Hatena::ブログ(Diary)

一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-07-12

『江副浩正』

江副浩正



一条真也です。
江副浩正』馬場マコト、土屋洋著(日経BP)を読みました。
ブログ『闘う商人 中内㓛』ブログ『堤清二 罪と業』で紹介した本に続く、スター経営者の評伝です。500ページ近いボリュームながら、非常に興味深い内容で、一晩で読破しました。そして、大変感動しました。




著者の馬場マコト氏は、1947年石川県金沢市生まれ。70年、早稲田大学教育学部卒業。日本リクルートセンター、マッキャン・エリクソン、東急エージェンシー制作局長を経て、99年より広告企画会社を主宰。JAAA第4回クリエイティブ・オブ・ザ・イヤー特別賞のほか、日本新聞協会賞、ACC話題賞、ロンドン国際広告賞ほか、国内外広告賞を多数受賞。第6回潮ノンフィクション賞優秀作、第50回小説現代新人賞、受賞。著書は、『戦争と広告』(白水社)、『花森安治の青春』(潮文庫)、『朱の記憶 亀倉雄策伝』(日経BP社)ほか多数。
また土屋洋氏は、1946年大阪府豊中市生まれ。大阪大学文学部卒。70年日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)入社後、採用広告事業、デジタル通信事業、教育研修事業に従事後リクルートスタッフィング監査役、2007年リクルート定年退職。著書は、『採用の実務』『新卒採用の実際』(以上、日本経済新聞社)、『人材採用成功実例集』(アーバンプロデュース)などがあります。

f:id:shins2m:20180622184510j:image
本書の帯



本書の帯には「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という江副浩正が愛した標語とともに、「なぜ彼にだけ見えたのか。なぜ彼にだけできたのか。そして、なぜ彼は裁かれたのか。稀代の起業家。その孤影を蒼穹に追う。」と書かれています。

f:id:shins2m:20180622184545j:image
本書の帯の裏



本書の「目次」は、以下のようになっています。
序章    稀代の起業家
第一章   東京駅東北新幹線ホーム
第二章   浩正少年
第三章   東京大学新聞
第四章    「企業への招待」
第五章   素手でのし上った男
第六章   わが師ドラッカー
第七章   西新橋ビル
第八章   リクルートスカラシップ
第九章   安比高原
第十章    「住宅情報」
第十一章  店頭登録
第十二章  江副二号
第十三章  疑惑報道
第十四章  東京特捜部
第十五章  盟友・亀倉雄策
第十六章  リクルートイズム
第十七章  裁判闘争
第十八章  スペースデザイン
第十九章  ラ・ヴォーチェ
第二十章  終戦
第二十一章 遺産



序章「稀代の起業家」の冒頭には、以下のように書かれています。
「2014年10月、株式会社リクルートホールディングス(以下リクルートと略す)が東証一部上場を果たした。その上場後わずか3年で、売上高は54パーセント増の1兆8399億円(17年3月期)となる。売上高に占める海外比率は4割を超えており、その評価も加わって時価総額は上場時の2.5倍に達する。この勢いで、同社は20年までに人材領域で、30年までには販促領域でも世界のトップ企業をめざすという。こうした急成長ぶりは、低迷が長く続く日本経済のなかでひときわ光彩を放つ。その原動力は国内外での積極果敢な企業活動である」




「日経ビジネス」17年10月16日号で、峰岸真澄社長は、それを支えるのは旺盛な起業家精神であり、この企業文化そのものがリクルートの競争力だと述べました。そして、その企業文化の原型をつくったのは、創業者の江副浩正(1936−2013)であり、いまのリクルートは、江副から2つのものを受け継いできた結果だとして、以下のように語りました。
「1つは企業と個人をマッチングさせるというビジネスモデルそのもの。情報誌というメディアを通じて、科学的にその効果を実証するというプラットフォームを作ったことです。
もう1つは、携わる従業員の力でビジネスモデルを磨き続けられる文化を作ったことです。我々の経営理念にある『個の尊重』に、それが表れていると思います。個人の力によってサービスを生み出し、それを磨き続ける。これこそが醸成されてきたリクルートの企業文化です」

リクルートのDNA―起業家精神とは何か (角川oneテーマ21)

リクルートのDNA―起業家精神とは何か (角川oneテーマ21)



江副との親交が深かった孫正義氏と大前研一氏は以前、江副とリクルートをこのように評していました。
ソフトバンク社長である孫氏は、次のように述べています。
「私は現在ヤフーのほかインターネットや通信の事業に力をいれて取り組んでおりますが、江副さんはその面においても先駆者です。江副さんが住宅情報オンラインネットワークのサイトを立ち上げられたのは、いまから二十年以上も前で、日本で初めてのインターネットサービスでした。また、リクルートは日本の第二種通信事業者の第一号事業者となって、通信インフラの事業にも積極果敢に進出されました。ソフトバンクが通信事業に進出するずっと以前のことです。日本のベンチャー起業家のトップランナーとして、将来を見据えた新しい事業、これまで人のやっていないことに強い関心を抱き事業化されていく江副さんの経営姿勢に、私のみならず多くの日本の起業家が畏敬の念を抱き、また目標として励みにしてまいりました」



また、評論家の大前研一氏は、次のように述べています。
「リクルートは例の事件で企業イメージがずいぶん傷ついたが、いまでは日本で最も注目される人材育成所となっています。つまり、若い人々は競ってリクルートに就職し、そこで大いにもまれて三十代半ばで他に出て活躍したいと願っているのです。(略)今の時代に合った感覚と起業家精神を持った人材がこのリクルート社から輩出しているのです。(略)日本で最もダイナミックな人材を育てているリクルートの人事システムは偶然ではなく、企業の『染色体』とも呼んで良いほど創業の時以来の思想、理念などがここに色濃く反映していることが分かりました。若い社員にインタビューすると、江副さんのことを悪く言う人はいませんでした。なぜなら、創業の精神は今の会社にも生き続け、そして、今や若者が最も入りたいと思う将来性豊かな、かつ大企業病にならないその社風、体質が全て江副さん以来の伝統である、とはっきり思っているからです」



孫氏と大前氏の他にも、江副浩正を偉大な先駆者、経営者として仰ぎ、私淑する経済人は多いです。本書では、「江副浩正を信奉する人、薫陶を受けた人」として、澤田秀雄堀江貴文、藤田晋、井上高志、宇野康秀、江幡哲也、小笹芳央、鎌田和彦、坂本健、島田亨、島田雅文、杉本哲哉、須藤憲司、経沢香保子、廣岡哲也藤原和博、船津康次、町田公志、村井満、安川秀俊、渡瀬ひろみといった人々の名前が紹介されています。

リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)

リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)



江副浩正について、本書には以下のように書かれています。
江副浩正の名は、一般にはリクルート事件と併せて語られることが多い。昭和のバブル期に起こった政界、財界を巻き込んだ疑獄事件である。江副が自身の経営する不動産会社リクルートコスモスの店頭登録に際して未公開株を政界、官界、経済界の有力者に譲渡した。このことの違法性が問われ、江副ほか関係者が贈収賄罪で起訴され、有罪となった。カネがらみ、権力がらみの事件は大衆の興味をそそり、報道は過熱した。そのあおりを受け、当時の竹下内閣が倒れるという事態にまで至ったのである。その結果、江副浩正の名は、ロッキード事件にも比肩する一大事件の主人公として昭和史に、そして人々の記憶に刻まれることになった。この鮮烈な記憶が、起業家としての江副浩正の実像を覆い隠しているのかもしれない。いまだに、強烈な逆光によって江副浩正の正体はくらまされ、『東大が生んだ戦後最大の起業家』『民間のあばれ馬』とたたえられた江副のすごみを本当に理解する者は数少ない。
リクルート事件から30年、ようやく事件は風化し始めたのかもしれない。そして同時に、江副が打ち立てた『情報産業』という言葉も革新的なビジネスモデルも、いまやすっかり『当たり前』のものになった」




江副浩正は生涯を通して起業家だった」として、本書では以下のように書かれています。
「60年、江副は東大卒業と同時に大学新聞広告社(いまのリクルートホールディングスの前身)を興す。その2年後にはわが国最初の情報誌となる『企業への招待』を創刊した。採用広告だけでつくられたこの就職情報誌は、多くの学生と企業の支持を得て採用・就職活動のスタンダード・メディアとなっていった。続けて江副は、中途採用者向けに『週刊就職情報』(75年)、女性向けに『とらばーゆ』(80年)を刊行した。従来の新聞広告中心の中途採用市場に就職情報誌を持ち込むことで、転職希望者に利便性と採用市場の活性化をもたらすことに成功したのである。その後は進学、住宅、旅行、車、結婚など、様々な分野でわが国最初の情報誌を刊行、そのいずれをも成功させ、それぞれの業界の流通革新をリードした」



続けて、本書には次のように書かれています。
「80年代の初めには、高速通信回線とコンピュータの融合する時代の到来を確信、紙の情報誌はいずれネット媒体に取って代わられることを鋭く予見した。日本でインターネット利用が本格化する20年前の話である。リクルートが情報産業へ飛躍する布石として、通信回線事業の自由化をにらみ回線リセールやコンピュータの時間貸しの事業化に乗り出した。この2つの事業には2000億円を投じたが、やがて行き詰まって撤退する。負けっぷりも豪快であった。こうして江副は、情報誌事業を中核に据え、テスト・教育、不動産、リゾート、通信・コンピュータ事業と、独自性のある新規事業を次々に興し、その多くをわが国におけるトップクラスの事業に育て上げていったのである」




さらに、本書には次のように書かれています。
「88年、リクルート事件で江副は会長職を退任する。その3年後にはリクルート株を売却、完全にリクルートを離れた。昭和の最後の日まで戦後の日本を駆け抜けた起業家は、静かに表舞台を降りた。それ以来、裁判報道を例外として、江副の名前はマスコミから消えた。13年2月8日76歳で亡くなるその日まで、江副が何を考えどう生きたのか、それを知る人はほとんどいない。実は、彼はその死の日まで、事業での再びの成功を願い、もがいていた。新たな目標を定め、組織をつくり、果敢に挑んでいたのである。起業家の血はたぎり続けていたのだ。160センチ、45キロの小柄な体のどこにそのエネルギーが隠されていたのだろうか。その、江副浩正の実像を明らかにすることが本書の目的である。彼だけが見ていた世界、めざしたもの、そこに挑む彼の思考と行動。その中に、私たちを鼓舞し、思考と行動に駆り立てる何かがあるに違いないと信じるからである」



リクルート事件に象徴されているように、江副浩正に人生は「株」に大きく左右された人生でした。日本リクルートセンターを起業してしばらく経過した頃、彼は金策に困ったことがありました。そのとき江副の父親から「いざというときは、これを証券会社に持って行って金に換えるように」と書かれた手紙と一緒に、三井鉱山(現、三井コークス工業)の証券が送られてきました。これが江副と「株」との運命の出合いだったのです。本書には、以下のように書かれています。
「証券会社に就職した同窓生が江副のために仕掛けたのは、株売買で損失を出させてしまった客の損失補てんや、思惑株の誘導のために、当時の証券会社が行う、日常茶飯事的な内部操作だったが、江副は、たちまちのうちに株の魅力にとりつかれた。
『ギャンブラー江副浩正』そんな資質が自らのなかにあるとは、父から株券を渡されるまで気づかぬことだった。初手の快感が忘れられない江副は、ずぶずぶと株の深みにはまった」



しかし、金策に走り回り、アルバイトの給料に充てよう、なんとか印刷代を賄おうとしている間はかわいいものでした。注ぎのように書かれています。
「やがてリクルートの採用事業が軌道に乗るに従い、江副のもとには好景気企業情報がいくらでも入ってくるようになる。なぜなら景気がよく、事業を拡大しようとする企業や、新たな事業を興そうとする企業は、前年度から大量の新卒者を採るからだ。採用情報をもとに、江副は個人としても卓越したプロの投資家に育っていった。しかも後年には、膨大な資産を背景に『信用取引』が肥大化していった。そして、江副の株式投資はますます過熱する。ついにはハイリスク・ハイリターンを狙うギャンブラーと化し、兜町では仕手師の1人とみられるようになった。江副の資金を『江副ダラー』、そして仕掛けるそれは『江副株』とひそかに呼ばれた。しかも江副がのめりこんだのは、『売り』『買い』の仕手戦にあって、さすが兜町の強者でも危険すぎてほとんど手を出さない『売り』から入る極めて特殊な手法だった。それもやっかいなことに、破たん願望を秘めていた。事業で成功すればするほど、己自身は膨大な負債の蟻地獄に身を沈めた。江副は死の日まで、そこから抜け出すことはなかった」

新訳 現代の経営〈上〉 (ドラッカー選書)

新訳 現代の経営〈上〉 (ドラッカー選書)



本書で最も感銘を受けたのは、第六章「わが師ドラッカー」でした。
江副は経営学の泰斗であるピーター・ドラッカーの著作を貪り読みました。本書には、「経営者と働く者の両者にとっての『人間の幸せ』とはなにかを前提に、絶えず理想の社会・組織のあり方を模索し続けたのが在野の人、ドラッカーだった。ダイヤモンド社より『創造する経営者』『現代の経営』とその著書がたて続けに出てソニーの盛田昭夫、立石電機(現・オムロン)の立石一真、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊と、ドラッカーに心酔する経営者が次々に現れる」と書かれています。
ちなみに、わたしの経営の師もドラッカーであり、わたしは、『知の巨人ドラッカーに学ぶ21世紀型企業経営』(ゴマブックス)、『最短で一流のビジネスマンになる! ドラッカー思考』(フォレスト出版)を書きました。

知の巨人ドラッカーに学ぶ21世紀型企業経営

知の巨人ドラッカーに学ぶ21世紀型企業経営

最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考~一流の思考を身につける!47の実践テクニック~

最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考~一流の思考を身につける!47の実践テクニック~



続けて、本書には以下のように書かれています。
「05年96歳でドラッカーが亡くなった後も、数多くの著作が出版され、ユニクロの柳井正など、いまも信奉者を公言する経営者が後を絶たない。そのような日本におけるドラッカー熱のなか、実際の経営にその理念を取り込み、自分の血肉とし、実践したのはほかでもない江副だった」
のちに「財界」85年10月10日号のインタビューで、江副は「若い経営者の方は、よく経営上の師匠を持っておられる。しかし学生のころから現在の仕事を始めた私は、残念ながらその機会に恵まれなかったのである。どうしてもと言われると、いわば書中の師として、アメリカの社会学者のピーター・ドラッカーをあげたい」と語っています。




さらに、江副のドラッカーへの傾倒ぶりが以下のように紹介されています。
「江副は自分の手書きによる『ドラッカー名言集』の小冊子さえ作る熱心さで、それを配りながら社員の横の席に座り込み熱くドラッカーを語った。やがて、『現代の経営』を実践するリクルートの組織は活性化し、それは変革のために流動化した。『朝令暮改』は言うにおよばず『朝令朝改』が当たり前になった。実績と利益を生み出せないPC長は、新たな責任者に代わった。その非は前任者ではなく、得手、不得手を見抜けなかった江副の人物観察眼にあった。真剣勝負に生きる経営者として、自然、江副のなかに瞬時に人を見抜く力が養われる。同時にここで創業以来、すべての社員の個々の人格を尊重し、役職名ではなく『江副さん』『〇〇さん』とお互い『さん』づけで呼んできた長い伝統が役だつ。役職名で呼び合っていれば、降格、左遷の印象を残す。ある部署でPC長を外されても、その社員は新しい部署で得手な仕事を見つけ出して業績を挙げればよい。結果、適材適所化が進み、組織はさらなる利益を生み出した」




