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一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-04-15

無事に帰国しました   

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」も終わり、15日の8時55分、プラハ空港からヘルシンキ行きのフィンランド航空(AY)073便に搭乗しました。

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AY073便で日本へ!



AY1222便は無事にヘルシンキ空港に到着したのですが、乗り継ぎ便である成田行きのAY073便のタイヤ交換が大幅に遅れ、16時40分発の予定が18時10分になりました。この時点でかなり疲れていたのですが、機内ではいつものように読書する気にならず、映画を観ることにしました。

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機内の映画メニュー
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ダンケルク」を初めて観ました
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「オリエント急行殺人事件」も初めて観ました
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リメンバー・ミー」は2度目の鑑賞でした



映画のメニューを見てみると、いろいろと面白そうな作品、まだ観ていない作品がたくさんありました。今回は「ダンケルク」、「オリエント急行殺人事件」を初めて観ましたが、両作品とも名作でした。さらに、ブログ「リメンバー・ミー」で紹介したアニメ映画を観ました。たまには本を読まずに、映画鑑賞もいいですね。非常に充実した時間を過ごすことができました。

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無事に成田空港に到着しました



成田空港には15日の午前9時ちょうどに到着しました。成田からはシャトルバスに乗り、約1時間でで羽田空港へ。そこから13時35分発のANA255便で福岡へ。15時30分に福岡に着き、そこから迎えの車に乗って17時頃に帰宅しました。ああ、むちゃくちゃ疲れた! 
風呂に入って、ゆっくり休みたい。でも、仕事がたまっているし、日経新聞の取材も受けなければいけないので、明日から会社に出ます。



2018年4月15日 一条真也

日本へ!

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加してきましたが、ついに帰国の日が来ました。14日の朝、朝食を取った後、8時30分にフォーシーズンズ・ホテル・プラハを出発しました。

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朝のホテルの客室で
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今朝のわが朝食
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出発前にフォーシーズンのロビーで
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専用バスに乗って、いざ空港へ!
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プラハ空港
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プラハ空港のようす


9時半に空港に到着。登場手続きをしてから、フィンランド航空(AY)1222便でヘルシンキへ。フライト時間は約2時間5分でした。
ヘルシンキに到着後はEU出国審査をしてから、乗り継ぎです。

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ヘルシンキ空港のラーメン
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このラーメンの味は!


AY073便に乗って成田空港へ行くのですが、出発までにかなり時間がありました。ちょうどランチタイムで空腹だったので、何か食べようと思い、空港内を散策すると、ラーメン店があるではないですか。中国人が経営している店のようでしたが、早速、醤油ラーメンを注文しました。ところが、このラーメンはまったく味がしないし、チャーシューならぬチキンは冷たいし、圧倒的に不味いラーメンでした。わたしも55年近く生きてきて、これまでに数えきれないほどのラーメンを食してきましたが、間違いなく歴代ワースト1です。最近、ひどく残念な中華料理を食べたのですが、このラーメンの比ではありません。しかも、このラーメン、1杯が日本円で2000円もするのです。ヘルシンキ空港でラーメンを見かけた日本人は、くれぐれもご注意を!

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AY073便で日本へ!



不味いラーメンを食べた後、災難がありました。
乗り継ぎ便である成田行きのAY073便のタイヤ交換が大幅に遅れ、16時40分発の予定が18時10分になったのです。いつもは本を2・3冊読むのですが、今日は疲れて読書する気分ではありません。機内で映画でも観たいと思います。今回の海外視察は、ブダペストやプラハを初めて訪れたことをはじめ、非常に収穫が多かったです。ローマやパリのような華はありませんが、中世以来の「ヨーロッパらしさ」を感じさせてくれる街でした。いつか、また再訪したいです。さらばヨーロッパ!



