Hatena::ブログ(Diary)

一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-08-31

「輝ける人生」

一条真也です。
ブログ「CORI座談会」で紹介したイベントの後、西新橋から銀座に徒歩で向かいました。猛暑で汗だくになりましたが、木村屋の「桃のパフェ」で生き返りました。その後、銀座での2つの打ち合わせの間に、シネスイッチ銀座で英豪米加合作のロマンティック・コメディ映画「輝ける人生」を観ました。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『ヴェラ・ドレイク』などのイメルダ・スタウントンらが出演したヒューマンドラマ。専業主婦の主人公が、ダンス教室に通い始めたのを機に、自分らしい生き方を見つける。監督は『リチャード三世』などのリチャード・ロンクレイン。『ターナー、光に愛を求めて』などのティモシー・スポール、『マリーゴールド・ホテル』シリーズなどのセリア・イムリーらが共演する。1950年代から現在までのダンスナンバーが作品を彩る」

f:id:shins2m:20180828225939j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「専業主婦のサンドラ(イメルダ・スタウントン)は、イギリスのサリー州にある屋敷に暮らし、州の警察本部長の夫マイク(ジョン・セッションズ)は爵位を授与されるなど、幸せの絶頂にいた。だが、夫と親友の浮気現場を目撃し家を飛び出して、ロンドンの団地で生活している姉のビフ(セリア・イムリー)のもとに駆け込む。自分の部屋で酒ばかり飲んでいるサンドラを心配したビフは、彼女をダンス教室に連れていく」




この映画、なかなかユニークな作品でした。とにかく老人がたくさん登場し、いろんなことをするのです。たとえば、老人が浮気する。老人が嫉妬する。老人が家を出る。老人が荒れる。老人が離婚する。老人が踊る。老人が恋する。老人が恥じらう。老人が笑う。老人が泣く。老人が歌う。老人が食べる。老人が飲む。老人が病む。老人が死ぬ。老人が旅する。老人が走る。老人が叫ぶ。そして、老人が船に飛び乗る・・・・・・。
主人公の娘や孫を除いては、ほとんど老人しか出てこない、てんこ盛りの老人映画でした。正直、胸焼けするほどに。もちろん、老人が主人公の映画というのはたくさんありますが、この「輝ける人生」のように超アクティブな老人映画というのは初めて観ましたね。

f:id:shins2m:20171028183056j:image
「サンデー毎日」2017年11月12日号



でも、老人たちがダンスという趣味を得るのは素敵だと思いました。ダンスに限らず、高齢になって趣味を見つけることは「生きがい」につながります。
ブログ「老いてこそ文化に親しむ」にも書きましたが、人は老いるほど豊かになるというのが、わたしの持論です。わが社はセレモニーホールのコミュニティセンター化を図っています。これから必要なのは、「葬儀をする施設」ではなく、「葬儀もできる施設」だと考えているのです。そこで、キーワードとなるのが「文化」です。

f:id:shins2m:20131002114857j:image
老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)



一般に、高齢者には豊かな時間があります。時間にはいろいろな使い方がありますが、「楽しみ」の量と質において、文化に勝るものはないでしょう。さまざまな文化にふれ、創作したり感動したりすれば、老後としての「グランドライフ」が輝いてくるはずです。文化には訓練だけでなく、人生経験が必要とされます。また、文化には高齢者にふさわしい文化というものがあるように思います。わたしは、それを「グランドカルチャー」と呼んでいます。2003年に上梓した拙著『老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)で初めて提唱した言葉です。



長年の経験を積んでものごとに熟達していることを「老熟」といい、経験を積んで大成することを「老成」といいます。「老」には深い意味があるのです。わたしは「大いなる老いの」という意味で「グランド」と名づけています。これは、グランドファーザーやグランドマザーの「グランド」でもあります。この「老熟」や「老成」が何よりも物を言う文化が「グランドカルチャー」です。グランドカルチャーは、将棋よりも囲碁、生花よりも盆栽、短歌よりも俳句、歌舞伎よりも能とあげていけば、そのニュアンスは伝わるでしょう。



輝ける人生」で主人公たちが取り組むダンスは若者向けです。激しすぎて心臓にも負担がかかります。これは、グランドカルチャーではありません。この映画は「老い」を肯定しているというよりも「老い」を否定するアンチエイジングの物語ではないかと思いました。
輝ける人生」を観て、わたしは、サミュエル・ウルマンの「青春」という詩を思い出しました。「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う」で始まるこの有名な詩は、多くの高齢者たち、とくに高齢の経営者たちに人気があります。肉体に対する精神の優位をうたい上げ、ものごとをポジティブにとらえるという点では、わたしも大いに共感しています。





しかし、ウルマンの詩には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がその根底にうかがえます。ウルマンの「青春」は「老い」そのものを肯定するものではないのです。
おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生という大きなフレームのなかでとらえる必要があります。



