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一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-06-13

百名伽藍  

一条真也です。
なんくるないさー! 沖縄に来ています。
ブログ「ガンガラーの谷」で紹介したパワースポットを後にしたわたしたちは、昼食会場である「百名伽藍」を訪れました。

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百名伽藍の前で
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百名伽藍の内部
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久高島を望む海



百名伽藍」は琉球創世神話の舞台として知られる神秘の地に佇む和琉様式の全17室の最高級ホテルです。山を背に、眼下に広がる海からは日の出と日の入り、また琉球最大の聖地・久高島が望めます。わたしはブログ「『久高オデッセイ』シンポジウム」で紹介した映画を思い出しました。

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近海魚のマース煮
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アグー豚のステーキ
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アロエの甘酢がけ
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赤米と中味汁
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最高級ランチのお品書き



百名伽藍」の館内は回廊が巡っています。
また、巨木のガジュマルが生い茂る中庭を設け、光と影と風の織りなす静謐な世界へと誘ってくれます。懐かしさにも似た歓びが満ち溢れるこのホテルで、沖縄最高級ランチをいただきました。美味しかったです。



2018年6月13日 一条真也

ガンガラーの谷  

一条真也です。
いちゃりばちょーでい! 沖縄に来ています。
ブログ「首里城」で紹介した世界遺産を後にしたわたしたちは、「神秘の谷」と呼ばれるガンガラーの谷を訪れました。沖縄県南城市前川にある、鍾乳洞が崩れてできた谷間で、2008年8月に観光地として公開されました。

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ガンガラーの谷の入口
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神秘的な光景
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じつに、いい感じです
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発掘調査区1



Wikipedia「ガンガラーの谷」の「概要」には、こう書かれています。
「ガンガラーの谷は、数十万年前までは鍾乳洞であったが、現在は崩壊し自然豊かな森となっている。広さは約14,500坪、歩行距離にして約1km、東京ドーム1個分の大きさである。森の中には、鍾乳洞跡にそびえ立つ高さ20mの大主(ウフシュ)ガジュマルや、子宝を願う信仰の場所であるイキガ洞・イナグ洞がある」

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ガンガラーの谷で
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密林でレクチャーを受ける
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原生林のたたずまい
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森の匂いを嗅ぎながら・・・
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この木を見よ!
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母神
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鍾乳洞の中へ・・・
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男根神



また、Wikipedia「ガンガラーの谷」の「遺跡発掘」には、以下のように書かれています。
「ガンガラーの谷では、世界最古となる約2万3千年前の貝製の釣り針や、約8千年前の爪形文土器片、約4千年前の火を焚いた炉の跡などが見つかっている。また石の棺に入った人骨が発見され、約1万8000年前に生きていた港川人の居住区だといわれている。現在も国立科学博物館・東京大学・沖縄の地元研究者で結成されている沖縄更新世遺跡調査団と、沖縄県立博物館・美術館により港川人に関する発掘調査が続けられている」

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トトロの葉?
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沖縄のジャングル
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ガンガラーの谷で
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ガンガラーの谷で妻と
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アドベンチャー気分
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ガンガラーの谷で



さらに、Wikipedia「ガンガラーの谷」の「観光地化の流れ」には、以下のように書かれています。
「ガンガラーの谷は、沖縄返還直前の1972年4月に、南部に明るい場所を創ろうとの意図の下、観光地として公開されたが、その数年後に谷内を流れる川上流から畜舎排水が流れ込むという汚染問題が起こり、直ちに公開が中止された。その後30年間、河川環境の回復を待ち続け、2008年8月に予約制ガイドツアー専用エリアとして再び公開が始まった」

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港川人の人骨発見地
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洞窟内の港川人レクチャー
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港川人の変化
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出口付近にはハブ・ミュージアムが・・・



2018年6月13日 一条真也

首里城   

一条真也です。
めんそーれ! 沖縄に来ています。
12日、全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の第60回定時総会が行われました。翌13日は8時にホテルを出発して、世界遺産の「首里城」へ向かいました。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾で、沖縄県那覇市首里にあります。

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守礼門の前で
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世界遺産碑を発見



