「異人たち」

一条真也です。
19日から公開のアメリカ・イギリス映画「異人たち」シネプレックス小倉で鑑賞。 ブログ「異人たちとの夏」で紹介したジェントル・ゴースト・ストーリーの名作映画のリメイクですが、大幅な改変が行われています。結論から言うと、わたしは苦手な作品でした。「異人たちとの夏」は大好きな映画なのですが、改悪されたという思いです。


ヤフーの「解説」には、こう書かれています。
大林宣彦監督によって映画化もされた山田太一の小説『異人たちとの夏』を映画化したドラマ。幼少期を過ごしたかつてのわが家を訪れた脚本家が、30年前に亡くなったはずの両親とそこで出会う。メガホンを取るのは『荒野にて』などのアンドリュー・ヘイ。『1917 命をかけた伝令』などのアンドリュー・スコット、『aftersun/アフターサン』などのポール・メスカルのほか、ジェイミー・ベルクレア・フォイらが出演する」

 

ヤフーの「あらすじ」は、以下の通りです。
「40代の脚本家・アダムは、ロンドンのタワーマンションに暮らしているが、12歳のときに交通事故で両親を亡くして以来、孤独な人生を過ごしてきた。両親との思い出を基にした脚本に取り組んでいたアダムが、幼少期に住んでいた郊外の家を訪ねてみると、30年前に他界したはずの両親が当時の姿のままで生活を送っていた。それから両親のもとに通っては温かな時間を過ごすようになったアダムは、その一方で、同じマンションの住人で謎めいた青年ハリーと恋仲になる」


1988年の大林宣彦監督作品「異人たちとの夏」は、わたしの大好きな映画で、もう何回観たかわかりません。原作は、山田太一氏の小説です。妻子と別れた人気シナリオライターが体験した、既に亡くなったはずの彼の家族、そして妖しげな年若い恋人との奇妙なふれあいが描かれた幻想小説の傑作です。妻とも別れ、孤独な毎日を送っていた風間杜夫演じるシナリオライターの主人公が、死んだ両親(現在の自分とほぼ同年輩の姿)と再会する物語です。同時にある女性と親しくなるが、両親との邂逅を繰り返すたび、主人公の身体はなぜか衰弱していきます。人間と幽霊の間の愛と情念とを情感豊かに描き込んだ名作でした。


山田太一による原作小説異人たちとの夏の英題は、「Strangers」でした。しかしながら、アンドリュー・ヘイ監督は今回の映画のタイトルを「All of Us Strangers」としています。「私たちはみなストレンジャーである」というわけですが、本来は「異人」は「幽霊」の意味で使われていたわけですが、今回の「異人」の定義は拡大されています。拡大解釈された「異人」とは、ずばり「ゲイ」のことです。ファンタジー映画の名作がLGBTQ映画としてリボーンしました。


オリジナルの「異人たちとの夏」でも同じ設定でしたが、主人公が住むマンションは彼の部屋を含めて、もう1室しか住人がいません。このへんの理由が曖昧なのが消化不良なのですが、そのもう1人の住人が主人公の部屋を訪ねてくるところも同じです。来訪者は孤独のあまり酒を持参でやってきます。「異人たちとの夏」では、シャンパンの瓶を持った名取裕子だったので、風間杜夫が彼女を追い返したときは「こんな美しい女性に恥をかかせてひどい奴だな!」と思ったものです。しかし、今回の「異人たち」で、アンドリュー・ヘイがウイスキーの瓶を持参してきたポール・メスカルを追い返したのは当然だと思いましたね。だって、いかにもアブない奴じゃないですか!

リメンバー・フェス』(オリーブの木

 

異人たちとの夏」では、主人公の両親は浅草に住んでいました。両親は交通事故死した幽霊なわけですが、やはり「異人たちとの夏」のほうがずっとジェントル・ゴースト・ストーリー(優霊物語)として完成度が高かったと思います。わたしが日本人だからかもしれませんが、主人公が最初に亡き父親(片岡鶴太郎)を浅草の寄席で見つけるところ、まだ若い頃の母親(秋吉久美子)が物憂げに線香花火をするところ、両親と別れた場所が浅草のすき焼き屋「今半別館」だったこと、両親の幽霊と会っていたのはちょうどお盆の時期だったこと・・・・・・すべて心の琴線に触れました。「異人たち」は日本映画ではないので当然といえば当然ですが、お盆に死者と出会ったという情緒が欠けていたように思います。お盆といえば、最新刊リメンバー・フェスオリーブの木)で、わたしは供養のアップデートについて具体的に提唱しました。


異人たちとの夏」で風間杜夫演じる主人公が両親の幽霊と別れる名シーンは何度観ても泣けます。とくに、秋吉久美子さん演じる母親が、主人公に向かって「おまえのことを大事に思っているよ」「おまえのことを自慢に思っているよ」と優しく語りかけるシーンはたまりませんね。消えゆく両親に向かって、最後に主人公が「ありがとうございました!」と頭を下げるシーンに感動しない人はいないのではないでしょうか。浅草という舞台も良かったです。仲見世浅草寺花やしき・・・すべて、いい感じです。そして、ぶらりと入った寄席の魔術の出し物のとき、主人公は28年前に死別した父親を見つけるのです。寄席という非日常的空間、さらに魔術という異界の扉を開く芸が登場すると、まるで次元が歪んだようで、これならいくら死者が蘇えったって不思議ではないという気がしてきます。


一方、「異人たち」では、主人公のアダムはロンドン郊外のスーパーマーケットのような店で亡き父親に出会います。そのまま実家に連れていかれるのですが、スーパーからすぐ家に着いてしまいます。「異人たちとの夏」の場合は、寄席から実家のアパートまでけっこう距離があり、久々に再会した父子は自動販売機の缶ビールを飲みながら、さまざまな会話を重ねて母親の待つ場所に辿り着くのでした。やはり、最初の父子の会話というのは非常に重要で、このへんが「異人たち」の描写は物足りない印象が残りました。「異人たち」で最後に両親と別れる場所も何の変哲もないダイナーのような店で、情緒も何もありませんでした。「異人たちとの夏」で、主人公が最後に両親に最高の贅沢をさせてあげようと思って、高級なすきやき屋に招待するといった心配りがまったくないのが不満でした。


「異人たち」で最も不可解だったのは、アダムの両親とハリーが一度だけ遭遇したとき、お互いに相手が異人だと気づいていなかった節があることです。ハリーのことを、アダムの父親は「なかなかハンサムだな」と言い、母親は「彼を大切にしなさい」などと言う。霊は、同じ霊を生きた人間と錯覚するのか。ここが、どうにもスッキリしませんでした。「異人たち」のハリーはゲイの男性ですが、「異人たちとの夏」ではケイ(名取裕子)という女性でした。彼女はひたすら哀しい存在でしたが、最後は怨霊そのもののホラー的な描き方をされました。わたしは、「異人たちとの夏」を初めて観たときから、ケイの正体が暴かれるシーンには強い違和感をおぼえました。「過剰演出」は大林監督の悪い癖ですね。もっとケイの最期ははかなく、哀しく描いてほしかった。その点、「異人たち」のハリーは最後まで哀しく描き切ったのが良かったです。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

さて、幽霊が登場する映画といえば、一般的に「ホラー映画」とされます。秋吉さんにもプレゼントさせていただいた拙著死を乗り越える映画ガイド(現代書林)の中には「ホラー映画について」というコラムが収録されています。何を隠そう、わたしは三度の飯よりも、ホラー映画が好きです。あらゆるジャンルのホラー映画のDVDやVHSをコレクションしていますが、特に心霊系のホラーを好みます。冠婚葬祭業の経営者が心霊ホラー好きなどというと、あらぬ誤解を受けるのではないかと心配した時期もありました。今では、「死者との交流」というフレームの中で葬儀と同根のテーマだと思っています。「葬儀」と「幽霊」は基本的に相容れないと述べました。葬儀とは故人の霊魂を成仏させるために行う儀式です。葬儀によって、故人は一人前の「死者」となるのです。幽霊は死者ではありません。死者になり損ねた境界的存在です。つまり、葬儀の失敗から幽霊は誕生するわけです。ならば、「葬儀」と「幽霊」という2つのテーマは永遠に平行線をたどり、絶対に相容れないのでしょうか。

ロマンティック・デス』(オリーブの木

 

ヘーゲル弁証法ではありませんが、わたしは「葬儀」という正、「幽霊」という反をアウフヘーベンして合を生み出す方法を思いつきました。それは、葬儀において人為的に幽霊を出現させること。あえて誤解を怖れずに言うなら、今後の葬儀演出を考えた場合、「幽霊づくり」というテーマが立ち上がります。最新作ロマンティック・デスオリーブの木)にも書きましたが、これからの葬儀ではホログラフィーなどを使って故人の生前の姿、すなわち幽霊を出現させることが求められます。もっとも、その「幽霊」とは恐怖の対象ではありません。あくまでも、それは愛慕の対象でなければなりません。生者にとって優しく、愛しく、なつかしい幽霊、いわば「優霊」です。「優霊」とは、怪奇小説における「gentle ghost」というコンセプトに文芸評論家の東雅夫氏が訳語として考案したものです。「gentle ghost」とは、生者に祟ったり、むやみに脅かしたりする怨霊の類とは異なり、絶ちがたい未練や執着のあまり現世に留まっている心優しい幽霊のことですね。


異人たちとの夏」は優霊物語=ジェントル・ゴースト・ストーリーの名作でしたが、「異人たち」はLGBTQ映画の要素が強くなっている感じがしました。わたしは同性愛者を差別しませんが、自分は同性愛者ではないので、アダムとハリーがキスしたり、性行為をしたりするシーンがスクリーンに映し出されるのが非常に違和感がありました。映画の冒頭と終わりには当時のイギリスのゲイカルチャーの中で深く愛されたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのヒット曲「The Power Of Love」(1984年)が登場します。その歌詞の中に「君を死神から守ってやる、君のドアから吸血鬼を遠ざけるんだ」というものがありますが、この「扉の前にやってきた死神、吸血鬼」の正体は「孤独」であったというのがアンドリュー・ヘイ監督のメッセージだったのでしょう。 最後に、LGBTQ映画の存在は認めますが、「異人たち」という映画はわたしは嫌いであり、大好きな「異人たちの夏」が改悪されたことを遺憾に思います。

 

2024年4月20日 一条真也

『リメンバー・フェス』

リメンバー・フェス』(オリーブの木

 

一条真也です。
次回作のリメンバー・フェスオリーブの木)の見本が届きました。「死者を忘れない」というサブタイトルがついています。117冊目の一条本となりますが、著者名は「一条真也」ではなく、株式会社サンレー代表取締役社長の「佐久間庸和」となっています。

本書の帯

 

本書の帯には、東京大学名誉教授の矢作直樹先生の「人は死なない。故人は『リメンバー・フェス』を通じて人々のこころの中に生き続けるのだから。」という推薦の言葉が書かれています。過分なお言葉を寄せて下さった矢作先生は、命には続きがある(PHP文庫)の共著者です。

本書の帯の裏

帯の裏には「佐久間庸和の本」として、ウェルビーイング?が「個人・企業・社会が求める『幸せ』とは?」「40年前から取り組んできた企業が明かす、持続的幸福の真髄!」と紹介され、コンパッション!が「老い・病・死・死別を支える『思いやり』」「『サービス』から『ケア』へ。新時代を拓く究極のコンセプト!」と紹介されています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
お盆は古臭い?   
映画「リメンバー・ミー」              
死者を忘れてはいけない    
第1章
リメンバー・フェスは古くて新しい
お盆は「供養」の最大の行事         
 盆踊りの意味    
花火のいわれ      
お盆がすたれた理由          
正月は先祖供養の年中行事             
成人式はリメンバー・フェス          
節分も変えられる             
「お墓参り」こそリメンバー・フェス          
各地に残る彼岸の行事      
墓参りは必要!   
子孫をもたない霊のリメンバー・フェス      
リメンバー・フェスは月のお祭り   
七五三もリメンバー・フェス          
発掘! 全国のリメンバー・フェス           
法要は故人を偲ぶ絶好の機会        
長寿祝いは自らが「先祖」に近づくこと      
厄払いも先祖の力を借りて             
誕生日に感謝の気持が芽生える      
ハロウィンは死者の祭り   
クリスマスは死者をもてなす祭り   
第2章
なぜ先祖供養をするのか
ご先祖さまを大切にすると幸せになる          
「おかげさま」に込めた意味          
日本人の「こころ」がお盆を必要としている             
日本人にとっての先祖とは?          
子どもこそが先祖である!             
肥大化する自我   
死の恐怖と自我   
感謝こそ幸福への道          
母親の命を引きかえに生まれてくる?          
親もまた先祖である          
第3章
死なないための方法
祖先崇拝こそ日本最大の宗教である!          
「先祖祭り」は日本人の信仰の根幹             
「死」を考える   
「孝」にこめられた意味   
「遺体」と「死体」の違い             
「孝」から「恩」へ          
骨に現れる日本人の祖霊観             
混ざり合った日本の宗教   
「和」と「分」の文化      
「あれも、これも」の宗教観          
 日本人が実現した三位一体           
カミやホトケよりも祖霊が大切    
聖徳太子はキリスト以上?             
「&」が日本人の先祖供養             
沖縄の祖先崇拝に学ぶ      
沖縄の生年祝に学ぶ          
北陸の先祖崇拝に学ぶ      
先祖の役割とは子孫を守ること      
死者との共生      
「死者を忘れない」方法   
「あとがき~月に向かって祈る」



日本人の先祖供養といえば、多くの人は、お盆やお彼岸を思い浮かべるでしょう。なぜ先祖を供養するのかというと、もともと2つの相反する感情からはじまったと思われます。1つは死者の霊魂に対する畏怖の念であり、もう1つは死者に対する追慕の情。やがて2つの感情が1つにまとまっていきます。死者の霊魂は死後一定の期間を経過すると、この世におけるケガレが浄化され、「カミ」や「ホトケ」となって子孫を守ってくれる祖霊という存在になります。かくて日本人の歴史の中で、神道の「先祖祭り」は仏教の「お盆」へと継承されました。そこで、生きている自分たちを守ってくれる先祖を供養することは、感謝や報恩の表現と理解されてくるわけです。

