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一条真也のハートフル・ブログ

2010-03-19

『博覧強記の仕事術』

一条真也です。

昨日、東京から北九州へ向かうスターフライヤーの機内で本を読みました。

『博覧強記の仕事術』唐沢俊一著(アスペクト)という本です。

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             効率的なインプット&魅力的なアウトプット指南


わたしは、先日のブログに「博覧強記は誰だ!?」という記事を書きました。

では、「博覧強記」とは何でしょうか? 『大言泉』を引くと、「広く書物を読み、いろいろな事をよく記憶していること」だそうです。博覧とは「博覧会」の博覧、つまり「広く一般に見せる」ことですが、強記とは記憶力が強いことなのですね。

テレビ番組「トリビアの泉」の産みの親であり、自身が博覧強記の人として知られている著者によれば、強記だけではまだ能力の半分しか使っていないと言います。その強記を活かす道こそ博覧、この二つは合わさって初めて大きな力を発揮するというのです。

しかし、世間では記憶力というものの評判は良くないですね。ビジネス書でも、現代で求められているのは記憶力ではなく創造力であるなどと書かれています。

しかし、創造力は確かに大事ですが、その創造力を培うのは記憶力に他ならないと、著者は主張します。モデルとなる記憶もないのに、斬新なアイデアを求められても出てくるわけがないというのです。

そもそも、思いついたアイデアが類を見ないユニークなものなのか、それとも以前にも似たようなアイデアがあるのか、記憶に照らし合わせてみなければわかりません。

その証拠に、日本が誇る超一流のクリエイターであった映画監督の黒澤明も、漫画家の手塚治虫も、ともに大変な博覧強記の人であったそうです。

黒澤明などは、「俺は天才なんかじゃない、記憶力がいいだけだ。自分の映画はみんな、昔見た映画のマネをしているだけだ」と広言していたそうです。

では、なぜ、現代日本人は記憶力を大事にしないのかというと、それは下手に記憶力を使っている連中が評判を落としているからだというのです。

著者は、「思考」も「発想」も、すべては「記憶」から生まれるのだと断言します。

いま求められている「新しい博覧強記の人」とは、毎日あらゆるメディアから溢れ出る情報を取り込み、取捨選択し、思考し発想し、その上でアウトプットを行うタイプの人間であると言います。



大事なことは、世に中にある膨大な「知」を整理して記憶し、再構成してアウトプットすること、すなわち「博覧」するということなのです。

著者は、「知識人」と呼ばれる最も知識を持っている人々がいかに無力かを嘆き、次のように書いています。

「オウム事件のことを思い出してみよう。麻原彰晃という盲学校しか出ていない人間に、島田裕巳中沢新一といった、共に東大出の一級の知識人たちが手もなく騙され、彼らを賛美したり擁護したりする発言を行い、サリン事件以後、大きなバッシングを受けた。なぜ彼らは、超一流の宗教学的知識を持っていながら、麻原という男の正体を見抜くことが出来なかったのか。いや、なぜ麻原彰晃は、彼らのような知識人と対等以上に渡り合い、見事彼らを丸め込んでしまえたのか。」

その理由は、学者の所有する知識とは死蔵される知識であったのに対し、麻原にとっての知識とは信者を獲得するためのもの、すなわちアウトプットを前提とした「再構成」を経たものであったであると著者は分析します。

頭の中にただ溜め込まれている学問のための知識よりも、目的を持って実用のために磨き上げられた知識のほうが、はるかに絶大なパワーを持っているのです。

そして、そのパワーは実際に人を動かし、説得し、自身のイメージを大きくしていくことを可能とするのです。

同じことは、かのアドルフ・ヒトラーにも言えました。

当時のドイツの軍人や政治家たちの知的レベルは相当な高レベルであったにもかかわらず、陸軍伍長にすぎなかったヒトラーに丸め込まれてしまいました。

ヒトラーが具体的な軍事・政治へのビジョンを持っていたことが、その大きな理由でした。その具体的な目標のために、自分の知識を「再構成」していたからなのです。

著者は別に麻原やヒトラーを賛美しているわけではなく、再び彼らのような人間が現れたとき、知識を手段として彼らに対抗しなければならないと訴えています。


重要なのは知識や情報そのものでなく、その「再構成」なのです。

著者は次のように言います。

「情報の断片は素粒子のようなもので、組み合わせることによってあらゆる形にして提示することができる。そしてその『情報再構成能力』は、ビジネス、プライベートを問わず、あらゆる分野で利用することが出来、また必要とされている。」

