Hatena::ブログ(Diary)

一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-06-17

「終わった人」   

一条真也です。
16日の夜、日本映画「終わった人」を観ました。内館牧子原作のベストセラー「定年小説」を映画化した“笑って泣けるハートフルコメディ”です。一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)が特別協賛しています。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「テレビドラマ『週末婚』などの脚本を手掛けてきた内館牧子の小説を、舘ひろしを主演に迎えて映画化。定年退職し世間から終わった人と見なされた元会社員の悲哀と、そんな夫と向き合えない妻の関係をハートフルに描く。舘ふんする主人公の妻を黒木瞳、主人公を惑わす美女を広末涼子が演じるほか、臼田あさ美、田口トモロヲらが共演。『リング』シリーズなど数多くのホラーを手掛けてきた中田秀夫がメガホンを取る」

f:id:shins2m:20180610233937j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「大手銀行の出世コースから外れ、子会社に出向したまま定年を迎えた田代壮介(舘ひろし)は、喪失感からネガティブな発言を繰り返す。以前の輝きを失った夫と向き合えない美容師の妻・千草(黒木瞳)との間に溝ができ、満たされない気持ちから再就職先を探すが、うまくいかない。そんな中、ある人物と出会ったことで運命が大きく動きだし・・・・・・」

f:id:shins2m:20180610233954j:image
終わった人」チラシ(表)



わたしは数日前に全互連の会長を退任したばかりなので、「『終わった人』って、俺のことか?」と思いながら観ました。正直、最初はあまり鑑賞に気乗りはしませんでしたが、全互協が特別協賛しているので社長室のメンバーと一緒に観ました。シネコンの最も小さいシアターでしたが、土曜の夜だというのにガラガラ。わたしは「もしかして、この映画自体が終わっている?」と少しだけ思いました。受付嬢によれば、ブログ「万引き家族」で紹介した映画はほぼ同時間に上映されて満員だったとか。(苦笑)
しかし、予想に反してと言っては失礼ですが、とても面白かったです。主演の舘ひろしがあまりにもスタイルが良くてファッショナブルなので、「終わった人」感がまったく感じられないのが玉に傷でしたが、ユーモアとペーソスが全体に溢れていて、「万引き家族」よりもずっと良い映画でした。

f:id:shins2m:20180610234040j:image
終わった人」チラシ(裏)



舘ひろし演じる主人公の田代壮介は高校時代はラグビー部のキャプテンで、東大法学部からメガバンクに入行した超エリートです。銀行でも出世コースを驀進していましたが、結局はコースから外れて子会社へ出向させられます。わたしの友人や知人で、大手新聞社や総合商社や大手証券会社で出世コースに乗っており、「最低でも本社の役員。いずれは社長の可能性も・・・」という優秀な人間が数人いたのですが、すべてコースから外れてしまいました。やはり、大企業は甘くありません。実力や人望だけでは出世できないのが大企業なのです。壮介もそのような人生を歩んできました。彼の姿を見ながら、わたしは友人や知人のことを思い出しました。




それにしても、会社での最終日にハイヤーで帰る壮介の姿は寂しそうでした。部下たちから花束は貰うのですが、どうしても哀愁が漂います。壮介は「まるで生前葬だな」とつぶやきますが、まさにサラリーマンにとっての退職セレモニーとは生前葬なのかもしれません。しかし、生前葬をネガティブに描いたり、茶化して描いたりするのはちょっと不愉快でした。このへんは、全互協の広報・渉外委員会もきちんとチェックを入れてほしかったです。まあ、ユーモアの範囲で許容はできますが・・・・・・。それにしても、「リング」をはじめとしたJホラーの名匠である中田秀夫監督がこのようなユーモアの演出ができるとは意外でした。




退職直後の壮介は、けっこう哀れです。「終わった人 1日目」とか「終わった人 2日目」といったように、まるでカタストロフィーが待ち受けているかのようなカウントには笑いましたが、仕事一筋で来た会社人間には、定年後に何もすることがないというのがリアルで怖いです。暇を持て余した挙句、壮は大学院への合格を目指し、まずはカルチャーセンターに通います。
壮介は文学、それも石川啄木研究と言うテーマを選びますが、このように定年後に何かの文化に親しむというのは素晴らしいことだと思います。

f:id:shins2m:20131002114857j:image
老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)


拙著『老福論〜人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)にも書きましたが、「人は老いるほど豊かになる」というのが、わが持論です。一般に、高齢者には豊かな時間があります。時間にはいろいろな使い方がありますが、「楽しみ」の量と質において、文化に勝るものはないでしょう。さまざまな文化にふれ、創作したり感動したりすれば、老後としての「グランドライフ」が輝いてきます。文化には訓練だけでなく、人生経験が必要とされます。また、文化には高齢者にふさわしい文化というものがあると思います。

f:id:shins2m:20171028183056j:image
「サンデー毎日」2017年11月12日号



長年の経験を積んでものごとに熟達していることを「老熟」といい、経験を積んで大成することを「老成」といいます。「老」には深い意味があるのです。わたしは「大いなる老いの」という意味で「グランド」と名づけています。これは、グランドファーザーやグランドマザーの「グランド」でもあります。
この「老熟」や「老成」が何よりも物を言う文化が「グランドカルチャー」です。グランドカルチャーは、将棋よりも囲碁、生花よりも盆栽、短歌よりも俳句、歌舞伎よりも能とあげていけば、そのニュアンスが伝わるのでは?




