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一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-04-26

ヤマトタケル尊像

一条真也です。
世界各地、そして日本各地に建立されている聖人や偉人の銅像。
わたしは銅像を観るのが三度の飯より好きです。名所旧跡を訪れて銅像を見つけると狂喜乱舞し、一緒に記念撮影をせずにはおれません。銅像が「どーぞー、一緒にお写り下さい!」と誘いかけてくるのです。
わたしはさまざまな銅像と対峙しながら、そこに建立せずにはおられなかった先人を慕う人々の熱い想いを感じてしまいます。

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兼六園の桂坂口で
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雪の兼六園にて



今年の1月、石川県金沢市を訪れました。
この地には日本三大名園として名高い兼六園があります。この名園の中に、なぜかヤマトタケルの尊像が建立されています。しかも、日本最古の銅像であるというではありませんか!!

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あ、あれは!
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ヤマトタケル様ではないか!



高岡銅像物語」というサイトに、この尊像について「日本最古の銅像 日本武尊像」というタイトルで、詳細な記述があります。
「高岡の銅像を語るときに、まずお話したいのは金沢兼六園の真ん中に建っている『明治紀念之標(めいじきねんのひょう)』通称日本武尊像(やまとたけるのみことまたの名を金仏(かねぶつ)様です。『明治紀念之標』は、明治10年(1877)の西南戦争で戦没した石川県の兵士400名を慰霊するために建てられました。日本武尊が天皇の血を引く人物であったためか、戦時中の金属供出を免れ、戦後は進駐軍に『軍国主義的だ』と撤去の指示を受けましたが、金仏様は仏であると言って食い止め今日に至っています。誠に運のいい銅像といわねばなりません。
この像は、世に『日本第一号の銅像』として知られています。九段の大村益次郎像が明治21年(1888)、上野の西郷どんが明治30年の完成ですが、日本武尊像はそれよりさらに早く、明治13年(1880)に高岡の鋳物職人たちの手によって鋳造されました。金屋町の喜多万右衛門(きたまんうえもん)家工場(今の釜万鋳造所)で鋳造され、千保川から船で金沢に運ばれたとも、倶利伽羅(くりから)峠を越えて運ばれたとも、頭・手・足は高岡で鋳造して金沢に運び胴体は、出吹き職人が出張し現地に吹き場を築いて鋳造したとも言い伝わっています。日本武尊像の完成を深謝した鋳物職人たちは、翌年、同像の小型木造原型を日本武尊の分霊として高岡市横田町の有礒正八幡宮に祀りました」

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日本武尊尊像



人に歴史ありですが、銅像にも歴史あり、です。
しかも、かけまくもかしこき日本武尊が日本最古の銅像であり、さらに現存しているのですから凄いことです。「高岡銅像物語」の説明は次のように続きます。
「この日本武尊像は最初金沢の鋳物師たちが請け負うことになっていたそうです。ところが、高岡鋳物師たちは、幕末の頃から蝦夷(えぞ・北海道)へのニシン釜の移出でますます勢いを得て販路を拡大し、全国屈指の総勢と圧倒的な技術力の高さを誇っていたので、われらが領分とばかりにこの日本武尊像の鋳造を後から名乗りを上げて請け負ったのです。高岡鋳物師たちは、互いに知恵を持ち寄り大変な苦心と研究とを重ねながら銅像の完成に至ったことは、先祖たちの武勇伝、後輩たちへの教訓譚として地元鋳物業界に今もなお語り継がれているところです。
当時の鋳物産地といえば、鍋・釜・鋤などの日常的な生活道具づくりが主な生業でした。その中にあって高岡が、銅像産業の分野に新たな活路を開き、その生産を発展させたことは大きな特色です。日本武尊像は、その最も初歩的作品として歴史的画期性を持つものと言えます。
しかしながら、この日本武尊像、金沢では、『顔がでかすぎてバランスが悪い』『前田文化の象徴、兼六園に合っていない』『草薙の剣の形や日本武尊の装束が歴史考証に合わない』などと悪評を買いました。金沢鋳物師から横取りしたような形で、高岡鋳物師が鋳造を請け負ったのですから、金沢で悪く言われるのも仕方のないことかも知れません。一方、高岡近隣の村では兼六園の日本武尊像に倣ってミニチュア版も作られました。砺波市栴檀野(せんだんの)城址公園(現存)と福岡町赤丸(あかまる)浅井神社(供出)の日本武尊像がそれです」