第八章「リクルートスカラーシップ」では、江副が発案し、実行した前代未聞の奨学金制度について言及されています。江副はつねづね、「誰もやったことのないことをやる会社にふさわしい、誰もやったことのない奨学金制度にしたいのです」と語っていました。本書には、次のように書かれています。
「江副は返還義務の免除と給付対象者の親の所得制限の廃止を提案した。自らの経験に基づいたものだった。
江副の親は高校教師として貧しく、大学時代には月々2000円の奨学金が大きな救いになった。だが社会人になると、その奨学金の返還を迫られる。つい忙しくて返還を忘れることもあるし、郵便局へ払い込みに出向けないときもある。社員の給料が払えないときは、自分の奨学金の返済どころでなかった。しかし執拗に返還を迫られる。これがたまらなく嫌だった。月々2000円の貸与で『恵む』側は、『恵んでもらう』側の江副に対し大学の4年間、悔しさを植えつけ続けた。それだけでなく、卒業後も高飛車に振る舞い、その優位な立場を押しつけてくる。
『社長と呼ばないで、江副さんと呼んでください』
江副が日ごろから口を酸っぱくして言うのも、社内に上下意識をもちこみたくないからだ。まして慈善事業において、上下意識や屈辱感など感じさせてはならない。だから江副は、返済の不要な奨学金制度を主張した」



江副は、リクルートの奨学生には、国家や社会に「自分は何をもってどう貢献していくか」という意識を早くから持ってもらいたいと考えました。それが就職、進学を業とするリクルートにふさわしい奨学金制度のあり方だと信じたからです。そこで選考基準を論文と面接のみとし、論文の課題を「私は大学で何を学ぶか」としました。審査委員長には元「週刊朝日」の編集長で評論家の扇谷正造を迎えました。本書には以下のように書かれています。
「面接を進めるに当たり、扇谷は井上たち審査委員に向かって言った。
『こちらは試験官として先方は受験生として、ふれ合うのはほんの5分ぐらいだけど、相手の心にとまることを一言は言うように心がけましょうよ』『試験にパスするかしないかは別として、そのとき聞いた一言が優秀な彼らには、いつか心に残るでしょう。そんな言葉をかけられるよう、われわれもがんばりましょう』」



扇谷委員長は、集まった応募論文のレベルの高さに大いに驚き、最初の応募論文を読み終わったとき、軽い気持ちで引き受けたことを悔やんだそうです。赤線を引いた論文を手元に置いて、扇谷は面接に臨みました。本書には次のように書かれています。
「扇谷は、たとえ不合格でも、一人ひとりの受験生にていねいに声をかけていった。そして井上もまた、彼らのなかに若き日の自分を見つけ、懐かしげに声をかけた。5人の審査委員が心打たれて選出した学生は初年度、10名になった。学生1人ひとりには、ほかの奨学機関の水準よりも多額の、毎月1万円が支払われた。合格者の入学先は、東大理一、日本赤十字中央女子短期大学看護科、立正大学文学部地理学科、京都大学農学部、沖縄県立コザ看護学校と多岐にわたった」
わたしは、東大や京大などの超名門大学に並んで、日本赤十字中央女子短期大学看護科や沖縄県立コザ看護学校の名前があるのを見て、非常に感動しました。そして、リクルートスカラーシップにおける江副浩正の「志」を感じました。後に、彼によって大学に通い、社会に出た元奨学生たちはリクルート裁判の最終判決言い渡しの前に、著名人や江副の友人たちに呼びかけて上申書を書いてもらい、江副の人柄を裁判官に訴えました。呼びかけに応えた者は219名にも上りました。この事実を知ったときも、わたしは大いに感動しました。



第十章「住宅情報」では、江副と父親との関係が描かれます。
実の母を捨てて再婚した父親を許せなかった江副でしたが、長じてからは父と和解し、金策に困ったときは父の援助を受けました。
1981年3月、銀座に建てられた「リクルート本社ビル」の竣工式後、父から「浩正が銀座に大きなビルを建てたと新聞で読んだ。お前の建てたビルを見たいし、久しぶりにゆっくり温泉にも一緒に入りたい」との連絡がありました。生涯一教師として大阪の高校の教壇に立ち続けた父も80歳を目前としていましたが、「リクルート本社ビル」を訪れ、江副の社長室の椅子に座り、指で肘掛けの隅をたたきながらも父は満足げだったそうです。



その後、2人は新幹線で小田原に向かい、箱根で湯に浸かりました。
そのときの様子が、本書には次のように書かれています。
「父と温泉に入るなど、何十年ぶりだろう。おそらく、中学時代に野沢温泉で父にスキーを教わった後、一緒に入って以来ではないか。
『就職のとき、わしと同じようにお前が教師になってくれればと願った。それが嫌なら、せめてこれからの時代、電通か大広にでも入ってくれればとも。それが大学新聞の仕事をそのまま続けてやるというので、どうなることかと長いこと気になっていた』
『そうなんですか。一言もそんなこと言ってくれなかったじゃないですか』
『お前のことだ、どうせ言っても聞きはしないだろう。だから黙っていた。しかし、いまの仕事は電通にも負けない仕事だ。よくやったなぁ。電通通りの真横に、それより大きなビルまで建てて』
父に褒められたのは初めてかもしれない。これまでの長い年月、江副が胸中に抱き続けてきたわだかまりが、ようやく氷解していく。新しいビルを建ててつくづくよかったと思う」



箱根から帰り、父の兄弟、知人を集めて会食をしました。
江副は父の体調を心配しましたが、食事は思いのほか進みました。翌朝起きると上機嫌で、父は「久しぶりに朝湯をつかわせてもらおうか」と言いました。ずいぶん長湯をして、出かける江副を玄関まで送ってもくれました。そして、「ああ、さっぱりした。こんなにうまい酒と食事は久しぶりだった。行っておいで」と言いました。本書には次のように書かれています。
「江副が出かけた後、父は突然睡魔に襲われ眠り込むと、そのまま息を引き取った。疎開先の佐賀から焼け野原の大阪に帰って以来、ほとんど心を通わせることなく過ごした親子だったが、父の最後の数日をともにできたことに江副は感謝した。幾つになっても父は父だったので、葉隠の精神を説く父が生きている間、江副は自らの思いを封印し生きてきた。
やっと父の束縛が解け、江副は変容していった。投機性の高い株式投資の世界に傾斜していった。同時に、江副のなかから、少しずつ謙虚さが薄れていくのを、旧知の人たちは見過ごさなかった」



今でこそ、リクルートといえば、知らない者はいません。
日本を代表する「情報産業の雄」になったわけですが、かつては新興企業として苦渋を舐めた時期がありました。本書の共著者の1人である土屋洋氏はリクルート創業10年入社でしたが、2年目に結婚式をあげました。そのときの披露宴で、仲人の大学教授が新郎を紹介する際に、「新郎は、名前も聞いたこともない、わけのわからない会社に就職しまして、いや私は反対したのですが」と述べたそうです。それを聞いた江副は「あれはね、本当に悔しかった。何としてもリクルートを世間から認められる会社にしてやる、もう社員に肩身の狭い思いをさせないぞと、その日、僕は誓ったんだ」と語ったそうです。マネジャー会議など、ことあるごとに江副は、その土屋の披露宴の話に触れ続けました。そして、「あの結婚式以来、僕もみんなもがむしゃらに働いてリクルートは大きくなった。あの悔しさが、道を切り開いてくれたと言ってもいいかもしれないね」と語ったといいます。



新興企業として軽んじられる屈辱は、江副を苛立たせました。
江副は、敬愛する2人の起業家、京セラの稲盛和夫とソニーの盛田昭夫が組む「第二電電」への参加をめざしました。足繁く「第二電電」の設立準備会に通い、いち早く参加を申し入れました。
その結果が、本書には以下のように書かれています。
「次年度からスタートする第二電電の構成企業を決める、最終判断のときがきた。候補企業、一社一社の検討に入った。リクルート参加の是非が問われた。票が分かれた。議長である稲盛和夫にその判断が任された。
『リクルートはまだ早いのではないか』
稲盛の一言で、リクルートの『第二電電』参加は不可能になった。稲盛が、『第二電電』の出資構成会社25社に、新興企業から選んだのは、飯田亮率いるセコムだった」



わたしが想像するに、稲盛氏は実業家としての江副の生き方に何か違和感というか、危うさを感じていたのではないかと思います。
後に、「新興企業として馬鹿にされたくない」という強烈なコンプレックスが、最悪の形で出ました。リクルート・コスモスの株式上場の際、主幹事会社であった野村證券の審査に時間がかかったので、江副は「野村に馬鹿にされた」と思い込み、主幹事会社を大和証券に変更したのです。しかし、それこそがリクルート事件の最大の原因であったことを、江副は後年知ることになります。当時、野村證券の事業リクルート法人部でリクルート担当だった廣田光次から、野村はけっして主幹事会社を断っていなかったという衝撃の事実を江副は聞かされます。
廣田の話を聞きながら、江副は頭を細かく振り続け、「もう一度聞きますよ。野村に、断られた、の、で、は、ないと」と、か細い声で尋ねました。すると、廣田は「もちろんですとも。それが証拠に、リクルート事件の真っ最中の秋に、役員の鈴木と私が、偶然、同時に大阪転勤になりました。秋の定期人事だったのですが、社内ではコスモスを落とした左遷人事だともっぱら噂されて弱ったものです。入院をなさっていたのでごあいさつもままならず、大阪に赴任し失礼してしまいましたが」と語ったのです。



そのときの様子を、本書では次のように書いています。
「立っていられないくらいに憔悴した江副の口から、とぎれとぎれに言葉が漏れる。『もし、もしだよ、もし、野村に、主幹事の、会社を、その主幹事を、お願いしていたら、廣田さん。どうなっていました?』
廣田は江副を支えるようにして、手を取ると、きつく握りしめながら勢い込んでしゃべった。『私がコスモスさんを担当していれば、どんなに江副さんがお望みになっても、政治家、官僚への株式譲渡は必ず止めていました。確かにあの当時、世間では未公開株の譲渡は誰もがやっていたことかもしれません。ただ私ども野村證券では、政治家、官僚への譲渡は、どなたがお客様であろうとも認めてまいりませんでした。私は体を張っても止めていたはずです』初めて告白する廣田の目に涙があった」



時間を戻すと、稲盛和夫によって与えられた屈辱をバネに、江副は財界でも「うるさ型」とされる年長者の心を次々にわしづかみにし、押しも押されぬ若手ナンバーワン経営者として躍り出ました。しかし、不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内ではひそかに「江副二号」という言葉が言い交わされ始めていたそうです。本書には、以下のように書かれています。
「敬愛の念を込めて『江副さん』と言っていた社員たちが、絶対君主のようにふるまう江副にとまどい、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。『住宅情報』を開発したころの江副が『江副一号』だとすると、いまの江副は『江副二号』だというわけだ」



また、「『江副一号』が徐々に『江副二号』に変容していった契機は、父、良之の死にあったといえるだろう。かつて『リクルートのマネジャーに贈る十章』の最後に書いた言葉は、父にたたき込まれた『謙虚であれ、己を殺して公につくせ』という葉隠精神からきていたといっていい」とも書かれています。次々と新規事業を開設していった「江副一号」。それとは対照的に、「江副二号」は何1つ新しい事業を開発し、軌道に乗せられずに、リクルート王国の国王として君臨しました。
その変容を見逃さなかった人物が2人いました。評論家の扇谷正造と、NEC社長の関本忠弘でした。詳しい内容は本書をお読みいただきたいと思いますが、彼らに対して江副は大変な「非礼」を働きました。当然ながら2人は憤慨したわけですが、結局、江副浩正という人には生涯を通じて「礼」の精神が欠けていたように思います。リクルート社内で社長も平社員も「さん」づけで呼ばせることも、一見自由な社風のようにも思えますが、組織内における「礼」が失われていったように思えてなりません。



第十六章「リクルートイズム」では、晩年の江副の想いとその死後が以下のように書かれています。
「自分の経営は間違っていなかった。再び生まれて何をなすと、問われるならば、今度はもっとリクルートをうまく経営すると答えよう。自分が興した企業、風土、文化を、次代に向けて、さらに進化した姿に変えるのだ。
しかし、江副はリクルートの上場を見ることなく、13年2月8日、こつぜんと逝く。その1年半後の14年10月16日、リクルートは東証一部に上場した。その出来高は時価総額1兆9千億円を記録し世間の耳目を集めた。
江副が冒した重大な過誤を後継者たちは自らの手で解決し、新しい成長軌道を駆け上がった。その象徴すべき出来事が、この日の東証一部上場だった。江副から渡されたバトンを次世代経営者、いや全社員がつないで30年。そのリクルートイズムをより進化させ、昇華する戦いの結果だった」



 
第二十章「終戦」では、江副の死後が以下のように描かれます。
「13年3月16日、品川プリンスホテルで『江副浩正さんお別れの会』が1100名の参列者を集め催された。まず『江副浩正さんとリクルートの軌跡』という映像が、かつてリクルートの企業CMで使われたことのあるイーグルスの『デスペラード=ならず者』をBGMに放映される。たしかに江副は、戦前から延々と継承され戦後も堅強に守り抜かれた日本財界にとって、素手でのし上ってくるならず者だった。起業家江副のその『荒ぶる情熱』は恐れられ、拒否もされた。しかし、いつの時代も起業家というならず者は、世の中にとってうさんくさく、何かと弾かれやすい存在なのだ。
『若者よ、恐れず立ち上がれ、飛翔せよ。そして江副浩正に続け』
そう語りかけるように、江副が愛した安比高原の前森山をかたどった花の祭壇の頭上には、遺影を追うように何百羽というかもめが翔ぶ。ならず者が興した組織は、52年で108のグループ会社、総従業員数2万3000人に育つ。そのうち20カ国を超える海外の従業員数は2500人にもなる」



第二十一章「遺産」では、「江副の残した功績」を「情報誌を創り出したこと」、そして「成長する企業の思想と仕組みを創ったこと」の2つに要約しています。この2つの功績は、江副の死後もその意義は滅するどころか、ますます輝きを増しています。
特に後者の経営者が変わっても発展し続ける企業を創ったことは偉業と言えるでしょう。本書には以下のように書かれています。
「偉大な創業者が退いた後も発展を続ける企業は意外に多くない。江副が尊敬してやまなかった中内㓛のダイエー、ライバルと見なしていた堤清二セゾングループは創業者を失った後、間もなく姿を消した。『会社の寿命30年説』に従えば、創業者から次の世代への継承にこそ困難がともなう。
しかし、リクルートは江副を失っても、相次いで襲った2つの経営危機、つまり企業イメージの失墜と巨額負債、を脱し生き残った。ダイエー傘下に入ってもわずか8年で独立を回復し、巨額の有利子負債を完済し、見事に再生を果たした。しかも、この間に情報誌からネットへの転換という事業の構造変革を同時に実現している」