サンレーの「お盆フェア」

 

わたしが経営するサンレーは冠婚葬祭互助会です。毎年、お盆の時期には盛大に「お盆フェア」などを開催して、故人を供養することの大切さを訴えています。しかしながら、小さなお葬式、家族葬、直送、0葬といったように葬儀や供養に重きを置かず、ひたすら薄葬化の流れが加速している日本にあって、お盆という年中行事が今後もずっと続いていくかどうかは不安を感じることもあります。特に、Z世代をはじめとした若い人たちは、お盆をどのように理解しているかもわかりません。しかし、お盆をはじめとした年中行事は日本人の「こころの備忘録」であり、そこにはきわめて大切な意味があります。

決定版 年中行事入門』(PHP研究所)

 

お盆が古臭い。形式的なものの存在意義がわからない。お盆って夏休みじゃないの。お盆なんかなくなってもいいのでは――いろんな考えがあろうかと思います。でも、わたしは先祖を供養してきた日本人の心は失ってはいけないと考えています。お盆という形が、あるいは名前が現代社会になじまないなら、新しい箱(形)を作ればいいのではないか。わたしは、そんなふうに思い至りました。すなわち、「リメンバー・フェス」です。「リメンバー・フェス」は「お盆」のイメージをアップデートし、供養の世界を大きく変えるイノベーションです。



「リメンバー・フェス」は、ディズニー&ピクサーの2017年のアニメ映画「リメンバー・ミー」からインスパイアされたネーミングです。「リメンバー・ミー」は第90回アカデミー賞において、「長編アニメーション賞」と「主題歌賞」の2冠に輝きました。過去の出来事が原因で、家族ともども音楽を禁止されている少年ミゲル。ある日、先祖が家族に会いにくるという「死者の日」に開催される音楽コンテストに出ることを決めます。伝説的ミュージシャンの霊廟に飾られたギターを手に出場しますが、それを弾いた瞬間にミゲルは死者の国に迷い込みます。



カラフルな「死者の国」も魅力的でしたし、「死」や「死後」というテーマを極上のエンターテインメントに仕上げた大傑作です。「リメンバー・ミー」を観れば、死者を忘れないということが大切であると痛感します。わたしたちは死者とともに生きているのであり、死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえません。最も身近な死者とは、多くの人にとっては先祖でしょう。先祖をいつも意識して暮らすということが必要です。わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちにほかなりません。



お盆といえば、「盆踊り」の存在を忘れることはできません。日本の夏の風物詩ですが、もともとはお盆の行事の1つとして、ご先祖さまをお迎えするためにはじまったものです。今ではご先祖さまを意識できる楽しい行事となっています。昔は、旧暦の7月15日に初盆の供養を目的に、地域によっては催されていました。盆踊りというものは、生者が踊っている中で、目には見えないけれども死者も一緒に踊っているという考え方もあるようです。照明のない昔は、盆踊りはいつも満月の夜に開かれたといいます。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊るもので、やぐらを中央に据えて、その周りをみんなが踊ります。地域によっては、初盆の家を回って踊るところもありました。太鼓とは死者を楽しませるものでした。わたしの出身地である北九州市小倉では祇園太鼓が夏祭りとして有名ですが、もともと先祖の霊をもてなすためのものです。



さらに、夏の風物詩といえば、大人気なのが花火大会です。そのいわれをご存知でしょうか? たとえば隅田川の花火大会。じつは死者の慰霊と悪霊退散を祈ったものでした。時の将軍吉宗は、1733年、隅田川の水神祭りを催し、そのとき大花火を披露したのだとか。当時、江戸ではコレラが流行、しかも異常気象で全国的に飢饉もあり、多数の死者も出たからです。花火は、死者の御霊を慰めるという意味があったのです。 ゆえに、花火大会は、先祖の供養という意味もあり、お盆の時期に行われるわけです。大輪の花火を見ながら、先祖を懐かしみ、あの世での幸せを祈る。日本人の先祖を愛しむ心は、こんなところにも表れています。つまり、太鼓も花火も死者のためのエンターテインメントだったわけです。



アフリカのある部族では、死者を二通りに分ける風習があるそうです。人が死んでも、生前について知る人が生きているうちは、死んだことにはなりません。生き残った者が心の中に呼び起こすことができるからです。しかし、記憶する人が死に絶えてしまったとき、死者は本当の死者になってしまうというのです。誰からも忘れ去られたとき、死者はもう一度死ぬのです。映画「リメンバー・ミー」の中でも、同じメッセージが訴えらえました。死者の国では死んでもその人のことを忘れない限り、その人は死者の国で生き続けられますが、誰からも忘れられてしまって繋がりを失ってしまうと、その人は本当の意味で存在することができなくなってしまうというのです。



わたしたちは、死者を忘れてはいけません。それは死者へのコンパッションのためだけではなく、わたしたち生者のウェルビーイングのためでもあります。お盆とは、都会に住んでいる人が故郷に帰省して亡き祖父母や両親と会い、久しぶりに実家の家族と語り合うイベントでもあります。それは、あの世とこの世の誰もが参加できる祭りなのです。日本には「お盆」、海外には「死者の日」など先祖や亡き人を想い、供養する習慣がありますが、国や人種や宗教や老若男女・・・何ものにもとらわれない人類共通の言葉として、「リメンバー・フェス」を提案します。将来、ニュースなどで「今日は世界共通のリメンバー・フェスの日です」などと報道される日を夢見ています。



リメンバー・フェスとは、けっして新しいものではなりません。先祖を想い、死者を供養するという日本人の心を呼び覚ますための言葉です。人類の生命は宇宙から来たと言われています。わたしたちの肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還るわたしたちは、宇宙の子なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。人間も動植物も、すべて星のかけらからできています。その意味で月は、生きとし生ける者すべてのもとは同じという「万類同根」のシンボルでもあります。

かくして、月に「万教同根」「万類同根」のシンボル・タワーを建立し、レーザー(霊座)光線を使って、地球から故人の魂を月に送るという計画をわたしは思い立ち、実現をめざして、いろいろな場所で構想を述べ、賛同者を募っています。本書の姉妹本として刊行されるもう1つのR本(タイトルの頭文字がRから始まることから、そう呼んでいます)ロマンティック・デスに詳しく書きました。シンボル・タワーは、そのまま、地球上のすべての人類のお墓ともなります。月に人類共通のお墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびます。それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。

 

先祖の話

 

民俗学者柳田国男が名著『先祖の話』に詳しく書いていますが、先祖の魂は近くの山から子孫たちの人生を見守ってくれているというのが日本人の典型的な祖霊観でした。ならば、地球を一番よく見ることができる宇宙空間である月から人類を見守るという設定があってもいいのではないでしょうか。また、遺体や遺骨を地中に埋めることによって、つまり埋葬によって死後の世界に暗い「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、明るい「天上へのまなざし」を与えることができます。そして、人々は月をあの世に見立てることによって、死者の霊魂が天上界に還ってゆくと自然に思い、理想的な死のイメージ・トレーニングが無理なく行えます。



世界中の神話や宗教や儀礼に、月こそあの世であるという普遍的なイメージが残っていることは、心理学者ユングが発見した人類の「集合的無意識」の1つであると思います。そして、あなたを天上から見守ってくれるご先祖たちも、かつてはあなたと同じ月を見上げていたはずです。そうです、戦前の、大正の、明治の、江戸の、戦国の、中世の、古代の、それぞれの時代の夜空には同じ月が浮かんでいたのです。先祖と子孫が同じ月を見ている。しかも、月は輪廻転生の中継点であり、月を通って先祖たちは子孫へと生まれ変わってくる。まさに月が、時空を超越して、あなたと先祖の魂をつないでくれているのです。

リメンバー・フェス』と『ロマンティック・デス

 

ぜひ、月を見上げて、あなたのご先祖を想ってみてください。あなたのご先祖は、月にいます。そして、月から愛する子孫であるあなたを見守ってくれています。いつの日か、先祖はあなたの子孫として転生し、子孫であるあなたは先祖となります。大いなる生命の輪は、ぐるぐると永遠に廻ってゆくのです。リメンバー・フェスとは、その入口なのです。そのメッセージをさらに強く、さらに広く伝えるために、本書『リメンバー・フェス』の姉妹本となる『ロマンティック・デス』を書きました。新時代の葬儀を提案した本です。両書とも、4月23日に発売されます。ぜひ、ご一読下されば幸いです。

 

 

2024年4月19日  一条真也

『ロマンティック・デス』

ロマンティック・デス』(オリーブの木

 

一条真也です。
次回作のロマンティック・デスオリーブの木)の見本が届きました。「死をおそれない」というサブタイトルがついています。116冊目の一条本となりますが、著者名は「一条真也」ではなく、株式会社サンレー代表取締役社長の「佐久間庸和」となっています。

本書の帯

 

本書の帯には、作家・福聚寺住職の玄侑宗久先生の「日本人の古層に宿った物語が、いま佐久間さんによって新たに甦った。これは現代人の安らかな死を支える、ゆるぎない物語である。」と書かれています。ありがたいことです。

本書の帯の裏

帯の裏には「佐久間庸和の本」として、ウェルビーイング?が「個人・企業・社会が求める『幸せ』とは?」「40年前から取り組んできた企業が明かす、持続的幸福の真髄!」と紹介され、コンパッション!が「老い・病・死・死別を支える『思いやり』」「『サービス』から『ケア』へ。新時代を拓く究極のコンセプト!」と紹介されています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。
まえがき」
序論 「死のロマン主義に向けて」
               ~本書のコンセプトと提案

死に関する美しい話          
死を形容詞で飾ってみる   
葬儀に求められる新たな要素          
墓のイメージを変える      
新しき「葬」      
死生観が変わる   
「葬」をデザインする      
自死を美化しているわけではない   
「月」との出会い             
ムーン・ハートピアとは何か          
「葬」を変える!             
第一部 死
臨死体験と死の受容
二人のパイオニア             
キューブラー=ロス博士の研究      
人間が死を恐れる理由      
死は永久的な出来事          
死の恐怖は後天的なもの   
ある男に訪れた奇跡          
蝶にたとえられた死          
臨死体験の法則
レイモンド・ムーディの臨死体験研究          
全知全能感とは何か?      
「エルの物語」の引用      
アカシックレコード          
バレットの研究   
オシスの研究      
死を美化していいのか
自死を美化しない             
人智学の意見      
不慮の事故や子どもの死は?          
ブッダの死生観   
死は夏休みのようなもの?             
第二部 月
月と日本人
月を愛する日本人             
日本人の月志向   
宇宙と葬儀の本質
人間は星のかけらからできている   
死後の世界のイメージ      
月こそ墓をつくるべき場所             
納骨堂を超えるイメージ   
宇宙葬ではない   
月を墓に「見立てる」      
月面聖塔
月面聖塔のイメージ          
巡礼団をサポート             
地球を見ること   
月面に誕生する理想の病院             
第三部 葬
死と月
死後の幸福感は月のイメージ          
死後の魂がたどる道          
祖霊の道につづく             
二つの死             
ホモ・フューネラル
葬儀は遊びよりも古い      
オリンピックと葬儀          
演劇と葬儀          
月への送魂
神道式で描く未来の葬儀   
葬儀の演出に思う             
新しき葬儀          
月と葬儀
満月と幽霊          
ゼロ・ポイント・フィールド仮説   
ホログラフィー理論          
「あとがき」



ロマンティック・デス」というコンセプトを33年も前に書籍として発表しました。いま、本書をリボーンしてみて、これは新しい死生観の提案だったのだと、改めて気づかされました。わたしは、「死を美化したい」、さらにいえば「死は美しくなければならない」と思いました。なぜなら、われわれは死を未来として生きている存在だからです。未来は常に美しく、幸福でなければなりません。もし未来としての死が不幸な出来事だとしたら、死ぬための存在であるわれわれの人生そのものも、不幸だということになってしまいます。わたしはマゾヒストではありませんから、不幸な人生など送りたくありません。幸福な人生を送りたいと思います



わたしたちは、この世に生を受けた瞬間から「死」に向かって一瞬も休まずに突き進んでいます。だからこそ、残された時間を幸福に生き、幸福に死にたい。これはわたしだけではなく誰もが願うことでしょう。言うまでもなく、わたしたち全員が「死」のキャリアです。ならば、あらゆる人々が「死のロマン主義」を必要としているのではないでしょうか。それが本書を書く発端であり、問題意識でした。わたしが経営する会社は冠婚葬祭業ですので、葬儀のお世話もさせていただいています。そのために、わたしが死を美化しているのではないかという意見もあるかと思います。しかし、はっきり言って、そんな単純な動機でも、考えでもありません。本書をお読みいただければ、いかに「死」が人生における最重要問題であり、「死」を考えることがそのまま「生」を考えることになるかということが、おわかりいただけると思います。



死は決して不幸な出来事ではありません。なぜなら、誰もが必ず到達する「生の終着駅」だからです。死が不可避なら、死を避ける、あるいは死を考えないのではなく、素晴らしい終着駅にするべきではないでしょうか。わたしは「終活(終末活動)」を「修活(修生活動)」と言い換えています。人生を修めるという意味です。「ロマンティック・デス」という考え方は、人生を美しく修めるためのイメージ・コントロールに役立ちます。かつて為政者たちは死後の世界を、知ることができない世界ゆえに不安視し、おびえました。エジプトのファラオたちは死後の世界をピラミッドという墓のもとに描きだしました。中国の始皇帝は自らの墓を無数の兵士たちに守らせました。ピラミッドや兵馬俑陵を作った行為を愚かな所業とは言えません。ですが、現代人は同じことをしないはずです。科学が発達し、さまざまな技術が生まれた今、いたずらにおびえる必要はないからです。