文化の話に戻ります。もちろん、どんな文化でも老若男女が楽しめる包容力をもっていますが、特に高齢者と相性のよい文化、すなわちグランドカルチャーというものがあります。わが社では高齢者向けの文化教室「グランドカルチャー教室」を運営しています。グランドカルチャーは高齢者の心を豊かにし、潤いを与えてくれます。それは老いを得ていくこと、つまり「得る老い」を「潤い」とします。超高齢社会を迎えた今こそ、高齢者は文化に親しもうではありませんか。その生き方が、「後期高齢」を「光輝好齢」に変えてくれるはずです。

f:id:shins2m:20170323175037j:image
人生の修め方』(日本経済新聞出版社)



いま、無縁社会を克服しようと、わが社では地縁、血縁以外の新たな「縁」の再生・再構築に取り組んでいます。たとえば、好きなものを求めて集まる趣味仲間の「好縁」などに注目しています。実際、最近の葬儀で会葬者が集まるのは、俳句や囲碁やカラオケやダンスなど趣味が縁の仲間たちというケースが非常に多いです。同じ趣味を持った仲間たちが、同じ趣味に打ち込んだ思い出の会場(セレモニーホール=コミュニティセンター)から見送ってくれれば、こんなに贅沢で心ゆたかなことはありません。
まさに、「輝ける人生」の修め方ではないでしょうか。



2018年8月31日 一条真也

2018-08-26

「検察側の罪人」

一条真也です。
25日、東京から北九州に戻ってきました。
じつは非常に不愉快な出来事があったので、気分転換に映画を観ることにしました。24日から公開の日本映画「検察側の罪人」をレイトショーで観ました。キムタクとニノの初共演という話題作ですが、面白かったです。




[ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『クローズド・ノート』『犯人に告ぐ』などの原作で知られる雫井脩介のミステリー小説を、木村拓哉と二宮和也の初共演で映画化。東京地方検察庁を舞台に、人望の厚いエリート検事と彼に心酔する新米検事がある殺人事件の捜査をめぐってすれ違い、やがて二人の正義がぶつかり合うさまが映し出される。『突入せよ!「あさま山荘」事件』などの原田眞人監督が、正義の意味を問うドラマを骨太に描き出す。木村と二宮の演技対決に注目」

f:id:shins2m:20180823234834j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
東京地方検察庁刑事部に配属された検事の沖野啓一郎(二宮和也)は、有能で人望もある憧れのエリート検事・最上毅(木村拓哉)と同じ部署になり、懸命に仕事に取り組んでいた。あるとき、二人が担当することになった殺人事件の容疑者に、すでに時効が成立した事件の重要参考人・松倉重生が浮上する。その被害者を知っていた最上は、松倉に法の裁きを受けさせるべく執拗に追及するが、沖野は最上のやり方に疑問を抱き始め・・・・・・」




観賞前は、キムタクとニノの初共演という話題性から「ザッツ・ジャニーズ」みたいな派手な作品をイメージしていたのですが、いやはや硬派で見応えのある映画でした。ニノのキレた演技は最高でしたし、それに動揺する吉高由里子の表情も良かったです。予想以上に、演技で魅せる映画でした。
ちょっと太平洋戦争のインパール作戦のエピソードが唐突な印象がありましたし、ネオナチまで持ち出して、日本が右傾化しているのを強調しすぎのきらいがあることも気になりました。オーナーが右翼というビジネスホテルチェーンなど、モデルが一発でわかってしまうのも興醒めでしたね。




あと、葬儀でヘンテコリンなパフォーマンスを披露する集団も不気味でしたし、キムタク演じる最上が他人の誕生日をすべて記憶する特殊能力の持ち主という設定にも違和感をおぼえました。このへんは原作の内容に沿ったのでしょうが、意味のない無駄なエピソードのように感じました。さらには、殺人事件の容疑者である松倉の容姿の描き方も不愉快でした。
まあ、「検察側の罪人」では検察の内部は詳しく描かれていますので、法曹界を目指す学生などには参考になるのではないでしょうか。現在、東京にある大学の法学部法律学科に通っている次女も観るといいかも?

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)



この映画には「正義とは何か」といったテーマがあるのでしょうが、反戦とか反原発とか基地反対とか唱えている人々は、自分たちは「正義」のために戦っていると信じていますね。しかし、100人いれば100の正義があるわけで、そんなものは所詮、主観に過ぎないという見方もできます。
「正義」について考えた人物に孔子がいます。『論語』の「為政」篇には、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が出てきます。ここで、孔子は「勇」を「正義を実行すること」の意味で使っています。




2008年6月、東京で「秋葉原事件」が発生し、7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。多くの人々が事件発生時に被害者の救助に協力し、警視庁は72人に感謝状を贈ったといいます。救護中に容疑者に刺されて負傷した3人には、警視総監から感謝状が贈られた。私は感謝状を贈られた方々を心から尊敬し、同じ日本人として誇りに思います。中には、被害者の救護中に刺されたため命を落とした方もいました。痛ましい限りですが、この方々は本当の意味で、正義を実行した「勇気」のあった人々です。