もちろん、どんな文化でも老若男女が楽しめる包容力を持っていますが、特に高齢者と相性のよい文化、すなわちグランドカルチャーというものがあります。わが社では高齢者向けの文化教室「グランドカルチャーセンター」を運営しています。 グランドカルチャーは高齢者の心を豊かにし、潤いを与えてくれる。それは老いを得ていくこと、つまり「得る老い」を「潤い」とします。超高齢社会を迎えた今こそ、高齢者は文化に親しむべきだと思います。その生き方が、「後期高齢」を「光輝好齢」に変えてくれるはずです。




啄木研究を志すだけあって、壮介には詩心があるようです。
定年退職の翌日、妻と訪れた公園の桜を見上げながら、彼は「散る桜 残る桜も 散る桜」という良寛の辞世の句を口ずさみます。それが妻には女々しい愚痴と思えたようですが、これは妻のほうがおかしいです。良寛の句は人生の真理を淡々と詠ったものであり、けっして愚痴などではありません。

f:id:shins2m:20170129191041j:image
「サンデー毎日」2017年2月12日号



死生観を育むためには、辞世の歌・辞世の句というものが大事です。
日本人は辞世の歌や句を詠むことによって、「死」と「詩」を結びつけました。死に際して詩歌を詠むとは、おのれの死を単なる生物学上の死に終わらせず、形而上の死に高めようというロマンティシズムの表れであるように思えます。そして、「死」と「志」も深く結びついていました。
死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知ることができます。有名な坂本龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」こそは、死と志の関係を解き明かした言葉にほかなりません。




また、『葉隠』には「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という句があります。これは、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した、生の哲学の箴言なのです。もともと日本人の精神世界において「死」と「詩」と「志」は不可分の関係にあったのです。「辞世の歌」や「辞世の句」とは、それらが一体となって紡ぎ出される偉大な人生文学ではないでしょうか。




わたしが特に好きな「辞世の歌」は、「良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ」(良寛)、「あらたのし思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」(大石良雄)、「頼み無き此世を後に旅衣 あの世の人にあふそ嬉しき」(清水次郎長夫人お蝶)の三首です。
また、好きな「辞世の句」は「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」(松尾芭蕉)、「もりもり盛り上がる 雲へあゆむ」(種田山頭火)、「春風や 次郎の夢の まだつづく」(新田次郎)です。




ラストシーンに登場した盛岡の桜は美しかったです。
惜しみなく咲き、そして潔く散ってゆく桜の花は、日本人の死生観を育んできました。故郷の桜を見た壮介は、またしても「散る桜 残る桜も 散る桜」と口ずさみます。その後、ちょっと心温まるシーンがあるにはあるのですが、わたしには物足りませんでした。やはり ブログ「おくりびと」で紹介した映画のように冠婚葬祭で人を幸せにする作品を、全互協には特別協賛してほしかった。広報・渉外委員会さん、お願いしますよ!

f:id:shins2m:20161012195816j:image
儀式論』(弘文堂)


全互協には儀式継創委員会という組織もありますが、ぜひ同委員会には、定年退職後の夫婦の絆を強めるような新しいセレモニーを考えていただきたいと思います。動揺して不安を抱え込んでいる「こころ」に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
拙著『儀式論』(弘文堂)でも詳しく述べましたが、儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。語源が「ころころ」だという説もあるぐらい、人間の「こころ」とは不安定なもの。それを安定させる「かたち」が儀式です。七五三、成人式、結婚式、長寿祝い、葬儀といった通過儀礼(人生儀礼)はすべて「こころ」を安定させるための「かたち」です。そして、定年後の人間の「こころ」も大きな不安に揺れ動いています。ここに何らかの儀式を創新すべきではないでしょうか。




美容師をやっている壮介の妻・千草は黒木瞳が演じていましたが、彼女にはもっと夫の孤独を理解してあげてほしかったです。あと、「おくりびと」にも出演していた広末涼子と笹野高史も良い味を出していましたが、広末が演じたカルチャーセンターの受付嬢は個人的に苦手なタイプの女性です。この映画では36歳の彼女が田口トモロヲ演じる55歳(わたしと同い年)のイラストレーターと不倫をしていると思い込んで怒ってしまいましたが、これはわたしの勘違いでした。わたしはイラストレーターのことを壮介の娘婿と勘違いしていたのです。でも、本当の娘婿が登場しなかったので勘違いした観客は多かったはず。ここは登場人物の相関関係をもっとわかりやすくしてほしかったかったですね。

f:id:shins2m:20170323175037j:image
人生の修め方』(日本経済新聞出版社)



終わった人」という映画のタイトルは好きではありません。
いま流行の「終活」という言葉も嫌いです。もともと「終活」は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。わたしも「終末」という言葉には、違和感を覚えます。なぜなら、「老い」の時間をどう豊かに過ごすかこそ、本来の終活であると思うからです。そこで、わたしは、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。

f:id:shins2m:20161224232222j:image
「サンデー毎日」2016年1月8日・15日合併号



考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」でしょう。
学生時代の自分を修めることが就活で、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。
老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める・・・・・・この覚悟が人生をアートのように美しくすると思うのです。わたしは「終わった人」ではなく、「修めた人」になりたい!




最後に余談を2つ。1つめは、壮介が高校ラグビー部の主将だったとき、彼はミーティングで「試合に勝つためには反則でも何でもやろう!」と言います。それに対して監督の息子が反発し、「反則はいけねぇ。ルールを守らなかったら、タックルもスクラムもただの野蛮な行為だべ」と言い返して、二人は喧嘩になります。このシーン、どうしても例の日大アメフト部の危険タックル事件を連想しますね。まるであの事件を予見していたようなエピソードですが、まあ、昔からアメフトとかラグビーなどのコンタクト・スポーツには日常茶飯事的な問題なのでしょう。




もう1つ。ここは、ネタバレ覚悟でお読み下さい。定年後で暇を持て余していた壮介は新興IT企業の顧問になります。社長が急死して、壮介は新社長になるのですが、妻の千草は「顧問と社長では責任の重さが違うわ!」と言って反対します。その後、事態は千草が心配したとおりになるのですが、わたしは自分が社長に就任した当時のことを思い出しました。会社に何かあったら、社長はすべての責任を負わなければなりません。
終わった人」を観ながら、そんなことを改めて痛感しました。
エンドロールで流れた「終わった人」の主題歌「あなたはあなたのままでいい」は今井美樹が歌いましたが、心に沁みるような名曲だと思いました。