2018年4月15日 一条真也

2018-04-14

プラハの夜

チェコの首都プラハに来ています。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しているのですが、13日にすべての視察を終えました。その夜、フェアウェルパーティーが開催されました。

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フォーシーズンズ・ホテル・プラハ前の恋人像
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ホテル前の恋人像と
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人の恋路を邪魔する者は・・・



宿泊しているフォーシーズンズ・ホテル・プラハの前のベンチには何かの銅像のようなものが座っています。「すわ、従軍慰安婦の少女像か!」と思って見てみると、かわいらしい恋人像でした。あまりにも可愛いのでチョッカイをかけました。18時に専用バスが迎えに来たので、乗り込みました。

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フェアウェルパーティーのようす
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たくさん御馳走が出ました



フェアウェルパーティーの会場は「KATSURA」という日本食レストランでした。居酒屋感覚で、枝豆、冷奴、焼鳥、唐揚げ、お好み焼き、のり巻などの料理が提供されました。わたしたちは、ビールやワインやハイボールなどを飲みながら、それらの御馳走をいただきました。

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みなさん、こんばんは!
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「祭りのあと」を歌いました♪



その後、なぜかカラオケ大会が行われることになりました。
全互連vs全冠のカラオケ・デスマッチです。わたしはブログ「まつり」で紹介した北島三郎の名曲を歌おうと思っていたのですが、なんと直前(わたしの1つ前)にサン・ライフの比企社長に歌われてしまいました。これには参りました。想定外の出来事に遭遇したわけですが、ふと全互連のみんなの顔を見ると、不安そうにしています。みんなの顔には「会長の十八番を他の人に歌われてしまって、全互連はどうなるのだろう・・・」という困惑と不安が表われていました。わたしは「ここは自分がしっかりせねば!」と思いました。そこで、わたしが選んのはブログ「祭りのあと」で紹介した桑田佳祐のナンバーでした。われながら、ベスト・チョイスだったと思います。

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ジョインの武田社長が飛び入り参加!
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魂をこめて歌いました♪
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俺の歌を聴いてくれ!!
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傘をギター代わりに使うとは!
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ギターのはずの傘が開いた!
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歌い上げてしまいました


わたしが「『まつり』の後には、『祭りのあと』を歌います。みなさん、海外研修お疲れ様でした。研修旅行という祭りが終わるので、この歌を歌います!」と口上を述べてから歌い始めると、途中でジョインの武田社長(全互連副会長)が乱入もとい、飛び入り参加してきました。見ると、手には傘を持ってギターを弾く仕草をしています。なんと陽気な人でしょうか!
わたしは同年代である武田社長の助太刀を嬉しく思い、二人で肩を組んで熱唱しました。全互連のみんなも一生懸命に手拍子して盛り上げてくれてました。117の山下社長(全互連副会長)は写真を撮影してくれました。最後まで歌い切ると、わたしは「ボクたちは全互連で〜す! よろしくお願いしま〜す!」と言うと、盛大な拍手が起こって感激しました。その後も、全互連そして全互協の愉快な仲間たちと語り合いながらお酒を飲みました。こうしてプラハの夜は更けていったのでありました。



2018年4月14日 一条真也

プラハ視察   

一条真也です。プラハに来ています。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しているのです。13日、9時にフォーシーズンズ・ホテル・プラハを出発しました。向った先は、ボヘミアングラス工場、プラハ城、カレル橋などでした。

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今朝のわが朝食
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ボヘミアングラス工場に到着
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ボヘミアングラス工場で
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ボヘミアングラスの型の前で
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ボヘミアングラス工場のようす
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ボヘミアングラス工場の中で



「世界一美しい街」と呼ばれるプラハは、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市です。中央ヨーロッパでも有数の世界都市です。人口は、約120万人。英語では「プラーグ」と呼ばれます。『プラーグの大学生』という怪奇幻想小説の名作があり、映画化もされています。作家フランツ・カフカの活躍した街としても有名です。



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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす



プラハ市内中心部にはヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れます。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れます。中欧最古の大学であるカレル大学もあります。また、尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれます。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もその1つです。

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ドームのある風景
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広島の原爆ドームと設計者が同じです



プラハ市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがあります。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっています。
Wikipedia「プラハ」の「歴史」には以下のように書かれています。
「6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。『黄金のプラハ』と形容されるほどだった」

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プラハの街を背景に
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プラハの街
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ランチのメイン料理
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デザートのミルフィーユ



「次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる」(Wikipedia「プラハ」

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プラハの街
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プラハの街を背景に
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プラハの街を背景に
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プラハ城は修復中でした



「一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは『フラッチャニ(城の丘)』(城塞・城塞の北部、および西部地区)、『マラー・ストラナ(小地区)』(下町、城塞の南部地区)、『スタレー・ムニェスト(旧市街)』(城塞の対岸・東側)、『ノヴェー・ムニェスト(新市街)』(その他の南方および東方地区)である。1848年に五区としてユダヤ人街(かつてのゲットー)が編入され、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで『ヨゼフォフ』と名づけられた。20世紀初め、スラム化が一層進んだために大規模に再開発された。ユダヤ人墓地、シナゴーク、ユダヤ集会所などがある。 さらに町は1883年に『ヴィシェフラト(「高い城」地区)』を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの『ヨゼフォフ』の併合をし、更なる拡大をする」(Wikipedia「プラハ」

