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佐久間庸和の天下布礼日記

2013-04-07

渋沢栄一(1)





論語と算盤




4月6日、サンレー本社に自見庄三郎・元郵政・金融大臣がお見えになりました。
佐久間会長と一緒にお会いしましたが、理想の経営者について話題になりました。
そこで出光佐三、松下幸之助、稲盛和夫といった方々のお名前が出たのですが、わたしは「その偉大な方々の先達として渋沢栄一翁がおられましたね」と申し上げました。
そう、日本における心ある経営者の原型こそ渋沢栄一という人です。 「日本資本主義の父」と呼ばれた彼は、『論語』の言葉を日常生活の基準とし、実業経営上の金科玉条としました。彼の経営哲学を集約する言葉が「論語と算盤」です。

論語と算盤

論語と算盤




渋沢栄一は、天保18年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島(現在の埼玉県深谷)に豪農の子として生まれています。実家は裕福であり、幕末には岡部藩から「藩御用達」を命ぜられました。「御用達」と言えば聞こえはよいものの、実態は税金以外に御用金と称する献金を藩からたかられるという損な役回りでした。
血気盛んな渋沢は、たかりに我慢がならず、高崎城乗っ取りというクーデターを企てます。ところが仲間の意見がまとまらず、計画の段階で挫折してしまい、クーデターの首謀者として幕府に追われる身となりました。しかし幸運にも、かつて面識のあった一橋家の用人に救われ、一橋慶喜の家来として仕えることになったのです。



慶応2年(1866年)、14代将軍家茂が21歳の若さで亡くなると、当時、30歳の一橋慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、15代将軍徳川慶喜となりました。翌年、慶喜の実弟で、後に最後の水戸藩主となる徳川昭武が、将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されます。このとき、慶喜に仕えていた渋沢は、昭武のお供を命ぜられ、57日間かけてフランスへ渡ることになる。これが渋沢と「会社」の出会いをもたらすのです。
スエズ運河で、フランスの会社が建設作業を行なっていました。
それを見た渋沢は、大勢の人間からカネを集めて「会社という仕組み」をつくれば、個人ではできない大きな事業も運営できることを知ったのです。
また渋沢は、パリで1人の銀行家に会います。そしてこの銀行家から「多くの人々から集めた資金を賢い経営者に貸し、大きな事業をさせれば、儲けた利益がみんなに還元される。結果として国も豊かになり栄える」という話を聞いて驚きました。事業を起こすためには会社が必要ですが、その会社に大きな仕事をさせるためには、みんなからカネを集めて会社に貸す「商業銀行」という仕組みが必要であることを教えられたのです。



渋沢栄一がフランスに滞在しているとき、江戸幕府は滅びます。
そこで渋沢は、明治元年(1868年)に帰国します。
そこからは、まさに快刀乱麻の大活躍でした。第一国立銀行(現在の東京みずほ銀行)を起こしたのをはじめ、日本興業銀行、東京銀行(現在の東京三菱)、東京電力、東京ガス、王子製紙、石川島造船所、東京海上火災東洋紡清水建設、麒麟ビール、アサヒビール、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、東京商工会議所、東京証券取引所、聖路加国際病院、日本赤十字病院、一橋大学、日本女子大学、東京女学館など、おびただしい数の事業の創立に関わりました。91年の生涯にわたり、一説には、会社創業は500以上、その他の事業を含めると600以上と言われています。
当時の日本には、教養の高い士族階級出身の失業者が溢れていましたが、仕事にありつくことができずにいました。彼らのためにも、とにかく渋沢は次々に仕事をつくったのです。もともと士族階級であった渋沢は33歳で民間人になります。役人のときに練っていた商業銀行の構想を現実化し、その直後、実質的なサラリーマン社長第1号になりました。



渋沢は、「自分さえ儲かればよい」とする欧米の資本主義の欠陥を見抜いていました。
だから、彼は「社会と調和する健全な資本主義社会をつくる」ことをめざしました。
自分自身も財産を残そうとしなかったし、閨閥づくりにも無縁でした。
第二次大戦後、渋沢家はGHQから財閥に指定されましたが、調べたところ財産がないことが判明して、後に解除されたほどです。
青年時代、渋沢は役人が権力を笠に国民を苦しめている姿を見て、怒りを感じていました。やむなく4年ほど大蔵省で役人を務めましたが、その後の生涯を民間人として過ごしました。カネがあっても人材がいなければ経済は活発になりません。経済を発展させるためには、人材を育ててチャンスを与え、仕事を任せることが必要です。
そのことを渋沢はよく理解していました。そして、それを実行しました。