わたしは、リクルートには「孝」が生きていると思いました。
江副浩正は「礼」を知りませんでしたが、リクルートは「孝」を実現したのではないでしょうか。拙著『孔子とドラッカー新装版』(三五館)において、孔子とドラッカーには「知」の重視、「人間尊重」の精神など、共通点がいくつもあるが、わたしが最も注目したのは両者の「死」のとらえ方でした。正確には「不死」のとらえ方と言った方がいいかもしれません。
孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出しました。日本における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行氏によれば、祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)



自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになります。つまり、わたしたちは個体ではなく、1つの生命として、過去も現在も未来も一緒に生きるわけです。
すなわち、人は死ななくなるわけです!
加地氏によれば、「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺した体」であるといいます。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち子なのです。親から子へ、先祖から子孫へ、孝というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのです。孔子はこのことに気づいていました。

企業とは何か

企業とは何か



一方、ドラッカーには『企業とは何か』という初期の名著がありますが、まさにこの「企業」という概念も「生命の連続」に通じます。世界中のエクセレント・カンパニー、ビジョナリー・カンパニー、そしてミッショナリー・カンパニーというものには、いずれも創業者の精神が生きています。エディソンや豊田佐吉やマリオットやデイズニーやウォルマートの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社の中に綿々と生き続けます。
重要なことは、企業とは血液で継承するものではないということです。思想で継承すべきものなのです。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりえます。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継となったとき、その企業も関係者も最も良い状況を迎えられるのでしょう。逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのではないでしょうか。



「孝」も「企業」も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと、わたしは思っています。
ここで孔子とドラッカーはくっきりと一本の糸でつながってくるのですが、陽明学者の安岡正篤もこれに気づいていました。安岡はドラッカーの“The age of discontinuity”という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代であると述べている。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。老、すなわち先輩・長者と、子、すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのです。そこから孝という字ができ上がりました。そうして先輩・長者の一番代表的なものは親ですから、親子の連続・統一を表わすことに主として用いられるようになったのです。



安岡は言います。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人の繁栄はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまいます。革命のようなものでも、その成功と失敗は一にここにかかっています。わが国の明治維新は人類の革命史における大成功例とされています。それはロシアや中国での革命と比較するとよくわかりますが、その明治維新はなぜ成功したのでしょうか。その理由の第一は、先輩・長者と青年・子弟とがあらゆる面で密接に結びついたということです。人間的にも、思想・学問・教養という点においても、堅く結ばれています。徳川三百年の間に、儒教・仏教・神道・国学とさまざまな学問が盛んに行われ、またそれに伴う人物がそれぞれ鍛え合っていたところに、西洋の科学文明、学問、技術が入ってきたために、両者がうまく結びついて、あのような偉大な革命が成立したのです。これこそ孝の真髄であり、すべてのマネジメントに通用するものです。疎隔・断絶ばかりで連続・統一のない会社や組織に、イノベーションの成功などありえません。そして、それを見事に実現した企業こそ、リクルートではないでしょうか。



本書は、以下の文章で終わっています。
「『自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ』
江副が生みだし蒔いた種は広がり、芽を出し、根を張って新たな花を咲かせようとしている。このフレーズに象徴される、江副がリクルートの創業期に確立した思想と経営の仕組みは、リクルート出身者を通して業界を越えて伝播していく。創業期に組織力では勝負ができないリクルートは、個人の力をフルに発揮させることで活路を開こうとした。当時は、リクルート固有の方法と思われた手法が、いまやすべての企業にあてはまる普遍的かつ合理的な経営手法であると認められつつあるのだ」


闘う商人 中内功――ダイエーは何を目指したのか堤清二 罪と業 最後の「告白」江副浩正

かつて、学生時代に、わたしは中内㓛、堤清二江副浩正の3人に憧れを抱きました。現在、ダイエーやセゾンは存在しませんが、リクルートは依然として成長・進化を続けています。1人の企業経営者として、リクルートから学ぶことはあまりにも大きいです。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉を噛みしめ、社会のニーズを発見し、問題解決としての事業を展開させる・・・わが社をそんな企業にしたい。本書を読んで、そんなことを考えました。
ブログ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で紹介したノンフィクションの大傑作が木村政彦の荒ぶる魂を鎮める「鎮魂の書」であったように、本書もまた江副浩正というディスペラートにとっての「鎮魂の書」であると言えるでしょう。最後に、素晴らしい本を世に送り出してくれた、東急エージェンシーの先輩である馬場マコトさんに感謝いたします。

江副浩正

江副浩正



2018年7月12日 一条真也

2018-07-11

『堤清二 罪と業』   

堤清二 罪と業 最後の「告白」


一条真也です。
堤清二 罪と業』児玉博著(文藝春秋)を読みました。
「最後の『告白』」というサブタイトルがついています。セゾングループの総帥であり、作家辻井喬の顔も持った堤清二へのロングインタビューを基に、堤一族の悲劇の物語が描かれています。
著者は1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。月刊「文藝春秋」や「日経ビジネス」などで発表するインサイドレポートに定評があります。主な書著に『“教祖”降臨 楽天・三木谷浩史の真実』、『幻想曲 孫正義とソフトバンクの過去・今・未来』があります。

f:id:shins2m:20180625191639j:image
本書の帯



本書の表紙カバーには堤康次郎、青山操、堤清二、堤邦子の4人が一緒に収まった家族写真が使われ、帯には「堤一族 悲劇の真相」と大書されています。また、「この家族を支配したのは、愛か、狂気か。放埓の限りを尽くした父と暴君と化した異母弟。長兄清二がすべてを語った」「小川洋子(作家)激賞」「2016年 大宅壮一ノンフィクション賞受賞」と書かれています。

f:id:shins2m:20180625191656j:image
本書の帯の裏



帯の裏には「小川洋子 推薦の言葉」として、「他の誰も真似のできない独自の巨大企業グループを築き上げ、芸術文化の歴史に新たな足跡を刻みながら、それらをいともあっさり破滅させてしまう屈折したエネルギー。その根底には、父の愛を確認せずにはいられない息子の、執着があった。愛とは確認するものではなく、瞬間瞬間に感じるものであるはずなのに、息子は生涯を掛け、手遅れの愛を求め続けた。報われないその健気さが、いつしか狂気を帯びてひたひたと迫ってくる」「大正、昭和を代表する血族はなぜ崩壊したのか」と書かれています。



カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「西武王国を築いた堤康次郎は強欲な実業家であると同時に、異常な好色家でもあった。翻弄される五人の妻、内妻と子どもたち。やがて、清二の弟、義明が父に代わり、暴君として家族の前に立ちふさがる―。人生の最晩年に堤清二の口から語られた言葉は、堤家崩壊の歴史であると同時にどうしようもない定めに向き合わねばならなかった堤家の人たちの物語であり、悲しい怨念と執着と愛の物語だった」



さらに、アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「第47回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞作。月刊『文藝春秋』の連載『堤清二の「肉声」』に大幅に加筆したもので、セゾングループの総帥だった堤清二氏が死の一年前、父・康次郎氏そして弟の義明氏との関係をじっくり振り返った一族の物語です。
清二氏が、著者の児玉さんに10時間以上も語った堤家の物語は、愛憎と確執に満ちた肉親相食む世界でした。大宅賞の選評で、選考委員の後藤正治氏は『インタビューを重ね、その足跡をたどるなかで、入り組んだ内面を宿した人物像を浮き彫りにしている。読み物として読み応えがあった』とし、奥野修司氏は、『筆力、構成力ともに群を抜いている』と評価しました。
康次郎氏は西武グループの礎を築いた実業家であると同時に、強引な手法で『ピストル堤』の異名をとり、異常な好色でも知られていました。清二氏ら七人の兄弟姉妹の母親だけで四人、そのうち二人とは入籍をしませんでした。関係を持った女性はお手伝いから看護士まで相手選ばず、清二氏の母・操さんの姉妹とも関係を持ちそれを操さんも承知していたといいます。その異常な環境で、清二氏・義明氏兄弟は静かな“狂気”を身の内に育まざるをえませんでした。フォーブス誌の世界長者番付で世界一位に輝いた義明氏と、セゾン文化で一世を風靡した清二氏は、一転して凋落し、軌を一にするように堤家も衰退の一途を辿ります。西武王国について書かれた本は数多くありますが、清二氏が初めて明かした一族の内幕は、堤家崩壊の歴史であると同時に、悲しい愛と怨念の物語であり、どうしようもない定めに向き合わなければならなかった堤家の人々の壮大な物語です」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
序章
第一章 父との約束
第二章 西武王国崩壊の予兆
第三章 母操と妹邦子 その愛と死
第四章 堤康次郎の遺訓
第五章 堕落した父
第六章 独裁者の「血脈」
第七章 清二と義明 宿命の兄弟
終章




ブログ「堤清二氏の死去」に書いたように、セゾングループ元代表堤清二氏が2013年11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で亡くなりました。86歳でした。29日付の「毎日新聞」朝刊には、故人について以下のように書かれています。
「東京都生まれ。父は西武グループ創業者で衆院議長を務めた康次郎氏。東大経済学部在学中に学生運動に参加し共産党に入党するが、後に除名。康次郎氏の秘書を経て54年に西武百貨店に入社。66年、社長に就任。百貨店以外に、スーパーの西友や『無印良品』ブランドの良品計画、パルコを展開し、バブル期には『インター・コンチネンタル・ホテルズ』を買収。売上高4兆円を超える一大流通グループを築いた。しかし、中核の西武百貨店が経営不振に陥り、91年にセゾングループ代表を辞任。92年には西武百貨店の代表権も返上した。2000年、グループ企業『西洋環境開発』が5538億円の負債を抱えて特別清算したため、経営の一線から身を引いた」

f:id:shins2m:20131129101511j:image
「毎日新聞」2013年11月29日朝刊



堤清二氏は、経営者とは別に「辻井喬」のペンネームで作家・詩人としても活躍されました。「毎日新聞」は以下のように紹介しています。
「61年、屈折した青春の体験を暗喩によって表現した詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。84年、小説『いつもと同じ春』で平林たい子文学賞。グループ代表退任後、旺盛に創作に取り組み、詩集『群青、わが黙示』で高見順賞、『鷲がいて』で読売文学賞、小説『虹の岬』で谷崎潤一郎賞、『父の肖像』で野間文芸賞を受けた。07年から芸術院会員。12年、文化功労者」
素晴らしい業績です。たとえ故人が作家・詩人としてだけの人生であったとしても、輝かしい生涯だったと思います。




本書の序章で、著者は以下のように書いています。
「清二という人間を分かりづらくしていたのが、清二の中に同居する小説家、辻井喬の存在だった。後にインタビューに応じてくれた清二の次男、たか雄(セゾン現代美術館代表理事)はこんな表現をしてみせた。『父は、財界を引退した後は辻井喬として生きていたような気がします。辻井喬として生きられる自分を喜んでいるようでもありました』
事実、清二が1991年(平成3)にセゾングループ代表を降りて以降、辻井喬は充実の日々を迎えた。詩集『群青、わが黙示』(92年・高見順賞受賞)、小説『虹の岬』(94年・谷崎潤一郎賞受賞)、そして辻井喬の到達点とも言うべき『父の肖像』(2004年・野間文芸賞受賞)を上梓。63歳だった90年から最後の出版となる2012年までの約20年で、俗事から解き放たれたかのように小説17冊、詩集11冊、評論・随筆を14冊出版する」



西武グループの礎を築いた実業家で、異常な好色家であった父・康次郎は、正統な後継者として、清二ではなく異母弟の義明を選びました。父が眠る鎌倉霊園への墓参は、義明を頂点とする西武鉄道グループ幹部の儀式となっていました。当然、清二は鎌倉霊園に立ち寄りませんでしたが、晩年は亡父の墓参を繰りかえしています。
第一章「父との約束」で、「なぜ墓参をするようになったのですか」という著者の質問に対して、清二は入れ替えられたコーヒーをすすってから、「そうですね・・・・・・、やはり父とね、父との約束をしていたから・・・・・・」と述べ、さらには「父が亡くなる2ヵ月くらい前ですかね。たまたまですが、(静岡県)熱海の別荘でね、父と約束したんですよ。『なにかあったら僕が義明を助けますから、安心して下さい』って。父は笑って頷いてたな」と語りました。
著者は、「父との約束――。にわかには信じ難い言葉を口にした。清二は父との約束を守るためにその墓前に額ずき、一度は捨てた“堤清二”に戻ることを決意したのだという」と書いています。



東京大学経済学部に在学中、清二は父・康次郎に絶縁状を出したことがあります。そのあたりの事情を、著者は以下のように書いています。
「当時、清二は東大の同級生だった氏家齊一郎(元日本テレビ放送網会長)にオルグされ、渡邉恒雄(読売新聞グループ本社主筆)らとともに共産党の“細胞”として活動していた。康次郎が忌み嫌った“アカ”の活動家だった。堤康次郎は、裸一貫から立身出世したいわば立志伝中の人物である。20歳の時に先祖伝来の土地を担保に入れて上京、早稲田大学の門を叩き、大隈重信に師事した。軽井沢と箱根の不動産開発を機に、西武グループの礎を築いた実業家であり、滋賀県選出の代議士として衆議院議長にまで上りつめた。その一方で、強引な商売の手法から“ビストル堤”の異名をとり、異常ともいえる好色ぶりでも知られた。清二ら7人の兄弟姉妹の母親は4人いて、そのうちの2人とは籍も入れていない。清二にとって、父は野心という言葉を、そのまま体現したかのような人物だった」



その後、清二は衆議院議長となった父と和解し、その秘書官になります。
「康次郎さんの反応はどうだったのですか?」という著者の質問に対し、清二は「ええ、嬉しそうな顔をしましてね・・・・・・、ええ、『そうかやってくれるか』ってね。それは嬉しそうでしたね。その顔を見た時に『少しは親孝行できたかな』と思いました」と答えています。
その言葉を聞いた著者は、「堤清二という生き方と“親孝行”という言葉ほど似つかわしくないものもないように思えた。清二の口から語られる“親孝行”という言葉には、どこか舌にからみつくような違和感が残り続けた」と書いています。また清二は、「月並みですけど、親の恩ってあるんです。親がいなくなって初めて気づくというけど、僕なんかはその典型。こんなに恩を浴びていたんだということを今頃になって気づいているんだから。本当に親不孝で、今更ながらだけど父に詫びたい心境です」とも語っています。この発言は、わたしも意外でした。




亡父が後継者に選んだ弟の義明は2012年(平成24年)に逮捕されました。当時、西武グループが崩壊の危機に瀕しましたが、清二は「創業家の責任」としてグループの再建に名乗りを上げます。そのときの心境について、「長男だからなんですかね・・・・・・、義明君には随分と会ってないからわからないけれど、やはり長男だからなんでしょうね・・・・・・。堤の家の家長ですからね・・・・・・」と語っています。この発言も意外でした。第三章「母操と妹邦子 その愛と死」の冒頭には、以下のように書かれています。
「生みの母を異にする兄弟、清二と義明。康次郎が一代で築き上げた“西武王国”を継承したこの2人ほど世の関心を集め、世上を騒がせてきた兄弟はいないのではないだろうか。
戦後、多くの一族、血族が栄華を極めては、零落し世間から忘れ去られていった。たとえば康次郎の強烈なライバルとして常に並び立てられた五島慶太が興した東急グループの五島家など、いまや一族の動向を伝える声はまったく聞こえてこない。
それがどうだろう。長兄堤清二が亡くなり、義明が長野県軽井沢で逼塞する今も、堤家の動向は一大企業グループである西武グループに一定の影響力を持つ。世間の耳目をこれほど長きにわたって集め続けたファミリーは他に見当たらない」