2018年6月16日 一条真也

2018-06-16

「30年後の同窓会」 

一条真也です。
15日の夜、映画「30年後の同窓会」をレイトショーで観ました。
沖縄から戻ったばかりでかなり疲れており、正直言って映画など観る元気はありませんでしたが、この映画が「葬儀」と「グリーフケア」がテーマのヒューマンドラマだと知り、気力を振り絞って観に行きました。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「『さらば冬のかもめ』などの原作で知られるダリル・ポニックサンの小説を基にしたロードムービー。戦地で命を落とした息子を故郷に連れ帰ろうとする男と、同行する友人たちの姿を映す。監督は『6才のボクが、大人になるまで。』などのリチャード・リンクレイター。『フォックスキャッチャー』などのスティーヴ・カレル、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』などのブライアン・クランストン、『マトリックス』シリーズなどのローレンス・フィッシュバーンが出演」

f:id:shins2m:20180614203853j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「わけありの過去を捨てて牧師になったミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)と酒ばかり飲んでいるバーの店主サル(ブライアン・クランストン)の前に、音信が途絶えて約30年になる旧友のドク(スティーヴ・カレル)が姿を現す。ドクは、突然の再会に驚く彼らに、1年前に妻に先立たれ、2日前に息子が戦死したことを話し、息子の亡きがらを故郷に連れ帰る旅に同行してほしいと頼む。こうして三人は、ノーフォークからポーツマスへと旅立つが・・・・・・」




「30年後の同窓会」というので、最初は高校か大学の同窓会の話かと思いましたが、アメリカの海兵隊時代の仲間3人が数十年ぶりに再会するロードムービーでした。3人のベテラン俳優たちがじつに良い味を出していました。リンクレイター監督は「時間の魔術師」などと呼ばれています。「現在」を見せながら「過去」を語るという独特の作風からです。




リンクレイターは、けっしてフラッシュバック映像を安易に使いません。丁寧に会話だけで当時の出来事を呼び起こします。そのリアルな会話劇は映画というよりもドキュメンタリー映像を観ているような気分になります。ブログ「6才のボクが大人になるまで」で紹介した映画をはじめ、9年ごとに撮られた「Before/sunrise/sunset/midnight」の三部作が「時間の魔術師」リンクレイターの代表的作品です。




「6才のボクが大人になるまで」は、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)でも取り上げました。「映画で死を乗り越える」が同書のテーマです。じつは、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思っています。写真は一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。その瞬間を「封印」するという意味です。しかし映画は「時間を生け捕りにする芸術」です。かけがえのない時間をそのまま「保存」します。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。「時間の魔術師」とはリンクレイターの異名ですが、映画そのものが「時間の魔術」なのです。

f:id:shins2m:20160902093447j:image
死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)



「30年後の同窓会」の話に戻ります。
短期間に妻と息子を失ったラリーは、失意のどん底にいました。
拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、フランスには「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。
もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、あなた自身の死に直面することであり、あなたの愛する人を亡くすことなのです。

f:id:shins2m:20131003145013j:image
愛する人を亡くした人へ』(現代書林)



わたしは、冠婚葬祭の会社を経営しています。
本社はセレモニーホールも兼ねており、そこでは年間じつに数千件の葬儀が行なわれています。そのような場所にいるわけですから、わたしは毎日のように、多くの「愛する人を亡くした人」たちにお会いしています。その中には、涙が止まらない方や、気の毒なほど気落ちしている方、健康を害するくらいに悲しみにひたっている方もたくさんいます。亡くなった人の後を追って自殺しかねないと心配してしまう方もいます。そんなとき、頼れる人間がいるかどうかが重要です。ラリーは生きる気力も失って30年も会っていない旧友を頼りました。つまり彼は「縁」のある家族を失ったので、「絆」のある友人を頼ったわけです。




よく混同されますが、「縁」と「絆」は違います。
「縁」と「絆」は似て非なるものです。「縁」とは人間が社会で生きていく上での前提条件であり、「絆」とはさまざまな要因によって後から生まれるものです。「縁」のない人はいませんが、誰とも「絆」を持てない人はいます。いわば、「縁」とは先天的であり、「絆」は後天的なのです。「きずな」という言葉の中には「きず」が含まれています。「傷」を共有してこその「絆」なのです。それならば、最も絆の強い人々とは「戦友」ではないでしょうか。国や時代に関わらず、従軍した人々の体験はつねに「傷」とともにあったからです。「絆」のある人々の同窓会は永く続きます。




ブログ「ペンタゴン・ペーパーズ」で紹介した映画が明らかにしたように、アメリカ政府はベトナム戦争についての真実を隠していました。本当は勝てる見込みのなかったベトナム戦争では、多くのアメリカ人兵士が死にました。政府のウソを当時の新聞メディアが、そして米国民がどうしても許せなかったのは、そこに無念の死を遂げた死者たちへの想いがあったからです。
ベトナム帰還兵であるドクはイラクでの息子の死の真相を政府から隠されます。それは亡き息子が国家の「英雄」となれるような華々しい死ではありませんでした。それでも、ドクは息子の葬儀を立派にあげようとします。



葬儀の場面では、世代を超えた海兵隊員たちの制服姿が感動的でした。亡くなったドクの息子も制服姿で葬られました。このシーンを観て、この映画のテーマは「誇り」でもあると思いました。チャーリーは、ドクに対して、軍服を初めて身につけたときの誇らしさを語ります。それを聞いたドクは、息子が最も輝いていたときのことを思い出し、彼に対する尊厳を汚してはならないと感じたのです。殉職した軍人への敬意は、たとえ家族でも踏みにじってはなりません。

f:id:shins2m:20161012195816j:image
儀式論』(弘文堂)




ドクの息子の葬儀には「かたち」がありました。『儀式論』(弘文堂)にも書きましたが、葬儀をはじめとする儀式とは「かたち」です。親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる「こころ」に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。


f:id:shins2m:20171215125126j:image
唯葬論』(サンガ文庫)




では、葬儀という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。
唯葬論』(サンガ文庫)の「葬儀論」にも詳しく書きましたが、葬儀は「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の「こころ」を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、「こころ」はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。



わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。あなたの愛する人が亡くなるということは、あなたの住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。