また、「悪」を憎む心が「正義」であるとも考えられます。
麻原彰晃率いるオウム真理教が起こした一連の犯罪は明らかな「悪」として、日本中の人々が憎みました。反戦とか反原発とか基地反対を唱える人々には死刑反対論者も多いように思えますが、麻原をはじめとしたオウム幹部の死刑執行の前には反対の声は小さかったように思いました。オウムはそれほど巨大な「悪」だったのかもしれません。ネタバレにならないように注意して書きますが、この映画に登場する松倉という男の最期を知って、「天罰が当たった!」とカタルシスをおぼえた人もいたはずです。

わが人生の「八美道」

わが人生の「八美道」



わたしの父は、「正義」よりも「美」を重視しています。父は、礼法を学び、おじぎを極め、会社を興しましたが、すべてが「美」を追い求めてきた気がするそうです。父は著書『わが人生の「八美道」』(現代書林)の「まえがき」に「『正しいか、正しくないか』――私にはわかりません。『美しいか、美しくないか』――これはわかります。『美』を唯一無二の基準にして、生きてきたような気が致します。自然の美しさに学び、心の美しさに涙し、無理のない美しい流れを大切にしながら生きてきました。ささやかではありますが、その行いのすべてが、今日ある私の姿です。良し悪しは他人様に評価して頂きたいと存じます」と書いています。わたしも、「正しさ」よりも「美しさ」を目指して生きたほうが道を踏み外さないように思います。




「検察側の罪人」の話に戻ります。
検事役のキムタクとニノは、どちらも素晴らしい演技でした。
2人もスーツ姿もよく似合っていました。思ったのですが、検事役も悪くなかったですが、彼らには刑事役をやらせてみたいです。TOKIOの長瀬智也とか松岡昌宏なども刑事役が意外にハマるように思います。かつて、石原プロが「太陽にほえろ!」や「西部警察」で一世を風靡したように、ジャニーズ事務所も自ら刑事ドラマを制作してみてはどうでしょうか?




石原裕次郎のようなボス役は、やっぱり「マッチ」こと近藤真彦でしょうか。ナンバー2に「ヒガシ」こと東山紀之、ナンバー3が木村拓哉で、武闘派の長瀬智也&松岡昌宏、そして岡田准一、二宮和弘、山下智久、錦戸亮、横山裕あたりの演技派をズラリと並べれば、堂々のチームが結成できるのではないでしょうか。まあ、マッチとヒガシの演技力は「?」ですが、彼らは上席に座っているだけでいいのです。




SMAPの解散を見てもわかるように、いつまでもタレントをアイドルとして歌わせているわけにもいかないのですから、ジャニーズは刑事ドラマ進出を真剣に考えてみるといいと思います。それにしても、映画ポスターのキムタクとニノの顔がネットにもUPされているのを見て、「ああ、ジャニーズも少しは変わってきているんだなあ・・・」としみじみと思いました。
同じ事務所に所属しているにもかかわらず、SMAPと嵐のマネジメント側が対立して、結果、SMAPは不本意な解散を強いられました。そのとき大いに悲しみ嘆いたファンたちは、この映画をどんな思いで観るのでしょうか?
わたしは、「ある意味で、この映画を観ることは、SMAP解散の悲嘆を癒すグリーフケアになるのではないか」と思いました。



2018年8月26日 一条真也

2018-08-21

「カメラを止めるな!」

一条真也です。
東京に来ています。業界の会議の後、TOHOシネマズ日比谷で超話題の日本映画「カメラを止めるな!」をついに観ました。
夏休み映画には観たいものがなかったので、じつに久々の(20日ぶり!)映画鑑賞です。いやあ、ムチャクチャ面白かったです!




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「監督・俳優養成の専門学校「ENBUゼミナール」のシネマプロジェクト第7弾となる異色ゾンビムービー。オムニバス『4/猫 −ねこぶんのよん−』の一作を担当した上田慎一郎が監督と脚本と編集を務めた。ゾンビ映画を撮っていたクルーが本物のゾンビに襲われる様子を、およそ37分に及ぶワンカットのサバイバルシーンを盛り込んで活写する。出演者は、オーディションで選ばれた無名の俳優たち」

f:id:shins2m:20180820134932j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「人里離れた山の中で、自主映画の撮影クルーがゾンビ映画の撮影を行っている。リアリティーを求める監督の要求はエスカレートし、なかなかOKの声はかからず、テイク数は42を数えていた。その時、彼らは本物のゾンビの襲撃を受け、大興奮した監督がカメラを回し続ける一方、撮影クルーは次々とゾンビ化していき・・・・・・」




この映画は2017年11月に先行公開されました。その後、国内及び海外の映画賞を数々受賞し、2018年6月に日本国内で凱旋上映を行いました。キャッチフレーズは「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」「無名の新人監督と俳優達が創ったウルトラ娯楽作」で、海外タイトルは「ONE CUT OF THE DEAD」。公開当初は製作元のENBUゼミナールが配給を行い、渋谷ユーロスペースなどの一部のミニシアターのみの上映でしたが、SNS上の口コミで評判が広がり、7月25日にアスミック・エースとの共同配給になることが発表されました。