一代で西武という巨大企業集団を築き上げた堤康次郎は、稀代の政商でした。戦時中は、軍部の情報に乗って商売をしました。熱心な商人でした。
第四章「堤康次郎の遺訓」には、以下のように書かれています。
「康次郎は常に商売の“種”を探しては鼻を利かせ、わずかな匂いでも労を惜しむことなく現場に足を運び、自分の目で確かめた。康次郎にとって休息は怠惰であり、憎むべきものだった。
戦後の話だが、毎朝4時に起床すると、息子らを起こして回っては彼らを引き連れ、敷地内の柔道場に足を運び、子供らに稽古をつけた。なにがあってもこの日課が変わることなく、7時に朝食をすますと、脱兎のごとく出かけた。向かう先はプリンスホテルで、厨房を含めたすみずみまで見て回っては従業員に声をかけ、そして西武鉄道へと足を伸ばし、本社の各フロアを回った。休むことを知らなかった」



康次郎は自著で、自身の成功の要諦を、「自分はもうけなくてもよいから、この世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった」と書いています。そのことを著者が清二に話すと、清二は、「西武グループの社是となった“感謝と奉仕”。我欲を捨て世の中のため、社会のためとする奉仕の心が成功を呼び込んだとしているが・・・・・・、どうでしょうか・・・・・・」と、自問自答するように、うつむき加減に語尾を濁したそうです。そして、「父だけじゃ、康次郎さんだけじゃないと思いますよ。だいたいの事業なりで成功した人なんかは、後からなんとでも言えちゃう。そうですよね。成功した事実があるんだから、間違いではないけれども・・・・・・。大体が、権力者などはそうなんですよ。だからね、権力者の言葉を信じちゃいけない」と言ってから、愉快そうにハッハッハと笑ったとか。



その後で、清二は著者に向かって以下のように語りました。
「それでもやっぱり父がね、命がけで守ろうとしたものを、子供としては守ってやりたいと思うもんなんです。父が命をかけたんですよ。何だかんだと、批判はされました。罵倒もされました。本当に色んなことを言われたけれど、父は命をかけたんですよ。それを息子は守ってやりたいと思うんですよ」
著者は、以下のように書いています。
「清二の青白い情念が吐かせた言葉だった。85歳の清二が父の愛情を確認しようとする様は静かな狂気を感じさせた。
『父に愛されていたのは、私なんです』
情念を湛えた瞳はまっすぐにこちらを見つめたままだった」




第六章「独裁者の『血脈』」は、非常に興味深い内容でした。
清二が、なんと天皇陛下と三島由紀夫についての思い出を語っているのです。元共産党員であった清二ですが、昭和天皇の時代から宮中には何度か足を運んでいました。ところが、平成になって今上天皇と接したときの様子が次のように書かれています。
「『驚きましたね。陛下がね・・・・・・、昭和の時代とはまったく違っていましたね、いやー、変わったんだなと思いました』
何より意外だったのは昭和の御代にはなかった、天皇皇后両陛下が気さくに自らの腰を折る姿だった。
『こうテーブルが5つ6つありましてね。そこに陛下と美智子様がわざわざ足を運ばれて来まして、陛下の方から挨拶をされましてね。これには驚きました。美智子様にも「あの方はお元気でいらっしゃいますか」と声をかけていただいて。これまた驚いたのはかなり進歩的というか、左翼的ですな、そうした方の名前を出されましてね。皇室は本当に変わったなと、思いました。昭和ではまず考えられなかった。色々なところで変化が起きている。それを分からないと本当に時代とズレてしまう。痛烈にそう思いますね、この頃は』」




また清二は、1970年(昭和45)11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島に思いを馳せるように、瞑目して口を開き、「三島さんは今も敬愛している人なのですな。作家としても、劇作家としてもね。本当に色々な思いがあるけれども・・・・・・」と述べました。
そもそも、三島の「楯の会」と清二の因縁は浅からぬものがありました。清二いわく、「楯の会の制服は西武百貨店で拵えたんですよ。良いデザインを探していた三島さんから連絡があり、『フランスのドゴール(大統領)の軍服のデザインが良いから、誰がデザイナーか調べてくれ』と連絡があった」のです。



三島の割腹自決を知った清二は、急いで馬込にある三島の自宅に駆けつけました。そこで、三島の父である平岡梓に会ったそうです。清二は、こう回想しています。
「御尊父がね、座るや、誰に対して言う訳でもなくというか、もちろん僕に対してなんだけれど、小さな声で言うんですよ。『あんたのところであんな制服を作るから倅は死んでしまった』って。これには参ってしまってね、返事のしようもないんだ。だから取り繕うように『済みませんでした』と言ったきり言葉が続かなかった。でも僕は今でも、三島さんへの敬愛の気持ちは変わらないな・・・・・・、何年たっても」
著者は、「宮中や三島由紀夫の話題を持ち出した清二から伝わってきたのは、時代は移り親しい人は去っても、生き延びるために変化を厭うてはならない、その戒めと心のありようだった。事実、それが本能なのか、情念なのか。清二は溢れ出るような創造主であると同時に、その創造物を破壊せねば気が済まない破壊神が同居した人物だった」と書いています。




また著者は、堤清二という実業家の本質について述べます。
「康次郎から場末の街に過ぎなかった池袋にある、ほとんど倒産寸前の西武百貨店を引き継いだ清二は、一代で西武百貨店、西友、パルコなどを中心とするおよそ200社、年商5兆円、従業員は14万人になろうかというセゾングループを築き上げた。しかしそれらに何ら執着することもなく、あっけないほどあっさりと経営を投げ出して、作家辻井喬に戻っていった。残された側近や従業員が呆れ返るほどの放り出し方だった。これも作り上げたものへの興味を失ってしまう清二なればこそなのだろうか。康次郎は、もしかしたらこうした清二の心底に眠る“破壊衝動”に気づいていたのではないだろうか。それゆえに、実質的な長男でありながら西武王国の正統な継承者とは認められなかったのだろうか」




父・康次郎から西武王国の正統な継承者として認められた義明について、清二はどう思っていたのでしょうか。「義明君は凡庸な人なんですが、でもあそこまで無茶苦茶をするとは思ってもなかったですね」と切り出し、清二はさらにこう述べました。
「義明君が凡庸なことは分かってましたが、そのまま維持するくらいはできると思ってた。しまったな、と思う訳です。自分が引き継ぐべきだったのかなあ、と。それを思うと、父に申し訳ないことをしてしまったと思うばかりなんですね。毎日、父に詫びております。父が命がけで作って来たものを、いらないって言った訳ですから・・・・・・、さぞがっかりもしたでしょう・・・・・・」



このように語る清二について、著者は以下のように述べています。
「おそらく清二は自信があり過ぎるのだ。その天才の論理からすれば、自分が身を退いたが故に、西武王国は落日の憂き目を見たという理屈しか成り立たないのだろう。義明のことを凡庸と切り捨てたが、ある意味、天才性を発揮した清二からすれば、義明だけでなく大半の人間が凡庸に見えたはずだ。それを躊躇せずに言ってしまうか、あるいは心に留めおくことができるかどうかで、その人物の評価は自ずと変わってくる。清二はまったく無意識にそれを口にする。言われた者の気持ちを慮るということはない。それは清二の天才性のひとつの発露なのかもしれないが、かつての清二の側近たちが、今なお清二の名を口にする時に見せる怒気を孕んだ表情を思う時、義明とはまったく別の形ではあるが、やはり康次郎から引き継がれた独裁者の気質、血脈を思わない訳にはいかない」



第七章「清二と義明 宿命の兄弟」では、文化人としての清二(辻井喬)に焦点を当て、彼の「僕には人様に自慢できることなんかないんだけれど、学生時代とたいして読書量が変わらないことが自慢の1つかな」という言葉を紹介し、著者は述べます。
「こう話したように80歳を過ぎてからも毎日2時間は書斎に籠った。西武流通グループから西武セゾングループへ、グループ企業が200社になるまで急成長を続けた80年代、帰宅が深夜におよんでも、必ず書斎に向かった。文章を書き、取り寄せた新刊書に目を通し、新聞などを切り抜きした資料をこまめにインデックスに収めた」



清二が1日に一度は足を運び、書籍を購入した書店が、西武池袋の中にあった「リブロ(西武ブックセンター)」でした。著者は紹介します。
「秘書たちは清二に内緒でその書店に出向き、清二が買っていったのと同じ書籍をこっそり買い求め、その膨大な量の書物を分担して読んでは要約を作った。清二の側近はそれを回し合って勉強し、突然の質問に備えた。清二の読書の対象は、政治経済から、思想、哲学、美術、音楽、時として生物学、建築学にまでわたった。秘書たちは毎日こうした作業に追われ、そのせいで徹夜が続く者がいたほどだった」



清二は秘書が数人がかりで必死にやっていたことを、1人で何ごともなかったようにこなしていたといいます。彼は努力の天才でしたが、他人も同じようにできるものと決めてかかっていたようです。だから手を抜いたり、いい加減な仕事をする者を、蛇蝎のごとく嫌いました。著者は「部下の仕事ぶりを容赦なく叱責する姿は、暴君として立ちはだかった康次郎のそれと、まったく変わるところがなかった。セゾングループで行われる会議は、その言葉の意味においての会議ではなかった。なぜならば清二を最終決定者とする会議は、清二の“神託”を聞く場であり、議論を戦わせる場ではなかったからだ」と述べています。



その具体例を、著者は紹介しています。
「たとえば、外国人ビジネスマンを招いての会議でのことだ。通訳を務めた女性は、ある異様な光景に気づいた。日本人幹部の1人が机の下で拳を握りしめ、そこから床に汗が滴り落ちているのである。会議の後、心配になった女性が幹部の体調に問題はないか、別の出席者に確認したところ、答えは簡単だった。清二の勘気に触れぬよう緊張し過ぎたために生じた異変だったのである。他にも、グループでは清二の怒りを恐れるあまり、その執務室にどうしても足を踏み入れることができず、ドアの前でただ立ち尽くす、幹部社員の途方に暮れた姿も特別珍しい光景ではなかった」



終章では、中国でかかったウイルス性の風邪をこじらせて入院し、死の床にあった清二の様子を、著者は以下のように描いています。
「『このままでは死んでも死に切れない』清二は何度も口にしていた。康次郎の作り上げた壮大な遺産、西武グループの行末を見届けずして死ねないという思いだったのだろう。清二は生前、鎌倉霊園の父の隣に眠ることを希望していた。けれども、康次郎の遺骨が移されてしまった今、それが叶うことはなかった。清二の遺骨は鎌倉霊園の、最後まで愛してやまなかった妹、邦子と同じ場所に眠っている」
そして、著者は「康次郎という“業”が堤清二を産み落とし、辻井喬を育てた。堤家の繁栄と己の欲望のために人々の気持ちを踏みにじり一族を支配した、その業の深さが、堤の家を終焉に導くことにもなった」と述べます。



さて、本書にはさまざまな堤家の人々の葬儀について言及されています。
まずは、清二の母であった操の葬儀について。
「操の葬儀は正妻であり、康次郎の実質的な長男である清二の実母の葬儀にしては、地味なものだった。操がバラ園を、その庭を愛した自宅で静かに執り行われた。それは、大々的な葬儀はしないで欲しいという操の遺言にのっとったものだった。操の遺骨は、鎌倉霊園に眠る康次郎の墓石のすぐ傍に収められた。墓石には『堤操』とのみ記された」



操の死のわずか8日後、義明の母である石塚恒子が亡くなりました。
その葬儀の模様が以下のように紹介されています。
「傍目にも痛々しいほど憔悴しきった義明が喪主を務めた恒子の葬儀は、東京プリンスホテルに隣接する増上寺で執り行われた。清二の母、操の葬儀が内輪のそれだったのに対し、恒子の葬儀は盛大だった。
西武王国の正統な継承者の母の葬儀に、8千人を越える会葬者で会場が溢れた。葬儀場の最前列には田中角栄赤坂プリンスホテルに派閥事務所を構える福田赳夫、鈴木善幸の元首相3人が座り、その隣にはニューリーダーと呼ばれていた竹下登安倍晋太郎宮沢喜一が並んだ。途中で駆けつけたのは現役の首相、中曽根康弘だった。あらためて康次郎の残した有形無形の資産の底力を、まざまざと見せつけるような葬儀であった」



そして、清二と義明の父であった堤康次郎の葬儀について。
「康次郎の葬儀は東京・豊島園に設えられた特設会場で執り行われた。盛大な葬儀で巨大な会場に続く道には数百メートルに渡って会葬者が列をなした。会葬に訪れた人の数はおよそ5万人にものぼった。
喪服に身を包んだ堤家の人々が会葬者の前に並んだ。康次郎の遺骨を抱えて先頭に立ったのはわずか29歳の義明だった。それはとどの詰まり義明が正統な後継者であることを内外にはっきりと示す場にもなった。位牌を抱いた操が義明に続いた。天皇からの供物料を掲げた清二の姿は操の後ろだった。清二は父の遺骨を抱くことは許されなかった。その清二の後ろに妹の邦子の姿があった」



ブログ『闘う商人 中内㓛』で紹介した本に続いて、本書を読んだわたしは、深い感慨にとらわれました。わたしは、『孔子とドラッカー新装版』(三五館)の「志」の項で中内㓛氏と堤清二氏の2人について書き、「かつて、ダイエーとセゾンという企業集団があり、それぞれが日本人のライフスタイルをトータルにプロデュースする総合生活産業をめざしていました。ありとあらゆる業種に進出し続け、大きな話題を提供したが、結果はご存知の通りです。両者ともバブルの象徴とされています。しかし、わたしはダイエーとセゾンのすべてが間違っていたとは決して思いません」と述べました。



ダイエーとセゾンについては、ブログ「総合生活産業の夢」に書きました。
「日本の物価を2分の1にする」と宣言して流通革命を推進した中内功氏。常に経済と文化のリンクを意識し、社会の中における美しい企業のあり方を追求した堤清二氏。両氏の心の中には「日本人を豊かにする」という強い想いがあったはずですし、それはやはり「志」と呼ぶべきものではないでしょうか。志なくして、両氏ともあれだけの大事業を短期間に成し遂げることは絶対に不可能であったし、逆にその志が大きくなりすぎた企業集団から乖離したときに凋落ははじまったのではないかと思います。ダイエーとセゾンは確実に日本人の生活を変えました。二人とも日本の経営史に名を残す巨人であることは間違いありません。栄枯盛衰が世の法則ですが、最終的な評価は歴史が下すのです。 



特に、経営と執筆活動を両立しておられた堤清二の存在は、わたしの人生に多大な影響を与えて下さいました。その意味で、堤氏はわたしの恩人であると思っています。学生の頃、最も憧れた経営者は堤氏でしたし、わたしは「経営者でも本を書いていいんだ」ということを知りました。「二束の草鞋」を嫌う日本社会の中で、一時の堤氏の大活躍は歴史に残るものであると確信します。そして、堤氏の執筆活動を中心にした文化人としての感性が現実の経営の分野にフィードバックしていたことは間違いありません。
まさに、堤清二氏こそは「文化」と「経済」をつなげた方でした。
最後に、あれだけ多くの経済人や文化人と交流があり、あれだけ多くの社員を抱える企業グループのトップだった方の葬儀が近親者で営まれたことを知って、わたしは非常に複雑な思いを抱きました。創業者はもちろん、先人の功績に対して「礼」を示さない企業や集団に未来はありません。