亡くなったドクの息子の年齢は21歳でした。
これから花も実もあるという矢先の、あまりにも早い死です。冠婚葬祭業を営んでいると、日々、多くの「愛する人を亡くした人」にお会いします。100歳を超える高齢で大往生された方から、生まれたばかりの赤ちゃんまで、亡くなられた人の年齢は、さまざまです。一般に、高齢であればあるほど悲しみはより浅く、若ければ若いほど悲しみはより深いとされています。わたしは、すべての人間は自分だけの特別な使命や目的をもってこの世に生まれてきていると思います。この世での時間はとても大切なものですが、その長さはさほど重要ではありません。

f:id:shins2m:20180324200151j:image
「サンデー毎日」2018年4月8日号



明治維新を呼び起こした1人とされる吉田松陰は、29歳の若さで刑死しましたが、その遺書ともいえる『留魂録』にこう書き残しました。
「今日、死を決心して、安心できるのは四季の循環において得るところがあるからである。春に種をまき、夏は苗を植え、秋に刈り、冬にはそれを蔵にしまって、収穫を祝う。このように一年には四季がある」
そして、松陰は人間の寿命についても次のように述べました。
「人の寿命に定まりはないが、十歳で死ぬ者には十歳の中に四季がある。二十歳には二十歳の四季がある。三十歳には三十歳の四季がある。五十歳、百歳には五十歳、百歳の四季がある。私は三十歳で死ぬことになるが、四季は既に備わり、実をつけた」



松陰の死後、その弟子たちは結束して、彼の志を果たしました。松陰の四季が生み出した実は結ばれ、その種は絶えなかったのです。
松陰だけでなく、「人生の四季」は誰にでもあります。
せめて、四季折々の出来事を前向きに楽しみながら、後の世代に想いを託し、最後は堂々と人生を卒業してゆきたいものです。
そして、ドクの息子の短い人生にも四季がありました。
人が生きた証とは何か。それは、何のために死んだかではなく、どこで死んだかでもなく、故人が何を愛し、何を大切にして生きたかということでしょう。ドクの息子は祖国と両親を愛し、大切にしていました。
「30年後の同窓会」は、国家や民族や宗教を超えて、人類普遍の営みである葬儀の重要性をくっきりと示した映画であったと思います。



2018年6月16日 一条真也

2018-06-09

「羊と鋼の森」

一条真也です。
6月9日、皇太子さま、雅子さまの東宮ご夫妻は銀婚式(ご結婚25周年)を迎えられました。心よりお祝いを申し上げます。ご夫妻は、いよいよ来年5月から新しい天皇・皇后になられるわけですが、今上天皇と皇后さまは最近、「羊と鋼の森」という日本映画を御覧になりました。東宮ご夫妻の銀婚式という晴れの日に、わたしも鑑賞いたしました。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「第13回本屋大賞に輝いた宮下奈都の小説を実写映画化。ピアノの調律のとりこになった一人の青年が調律師を志し、さまざまな人々とのすそ交流や、挫折を経験しながら成長していくさまを描く。主人公・外村を『四月は君の嘘』などの山崎賢人、外村の人生に大きく関わる調律師・板鳥をテレビドラマ「就活家族 〜きっと、うまくいく〜」などの三浦友和が演じる。『orange−オレンジ−』で山崎と組んだ橋本光二郎がメガホンを取り、『高台家の人々』などの金子ありさが脚本を担当」

f:id:shins2m:20180609184138j:image



また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「北海道育ちの外村直樹(山崎賢人)は、高校でピアノの調律師・板鳥宗一郎(三浦友和)と出会い、板鳥の調律したピアノの音色がきっかけで調律師を目指すことに。やがて板鳥のいる楽器店で調律師として働き始め、先輩に同行した仕事先で高校生の姉妹ピアニスト和音と由仁に出会う」

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)



この映画の原作は、ブログ『羊と鋼の森』で紹介した小説です。
それにしても『羊と鋼の森』とは不思議なタイトルですが、羊とは「ピアノの弦を叩くハンマーに付いている羊毛を圧縮したフェルト」、鋼とは「ピアノの弦」、そして森とは「ピアノの材質の木材」を表します。羊のハンマーが鋼の弦をたたくことによって、聴く者を音楽の森に誘うという意味もあり、もう書名からしてこの上なく文学的ですね。




原作小説を読み終えて思ったことは、「この作家は本当に小説を書くことが好きなのだな」ということでした。良い意味で文学少女がそのまま大人になったようなピュアな心を感じました。冒頭の「森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。」という一文からも、作者の小説への愛情がひしひしと伝わってきます。




『羊と鋼の森』に話を戻しましょう。この小説を読んで、ピアノに対する見方が変わりました。もちろん昔から自宅にはピアノが置かれていたわけですが、演奏の心得のないわたしにとっては単に大きな家具でしかありません。しかし、この小説にはピアノが以下のように表現されているのです。
「ピアノは一台ずつ顔のある個々の独立した楽器だけれど、大本のところでつながっている。たとえばラジオのように。どこかの局が電波に乗せて送った言葉や音楽を、個々のアンテナがつかまえる。同じように、この世界にはありとあらゆるところに音楽が溶けていて、個々のピアノがそれを形にする。ピアノができるだけ美しく音楽を形にできるよう、僕たちはいる。弦の張りを調節し、ハンマーを整え、波の形が一定になるよう、ピアノがすべての音楽とつながれるよう、調律する」(『羊と鋼の森』p.22)




ピアノがあれば、そしてピアノを弾けば、いつでも世界とつながることができるなんて、なんて素敵なことでしょうか。その調律という作業も奥深いわけですが、外村は「どのような音を目指せばいいのか」について悩みます、そんなとき、外村がこの道に入るきっかけとなった天才調律師の板鳥は、「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」という言葉を紹介します。小説家の原民喜の言葉ですが、おそらくは作者の宮下氏の座右の銘なのではないかと思います。




映画「羊と鋼の森」では、鈴木亮平演じる先輩調律師の柳と山崎賢人演じる主人公の外村がいろんなピアノの音を整えていきます。それぞれのピアノにはさまざまな持ち主がいて、彼らはさまざまな人生を背負っています。鈴木亮平がピアノの調律師を演じると知ったとき、最初は違和感をおぼえたのですが、映画では自然に演じられていました。西郷隆盛からピアノの調律師までを演じるなんて、役柄の広い俳優さんだと思います。




それから、主役の山崎賢人も良かったです。これまで多くの少女漫画が原作のスイーツ映画に出演し、「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」(2017年)の東方仗助役、「斉木楠雄のΨ難」(2017年)の斉木楠雄役など、最近は異色の役も目立ちましたが、ようやく山崎賢人らしい役にめぐりあえたという感じでした。北海道の山林で育った純粋で繊細な外村青年のキャラクターを見事に演じていましたね。彼は少女漫画に登場する王子様のような、あるいは昭和のアイドル歌手のような顔をしているのですが、その雰囲気は落ち着いていて上品でした。