Wikipedia「首里城」には、以下のように書かれています。
「首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は『首里城跡(しゅりじょうあと)』であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある」

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歓会門の前で
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素晴らしい晴天でした



また、Wikipedia「首里城」の「歴史・沿革」には、こう書かれています。
「首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添とされ、敬称で御百浦添と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなく、史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。消失する度に再建されてきたが毎回木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている」

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首里城にて



「一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、『外城』『中城』『内城』の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ『閣』があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の『和漢三才図会』(寺島良安・編)には首里城が『琉球国』の項の挿絵(地図)のなかに描かれている」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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廣福を背に



「1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定された。正殿は県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある)。正殿は1925年(大正14年)に特別保護建造物(のち旧国宝)に指定された(指定名称は「沖縄神社拝殿」)。昭和初期(1927年(昭和2年)−1932年(昭和7年))に正殿の改修工事が行われた」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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正殿を背にして
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正殿内部の玉座



「太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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正殿の模型
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正殿の遺構



「戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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首里城ジオラマ(その1)



「1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤〜黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー映像が発見されており、それによると屋根瓦は赤色では無い事が判明している」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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首里城ジオラマ(その2)



「1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には『首里城跡』(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)

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歴史を語るアカギの大木の下で

2018年6月9日 一条真也

2018-05-25

日向新しき村  

一条真也です。
宮崎に来ています。ブログ「都萬神社」で紹介した日本最初の結婚式が行われた場所を訪れた後、わたしは延岡に向かいました。その途中で木城町にある「日向新しき村」に寄りました。

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峠の展望台から見た「日向新しき村
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峠の展望台にて
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武者小路実篤の文学碑を背に
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武者小路実篤の文学碑



新しき村」とは「食うための労働を全員で分担することで労働時間を1日6時間以内とし、残りの18時間は各自が自己実現のために時間を使う」ことをモットーにしたユートピア的共同体です。白樺派の作家・武者小路実篤とその同志により、理想郷を目指して1918年(大正7年)宮崎県児湯郡木城町に開村されました。1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が埼玉県毛呂山への移転を余儀なくされましたが、残りは「日向新しき村」として存続し、2017年に創立100周年を迎えました。

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「日向新しき村」の入口
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「日向新しき村」の入口にて



Wikipedia「新しき村」の「歴史」には、以下のように書かれています。
「武者小路実篤とその同志により、理想郷を目指して1918年(大正7年)宮崎県児湯郡木城町に開村された。1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が現在の位置(「東の村」)に移転し、残りは日向新しき村(ひゅうがあたらしきむら)として存続した」

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「日向新しき村」のようす
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「日向新しき村」にて
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「日向新しき村」の豚
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人なつこい犬がいました
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武者小路実篤記念館の前で
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武者小路実篤記念館の石碑と



一般財団法人 新しき村ホームページの「村の概要」には、「新しき村は、武者小路実篤が提唱した、新しき村の精神に則った生活をすることを目指して、その活動を続けている」と書かれています。そして、その精神とは、
●全世界の人間が天命を全うし、各個人の中にある自我を生長させることを理想とする。
●自己を生かすため、他人の自我を害してはならない。
●全世界の人々が我らと同じ精神、同一の生活方法をとることによってその義務を果たし、自由を楽しみ、正しく生き、天命を全うすることができる道を歩くように心がける。
●かくのごとき生活を目指すもの、かくのごとき生活の可能性を信じ、また望むもの、それは我らの兄弟姉妹である。

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武者小路実篤記念館の内部
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武者小路実篤記念館の中で
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武者小路実篤記念館の中で
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ユーゴーの首(ロダン作)
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共に咲く喜び
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君も僕も美しい