堤清二 罪と業 最後の「告白」

堤清二 罪と業 最後の「告白」



2018年7月11日 一条真也

2018-07-10

『闘う商人 中内㓛』  

闘う商人 中内功――ダイエーは何を目指したのか


一条真也です。
『闘う商人 中内㓛』小榑雅章著(岩波書店)を読みました。「ダイエーは何を目指したのか」というサブタイトルがついています。著者は1937年生。60年早稲田大学第一文学部卒。暮しの手帖社に入社。花森安治に師事。84年ダイエーに入社。調査室長、取締役秘書室長、流通科学大常務理事兼事務局長、兵庫エフエムラジオ放送社長、ダイエー消費経済研究所代表取締役会長などを歴任。97年関西大学大学院社会学研究科入学。社会学博士。向社会性研究所主任研究員。

f:id:shins2m:20180527192852j:image
本書の帯



ダイエーカラーであるオレンジのカバー表紙にはダイエー創業者である中内㓛の上半身の写真が使われています。帯には「経営とは何か。」と大書され、「価格破壊、流通革命の旗手はどこで、何を間違えたのか。」「花森安治・中内㓛、2人のカリスマに仕えた著者が描く」と書かれています。

f:id:shins2m:20180527192904j:image
本書の帯の裏



またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「日本一の流通業・ダイエーをつくり上げた中内功は、価格破壊、流通革命の旗を掲げて道を切り開き、這い上がってきた。しかし頂点を極めながら、なぜダイエーは崩壊したのか。暮しの手帖編集部から中内の秘書に転じ、花森安治と中内㓛――戦後日本人の暮らしを大きく変えた2人のカリスマ―に仕えた著者が、哀惜を込めこの稀代の経営者の知られざる苦闘を描く」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
プロローグ「辞表」
1 ジャングル、飢餓、闇市
2 日本型スーパーマーケット創業
3 規制との闘い、メーカーとの戦い
4 日本一の小売業
5 臨時教育審議会委員になって
6 気にかかること
7 流通科学大学
8 SKHとドーム球場と宴の後
9 日本型GMSの土台が崩れてゆく
10 諫言・辞表・そしてダイエー崩壊
エピローグ「旅のおわり」
「注釈」「参考文献」「あとがき」




1「ジャングル、飢餓、闇市」では、著者が中内㓛に初めて会ったときのエピソードが綴られています。それは1984年(昭和59年)のことでした。そのとき、中内は花森安治の『一銭五厘の旗』を読んだと語ったそうです。兵隊は赤紙一枚、つまり一銭五厘のハガキ1枚で召集されました。中内は「花森さんも一銭五厘でたいへんな苦労をした。自分も現役入隊だったが、一銭五厘だった。おなじ一兵卒のつらさを味わった。戦争の理不尽さをとことん骨の髄まで知らされた。もう二度と戦争などしてはいかん。一銭五厘などつくってはいかん」と語りました。



中内の戦場での体験は、ダイエー創業の原点となりました。
中内は著者に向かって以下のように内容を話したそうです。
一銭五厘は、みんな庶民だ。ふつうの庶民こそ、大切に扱われるべきなのだ。誰もが、すき焼きを腹いっぱい食べられる生活でなければならない。自分は、フィリピンのジャングルの中で、食うものが全くない毎日を這いずり回って、食えるものは何でも食った。ヒルも草の根も食べた。ゴキブリも食ったがあれは食えない。腹が減ってどうしようもないとき、兵は食い物の話をした。すき焼きと白いどんぶり飯を腹いっぱい食う話をした。話をすると、ちょっとだけ食ったような気になった。
万一、日本に戻れたら、なによりもすき焼きを食べようと思った。そのためには、庶民が一銭五厘の庶民が、将校や特権階級や金持ではない、ふつうの庶民が、おいしい牛肉を、野菜を、たらふく食べられるような世の中にしなければならないのだ。そのためには、少しでも安い牛肉や野菜を庶民に提供しなければならない。自分は、そのためにダイエーをつくった。庶民のためにダイエーをつくった・・・・・・」




1957年(昭和32年)9月23日、京阪電車沿線の千林駅前に「主婦の店ダイエー薬局」が開店しました。著者はこう書いています。
「創業の頃は、映画が全盛の時代で、千林にも『千林松竹』という映画館があった。ここで木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』という映画が上映されることになっていたのを知り、中内さんは、創業開店の宣伝と景気づけに、その招待券を配ったのだ。これが大当たりし、千林店の繁盛につながったというのが伝説になっている。
縁はまだつながっていて、この映画館を1961年(昭和36年)に買収し、ここにダイエー千林2号店をオープンしていて、千林には駅前店と旧映画館の2店があった。その旧映画館店が、ディスカウントストアのトポスに業態変更して、1984年(昭和59年)5月2日、つまり私が入社した翌日にトポスとして再開店したのだった。創業の駅前店は、じつは10年前の1974年に閉店していたので、旧映画館の千林店は、創業の聖地としてダイエーにとっては大切な店舗だった。そこへ中内社長は、私を連れて行き、商店街の人々に会わせてくれたのである」



中内㓛は著者に「商売に素人だった自分が、その商売で成功できたのは、この千林のおかげだ」と語ったそうです。
「お客様の欲しがるものを売れば確実に売れる。お客様が何を欲しがっているかは、お客様が教えてくれる。それを素直に聞くか、聞かないかが肝要だ。千林では、薬や日用品を売っていたが、おばちゃんに『お菓子は売らんのか』と聞かれた。薬も日用品もたまに必要になるが、毎日は必要ない。でもお菓子は毎日食べる。『子供がおるから、安かったら毎日でも買いに来るで』と言われたんや。それで菓子を売りだしたら、売れること売れること。『商売はお客様に聞け』というわけや。
『商売はお客様に聞け』『お客様の欲しいものは売れる』、だから『お客様の欲しいものを売る』。中内㓛の終生の要諦になる。これが商売の基本だ。しっかり憶えろ」



中内㓛にスカウトされて、著者は24年間勤めた暮しの手帖社を1984年(昭和59年)3月31日に辞めました。そして1か月後の5月1日にダイエー本社に入社したのです。当時のようすが以下のように書かれています。
「当時、社長室には、秘書室と調査室があった。秘書室はスケジュール管理やアテンド、来客の接待など日常的なお世話が主だが、調査室は、中内社長のためだけの調査や作業に当たっていた。これを調べろ、これはどういうこっちゃ、これを聞いてこい、翻訳してくれ、手紙を書けという下命に応じる役割だ。社長が知っておいたほうがいいという情報も自主的に作って提出することも重要だ。私は、この調査室に来いということだった。ここには、すでに3人が常駐している。英語の達人や流通のことも熟知している東大出の学者社員、社内の実務経験もある経済学の習得者」



当時の中内㓛は以下のようなことをよく話していました。
「人々の暮らしを支えるのは、生産よりも流通だ。欲しい人のとこへ欲しいものを届ける。その仕組みをよりよくすることこそ、これからの社会に最も重要なのだ、と強く思い定めたのである。お国のためではない、庶民のための流通が必要なのだ。
この思いは、フィリピンのジャングルの中でも感じたことだ。つまり、兵站の重要性だ。(中略)日本軍は戦さとは武士のやるもの、つまり戦うことが目的だ。荷物の運搬など荷物持ちのやることで、武士のやることではない。関ヶ原の戦いも、半日の勝負だった。補給など考えない。大和魂で突撃、断固撃破だ。もし失敗したらどうするなどとは考えない。しかし、実際の戦いは半日では終わらない。持久戦になる。兵站が重要なのだ」



兵站といえば、中内は以下のような話もしたそうです。
「米軍の酒保(軍隊の営内にあるコンビニ)を垣間見たら、アイスクリーム製造機があって、兵隊たちがアイスクリームを食べていた。これは勝てないはずだ。こっちは草の根やヒルやミミズを食ってやっと生きていたというのに、米軍の兵士はアイスクリームだよ。戦前の日本ではアイスクリームなんて、誕生日か何かでなければ食べさせてもらえなかった大ご馳走だ。そのアイスクリームを、遠いフィリピンの山の中まで製造機を運んできて、兵士にサービスしている軍隊に、補給なしの大和魂で勝てるはずがない」



3「規制との闘い、メーカーとの戦い」では、“経営の神様”松下幸之助率いる松下電器と中内㓛率いるダイエーとの死闘が描かれます。松下幸之助といえば、「水道哲学」が有名です。松下は「産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し」という如く、水道の水のように安く庶民に商品を提供するのが、産業人の使命、松下電器の使命であると喝破しました。著者は「幸之助さんの理念はまさに中内さんの信念と通じている。ダイエーの安売りを歓迎すべきではなかったのだろうか」と述べますが、現実は違っていました。1964年10月、松下電器はダイエーに対して出荷停止処分を行なったのです。



なぜ、松下電器はダイエーの安売りを否定したのか。
著者は、以下のように述べています。
「ダイエーにとっては、松下電器の商品は、売場になくてはならない『よい品』である。バイヤーが全国を回って、『ナショナル』銘柄のテレビや洗濯機を売ってくれる現金問屋などの業者を片っ端から当たって、仕入れてきて、売場へ並べ続けた。それを松下電器は、ダイエーの店頭から自社の洗濯機などを購入し、解体して部品のロットナンバーからダイエーに販売した業者を見つけ出し、その業者からは取引できないようにする。ダイエーも負けるものかと商品のロットナンバーを消して、店頭に並べるといった対抗策をとる。これに対して松下電器は肉眼では見えない特殊な光線で判別できるブラックナンバーをつけて売り出した。まさにやられたらやり返す戦いである」



1989年(平成元年)4月27日、松下電器の創業者である松下幸之助が亡くなりました。その葬儀と模様を、こう書いています。
「松下にとってダイエーは不倶戴天の敵だったので、中内さんには葬儀のご案内は来ていない。事前に連絡して、席を用意してもらいますから、というと、『余計なことをするなっ』と怒鳴られた。葬儀開始は11時だということだったが、私たちは10時には御堂筋についていた。車の中から見ると、もうすでに長い行列ができている。それを見て、中内さんは一般参拝者の行列に並ぶと言いはった。私はいくらなんでもと思い、中内さんにすぐ戻りますから、待っていてください、と強く念を押して、大急ぎで葬儀場に行き、無理やり谷井社長をさがし、中内がそこに来ています、席を作ってほしいと頼んだ。谷井社長は、『中内さんが?』まさかという顔をしたが、すぐに指示を出して下さった。急いで、車に戻りかけたら、もうすぐそばまで中内さんが歩いてきていた。間に合った」



続けて、著者は当時の様子をこう書いています。
「葬儀が終わって、中内さんが出てきた途端にマスコミに囲まれた。そのとき、「大先輩に敬意を表します」とでも言えばいいものを、『松下幸之助さんが亡くなって、やっと1つの時代が終わった』というようなことを言った。それがテレビのニュースに出て『中内は宿敵がいなくなって喜んでいる』みたいにとられてしまった。マスコミは大向こう受けする構図でとらえたかったのだから、恰好な談話だと飛びついたのだろう。本人は、素直に当たり前のことを話しただけだ、と言っていたが、周りからは、君がついていながらあんなことを言わせて、お前が悪い、とずいぶん叱られた」
これは、中内㓛氏が非礼であったと思います。いくら天敵のような相手が亡くなったとしても、やはり故人に対しては「礼」を示す必要があります。また、その気がないのなら、葬儀になど行かない方がいいでしょう。生前、松下幸之助は「中内㓛は王道ではなく、覇道の男だ」と言っていたそうですが、そう言われても仕方のない失態でした。



お客様に「よい品をどんどん安く」提供するのがダイエーの使命でしたが、そのうち中内は花森安治がつくった「暮しの手帖」のような賞品の良し悪しを調べる検査機関をダイエーにもつくろうと考えました。著者は述べます。
「1970年(昭和45年)11月16日、大阪中津に、ダイエーの消費経済研究所の付属機関として品質管理センターを設立した。消費経済研究所は、株式会社で資本金10億円(当時の公務員初任給は約3万円。今は約21万円だから約7倍なので、今だったら70億円ぐらいの感じ)。この半分をダイエー、半分を中内さんが出資した。よい商品であるかどうかの検査は、あくまで中立的でなければならない。ダイエーの商品部や企業からの検査への干渉や影響を排除し、中立的検査ができるように、自分が半分出資した、と中内さんから聞いた。
ここはダイエーで取り扱う商品の品質、安全性、性能、耐久性、実用性、などの検査を行なう検査所である。ここには500屐覆里舛烹隠隠娃悪屬泙燃板ァ砲旅さに、商品検査のできる最新の機器を導入、専門の検査ができる技術者を10人配置した。当時としては、日本最大、最新の品質管理センターであった。
中内さんは、『金はかかってもいい。何より大事なのは、ダイエーの信頼だ。ダイエーで買った品は、安心できる、間違いがない、「よい品」だとお客様に思っていただけるために、きちんと検査してほしい』と檄を飛ばした」



著者は、ダイエーの30年史づくりに携わりました。そのとき、中内に「ダイエーの存在価値を表すのは、何が一番だと思いますか」と聞いたそうです。著者としては、松下に勝った時とか、三越を抜いて日本一の小売業になった時とか、1兆円企業になったときとかの答を予想していたそうですが、まったく違っていました。それは「オイルショックだよ」だったのです。著者は「えっ」と思い、「なんでオイルショックなんですか」と質問したそうです。著者は以下のように書いています。
「1971年(昭和46年)8月にニクソンショック(米ドル紙幣と金の兌換を一時停止)というのがあって、物価の値上がりが続いていた。公共料金も生活必需品も値上がりを続けている中で、ダイエーは『物価高騰の中、販売価格を凍結したら』ダイエーの存在価値がはっきりわかってもらえるのではないか、という意見が出た。これは中内さんの発案ではなかった。ダイエーは1972年(昭和47年)に創業15周年を迎えたが、その記念に何をやるか、社内で協議した結果、提案されて上がってきた企画であった。それを中内さんは『やろう』と決断した」



4「日本一の小売業」では、ダイエーの破竹の快進撃が描かれます。
1971年(昭和46年)、ダイエーグループの売り上げは2000億円を突破し、大証二部に株式上場。翌72年3月に東証一部に株式上場し、8月には創業わずか15年で小売業界の王者・三越を抜いて、小売業日本一になりました。さらにその5年後の1980年(昭和55年)2月16日午後1時40分に、小売業初の売上高1兆円を超えました。小売業界初めての偉業でした。著者は述べます。
「1兆円までの道のりは遠く険しかった。だが、これが終点ではない。頂点ではない。未だに流通革命は完成されていないのだ。あい変わらずメーカーからの攻撃は激しい。“価格決定権”を消費者の手に取り戻すまで、どんなに苦しくてもわれわれは闘い続けなければならない。既存の流通経路を破壊して、本当に豊かな生活を生活者に届けられるまでには、まだまだ障害が多い。この障害を1つひとつ取り除いていくことが、ダイエーの仕事なのだ。ダイエーにしかできない仕事なのだ」
創業が1957年、大阪の片隅で始めた30坪のドラッグストアが、それからわずか22年後には売上高1兆円、小売業では日本一の大企業に駆け上がったのです。こんな例は他にはなく、当時は「今太閤」と囃されたほどでした。