でも、相変わらず「死」はタブー視されています。人々は、死を恐れています。今こそ、人生の終着駅である「死」を考え、死までの「生」を充実させるべきではないでしょうか。わたしは「死」を考えることは人生をゆたかにする、心をゆたかにする行為であると信じています。死の不安や恐怖を乗り越えるために、前向きな死生観を現代人はもつべきではないでしょうか。わたしは本書に3つのテーマを与えました。まず第1は「死」です。人間にとって永遠の謎であり、不可知の死をイメージするための手助けになればという思いからです。第2は「月」としました。死後の世界観を示す試みです。そして、第3は「葬」。現代社会における「葬」の役割を、変わらないものと、変えていくべきものとの両面でとらえなおす作業となりました。誰もが幸福な死生観をもつことができるロマンティック・デスを目指して――わたしは恐れずに、今再びこのコンセプトを提案したいと思います。

ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

本書『ロマンティック・デス』を世に問うのは3度目です。最初は、440ページのハードカバーの単行本として国書刊行会から上梓しました。サブタイトルは「月と死のセレモニー」で、帯には「幸せな『死』を求めて」「空前のスケールで、新しい『葬』を提案する!」「死は決して不幸な出来事ではない! これが新時代の葬儀・墓地だ! 死にはじまる物語をかくも雄大に、かくもロマンティックに構想した例はない。あらゆる人々に夢と希望を与える光の書!!」と書かれています。わが求道の先達であり、魂の義兄弟である鎌田東二先生に捧げさせていただきましたが、その「あとがき」の最後には、「一ヵ月にも満たない超スピードで私に本書を書かせてくれた諸神仏に心からの感謝と祈りを捧げたい。最後に、すべての死者たちに愛を込めて、ペンを置こうと思う。一九九一年九月二二日、仲秋の名月の夜に」と書かれています。

ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫

 

2度目は、2005年8月に幻冬舎文庫化されました。
サブタイトルは「月を見よ、死を想え」でした。「出版寅さん」こと内海準二さんに編集プロデュ―スしていただきましたが、ハードカバーで440ページあったオリジナル版がコンパクトに圧縮され、大幅に改稿、再編集を行った結果、272ページの文庫版となりました。サブタイトルも改題しました。そのとき、芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久先生から「月落ちて天を離れず」という素晴らしい解説文を書いていただいて感激いたしました。そして、3度目となる今回、本名の 佐久間庸和として上梓いたしましましたが、またしても玄侑先生には推薦のお言葉を頂戴し、心より感謝しております。



単行本の初版が出てから、33年もの時間が経ったことに驚くとともに、わたし自身が冠婚葬祭会社の社長として奮闘した日々がよみがえります。この間、日本で超高齢化社会は加速度的に進行し、今や多死社会を迎えています。葬儀という儀式も、「家族葬」「直葬儀」「0葬」という簡素化の流れが止まりません。その一方で、日本初の月面着陸を目指す探査機「SLIM」(スリム)などを搭載した、国産の「H2A」ロケットの打ち上げに成功しました。月面の開発が現実味を帯びてきました。「月への送魂」のデモンストレーションはもう数えきれないほど行なってきましたし、さらにはホログラフィーを使った葬儀も実際に行なわれる時代となりました。

ロマンティック・デス』と『リメンバー・フェス

 

葬儀はアップデートされ、大きく変わってきましたが、変わらないものもあります。それは未だに「死」をタブー視することです。「死は不幸ではない」というメッセージをさらに強く、さらに広く伝えるために、本書『ロマンティック・デス』の姉妹本となるリメンバー・フェスを書きました。葬儀の後に続く、法事・法要・お盆といった供養のイメージ転換となる新時代の幸福論です。両書とも、4月23日に発売されます。ご一読下されば幸いです。

 

 

2024年4月19日  一条真也

AIによる死者の復活

一条真也です。
ヤフーニュースで「『パパ、ママ、会いに来たよ』AIで死者を“復活” 中国で新ビジネスが論争に『冒とく』か『心の救済』か」という記事を発見。「TBS  NEWS  DIG」が配信した記事ですが、グリーフケアに関係している内容であることは明らかなので、興味深く読みました。

ヤフーニュースより

 

記事は、世界では今、インプットされたデータから文章や画像などを自動で作り出す「生成AI」の技術が急速に進化していることを紹介されています。こうした中、中国では「生成AI」を使って亡くなった人を「復活」させるビジネスが登場し、論争を呼んでいるといいます。張沢偉さん(33)は去年、生成AIで死者を復活させるビジネスを始め、これまでにおよそ1000人の「死者を復活」させてきました。始めたきっかけは、友達から「お父さんを復活させてほしい」と依頼されたことでした。張さんは、「(AIで『復活』した父を見た)友達はとても感情的になり、涙を流しました。自分たちのやっていることは、人助けになるとわかったんです」と語っています。


一方で、2020年に事故で亡くなったアメリカのプロバスケットボールコービー・ブライアント選手が、なぜか流ちょうな中国語で「中国のファンのみなさん、こんにちは。コービー・ブライアントです」と語るシーンも紹介されています。このように、亡くなった有名人を生成AIで勝手に復活させてしまうケースも相次ぎ、「死者への冒とく」「肖像権の侵害」といった批判があがっているといいます。張さんは、悪用されないよう本人や家族の同意をとっているとした上で、生成AIの可能性について、「私は今、人々を救っていると感じます。人々に精神的な安らぎをもたらしているのです。私の夢は、普通の人がデジタルの力で『永遠に死なない』ことを実現することです」と述べます。最後に、記事には「急速に進むAI技術がもたらすのは心の救済か、それとも死者への冒とくか。重い問いを投げかけています」と書かれていました。

死んだ娘とVRで再会した母親

 

わたしは、ブログ「VRとグリーフケア」で紹介した、「ニューズウィーク日本版」ウエブ編集部の「死んだ娘とVRで再会した母親が賛否呼んだ理由」という記事を思い出しました。VR(バーチャルリアリティー)では、ヘッドセットとゴーグルをつけ、誰でも簡単に仮想現実の世界へ入って行けます。映画配給コーディネーターのウォリックあずみ氏が書いた同記事では、「VRで3年前に亡くなった娘と『再会』」として、2月6日に韓国で放送された「MBCスペシャル特集―VRヒューマンドキュメンタリー"あなたに会えた"」という番組を紹介しています。放送終了後から大きな反響を呼び、SNSや動画サイトでもすぐにアップロードされ拡散された番組です。


内容は、3年前に血球貪食性リンパ組織球症(HLH)を発症し、2016年に7歳で亡くなってしまったカン・ナヨンちゃんとその家族、主に母親との再会の話です。記事には、「ナヨンちゃんは発症後、ただの風邪だと思い病院を受診したところ、難病が発覚し入院。その後たった1カ月で帰らぬ人となってしまった。家族は3年以上たった今でもナヨンちゃんの事を思い続け悲しみに暮れている。そんな家族を少しでも救えるのではないかと、MBC放送局はVR業界韓国内最大手である『VINEスタジオ』社と手を組み、ナヨンちゃんと母親を仮想現実の中で再会させる計画を開始した」と書かれています。


その制作方法ですが、記事には、「VR画像の中にそっくりのナヨンちゃんを再現させる作業は、家族が生前に撮影した写真や動画から、ジェスチャー/声/喋り方を分析することから始まったという。そして、不足部分は同じ年ごろのモデルに動いてもらい、160個のカメラで360度撮影できるモーションキャプチャー技術を用いたという。さらに、声の部分はセリフをしゃべらせるために、ディープラーニングと呼ばれるAI技術を駆使している。生前の1分余りの声データに5人の同年代の子どもの声をそれぞれ800文章ずつ録音して、それをAIでナヨンちゃんの声に再構築するのである。気になる製作費だが、番組制作費1億ウォン(920万円)だったと公表されており、そのほとんどがナヨンちゃんのCG制作に使われた費用だという」と書かれています。

CGで蘇ったナヨンちゃん

 

さらに記事には、「10分程度のVRの内容は、ナヨンちゃんが林の中に登場し、母親と再会し、その後誕生日を祝う。ケーキの横にはナヨンちゃんが好きだった『꿀떡クルトッ』と呼ばれる韓国のお餅も並んでいる。これは、制作過程のインタビューで事前に父親からナヨンちゃんの好物をリサーチし反映させたのだという。その後、母親へ手紙を読んで、ベッドに横たわる。『もう悲しまないで、思いつめないで。ただ、愛してね』と告げて眠りにつくナヨンちゃん。多少、アニメっぽさはあるにしても、顔や声はVR体験をした家族には十分な再会となった」と書かれています。その動画をわたしも観ましたが、泣けて仕方なかったです。亡くなったわが子に会いたいという想いが痛いほど伝わってきました。わたしの2人の娘はともに元気ですが、彼女たちがじつは幼い頃に死んでいて、VRで再会したシチュエーションを想像すると、もうボロボロ涙が出てきました。子を持つ親なら誰でも感動する映像です。

再会後さらに心を痛めないか?

 

しかしながら、放送後の反響は賛否両論だったようですね。ウォリックあずみ氏は「愛する者を失くした心の治癒になるかもしれないが、その傷が深かった分、しっかりした考えを持っていない場合、どこかのSF映画のように仮想現実の世界にのめり込んでしまう危険性もありえる。企画が公になるにつれて、予告編を見た視聴者からは感動を期待する一方、『再会後さらに心を痛めるのではないか』と母親を心配する声も上がった」と書いています。放送終了後には、多くの賞賛と共に、一部反対意見も上がったそうです。その多くが、「VRの技術は素晴らしいが、それを幼い娘を失くした家族を通してTV放送するのはいかがなものか」と疑問視する声でした。さらに、「母親の今後の心のケアは万全の体制を取っているのか」などと指摘する書き込みも見られたとか。

 

映画ビジネスに携わるウォリックあずみ氏は、「昨今ハリウッドで浮上している問題と同様に、亡くなった人の著作権も問題視される。AIを駆使し亡くなった人をスクリーンに出演されることは倫理上どうなのか、今後悪用される心配はないのか。これからさらに論議されていくことだろう」と書いています。2019年のNHK紅白歌合戦で登場した“AI美空ひばり”を連想してしまいます。最後に、ウォリックあずみ氏は「VRはあくまでも“仮想”現実である。気軽に、より精巧になっていくVR技術にのめり込み仮想世界に行ったきりで戻れなくならないように、今後はVRによる心のケアも重要視されるだろう」と述べます。


VRといえば、ブログ「三体」で紹介したNetflixドラマに登場する究極のVRゲームを連想してしまいました。登場人物がVRヘッドセットをかぶると、ゲームとは思えない質感のヴァーチャル世界の一員となります。そして生身の人間のような人物が現れます。VRヘッドセットは今の文明では成し遂げられないような高度な技術の代物でした。登場人物の1人であるジャックはこのVRゲームを「5世代先のマシンだ」と言います。そこには完全なる仮想現実が生まれるわけですが、古代中国、16世紀初頭のイングランド魔女裁判が盛んな中世ヨーロッパ、チンギスハンの時代のモンゴルなどの世界が出現しますが、いずれの世界でも同じ少女が登場し、ゲームオーヴァーになるたびに彼女は死んでしまいます。このVRゲームの1つの目的は、彼女の命を救うことでした。

「AI菜奈ちゃん」と会話する 翔太

 

VRまで行かなくても、AIによる死者の復活ということでは、ブログ「あなたの番です」で紹介した2019年の日本テレビ系「日曜ドラマ」で放送されたドラマを思い出しました。主人公の手塚翔太(田中圭)は、愛妻の菜奈(原田知世)を何者かに殺されました。翔太はその犯人を捜すべく復讐鬼と化します。しかし、菜奈を亡くした翔太の喪失の悲嘆は大きく、それを見かねた横浜流星演じる二階堂忍が翔太のために「AI菜奈ちゃん」というアプリを製作します。これこそ、故人と会話できるというグリーフケア・アプリなのでした。翔太が「AI菜奈ちゃん」と会話するシーンは、韓国人女性がVRで3年前に亡くなった娘のナヨンちゃんと再会したエピソードを連想しました。そして、AIを駆使したグリーフケアの可能性は否定はしないまでも、やはり強い違和感を抱いたことも事実。グリーフケアにおいては「忘れる力」も大切だと思いました。


グリーフケアといえば、このドラマの主題歌は「会いたいよ」というグリーフケア・ソングになっています。田中圭が手塚翔太の役名で歌っているのですが、これが沢田知可子「会いたい」平井堅「瞳を閉じて」を足して2で割ったような歌で、正直言って白けました。「会いたい」と「瞳を閉じて」は感動の名曲ですが、「会いたいよ」にはまったく感動できませんでした。作詞は秋元康です。「あなたの番です」というドラマ自体の企画・原案も秋元康となっています。わたしは彼の仕事にはいつも「あざとさ」を感じてしまうのですが、今回も同じです。いかにも「グリーフケア・ソング」といった感じの歌が「こんなもんだろう」とパパッと作られた印象で、複雑な気分になりました。「AI菜奈ちゃん」をLINEで展開したことなども含めて、「グリーフケアをなめるなよ!」と言いたくなりましたが、「まあ、秋元康のような稀代のトレンド仕掛人グリーフケアに注目したということは興味深いな」と、当時は思ったものです。

愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

 

PHP文庫化が決定した拙著愛する人を亡くした人へ(現代書林)にも書きましたが、わたしは、人間にとっての最大の苦悩は、愛する人を亡くすことだと思っています。老病死の苦悩は、結局は自分自身の問題でしょう。しかし、愛する者を失うことはそれらに勝る大きな苦しみではないでしょうか。配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかるといわれています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。この世にこんな苦しみが、他にあるでしょうか。あまりの苦しみの大きさ、悲しみの深さから自ら命を絶とうする人も多いです。



東日本大震災後には多くの幽霊現象が報告されましたが、あれも「どうしても故人に再会したい」という遺族の脳内VRという側面があったと思います。死者と再会するというのはオカルトの世界であり、スティーヴン・キング原作のホラー小説を映画化した「ペット・セメタリー」が描いた恐怖に通じるという見方もあるかもしれません。死者を復活させる森の存在を知った夫婦が、亡くなった幼い娘を蘇らせるのですが、悲惨な結果となる話です。グリーフケアの物語が一気にホラーに転化する最適の例だと言えますが、結局は「人智を超えた神の領域」を侵してはならないということでしょう。テクノロジー全体の問題ですが。