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銅像の上空を旋回する鳥



さて、銅像の天敵といえばハト。そう、白い糞害でせっかくの銅像の尊顔もトホホな状態になってしまいます。しかし、この日本武尊像は、なぜか糞害に遭わないのです。
その理由を研究し、独創的でユニークな研究などに贈られる「イグ・ノーベル賞」を受賞された方がいます。金沢大学教授の広瀬幸雄氏その人です。
広瀬教授が受賞した研究タイトルは「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」というもの。広瀬教授は金沢大学の学生時代、兼六園にある多くの銅像の中で「日本武尊」の像にだけ全くハトが寄りつかなかったことに気づきます。昭和63年から改修のための調査が始まり、平成2年には111年ぶりに高岡に里帰りして着色などの補修が行われたそうです。修理のために銅像が解体されたとき、広瀬教授は銅像の合金の成分にヒ素が大量に含まれていることを突きとめました。この研究は権威ある科学雑誌『ネイチャー』にも掲載され、それが今回の受賞につながったのです。

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まことに畏れ多くも、真似をば・・・



ちなみに、解体修理の際、腐食が激しく行政側には撤去止む無しとの意見もあったようですが、金沢の人々の日本武尊像への愛着は強く、市民をあげて保存が望まれたので撤去は回避されたそうです。銅像とは何かを物語る秘話ですが、近年は観光を目的に安易な構想で銅像が適当に建てられています。たかが銅像、されど銅像!
やはり、銅像も地元の人々から敬われる存在であって欲しいものです。

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神様の真似をするのは緊張します



2018年4月26日 一条真也

2018-04-25

ニニギノミコト尊像

一条真也です。
世界各地、そして日本各地に建立されている聖人や偉人の銅像。
わたしは銅像を観るのが三度の飯より好きです。名所旧跡を訪れて銅像を見つけると狂喜乱舞し、一緒に記念撮影をせずにはおれません。銅像が「どーぞー、一緒にお写り下さい!」と誘いかけてくるのです。わたしはさまざまな銅像と対峙しながら、そこに建立せずにはおられなかった先人を慕う人々の熱い想いを感じてしまいます。

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ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の尊像



今年の1月、宮崎県延岡市を訪れました。この地には天孫降臨の神話で語られる天孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の終焉地として伝えられる御陵参考地があります。パワースポットを超えた神話スポットとして有名だそうですが、ここにニニギノミコトの尊像が建立されています。

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ニニギノミコト御陵参考地」へ向かう



ニニギノミコト御陵参考地は、正式には「北川陵墓参考地」といいます。陵墓参考地とは、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品などにより、宮内庁によって皇族の墳墓とされたものの、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓のことです。2府16県に46箇所が所在。宮崎県延岡市北川町の可愛山陵(えのさんりょう)の麓にある塚は、宮内庁からご陵墓参考地として認定されています。可愛岳の鉾岩をめぐる登山も人気を集めています。

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ニニギノミコト御陵参考地(北川陵墓参考地)



さて、この天孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の終焉地として伝えられる御陵参考地には、今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛とも縁があるのです。延岡観光協会が運営するWEBサイト「わけあって延岡」には、御陵墓参考地(可愛山陵)について「西郷隆盛・天孫ニニギノミコト時空を越えた運命の出会い」と題して、次のように紹介しています。
「明治10年、明治政府に反旗をひるがえした士族たちの反乱『西南戦争』が起こった。同年8月、西郷隆盛率いる薩摩軍は、現在の延岡市和田越にて山縣有朋陸軍中将率いる政府軍と相対し、「和田越の決戦」と呼ばれる激戦を繰り広げるが、善戦むなしく薩摩軍は北川方面へ敗走し、現在の西郷隆盛宿陣跡資料館にあたる児玉熊四郎邸に宿陣する。この児玉邸は天孫ニニギノミコト御陵墓参考地と隣り合うように存在している。