わたしは、2001年にサンレーの社長に就任してすぐの時期に「日向新しき村」を訪れました。ちょうどその頃、『ユートピア紀行』伊藤信吉著(講談社文芸文庫)という本を読んだのですが、「日向新しき村」について書かれていたので興味を持ったのです。もともと、わたしは、『リゾートの思想』(河出書房新社)や『リゾートの博物誌』(日本コンサルタントグループ)などの内容からもわかるように「理想郷」というものに強い関心を抱いていたのです。その後、『愛情生活 虚構の告白 白樺記』荒俣宏著(集英社文庫)という小説を読んで、「新しき村」の内情などを知りました。荒俣氏によれば、武者小路実篤は「最も多くの本を書いた日本人」だとか。白樺派といえば筋金入りの理想主義者の集団といった印象がありますが、並外れた行動力も併せ持った武者小路は「白樺派の闘将」と呼ばれました。
その後、わたしは「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生と「ムーンサルトレター」という満月の文通を交わすことになりましたが、その記念すべき第1信(プロローグ)で「一条さんは、現代の『白樺派』やね」と言われたことを思い出します。

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昭和13年の写真パネル
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武者小路実篤記念館の色紙
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本が売られていました



そして、2017年に「新しき村」は開村100周年を迎えました。
それを記念して出版された『「新しき村」の百年』前田速夫著(新潮新書)を読んだのですが、世界的にも類例のないユートピア実践の軌跡をたどり、その現代的意義を問い直す内容で、改めて「人類共生」の夢を掲げた「新しき村」に興味を抱いた次第です。同書の中でも述べられているのですが、武者小路実篤の理想の中には「無縁社会」を乗り越えるための大きなヒントが隠されているように思います。また、「相互扶助」の実現を目指して生まれた生協や互助会などがアップデートするためのヒントもあるように思えてなりません。わたしも社長に就任してもうすぐ17年になりますが、17年前に「新しき村」を訪れたときの想いや志が思い起こされました。



2018年5月24日 一条真也

2018-05-24

都萬神社  

一条真也です。
宮崎に来ています。
今回は、どうしても行きたい場所がありました。日本で初めて結婚式が行われたとされる「都萬神社(つまじんじゃ、都万神社)」です。

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都萬神社
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都萬神社を背に
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記紀の道
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都萬神社について



都萬神社は宮崎県西都市にある神社ですが、式内社で、日向国総社論社、日向国二宮論社となっています。
宮崎県は「神話の国」として知られます。県内には『古事記』『日本書紀』」に描かれる舞台の地が多くあります。都萬神社こそは、日本最古の書である『古事記』の中で、邇邇芸命ニニギノミコト)とその妻・木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の日本初の婚礼儀式(結婚式)の場所なのです。

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手水場で手を清めました
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「千年楠の洞洞木」の案内板
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これが「千年楠の洞洞木」だ!!
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くぐりました!



日本初の結婚式が行われた場所である都萬神社は、「恋愛がうまくいく」「良縁にめぐりあえる」神社として有名で、多くの女性が訪れています。「更衣祭(こういさい)」という嫁入りをそのまま再現する神事が毎年7月7日に行われています。社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊の妻であることによるといいます。「都万」の社名については、「妻万」とする説が古くからあります。
都萬神社にが願いごとをしてくぐる「千年楠の洞洞木」もありました。わたしは「夫婦円満」と「娘の良縁」を願いながら洞洞木をくぐりました。

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「日本清酒発祥の地」です
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都萬神社の由来



Wikipedia「都萬神社」の「歴史(創建)」にこう書かれています。
「創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる。
なお本居宣長以来古くから、当地の地名『妻(つま)』を『魏志倭人伝』に見える『投馬国』に比定する説がある(確証はされていない)」

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本殿を参拝しました
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本殿には大きな杉玉が・・・



また、Wikipedia「都萬神社」の「歴史(概史)」にこう書かれています。
「国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の『日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社を官社に預かる)』という記事である。その後、神階は天安2年(858年)に従四位下まで昇進した。『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に『都万神社』と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また『五社明神』という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られることから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある。また、都農神社(日向国一宮)に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある」

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鳥居を背に
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妻のクス
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生産河
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お乳の神様のいわれ



わが社の「サンレー」という社名には「産霊(むすび)」という意味があります。新郎新婦つまり男女の魂が結魂を果たし、息子(むすこ)や娘(むすめ)といった新しい生命を想像することが産霊です。日本最大の国難とは人口減少であり、少子化に対する方策が求められています。子どもを増やすには、その前に結婚の数を増やさなければいけません。というわけで、わが社は「婚活」を救国の事業として推進しています。都萬神社は「婚活のテーマパーク」のような場所で、「千年楠の洞洞木」の他にも、「妻のクス」や「生産河」などもありました。今日は、日本における「結婚」のルーツともいうべき都萬神社で多くのヒントやインスピレーションを得ることができました。

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相撲の土俵もありました!