この8月以降、順次100館以上での上映拡大が行われており、24日からはシネプレックス小倉でも上映されます。本当はもっと早い時期に渋谷ユーロスペースで鑑賞したかったのですが、広末涼子のデビュー曲「MajiでKoiする5秒前」の歌詞のように「渋谷はちょっと苦手〜♪」なわたしですので、躊躇していました。しかし、ようやくTOHOシネマズ日比谷(宝塚劇場の地下にあるお気に入りの映画館です)で観ることができて大満足です。



カメラを止めるな!」は、監督・上田慎一郎にとっては初の劇場長編作品です。37分ワンカットのシーンは本当のトラブルと脚本としてのトラブルを混在させているそうですが、映画の開始早々にそのシーンが登場して、ちょっと驚きました。「え、もう出てくるの?」といった感じです。しかし、これが「ダメだ、こりゃ!」といった感じのドタバタ・シーンなのです。とにかく間が悪く、不自然な演技が多過ぎます。わたしは37分のワンカット・シーンを観ているうちにイライラして、そのうちに寝てしまいました。寝不足だったのと、映像がつまらなかったからです。




アルフレッド・ヒッチコック監督の名作「ロープ」をはじめ、これまでにもワンカットで撮影された映画は多いですが、どれも流れるようにドラマが展開されていきました。1948年に製作された「ロープ」は、パトリック・ハミルトンの舞台劇の映画化です。1924年に実際に起きた少年の誘拐殺人事件である「レオポルドとローブ事件」を元にしています。 ヒッチコック監督はこの映画の全編をワンシーンで繋げ、また映画の中と実際の時間が同時に進むという実験的な試みで、映画界を仰天させました。ただし当時の撮影用のフィルムは10〜15分が限界なので、実際には背中や蓋を大写しにするワンカットを入れることで全体がつながっているように演出したそうです。




「ロープ」のワンカット撮影が100点だとしたら、「カメラを止めるな!」のギクシャクしたワンカット撮影は10点といったところでしょう。しかし、映画評論家の町山智浩氏も言っているように、間の悪さやタイミングのズレや演技の下手さがすべて仕掛けだったのです。見事な伏線の回収ぶりはまさに三谷幸喜のようでいて、三谷幸喜以上に成功しています。
町山氏は「三谷を真似してみたら、三谷を超えてしまった」作品であると評していますが、言い得て妙ですね。ネタバレになるので仕掛けについては詳しく書けませんが・・・・・・。




町山氏だけでなく、ラッパーにしてラジオDJ、そして映画評論もするライムスターの宇多丸氏も「週刊映画時評」で「カメラを止めるな!」について、「作り手の映画への愛と情熱があふれる大傑作。今年ベスト級」「映画って面白いと再認識」「劇場全体が笑いであふれる最高に幸せな映画体験ができた」「伏線をきちんと回収していく脚本も見事だが、それだけにとどまらず映画的な面白さも満載」と大絶賛していました。




本来はゾンビ映画なのでホラーのはずなのですが、実質はコメディ映画になっています。映画スタッフの奮闘ぶりに感動したり、登場人物の人生ドラマに感情移入したりもするので、ハートフル・コメディ映画といったところでしょうか。それにしても映画撮影そのものを撮影し、さらにその様子も撮影しているので、メタ・フィクション、メタメタ・フィクションの構図になっており、まるで「夢から覚めたと思ったら夢で、さらには、それもまた夢だった」みたいな感じです。これはもう現実が何重にも入れ子のようになっているわけで、その意味では「現実とは何か」を問う哲学映画と言えるかもしれません。

ゾンビ論 (映画秘宝セレクション)

ゾンビ論 (映画秘宝セレクション)



もともと、ゾンビの存在そのものは哲学的なテーマとなりえます。「人間とは何か」や「死とは何か」などの問いを内包しているからです。
ブログ『ゾンビ論』で紹介した、ゾンビ映画の歴史を辿りながら、その魅力を多角的に論じた本があります。この本には数々のゾンビ映画の名作が紹介されていますが、「カメラを止めるな!」がゾンビ映画の歴史を変えたように思います。それぐらいのインパクトでした。




ゾンビ映画の歴史に燦然と輝くジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」がクランク・インしたのは1967年6月でした。同作品について、ゾンビ映画に詳しい特殊書店タコシェ店長の伊東美和氏は『ゾンビ論』で以下のように述べています。
「本作を好意的に取り上げた『ニューズウィーク』は、モダン・ゾンビの恐さが一種のパラノイアを生み出すことにあると分析している。ゾンビは巨大モンスターなどではなく、害悪をもたらす存在となった平均的な市民である。劇中のテレビ・ニュースがもっともらしく伝えるのは、この敵がどこにでもおり、我々を常に狙っているということ。もはや安全な場所など存在せず、自分以外の誰もが突然襲いかかってくる可能性があるのだ」