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黄金の道(錬金術師の道)にて
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カフカの仕事部屋の前で
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大聖堂
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大聖堂の中で



「18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676000人となった。しかし1938年に、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった」」(Wikipedia「プラハ」

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プラハの広場にて
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プラハの広場にて
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旧市街のようす
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旧市街を馬車が通る



「第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がドイツ人によって殺害された。しかし、プラハは他の東欧中欧の都市のような大規模な戦火に曝されることはなかった。ただし一部で被害はやはり被っており、1945年2月14日にはドイツ軍に対してアメリカ軍爆撃機60機による絨毯爆撃が行われて、1800人を越える死傷者が出、また数百の家屋や歴史的建造物が損なわれた。ソビエト赤軍侵攻時には、旧市街広場にある『天文時計』で有名な『スタレー・ムニェスト旧市庁舎』の建物の一部が、1945年5月7日から8日にかけてのドイツ軍装甲車両や高射砲の砲撃の被害を受け、未だに一部が失われたままである」(Wikipedia「プラハ」

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カレル橋を望む
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カレル橋
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カレル橋にて
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橋の上で物想いに耽る



「第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。1995年には、アール・ヌーヴォー・タウンの一角に腰をくねらせたように鉄筋とガラスの超モダンビルが出現した」
Wikipedia「プラハ」

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カレル橋
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カレル橋の上で
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カレル橋のイエス像
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カレル橋の中央のフス像
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フス像の下はピカピカ
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フス像の下で


「2002年にドイツ東部からチェコを襲った水害では、ヴルタヴァ川が氾濫し、広範に床上浸水し、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けた。プラハは、1000年以上の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ『ヨーロッパの建築博物館の街』になり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。また2009年4月5日、米オバマ大統領によるプラハ演説が行われた地としても知られる」(Wikipedia「プラハ」




2018年4月13日 一条真也

2018-04-13

プラハへ! 

一条真也です。全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。12日の午前7時にグランドホテル・ウィーンを出発、空港へ向かいました。

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オーストリア航空でプラハへ!
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プラハに到着しました
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バスに乗り込みました
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「世界一美しい街」プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす



ウィーン空港には7時40分に到着しました。そこからオーストリア航空(OS)705便で約55分のフライトでチェコのプラハへ。プラハは「世界一美しい街」と呼ばれる都市です。到着後はプラハ市内のイタリアンレストラン「Como」で昼食を取りました。「Como」での食事はシーザーサラダとパスタでした。デザートのチョコレートケーキが大きくて食べきれませんでした。

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イタリアンレストラン「Como」の外観
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前菜のシーザーサラダ
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メインのパスタ
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デザートはボリューム満点
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お腹いっぱいになりました!



昼食後は「チェコにおける冠婚事情視察研修」でした。プラハでも有数のブライダル会社である「プラーグ・ウエディングス」の協力のもと、ウエディングプランナーによるチェコの冠婚事情レクチャーを受けました。

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研修会場の「ボッカチオ・ホール」
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「チェコにおける冠婚事情視察研修」のようす



レクチャー会場は「グランドホテル・ボヘミア」でした。チェコスロバキア時代は高級キャバレーとして名を馳せたネオバロック様式が美しい「ボッカチオ・ホール」でレクチャーが行われました。美しい花嫁のモデルさんを使って実際の結婚式を再現してくれたので、非常に参考になりました。結婚式の後は新郎新婦がグラスを叩き割るセレモニーも見せてくれました。

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フォーシーズンズ・ホテル・プラハ
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フォーシーズンズ・ホテル・プラハの客室
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全互連の仲間と夕食を取った「ラ・ボッテガ」
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「ラ・ボッテガ」の店内のようす
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「ラ・ボッテガ」の店内のようす
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プラハにカンパイ!