わたしは、生成AIさらにはVRは、今後のグリーフケアにとって大きな力になるような気がします。もちろん、韓国の人々が危惧したように「再会後さらに心を痛めるのではないか」という問題もあります。しかし、その点に注意しながら、グリーフケアにおけるVRの可能性は探るべきでしょう。仮想現実の中で今は亡き愛する人に会う。それはもちろん現実ではありませんが、悲しみの淵にある心を慰めることはできるはずです。何よりも、自死の危険を回避するだけでもグリーフケアにおけるVRの活用は検討すべきではないかと思います。

f:id:shins2m:20190817095753j:plainグリーフケアの時代』(弘文堂)

 

緊急処置としてのVRで急場を切り抜けて、その後にカウンセリングなどによって「愛する人を亡くした」現実の人生を生きる道を歩み出すことができればいいのではないでしょうか。くれぐれも、「たらいの水と一緒に赤子を流す」という愚を犯してはなりません。わたしが上智大学グリーフケア研究所客員教授として書いた共著者グリーフケアの時代(弘文堂)においては「映画とグリーフケア」について考察しましたが、今後は「AIとグリーフケア」についても考えていきたいと思います。

 

 

グリーフケアは無(亡)くしてしまったもの忘れることでなく、その瞬間からの人生をその悲しみと共に生きていくための手助けです。手助けであるがゆえに悲嘆の対象者(クライアント)がどのように悲しみと寄り添って生きていくかは、クライアントの心のうちのこととなり、これはどのようにと強制できるものではありません。冒頭のAIで死者が復活する記事を読んで、わたしは劇薬のようなイメージを抱きました。SF作家のフレデリック・ポールの『ゲイトウェイ』をはじめとするヒーチー年代記と言われる一連のシリーズに「デッドメン」という、死んだらその頭脳を機械に組み込んで生き続けるエピソードがあります。もちろん現在の技術では不可能なことであり、今の段階では強すぎる劇薬だと言えるでしょう。


ホログラフィーで故人の姿が浮かび上がる!

 

死者と再会するテクノロジーということでは、わたしは、ホログラフィーに大きな期待を抱いています。ブログ「武田七郎氏お別れの会」ブログ「神田成二氏お別れの会」で紹介した、冠婚葬祭互助会の大手であるアルファクラブ武蔵野さんが開かれた「お別れの会」では、ホログラフィーによって等身大の故人の生前の姿が立体で映し出されたではありませんか! これはパーソナルなVRなどと違って、参加者全員が目にすることができるオープンな「幽霊づくり」です。これを見たときは非常に感動しました。 


ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

1991年に上梓した拙著ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー国書刊行会)で、わたしは21世紀の葬儀は故人の生前の面影をホログラフィーで再生すべきと提唱しましたが、完全に実現されていました。そして、このたび、同書がロマンティック・デス~死をおそれないオリーブの木)として3回目の復活を遂げました。同時刊行のリメンバー・フェス~死者を忘れないオリーブの木)とともに「R&R」本として死生観のアップデートを目指します。新時代の葬儀や供養について書いていますので、ぜひ、ご一読下さい!

ロマンティック・デス』と『リメンバー・フェス

 

2024年4月18日  一条真也

冠婚葬祭からK2S2へ 

一条真也です。
18日の早朝、松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。わが社は「礼の社」を目指していますので、何よりも儀式を重んじます。「こころ」も「かたち」も大切!

月次祭のようす

厳粛な気持ちで神事に臨む

玉串奉奠をしました

柏手を打ちました

 

皇産霊神社の瀬津禰宜によって神事が執り行われました。サンレーグループを代表して、わたしが玉串奉奠を行いました。会社の発展と社員の健康・幸福、それに能登半島地震の被災者の方々の日常が早く戻ることを祈念しました。

東専務に合わせて柏手を打つ

東専務に合わせて拝礼

 

この日は、わたしに続いて東専務が玉串奉奠をしました。東専務と一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。その拝礼は素晴らしく美しいものでした。わが社が「礼の社」であることを実感しました。儀式での拝礼のように「かたち」を合わせると「こころ」が1つになります!

「天道塾」の開催前のようす

最初は、もちろん一同礼!

社長訓話で登壇しました

最初に「オッペンハイマー」の感想を述べました

 

神事後は恒例の「天道塾」です。この日も松柏園のメインバンケットグランフローラ」で行われました。最初にわたしが登壇し、開塾の挨拶をしました。わたしは「おはようございます!」と言ってから、」まずは、前回の天道塾で取り上げたブログ「オッペンハイマー」で紹介した原爆開発者の伝記映画について話しました。クリストファー・ノーラン監督の作品ですが、第96回アカデミー賞では作品賞を含む7冠に輝きました。アカデミー賞の授賞式は、日本時間の3月11日でした。「3・11」という日本人にとってのグリーフ・デーの当日に、日本人にとって最大のグリーフといってもよい原爆の開発者についての映画がアカデミー賞で旋風を起こしたのは複雑な気分でした。


日本人はセカンド・グリーフを負った

 

原爆は核兵器です。核兵器というのは世界史上で2回しか使われていません。その土地は日本の広島と長崎です。ですから、被爆国である日本の人々は、当事者として、映画「オッペンハイマー」をどこの国の国民よりも早く観る権利、また評価する権利があると思いました。本当は、「オッペンハイマー」は昨年8月6日の「広島原爆の日」までには公開されているべきだったと思います。日本人のグリーフを無視した映画がアカデミー賞作品賞を受賞した事実によって、日本人はセカンド・グリーフを負いました。


オッペンハイマー」には礼の精神がなかった!

 

オッペンハイマー」の製作陣は、日本の観客に「礼」を欠いたのです。本当は、映画の冒頭に「広島および長崎に投下された原爆の犠牲者の方々に心より哀悼の意を表します」といったクレジットを入れるべきでした。タイタニック(1997年)がアカデミー賞で作品賞や監督賞など11部門に輝いたとき、ジェームズ・キャメロン監督は「この映画は多くの人が亡くなった悲劇を描いている。何よりも犠牲者に哀悼の意を表したい」とアカデミー授賞式でスピーチしましたが、死者に対する「礼」の精神がクリストファー・ノーラン監督にはありませんでした。


「三体」について語る

 

続いて、Netflixドラマ「三体」を紹介しました。ヒューゴー賞を受賞した中国のSF作家、劉慈欣(リー・ツーシン)の世界的ベストセラー小説『三体』三部作を原作にした超大作SFドラマです。物理学者の父を文化大革命紅衛兵によって殺害され、自身も反体制派のレッテルを貼られ過酷な労役に従事させられていた元エリート宇宙物理学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、絶望の日々を送っていました。ところが、ある日突然、彼女は巨大パラボラアンテナを備えた謎めいた軍事基地に連れて行かれ、そこで働くよう命じられます。そこでは地球外生命体との交信という驚くべきプロジェクトが秘密裏で進行していました。そして、物語の舞台は現代のイギリスに飛びます。


文化大革命について語る


熱心に聴く人びと


etflix版ドラマ「三体」の冒頭は、中国の文化大革命のシーンでした。ジーン・ツェンが演じる葉文潔(イェ・ウェンジェ)という若い女性が、中国の文化大革命の最中に大学教授の父親が紅衛兵から殴り殺されるのを目撃します。中国では、孔子以前から祖先崇拝の精神が強く伝えられ、その家族愛や信義などを孔子の言行録である『論語』にまとめられました。この精神は脈々と受け継がれ、中国大陸の十数回に及ぶ「易姓革命」や、封建的な伝統文化のすべてを悪と決め付けて破壊しようとした中国共産党の「文化大革命」という逆風のなかでも生き残ったのです。 その一方で、「仁・義・礼・智・信」といった道徳心や倫理観は、文化大革命の影響で、最終的には完全に失われてしまいました。


「三体」と「三礼」について


熱心に聴く人びと

 

中国で毛沢東が「文化大革命」を起こした1966年に、日本でわが社(サンレー)が誕生しました。「批林批孔」運動が盛んになって、孔子の思想は徹底的に弾圧されました。世界から「礼」の思想が消えようとしていたのです。まさにそのとき、日本の北九州の地において「創業守礼」と「天下布礼」の旗を掲げるサンレーが誕生したわけです。この意味は大きいと思っています。「礼」とはもともと「葬礼」から生まれ、発展したとされています。「三体」の中で異星人のアバターであるソフォンが「人間は簡単に死ぬ」と言い放つシーンがありますが、わたしは「人間が死ぬのは当たり前だ」と思いました。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。そう、問われるべきは「死」ではなく、「葬」なのです。さらに、わたしは「葬」とは人類を存続させる究極のSDGsだと考えています。


R&R本の見本を掲げる

 

続いて、次回作ロマンティック・デスリメンバー・フェス(ともに、オリーブの木)のR&R本の見本が届いたので、それを見せました。発売日は4月23日ですが、作家・福聚寺住職の玄侑宗久先生と東京大学名誉教授の矢作直樹先生からの過分な推薦の言葉も寄せられ、アマゾンで予約注文を受け付けています。両書ともZ世代を中心とした若い読書に向けて書いた本ですが、4月1日に入社した新入社員もZ世代です。志を同じくする彼らがいれば、「天下布礼」の火は消えないと信じています。

R&Rで死生観のRevolutionを!

 

ロマンティック・デス』は、月を死後の世界に見立て新時代の「葬」の書です。古代人たちは「魂のエコロジー」とともに生き、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。また、『リメンバー・フェス』は、お盆をはじめとした先祖供養をアップデートする考え方を示した本です。ブログ「リメンバー・ミー」で紹介した名作アニメ映画からインスパイアされて生まれた本です。2冊合わせて、死生観のアップデートを目指したいです。死生観をめぐっては、東京大学名誉教授で宗教学者島薗進先生との対談本ももうすぐ出版されます。


「不適切にもほどがある!」について

 

それから、「オッペンハイマー」の日本公開日である3月29日に最終回が放送されたブログ「不適切にもほどがある!」で紹介したドラマに話題を変えました。1986年(昭和61年)から2024年(令和6年)にタイムスリップしてしまった体育教師の小川市郎(阿部サダヲ)。典型的な“昭和のダメおやじ”です。彼の“不適切”な言動がコンプライアンスで縛られた令和の人々に衝撃を与えるとともに、「何が正しいのか」について考えるヒントを与えました。毎回、昭和と令和のギャップなどを小ネタにして爆笑を誘いながら、「多様性」「働き方改革」「セクハラ」「既読スルー」「ルッキズム」「不倫」「分類」、そして最終回は「寛容」と社会的なテーマをミュージカルシーンに昇華するのが最高でした。

「結婚して幸せ」って言っちゃいけないの?

 

令和の時代について「多様性の時代です」と説明する女性に対して、小川は「『がんばれ!』って言われたら、1ヵ月でも会社を休んでいい時代?」と問いかけます。また、「『結婚だけが幸せじゃない』って言うけど、じゃあ『結婚して幸せ!』って言っちゃいけないってこと?」という小川の言葉は胸に突き刺さりました。不適切の概念など、時代によっていくらでも変わります。しかし、人間が社会を築いて以来、ずっと変わらないものもあります。わたしは、その1つが「礼」だと思います。コンプライアンス社会の最大のタブーは、ハラスメントです。わたしは、ハラスメントの問題とは結局は「礼」の問題であると考えています。「礼」とは平たく言って「人間尊重」ということです。この精神さえあれば、ハラスメントなど起きようがありません。心の底から、そう思います。


「礼」から「和」へ


食い入るように見る人びと

 

「礼」を重んじるわたしの考え方は、佐久間進名誉会長ゆずりです。ちなみに名誉会長は昭和10年生まれですが、偶然にも「不適切にもほどがある!」の小川市郎と同い年です。佐久間名誉会長は、著書『礼道の「かたち」』(PHP研究所)において、「日本は和の国として、世界的に見ても稀有な、きわめて多様性に富んだ文化を持っています。日本人が持つこうした多様性や柔軟性の根底には、日本独自の和の精神や和の文化があります。この和が、さまざまな思想や文化を平和裏に共存共栄させる素地になっているのです」と述べます。令和の時代になって「多様性」を声高に叫ばなくても、日本はもともと多様性に富んだ社会であり、それは「和」の一語に象徴されています。


「わっしょい」とは「和を背負う」こと


「笑い」とは「和来」である!

 

そういえば、昭和にも令和にも「和」が入っていますね。聖徳太子の「和をもって貴しとなす」のルーツは『論語』で、「有子が日わく、礼の用は和を貴しと為す」という言葉です。「和」を実現するには「礼」の存在が不可欠なのです。このように、「オッペンハイマー」も、「不適切にもほどがある!」も、礼という視点から語れます。人間がいる限り、礼は普遍のテーマ。そして、「礼」こそが「和」を実現する。祭りのときの掛け声である「わっしょい」というのは「和を背負う」が語源だそうです。また、「笑い」とは周囲を和ませ平和を呼び込む「和来」という意味があると思います。さらには、大本教の出口王人三郎も言うように、神事の柏手は「火水(かみ)」を呼び込む「産霊」の秘宝だということを紹介しました。


「産霊」こそ究極の秘宝である!

 

わたしは、5月13日に、本屋大賞作家である町田そのこ氏と「葬儀」や「グリーフケア」をテーマに対談します。29日には、芥川賞作家で福聚寺住職の玄侑宗久先生と「仏教と日本人」をテーマに対談します。そんなわたしが常に考えているのは「冠婚葬祭のアップデート」です。冠婚葬祭は究極のSDGsです。Z世代も、子どもたちも、ずっと冠婚葬祭という文化を受け継いでいってほしいと願いますが、もちろん時代に合わせたアップデートが求められます。冠婚葬祭文化振興財団主催の小学生の絵画コンクールで「私のした結婚式」というテーマの応募作品が劇減しています。それは、小学生たちが結婚式に参列した経験がなく、存在そのものを知らないからです。


「K2S2」を初めて提唱しました


冠婚葬祭をPOPに表現しよう!