続けて、伊東氏は以下のように述べています。
「ロメロも同じような見方をしている。自分の発明で誇れるものがあるとすれば、それは隣人がモンスターになるというアイデアだという。モダン・ゾンビは外宇宙から飛来するのでもなく、ハイチからはるばる海を越えて上陸するわけでもない。自分たちの隣人、あるいは友人や家族がそうなるのだ。ロメロがフェイバリットに挙げる『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56年)にも通じる恐怖だが、ゾンビには密かに人間と入れ替わるような知恵も能力もない。彼らはゆらゆらと獲物に近づき、いきなり噛みつくのだ」




ゾンビ映画には、もう1つの金字塔的作品があります。同じくジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」(78年)です。この映画について、伊東氏は「人が人を貪り食う!」として以下のように述べます。
「ある日突然、死者が蘇りはじめ、生者に襲いかかってその生肉を貪り食う・・・・・・。今でこそゾンビ映画のカニバリズムは当たり前のものになったが、この頃は違う。いくら蘇った死体だとはいえ、人が人を食うという描写は、サメやライオンが同じことをするよりもずっと衝撃的だった。一般的な感覚からすれば、間違いなくゲテモノの部類である。配給を手掛けた日本ヘラルド映画は、『グレートハンティング』を大ヒットさせた経験もあり、当然のことながら『ゾンビ』を『残酷映画』として売り出した」
この「ゾンビ」の原題は「ドーン・オブ・ザ・デッド」といいます。



外国語タイトルを「ワンカット・オブ・ザ・デッド」とした「カメラを止めるな!」は、ジョージ・A・ロメロ監督の2大名作「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」「ドーン・オブ・ザ・デッド」へのオマージュ的作品なのでしょうか。しかし、ロメロ作品ではとにかく怖かったゾンビが、「カメラを止めるな!」ではどこまでもユーモラスに見えてしまいます。というか、仕掛けを知ってしまった後では、ゾンビのメイクを見ただけで笑いたくなってきますね。




この映画、脚本も緻密に練られていますが、とにかくアイデアに脱帽です。低予算で最大のインパクトを持つホラー映画といえば、「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」(99年)を思い出しますが、「カメラを止めるな!」はそれ以来の衝撃でした。「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」がそうであったように、今後、「カメラを止めるな!」にも追随作品が続々と出現する気がします。いや、それにしても面白い映画を見せてもらいました。



2018年8月21日 一条真也

2018-08-01

「ウインド・リバー」 

一条真也です。
今日から、いよいよ8月ですね。
今年の夏はかなりの猛暑となっていますが、ぜひ体調管理に気をつけたいと思います。7月31日の夜、東京から北九州に戻りました。月初である8月1日は、朝から会社の行事や会議が続きます。東京では、会議の合間を縫って、角川シネマ有楽町で映画「ウインド・リバー」を観ました。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『最後の追跡』などの脚本を手掛けてきたテイラー・シェリダンが監督と脚本を務めたサスペンス。ある事件を調べる女性FBI捜査官と地元のハンターが、思わぬ真相にたどり着く。『アベンジャーズ』シリーズなどのジェレミー・レナー、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』などのエリザベス・オルセン、『スウィート・ヘル』などのジョン・バーンサルらが出演。『最後の追跡』で音楽を担当したニック・ケイヴ、ウォーレン・エリスが本作でも組んでいる」

f:id:shins2m:20180730023353j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「アメリカ、ワイオミング州。先住民族が住む深い雪に囲まれたウインド・リバーで、地元のベテランハンターであるコリー・ランバート(ジェレミー・レナー)が女性の遺体を発見する。FBIの新人捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)が派遣され、1人で捜査を開始するが雪山の厳しい自然環境や不安定な気候で難航する。ジェーンは、ウインド・リバー一帯に詳しいランバートの手を借りて調べを進めていく」




「ウインド・リバー」は非常にヘビーな映画でした。そして、観終わった後も、心に鉛のような感情が残る作品でした。タイトルとなっているウインド・リバーとは、アメリカの中西部ワイオミング州に位置するアメリカ先住民の保留地のことです。1830年、時の大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定めました。先住民であるネイティブアメリカンたちは西部へと移住させられ、彼らのいなくなった南部の広大な土地を綿花地帯としたのです。




この映画は、そんな雪深いウインド・リバーを舞台に、少女の死の真相に迫っていくクライム・サスペンスで、第70回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞しました。新鋭テイラー・シェリダン監督は、メキシコ国境地帯でのアメリカ麻薬戦争の知られざる実態を描いた「ボーダーライン」、家族の土地を守るために銀行強盗を繰り返す兄弟の運命を描いた「最後の追跡」の脚本家として有名ですが、この「ウインド・リバー」が監督デビュー作となります。ちなみに、シェリダン自身はこの3作を“現代のフロンティア3部作”と称しています。




「ウインド・リバー」の主演を務めるのはジェレミー・レナーとエリザベス・オルセンです。雪に閉ざされた大地に根ざして生きる凄腕ハンターのコリー・ランバートを演じるレナーはマーベル映画の「アベンジャーズ」でホークアイとして、FBIの新人捜査官ジェーン・バナーを演じるオルセンは同じく「アベンジャーズ」のスカーレット・ウイッチとしてお馴染みです。ホークアイといえば、「そして殺す」が決めセリフですが、「ウインド・リバー」では難解な殺人事件の捜査に挑むわけですから、面白いですね。レナーもオルセンも観客の胸を打つ素晴らしい演技でした。




