葬祭責任者会議

5日の午後から、 サンレーグループの葬祭責任者会議が行われました。
各地から「おくりびと」ならぬ、わが社の「きわめびと」たちが集結しました。
わたしは、16時半から、いつものように60分ほどの社長訓話をしました。


社長訓話前の一同礼!

サンレーグループ国葬祭責任者会議のようす



冒頭で恒例の「一同礼」をした後、わたしは宗教学者島田裕巳氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)について話しました。同書には「最期の儀式を考えるヒント」というサブタイトルがつけられ、帯には「要る? 要らない?」「最初で最後の直接対決!」「論争から見えてきた新しい葬儀のカタチとは?」というキャッチコピーが踊っています。また両者の写真が使われ、島田氏は「不要論者 宗教学者」、わたしは「絶対必要論者 冠婚葬祭業大手社長」というレッテルが貼られています。


葬式に迷う日本人』について話しました

本を掲げながら話しました



帯の裏には「葬式は・・・」の後に「要らない! by 島田裕巳」とあります。
そして、以下のように書かれています。
(1)派手な葬儀&高額な戒名・・・・・・仏式葬儀は見栄と欲望
(2)核家族化のいま、都会でも地方でもニーズは「簡素化」
(3)定言する「0葬」は不安な時代を生き抜くためでもある
一方、「必要! by 一条真也」として、以下のように書かれています。
(1)時代の変化に応じて葬儀もアップデート・・・葬儀の歴史は永遠に続く
(2)葬式仏教の本質は、日本における最大のグリーフケア・システム
(3)葬儀は人類の存在基盤であり、儀式を行なうのは人間の本能


日本人の宗教的欲求について



島田氏との対談を終えて、わたしは理想的な議論が実現したように思いました。島田氏と語り合って、改めて日本における葬儀のアップデートの必要性を痛感しあした。日本人の葬儀の9割以上は仏式葬儀ですが、これが一種の制度疲労を起こしているように思います。
よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われますが、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きます。


「葬式仏教」について語りました



「葬式仏教」は、一種のグリーフケアにおける文化装置だったのです。日本の宗教の強みは葬儀にあります。「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないでしょうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができます。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる機能があるのです。
2011年の夏、東日本大震災の被災地が初盆を迎えました。地震津波の犠牲者の「初盆」でしたが、生き残った被災者の心のケアという側面から見ても非常に重要でした。多くの被災者がこの初盆を心待ちにしていたのです。


日本最大のグリーフケア・システムとは?



通夜、告別式、初七日、四十九日と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は1つのクライマックスです。日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいかもしれません。そして、次の大事なことを忘れてはなりません。それは、基本的に葬儀がなければ、初盆はないということです。葬儀があって、初七日や四十九日があって、初盆が来るのです。例えるなら、小学校に入学しなければ運動会や修学旅行を経験できないのと同じです。


葬儀の「アップデート」を!



今後、葬儀の形もさまざまな形に変わっていくでしょうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認した上で、時代に合わせた「アップデート」、さらには「アップグレード」を心掛ける努力が必要です。サンレーでは、『葬式に迷う日本人』を紫雲閣スタッフおよび営業スタッフ、約600名に配布し、感想を書いたレポートを集めました。集められた膨大なレポートを、残らずわたしは読みました。現場ならではの発想、お客様の立場からの意見、思いもよらぬアイデアなども書かれており、非常に参考になりました。それぞれ、「この本の内容をどう業務に活かすか」ということについても書かれており、サンレーにとっては大変な知的財産になると思います。深い思索が綴られたレポートの数々を読んで、わが社の社員を心から誇りに思いました。


儀式論』についても話しました



さらに、わたしは最新刊の『儀式論』(弘文堂)について話しました。
唯葬論』(三五館)がこれまでのわたしの集大成的作品なら、この『儀式論』は新しい出発の書かもしれません。そして、わが「世直し」の書です。大いなる使命感をもって書きました。


みんな、読みましたか?



版元である弘文堂さんには、冠婚葬祭互助会業界の各社から続々と注文のFAXが入っています。中には、信じられないような大量注文もあり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
論語』里仁篇には「徳は孤ならず必ず隣あり」という言葉があります。「徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が必ず現れる」という意味です。今回ほど、孔子が述べたこの言葉が身に沁みることはありませんでした。
もちろん、わたしは「徳のある者」などではございませんが、「儀式バカ一代」として、儀式の重要性を世間に広く訴えたいと思う気持ちは強く持っています。その気持ちに、業界のお仲間のみなさんが共感していただいたことに対して、かたじけなさに涙こぼるる思いです。
この他にも、わたしと御縁のある全国の神社や寺院、それに監査役を務める互助会保証(株)さんが注文していただきました。ありがたいことです。


血は水よりも濃し!



今回、何よりも嬉しいのは、弟である佐久間康弘(全互協・政策統括室長)が積極的に業界の各社に『儀式論』を案内してくれていることです。今まで、こんなことはなかったので、わたし自身驚いていますが、彼のおかげで毎日のように『儀式論』の注文FAXが全国各地から届くのです。最大の「隣人」とは家族だと思いますが、たった1人の弟が『儀式論』に込めたわたしの想いを理解してくれたことが本当に嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいです。わたしがカラオケでよく歌う北島三郎の「兄弟仁義」には、「親の血を引く兄弟よりも、固い契りの義兄弟♪」という歌詞がありますが、やはり本物の兄弟はありがたいものです。血は水よりも濃し!


人間は儀式的動物である!