中内は1980年の1兆円達成の際、「ダイエーグループの売上げを5年後の1985年には4兆円にする」と宣言しました。
「かねてより、中内さんは売上第一主義である。よくイトーヨーカ堂は売上高利益率が4〜5%あるが、ダイエーはその半分以下だと言われている。これについて私も直接中内さんから聞いている。
『われわれは、利益のために商売をしているのではない。お客様のために働いているのだ。上場して利益を出したらその分配当しなければならん。株主に配当するより、その分安くしてお客様に還元するのが商売の本道だろう。だから、なかなか上場しなかったんだ。また、人口の集中している大都市圏だけ出店していれば、もっと儲かるだろう。しかしそれでは地方の人たちは放っておかれていいのか、そうじゃなかろう、ダイエーは日本国民がみんな豊かに暮らせるように、必死にやってるんだ。ダイエー憲法「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」この運動をやっているからこそ、ダイエーの社員は誰もがみんな、この国の人々のために働いているんだという誇りをもっている。利益のために働いているのではない。余分の利益は、お客様に還元するのだ』
『小売業として物販だけでなく、大衆が必要としている保険や不動産、証券なども、「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」の運動として展開していくのだ。それはダイエーだけが出来ることなのだ』
当然、人々のライフスタイルの変化にも注目し、可処分所得がどのように使われているか、その受け皿をダイエーが用意すべきだという路線を敷いていくことになる」



5「臨時教育審議会委員になって」では、事業家として多忙をきわめる中内が、臨時教育審議会(臨教審)の第一部会の委員に就任したことが紹介されます。中内は熱心に会議にも出席していましたが、彼が主張したのは、大学の9月入学でした。著者は以下のように説明します。
「唐突に中内さんが主張したわけではなく、はじめから臨教審の検討項目に挙げられたことの1つである。中内さんが見て、これからの日本にとって必要で、しかも実行可能なものはどれかを考え、臨教審が決めたから、実現したと胸を張れる項目、それが〈9月入学〉だった。
これは、第一部会の受け持ちのテーマではない。第三部会の初等中等教育と第四部会高等教育の仕事である。しかし臨教審の規則では『委員は随時所属する部会以外の部会に参加できる』し、『議事は委員の合意を得て決する』とあり、何事も総会に諮り決することになっている。だから、第一部会で決めた『個性主義』が総会で『個性の重視』に変えられてしまったのだ」



続けて、「9月入学」について、以下のように述べられています。
「9月入学は、秋季入学ともいわれる制度で、欧米の大学では8割以上が秋入学であり、国際標準といえる。欧米の大学を規範にして設立された日本の大学は、明治時代から大正の中頃までの間は秋期入学を実施していた。しかし、国の会計年度制にあわせるために、春入学に変更になったという。
秋期入学にすると、留学希望者や研究者の受け入れ、欧米の大学、研究者との交流がスムーズになり、大学の国際化につながると言われている。現行の4月入学は、入試が真冬になるため、雪で電車が止まったりして受験に間に合わなくなったり、寒中に受験生が行列して風邪をひいたりして大変だ。なぜ4月でなければだめなのかと聞いたら、『入学式は桜の花びらの下で行なうのが一番だ』という情緒派もいるが、それよりは実利からしたら秋季にすべきだ」



臨教審に熱心に取り組んだ中内は「教育環境の人間化」として、「商業環境を考えろ」「ダイエーの店の環境に問題はないか調べろ」と著者に命令しました。このとき、調査室が問題にしたのがトイレでした。著者は以下のように述べます。
「スーパーマーケットは、基本はセルフサービスである。お客様は、自分が欲しいものを自分で選んで、さっと精算してさっと帰る。だから、売場の整備や価格については神経を使う。直接、来店客数や売り上げに影響するので、当然いろいろ厳しい決まりもあり、チェックも働いていて、買い物がしやすいように、清掃や障害物などには注意していたが、トイレは比較的目が届かなかった。抜き打ちでしらべてみると、確かに数が少なかったり場所が不便だったり、汚かったり、荷物が置かれて陰になっていたり、少なからず問題があった。店は商品を並べて売るところ、という認識では、トイレは疎かになりがちだ。むしろコストでベネフィットにはつながらない」



しかし、〈人間化〉という視点を導入してみると、お客様には買い物だけでなく、過ごしやすいとか楽しいとかという場所であるべきです。著者は述べます。
「こんなことは当然ずっと以前から言われていることだが、できてなかった。それは、じつは店はお客様のためにあるのだという認識そのものに問題があったのだ。人間化という視点を導入してみると、お客様である以前に人間としてどうあるべきかと考えると、トイレなど真っ先に問題になるはずだ。それは、結果としてお客様としての来店も増えて、売り上げにも貢献するだろう。いまから30年前に商業環境にも人間化が必要だ、と着想したのは、やはり中内さんならではであった」



8「SKHとドーム球場と宴の後」では、福岡のツインドーム構想が取り上げられます。ツインドームとは何か。著者は説明します。
「ツインドームというのは、2つドームをつくります。1つは野球の球場、もう1つは雨天でも楽しめるアミューズメントドームで、福岡市民のためにつくりますから、ドーム2つ分の土地を売ってください、という案である。しかも、鈴木さんの本音を言えば、途中で、アミューズメント施設のドームはやめました、ということにして、その土地を売り払えば、その代金で野球のドームはただで出来る、という話だったので、中内さんは乗ったのだと私は思う」
もう時効だと思うので告白しますが、当時プランナーをやっていたわたしは、三菱商事・東急エージェンシーのプロジェクトチームに参加して、アミューズメントドームの企画コンペを行いました。インダストリアル・デザイナーの栄久庵憲司さん、空間プロデューサーの山本コテツさんも一緒でした。いかにもバブルそのものという案件でしたが、当時は夢中になってプランを練りました。しかし、最初から土地目当てでアミューズメントドームなどつくる気はなかったと後で知って、怒髪天を衝く思いでした。ああいう道に外れたことをするから、ダイエーは潰れたのだと思います。




ドーム球場が着工したのは1991年4月、竣工が2年後の1993年4月でした。著者は以下のように述べています。
「中内さんの福岡へ行く機会が多くなった。まず開閉式のドーム球場が完成し、特別室から見る福岡ドームの景色は、それは特別、王様になったような気分になる。神戸の商工会議所のご一行も招待し、やはり中内さんはすごい。神戸につくってくれればよかったのに、と言われて、今頃わかったか、という顔をしていた。しかし、この大きな買い物のつけは大きかった。ダイエーグループの上に重くのしかかってきていた」
福岡ドームの竣工イベントにはわたしも参加しました。中内㓛氏と名刺交換もしましたが、正直言って、尊大な印象を受けました。自社の施設の招待客に対して、ああいう態度を取っていたこともダイエー倒産の遠因になっていたと思います。



9「日本型GMSの土台が崩れてゆく」では、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災の後、ダイエーが神戸で必死に商品を提供した様子が描かれています。しかし、震災でよその企業はただで配っているのに、ダイエーは通常価格で売っていました。これについて、著者は以下のように述べています。
「地震の非常時にも、ダイエーは金もうけか、という人がいた。しかし、その人は、100円のおにぎり1個運ぶのに、東京からヘリコプターで運ばれ、ずぶずぶの道を40分も歩き、壊れた橋を死に物狂いで飛び越えて人力運搬されてきたことや、たぶんおにぎり1個に1万円もかかっていることを知らない。中内さんは、『そんなことを知らせる必要はない。我々の仕事は、一時のボランティアではない。ただで100個配って、ハイ終わりましたではないんだ。今日も明日も、生活必需品をいつでも同じ値段で安定供給し続けることだ。おにぎり1個100円と値段を付けたら原価が1万円かかろうと100円で売り続けるのが、小売業の社会的責任だ。どんな災害があっても、ダイエーに行けば、いつも通りの値段でいつも通りの商品が手に入る。それが、人々の安心と信頼につながるのだ』と明言する」



この後、日本の流通業界には大きな変革が起こります。
「日本型GMSの黄昏」として、著者は次のように述べます。
「家電では、ヤマダ電機が、この商号で活躍し出したのが1987年。同じくコジマは、この社名に変えて発展し出したのが1993年。ヨドバシカメラは1989年に家電業界初のポイントカード発行。ビックカメラは1982年に池袋東口店、89年に渋谷店出店。洋服の青山商事が大証2部に上場したのが1987年、東証1部が92年。同じくAOKIの東証2部上場が1989年、1部上場が91年。婦人服のしまむらが東証2部に上場したのが1988年、1部が91年。ユニクロがファーストリテイリングとして始めたのが1991年、100店舗になったのが94年」



続けて、「日本型GMSの黄昏」として、著者は述べます。
「マツモトキヨシが上野アメ横に店を出したのが1987年。ロードサイド・ドラッグストア1号店が1994年。サンドラッグは1997年東証2部上場。家具のニトリが札幌証券取引所に上場したのが1989年、本州1号店が1993年、100店舗が1994年。ホームセンターのコメリ1987年新潟証券取引所上場、1991年100店舗。カインズ1989年設立。コーナン1996年大証2部上場。
上に挙げたように、ほとんどのロードサイドの専門店が、その力を発揮し出したのが1980年代後半から1990年代前半である。あるカテゴリーに絞って、圧倒的マーチャンダイジング力で品揃えし、価格も安くして店舗展開するカテゴリーキラーという業態が、この時期に相次いで出現し、GMSの顧客を奪っていったのである。奪ったのではない。お客様が、選択をしたのだ、というべきなのだろう」



ダイエーなどのGMSの多くは、駅前や繁華街や団地の中央などの足場のいいところに店があります。ところが路面店は、売場は広いが、足場がよいところはむしろ少ないです。多くの場合、歩いてすぐ行ける店舗ではありません。しかし、広い道路に面していて、駐車スペースも広く、車で行くには便利なところにできています。その点、歩いて行けるGMSとは根本的に異なるのです。
81年を1にすると、85年にはほとんど変わりませんでしたが、その後急激に伸びて95年には2.8倍、2000年には4.7倍にも増えています。乗用車の増加の多くが、この軽自動車の増加の結果だと言っても過言ではありません。著者は以下のように述べています。
「1980年代後半から90年代に入って、ダイエーの既存店の売上げが、徐々に落ちていった原因は、バブル崩壊後の消費者の財布が絞められたことに合わせて、このカテゴリーキラー店舗の影響が大きかったと思われる。そして、それをもたらしたのは、この軽自動車の普及という主婦層のモータリゼーションのお陰だったのである」



その後、ダイエーは起死回生を狙ってハイパーマート事業に進出しますが、それも失敗に終わります。著者は以下のように述べます。
「ダイエーが躍進していた時は、何が売れるかなど考えなくてよかった。国民はみな貧しかった。ほしいものは山ほどあった。人口はどんどん増え、新婚世帯が増えて、家庭の中に必要な、ほしいものばかりだった。だから、ダイエーは、単品大量に仕入れて少しでも安く売れば、どんどん売れたのである。
消費が飽和してきたときに、新たに売れる商品を開発する能力は、ダイエーには乏しかった。それだからこそ、安さや業態にこだわった。
しかし、こういう議論はどんどんすべきだった。不得手でも事態を認識し、どうしたらいいかをみんなで考えるべきだった。だが、全軍の指揮官中内さんの前ではできなかった。『よい品をどんどん安く』は不易だ、絶対だ、と聳え立つ、その前に議論の余地はなかった」



10「諫言・辞表・そしてダイエー崩壊」では、著者が中内㓛に対して送った手紙の内容が紹介されます。その中には、こう書かれていました。
「震災の後、CEOは経団連もやめられ、ダイエーの仕事にお戻りになられました。その震災対策ではさすがCEOでしかなしえないリーダーシップを発揮なされ、ダイエーの偉力を世の中に見せつけられました。
しかし、その後もずっと会議にもご出席になり種々現場のご指示も、店巡回も積極的になさっておられると聞いています。
しかし、このことがダイエーの中に混乱をまき起こしていることは、当然CEOですからご承知おきのことと存じます。二頭政治。つまりCEOとVPの2つの指示。当り前のことながらCEOのご指示は天皇陛下のご命令と同じですから、みな、従います。しかし、「いいのかな、これは今までと違うな」と心の中で思っています。そして、もっと正直に言えば、CEOのご指示の方がおかしいと思っているようです。不満がどんどん大きくなっています。これまでの神聖なCEOの偶像がこわれかねないのです。何人もの人間から、この話を聞きました」



最後まで、中内㓛は「おれは自分が間違っていたとは思えない。どんな時代になっても〈よい品をどんどん安く〉は正しい。不易だ。そうは思わんか。〈よい品をどんどん安く〉売って、なぜダメなんだ。ダメなはずはない。この道しかないのだ。この道しかない」と言っていました。
翌2001(平成15年)年1月30日の臨時株主総会で、中内さんの取締役退任が報告されて、ダイエーから完全に離れました。2004年、産業再生法の適用を受け、ダイエーは実質的に幕を閉じました。その翌年の2005年9月19日に、流通革命の旗手であった中内㓛はその生を終えています。

f:id:shins2m:20180620171956j:image
1984年6月14日付「日本経済新聞」朝刊



本書を読んで改めて思ったことは、ダーウィンの進化論ではありませんが、巨大化したダイエーは時代の変化についていけなかったということ。
「よい品をどんどん安く」という初志、いわば「初期設定」はつねに心がけていても「アップデート」が疎かだったとも言えるでしょう。何よりも、残酷なようですが、ダイエーは時代から見捨てられたということです。著者がダイエーに入社した1984年、つまりダイエー全盛期の頃、わがサンレーと業務提携したことがありました。それはダイエーグループの全社員の冠婚葬祭をサンレーが請け負うという内容で、当時の新聞にも大きく報道されました。思えば、サンレーグループもあの頃が最も巨大でした。その後、「選択と集中」で事業エリアなどの縮小を余儀なくされましたが、今でも企業活動を続けさせていただいていることは有難いことです。不遜ながら、わが社は天からの命を受けた「ミッショナリー・カンパニー」であると思っています。



2018年7月10日 一条真也

2018-07-05

『常世の時軸』  

常世の時軸


一条真也です。
常世の時軸』鎌田東二著(思潮社)を読みました。
わが「魂の義兄弟」である著者から献本された本で、著者の第一詩集です。その装丁からして、気高さと神秘性を漂わせています。17歳の春から突然詩を書き始めたという著者が1つの区切りをつけ、1998年5月5日から2018年4月30日までの20年間に書いた諸篇で編まれた一冊です。

f:id:shins2m:20180625191735j:image
本書の帯



カバー表紙には三日月が描かれ、帯には「超越の波動が非の受精卵を苦の岬から突き落とす。満月に向かって悲しく聳え立つ母之理主(モノリス)よ応答せよ応答せよ!」「星空を孤独に光りながら渡る常世舟。宇宙に切り立つ岬から永遠へと堕ちていく時の欠片。還る場所はあるのか――壮大な神話詩をうたう、極北の第1詩集」と書かれています。
また、帯の裏には、「死後線を 漕ぎ渡り往け 常世舟」という俳句が掲載されています。本書の最後に登場する句です。

f:id:shins2m:20180625191746j:image
本書の帯の裏



わたしは、著者と「ムーンサルトレター」という満月の往復書簡を13年以上もWEB上で交わしていますが、その著者からのレターによれば、著者は「昨年から、いよいよ詩集をまとめねば」という気持ちになっていたとか。今回、本書を出版した思潮社は、「現代詩手帖」を出していることで知られます。今から半世紀前、著者が10代後半から20代前半までの数年間、著者は「現代詩手帖」や「ユリイカ」を愛読していたとか。そこに掲載される現代詩人の作品もすべて読んでいたそうですが、20代後半に『水恥説』という神話小説のような作品をまとめた頃からパッタリと「現代詩手帖」や「ユリイカ」を読まなくなり、次第に学問の方に集中し始めたといいます。