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西郷隆盛宿陣跡資料館
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南洲翁寓居跡の前で



また、「わけあって延岡」には、以下のように書かれています。
西郷隆盛が宿陣した民家と、天皇家の祖である天孫ニニギノミコトの御陵墓が、こんなにも近くにあったのは一体なぜなのか? 西郷隆盛はこの御陵墓が天孫ニニギノミコトの御陵墓であると知っており、山縣有朋率いる政府軍が、天皇家の祖先神である天孫ニニギノミコト御陵墓に向けて鉄砲や大砲を打つことはできないと考え、ひとときの安息を得た。

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参考地のご由緒
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可愛山陵の説明板



さらに、「わけあって延岡」には、以下のように書かれています。
西郷隆盛は児玉熊四郎邸で軍議を開き、軍隊に解散布告令を出す。その後、自身の着ていた陸軍大将の軍服を焼き、可愛岳を突囲して祝子川や高千穂を抜けて九州山地を南下し、故郷の鹿児島へと帰っていく。西郷隆盛が何とか鹿児島まで帰り着けたのは、この天孫ニニギノミコトとの『時空を超えた出会い』がもたらした奇跡にほかならない」
まさに「その時、歴史が動いた」瞬間ですね。

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さすがに神々しいお顔です



ニニギノミコトの尊像は、造型的にはまずまずという感じですが、台座がないに等しいことに問題があります。
「かけまくもかしこき天孫」に対して不遜ではないかなと考えます。
通常の偉人であってもそうですが、況や天孫をや!
手で尊像に触れられる高さには、やはり問題があります。
台座で一定の高さが確保できないのであれば、「結界」として鉄柵などを設置する必要を感じます。

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まことに畏れ多くも、真似をば・・・



さて、北川陵墓参考地は、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫であるニニギノミコトの陵墓です。ニニギノミコトは、アマテラスオオミカミの命によって葦原の中つ国を統治するため、三種の神器ととも高天原から日向の高千穂峰に天降ったとされます。コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)を妻とし、「海幸山幸)」の説話に登場する山幸彦として知られるヒコホホデミノミコト彦火火出見尊)を生みましたが、一緒に奉られた姉のイワナガヒメ(磐長姫)は醜かったので嫌って妻にしませんでした。

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神様を真似るのは生まれて初めてです!



すると、姉妹の父であるオオヤマツミ(大山祇神)が激怒して、「イワナガヒメをお召しになれば、生まれてくる御子の命は岩のように永遠のものとなる。コノハナサクヤヒメをお召しになれば、生まれてくる御子の命は、花が咲きやがて散るように、限りあるものとなるだろう」と呪いをかけました。そのため、代々の天皇の寿命が、岩のように永久ではなく、花のように短くなるようになってしまったといいます。

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ここから先は立ち入り禁止でした
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門の外からお参りしました



参考地には白い門があって、そこから先は立ち入り禁止でした。
わたしは、門の外から瓊瓊杵尊をお参りいたしました。
お参りを終えると、なんだか清々しい気分になりました。
すると、帰りの列車の中で、サンガの編集者である川島栄作さんからメールが届きました。なんと、台湾の出版社から『唯葬論』(サンガ文庫)を中国語で翻訳出版させてほしいという問い合わせがあったというのです。いやあ、嬉しいですね。わたしの本は3冊がハングル語版になっていますが、中国語版は初めてです。しかも、「美しき礼の島」である台湾で出版されるかもしれないとは! やはり墓参をすると良いことがあります。
ニニギノミコト様、ありがとうございます!

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世界中で翻訳出版してほしい!



