死は不幸ではない


わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。
この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。
今回は、「死は不幸ではない」という言葉を取り上げることにします。



わたしは「死は不幸ではない」ということを日頃から考えています。「不幸」の反対は「幸福」です。物心ついたときから、わたしは人間の「幸福」というものに強い関心がありました。学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。それこそ、本のタイトルや内容に少しでも「幸福」の文字を見つければ、どんな本でもむさぼるように読みました。



そして、わたしは、こう考えました。政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学・・・人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために存在するのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることを思い知りました。


命には続きがある』のカバー後そで



そこで、わたしが、どうしても気になったことがありました。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことでした。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのか。誰かのかけがえのない愛する人は、不幸なまま、その人の目の前から消えてしまったのか。亡くなった人は「負け組み」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのか。わたしは、そんな馬鹿な話はないと思いました.
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。


命には続きがある 肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと

命には続きがある 肉体の死、そして永遠に生きる魂のこと

死は決して不幸な出来事ではありません。愛する人が亡くなったことにも意味があり、あなたが残されたことにも意味があるのだと確信しています。そして、人が亡くなっても「不幸があった」と言わなくなるような葬儀の実現をめざしています。
なお、この「死は不幸ではない」という言葉は、わたしの多くの著書に登場します。
最近では、矢作直樹氏との共著『命には続きがある』(PHP研究所)にも登場します。
同じく、単著『死が怖くなくなる読書』(現代書林)の「はじめに」にも書きました。
わたしは、これからも「死は不幸ではない」と伝えていきたいと思います。
死ぬまで、そして死んだ後も、伝え続けていくつもりです。



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2014年2月10日 佐久間庸和