ちなみに、佐久間室長は最近、「人間は儀式的動物である」というウィトゲンシュタインの言葉を座右の銘にしているようです。ルートビッヒ・ウィトゲンシュタインは「20世紀最高の哲学者」と呼ばれた人物で、実質的に『論理哲学論考』の1冊しか著書を残しませんでした。そこに記された「人間は儀式的動物である」という言葉を論証しようと試みた本が『儀式論』なのです。


なぜ、わたしは『儀式論』を書いたか?



日本人の儀式軽視は加速する一方です。「儀式ほど大切なものはない」と確信しているわたしですら、「自分の考えがおかしいのか」と悩むこともありました。そしてその結果、儀式必要論という当初の立場をいったん放棄することにしたのです。つまり、「儀式など本当はなくてもいいのではないか」という疑問を抱きつつ、儀式について改めて考えていこうと思い至ったのです。そして、儀式に関連した諸学――社会学、宗教学、民俗学文化人類学、心理学などの文献を渉猟して書いたのが『儀式論』です。


儀式論』の全14章を紹介



わたしは、大上段に「儀式とは何ぞや」と構えるよりも、さまざまな角度から「儀式」という謎の物体に複数の光線を浴びせ、その実体を立体的に浮かび上がらせるように努めました。その結果、全部で14の章立てとなりました。それぞれ、「儀礼」「神話」「祭祀」「呪術」「宗教」「芸術」「芸能」「時間」「空間」「日本」「世界」「社会」「家族」「人間」といった視座から、それぞれ儀式を捉えた場合、どの様な姿が浮かび上がるのか、また、それらの像を複合的に分析したとき、儀式が、人間にとってどういった意味を持つのかが明らかにしました。それは儀式に対して人類が行ってきた知の営みを追体験する人類史の大冒険であり、その果てに、有史以来、儀式が人類存続のために産み出された文化装置であることを明らかにしあっつもりです。


「礼道」を歩みたい!


わたしは本書を書くにあたり、「儀式とは何か」「なぜ人間は儀式を必要とするのか」について考えに考え抜きました。そして、儀式とは人類の行為の中で最古のものであることに注目しました。ネアンデルタール人ホモ・サピエンスも埋葬をはじめとした葬送儀礼を行ったのです。人類最古の営みは他にもあります。石器を作る、洞窟に壁画を描く、雨乞いの祈りをするなどです。しかし、現在において、そんなことをしている民族はいないでしょう。儀式だけが現在も続けられているわけです。最古にして現在進行形ということは、普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を行い続けると、わたしは信じます。そして、わたしは「礼道」を歩みたいです。


「礼欲」は人類の本能である!

最後は、もちろん一同礼!



じつは、人類にとって最古にして現在進行形の営みは、他にもあります。食べること、子どもを作ること、そして寝ることです。これらは食欲・性欲・睡眠欲として、人間の「三大欲求」とされています。つまり、人間にとっての本能です。わたしは、儀式を行うことも人間の本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、埋葬の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。現生人類(ホモ・サピエンス)も同様で、死者を弔うことと相互扶助は人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していていたでしょう。人間には、他人とコミュニケーションし、人間関係を豊かにし、助け合い、さらには死者を弔うという本能があります。だから、葬儀は不滅なのです。今回の社長訓話は、以上のような内容でした。参加者全員が紅潮した顔で、こちらが怖くなるぐらい真剣な表情で聴いていました。


懇親会で挨拶する佐久間会長

わたしも挨拶しました




社長訓話後は、サンレー本社から松柏園ホテルに移動して、懇親会が開催されました。冒頭、佐久間進会長が挨拶しました。佐久間会長は、「今年は創立50周年。茶道の精神などにも学びながら、さらなる『おもてなし』を提供しましょう!」と述べました。続くわたしは「ミッショナリー・カンパニーとしてのわが社には大いなる使命があります。そして、冠婚葬祭業ほど価値のある仕事はありません。地域の皆様から、紫雲閣に進出してほしいというオファーが相次ぐように頑張りましょう!」と述べました。それから、サンレー北九州の東孝則常務の音頭で声高らかに乾杯しました。



懇親会は、無礼講で大いに盛り上がりました。懇親会の最後は、サンレー沖縄の黒木昭一事業部長がサンレー・オリジナルの「末広がりの五本締め」で締めました。わが社のオリジナル文化は色々とありますが、この「末広がりの五本締め」もそのひとつです。これをやると、みんなの心が本当にひとつになるような気がします。やはり、カタチにはチカラがあります!


最後は「末広がりの五本締め」で・・・ 



いま、冠婚葬祭互助会業界は大きな過渡期にあります。しかし、わたしたちは「人間尊重」をミッションとする礼業の会社として、正々堂々と胸を張って葬儀のお世話をさせていただきたいです。そして、互助会の会員さんが幸せになるためのお手伝いができるように、つねにアップデートを心がけ、アップグレードを目指したいと思います。懇親会終了後は、松柏園のラウンジにて二次会が行われ、サンレー北九州の祐徳秀徳執行役員が乾杯の音頭を取りました。



ブログ『稲盛流コンパ』では組織の団結を実現するコンパについて紹介しました。
経営トップも管理職も若手社員もすべて胸襟を開いて飲んで語り合うコンパには、人間関係を良くして、業績を向上させる力があります。まさに、理念とコンパは経営の両輪ですね。
じつは、わが社には50年来のコンパの伝統があります。
そして、今夜のサンレー流コンパも大いに盛り上がりました。
やはり、理念と志をともにする「同志」とのコンパは最高です!


クリスマスが近いなあ!!



*よろしければ、「一条真也の新ハートフル・ブログ」もどうぞ。



2016年12月5日 佐久間庸和