2018年4月25日 一条真也

2017-06-09

東郷平八郎像

一条真也です。
わたしは日本最初の総合週刊誌である「サンデー毎日」にコラム「一条真也の人生の四季」を連載していますが、ブログ「観光は銅像見学から」で紹介したように銅像について書いたところ、予想外に大きな反響がありました。

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「サンデー毎日」2017年6月18日号



また、ブログ「『天下布礼日記』修了!」で紹介したように、「佐久間庸和の天下布礼日記」が2000本目の記事をもって修了いたしましたが、多くの方々から「銅像ブログを読めなくなるのは困る」との声を頂戴しました。そこで、この「一条真也の新ハートフル・ブログ」で「STATUE」というカテゴリーを新設することにしました。「STATUE」ですから、銅像のみならず石像、石膏像など、さまざまな彫像も紹介していきます。お楽しみに!

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東郷平八郎像がある三笠公園のようす



わたしは観光が大好きです。多くの観光地には、その土地ゆかりの銅像が建立されています。じつは、わたしは三度の飯より銅像が好きなのです。
正確には、銅像の真似をして写真に写ることが好きなのです。
しかし、これは単におふざけでやっていることではありません。
「銅像」とは偉大なる先人たちの魂が宿った姿であり、そのポーズには何かしらのメッセージが潜んでいます。その偉人と同じポーズをとることで、偉人の志と「同期」することが大事なのです。これは先人に対する「礼」でもあり、その精神を学ばせていただいています。
その記念すべき第1回目は「東郷平八郎像」であります。

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東郷平八郎像の偉容


日露戦争において、大日本国帝国海軍の連合艦隊司令長官として日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃滅した人物です。位人臣を極めるという言葉がありますが、東郷平八郎は、位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級。爵位こそ侯爵ですが、上杉謙信が「神になった戦国大名」であるように、東郷は「神になった連合艦隊司令長官」です。東京・原宿に鎮座する東郷神社の祭神は「東郷平八郎命」であり、勝利の神様 至誠の神様として知られています。

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彫刻家・清水多嘉示による渾身の一作!



さて、東郷平八郎像は横須賀市稲岡町にある三笠公園内にある世界の三大記念艦の1つである記念艦「三笠」を背景として昭和42年(1967)に建立されています。彫刻家・清水多嘉示による渾身の一作です。清水は当初は画家を志していたのですが、絵画を学ぶためにパリに留学した際、ロダンの高弟であるアントワーヌ・ブールデルの作品に深い感銘を受け、爾来彫刻を天職とした人物です。清水が多くの作品を寄贈することでオープンしたのが八ヶ岳美術館ですが、そのオープンの翌年1981年に逝去しています。享年84。東郷像は、日本海海戦時の戦艦「三笠」の艦橋に立つ威風堂々たる雄姿をイメージして造られています。

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東郷平八郎像の前で



大日本帝国海軍の軍装姿、愛用のツァイス社製双眼鏡を右手に持ち、時の皇太子(大正天皇)より下賜された一文字吉房の海軍拵(軍刀)に左手に添えています。「日本海海戦後言志 日の本乃海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ」という東郷の署名と花押を銘板にあしらっています。記念艦「三笠」と東郷平八郎像・・・・・・このコラボは最強です!
記念艦「三笠」は、公益財団法人「三笠保存会」によって運営されていますが、世界で現存する唯一の前弩級戦艦といわれています。ちなみに三笠と並び称される「世界の三大記念艦」はイギリスの「ヴィクトリー」及びアメリカの「コンスティチューション」です。それぞれ、自国の独立を守るための重要な海戦において歴史的な勝利を収めたことから「世界の三大記念艦」といわれています。

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記念艦「三笠」の前で



さて、戦艦三笠とはどのような存在だったのか。
記念艦「三笠」公式HPでは、次のように紹介しています。
「日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする『六六艦隊整備計画』を推進しました。『三笠』は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35年(1902年)3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました」