しかし、学問に集中している間も、折に触れて、著者は詩・短歌・俳句は作っていたそうです。時々は歌う歌も作っていました。それが1988年12月12日からは「神道ソングライター」として特化したわけですが、その前兆・伏線は10代後半からあったようです。10代後半には詩を書くとともに、作詞作曲して歌も歌い始めていたのです。ですから、1998年12月にある日突然、歌い始めたというわけではなく、むしろ、何十年かのブランクの後、間歇泉のようにまた噴き上げただけなのかもしれません。その意味で、今回の出版は、著者にとっては「原点回帰」とも言えるでしょう。

マルドロールの歌 (集英社文庫)

マルドロールの歌 (集英社文庫)



著者が10代の頃、高校時代にもっとも心に沁み込んだのは、ドストエフスキーの小説群とロートレアモンの『マルドロールの歌』だったそうです。また、スタンリー・キューブリック監督によるSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」(1968年)でした。著者の「原点」である高校時代のインスピレーションやイマジネーションが現代に転生を果たした「原点回帰」の第一詩集には、ドストエフスキーロートレアモンキューブリックの影響を感じます。




特に、わたしは『常世の時軸』を読んで、「2001年宇宙の旅」のさまざまなシーンが脳裡に浮かびました。物語の冒頭では、「人類の夜明け」が描かれます。遠い昔、他の獣たちと変わりなく生きていたヒトザルたちの前に、黒い石板のような謎の物体「モノリス」が出現します。
モノリスとは「一枚岩」のことです。本書『常世の時軸』の帯にも「満月に向かって悲しく聳え立つ母之理主(モノリス)」と書かれています。やがて、謎の物体モノリスの影響を受けた1匹のヒトザルが、動物の骨を道具・武器として使うことを覚えました。ヒトザルは、他の獣を倒し、多くの食物を手に入れられるようになりました。そして、反目する別のヒトザルの群れに対しても武器を使用して殺害し、水場争いに勝利します。歓喜のあまり、ヒトザルが武器である骨を空に放り上げると、映画のスクリーン上でこれが最新の軍事衛星に一変します。人類史を見事に俯瞰したモンタージュでした。




その後、気の遠くなるような長い時間を経て、人類は月に住むようになります。アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月のティコクレーターで発掘された謎の物体「TMA(Tycho Magnetic Anomaly、ティコ磁気異常)を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かいます。そのTMAこそは「モノリス」でした。400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発します。18ヵ月後、宇宙船ディスカバリー号は木星探査の途上にありました。乗組員は船長のデビッド・ボーマン、フランク・プールら5名の人間(ただし、ボーマンとプール以外の3名は人工冬眠中)と、史上最高の人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータでした。




航海の途中で、異常をきたしたHALは乗組員の殺害を決行します。プールは船外活動中に宇宙服の機能を破壊され、人工冬眠中の3人は生命維持装置を切られてしまいます。ただ1人生き残ったボーマン船長はHALの思考部を停止させ、探査の真の目的であるモノリスの件を知ることになるのでした。そして、単独で探査を続行したボーマンは木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇します。物語の最後で、彼はスターゲイトを通じて、人類を超越した存在である「スターチャイルド」へと進化を遂げるのでした。
ボーマンがスターチャイルドに進化した空間は、白を基調としたホテルの客室ようなベッドルームでした。現在はロサンゼルス都立美術館に展示されているこのベッドルームこそ、「死後線を 漕ぎ渡り往け 常世舟」の常世舟ではないかと思いました。そう、生死を超え、時空をも超えるスピリチュアル・シップとしての「常世舟」です。



では、常世舟の「常世」とは何か。
拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の第九章「他界論」にも書きましたが、『古事記』『日本書紀』の記紀神話には、「常世」という死後の理想国が出てきます。本居宣長、平田篤胤、柳田國男折口信夫らはみな、常世の国に強い関心を寄せました。常世への思慕を抜きにして、日本の文化は語れないと言えるでしょう。日本の国ができる以前から常世神の信仰があったと言われ、常世は不老不死の豊饒の源泉地だとされました。1年に1回くらい、この国から常世神=マレビトがやって来て、人間に幸福をもたらすと信じられていました。しかし、スクナヒコナノミコトが生きながら渡ったという常世は、アフリカやフィリピンの原始宗教に見られるような、この世とあまり変わらない死後の世界でもあったのです。著者も、ブログ『日本人は死んだらどこへ行くのか』で紹介した本で「常世」に言及しています。



民俗学者の谷川健一氏は、著書『常世論』で「常世は水平線の彼方にたいする憧憬が死とまじりあったものである。そこには目路の果ての潮けむりのような妣の国のイメージがはるかに立ちのぼっているところである」と述べていますが、わたしには「ニライカナイ」という言葉が思い起こされます。ニライカナイとは沖縄における死後の理想郷であり、常世の別名でもある。沖縄の民俗学者である伊波普猷は、著書『あまみや考』の中でニライのニは土の意であるとしました。また、古代国語ではニはネに転ずると述べて、「根」とも関連づけて解釈しています。つまり、ニライを地底の根の国とみなしているのです。地底あるいは海底にあった「死の国」としてのニライは、やがてそこをつきぬけた海の彼方の仙郷の意に解されるようになったというのが伊波普猷の考えです。




「ニライカナイとは久高島のことである」と喝破したのが、2015年7月22日に逝去した映画監督の大重潤一郎氏でした。ブログ「久高オデッセイ」で紹介した映画の完結篇「風章」(大重監督の遺作)の中での発言です。
ブログ「『久高オデッセイ』シンポジウム」で紹介したように、今年6月5日、ブログ「小倉昭和館」で紹介した名画座で「風章」の上映会が行われました。あいにくの大雨でしたが、多くの方が来場されて満員になりました。映画の上映前には、製作者である著者が法螺貝を吹かれました。映画の上映後はシンポジウムが開催されました。テーマは「久高の魂と自然島の霊性」で、「古代以前の時代、先人たちの足跡、人々の生と死、育まれる命の息吹、死にゆく命の鼓動、人生儀礼としての祭祀。人間の魂が身体を脱ぎすて、海の彼方へ、原郷へ」などが語り合われました。わたしは著者とともに、パネリストとして登壇しました。

f:id:shins2m:20180605200607j:image
「久高オデッセイ」シンポジウムのようす



登壇したわたしは、映画を観た感想を聞かれ、以下のように述べました。
わたしは「久高オデッセイ 風章」を観て、まず、「これはサンレーのための映画だ!」と思いました。サンレー沖縄は、沖縄が本土復帰した翌年である1973年(昭和48年)に誕生しました。北九州を本拠地として各地で冠婚葬祭互助会を展開してきたサンレーですが、特に沖縄の地に縁を得たことは非常に深い意味があると思っています。
サンレーとは「SUN‐RAY(太陽の光)」を意味しますが、沖縄は太陽の島。太陽信仰というのは月信仰とともに世界共通で普遍性がありますが、沖縄にはきわめてユニークな太陽洞窟信仰というものがあります。「東から出づる太陽は、やがて西に傾き沈む。そして久高島にある太陽専用の洞窟(ガマ)を通って、翌朝、再び東に再生する。その繰り返しである」という神話があるのです。おそらく、久高島が首里から見て東の方角にあるため、太陽が生まれる島、つまり神の島とされたのでしょう。
そして久高島から昇った太陽は、ニライカナイという海の彼方にある死後の理想郷に沈むといいます。紫雲閣とは魂の港としてのソウル・ポートであり、ここから故人の魂はニライカナイへ旅立っていくのです。

f:id:shins2m:20150727203231j:image
豊崎紫雲閣と月
f:id:shins2m:20150727133844j:image
「大重監督を偲ぶ会」の祭壇



ニライカナイといえば、サンレーは大重監督を二ライカナイへお送りするお手伝いをさせていただきました。かねてより沖縄県那覇市の病院で療養中だった大重監督は、2015年7月18日に容態が急変し、22日に息を引き取られました。ブログ「大重監督を偲ぶ会」で紹介したように、大重監督のお別れのセレモニーは、サンレー沖縄でお世話をさせていただくことになりました。27日(月)の18時から「豊崎紫雲閣」で「偲ぶ会」(通夜)が行われました。東京から著者も駆け付けられました。大重監督の愛したヒマワリの花がきれいでした。那覇の夜空には見事な月が上っていました。わたしは出張先の東京の夜空の月を見上げて、大重監督を偲びました。

f:id:shins2m:20150728112653j:image
献花をする著者
f:id:shins2m:20150728110306j:image
横笛を吹く著者



翌28日(火)の11時から「豊崎紫雲閣」で「お別れ会」(告別式)が行われました。ブログ「大重監督のお別れ会」で紹介したように、葬儀は神葬祭で行われ、神職の資格を持つ著者が祭主を務められました。

f:id:shins2m:20150728120355j:image
法螺貝とジャンベの音が流れる中での出棺準備
f:id:shins2m:20150728120445j:image
出棺のようす
f:id:shins2m:20150728120646j:image
多くの有縁の方々に見送られました
f:id:shins2m:20150728120324j:image
白い霊柩車に乗ってニライカナイへ



故人は法螺貝とボンゴの鳴り響く中を出棺しました。そして、「感謝」「祈り」「癒し」の心を込めた「禮鐘の儀」の後、偉大な魂は白い霊柩車でニライカナイへと旅立って行かれました。多くの友人や知人の方々に見送られた心のこもった素晴らしいお別れ会でした。
わたしは、紫雲閣とは魂の港であると考えています。そこから、故人は常世=ニライカナイへと旅立ってゆくのです。ならば、常世へ向かう「常世舟」とは葬儀という儀式そのものではないでしょうか。わたしは、『常世の時軸』を読みながら、「久高オデッセイ 風章」を思い出し、著者の法螺貝の音によって送られた大重監督の最期のセレモニーを連想しました。
また、「常世舟」は「モノリス」でもあります。モノリスという一枚岩は墓標のようにも見えますが、実際、モノリスは墓標であると思います。正確に言うならば、「死者と生者のコミュニケーション装置」です。モノリスに遭遇したヒトザルたちは「葬」というコンセプトを知り、人類へと進化を遂げたのです。唯葬論者であるわたしには、そのように思えてなりません。



さて、そろそろ『常世の時軸』の内容を見ていきましょう。
この詩集は三部構成となっており、第一部は「時の断片」という散文詩です。全部で23篇の宇宙詩あるいは神話詩のような散文が並んでいるのですが、一読して意味を理解しがたく、混乱したわたしは「こんなものを書くのは神人か狂人かのいずれかに違いない!」と正直思いました。最初の詩である「悲の岬」は次のような内容です。



月光は黄泉路を越えてきた。満月を串刺しにしたまま血を舐めている処刑台の山猫は何に向かって吼えているのか。月夜に還ってゆく何処の島がある。故郷への道は塞がれたまま魂の難民は国境線で不安と恐怖の夜に怯える。全世界を覆う電脳もこの怖れの暗渠をほぐすことはできない。絶対零度の深海闇夜。癒しなどどこにもないのだ。救いがあるとすれば無力に震える独りの夜を無為に過ごすのを見届ける自己があることのみ。深遠を呼び覚ますモノが存在するとしたら黄泉路を越えて自己を突き通す無限遠点のまなざしと意思を植えつけたこと。超越の波動が悲の受精卵を苦の岬から突き落とす。満月に向かって悲しく聳え立つ母之理主(モノリス)よ応答せよ応答せよ!(「悲の岬」)



「悲の岬」の「悲」とは、英語で「グリーフ」といいます。
「悲」への対処を行うことを「グリーフケア」といいます。
著者は上智大学グリーフケア研究所の特任教授ですが、この「悲の岬」はまさにグリーフケアの詩であると思いました。「癒しなどどこにもないのだ。救いがあるとすれば無力に震える独りの夜を無為に過ごすのを見届ける自己があることのみ」という言葉は、悲嘆の淵にある遺族の心境そのものでしょう。そして、「故郷への道は塞がれたまま魂の難民は国境線で不安と恐怖の夜に怯える」とありますが、「魂の難民」を救済するワザこそ儀式であると思います。拙著『儀式論』(弘文堂)でも詳しく述べたように、儀式の本質とは「魂のコントロール術」であるからです。

儀式論

儀式論



常世の時軸』の第二部は「常世行」です。冒頭の「常世へ」という詩では、「SOS」を「スピリット・オープン・スペース」、そして「サブジェクト・オブジェクト・ソリチュード」としているところが印象的でした。このような言葉遊びというか、コピーライター的センスは著者の大きな強みであると思います。著者の生みだす言葉からは強烈な「言霊」が発せられます。
常世行」に続いて、「月虧けて」として、4篇の短歌が並びます。



月虧けて満ち来るものあり汝はたれそ 
人間はぬ石を抱きて睡る

満天の星は北を指して翔ぶ 
汝が羅針盤は何処の空を

悲の器 容れる悲なし それほどに 
青き悲の果て 観音岬

天どこまでも昏みゆく秋なれば 
石英の聲 谷下りゆく

(「月虧けて」)


(020)歌と宗教 (ポプラ新書)

(020)歌と宗教 (ポプラ新書)



著者と満月の文通の交わしている「月狂い」のわたしとしては、「月虧けて」の4首はたまらない歌ばかりです。なんだか魂が疼くような感覚を覚えます。これらの歌から、わたしはブログ『歌と宗教』で紹介した著者の本の内容を思い起こしました。同書の第1章「日本の歌の起源と精神」の冒頭には、「人間は、歌うために生まれてきた。歌とは命そのものであり、命は歌なのである――」という言葉が置かれています。このことをもっとも端的に表現しているのが『古今和歌集』の「仮名序」の冒頭の部分だそうです。

新訂 新古今和歌集 (岩波文庫)

新訂 新古今和歌集 (岩波文庫)



やまとうたは、人の心を種として、
万の言の葉とぞなれりける
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、
心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、
生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、
猛き武士の心をも慰むるは、歌なり




著者は「歌とは何なのか。紀貫之は、「仮名序」の冒頭の部分で和歌の本質を解き明かし、『森羅万象は歌を歌っている』と言っている。歌が生まれ、誰かがそれを歌うということは、つまり森羅万象がこの世界に歌いつつ存在しているということなのだ」と述べています。この紀貫之による和歌の本質論には、「庸軒」の号でへっぽこ道歌を詠み続けているわたしも深い感銘を受けました。そして、著者が詠む歌には、貫之が喝破した和歌の本質が確かにあります。