外村の先輩の柳ですが、繊細な神経の持ち主で、不自然なものを見ると気分が悪くなるような人物でした。たとえば、公衆電話は目立つように不自然な黄緑色になっていますが、そういうものが目に入ると気分が悪くなります。派手な看板なども憎んでいて、「世界の敵」だと言っていました。気分が悪くなったとき、彼はメトロノームで救われました。ねじまき式のメトロノームのカチカチカチカチという音を聴いているうちに落ち着くことを発見したのです。原作者の宮下氏はメトロノームのことを「何かに縋って、それを杖にして立ち上がること。世界を秩序立ててくれるもの。それがあるから生きられる、それがないと生きられない、というようなもの」と表現していますが、これは「儀式」そのものであると、わたしは思いました。儀式とは何よりも世界に秩序を与えるものです。それは、時間と空間に秩序を与え、社会に秩序を与え、そして人間の心のエネルギーに秩序を与えます。



ブログ『言語としての儀礼』で紹介した本で、著者であるイギリスの牧師で神学者のロジャー・グレンジャーは、儀礼の本質を「人類全体の初原状態を一時的に再現」することにあると述べています。
ピアノの調律というのも「初原状態の再現」にほかなりません。さまざまな原因から狂った音を初原状態に戻すという「初期設定」を行うのです。しかし、ピアノの調律は「初期設定」だけでは不十分です。顧客の「これからは、もっと明るい音にしたい」といった要望に応える、いわば「アップデート」も求められます。これは、儀礼の場合もまったく同じことです。

f:id:shins2m:20140409105924j:image
決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)



拙著『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)では、こう書きました。
「冠婚葬祭のルールは変わりませんが、マナーは時代によって変化していきます。最近、情報機器の世界では『アップデート』という言葉をよく聞きます。アップデートによって新しい機能が追加されたり、不具合が解消されたりするわけです。冠婚葬祭にもアップデートが求められます。基本となるルールが『初期設定』なら、マナーは『アップデート』です。本書は、現代日本の冠婚葬祭における『初期設定』と『アップデート』の両方がわかる解説書だと言えるでしょう」

f:id:shins2m:20161012195816j:image
儀式論』(弘文堂)


拙著『儀式論』(弘文堂)の第6章「芸術と儀式」にも詳しく書いたように、もともと儀式と音楽は分かちがたく結びついていました。そのことを最初に指摘した人物こそ、儒教の開祖である孔子です。孔子は、儀礼と音楽とを合わせて「礼楽」という言葉を使いました。『礼記』では「礼楽」について、「楽は同じくすることをなし、礼は異にすることをなす同じければすなはちあひ親しみ、異なるときはすなはちあひ敬す」と述べられています。その意味は、「音楽というものは、いろいろな階級や立場の異なりを超えて、人々の心をひとつにするものである。儀礼というものは、乱れる人間関係にけじめを与えるために、おのおのに立場の異なりをはっきりさせるものである。楽しみをともにするときはおのおのあい親しみ、おのおのが自己の位置と他人の立場を意識するときは、相手の立場や意見を尊重する気持がおこってくる」といったところです。

礼記 (中国古典新書)

礼記 (中国古典新書)



映画「羊と鋼の森」にも儀式の場面が登場します。それも葬儀と結婚式という人生の二大儀式の場面です。まず、葬儀は外村の祖母の葬儀です。吉行和子が演じました。祖母が危ないという報せが入り、外村は急いで実家に戻りましたが、間に合いませんでした。家族と、数少ない親戚、それに集落の人々が集まって、山でささやかな葬儀が営まれます。それは、いわゆる「野辺の送り」と呼ばれる葬送儀礼で、葬式行列も組まれました。




この古き良き日本の葬儀のようすを見ながら、わたしはブログ「万引き家族」で紹介した前日観た映画を連想しました。「万引き家族」にも樹木希林演じる初枝という老婆が登場しますが、彼女が亡くなっても葬儀はあげられませんでした。吉行和子にしろ、樹木希林にしろ、日本映画界を代表するベテラン女優ですが、彼女たちが演じた老女の最後の送られ方はまったく違ったものでした。




一方の結婚式のほうは、柳の結婚披露パーティーが描かれています。柳と外村がピアノの調律をした姉妹の姉である和音がピアノを弾くことになり、外村が調律をしました。
宮下氏は、この上なく幸福なようすを以下のように書いています。
「若草色のドレスを来た和音が、やわらかいピアノを弾きはじめる。荘厳というよりはすがすがしくて、最初は何の曲を弾き出したのかわからなかった。結婚行進曲。しあわせなふたりを親しい人たちで讃える、祝福の曲。装飾音符を、和音はゆっくりとまるで主旋律のように弾く。夢のように美しく、現実のようにたしかに。拍手の中を、新郎新婦が笑顔で入ってくる。テーブルの間を通っていくときに、照れくさそうにこちらに会釈をした」
(『羊と鋼の森』p.236)




映画「羊と鋼の森」には、結婚披露宴のバンケットの広さ、参加者の人数、食器の音などを配慮したピアノの調律が行われる場面が登場しますが、これこそ真の芸術ではないかと思いました。ラストが幸せな結婚披露パーティーの場面で終わったことからもわかるように、この映画は優しさに満ちています。登場人物にも悪人はいません。そして、ピアノの調律師になった外村だけでなく、すべての仕事でプロを目指す若い人たちにエールを送っていると感じました。外村は、羊のハンマーが鋼の弦をたたくことによって生まれる音楽の森を歩む人生を選びました。「今日」という日が「残された人生における第一日目」という厳粛な事実に無頓着では充実した人生は望めません。ぜひ、わたしたちも自らが選んだ仕事を「天職」であると思って、自らが理想とするプロを目指し、悔いのない人生を送りたいものです。

澁澤龍彦 西欧芸術論集成 上 (河出文庫)

澁澤龍彦 西欧芸術論集成 上 (河出文庫)