その後、宿泊先の「フォーシーズンズ・ホテル・プラハ」にチェックインしました。この中欧視察で最後に泊まるホテルとなります。
夜は全互連の仲間たちと一緒に街へ繰り出して食事しました。「ラ・ボッテガ」というイタリアンの名店でした。明日は、ボヘミアングラスの工場を訪れた後、プラハ市内を視察します。

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「世界一美しい街」プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす
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プラハ市街のようす



2018年4月12日 一条真也

2018-04-12

ザルツカンマーグート視察  

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。11日、ザルツブルグを視察した後、ザルツカンマーグートを訪れました。現地では船でザンクト・ヴォルフガングからザンクト・ギルデンに渡りました。

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ザルツカンマーグート
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ザンクト・ヴォルフガングの船着き場
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いざ、ザンクト・ギルデンへ!
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白馬の館を望む



ザルツカンマーグートは、オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ザルツブルク市の東方に位置します。ザルツカンマーグートというのは「塩の御料地」の意味であり、かつてこの地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来しています。

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船に乗り込みました
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船上から見た景色
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船上から見た景色
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物想いに耽りました



Wikipedia「ザルツカンマーグート」の「概要」には以下のように書かれています。
「多くの山や湖に恵まれていることから、ザルツカンマーグートでは水上スポーツ、水浴び、ハイキング、ゴルフなど様々なレジャーを楽しむことが出来るうえ、湖畔でのんびりと寛ぐことも出来る。また、バート・イシュル近くでは、高山植物帯であるカトリナルムを目にすることが出来る。
また、ハルシュタット湖周辺は『ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観』として、ユネスコの世界遺産に登録されている。ザルツカンマーグート地方の代表的な郷土料理は、甘いパンケーキであるカイザーシュマーレン、ドーナツの一種であるクラップフェン、あるいはレープクーフェンなどである」

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モーツァルトの母の生家
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外壁にはモーツァルトの母(右)と姉(左)の肖像画が・・・
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モーツァルトの母の生家の近くにある市庁舎
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市庁舎の前には少年モーツァルトの銅像が・・・
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少年モーツァルトの銅像の前で♪
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教会の中で・・・



また、Wikipedia「ザルツカンマーグート」の「歴史と観光」には以下のように書かれています。
「ザルツカンマーグート地方はオーストリアの民俗学と観光産業の発祥の地とされている。19世紀にフランツ・ヨーゼフ1世がバート・イシュルに離宮を建てて以来、ウィーンの貴族たちはザルツカンマーグートに点在する村々に逗留するようになった。やがて貴族たちの間で当地の民族衣装を着て平民に混ざって歌ったり踊ったりして休暇を過ごすことが流行した。ヨハン大公はザルツカンマーグート地方の楽器や音楽を収集するように命じ、それがドイツ語圏での最も早い民俗音楽の収拾事業となった。ザルツカンマーグートの人々は自らの習俗が持つ文化的価値に気付き、上流階級や観光客のために料金をとって芸を見せるようになった。その数は次第に増えていき、公演のグループがいくつも編成された。中でも芸術的に優れたグループはウィーンに招かれオペラの前座などで芸を披露したり、ヨーロッパ全域からアメリカに至る巡業を行った。こうした民俗のプロフェッショナル化や観光化はチロル州などに波及した」




美しい湖水地方として世界的に知られるザルツカンマーグートですが、アルプスの山々と複数の湖から成っています。その自然美もさることながら、カラフルな家々や真っ白な教会が緑と湖に映え、風景がより一層魅力的に目に映ります。モーツァルトのお母さんの故郷ザンクト・ヴォルフガングも有名ですが、なんといっても、モント教会をはじめとする映画「サウンド・オブ・ ミュージック」のロケ地の数々がよく知られています。




映画史上に燦然と輝く名作「サウンド・オブ・ミュージック」は、1965年に公開されたロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画です。リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞、ハワード・リンゼイ、ラッセル・クラウス脚本による1959年のミュージカルを映画化したもので、20世紀フォックスが配給しました。




「サウンド・オブ・ ミュージック」は、オーストリア出身のマリア・フォン・トラップによる自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』を基にしています。「エーデルワイス」や「私のお気に入り」、「すべての山に登れ」、「ドレミの歌」、表題曲「サウンド・オブ・ミュージック」といった多くの曲がスタンダードとなっています。

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船着き場で
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バスの中で映画音楽を聴きました♪
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ウィ−ン行きの列車が1時間も遅れました
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今夜のわが夕食



帰りのバスでは、映画サントラのCDが流され、これらの名曲がバス中に響きました。美しい景色を眺めながら、なつかしいナンバーを聴くのは至福の時間でした。ザルツブルグからウィ−ンへ向かう列車の出発時間が1時間も遅れたので、駅でサラダとサンドイッチを買って夕食にしました。朝の出発時間から計算すると15時間以上のツアーとなり、非常に疲れました。でも、かけがえのない良い思い出となりました。