 

そこで、わたしは『こども冠婚葬祭』という本を企画し、さらには冠婚葬祭を「K2S2」と言い換えてプロモーションすることも視野に入れています。というわけで、「天下布礼」に休みはありません。冠婚葬祭に代表される儀式とは人類の行為の中で最古のものであり、哲学者ウィトゲンシュタインは「人間は儀式的動物である」との言葉を残しています。「人間が人間であるために儀式はある」とはわたしの言葉ですが、儀式こそは人間にとって最重要の精神文化であると言えるでしょう。


文化としての冠婚葬祭に光を当てよう!


最後は、もちろん一同礼!

 

わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考えます。本能であるならば、人類は未来永劫にわたって結婚式や葬儀を行うことでしょう。冠婚葬祭互助会業界の人々も、前受金ばかりに縛られて未来に対する悲観的な見方を持つのではなく、もっと文化としての冠婚葬祭に光を当てなければなりません。そこに道は開けます。わたしたちの仕事には普遍性があり、どの世界であっても、いつの時代であっても、世の人々を幸せにできるのです。さらに励みましょう!」と言って、降壇しました。

 

2024年4月18日 一条真也

『闇の精神史』

闇の精神史 (ハヤカワ新書)


一条真也です。
『闇の精神史』木澤佐登志著(ハヤカワ新書)を読みました。思想やポップカルチャー、アングラカルチャー、インターネット文化など、幅広い領域で執筆活動を行っている著者の『SFマガジン』での2年間の連載をもとにした一冊です。著者は1988年生まれ。文筆家。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、『ニック・ランドと新反動主義』、『失われた未来を求めて』、共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)があります。

本書の帯

 

本書の帯には、「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか?」と書かれています。カバー前そでには、「19世紀ロシアに生じた、ロシア宇宙主義と呼ばれる思想潮流。分子となって銀河に散らばる全祖先の復活を唱えるその特異な哲学は現代に回帰し、ウクライナ侵攻の思想的背景とされる新ユーラシア主義や、テクノロジーによる不死を目指すトランスヒューマニズムに巨大な影響を与えている――。どんづまりの現実、その外部としての『宇宙(スペース)』。頭上の暗闇に、人は何を見るのか。『土星からの使者』サン・ラーら黒人アーティストのアフロフューチャリズム、そしてサーバースペース/メタバースまでを繋ぎ論じる」と書かれています。

本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」
第1章 ロシア宇宙主義
1 新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ
2 死者の復活――ニコライ・フョードロフ
3 実体化する「精神圏」――現代ロシアにおける展開①
4 新ユーラシア主義――現代ロシアにおける展開②
第2章 アフロフューチャリズム
   ――故郷としての宇宙

1 止まって、僕を乗せておくれ――サン・ラー
2 未来は黒い――リー・ペリー
3 変性=変声するヒューマ二ティ――サイボーグ化の夢
第3章 サイバースペース
   ――もうひとつのフロンティア

1 1984年――
  ニューロマンサーマッキントッシュ、VR

2 幸福な監禁――行動分析学ユートピア
3 人はなぜ炎上するのか――SNSと道具主義
4 メタバースは「解放」か?――精神と肉体の二分法
5 身体というアーキテクチャ
  ――私がユートピアであるために

 終章 失われた未来を解き放つ


「まえがき」を、著者は「2023年8月27日、日本人1名を含む宇宙飛行士4名を乗せたスペースXの宇宙船クルードラゴンが、国際宇宙ステーション(ISS)とのドッキングに成功した。クルーは半年間滞在し、人類の宇宙飛行によって病原菌が拡散する潜在的リスクを調べるなど、数々の実験が行われる2011年にNASAスペースシャトルが引退して以来、ISSへの宇宙飛行士の輸送はロシアの宇宙船ソユーズが独占していた。2020年、その状況に終止符を打ったのが、クルードラゴンの登場だった。スペースXのCEO――そしてX(旧ツイッター)のオーナーでもある――イーロン・マスク当人に言わせれば、これはほんの序の口ということになるだろうか。なにせマスクは、2050年までに100万人を火星に移住させることを目標に掲げているのだから」と書きだします。



また、「この世界の外側に、まったく別の新しい世界が存在する」という主題に近代以降の人間は遍く取り憑かれてきたといいます。それこそ無意識的な強迫観念のように。17世紀に登場した、地球から遠く飛翔した天空界への旅物語の一群を、『月世界への旅』の著者M・H・ニコルソンは「宇宙旅行」と呼んだことを紹介しつつ、著者は「同時に、そうした地球外の世界を幻視したトリップ譚は、(当時最先端のテクノロジーであった)望遠鏡を覗き込んだ先、漆黒の闇の向こう側に未知の空間を見出したガリレオに象徴される、同時代に勃興しつつあった新たな科学や人文学と複雑に絡み合いながら相互に規定し合っていることをもニコルソンは指摘してみせていた」と述べます。


現代は、いかにして現行の社会を「持続可能」なものにするかといった観点からしか未来を思い描くことができません。そんな闇の中にあって、それでも時間に断絶をもたらすユートピアを、言い換えれば、わたしたちの「既知」の外部に広がる様々な空間=スペースを構想し切り拓くことは、果たしてどのようにすれば可能になるのだろうかと問う著者は、「たとえば、イーロン・マスクによる宇宙開拓の試み、民間航空宇宙企業のスペースXを立ち上げた背景には、そうした『持続可能』な未来は幻想でしかなく、実のところ『持続可能』ではないのではないか、という問題認識が深く関わっているように見える。マスクは、さほど遠くない未来、人類は存亡の危機に瀕するであろうと主張する。最終的には何らかの『終末的な出来事』(疫病、超巨大火山、小惑星、戦争、技術的特異点の暴走)が地球上で起きるので、人類は別の場所を目指すべきなのだ、と」と述べています。


火星は、マスクにとって、その最良の選択肢のひとつにすぎません。この点、資源獲得を主要な目的として宇宙開発を推し進めるジェフ・ベゾスとは対照的だと、著者は見ます。人類を多惑星種化することで人類の絶滅を防ぐこと、これこそマスクの遠大な「目標」にほかならないのです。著者は、「マスクのSF的ヴィジョンの根幹に「長期主義」(longtermism)と呼ばれる倫理観が潜んでいることを指摘するのは、アメリカの環境学者タイラー・オースティン・ハーパーである。彼が『デイリー・ビースト』に寄稿した記事によれば、長期主義者は、現在や近い未来よりも遠い未来を道徳的に重要視する。したがって意思決定の際にも、数千年後、あるいは数百万年後に生きるであろう遠い未来の人間を優先させなければならない、と彼らは主張する」と述べるのでした。

 

 

第1章「ロシア宇宙主義」の1「新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ」の『赤い星』では、1908年、火星を舞台にした1冊のユートピア説がロシアで出版されたことが紹介されます。題名は『赤い星』で、著者はマルクス主義哲学者のアレクサンドル・ボグダーノフでした。彼はロシア革命を主導した党「ボリシェヴィキ」の活動家でもあり、レーニンと並ぶ指導者的なポジションにいました。しかし、やがてボグダーノフはレーニンと対立、ボリシェヴィキを離脱します。1917年の十月革命の際には、プロレタリア階級独自の文化を建設しようとする運動組織「プロレトクリト」の理論的指導者となっています。「血液交換の実験」では、ボグダーノフは、人間の集団的な進化に伴って、ある種の「不死」を獲得できるようになると信じていたことが明かされます。小説『赤い星』の中では、火星人たちはお互いの血液を交換しあうことで、互いの生命を高めるための様々な条件を伝えあっています。そして、やがて、全人類が文字通りの血縁関係となることを訴えるのです。

 

「『不死』『復活』『宇宙進出』の哲学」では、ボグダーノフの「不死」と「新しい人間」をめぐる実験は、テクノロテクノロジーの力で延命や死の実現を目指すトランスヒューマニストたちの営為に受け継がれていると指摘します。しかし一方で、ボグダーノフの思想的ルーツの1つであり、またある面ではボグダーノフよりも巨大なスケールで「不死」の哲学を、そして「復活」と「宇宙進出」の哲学を唱えた一群の思想が19世紀ロシアに存在していたことも指摘します。それはニコライ・フョードロフに代表されるロシア宇宙主義と呼ばれる思想潮流であるとして、著者は「ロシア正教に根ざしたスラヴ派のフョードロフの教義は、ソ連時代には抑圧されていたが、ソ連の終焉、言い換えれば〈未来〉の終焉に伴い再び日の目を見るようになった。いま、未来が終わった後の世界である現代において、フョードロフのロシア宇宙主義が奇妙な軌道を描きながらロシアに回帰しつつある」と述べるのでした。


2「死者の復活――ニコライ・フョードロフ」の「進化、ネットワーク、宇宙」では、著者は、19世紀後半を境に2つの主題系が突如として西欧に現れたかのようであると言います。1つは「進化」(ダーウィンの『種の起源』は1859年に出版されている)、もう1つは「ネットワーク」(イギリスで近代郵便制度が確立されたのは1840年である)。そして、測量船サイクロプス号が大西洋の深海から採取した軟泥生物こそは、いわばその2つの主題を結びつけるミッシングリンクに他ならなかったのではないかとして、著者は「進化論とグローバルなネットワーク観が交叉するところに、まったく新しいタイプのヴィジョンが現れてくる。ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの『精神圏』、ウラジーミル・ソロヴィヨフの『世界魂』と『神人』、(トーマス・ヘンリー・ハクスリーの孫でもある)ジュリアン・ハクスリーの『トランスヒューマニズム』、ボリシェヴィキにおける建神主義、等々・・・・・・。


進化、ネットワーク、そして宇宙。19世紀後半を境にしてプレゼンスを高めてきたこれら3つの主題が交叉するところに、ロシア宇宙主義を置くことができるように思えるという著者は、「もちろん、ロシア宇宙主義をロシア特有のコンテクスト――ロシア正教とメシアニズム、ユーラシア主義、ソボールノスチ、等々――から離れて語ることはできない。だが、ロシア宇宙主義に数えられる思想家たちが、西欧における『同時代性』からまったく無縁でいながら自身の思想を紡ぐことが果たしてできただろうか。あらかじめ論旨を先取りして言えば、彼らは常に西欧に目を向けながら、だが同時に西欧=近代を超克することにこそ、自らの思想の賭金を置いたのである」と述べます。



「モスクワのソクラテス」では、フォードロフが、近親者(父祖)の死を、自分たちに命を与えた前の世代を、自分たちの世代が排斥することで起こる交代として捉えていたことが紹介されます。「血縁」と「人はみな死ぬ」という観念は、叔父の死という決定的な出来事によってひとつに結合し、ついに独創的な啓示、すなわち「私たち、すなわち理性的存在を通して自然が完全な自意識と自己支配を獲得するという考え」「破壊された、あるいは現在も破壊されつつある一切を再建し、それによって神の意思を果たし、神の、創造主の似姿となるという考え」をフョードロフに与えることになりました。


1851年秋から、地方の学校で歴史と地理の教師になる1854年2月まで、言い換えれば彼にとっての22歳から24歳までの約2年半の間、フョードロフはどこにも勤めず、一切の足跡を残していません。しかし、この時期は彼にとってもっとも重要な時代であり、いわば自らの思想と理念を発見する自己確立の時代であったといえとして、著者は「フョードロフの理念の中心には常に復活の宗教、すなわちキリスト教――ロシア正教――があった。人類は、父祖の神の意志、全員の救済を望む神の意志の、意識的にして能動的な武器とならねばならない。すべての人間が積極的に贖罪の事業=労働に参加することではじめて罪は浄化され普遍的救済が完遂されるだろう。フョードロフの理念の中心に位置するのはこうした黙示録的ヴィジョンである。とりわけ彼を魅了したのは福音書の言葉たちであった」と述べています。


「死者復活のプロジェクト」では、神の意志、すなわち「世界に原初の不死の状態を回復する」という意志は、他でもない人間の理性を通して、それも統一された全人類の集団的な総体を通してこそ実現されると、フョードロフが確信していたことが指摘されます。著者は、「フョードロフにとって死者の復活は、新たな世代の誕生のために生命の舞台から排斥された先祖たちの亡霊に対して私たちが負っている道徳的義務ですらある。先祖たちに生命を返すこと。先祖という亡霊が未来から回帰する。他方、この復活の大事業を完遂するためにも、生殖=人間の再生産のために費やされている余剰のエネルギーを、創造と再生の方向へと転化させなければならない、とフョードロフは主張する」と述べています。


それでは、死者の復活の事業とその方法とは何か。まず第一に、死者たちの遺骸の分散し飛散してしまった諸々の破片を寄せ集め、「外界のあらゆる分子や原子の認識、統御」に基づいて、それらを元通りに復元していきます。フョードロフにとっては、腐敗も粒子状に拡散して消滅した肉体も、復活のための妨げにはなりません。大気の中に分散してしまった分子状の粒子を集めるために、事業は宇宙全体にまで広がるでしょう。フョードロフにとって、世界は、また宇宙は、祖先たちの痕跡が宙に遍在して舞う亡霊空間にほかならないのです。


わたしたちの身体細胞は、そのひとつひとつにユニークな遺伝の痕跡――身の有機体に関するあらゆる遺伝情報――が刻印されているとして、著者は「フォードロフの実践的教義は、ひとつの細胞から遺伝的コピーを創り出すという現代におけるクローニングの考えを部分的に先取りしているともいえる。フョードロフのヴィジョンにおいては、文字通り子が、あたかも『自分のなかか』」生み出すように、父を復活させ、さらにその父が父を復活させていき、ついには原初の人間――アダムにまで至る」と述べます。