2018年月日 一条真也

平和の塔  

一条真也です。
24日の朝、福岡空港からJAL3629便で宮崎ブーゲンビリア空港に飛びました。翌25日に宮崎県東臼杵郡門川町で「門川紫雲閣」の竣工式が行われるので宮崎入りしたのです。

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平和台公園の「平和の塔」
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「平和の塔」を背に



宮崎ブーゲンビリア空港に到着したわたしは、昼食後に現地に向かう途中、平和台公園に寄りました。ここには有名な「平和の塔」があります。正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘之基柱(あめつちもとはしら)」あるいは「八紘一宇の塔」とも呼ばれています。

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36.4メートルの「平和の塔」
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「紀元二千六百年」と刻まれています
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その威容に圧倒されました



Wikipedia「八紘之基柱」の「歴史(塔の建造)」に書かれています。
「1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった。そして宮崎県当局も『紀元二千六百年宮崎県奉祝会』を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六(奉祝会会長も兼任)は、『八紘一宇の精神を体現した日本一の塔』を作る事を提案し、実行に移すことになった。相川知事は大阪毎日新聞・東京日日新聞(いずれも毎日新聞の前身)に頼み、この塔を設計する彫刻家を公募した。そして名乗りを上げたのが日名子実三である。日名子は『報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい』と申し出て、相川知事も日名子の熱心さと彫刻家としての名声から、この申し出を了承することになった。相川知事は条件として、『何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい』と注文を出し、日名子もこれを受け入れた。そして宮崎神宮に参拝した際に、日名子は御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたという。
場所について、相川知事は当初神武天皇縁の地である『皇宮屋(こぐや)』を考えていたが、県の幹部より皇宮屋の北部の台地を勧められ、実際に現地を訪れた結果、この地に建造することになった。1939年(昭和14年)3月、日名子は模型を完成させ、相川知事の了解を得た。5月20日から工事開始。延べ約6万人の労働により翌1940年(昭和15年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた」

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「八紘一宇」の文字が刻まれています
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「八紘一宇」について考えました



また、Wikipedia「八紘之基柱」の「歴史(戦後)」に書かれています。
「戦後の1946年(昭和21年)にGHQの命により、『八紘一宇』の碑文と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去された。塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫『八紘一宇』も撤去・処分の対象となったが、宮崎県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の倉庫内に隠された。1957年(昭和32年)、『平和の塔』に改称。一時はロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃した。
1962年(昭和37年)に荒御魂像が、1965年(昭和40年)に『八紘一宇』の文字が復元された。これらの復元を主唱した県観光協会会長の岩切章太郎革新政党や労働組合が抗議に訪れたが、『日名子の芸術作品だから元に戻すのが当然』と追い返したという」

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見事な彫像です
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彫像から雑草が生えていました



さらに、Wikipedia「八紘之基柱」の「構造」にはこう書かれています。
「正面には『八紘一宇』の文字(秩父宮雍仁親王筆)が刻まれ、四方に武人である『荒御魂(あらみたま)』、商工人である『和御魂(にぎみたま)』、農耕人である『幸御魂(さちみたま)』、漁人である『奇御魂(くしみたま)』の信楽焼の四神像が配置されている。塔内部は空洞になっており、『厳室』と呼ばれている。厳室入口の青銅製の扉には、神武天皇が美々津から出航する場面が彫られている。厳室内には、塔に彫られた『八紘一宇』文字の元となった秩父宮の真筆が安置されている。また日名子の作品である8個のレリーフ(大国主命国土奉還、天孫降臨、鵜戸の産屋、橿原の御即位式、明治大帝御東遷、紀元二千六百年興亜の大業、太平洋半球、大西洋半球)が架けられている。ただしこれらのレリーフは石膏でできており、劣化しやすいため、厳室内は原則非公開となっている。
高さは、36.4m。1,789個の切石(縦45センチ・横60センチ・幅15センチ)が礎石として使われている。日本国内はもとより、日本国外からも日本人会を通じて寄贈された(提供者は法人・団体に限られた)」