最後に、芸術について述べたいと思います。
作家・評論家の澁澤龍彦は、「楽器について」という秀逸なエッセイにおいて、「芸術」そのものの本質を語っています。まず澁澤は、オランダの文化史家であるホイジンガの名著『ホモ・ルーデンス』を取り上げます。この本で「人間の文化は遊びとともに発達した」と主張したホイジンガは、「音楽は人間の遊戯能力の、最高の、最も純粋な表現である。そこには何ら実利的目的はない。ただ快楽、解放、歓喜、精神の昂揚が、その効果として伴っているだけである」と述べています。
これに対して澁澤は、「まことにホイジンガのいう通り、音楽ほど純粋な芸術はなく、それは私たちを日常の現実から救い上げて、一挙に天上の楽園に運んでくれるものだろう」と感想を記しています。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)



ヨーロッパの中世の宗教画には、かわいい天使たちが手にいろんな楽器をもって音楽を奏でている場面が描かれています。現代日本の結婚式場やチャペルのデザインなどにも、よく使われていますね。澁澤は、その天使の楽器について、さらに「天上」というキーワードを重ねて、「たしかに最高の音楽は、いわば天上的無垢、天上的浄福に自然に到達するものと言えるかもしれない。アンジェリック(天使的)という言葉は、たぶん、音楽にいちばんふさわしい言葉なのである」と述べています。英語でもフランス語でもドイツ語でも「遊ぶ」という言葉と「演奏する」という言葉は同じです。英語では「プレイ」ですが、日本語でも「遊ぶ」という表現は、古くは「神楽をすること」あるいは「音楽を奏すること」という意味に用いられました。




ここで、わたしが思い浮かべるのが、ブログ「おくりびと」で紹介した映画の主人公です。納棺師になる前の主人公はチェロ奏者でした。チェロ奏者とは音楽家であり、すなわち、芸術家です。そして、芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。絵画や彫刻などは間接芸術であり、音楽こそが直接芸術だと主張したのは、かのヴェートーベンでした。すなわち、芸術とは天国への送魂術だというのです。

f:id:shins2m:20171215125126j:image
唯葬論』(サンガ文庫)



拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の第7章「芸術論」にも書きましたが、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものであると確信しています。しかし、いわゆるファインアート(造形美術)や音楽を職業とする芸術家たちの多くはその真理を理解することができません。わたしが「葬儀こそは芸術そのもの」という自説を唱えると、露骨に不愉快な顔をする者さえいます。彼らは、冠婚葬祭を世俗主義のきわみのように考えているようですが、まったく考えの浅い連中ですね。




映画「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家です。送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりえるのです。「遊び」には芸術本来の意味がありますが、古代の日本には「遊部(あそびべ)」という職業集団がいました。これは天皇の葬儀に携わる人々でした。やはり、「遊び」と「芸術」と「葬儀」は分かちがたく結びついているのです。天皇といえば、5月24日に「羊と鋼の森」を御覧になった天皇陛下は映画の鑑賞後、天皇陛下は監督に「良い映画を観せてもらいました」と述べられたそうです。




2018年6月9日 一条真也

2018-06-08

「万引き家族」

一条真也です。
8日、わたしが少年時代に憧れていたマドンナにお会いしました。
女優の吉沢京子さんが小倉ロータリークラブの例会にメイキャップに来られたのです。吉沢さんといえば、わがペンネームの由来になった一条直也が大活躍する「柔道一直線」のヒロイン役を演じました。わたしが「一条真也」の名刺をお渡しすると、吉沢さんは驚かれて「まあ、一条さん!」と言われました。本当は、ミキッぺの口調で「一条く〜ん!」と呼んでほしかった!
さて、公開されたばかりの日本映画「万引き家族」を観ました。
第71回カンヌ国際映画祭「コンペティション」部門に正式出品され、最高賞であるパルムドールを受賞した話題作です。





ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『誰も知らない』『そして父になる』などの是枝裕和監督による人間ドラマ。親の年金を不正に受給していた家族が逮捕された事件に着想を得たという物語が展開する。キャストには是枝監督と何度も組んできたリリー・フランキー、樹木希林をはじめ、『百円の恋』などの安藤サクラ、『勝手にふるえてろ』などの松岡茉優、オーディションで選出された子役の城桧吏、佐々木みゆらが名を連ねる」

f:id:shins2m:20180608154246j:image


また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「治(リリー・フランキー)と息子の祥太(城桧吏)は万引きを終えた帰り道で、寒さに震えるじゅり(佐々木みゆ)を見掛け家に連れて帰る。見ず知らずの子供と帰ってきた夫に困惑する信代(安藤サクラ)は、傷だらけの彼女を見て世話をすることにする。信代の妹の亜紀(松岡茉優)を含めた一家は、初枝(樹木希林)の年金を頼りに生活していたが・・・・・・」




カンヌのパルムドールを受賞した話題作の公開初日とあって、映画館はほぼ満員でした。しかし、正直言って、わたしは「つまらない映画だな」と思いました。わたしは「あらゆる映画を面白く観る」主義者で、あまり観た映画を悪く言わない人間なのですが、この作品は本当につまらなかった。つまらないというより、腹が立って仕方がありませんでした。




まず、「万引き」という犯罪行為を肯定的に描いているところが許せません。「万引き家族」では、スーパーマーケットだけでなく、老人が1人でやっている小さな商店からも万引きします。万引きという犯罪によってどれだけ多くのスーパーや商店が経営的にダメージを負っており、ひいては閉店に追い込まれる店もあるのか・・・その事実をわかっているのでしょうか。「それでは、殺人も犯罪だが、殺人が出てくる映画は多いではないか」と言う輩もいるかもしれませんが、エンターテインメントとしての犯罪映画なら理解できても、「万引き家族」のようなリアリズムの映画で、小さな子どもが万引きをする場面は非常に不愉快でした。




そう、この映画はリアリズムというか、かつてのイタリアのネオレアリズモ映画を連想させました。「無防備都市」ロベルト・ロッセリーニ(1945年)、「自転車泥棒」ヴィットリオ・デ・シーカ(1948年)、「揺れる大地」ルキノ・ヴィスコンティ(1948年)などが代表的作品です。パルチザン闘争、労働者の要求、市民の暴動といった主題が多かったネオレアリズモですが、要するに反体制や社会批判の映画ですね。特に、「自転車泥棒」が「万引き家族」に似ていると思います。