3「実体化する『精神圏』――現代ロシアにおける展開①」の「トランスヒューマニズム」との交点」では、革命広場のカール・マルクス記念碑前で行われたアナスタシア・ガチェバの演説が取り上げられます。彼女は、よく通る透明な声で、「20世紀は、宇宙への進出という大きな成果がありました。しかし、私たちのような短命な存在では、その仕事を成し遂げることはできません」と言いました。続いて彼女は、ソ連生物学者ワシリイ・クプレヴィッチが60年代に発した「数十年しか生きられない人間が宇宙を制覇することはできない、1日しか生きられないカゲロウが海を渡ることができないように」という言葉を引用したのです。そして、彼女は「火星や他の銀河に行くためには、不老不死にならなければなりません。肉体を改造する必要があるのです。哲学者のニコライ・フョードロフが言ったように、『我々の肉体は我々の原因となる』のです。不老不死の思想は、深い道徳的な思想です。科学は私たちの道具であることを忘れてはいけません。また、主(Lord)が死を創ったのではないことも忘れてはいけません。科学は、生命、不死、そして復活に奉仕すべきなのです!」と締めくくったのでした。

 

いわゆるトランスヒューマニズム的な欲望、たとえば身体のサイボーグ化や薬物やテクノロジーによる各種のエンハンスメント、不死になることを目的に、コンピュータなど、なんらかのハードウェアに自身の脳内に存在する意識データをプログラムやデータとしてアップロードすること(=マインド・アップローディング)、あるいはもう少し愚直に(?)、自身死体を極低温保存して然るべき技術の整った未来に解凍してもらうことの望みに賭ける人体冷凍保存、等々は往々にしてアメリカ、とりわけシリコンバレーの専売特許という印象がある。


端的に言えば、共産主義は時間の問題、言い換えれば死の問題を解決することができなかったといいます。フォードロフの思想は、ソ連時代になると「宗教的すぎる」という理由で追放されました。しかし1960年代、宇宙時代がはじまると、フォードロフの宇宙主義は一部で再度注目されるようになりました。著者は、「宇宙への進出に伴い、人間の空間的な限界にブレイクスルーが訪れたことで、必然的に人間の短い寿命という時間的な限界に着目されるようになったからである。だがフョードロフはその100年前に、この2つの問題は同時に追求されなければならないと説いていた。20世紀初頭におけるフョードロフ信奉者の多くは、ロシア革命は、まったく別の規模の革命の最初の一歩にすぎないと考えていた。『不死主義と惑星間主義』というスローガンを掲げるロシア宇宙主義者たちにとっては、私有財産専制政治の廃止は、自然の専制と空間と時間の専制という、より大きな問題を克服するためのスタートに他ならないのである」と述べています。

 

「『先見』というコンセプト」では、NeuroNetプロジェクトの使命に言及しています。それは「未来」のヴィジョンを創造することであるとして、著者は「より具体的に言えば、それはソ連時代における宇宙プロジェクトに匹敵するヴィジョンでなければならない。そう、たしかにあの時代には『未来』が存在していた。彼らによれば、ソ連の宇宙プロジェクトも現代のNeuroNetもともに、それぞれのテクノロジーを、様々なヴィジョンを持ったプロジェクトの目的達成のための手段にすぎないと考えているという点で等しい。その目的とは、私たちをある特定の『未来』に導き、人間のさらなる精神的変革を可能にすることに他ならない。未来は決して固定されたものではない、と彼らは主張する。たしかに未来を予測することは困難極まりない、しかし未来は過去だけではなく、積極的な参加者や利害関係者の決断にも大きく左右される。よって、『先見』のテクノロジーによって未来を創造するためには、次の3つのステップが重要であるという。すなわち、1、人々が特定の未来を信じていること。2、それに同意すること。3、未来を創るための積極的な行動を開始すること」と述べるのでした。


4「新ユーラシア主義――現代ロシアにおける展開②」の「没落する西洋、未来あるロシア」では、ロシアがギリシア正教を受け入れて国教としたのは10世紀末のことだったと紹介されます。当時の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルには、正教世界の宗教的最高権威者である総主教が君臨し、そこからロシアを含めた府主教区へ府主教が派遣されていました。ところがフィレンツェ公会議に引き続いて起きた、1453年の東ローマ帝国滅亡という世界史的動乱によってコンスタンティノープルの権威が失墜すると、ロシアこそが正統かつ真の正教保護国に相応しいという信念が芽生えたのです。著者は、「いわゆる、『モスクワ=第3のローマ』というイデオロギー言い換えれば真のキリスト教である正教を奉ずる聖なるロシア、同時にその正教を物理的に護持する唯一の大帝国ロシアという、宗教的かつ民族的な選民意識、これらが15世紀末までに確立され、ロシアの精神的な底面を連綿と形作って現代にまで至っているのである」と述べます。

 

 

「日本における受容」では、北一輝が取り上げられます。北一輝といえば、初期の著作『国体論及び純正社会主義』の中で、ダーウィン進化論に根ざしたユートピア的な社会主義のヴィジョンを提示しているのが興味深いとして、著者は「北は、人間の道徳的良心は世代を更新するうちに生物学的に進化していく、と説いた。やがて来る高次の社会形態である純正社会主義の実現によって、人類は統一され、生存競争は止揚され、人類は新たな『神類』へと生物学的に進化を遂げるだろう。その進化の最終局面においては、歴史は終焉し、全人類が仏教的な悟りの境地――涅槃――に至る。彼はそう信じた。クリントンゴダールの著書『ダーウィン、仏教、神』によれば、20世紀初頭の数十年間には、様々な思想家たちが、北一輝の進化的ユートピア主義から影響を受けたとおぼしき理論を示したという」と述べています。

 

 

北一輝の進化的ユートピア主義から影響を受けたと思われる1人に、明治期におけるナショナリズムの思想家として知られる三宅雪嶺がいます。彼は、大著『宇宙』の中で、宇宙はひとつの崇高な有機的生命体であるとするヴィジョンを生物科学を援用しながら提示しました。科学思想史を専門とする奥村大介は、雪嶺の『宇宙』について、きわめて希有なコスミズム(le cosmisme)たりえている」と評価を惜しまないとして、著者は「雪嶺(本名雄二郎)は1860年生まれ、東京大学では社会進化論で知られるスペンサー、それにカントやヘーゲルなどのドイツ観念論を学んでいる。雪嶺が1909年に著した『宇宙』は全体が5部から成る重厚な書物であり、雪嶺哲学の集大成的作品との評価もある。雪嶺は同書の中で、宇宙全体を『原生界』と名付ける。彼はいわゆる宇宙有機体説、すなわち宇宙全体がひとつの生命体である、という立場を表明するためにこのタームを選択している。そして、〈未来の天文学〉の構想のために、生命体たる宇宙を解剖する学問としての『宇宙生理学』を雪嶺は提唱する」と述べます。


第2章「アフロフューチャリズム」の2「未来は黒い――リー・ベリー」の「アフリカの時間概念」では、アフリカ人の伝統観念には「未来」が存在しないとして、著者は「ケニアはカムバ族の農村で生まれ育ち、のちにケンブリッジで博士号を取得した宗教哲学者ジョン・S・ムビティによれば、伝統に生きるアフリカ人にとって時間は、すでに起こったこと、いま起こりつつあること、まさに起ころうとすること、といった具合に生起するという」と述べます。アフリカの伝統的観念においては、時間はキリスト教的な近代ヨーロッパにおいてのそれのように、「過去」から「現在」そして「未来」といったように直線的に進んでいくものではありません。アフリカ人の歴史は世界の終末へも、未来への栄光に向かっても進んではいかないと指摘し、著者は「それは『進歩』の観念と真っ向から対立する。近代西洋と異なり、アフリカ人の時間は現在=ササから無窮の過去=ザマニへと遡っていく。時間は過去へ過去へと押し流されていき、そして時間の貯蔵庫としてのザマニに堆積していく。ザマニ、それは不断に過去が蓄積され古層を形成し続ける記憶のアーカイヴに他ならない」と述べています。


ザマニは神話の時間であると同時に、霊たちの時間でもあるといいます。人は死ぬと、ササからザマニへとゆっくり移行してきますく。この世を去ったばかりの者は、生活を共にした肉親や友人の記憶に繋ぎ止められている限りで、なおササの領域にとどまっているとして、著者は「実際、死者が残された家族や知己であった者の前に姿を現すことは珍しいことではない。アフリカでは、死者と生者が同じ空間に住まう。故人が思い起こされる限り死者は本当の意味で死んだとはみなされない。彼らは生ける死者(リビングデッド)として、人々の記憶の中に生き続ける。記憶が保たれるあいだ、生ける死者は『個人の不死性』を失わないとされる。しかし、彼の記憶を持つ知己の最後のひとりが死んだとき、それまで記憶されていた死者もササの境界を越え、ザマニの領域に入る。死のプロセスはこの時点で完結する。生ける死者は『個人の不死性』の代わりに『集団の不死性』の領域に入る。死者は家族との紐帯を絶たれ、具体的/個人的なパーソナリティから離脱した、事実と虚構が入り混じった神話的なパーソナリティを与えられる」と述べています。


3「変性=変声するヒューマニティ」の「電化したマイルス」では、ミュージシャンのマイルス・デイヴィスが取り上げられます。1968年、自身のバンドに初めてエレクトリック・ピアノとエレクトリック・ギターを導入したスタジオ・アルバム「マイルス・イン・ザ・スカイ」をリリースしたのを皮切りに、マイルスはマシニックなものへの衝動さらけ出していきました。いわゆる電化マイルスと呼ばれることとなる、70年代における「電化、磁化、ロック化、ファンク化」の季節の、これがその始まりです。マイルスは腰の手術によって、アメリカで最初にプラスチック製の人工関節を移植した人物となりました。この腰の手術が自己像の変化にとって決定的であり、マイルスがサイボーグ化したという見方があります。


マイルスをさらなるサイボーグ化へと推し進める転機となったのは、彼がリスペクトしてやまなかったギタリスト、ジミ・ヘンドリックスの死だとされています。ジミ・ヘンドリックスは1970年の9月、27歳という若さで突如としてこの世を去りました。バルビツール酸系睡眠薬の過剰摂取とアルコールによる、睡眠中の吐瀉物での窒息という悲惨な死に様でした。ジミの死はマイルスに多大なショックを与えました。このジミの死以来、マイルスはアフロヘアになり、服はいっそう派手になりました。また、トランペットをワウペダルやエコー・マシンに繋ぐという、電化における最後の領域である「自身のヴォイスのエレクトリック化」に踏み出すことで、音量は爆音化し、フレーズはラウド/シャウト化したのです。


ペンタゴンヴォコーダー」では、変声装置ヴォコーダーが、第二次世界大戦中、通信内容を秘匿するための暗号装置としてペンタゴンアメリカ国防総省)によって用いられていたという歴史が紹介されます。ヴォコーダートークボックスを巡る秘史については、デイヴ・トンプキンズ著『エレクトロ・ヴォイス――変声楽器ヴォコーダートークボックスの文化史』に詳しく書かれています。それによれば、ヴォコーダーのプロトタイプは1928年にベル研究所によって発明されました。高さ2メートルを超える、一室を埋めるほどの巨大なその暗号機械は、人間の声をその構成波長に分割し、10のチャンネルに振り分け、バンドパス・フィルタを通して送信します。受信者はこの情報を、人間の音声を電気的に模倣した声――スペクトル情報へと合成するのでした。


トークボックスのマゾヒズム」では、人工音声としてのヴォコーダーと並んで世に出たトークボックスが取り上げられます。トークボックスの存在感を世に知らしめたミュージシャンの1人に、ファンク・グループ、ザップのリーダーを務めたロジャー・トラウトマンがいます。ロジャーは加工した電気仕掛けの歌声によって、トークボックスを宇宙通信機へと変容させました。彼の1985年の代表曲「コンピューター・ラヴ」は、のちに西海岸のGファンクに多大な霊感を与え、数多のトラックのサンプリング・ソースとして重宝されることとなりました。なお、著者は「知られていることだが、他方でトークボックスは使用者の身体に多大な負荷を強いるものでもあった。偏頭痛と目眩。慢性的歯痛。とりわけ歯へのダメージは深刻である。なにせ、口腔がスピーカーと化し、高い周波数の振動を歯に伝導させるのだから。なかには、トラウトマンの元ライバル、マイコ・ウェイヴ(マイケル・レーン)のように、歯を8本失ったミュージシャンも存在した」と述べます。


第3章「サイバースペース」の1「1984年――ニューロマンサーマッキントッシュ、VR」の「電子共同体WELL」では、1985年に開設されたパソコン通信サービスWELL(The Whole Earth 'Lectronic Link)こそは、現在でいう電子掲示板(BBS)やソーシャルメディアの先駆けともいえる電子会議システムを備えた最初の「バーチャル・コミュニティ」であったと指摘しています。WELLの創設には、スティーブ・ジョブズにも影響を与えたひとりの重要人物が関わっており、その人物の名をスチュアート・ブランドといいました。彼は、ヒッピーカルチャーとデジタルカルチャーを架橋する役割を担ったという点で、80年代以降のサイバーカルチャーを語る上でも無視することのできないキーパーソンです。彼は、一般的には『Whole Earth Catalog』と呼ばれるニューエージに一大旋風を起こした雑誌の創刊者として知られます。


2「幸福な監禁――行動分析学ユートピア」の「パチンコホールにて」では、ロバート・ヴェンチューリらが、建築におけるポストモダン礼賛の書『ラスベガス』の中で、ラスベガスのカジノを、合理主義と機能主義を特徴とするモダニズム建築からの逸脱として捉えたことが紹介されます。コマーシャリズムと広告の侵入によって、「形態」は「機能」から分断され、グロテスクなまでに奇形化を遂げると指摘し、著者は「立面は様々な時代と場所のデコラティブなスタイルを折衷させ、その過程でモダニズム建築が祓った象徴主義の亡霊が回帰してくる。ストリート沿いに立てられた巨大な広告看板。ハードロックホテル&カジノのような、建物それ自体がひとつのイコンと化したカジノ。ネオン管と電飾によって描かれた、コマーシャルなメッセージを伝えるための象徴と図像。それらが夜になると、電気の力を借りて一斉に煌めきだす」と述べます。


