいま」と仕事から帰ってきたときに、母という家の主がいつもドカンといるストレスでした。これは、好きとか嫌いとかの感情的な問題ではないとして、著者は「夫婦は、対でいることを求められるので大変だと、はたから見ていて思う。そう感じない人もいるだろうが。特に男性にとり二人で小さな家の中にいるのは忍耐だろう。本当はほっとできるはずの家で、ひとりになれないのは苦痛だ。その原因は、夫婦といえども本来はひとりひとり別々の人間で、一体ではないことによるものだとわたしは理解している」と述べるのでした。


2-5「孤独でなければ芸術は生まれない」では、「孤独こそ、好きなことに没頭できる贅沢な時間」として、誰もが知る偉大な芸術家、ミケランジェロダ・ヴィンチもひとり者だったことが指摘されます。孤独でなければ芸術は生まれませんし、たとえ、どんな小さな芸術、写生をする、詩を書く、書道をする、モノをつくる、楽器を弾くでも、孤独でなくてはできません。もし「孤独だ」を寂しく思うなら、孤独でしかできない芸術に没頭したらどうだろうかと提案します。毎日が日曜日の定年退職男性は、芸術家になれる要素を持っていることになります。まずは時間です。年金生活者には、24時間も自由時間があります。次に資金。少ないかもしれませんが、働かずして入る年金という収入があります。それから健康。視力は落ちていても、自力で動ける体力はまだあります。著者は、「この3点が揃っているのは、今しかない」と訴えるのでした。


第3章「孤独なほうが健康対策もうまくいく」の1「“老後不安に備える”が、そもそもの間違い」では、「老後の不安は、考えるほど増幅していくもの」として、ひとりの人は、老いたからといってビビッてはいけないと訴えます。厳しい言い方かもしれないと断った上で、「ひとりを選んで生きてきた人が誰かに助けてもらおうという根性がそもそも間違っている」と喝破します。一旦不安になると、何をしても不安は消えないものです。例えば、家で倒れたときの対策として、セコムなどの警備保障会社による人の動きを感知するセンサーを設置したとします。普通はこれで安心なはずですが、不安症の人は、そのセンサーが感知しないところで倒れたときのことが心配になるのです。著者は、「その負の想像力のすごさには脱帽する。更に重症になると、病院名、連絡してほしい人の名前、保険証の場所などを書いて部屋に貼っている人もいる」と述べます。


3-2「孤独だと、病院へのかかわり方も自分で選べる」では、「ひとりの人は思った以上に大きな病気にかからない」として、わたしたちは、人口の多い都市部に住んでいるので、ひとりぼっちの状態を孤独に感じるのであり、人のいないところに暮らしている人は、もともと人を求めていないので「ひとりぼっちだから寂しい」という感覚はないのではないかと推測します。著者は、「これはとても不思議なのだが、20年間おひとりさまの団体を運営していて感じることだが、ひとりの人が心配しているほど、ひとりの人は大きな病気にはならない。気を張って生きることで、細胞もがんばってくれているのか。頼る人がいないので、普段から病気について勉強している人が多いせいか。原因は定かではないが。そして最後は、割とあっさり亡くなっている」と述べます。


3-3「病気のときこそ、ひとりに限る」では、「弱っている自分を見せずに済み、回復にも集中できる」として、病気のときこそ、ひとりに限ると主張します。誰もいないに限るというのです。なぜなら、弱っている自分を他人に見せなくて済むからです。著者は、「正直、具合が悪いときは、食事を食べないほうが回復するので、甲斐甲斐しくおかゆを運んでもらうほうが疲れる。たとえ家族といえども、気を遣わないといけないからだ。放っておいてもらえる幸せ。それはひとり暮らしの人にしか味わえない至福の時間である」と述べます。また、「ひとりのよさは、自宅でも病院でも静かに闘病できること。日本人の多くは、ベッドの周りに人がいないと寂しいと思う人が多過ぎるように感じる。この国には、ひとりで孤独を愛してはいけない空気が漂っている。病気のときこそ、ひとりは最高。元気になってから人と会えばいい」とも述べています。