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)




なぜ、実業家である渋沢が『論語』を読み込んだのか。それは、彼が会社を経営する上で最も必要なのは、倫理上の規範であると知っていたからです。
彼は、著書『論語講義』第1巻の「論語総説」に次のように書いています。
「そもそも会社を経紀するには、第一に必要なるはこれを経紀する人物の如何にあるのである。その当局者に相当の人物を得ざれば、その会社は必ず失敗に終るべし。明治の初めに政府の創設したる開拓会社とか為替会社とかいうものが、大抵倒壊したのはすなわちその適例である。ここにおいて余は銀行や会社を失敗なく成功せしむるには、その事に任ずる当局者をして、事実上または一身上恪循するに足る規矩準縄がなければならぬと考えたのである」



ふつう、人は「規矩準縄」というものを宗教に求めるものです。しかし、渋沢栄一にはあいにく仏教やキリスト教の知識はなかったようで、次のように述べています。
「余は仏教の知識なく耶蘇教に至ってはさらに知る所がない。そこで余が実業界に立ちて自ら守るべき規矩準縄はこれを仏・耶の二教に取ること能わず、しかも儒教ならば不十分ながら幼少の時より親しんできた関係があり、特に論語は日常身を持し世に処する方法を一々詳示せられておるを以て、これに依拠しさえすれば、人の人たる道に悖らず、万事無碍円通し、何事にても判断に苦しむ所があれば、論語の尺度を取ってこれを律すれば、必ず過ちを免るるに至らんと確く信じたり。我が邦には応神天皇の朝以来かかる尊き尺度が伝来しおるに、これを高閣に束ねて顧みず、範を他に覓めんとするは心得違いのことにあらずや。余はかく信じて論語の教訓を金科玉条とし、拳拳服膺してこれが実践躬行を怠らぬのである」



渋沢は、本書で実業家として守るべき最重要教訓をあげています。
『論語』の里仁篇に出てくる次の2つの言葉です。
「冨と貴とはこれ人の欲する所なり。されどその道を以てせざればこれを得るもおらず。貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり。されどその道を以てせざればこれを得るも去らず」
財産と地位はどんな人でも欲しがるものだ。しかし当然の結果として得たものでなければ、守る価値はない。貧乏と下賤はどんな人でも嫌うものだ。しかし当然の結果として落ちぶれたのではないと思えるなら、無理にはい上がろうとしなくてもよい。
「利によって行えば怨み多し」
行動が常に利益と結びついている人間は、人の恨みを買うばかりである。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則




渋沢栄一の思想は、有名な「論語と算盤」という一言に集約されます。
それは「道徳と経済の合一」であり、「義と利の両全」です。結局、めざすところは「人間尊重」そのものであり、人間のための経済、人間のための社会を求め続けた人生でした。
特筆すべきは、あれほど多くの会社を興しながら財閥をつくろうとしなかったことです。後に三菱財閥をつくることになる岩崎弥太郎から協力して財閥をつくれば日本経済を牛耳ることができるであろうから手を組みたいと申し入れがありましたが、これを厳に断っています。利益は独占すべきではなく、広く世に分配すべきだと考えていたからです。
ピーター・ドラッカーは著書『マネジメント』上田惇生訳(ダイヤモンド社)で、「率直に言って私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物のなかで、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は『責任』に他ならないということを見抜いていたのである」と絶賛しました。

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント




そう、「利の元は義」です。自分の仕事に対する社会的責任を感じ、社会的必要性を信じることができれば、あとはどうやってその仕事を効率的にやるかを考え、利益を出せばよい。
「論語と算盤」とは、ハートフル・マネジメントを言い換えたものなのです。
ドラッカーが渋沢栄一をこよなくリスペクトするのも当然だと言えるでしょう。
そして、渋沢自身は孔子をこよなく尊敬していました。
わたしの著書に『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)という本がありますが、渋沢栄一こそは、まさに孔子とドラッカーをつなぐ偉大なミッシング・リンクでした。もちろん、わたしも渋沢の言うように「利の元は義」なのであると確信しています。
わたしは、2003年末に『老福論』(成甲書房)を上梓しました。じつに10年ぶりに書いた著書でしたが、その本の中に「論語と算盤」を両手に持った小生の写真入りメッセージ・カードを挟みました。あれから10年近くが経ち、今はもうセピア色のなつかしい思い出です。

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老福論』のメッセージ・カード



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2013年4月7日 佐久間庸和