続いて、「死海往生――佐藤西行VS鎌田東行歌合」として、それぞれ6首同士の歌が並べられています。「歌聖」と呼ばれた西行の本名は佐藤義清です。それに対抗して著者は「東行」を名乗っているわけですが、「歌聖」の西行に対抗心を燃やすとは大したものです。しかも、その東行の詠む歌がなかなか味わい深いのです。西行といえば、「願はくば 花の下にて春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」があまりにも有名です。この歌に対して、著者は「願うても願うてもうち砕かれて 木端微塵の流星の人よ」という歌を詠んでいますが、実際の死生観はどうなのでしょうか。著者には、何か自身の死についてのビジョンはあるのでしょうか。

f:id:shins2m:20180705092923j:image
「FUNERAL BUISINESS」2018年7月号



「FUNERAL BUISINESS」2018年7月号のインタビュー記事で、著者は以下のように述べています。
「私には自分の理想的な死に方のイメージがあります。年老いて、誕生日の頃、春のお彼岸の時季に房総の犬吠埼に行って、菜の花畑から海を見渡して、朝日が昇ってくるのを見て、手を合わせて『有難うございました』と言って死んでいきたいというイメージです。もちろん、そんあふうにうまく死ぬことができるとは、半分は思っていませんが、死に対するイメージをもつということは、ある種の死の準備教育です」



また、続けて著者は以下のようにも語っています。
「一方で、自分の葬儀に関しては、葬儀産業に携わっている友人に『好きにやってくれていい』と任せてあります。故人を偲んでしんみりとするのではなく、できるだけ皆で賑やかに踊って歌ってばか騒ぎをして、忘れるものは忘れ、忘れないものは忘れないで、ときに思い出すという自然の流れでやってほしいというイメージをその友人に伝えてあります」




何を隠そう、「その友人」というのはわたしのことです。
紫雲閣は魂の港であると述べましたが、その港からどのような「常世舟」を出すかをいろいろと考えています。著者は、大重監督の常世舟で、法螺貝を吹き鳴らしました。わたしはカラオケで北島三郎の「まつり」を熱唱したいです。そして、最後の「これが日本の祭り〜だ〜よ〜♪」のフレーズを「これがTonyの祭り〜だ〜よ〜♪」と替えたいです。
おそらくは、泣き笑いの熱唱となるでしょうが・・・。
ちなみに、“Tony”というのは「ムーンサルトレター」での著者のレターネームです。わたしは“Shin”です。よろしくお願いいたします。

f:id:shins2m:20170113144315j:image
これがTonyの祭り〜だ〜よ〜♪



常世の時軸』の第三部は「時じくのかくの実」です。
ここでも12篇の散文詩が並び、最後に「悲の岬 2」が置かれています。
最初の散文詩は、以下のような内容です。



探すために生きてきた。森の奥に鳥居があった。死者の身体は半ば崩れ落ちていた。生きているだけでよかった。風さえ死に絶えていたから。娘の耳は死者の玄関。大理石は水を飲みながら笑った。遠方から死者がきて鏡を置いて行った。日は沈んだが黄泉帰らなかった。誰のために死んだのか。忘れることのできないミイラ食みは十一日間眠ったままだった。朝水が呼んでいた。誰もが死に水と思った。蛇のように地面を這ってきて口を覆った。天が裂ける地が割れる。震動の波の中で笑いながら死者は眠った。永遠の眠りさようなら遠ざかってゆく風景。死んでいくということはこのように風に吹かれることだったのだ。風は忘却の使徒郷愁の導師。風に吹かれながら泣いたただ泣いた。



この「死者の詩」とでもいうべきポエムを読みながら、わたしはブログ『死者の書・口ぶえ』で紹介した折口信夫の名作を連想しました。『死者の書』は、持統女帝に処刑されて二上山に葬られた滋賀津彦(大津皇子)の霊魂が目覚める物語。二上山の峰の間に現れた阿弥陀仏に導かれ、当麻寺に身を寄せた藤原南家郎女(中将姫)が蓮糸で曼荼羅を作成する物語。その2つの物語が複雑に重なり合った小説で、日本幻想文学史上に残る傑作とされています。生と死のあわいに目覚める「死者」は「おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。」と言います。折口は、古代世界に題材をとり、比類ない言語感覚で、生死を超え、時空を超える物語を織り上げました。

死者の書・口ぶえ (岩波文庫)

死者の書・口ぶえ (岩波文庫)



それは『常世の時軸』にも通じている死生観であり、時間感覚です。『死者の書』は当麻曼荼羅の物語ですが、『常世の時軸』を読んだときに曼荼羅をイメージしました。この詩集に収められている散文詩のどれを読んでも、「帝釈の網」のように密接につながっており、どこからでも「時間」の核心に迫れるように思いました。折口信夫は「釈迢空」の名で多くの詩や歌を残しました。折口と同じ國學院大學の出身である著者は、おそらくは『死者の書』および釈迢空の詩作を強く意識しているのではないかと思われます。




『歌と宗教』によれば、著者は、古代の万葉歌人の山部赤人、中世の新古今歌人の西行法師、近世俳人の松尾芭蕉、近代詩人の宮沢賢治を「日本の四大詩人」だと考えているそうです。もちろん、詩人としての釈迢空も認めていることと思います。じつは、ブログ「マザー!」で紹介した映画には詩人が登場します。この映画のDVDを著者にプレゼントしたところ、著者から「率直に書きます。くれぐれもお気を悪くされないでください。見せかけだけのチープでイージーな映画である。キリスト教のアレゴリーはあるが、深みも象徴性もなく、借りているだけ。まず、『詩人』が『詩人』ではない。『詩人』の創造性が全く感じられない。『詩人』と称する初老の男のエゴイズムだけ。『詩人』は『預言者』でなければならないが、彼は『詩人=預言者』ではない」という感想メールが届きました。



なんとも強烈な感想メールですが、著者は、トマス・インモースの『深い泉の国「日本」』から、「詩人の存在意義というのは、太古からの人間の普遍的な体験を言葉で表現するところにある。」「詩人は彼個人の哀しみや歓びを、それが人間的普遍性をもつような形に凝固させなければならない。詩人の魂には、その民族、その宗教、いえ、全人類の集合的記憶が蓄えられている。」という言葉を引き、さらに自身の著である『霊性の文学誌』から「詩人というのは、世界への、あるいは世界そのものの希望(ヴィジョン)を見出すことを宿命とする人間の別名である。」という言葉を紹介してくれました。

霊性の文学誌

霊性の文学誌



さらに、これだけでは飽き足らなかったのか、著者は「『詩人』という存在の造形性に我慢できませんでした。詩人はケルトのドゥルイドのような賢者でもあり、預言者でもあり、予言者でもあり、未来を見る人であり、さまざまな存在の声を聴く人であると思いますが、この映画の『詩人』は全くそうではないと思います」という内容のメールまで送ってきました。
わたしは「それほどまでに『詩人』という存在にこだわる人が書く詩とはどのようなものなのか?」と思ったものでした。そして、著者から届いた第一詩集をおそるおそる読んでみた次第です。その結果、確かに『常世の時軸』の中には「全人類の集合的記憶が蓄えられている!」と感じました。また、世界そのものの希望(ヴィジョン)を見たようにも思いました。わが「魂の義兄弟」である鎌田東二は、紛れもない正真正銘の詩人でした。



わたしへのメールで、著者は本書のことを鎌田東二の「スピリチュアル・セルフケアの書」「自己鎮魂の書」「生前葬の書」であると表現しています。たしかに、そうだと思います。時間を凝縮した本書の本質を見事に言い表しています。しかし、もうひとつ加えさせていただきたい。
拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「解説」で、著者は詩人・宮沢賢治の言葉にならって、同書を「すきとほつたほんたうのたべもの」と呼んで下さいました。わたしは深く感動しましたが、今回はそれをそのままお返ししたいです。平成最後の年に誕生した詩人・鎌田東二の第一詩集『常世の時軸』こそ、「すきとほつたほんたうのたべもの」であります。

常世の時軸

常世の時軸



2018年7月5日 一条真也

2018-07-04

『本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた』  

本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた (光文社新書)


一条真也です。
『本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた』横尾忠則著(光文社新書)を読みました。著者は1936年兵庫県生まれの美術家で、72年にニューヨーク近代美術館で個展。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロなど各国のビエンナーレに出品し、アムステルダムのステデリック美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など、世界各国の美術館で個展を開催。国際的に高い評価を得ています。2001年紫綬褒章、11年旭日小綬章、同年度朝日賞、15年高松宮殿下記念世界文化賞など受章・受賞多数。12年神戸市に兵庫県立横尾忠則現代美術館が開館、13年香川県・豊島に豊島横尾館が開館。さらには、2008年に小説『ぶるうらんど』(文藝春秋)で泉鏡花文学賞を、16年には『言葉を離れる』(青土社)で講談社エッセイ賞を受賞しています。わたしはブログ『魂をデザインする』で紹介した本で著者と対談したことがあります。


f:id:shins2m:20170807212650j:image
本書の帯



本書のカバー表紙にはジュセッペ・アルチンボルトの「司書」(1566年、スウェーデン・スコークロステル城所蔵)が使われており、帯には「「この本の中に、僕の考えてきたこと(創造のことから死のことまで)がすべて入っています」という著者のコメントが記されています。帯の裏には、「2009〜2017年『朝日新聞』書評欄」「仕事と人生のヒントが詰まった133冊」と書かれています。

f:id:shins2m:20170807212639j:image
本書の帯の裏



本書の扉には「生涯で一冊の本も読まなかった両親に本書を捧げます。」という献辞が記されています。そして、「死・生・今」、「『体』と『こころ』」、「トップスター」、「わがまま・あるがまま」、「遊び・自由・ユーモア」、「天才・狂気」、「芸術か人生か!」、「人生・邂逅・運命」、「写真は語る」、「猫」、「映画と人生」、「虫の声を聞く」、「日記・自伝・評伝」、「創造」、「異世界への想像力」、「夢想、空想」、「冒険とロマン」、「アンディ・ウォーホル」、「ルネ・マグリット」、「バルテュス」、「禅」、「昭和の記憶」、「物語」、「絵画の見方」、「日本・美・感性」、「現代美術とは?」、「画家について」、「明日へのとびら」などの項目(キーワード)に沿って、133冊の本が整理されています。

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)

皮膚感覚と人間のこころ (新潮選書)



本書に取り上げられている本たちの間に脈絡は感じられません。
著者らしいコメントをいくつか拾って紹介することにしましょう。
『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋著(新潮新書)の書評で、著者は以下のように書いています。
「僕が特に皮膚を意識する瞬間は、入浴中に自らの皮膚に触れる時だ。『気持ちイイ』のは皮膚感覚が心理に与える影響だ。皮膚の刺激が心に及ぼす影響は母親の皮膚体験により、幼児期の人格形成にさえ影響する。ヴァレリーは『人間にとってももっとも深いものこそ皮膚だ』と語る。
皮膚感覚は自己と他者を区別する意識と深く結びつく。自分の皮膚に触れるようより他人に触れられた時の方が心地いい。つまり皮膚が自己意識を作っているということ。自己が皮膚と共にあるということは普段、意識しないが、本書の読後は皮膚と心が不離一体の関係にあることを脳と共に強く意識する。そして精神の健康と皮膚の健康が密接であることを自らの皮膚に触れながら感じていたい」

わがままこそ最高の美徳

わがままこそ最高の美徳



『わがままこそ最高の美徳』ヘルマン・ヘッセ著、フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳(草思社)の書評では、著者は以下のように書いています。
「一般的に『わがまま』といえば、相手やや周囲の者の意に反して自分の思い通りにならなければ気が済まないという、実にはた迷惑な行動をする自分勝手な人間を指す場合が多い。だけど同じ『わがまま』でも、一生『わがまま』を貫徹することができた希な人間もいる。ヘルマン・ヘッセが言わんとする『わがまま』は後者に属する人間のことであるが、芸術家の基本的態度である独創性を貫こうとすれば、自ずと『わがまま』にならざるを得ない。この態度は芸術の創造的世界ではむしろ高い評価につながることになる。ヘッセはこの評価を『美徳』(!)と名付けた」

老耄と哲学 思うままに

老耄と哲学 思うままに



『老耄と哲学 思うままに』梅原猛著(文藝春秋)の書評では、著者は以下のように書いています。
「著者(梅原猛)の数々の名著は本人の言葉を借りるまでもなく『天から降りてきた霊感によって書かされたもの』である。普遍的な芸術はおおむね霊感によって生まれるもので、従って芸術家は予言者であると同時に、霊媒的な資質を有する。そして驚くのは著者が長命であることだ。夫人の『仕事をやめて!』という願いを無視。健康を心配される夫人だが、創造エネルギーが燃焼を止めない限り、精神的肉体的にも長寿を約束される。著者の場合、創造的行為に内在する遊びと自由と笑いがその原動力で、また夫婦円満の秘訣でもある。梅原哲学が笑の絶えない家庭薬であり、家庭こそが哲学の生まれる場所なのかもしれない」



『ギャンブラー・モーツァルト』ギュンター・バウアー著、吉田耕太郎・小石かつら訳(春秋社)の書評では、著者は以下のように書いています。
「遊びの達人モーツァルトは舞踏の名手であり、熱狂的なビリヤードプレーヤーでありカードプレーヤーでもある。『海千山千の不屈のゲームプレーヤー』のモーツァルトは遊びの森深く建造された魔宮に棲む魔術師でもある。文化の中に遊びが存在するのではなく、遊びはあくまでも文化に先行しているとするホイジンガの哲学を、そのまま先取りしているようなモーツァルトだ」

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)



ブログ『本へのとびら』で紹介した岩波新書から刊行された宮崎駿氏の著書の書評では、以下のように書かれています。
「ぼくが羨ましく思うのは、宮崎さんが長い人生を常に児童文学を伴侶としてこられたことです。ぼくは少年時代、児童文学は一冊も読まないまま、70歳の古希を迎え、残りの時間のことを考えた時、今児童文学を読むしかないと思いました。本書に選ばれた本の中では、たった7冊しか読んでいません。今ぼくは“幼い老人”の入り口に立っています。そしてこれからが児童文学に触れる人生の佳境に入ったのだと思っています」

魂にふれる 大震災と、生きている死者

魂にふれる 大震災と、生きている死者



最後の133冊目は、ブログ『魂にふれる』で紹介したトランスビューから刊行された若松英輔氏の著書です。その書評には、こう書かれています。
「いったん肉体から分離した魂は物質的世界から非物質的存在となり、本来の自分自身になろうと努め、肉体の支配下にあった人間的意識にとらわれない限り魂の自由を獲得し、離別した現世の地上的磁場からも解放され、生きる死者として死の彼方で自立するのではないか。従って著者の言う『悲しみ』の主体は死者の接近によるというより、むしろ生者の側の『恋愛』が作り上げるイリュージョンではないかと思うのだが、如何であろうか」
わたしは、この文章を読んで、かつて著者と「魂」について語り合った対談の内容をなつかしく思い出しました。



「あとがき」で、著者は以下のように述べています。
「書評の経験は全く初めてだった。僕が読書嫌いだということを知ってか知らずか、 今まで誰一人として僕に書評を依頼したものはなかった。(中略)だからといって嫌々書いた本は一冊もない。どの本も誰かに読んでもらいたいと思う本ばかりだ。読書後の記憶はほとんど忘却しているが、これらの本を選択した意志は何らかの形で僕の創作と人生とは無縁ではないように思う。そう考えると、どれ一冊とて無駄な本はなかったということなのかなあ」
この最後の言葉を、わたしは、しみじと噛みしめました。



2018年7月4日 一条真也