「2つの権力形態」では、日本のパチンコホールは工場的な規律権力型空間の典型タイプであることを指摘。白を基調とした、高い天井と明るい照明。マシンが直線状にずらりと並んだ、開放的だが画一的な空間。それは工場や学校、あるいは病院または刑務所といった近代における統治空間と相似形を描いているとして、「それらは個々人の意識に働きかけ、個々人の内面を規律化させることを通じて統治とコントロールを行う空間であるといえる。たとえばミシェル・フーコーは、パノプティコンと呼ばれる一望監視型監獄の分析を通じて、彼のキータームのひとつである「規律権力」を導出したのだった」と述べます。


とはいえ、別に著者がパチンコホールが客に規律訓練を施しているといった主張がしたいわけでは特にない(そういった面もあるかもしれないが)として、著者は「単にパチンコホールは近代のそうした建築空間をモデルにしている、と言いたいだけである。それに対して、アメリカのカジノは、人間工学と行動分析学に基づいた迷宮であり、意識的な規律ではなく無意識的な誘導を特徴とし、環境空間のデザインを通じて生理的な反応や気分、感情を逐次調節=コントロールすることを目的とする。こうしたカジノのあり方は、明らかにフーコーの論じた規律権力型の建築物のあり方とは異なっている。シュールも指摘するように」と述べるのでした。


終章「失われた未来を解き放つ」の「不死のレーニン」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「あまり知られていないことだが、モスクワ赤の広場に建てられたレーニン廟の起源にはロシア宇宙主義の理念が深く根を下ろしている。1924年1月26日、ウラジーミル・レーニンが死去してから数日後に開催された第2回全連邦ソビエト大会において、スターリンは追悼演説を行った。『われわれ共産主義者は、特別製の人間である。われわれは特別な物質で造られている。共産主義者の遺体は腐敗しない』。レーニンの遺体には防腐処置が施され、葬儀委員会はレーニンの遺体を無期限に保存すると決定した。遺体の永久保存の監督を委任されたレオニード・クラシン(外国貿易人民委員)は、建神主義やボグダーノフ理論の擁護者であるだけでなく、死者の復活というフョードロフが唱えた宇宙主義プロジェクトの影響を受けていた」


レーニンの葬儀委員会は不死化委員会と改称し、クラシンと科学者チームは当時先端の技術を駆使した遺体冷凍システムを作動させました。著者は、「レーニン廟は、その建築様式において、紀元前にファラオを埋葬したエジプトのピラミッドや古代の霊廟のイメージを彷彿とさせるものだった(奇しくもレーニンが死去する15カ月前にツタンカーメンの墓が発見されていた)。古代の儀式が近代の科学技術と結びつく。古代のエジプト人は指導者の遺体を保存することができたが、その容貌の保存まではできなかった。しかし、レーニンの遺体は永遠に損なわれない。レーニンは『死』に対して勝利するのだ」と述べています。


「資本主義と社会主義は生き別れの兄弟」では、20世紀初頭、西洋もソビエトも共に産業的近代化のイデオロギー、言い換えれば大衆ユートピアの建設という夢を共有していたといいます。その意味では、両者は共に近代(モダニティ)に属していた、生き別れの兄弟のようでもあるとして、著者は「冷戦の終結ソビエトの崩壊は、資本主義を克服する試みであったはずの社会主義が潰え去ったことに対する幻滅を人々にもたらした。それは垣間見えていたユートピアの最終的な破算であり、夢からの半ば暴力的な覚醒であった。とはいえバック=モースは、東西冷戦に西側が勝利した、という流布された『大きな物語』にも抗う。彼女によれば、上述したようにソ連社会主義体制の構築は西側資本主義における近代化の理念に深く依存しており、したがって社会主義体制の崩壊は不可避的に西側の工業的近代化=進歩という物語全体の信用が危ぶまれる事態を引き起こさざるを得ないという」と述べます。


著者は、以下のように述べています。
「私たちはすでに、19世紀後半を境に出立してきたふたつの主題、すなわち『進化』と『ネットワーク』について見てきた。それはどちらも西洋に端を発するものであるが、進化論とグローバルなネットワーク観が交叉するところに、テイヤール・ド・シャルダンの『精神圏』やウラジーミル・ソロヴィヨフの『世界魂』と『神人』といった、それまでと異なるタイプのヴィジョンが現れてきた。これらのヴィジョンがフョードロフのロシア宇宙主義と共振し合いながら、『不死のレーニン』という20世紀のツタンカーメンを誕生させたのである」


「近代の夢を救い出す」では、夢の中で、自分でも忘れていた幼少時代の記憶と不意に再会することがあるとして、著者は「失われた記憶を意識化するためには夢の中に降りていかなければならない。目を見開いたまま。さながら、不眠の傍らで夢を見るように。そうやって、私たちは夢という空間を『占拠』することを試みるのだ。過去は生きている。失われた記憶として。無数の別の可能性をもつ集団的な夢として。それは目覚めさせることのできる死者である。死者の復活というプロジェクト、それは他ならぬ過去それ自体に対してこそ試行されなければならない」と述べています。「夢の中に降りていかなければならない」という言葉からは、クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演のSF映画インセプション(2010年)を連想してしまいます。


近代を乗り越えるのではなく、近代の夢(ただし近代自身すら必ずしも十分に意識化することのなかった夢)を救い出すことによってユートピアは達成されるのかもしれないとして、著者は「ソビエトは、この近代の夢を西洋のテクノロジーアメリカの資本によって救出しようと企てて失敗した(あるいはもっと別の原因で?)。ならば、私たちは別の組み立て方(モンタージユ)を試すべきだ。近代を構成していた要素をバラバラに分解し、個々の部品を精査し、別の組み立て方の可能性を探索すること。こうしたアプローチによってはじめて、近代の弁証法的プロセスの外部に抜け出すことができるのだとしたらどうだろう」と述べます。帯に書かれた「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか?」のコピーに惹かれて手に取った本書ですが、未来のために現在を犠牲に捧げ、過去を忘却していくのではなく、むしろ過去から回帰してきた未来を現在の只中に埋め込まなければならないのではないかという著者に主張には目が開かれた思いです。さまざまな領域を横断する読書体験はきわめて刺激的であり、大いに啓発されました。

 

 

2024年4月18日  一条真也

「三体」 

一条真也です。
etflixドラマ「三体」全8話を観ました。劉慈欣(リー・ツーシン)による原作小説の評判は以前から知っており、日本語訳の単行本も発売直後に購入していました。でも、その分厚さに怖気づいたのと、なかなか読む時間が取れなかったため、未読でした。それで「先にドラマを観よう!」と思った次第であります。いやあ、ぶっ飛びました。ムチャクチャ面白かったです!


etflixドラマ「三体」は、ヒューゴー賞を受賞した中国のSF作家、劉慈欣の世界的ベストセラー小説『三体』三部作を原作に、HBOの大ヒットドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」のデヴィッド・ベニオフ、D・B・ワイスと「トゥルーブラッド」などのアレクサンダー・ウーが共同クリエイター、製作総指揮、脚本を手がけた超大作SFドラマです。SFには目がなくて、SF映画の大作は必ず観てきたわたしですが、このドラマは大傑作です!

 

デイリー・シネマには、こう書かれています。
「中国本国では全30話のドラマ『三体』が製作され、2023年1月に配信プラットフォーム『テンセントビデオ』で配信された。本作はそれに続く2作目の実写化作品だ。Netflix版は、主な舞台を中国からロンドン(&オックスフォード)に、一人の科学者をオックスフォード大学出身の5人の科学者の仲間たち “オックスフォード・ファイブ”に置き換えるなど大胆な脚色がなされている。ドラマ『三体』はNetflixにて2024年3月21日より配信を開始。瞬く間にNetflixの週間ランキングの英語テレビ部門で1位となるなど、世界中で大きな反響を呼んでいる」

 

 

原作小説のアマゾン「内容紹介」には、「物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪森(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体“科学フロンティア”への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象“ゴースト・カウントダウン”が襲う。そして汪森が入り込む、3つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?」と書かれています。本書に始まる“三体”三部作は、世界で3000万部以上の売上を記録しました。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作です。アメリカのオバマ元大統領やFacebookの創設者マーク・ザッカーバーグも愛読していたそうで、とにかくスケールの巨大な物語です。


この世界的ベストセラーの著者である劉慈欣は1968年、山西省陽泉生まれ。発電所でエンジニアとして働くかたわら、SF短篇を執筆。『三体』が、2006年から中国のSF雑誌《科幻世界》に連載され、2008年に単行本として刊行されると、人気が爆発。中国全土のみならず世界的にも評価され、2015年、翻訳書として、またアジア人作家として初めてSF最大の賞であるヒューゴー賞を受賞。今もっとも注目すべき作家の1人です。わたしは、ジュール・ヴェルヌからH・G・ウェルズヒューゴー・ガーンズバックアイザック・アシモフアーサー・C・クラークに連なるSF作家という存在を「人類における想像力のチャンピオン」だと思っていますが、劉慈欣はまさに現役の世界チャンピオンと言えるでしょう。


デイリー・シネマの「あらすじ」冒頭は、「物理学者の父を文化大革命紅衛兵によって殺害され、自身も反体制派のレッテルを貼られ過酷な労役に従事させられていた元エリート宇宙物理学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、絶望の日々を送っていた。ところが、或る日突然、彼女は巨大パラボラアンテナを備えた謎めいた軍事基地に連れて行かれ、そこで働くよう命じられる。そこでは地球外生命体との交信という驚くべきプロジェクトが秘密裏で進行していた。物語の舞台は現代のイギリスに飛ぶ。ウエンジェは今ではロンドンに居を移し、ベテラン物理学者として皆の尊敬を集めていた。しかし、ある日、娘のベラ・イェが自殺してしまう。ベラは物理学研究所でパルティス加速器研究に従事する優秀な科学者だった。実は科学者の死は彼女だけでなく、奇妙にもここ最近、何十件も立て続けに起こっている出来事だった。なぜかくも優秀な科学者の自殺が続くのか、英国の戦略情報局に勤務する捜査官クラレンス・“ダ”・シーがその死の真相に迫るべく奔走していた」となっています。


ベラが亡くなったことで、オックスフォード大学で彼女に学んだ元同級生である5人 の“オックスフォード・ファイブ”が集まります。彼らはそれぞれの道を歩みながら、学生時代と変わらぬ厚い友情で結ばれていました。原作小説では5人はすべて中国人であり、名前の読みにくさもあって多くの日本人読者は苦戦しましたが、今回のドラマではイギリスが舞台となって、5人の人種もすべて異なるようにアレンジされ、格段にわかりやすくなりました。彼らのうち、オギー・サラザールエイザ・ゴンザレス)はナノテクノロジーの権威で起業家、ジン・チェン(ジェス・ホン)は天才的な理論物理学者で知られ、ウィル・ダウニング(アレックス・シャープ)は誠実な物理教師、ソール・デュランド(ジョバン・アデボ)は物理学研究所で助手を務めています。そしてジャック・ルーニー(ジョン・ブラッドリー)は物理学の学位を活かした開発を基に、お菓子会社を経営し、巨額の富を築いていました。


©Netflix

 

同級生のうち、ウィルはジンを密かに愛していましたが、ジンには軍人の恋人がいました。ここが後に物語の重要なポイントになります。他の主要登場人物では、世界最高峰の諜報作戦を率いるカリスマ的なリーダーであるトマス・ウェイドをリーアム・カニンガムが、型破りな手法で捜査に取り組む諜報捜査官の大史(ダーシー)をベネディクト・ウォンが演じています。また、天才物理学の才能に恵まれるも、文化大革命ですべてを失い、孤独にさいなまれる葉文潔の若い頃をジーン・ツェン、老いた姿をロザリンド・チャオが演じています。宇宙人を迎え入れることに人生を捧げ、その目的のためには手段をも厭わない女性タチアナを演じるのはマーロ・ケリー。VRゲームの中に存在するアバターであるソフォンを演じるのはシー・シムーカです。このVRゲームですが、葉文潔の娘で5人の恩師でもあったベラが死ぬ前に夢中になっていたものでした。


ゲームを借りて帰ったジンがそのVRヘッドセットをかぶると、彼女はゲームとは思えない質感のヴァーチャル世界の一員となっていました。そして生身の人間のような人物が現れ、その人物はベラを救世主と呼んだのです。VRヘッドセットは今の文明では成し遂げられないような高度な技術の代物でした。次にジャックがジンからVRヘッドセットを借りてかぶると、ヴァーチャル世界に剣を持った女が現れ、「招待していない」と言って彼の首を切りつけました。この女こそ、ソフォンでした。本当に首を切られた感触があって、ジャックは悲鳴をあげるが、やがて、彼の自宅にもVRヘッドセットが届く。厳重に戸締りをして、何台もの監視カメラがあるにもかかわらず、それは彼の部屋の中に置かれていました。


ベラとジャックは共にVRヘッドセットをかぶり、2人1組でヴァーチャル世界に入り込むことになり、やがて彼女たちにさらなるステップの「招待状」が届くのでした。ジャックはこのVRゲームを「5世代先のマシンだ」と言います。そこには完全なる仮想現実が生まれるわけですが、ジンが最初にプレイしたときは古代中国の世界で、周の文公、殷の紂王などが登場しました。ジャックのときは16世紀初頭のイングランドが舞台で、トマス・モアが登場しました。ジンとジャックは、一緒に魔女裁判が盛んな中世ヨーロッパやチンギスハンの時代のモンゴルにも行きました。いずれの世界でも同じ少女が登場し、ゲームオーヴァーになるたびに彼女は死んでしまいます。このゲームの1つの目的は、彼女の命を救うことでした。そして、もう1つの目的は「三体問題」を解き明かすことだったのです。