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記念艦「三笠」乗艦記念



世界最大の戦艦大和も戦艦武蔵も轟沈しましたが、日本近代史に燦然と輝く戦艦三笠は英国製とはいえ、現存しているということが驚きです。御神体として祀る東郷神社公式HPでは、東郷元帥について紹介しています。
「御祭神の東郷平八郎命は、弘化4年(1847年)12月22日薩摩藩士東郷吉左衛門の4男として鹿児島市加治屋町でご誕生、昭和9年(1934年)5月30日午前7時、88歳で東京都麹町三番町において薨去されました。
御祭神は、幕末19歳で薩摩藩の海軍に入り明治維新前後の海戦に従事、明治4年(1871年)24歳の時にイギリスに留学してウースター号等で7年間厳しい訓練に耐え、船乗りとしての知識と技術を修め、海軍魂を培って帰国し立派な日本海軍士官となりました」

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記念艦「三笠」の艦内で



輝かしい功績について概略した後、日露戦争での活躍について、東郷神社公式HPは次のように紹介しています。
「日露戦争(1904〜1905)では聯合艦隊司令長官として三笠艦上に『皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ』とのZ旗を掲げ、露国のバルチック艦隊を日本海において撃滅して世界の海戦史上空前絶後の完全な勝利を成し遂げられました。
この大勝は、わが国を国難から救っただけではなく、当時ロシア等大国の植民地政策の圧力下にあった国々に、大きな喜びと希望を与えました」

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「三笠」の司令長官室



日露戦争が終結し、連合艦隊が帰還した際、「聯合艦隊解散之辞」が東郷元帥により示達されます。文章の起草者は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公の一人である秋山真之(さねゆき)です。
その最後の一節は、以下の通りです。
「神明は唯(ただ)平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直(ただち)に之(これ)を奪う。古人曰く勝(かっ)て兜の緒を締めよと」
身の引き締まるような名文です。




東郷神社公式HPでは、その後の東郷について紹介しています。
「大正の始めに元帥府に列せられ、大正3年(1914年)から7年間東宮御学問所総裁として昭和天皇の御教育の大役を果たし、明治、大正、昭和の三朝に至誠一貫奉仕、国家の重鎮、まごころの人として、日本だけでなく世界の人々からも英雄『大東郷』と尊敬されるようになりました。
昭和9年日本の偉大な世界的英雄が天寿を全うされるや『至誠(まごころ)は神に通じる』とその一生を貫かれた御徳を長く後世に伝えて顕彰するため、神社にお祀りしてほしいとの要望と献金が全国各地から海軍省に届き、この熱意に応えて時の大角海軍大臣は各界の識者にはかり、財団法人東郷元帥記念会を設立、全国民に呼びかけて国民からの浄財によって神社を創建することになりました」

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)



司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、東郷の逸話も多数紹介されていたように記憶しますが、やはり「日本海海戦」の三笠の最上艦橋での秋山真之とのやりとりは深い感銘を受けます。長篇小説ですから再読もままなりませんが、せめて名場面だけでも読み返したいもの。
たかが歴史小説、されど歴史小説です。史実かどうかも大事ですが、歴史上の人物に「何を学ぶか」はもっと肝要です。その意味では歴史小説の効用はそれなりにあるように感じます。

易経〈上〉 (岩波文庫)

易経〈上〉 (岩波文庫)



もともと「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来ています。
銅像の真似をすることには意味があるのです。「観光」とは、もともと四書五経の1つである『易経』の中の「観國之光」という言葉に由来します。「國之光」とは、その地域の「より良き文物」や「より良き礼節」と「住み良さ」をさします。すなわち観光とは、日常から離れた異なる景色、風景、街並みなどに対するまなざしなのです。どんな土地にも、固有の光り輝く魅力がある。観光とは文字通り、その光を観ることにほかなりません。土地の光を観る精神は、人間の光を観る精神にもつながるように思う。つまり、その人の長所や美点を観るということです。

論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)



『論語』には「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す」という言葉があります。「君子は人の美点を伸ばし、悪い点は出さないようにするものだ。小人はその反対だ」という意味です。「温故知新」も『論語』に出てくる言葉ですが、わたしは銅像を通して先人の志を学ばせていただいているのです。まだ見ぬ銅像とめぐりあえることを楽しみにしています。



2017年6月9日 一条真也