それにしても、舞台となったウインド・リバー先住民居留地というのは謎めいた土地です。映画評論家の町山智浩氏の解説によれば、だいたい鹿児島県と同じぐらいの面積があるそうですが、なんと警察官が6人しかいないとか。2012年に「ニューヨーク・タイムズ」にこのウインド・リバーで異常にレイプ事件や女性の行方不明者が多いというルポ記事が掲載され大問題となり、オバマ大統領が6倍に増やして36人にしたそうです。
鹿児島県ぐらいの広さの土地には、アラパホ族とかショショニ族など2万人以上の先住民が住んでいますが、警察官がたったの6人しかいなかったというのは驚きです。そんな場所で少女が血を吐いて死んでいた。これは殺人事件かもしれないということで、FBIが呼ばれることになります。




FBIといえば、アメリカの警察の仕組みは非常に複雑です。アメリカ在住の町山氏は以下のように述べています。
「まず、いちばん普通に警察官として業務をしている人たちは市警察なんですね。シティなんです。市警察官。で、よく聞く保安官っていう人がいるでしょう? 保安官っていうのは郡に所属しています。で、保安官は警察官じゃありません。保安官は一種の政治家に近い人で地元の人が選挙で選ぶ人なんですよ」
「警察官ではないんです。で、州には州警察っていうのもあって。ステート・トルーパーって言われている人で、この人たちは市と市を結ぶ高速道路とかそうしたところを自分の管轄にしています。その上にさらに連邦警察っていうのがあって、これがFBIです。こういう仕組みだから州とか市を超えるとそれぞれの警察はそれ以上追跡できないんですよ。だから州を超えた犯罪の場合には連邦警察が出てくるんです。誘拐とかね」
「この先住民居留地っていうのは一応連邦政府の土地なんですよ。だから殺人事件だとFBIが出てくるんです。連邦政府のものだから。すごくややこしいんですよ。その法の隙間がそういうシステムだとできてきちゃうんですよ」




そして、警察がいないことは銃の所持につながります。
警察がいない土地で揉め事があったら、銃で決着をつけるしかないというのです。町山氏は「だから西部劇っていうのが生まれたんですよ。わずか150年前なのに全て銃と暴力で決着をつけるという状況がアメリカに生まれたのが西部劇なんですよ。現在も全く変わっていないんです」と述べています。また、町山氏は「見渡す限り何百キロも人が住んでいないところに家を建てるわけだから銃を持っていないとならないわけですね。だから全員が銃で武装している。完全な無法地帯になっているんですよ。もうすごいですよ。見ていると、だからいつ撃たれるかわからないし。要するに、熊とか猛獣がいるわけだから、護身用の銃じゃなくてものすごい高性能のライフルを持っているから大変な世界なんですよ、これ」とも述べています。説得力がありますね。




ネタバレにならないように注意深く書くと、映画「ウインド・リバー」には少女たちを死に追いやった悪党どもが登場します。よくインテリの中に「犯罪者が生まれるのは本人のせいではなく、社会が悪い」といったような、すべての罪を社会のせいにするような輩がいます。ブログ「万引き家族」で紹介したカンヌ映画祭グランプリ受賞作品などにも、万引きを犯す者がいるのは安倍政権のせいであるといったような感想が見受けられます。しかし、わたしは基本的にこの立場を取りません。社会が悪いのが原因ならば、社会的弱者は全員が犯罪者にならなければならないはずですが、現実はそうではありません。やはり、本人の責任が大きいのです。しかしながら、このウインド・リバー先住民居留地のレイプ犯の場合は少しだけ同情したくもなります。なにしろ、この土地には娯楽も希望も何もなにのです。居留地に入っている先住民の人々はもう150年間そこに入っていて何も良いことがないわけです。




ウインド・リバー先住民居留地の住人の平均寿命は49歳です。企業もないので、仕事もない。牧羊などは行われているようですが、失業率は80%。10代の自殺率が全米平均の2倍以上。町山氏によれば、先住民の女性がレイプされる率が全米平均の2.5倍以上。先住民が殺人事件の被害者になる率は全米平均の5倍から7倍・・・・・・これではまさに地獄といっても過言ではありません。レイプ事件多発の原因には、間違いなく若者たちの性欲の捌け口がないという事実があります。かつての橋下元大阪市長の提言ではありませんが、風俗産業の導入などを真剣に検討しなければいけないレベルの危険地区であると言えるでしょう。
ただ残念なのは、性犯罪に真正面から取り組んだこの映画の製作総指揮者が、ハリウッドのセクハラ大王として悪名を馳せたハーヴェイ・ワインスタインであることです。なんという皮肉でしょうか!