2018年4月11日 一条真也

ザルツブルグ視察  

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。11日、早目の朝食を取ると、7時30分にグランドホテル・ウィーンを出発、専用車でウィーン駅に向かい、そこから2時間20分かけてザルツブルグに向かいました。

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今朝のわが朝食
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ウィ−ン駅にて
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ウィーン駅の待合室で
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ザルツブルグ駅に到着しました



ザルツブルクはオーストリア中北部の都市で、同名のザルツブルク州の州都です。郡に属さない憲章都市ですが、ザルツブルク=ウムゲーブング郡 の郡庁が置かれています。旧市街と歴史的建造物は、1996年ユネスコ世界遺産に「ザルツブルク市街の歴史地区」として登録されました。

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ザルツブルグのようす
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ザルツブルグのようす
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ザルツブルグのようす
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ザルツブルグのようす
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ザルツブルグにて
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恋人たちが橋の上にかけた鍵
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ザルツブルグの商店街
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Macのサインもオシャレ
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ZARAのサインもオシャレ



Wikipedia「ザルツブルグ」の「概要」には以下のように書かれています。
「ザルツブルクは、標高424メートルに位置し、15万人の人口を擁する。すぐ南西側ではドイツ領土のベルヒテスガーデンに接し、高速道路で西に140キロの位置にミュンヘン、東300キロに首都ウィーンという位置関係や、オーストリア支配下に入ったのは19世紀以降(それまでは大司教が支配するドイツ諸邦のひとつとして、形骸化した神聖ローマ帝位を度外視すればオーストリアとは対等独立の関係だった)で、その直前には短期間バイエルン王国に併合されていたという歴史的経緯から、ウィーンにも増して、ドイツのバイエルン州との文化的関係が深い」



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モーツァルトの生家の前で
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モーツァルトが2番目に住んだ家
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2番目の家の隣に咲くミモザが綺麗でした
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モーツァルトに想いを馳せる
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カラヤンの家



Wikipedia「ザルツブルグ」の「概要」には、こうも書かれています。
「ザルツブルクは、モーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んでいた事で、彼の音楽を愛する世界の人々にとっていわば巡礼地になっている。とりわけザルツブルク音楽祭の開催される夏のシーズンはホテルはどこも満員となり、モーツァルトの生家のあるゲトライデ通りはもともと狭いがなおさら狭く感じられるほどの混雑となる。 当地の空港も、『ザルツブルク・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト空港』と名付けられている」



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映画の舞台となったミラベル庭園
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ミラベル庭園の池
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ミラベル庭園の池の前で
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ミラベル庭園の噴水の前で
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ミラベル庭園の菩提樹を背に
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とにかく好天に恵まれました



そして、ザルツブルクは映画「サウンド・オブ・ ミュージック」のロケ地としても知られます。映画史上に燦然と輝く名作「サウンド・オブ・ミュージック」は、1965年に公開されたロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画です。リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞、ハワード・リンゼイ、ラッセル・クラウス脚本による1959年のミュージカルを映画化したもので、20世紀フォックスが配給しました。観光名所であるミラベル庭園では、映画に登場するマリアや子どもたちがその周囲を名曲「ドレミの歌」を歌いながら回った池などがあります。

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ザルツブルグ大学
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1703年創業の最古のカフェ
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ザルツブルグ大聖堂
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ザルツブルグ大聖堂の前で
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黄金の王冠を被ったマリア



この日は、ザルツブルグ大学やザルツブルグ大聖堂も視察しました。大聖堂の外側にはイエスのみならず、モーセやマリアなどの像も飾られています。見る角度を変えると、マリアが黄金の王冠を戴冠するという面白い趣向となっていました。

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修道院を改造したレストラン
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昼食のメインのサーモン料理
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山を模したというデザートのメレンゲ
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ユニークなモダンアート



この日の昼食は、803年に創業されたサンクト・ペーター修道院の館を改造したレストランで取りました。メインはサーモン・グリルのジャガイモ添えでした。デザートのメレンゲが3つもあって、驚きました。山が3つ連なっているのをイメージしているとか。
食事を終えて店を出ると、少し歩いた場所に巨大な金の玉があり、上には男性が乗っていました。これは、芸術家によるモダンアートだそうです。