第4章「老後資金は、自分ひとりが楽しめる小遣いさえあれば十分」の2「賃貸でもひとりでも、安心した老後が送れる」では、「持ち家があることで、かえってややこしくなる」として、70代になった今の著者は「ひとりの人に持ち家はいらない」という考え方だそうです。なぜなら、ひとりの人は家という財産を持つ必要があるのか、疑問だからだ。家を財産として考える人は多いし、著者もそのように考えてきたひとりですが、ここまで生きてきて思うのは、ひとりの人は、家は自分だけが生きている間に必要なもので、死んだ後に誰かにあげる必要がないということ。つまり、ひとりの人にとって、家は財産ではないのだといいます。著者は、「むしろ借家住まいのほうが、本当はひとりの人には向いている。賃貸なら、死んだら自分が去るだけで、誰かに面倒な手続きを頼む必要もない。とてもシンプルな住み方なので、ひとり者には向いている」と述べるのでした。

人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社

 

第5章「人間関係も生きがいも、孤独ベースのほうがうまくいく」の3「孤独だと、人付き合いのストレスも激減する」では、「薄い関係の友達が少しいれば、気疲れせず楽しい人生が送れる」として、わたしたち人間の最大のストレスは人間関係であることが指摘されます。これに異論のある人はいないでしょう。また、人間関係が濃いほどストレスも濃くなり、挙句の果て、相手を刺すまでになることもあります。殺傷事件が家族間で多いのは、人間関係が濃過ぎるのが原因だと推測し、著者は「ひとりのよさとは、非常に些細なことかもしれないが、ベッドの上に寝っ転がっていつまでもボーッとする。スマホを置いて夜中の暗闇に飛び出して散歩やドライブをする。誰にも邪魔されず、人に気を遣わずに済む自分だけの静かな時間。これを至福の時間と言わずになんと言おうか。薄い関係の友達ならいつでもできる。軽い付き合いの人が何人かいればそれでよし、と思うことが、孤独を謳歌するコツだ」と述べます。

死ぬまでにやっておきたい50のこと

 

第6章「死に支度こそ、孤独なほうが進めやすい」の1「終活は、妻にも子どもにも内緒でこっそりと」では、「終活をビジネスにしてお金をむしり取ろうとする輩も多い」として、2008年頃から始まった「終活ブーム」は、衰えを知らずに今日まで続いていることが指摘されます。その牽引元になっているのが『週刊現代』(講談社)を筆頭とする週刊誌。見るつもりはなくても目に入ってくる電車の中刷り広告には「遺産相続」「墓」「葬儀」「死ぬ前に準備しておくこと 」などのドキッとする見出しが並びます。また、「終活ブーム」の恩恵を受けているのは、弁護士、司法書士行政書士などの書類を扱う専門家たちです。金持ちで華麗な弁護士はドラマの中だけの話で、現実社会では弁護士が多過ぎて、かなり苦戦を強いられているようですが、「終活ブーム」により息を吹き返すことができたようです。さらに、年々勢力を増しているのが、終活を丸ごと引き受けるNPOなどの団体です。著者は、「言い方は悪いが、お金で解決しようとする、丸投げが好きな日本人の受け皿になっている。現在この分野には、信託銀行や保険会社まで参入し、身元保証をする団体は全国で100社(NPOを含む)はくだらない」と一刀両断にします。

人生の修め方』(日本経済新聞出版社

 

5-5「そもそも家族は、あなたの言う通りにはしてくれない」では、「死後については諦めも必要」として、「葬式はするな、先祖代々の墓に入れるな。海に撒いてくれ」と遺言を残したとしても、実行するのは家族であなたではないので、死んでからのことは「期待はせず、家族にお任せ」ぐらいの軽い気持ちでいたほうがいいとして、著者は「死んだら自分の足で歩いて、自分が決めた墓に行けない。ましてや、船に乗って大海原に行くことなどできようがない。そもそも家族というのは、自分たちの都合のよいようにやるので、自分の死後のことで頭を悩ますのはやめるに限る」と述べるのでした。本書で展開されている著者の主張には違和感をおぼえたり、納得できないこともあったのですが、この最後の「そもそも家族は、あなたの言う通りにはしてくれない」が最も共感できました。ひとり暮らしの高齢者が増えていく中で、本書のような孤独を肯定した老後論、人生論は大いに需要があろうかと思います。

 

 

2024年3月27日  一条真也