「自転車泥棒」には、イタリアの貧困層の父子が登場します。役所の広告貼りの仕事を得た失業労働者である父が、仕事に必要な自転車を盗まれてしまい、息子とローマの街を歩き回って自転車を探す物語です。どうしても自分の自転車が見つからずに途方に暮れた父は、ついに他人の自転車を盗もうとするのでした。
「自転車泥棒」も「万引き家族」も、ともに「犯罪を行う者が悪いのではない。犯罪を行わせる社会が悪いのだ」というメッセージを秘めています。そして、このネオレアリズモの匂いを放っていることは、「万引き家族」がカンヌのパルムドールを受賞したことと決して無縁ではないと思います。




これまで、是枝監督の映画はことごとくカンヌ映画祭に招待され、スタンディングオベーションを受けるなど、毎回のように絶賛されてきました。アカデミー賞の外国語映画賞などにはノミネートされないわけですから、アメリカでは受けなくてヨーロッパで受ける作品なのでしょう。
もともと、1980年代の終わりに撮影所システムが実質的に終焉してから、日本映画の中から尖鋭化した作品群が出現しました。北野武、黒沢清、河瀬直美といった個性的な作家たちの映画が代表的ですが、それらの作品はヨーロッパでのシネフィル的評価へとつながっていきました。是枝監督の一連の映画もその流れにあると見ることができます。




巣鴨子供置き去り事件をモチーフにして、「フランダース国際映画祭」のグランプリに輝いた「誰も知らない」(2004年)などもそうですが、是枝監督の作品にはいつも「家族」さらには「血縁」というテーマがあります。
「血がつながっているのに」という作品が「誰も知らない」。
「血はつながっていなくとも」が「そして父になる」。
「血がつながっているのだがら」が「海街diary」。
「血がつながっていても」が「海よりもまだ深く」。
そのように、わたしは思いました。そして今回の「万引き家族」は一見、「誰も知らない」と「そして父になる」の間にあるようにも思えますが、その本質は「やっぱり血がつながっていないから」ということではないでしょうか。




万引き家族」に登場する人々は本物の家族ではありません。いわゆる「疑似家族」です。彼らは情を交わし合っているかのように見えますが、しょせんは他人同士の利益集団です。もちろん、家族などではありません。ここだけはもうネタバレ承知で書きますが、家族ならば樹木希林扮する初枝が亡くなったとき、きちんと葬儀をあげるはずです。それを彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまいます。わたしは、このシーンを観ながら、巨大な心の闇を感じました。1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々としてするシーンにも恐怖を感じました。

精神現象学

精神現象学



そもそも、「家族」とは何でしょうか。哲学者ヘーゲルは、ブログ『精神現象学』で紹介した主著において、「家族の最大の存在意義とは何か」を考察しました。そして、家族の最大の義務とは「埋葬の義務」であると喝破しました。どんな人間でも必ず死を迎えます。これに抵抗することはできません。死は、自己意識の外側から襲ってくる暴力といえますが、これに精神的な意義を与えて、それを単なる「自己」の喪失や破壊ではないものに変えること。これを行うことこそ、埋葬という行為なのです。家族は、死者を埋葬することによって、彼や彼女を祖先の霊のメンバーの中に加入させるのです。これは「自己」意識としての人間が自分の死を受け入れるためには、ぜひとも必要な行為なのであると、ヘーゲルは訴えました。わたしも同意見です。



ヘーゲルの哲学はこれまでマルクス主義につながる悪しき思想の根源とされてきました。しかし、わたしは、ヘーゲルほど、現代社会が直面する諸問題に対応できる思想家はいないと思っています。『唯葬論』(サンガ文庫)でも、彼の「埋葬の倫理」を詳しく紹介しました。このヘーゲルの「埋葬の倫理」があったからこそ、宗教を否定する共産主義国家でも葬送儀礼は廃止されなかったのだと思います。




共産主義といえば、いま東京の岩波ホールで「マルクス・エンゲルス」という映画が上映されています。共産主義を唱えたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの若き日の活躍を描いた人間ドラマです。産業革命が社会構造のひずみから経済格差を生み出していた1840年代のヨーロッパが描かれています。そこでは貧困の嵐が吹き荒れ、不当な労働条件がはびこっていました。「万引き家族」にも、格差社会、独居老人などに代表される現代日本社会への批判的視点も感じますが、中途半端です。そういうものを期待する人なら、「マルクス・エンゲルス」を観たほうがいいと思います。




万引き家族」で最も印象的だったのは児童虐待の描写でした。
じゅり(佐々木みゆ)が実の親から虐待を受けるエピソードはやはり心が痛みます。最近、5歳の女の子が実の母親とのその交際相手に虐待され、その結果、死亡するという事件がありました。女の子は大学ノートに「ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と鉛筆で反省文を書いていたそうです。「万引き家族」のじゅりも、実の母親から何かというと「ごめんなさい」と言わされます。このシーンでは、どうしても現実の事件とオーバーラップしてしまいました。このような悲劇を二度と繰り返さないためには、どうすればよいのでしょうか? 
じつは、そのための具体案がわたしにはあるのですが、話が長くなるので、ここでは書きません。わたしも忙しいのです。ということで、また今度!



2018年6月8日 一条真也

2018-06-05

「友罪」  

一条真也です。
4日、日本を代表する流通企業の会長さんの葬儀に参列しました。多くのことを学ばせていただいた葬儀でした。社員代表の方々による弔辞も心がこもっていましたし、最後の喪主である会長夫人の御挨拶が見事でした。「こんな素晴らしい人のお嫁さんにしてもらって、わたしは本当に幸せです!」と堂々と言われたときには非常に感動しました。わたしは妻とともに参列していたのですが、「この御主人にして、この奥様あり!」と思いました。
さて先日、日本映画「友罪」を観ました。あの神戸連続児童殺傷事件をテーマにした慟哭の人間ドラマです。「心を許した友は、あの少年Aだった。」という言葉が、映画のキャッチコピーです。




ヤフー「友罪」の「解説」には、以下のように書かれています。
「『天使のナイフ』『Aではない君と』などで知られる作家・薬丸岳のミステリー小説を、『ヘヴンズ ストーリー』などの瀬々敬久監督が映画化。凶悪事件を起こした元少年犯と思われる男と、その過去に疑念を抱く同僚の友情と葛藤を描く。『人間失格』などの生田斗真と、生田とは『土竜の唄 香港狂騒曲』などで共演し瀬々監督とは『64―ロクヨン―』で組んだ瑛太が2人の男を体現する」

f:id:shins2m:20180602235607j:image



また、ヤフー「友罪」の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「ジャーナリストを目指していたが挫折し、生活のため町工場で働くことになった益田(生田斗真)は、同時期に働き始めた鈴木(瑛太)という男と出会う。鈴木は周囲と交流せず、過去を語ろうとしなかったが、同い年の二人は次第に打ち解け友情を育んでいく。しかしあるきっかけから、益田は鈴木が17年前に世間を騒然とさせた連続児童殺傷事件の犯人ではないかと考え・・・・・・」