しかし、いくら「若者たちの性欲をミスリードした」などと言ってみても、自分の娘を強姦されて殺された親は、心の収めどころがありません。絶対に犯人を許せないでしょう。わたしの場合も同じです。社会派映画としてもサスペンス映画としても名作である「ウインド・リバー」の究極のテーマは「復讐」であると思います。世の中には、「自分の子が殺されたら、犯人を警察などに引き渡さず、自分で制裁する」と公言する人が多く存在します。
ここで、わたしは先日、13人全員が死刑執行されたオウム真理教事件の元死刑囚たちのことを考えました。死刑廃止を唱える人がいる一方で、オウム事件の犠牲者の遺族の中には「死刑執行に立ち会いたかった」と言う人もいました。わが子を理不尽に奪われた無念さと悔しさが滲み出た言葉です。死刑囚たちが拘置所の中にいなければ、自分の手で復讐を果たしたいと考えた人がいても不思議ではありません。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)



作家の村上春樹氏は、29日付の「毎日新聞」に寄稿し、自身は死刑制度に反対の立場だとしながらも、今回の執行には反対だと公言できないとの考えを示しました。村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、1995年に起きた地下鉄サリン事件の被害者らへのインタビューをまとめた『アンダーグラウンド』を執筆する過程で事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としています。村上氏の発言は非常に勇気あるものであり、傾聴に値します。




「復讐」がテーマの映画といえば、ブログ「レヴェナント:蘇えし者」で紹介した作品が思い浮かびます。舞台はやはりアメリカ西部の原野です。ハンターのヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は狩猟の最中に熊の襲撃を受けて瀕死の重傷を負います。そのとき、同行していた仲間のジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)はグラスを置き去りにします。絶体絶命の状況の中、グラスはかろうじて死の淵から生還し、自分を見捨てたフィッツジェラルドに復讐するために、大自然の猛威に立ち向かいながら、壮絶なサバイバルを繰り広げられるさまが描かれています。
この映画の最後に登場するリベンジ・シーンは映画史に残る名場面ではないでしょうか。「レヴェナント:蘇えし者」は息子を殺された父親の復讐の物語で、「ウインド・リバー」は娘を奪われた父親の復讐の物語です。ともに、「子の仇を討つ」という話なのです。それは「グリーフケア」の1つの形でもあるのかもしれないと、わたしは思いました。



2018年8月1日 一条真也

2018-07-22

「未来のミライ」  

一条真也です。
ブログ「友引映画館」で紹介したイベントが、わが小倉紫雲閣の大ホールで行われた21日の夜、小倉紫雲閣の近くにあるシネプレックス小倉でアニメ映画「未来のミライ」を観ました。ちょうど小倉に帰省していた長女と一緒に観たのですが、彼女が細田守監督のファンだというのです。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『サマーウォーズ』『バケモノの子』などの細田守が監督を務めたアニメーション。小さな妹への両親の愛情に戸惑う男の子と、未来からやってきた妹との不思議な体験をつづる。企画・制作は、細田監督らが設立したアニメーションスタジオ『スタジオ地図』が担当し、細田監督作に携わってきたスタッフが集結している。声の出演は、上白石萌歌、黒木華、星野源、役所広司ら」

f:id:shins2m:20180720231525j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「小さい木が立つ庭のある家に住む、4歳で甘えん坊のくんちゃんは、生まれたばかりの妹に対する両親の様子に困惑していた。ある日、くんちゃんはセーラー服姿の女の子と出会う。彼女は、未来からやってきた自分の妹で・・・・・・」




公開初日のレビューがあまり芳しくなかったので嫌な予感はしたのですが、はっきり言って、「未来のミライ」は面白くありませんでした。細田監督のファンである長女は「面白かった」と言っていましたが、わたしのハートにはヒットしませんでしたね。「子育てあるある」のネタに非日常のファンタジーが盛られたような作品でしたが、どうにもストーリーの豊かさというものが感じられません。山下達郎の音楽は、夏らしくて良かったです。「ああ、そういえば、学生時代の夏は、いつも達郎ばかり聴いていたなあ」と思いました。
あと、声優陣、特に男性たちの顔ぶれには驚きましたね。「パパ」役の星野源をはじめ、「じいじ」の役は役所広治、それから「ひいじいじ」の役はなんと福山雅治じゃありませんか。これは豪華すぎる!




「古い」とか「封建的」とか言われるのを覚悟で書きます。わたしは、乳飲み児を家に残して仕事に出る母親、イクメンかなにか知らないが、女房を外に働きに出して家で主夫をやる父親に強い違和感を抱きました。特に母親は泊りがけの出張にまで行く必要があるのかと思ってしまいます。
この映画のテーマとして、「お兄ちゃんの自覚」があるのでしょうか。
小さくて偉大な一歩を刻む4歳児の大冒険というわけですが、「映画com.」で、映画評論家の杉本穂高氏は次のように述べています。
「細田守監督は一貫して自らの家庭体験を描く人だ。結婚してたくさんの親戚ができたら『サマーウォーズ』を作り、子どもが生まれ、子育てする母親を目の当たりにしたら『おおかみこどもの雨と雪』を発表し、男の子が生まれたから『バケモノの子』を作った。今回も例に漏れず細田監督自身の家族体験が発想の元となっている。今回細田監督が描くのは、4歳の長男がお兄ちゃんだと自覚する瞬間だ。立ちはだかる壁は、狼と人間の種の違いや異世界のバケモノでもなく、自らの嫉妬心である。今まで両親の愛を一身に受けていた4歳の子どもが、ある日突然やってきた赤ん坊に親の愛を奪われてしまう」