そして、そこで重要となるのは情報の選別であり、それを可能とする審美眼です。

著者は、本や映画が最も効率的、効果的に情報や知識や見識を広める優れた媒体であると述べています。

本や映画が良質な情報を持つ最大の理由は、媒体そのものの持っている「規模の自浄作用」の結果だそうです。

ネットや携帯電話の情報などと異なり、本や映画は発信するだけで大変なコストを必要とするがゆえに、さまざまな基準で情報を選別し、選ばれたものだけが残ります。

規模が大きい媒体なだけに、その自浄作用によって、良質な情報が優先して発信されるわけです。


デジタルとアナログについての分析も明快です。

デジタルの良いところは、「情報が劣化しない」「検索性に優れている」ところ。

アナログの良いところは、「一覧性」と「保存に適している」ところ。

MDやCDやDVDに記録されたデジタル情報が100年後に再生できるか、はっきり言って不安が残ります。

グーグルや各国の図書館が電子化しているデータベースしかりです。

ある日、それらが忽然と消滅しないと誰が断言できるでしょうか。

しかし、紙に記された情報は少なくとも数百年はもちます。

それよりも、羊の皮の書いたもの、粘土板、さらには石に刻んだ情報は数千年、数万年の保存性を誇ります。

面白いことに、アナログであればあるほど保存性が高くなるのです。

『紙の本が亡びるとき?』や『書物の変』で取り上げた書籍の未来は、案外こんなところに可能性を見出すのかもしれません。


2010年3月19日 一条真也

『書物の変』

一条真也です。

『紙の本が亡びるとき?』に続き、『書物の変』港千尋著(せりか書房)を読みました。

グーテンベルクからグーグルへ。

まさに、この本のサブタイトルは「グーグルベルグの時代」となっています。

18日の朝食後から読みはじめ、宿泊先のホテルで各種の打ち合わせを済ませてから、羽田空港のラウンジで昼食のカツサンドを齧りながら一気に読了しました。

『紙の本が亡びるとき?』はタイトル以外の話題が多い点が残念でした。

『書物の変』も同様で、各種展覧会のパンフレットなどに寄稿したような文章が多いのが、ちょっと物足りなく感じました。

それでも、非常に読みやすくて、面白かったです。

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                    グーグルベルグの時代


著者は、本書の冒頭に次のように書いています。

「グーグルによる書籍の電子データ化や、アマゾン・ドット・コムによる電子書籍端末『キンドル』の発売がはじまり、書籍の世界に大きな変化が起きようとしている。特にGoogleブック検索については米国内をはじめ欧州各国からも異論が噴出し、もはや一企業による文化産業という枠をはるかに超えて、政治問題化する気配すらある。」

「キンドル」というのは電気的に画面を書き換える電子ペーパーで、書籍のみならず新聞や雑誌の命運をも握っていると言われます。

キンドルには厚めの小説でも簡単に取り込めます。

それも1500冊も保存できるのです。

音楽データを簡単に取り込む「i−Pod」の書籍版ですね。

書店と読者が直接、しかも24時間つながることができるわけです。

しかも、自分専用の携帯書庫にもなるという夢のような話です。



ここで、著者は興味深いエピソードを紹介します。

2009年の夏、ある米国人ユーザーの元にアマゾン・ドット・コムから「代金を返金する」というメールが届きました。その直後、その人物が使っていたキンドルから購入していた小説が忽然と消えたというのです。

理由は、ある著作を著作切れしていると勘違いしていた会社のミスによるものでした。

それが判明した時点で、同社の電子書籍サイトから問題の著作が削除されました。

同時に、ユーザーが所持するキンドルの内部に保存されていたデータも同時に削除されたというのです。その著作とは、ジョージ・オーウェルの『1984』でした。

村上春樹氏の大ベストセラー『1Q84』(新潮社)のモチーフとなった作品ですね。

超管理社会の不気味さを描いた「未来」小説として知られる『1984』のデータが瞬時にして削除されたという話題性から、この小さなニュースが世界中で注目されたのです。



著者は、そこで使われる言葉や言説に興味を持ちました。

持っている本を一方的に削除された人は「読者」ではなく、「ユーザー」と呼ばれます。

本を返品するのは、ふつうは「読者」ですが、電子書籍の場合は「端末のユーザー」です。その誰かが購入した本が一方的に削除されるというのは不気味です。

まさに、ジョージ・オーウェルが描いた超管理社会の悪夢を連想します。

これを巨大企業による資本主義的管理の一例として批判することもできるでしょう。しかし、著者は次のように述べます。

「だが、それ以前にこの『ユーザー』は、オーウェルの著作を『持っていた』と言えるのだろうか。さらに言えば一方的に削除されるような本は、はたして『本』なのだろうか。仮にそうと認めたとしても、それはモノとしての本ではなく、あえて言えば『状態』としての本であろう。電子ペーパーによって表示されている状態では手の中にあるが、ひとたびサーバーから削除されれば存在しない。その場合、はたして読書とは、本の「」ユーザーとしての経験だろうか。仮にすべての本を電子書籍端末で読むことになる時代に、ユーザーはそれ以前の読者とは、どう違うのだろうか。」

この疑問から、著者はグーテンベルクからグーグルに至る歴史を辿りつつ、人間の想像力と技術の未来を探求していきます。


書物は、現在進行している高度情報化によって、「第二のグーテンベルク革命」とも呼ぶべき変化の真っ只中にあります。世界中の代表的図書館は蔵書の電子化を行っていますし、これを逐次インターネット上で公開しています。

世界に数冊しかないような貴重な本も自宅で読める時代。

それはもう図書館におけるサービの進化といったようなレベルを超えています。

いわば、わたしたちが生きる時代そのものが図書館化しつつあると、著者は言います。

「検索」という「特殊図書館的」システムに社会全体が依存している現在、いまでは「検索」そのものが検索されモニタリングされているというのです。

すなわち、社会全体がメタ図書館化しているわけです。

それでも、著者は図書館に限りない愛を寄せ、次のように書きます。

「図書館にはなぜか懐かしさがある。いろんな土地で図書館のお世話になってきた、ひとりの利用者にすぎないのに、そこがまるで故郷であるかのような、個々の施設を超えた、図書館という国がどこかにあるようにすら感じることがある。」

図書館という国!!

なんとロマンティックで素敵な言葉でしょうか!

その国は、わたしが『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)で述べた「こころの王国」の別名かもしれません。

わたしは図書館という国に住みたい。心から、そう思いました。


最後に、次の著者の言葉が、わたしの心に残りました。

「世界は複雑であり、人生には検索できないことがますます多い。探しもとめている答えが、偶然となりに座った人が開いたページのなかに書かれていることも、ないではない。」


2010年3月19日 一条真也