この映画、とにかく暗いです。「神戸連続児童殺傷事件」は「日立連続児童殺傷事件」に変えられていますが、事件の内容はほぼ同じです。この事件の犯人の「いま」をめぐる物語ではあるのですが、それ以外にさまざまな人間ドラマがサイドストーリーとして展開されます。ネタバレになるので詳しくは書けませんが、「葬式ごっこ」のいじめによる中学生の自殺まで出てきて、心が痛みました。ブログ「葬式ごっこを許すな!」にも書いたように、このような最低の愚行を許してはなりません。「葬式」そのものは最も人間的な行為ですが、「葬式ごっこ」は最も非人間的な行為なのです。




この映画には葬式そのものは登場しませんでしたが、そのかわりに結婚式、それも神前結婚式の場面が出てきました。つまり、「祝い」の場面です。これが暗く陰惨な映画の中で清涼剤のような存在となっていました。「祝い」という行為には、ものすごい力があります。「祝」に似た字に「呪」がありますが、どちらも「兄」とつきます。漢字学の第一人者だった白川静によれば、「呪」も「祝」も神職者に関わる字であり、「まじない」の意味を持ちます。「呪い」も「祝い」ももともと言葉が「告(の)る」つまり「言葉を使う」という意味であり、心の負のエネルギーが「呪い」であり、心の正のエネルギーが「祝い」ということです。ネガティブな「呪い」を解く最高の方法とは、冠婚葬祭に代表されるポジティブな「祝い」を行うことです。「友罪」という映画そのものは「呪い」の波動に満ちた内容でしたが、結婚式という「祝い」のシーンによって少し救われた思いがしました。




それにしても、瑛太の演技は狂気を帯びていて、素晴らしかったです。河瀬直美監督の「光」(2017年)での演技を連想しました。「友罪」で瑛太演じる鈴木はいろんな人物から理不尽な暴力を受けるのですが、けっしてやり返しません。実際の瑛太は飲み会の席で挑発してきた某ジャニタレをボコボコにしたそうですが、この映画では同じジャニーズ事務所の生田斗真に殴られっぱなしになっていました。




この映画を観ながら、わたしはブログ「怒り」で紹介した日本映画を連想しました。現場に「怒」という血文字が残った未解決殺人事件から1年後の千葉、東京、沖縄を舞台に3つのストーリーが紡がれる群像劇です。前歴不詳の3人の男と出会った人々がその正体をめぐり、疑念と信頼のはざまで揺れる様子を描いています。その中で、「松山ケンイチと宮崎あおいのエピソードみたいなオチかな?」と思っていたのですが、実際は違いました。「友罪」のオチはガチでした。




「友罪」の脇役陣の中では、佐藤浩市の存在感が光りました。
そういえば、瀬々監督の代表作「64―ロクヨン―」には佐藤浩市に、それから瑛太も出演していましたね。2人とも日本映画界を代表する名優だけあって、素晴らしい演技でした。
「64―ロクヨン―」は、わずか7日間で終わった昭和64年に発生し、迷宮入りとなった少女誘拐殺人事件の物語です。この事件は「ロクヨン(64)」と呼ばれることになります。平成14年12月。県警で、かつて刑事部の刑事として「ロクヨン」の捜査にも加わっていた三上義信(佐藤浩市)は、警務部秘書課広報室広報官のポストにありました。時効が1年後に迫った「ロクヨン」担当捜査員を激励するため、警察庁長官が視察に訪れるという話が持ち上がります。人間の心理の闇に迫る見事な犯罪映画でした。



また、「友罪」には富田靖子も出演しています。
わたしはずいぶん年齢を重ねた彼女の顔をスクリーンで見ながら、1989年に日本大学創立100周年記念作品として作られた日本映画「マイフェニックス」に彼女が主演していたことを思い出しました。いま悪質タックルで話題の日大アメフトチームのフェニックスを舞台にした青春映画ですが、当時わたしが勤務していた東急エージェンシーが東宝をタッグを組んだ作品です。全国大学王者通算17回と監督通算勝利数401勝という歴代1位の戦績を誇る篠竹幹夫監督は菅原文太が演じていました。東急エージェンシーに籍を置きながら「日大経済人カレッジ」などの仕事をしていたわたしは映画製作の現場にも何度も足を運びました。完成披露パーティーでは、篠竹監督のお世話をした記憶があります。当時人気絶頂だった富田靖子にも何度も会いました。そういえば、「マイフェニックス」のキャッチコピーは「男の人ってバカみたい・・・だけどドッキ!」でしたね。(笑)
不謹慎な話かもしれませんが、このたびの悪質タックル事件の加害者と被害者の2人の関係を描いた映画が作られたら、とても考えさせられるヒューマンドラマになるような気がします。

f:id:shins2m:20171215125126j:image
唯葬論』(サンガ文庫)



話題が逸れました。「友罪」の益田も鈴木も、ともに死者への消えることのない大きな罪悪感を抱いています。彼らの「罪」は、いくら遺族に謝罪しても消えることはありません。一般に、殺人事件や死亡事故などを犯すと、犯人や加害者の家族の人生もメチャクチャになります。「友罪」の中にも、家族を解散して、息子が犯した過ちの償いを続ける父親が登場します。彼が遺族の前で土下座して何度も頭を下げる場面は観ていてこちらが辛くなります。しかし、「友罪」のラストシーンを見て気づいたことがあります。犯人や加害者は遺族という「生者」ではなく、被害者という「死者」にこそ向き合わなければならないということを。もちろん、現実には遺族への賠償問題などがありますが、それよりも自分がその命を絶った相手に対して耳を傾け、死者の声を聴くという行為が最も大切なのではないでしょうか。
拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも繰り返し述べたように、どこまでいっても、人間とは死者を想う存在なのだと思います。



2018年6月5日 一条真也