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正面から見上げた「平和の塔」
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世界平和の祈りを捧げました
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塔から平和台公園を望む
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公園には紫陽花が咲いていました



じつは、わたしが「平和の塔」を見るのは生まれて初めてですが、その偉容に圧倒されました。「八紘一宇」の文字が刻まれていることで不幸な歴史を持つ塔ではありますが、もともと「世界平和」の願いをこめて建立されたものです。けっして日本一国だけの繁栄だけでなく、人類の幸福を願っての「平和の塔」であるべきだと思います。わたしは「平和の塔」を眺めながら、自然と地球人類の墓標である「月面聖塔」を想いました。
また、「平和」といえば、わたしは「結婚は最高の平和である」とつねづね訴えていますが、宮崎には日本で最初の結婚式が行われたとされる「都萬神社」があります。さらに「人類共生」という高邁な理想を掲げて創設された共同体である「新しき村」もあります。すごいぞ宮崎!
これから、それらの場所を訪れてみたいと思います。



2018年5月24日 一条真也

2018-04-14

プラハ城  

一条真也です。チェコの首都プラハに来ています。
13日、プラハ城を訪れました。かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城です。現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所で、ボヘミア国王の宝冠はここで保管されています。ギネスブックによれば、プラハ城は世界でも最も大きい城だそうです。



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現在、プラハ城は修復中
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いざ、プラハ城へ!



プラハ城の敷地の広さは東西430メートル、南北70〜140メートルで細長い形をしており、大きさは長さは約570m、平均の幅は約130mです。10世紀には既にこの大きさであったと考えられています。城はフラチャヌィの丘の頂にありますが、その麓にマラー・ストラナという城下町があります。城と麓の高低差は80メートルもあり、城まで続く坂道がネルドヴァ通りです。ここは土産物店やレストランが並び市電も走っていて、にぎやかです。上り詰めると城の正門に突き当たり、石畳のフランチャヌィ広場があります。この広場は、「アマデウス」や「レ・ミゼラブル」などの映画に登場しています。

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プラハ城にて
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黄金の道で
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カフカの仕事場の前で
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カフカの仕事部屋を覗くと・・・
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書店になっていました
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カフカの本を求めました



Wikipedia「プラハ城」の「歴史」には以下のように書かれています。
「築城については史実と伝説(リブシェ伝説など)が混在している。プラハ城の歴史は9世紀(870年)にさかのぼる。考古学の発掘調査ではボジヴォイ1世(在位870−894?)によって創建された。 壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会であった。聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖イジー教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カール4世(=ボヘミア国王カレル1世)の支配の下、王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。聖ヴィートのロトンドとバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されたが、完成までにはほぼ6世紀かかった」

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錬金術師の家
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幻想的なムードが漂っています
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拷問部屋のようす
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拷問部屋のようす



「ボヘミアの宗教改革者とされ、ローマ教会によって火刑に処せられたヤン・フスの一派によるフス戦争の間とその後の10年、城は空位のままであった。1485年、ウラースロー2世(ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)が城の再建に着手した。広々としたヴラジスラフ・ホールがベネディクト・レジェによって王宮に建設された。その後、城の北側には新しく防御の塔も建設された。1541年の大火で城は甚大な被害を受け、ハプスブルク家の支配下では、いくつか新しくルネサンス様式の建物が建設された。フェルディナント1世はベルヴェデーレを妻アンナのために夏の離宮として建設した」(Wikipedia「プラハ城」

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雨が降ってきました・・・
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城から眺めたプラハ市街



「ルドルフ2世はプラハ城を主たる居城とした。ルドルフは宮殿の北翼を建設し、そこにスペイン・ホールを作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。1618年に起きた2度目のプラハ窓外投擲事件は白山の戦いの契機となり、戦闘の間にプラハ城は荒れ果てた。三十年戦争の過程で1648年、ルドルフ2世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った」(Wikipedia「プラハ城」