2018年4月12日 一条真也

2018-04-11

ウィーン視察  

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。ブログ「ブダペストからウィーンへ」で紹介したように、10日の朝、オーストリア連邦鉄道が運行する高速列車レイルジェットに乗って陸路、ブダペストからウィーンに向かいました。

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ウィーン市街のようす
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ウィーン市街のようす
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グランドホテル・ウィーンの玄関
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グランドホテル・ウィーンのロビー
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雲海ランチの前菜は「おにぎり」
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雲海ランチの締めは「うどん」



ウィーンには12時20分に到着。そこから専用車でウィーン市内へ。
グランドホテル・ウィーンの和食レストラン「レストラン雲海」で昼食を取りました。前菜に「おにぎり」が出て、締めは「うどん」でした。

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市立公園のようす
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ヨハン・シュトラウス
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ヨハン・シュトラウス像の前で
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市立公園にて
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シェーンブルン宮殿にて
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シェーンブルン宮殿にて



昼食後はウィーンの市内視察観光です。
まずは、市立公園やヨハン・シュトラウス像などを見学してから、シェーンブルン宮殿に入場して見学しました。シェーンブルン宮殿は、ヨーロッパで最も美しいバロック建築に数えられます。先行する施設と敷地は1569年からハプスブルク家が所有、1642年には、皇帝フェルディナント2世の皇妃エレオノーレ・フォン・ゴンザーガが園遊のための宮殿を建て、この土地は初めて「シェーンブルン」と名付けられました。オスマントルコ軍による攻囲が終わった後、1696年から建築・造成された宮殿と庭園施設は、マリア・テレジア時代の1743年から、大幅に改装されました。現在のシェーンブルン宮殿は、その歴史的重要性、類例の無い豪華な内装や庭園によってユネスコ世界文化遺産となっています。シェーンブルン宮殿の後は、ホテルに一旦戻りました。

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ホーフブルク宮殿
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ウィーン市庁舎



わたしが最初にウィーンを訪れたのは、もう30年以上も前です。
ウィーンはオーストリアの首都です。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で1つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市です。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でした。

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オペラ座
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オペラ座の周辺



ウィーンといえば、クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれています。
Wikipedia「ウィーン」の「概要」には以下のように書かれています。
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ(Vindobona)をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、『ウィーン歴史地区』の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる」

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ウィーンのようす
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カフェ・ミュージアム



「ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった」
現在のウィーンは、国際機関本部の集積地となっています。
日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いています。

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夕食を取った中華料理店
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店内のようす
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ウィーンの大観覧車



18時30分に再び、グランドホテル・ウィーンを出発。「Restourant Sichuan」で中華コース料理を楽しみました。美味しい中華料理を食べながら、参加メンバーとの会話も大いに弾みました。ディナー終了後、ホテルへの帰り道にバスの外を眺めていたら、映画「第三の男」で有名な大観覧車が夜のウィーンを照らしていました。



2018年4月11日 一条真也

ブダぺストからウィーンへ

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。10日の朝、朝食を取った後、8時30分にヒルトン・ブダペストを専用バスで出発しました。

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わが今朝の朝食
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専用バスでブダペスト駅へ
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ブダペスト駅
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いざホームへ!
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駅のホームにて
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ウィーン行きのレイルジェット



バスの行き先はブダペスト駅で、ここからオーストリア連邦鉄道が運行する高速列車レイルジェットでウィ−ンへ向かいます。所要時間は約2時間40分でした。わたしたちは、レイルジェットの1等席に乗り込みました。9時40分に出発しました。

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レイルジェットの車内で
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レイルジェットの1等席のようす
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車内では読書をしました

澁澤龍彦訳 幻想怪奇短篇集 (河出文庫)

澁澤龍彦訳 幻想怪奇短篇集 (河出文庫)



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車窓からの眺め
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車窓からの眺め
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旧ハプスブルグ帝国を横断しました
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ウィーンに到着しました



車内では、みんなが持ち込んだお菓子を食べながら語り合ったり、読書をしたりしました。わたしは、『澁澤龍彦訳 幻想怪奇短篇集』(河出文庫)を読みました。わたしたちの乗ったレイルジェットは12時20分にウィーン駅に到着しました。ハンガリーの首都ブダペストから、オーストリアの首都ウィーンへ。かつてのハプスブルグ帝国を横断する列車の旅は良い思い出になりました。



2018年4月11日 一条真也