細田監督は、娘が生まれ、4歳の息子に妹ができた時、彼が親の愛を奪われ泣き叫ぶ姿を見て、「愛を失う人とはこういうものか」と感じたそうです。細田監督が描く「自らの家庭体験」とやらが、わたしにはまったくピンときません。私小説にも程度があるというか、もっと想像力を働かせて豊かな物語を紡ぐことはできないのでしょうか。これまでの細田監督の作品である「時をかける少女」(2006年)、サマーウォーズ(2009年)、「おおかみこどもの雨と雪」(2012年)、「バケモノの子」(2015年)にはもっと物語の豊かさがあったように思います。まあ、「未来のミライ」で未来から現在へやってくるミライちゃんは「時をかける少女」そのものではありますが・・・・・・。










細田監督の最新作である「未来のミライ」には、4歳の子どもにとって初めて訪れた人生の試練が描かれています。両親の愛情を妹が独占していると思い込んだ主人公くんちゃんは、「ミライちゃん、好きくない!」と言います。この幼稚性(当たり前ではありますが)が延々と繰り返されるのが、わたしには大きなストレスでした。わたしの長女は次女と7歳離れているのですが、「妹が生まれたときは嬉しいばかりで、一度も嫉妬なんかしたことはなかった」と言っていました。わたしも6歳下の弟がいるのですが、やはり生まれたときは嬉しいだけで、くんちゃんのような感情を持った記憶はありませんね。これはやはり、くんちゃんに問題があるというより、母親が働きに出るのが早過ぎるのだと思います。当然のことながら、父親と母親は違います。「ママがいいの!」「パパじゃダメなの!」というくんちゃんの言葉は自然な感情から出たものであり、罪はありません。

f:id:shins2m:20180611124918j:image決定版 年中行事入門』(PHP研究所)



そんな「未来のミライ」にも、印象に残った場面はありました。
まずは、雛人形が登場したところです。生まれたばかりの娘ミライちゃんのために、両親は雛人形を求めるのですが、桃の節句を過ぎても片付けようとしません。それを憂いた未来のミライちゃんが、「このままでは嫁に行くのが遅れてしまう」と焦り、現代にやってきて悪戦苦闘しながら雛人形を片付けるのでした。女の子の成長を願う雛祭りは年中行事です。拙著『決定版 年中行事入門』(PHP研究所)に書いたように、世の中には「変えてもいいもの」と「変えてはならないもの」があります。年中行事の多くは、変えてはならないものだと思います。なぜなら、それは日本人の「こころ」の備忘録であり、「たましい」の養分だからです。平成最後の夏に公開された話題のアニメ映画に雛人形が登場して、わたしはちょっと感動しました。

f:id:shins2m:20131003140835j:image
ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)



それから、くんちゃんの母親や父親の若い頃の姿と出会う場面もありましたが、何よりも神風特攻隊の生き残りである曾祖父(ひいじいじ)とくんちゃんが出会うシーンが良かったです。曾祖父が曾祖母にプロポーズするシーンにも心を打たれましたが、この映画、主人公のくんちゃんが未来だけでなく、過去にも行きます。過去で会う人々は、くんちゃんの先祖です。拙著『ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)にも書いたように、わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちにほかなりません。この映画は、そのことをよく表現していたと思います。まあ本当は、ブログ「リメンバー・ミー」で紹介したアニメ映画のように物語に深みがあれば、もっと良かったのですけれど・・・・・・。




それでも、「未来のミライ」のくんちゃんは縦横無尽に時間を超えます。妹のミライちゃんも自由に時を駆けめぐります。この「時間を超える」というのは映画というメディアそのものの本質であると思います。
拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも書きましたが、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。

f:id:shins2m:20160902093447j:image
死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)



それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。「未来のミライ」のくんちゃんも、今は亡き曾祖父に会い、心を通わせるのでした。

f:id:shins2m:20131002132906j:image
法則の法則』(三五館)



最後に「未来のミライ」というタイトルに関して、一言。
わたしは、『法則の法則』(三五館)という本を2008年7月8日に上梓しましたが、じつは同書には2冊の続篇のプランがありました。1冊は『歴史の歴史』というタイトルで、人類史におけるこれまでの「歴史」という概念を俯瞰する内容の本でした。そして、もう1冊がなんと『未来の未来』というタイトルの本だったのです。これは、SF小説を中心に「未来」観の流れを振り返り、さらには未来における「未来」の姿を予想するという内容でした。
法則の法則』『歴史の歴史』『未来の未来』を三部作として書き上がる構想はそのままになっていますが、まだ諦めたわけではありません。いつの日か、倒産した三五館とは違う版元から上梓したいと考えています。



2018年7月22日 一条真也