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チェコ王室の部屋
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黄金の玉座



「プラハ城の再建としては、18世紀後半に女帝マリア・テレジア(ボヘミア女王)が行ったものが最後となる。オーストリア皇帝フェルディナント1世(=ボヘミア王フェルディナント5世)は1848年の退位後、プラハ城を居城とした。1918年、チェコスロバキア共和国の成立とともに、プラハ城には大統領府が置かれた。新王宮と庭園はスロベニアの建築家ジョゼ・プレクニクにより修復された」(Wikipedia「プラハ城」

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大聖堂の前で
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大聖堂
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大聖堂の内部
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大聖堂の中で



「第二次世界大戦のさなか、ナチスによるチェコスロバキア占有中、プラハ城はラインハルト・ハイドリヒの本拠地となり、『ボヘミアとモラヴィアのライヒ公安』の本拠地となった。ラインハルトはボヘミアの王冠を頭上に載せたといわれ、彼自身も王のように振舞った。ボヘミアの王冠には、それを頭上に載せた簒奪者には1年以内に死が訪れるという伝説があったが、権力を握って1年も経たぬうちにハイドリヒは暗殺された」(Wikipedia「プラハ城」

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大聖堂内のようす
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大聖堂内のようす
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大聖堂内のようす
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大聖堂内のようす



「チェコスロバキア解放の後は、プラハ城はチェコスロバキア社会主義共和国の共産主義政府が置かれた。ビロード革命の際、『プラハの春』の指導者だったアレクサンデル・ドゥプチェクはヴァーツラフ広場に面したバルコニーに現れ、『ドゥプチェクを城へ!』と叫ぶ民主化デモの群衆の声を聞いた。彼らの声が、プラハ城にある国家指導者への椅子へとドゥプチェクを導き、彼は民衆にとって民主主義と自由のシンボルとなった」(Wikipedia「プラハ城」

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プラハ城の衛兵
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素晴らしい世界遺産でした



「チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキア共和国に別れた後、プラハ城には新しくチェコ共和国の大統領府が置かれている。初代大統領トマーシュ・マサリクがプレクニクに依頼したのと同様、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領はポスト共産主義建築家としてプラハ城の改修に取り組むようボジェク・シーペクに委託、城のギャラリーの絵も修繕された。2012年9月、トリップアドバイザーの企画『バケットリスト』の『世界の名城25選』に選ばれた」(Wikipedia「プラハ城」



2018年4月13日 一条真也

2018-04-11

シェーンブルン宮殿  

一条真也です。
オーストリアの首都ウィーンに来ています。
10日、ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用したシェーンブルン宮殿を訪れました。レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものです。現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されています。

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ハプスブルグ家のシンボルである鷲が乗った門柱
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バスを降りて・・・
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いざ、宮殿へ!
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シェーンブルン宮殿



Wikipedia「シェーンブルン宮殿」の「概要」には、こう書かれています。
「神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612年―1619年)が狩猟時に美しい(schön)泉(Brunn)を発見したためにシェーンブルンと命名したと伝えられている。シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されている」

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シェーンブルン宮殿にて
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馬車がいました
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馬車を背に



また、Wikipedia「シェーンブルン宮殿」の「概要」には以下のようにも書かれています。
「建物は、あらゆる部屋を合計すると1441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテ(ドイツ語版)という対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に立てたギリシャ建築の記念碑(未完成)があり、ここからは周囲が一望できる」

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前庭のようす
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前庭にて
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テレジア・イエローを背に



シェーンブルン宮殿は、現在のオーストリアで一番重要な観光資源となっています。年間入場数150万人、さらに公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れます。外壁は金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にしています。これを「テレジア・イエロー」といいますが、彼女が好んでいた色というわけではないそうです。

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中庭の噴水のオブジェ
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中庭のようす
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中庭にて



シェーンブルン宮殿には日本庭園があります。
1913年に皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が日本訪問から帰国後、オーストリアの庭師たちが1913年のイギリスでの国際庭園展示会で日本庭園を見た感動をもとに、ジャポニズムの影響で造営させたものです。



2018年4月10日 一条真也