原作小説およびドラマのタイトルにもなっている「三体」とは、古典力学における「三体問題」に由来します。互いに重力相互作用する三質点系の運動がどのようなものかを問う問題のことです。天体力学では万有引力により相互作用する天体の運行をモデル化した問題として、18世紀中頃から活発に研究されてきました。運動の軌道を与える一般解が求積法では求めることができない問題として知られます。2つの質点が互いにニュートン重力を及ぼし合って運動するとき、その軌道は楕円、放物線、双曲線のいずれかになることが知られています(ケプラーの法則)。三体問題はこの系にさらに1つの質点が加わった場合の進化を求めるもので、太陽-地球-月系や、太陽-木星土星系など、天体力学のさまざまな局面で必要となるため古くから調べられてきたのです。


etflix版ドラマ「三体」では、優秀な宇宙物理学者である若き日のイエ・ウェンジエが、父親と同様に反体制派のレッテルを貼られ過酷な労働キャンプに送られます。ある日突然、彼女は巨大なパラポラアンテナがそびえた研究所に移動させられます。そこでは地球外生命体との交信を目的とした極秘プロジェクトが行われていました。そこで彼女は太陽に向けて信号を送るというアイデアを思いつき、密かにそれを実行します。このあたりの描写は、ロバート・ゼメキス監督のSF映画「コンタクト」(1997年)を連想しました。有名な天文学者カール・セーガンによるSF小説の映画化作品です。地球外生命体との交信するSETIプロジェクト、人類と宗教、科学、政治、地球外生命、などをテーマとした名作です。


映画「コンタクト」では、SETIプロジェクトの研究者エリナー・アロウェイ(ジョディ・フォスター)がアレシボ天文台で探査と研究をしていました。しかし、先の見えないプロジェクトに対し懐疑的な天文学の権威ドラムリントム・スケリット)によって、エリナーのチームは研究費とアレシボの利用権を打ち切られ、研究は中断を余儀なくさせられてしまいます。彼女は独自の資金源を求め各企業を渡り歩き、ついにS・R・ハデン(ジョン・ハート)という富豪スポンサーを得ることに成功。こうしてニューメキシコの超大型干渉電波望遠鏡群を独自の資金で渡りをつけ探査を再開したある日、彼女は遂にヴェガから断続的に発信し続けられる有意な電波信号を受信。そこに政府が介入してきます。探査は進みますが、次第にエリナーの思惑とは関係ない方向へと事態が進行していくのでした。


「三体」では、イエ・ウェンジエによって太陽に向けて送信された禁断の信号の返信が数年後に届きます。そこから、人類と三体との交信が開始されます。一部の人類は三体を「我が主(マイ・ロード)」と呼びますが、わたしは、アーサー・C・クラークの名作幼年期の終わりに登場する異星人が「オーバー・ロード」と呼ばれたことを連想しました。同作は、宇宙の大きな秩序のために百数十年間にわたって「飼育」される人類の姿と、変貌する地球の風景を、哲学的思索をまじえて描いた作品です。「人類の進化」というテーマ、「宇宙人による人類の飼育」というアイデアなどは、この作品において総括されたというのが定説ですね。アメリカで1952年に刊行された後、クラークの代表作としてのみならず、SF史上の傑作として国際的に広く愛読されてきたロングセラーです。2013年、Syfyによるミニシリーズドラマとしての制作が発表され、2015年に3夜連続で放送されました。


「三体」では、異星人の代表を「我が主」と呼ぶ人々が交信を続けます。「主」はさまざまな質問をして人類の生態や精神について探ろうとしますが、あるとき、回答者である億万長者の石油王マイク・エヴァンズがグリム童話の「赤ずきん」に登場する赤ずきん・おばあさん・狼を使って例え話をします。しかし、その話を「主」はまともに受け取るのでした。慌てたエヴァンズは、「いや、それは単なる比喩ですよ。本当の話ではありません」と言います。「主」から「本当の話ではないのか?」と問われたエヴァンズは「ええ、本当じゃないですよ」と言いました。すると「主」は、「本当ではないというのはウソなのか。人間はウソをつくのか。恐ろしいことだ。信用できない」と言って交信を絶ちます。ブログ『ホモ・デウス』で紹介した2017年の本で、著者のユヴァル・ノア・ハラリが述べたように、「虚構の物語」を作ることこそ人間の最大の能力なのですが、「主」はそれを嫌ったわけです。この場面は異様な緊張感に溢れていました。

 

 

『ホモ・デウス』上巻の第2部「ホモ・サピエンスが世界に意味を与えてくる」の第4章「物語の語り手」は特に興味深く読みました。著者のハラリは「21世紀の新しいテクノロジーは、神や国家や企業といった虚構をなおさら強力なものにしそうなので、未来を理解するためにはイエス・キリストフランス共和国やアップル社についての物語がどうやってこれほどの力を獲得したかを理解する必要がある。人間は自分たちが歴史を作ると考えるが、じつは歴史はこうした虚構の物語のウェブを中心にして展開していく。個々の人間の基本的な能力は、石器時代からほとんど変わっていない。それどころか、もし少しでも変わったとすれば、おそらく衰えたのだろう。だが、物語のウェブはますます協力になり、それによって歴史を石器時代からシリコン時代へと推し進めてきた」と述べます。


人類の前に出現した「天の巨眼」

 

全8話の中でもエピソード5「審判の日」は見所が満載でした。三体は地球上の全てを監視し、見せたいものを見せ、ありとあらゆるものを操作する事が可能となりました。アバターであるソフォンを使った侵略が始まり、信号は止まり全てのコンピューターは制御不能になります。スマホ、街中の電光掲示板、テレビなどに「お前らは虫けらだ」と書かれていました。そして、上空を異様な影が多い、目のようなものが現れ人類を見下ろします。警察の手から逃れていたタチアナは、それを恍惚とした表情で見上げました。『ホモ・デウス』でハラリが指摘した「虚構の物語」を創るという人類の能力の最大の発露が宗教、特にユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教であると言えます。しかし、天空にこんな巨大な眼が登場したら、そんな一神教の物語ごと吹っ飛ぶか、もしくはその巨眼を「神」そのものだと考えるのではないでしょうか。


アルフォンス・ミュシャ「主の祈り」

 

この「天の巨眼」のシーンを見て、わたしは、ブログ「主の祈り」で紹介した自身が所有しているアルフォンス・ミュシャの絵を連想しました。それは、地上でうごめく多くの人間たちが夜空の月を仰いでいる絵です。しかも、その月は巨大な天上の眼でもあります。「主の祈り」は、1899年に描かれたこの絵はミュシャが最も描きたかった作品であり、それ以前の膨大なアールヌーヴォー作品の版権をすべて放棄してまで、この絵の制作に取り掛かった作品です。多忙な彼が下絵を何十枚も描いており、最初は空に浮かぶ巨大な顔(ブッダの顔のようにも見える)だったのが、次第に1つ目になり、それが三日月になっていったそうです。その絵につけられた解説文には、「月は主の眼であり、その下に、あらゆる人間は1つになるのであろう」といった内容が記されていました。つまり、ユダヤ教徒キリスト教徒もイスラム教徒も、月の下に1つになるというのです。わたしは本当に仰天し、かつ、非常に感激しました。そして日本には1枚だけしかなく、19世紀象徴主義を代表するというその絵を、それこそ「神の思し召し」と思って即座に購入したのです。

 

 

さて、ドラマ「三体」には重要な役割を果たす1冊の本が登場します。アメリカの生物学者であるレイチェル・カーソン沈黙の春(1962年)です。原題を「サイレント・スプリング」という同書は、農薬が環境に及ぼす有害な影響を説明し、環境運動の開始を支援したと広く信じられています。カーソンはDDTについて懸念を提起した最初または唯一の人物ではありませんが、彼女の「科学的知識と詩的文章」の組み合わせは幅広い聴衆に届き、DDTの使用への反対を一般に普及させることに貢献しました。1994年、アル・ゴア副大統領によって書かれた序文付きの版が出版。2012年、『沈黙の春』は、現代の環境運動の発展におけるその役割のために、アメリカ化学会によって国立歴史的化学ランドマークに指定されました。自然保護と化学物質公害追及の先駆的な本ですが、この中に登場する「自然界はすべてが繋がっている」という言葉は「三体」のウェンジエに多大な影響を与えました。


虚構の物語を創るという人間の能力が理解できず、「ウソは許せない」と人間を敵視する三体は、世界中のあらゆる液晶画面を使って「YOU ARE BUGS(お前たちは虫けらだ)」というメッセージを送ります。虫けらは駆除すべしということなのでしょうが、じつは、虫がいなくなれば、世界は動きを止めます。『沈黙の春』にインスパイアされて書かれた『サイレント・アース』という本があります。著者はイギリスの生物学者ディブ・グールソンですが、「昆虫たちの羽音が聞こえない沈黙の春」への警告として同書を書いています。カーソンの時代の農薬よりはるかに毒性の強い農薬によって、最初に犠牲となるのは小さな無脊椎動物である昆虫です。グールソンは、「昆虫は地球上で知られている種の大部分を占めるから、昆虫の多くを失えば、地球全体の生物多様性は当然ながら大幅に乏しくなる。さらに、その多様性と膨大な個体数を考えると、昆虫が陸上と淡水環境のあらゆる食物連鎖と食物網に密接にかかわっているのは明らかだ」と訴えます。


「主」が率いる「三体」たちは地球に宣戦布告し、進行を開始します。彼らが到着するのは400年後だといいます。400年後といえば何世代も後ですから、自分は関係ないと考える者もいるでしょう。また、子孫のために「何ができるのか」を真剣に考える者もいるでしょう。これは地球温暖化の問題をはじめ、さまざまな難題への対処としての「SDGs」に通じる問題です。400年後の異星人の来訪を控えて、地球では2人の天才科学者が活躍します。2人とも女性であり、しかも同級生です。1人は、ジェス・ホンが演じる天才理論物理学者のジン・チェンです。彼女は、三体の宇宙艦隊に向かって時速10790000キロメートル、すなわち、光速の1%で飛ぶロケットを開発しました。現代の技術ではもちろん不可能な技術ですが、彼女の「なんとか、子孫を守りたい。人類滅亡を防ぎたい」という強い想いがそれを可能にしたのでした。


ジンは、核兵器の爆発するパワーを利用して、帆に巨大な推進力を与えるというアイデアを思いつきました。その帆は、髪の毛より細いのに恐ろしく強力なナノファイバーによって出来ており、その開発者はジノの親友のオギー・サラザールエイザ・ゴンザレス)でした。彼女は、ナノテクノロジーの権威だったのです。しかし、パナマ運河で実行されたある作戦にナノファイバーが使用され、1000人もの死者が出たことにオギーは強い罪悪感を抱きます。さらに彼女は、ナノファイバーが「戦争」に使われることに強い拒否感を見せます。「広島」という言葉を使って徹底的に拒否するオギーの姿からは、ブログ「オッペンハイマー」で紹介した原爆開発者の伝記映画への問題提起が感じられました。ナノファイバーの完成が近づくと、オギーの目の前に謎のカウントダウンタイマーが現れ、彼女は恐怖に囚われます。「オッペンハイマーの眼前にもこのカウントダウンタイマーが出現すれば良かったのに」と思ったのは、わたしだけではありますまい。

 

etflix版ドラマ「三体」の冒頭は、中国の文化大革命のシーンでした。ジーン・ツェン演じる葉文潔(イェ・ウェンジェ)という若い女性が、中国の文化大革命の最中に大学教授の父親が紅衛兵から殴り殺されるのを目撃します。中国では、孔子以前から祖先崇拝の精神が強く伝えられ、その家族愛や信義などを孔子の言行録である『論語』にまとめられました。この精神は脈々と受け継がれ、中国大陸の十数回に及ぶ「易姓革命」や、封建的な伝統文化のすべてを悪と決め付けて破壊しようとした中国共産党の「文化大革命」という逆風のなかでも生き残ったのです。 その一方で、「仁・義・礼・智・信」といった道徳心や倫理観は、文化大革命の影響で、最終的には完全に失われてしまいました。中国で毛沢東が「文化大革命」を起こした1966年に、日本でわが社(サンレー)が誕生しました。「批林批孔」運動が盛んになって、孔子の思想は徹底的に弾圧されました。世界から「礼」の思想が消えようとしていたのです。まさにそのとき、日本の九州の地で「創業守礼」と「天下布礼」の旗を掲げるサンレーが誕生したわけです。この意味は大きいと思っています。


そして、「礼」とはもともと「葬礼」から生まれ、発展したとされています。「三体」の中で異星人のアバターであるソフォンが「人間は簡単に死ぬ」と言い放つシーンがありますが、わたしは「人間が死ぬのは当たり前だ」と思いました。オウム真理教の尊師であった「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句であったといいます。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。繰り返しますが、人が死ぬのは当たり前の話です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。そう、問われるべきは「死」ではなく、「葬」なのです。さらに、わたしは「葬」とは人類を存続させる究極のSDGsだと考えています。


それにしても、Netflix版ドラマ「三体」は面白かったです。日曜日に、全8話を一気観しました。このドラマに対する批評家の評価は、大絶賛から酷評まで千差万別だといいます。原作小説ファンの中には、大胆な脚色を批判する人もいれば、本作は最高傑作だという人も多いとか。配信後、Netflixのテレビ番組トップ10で初登場2位を獲得。一方で、シーズン1の結末は、ファンにとって続編への期待を高まらせるものでした。ドラマのショーランナーであるデヴィッド・ベニオフ、D・B・ワイス、アレクサンダー・ウーの3人は、シーズン2は「さらに良くなる」と示唆。ベニオフは以前、米『ハリウッド・リポーター』に対し「劉慈欣の原作は、2作目は1作目よりずっと良いし、3作目には心を完全に揺さぶられました。物語が進むにつれてどんどん野心的になり、2作目では大きな飛躍を遂げます。だから、シーズン2が叶えば素晴らしいですよね」と明かしています。「三体」のショーランナーたちは、本作を4シーズンにわたって描きたいと口を揃えて語っていますが、これは非常に嬉しいですね。まずは、シーズン2が楽しみです!

ハリウッド・リポーター・ジャパン」より

 

2024年4月17日 一条真也