『断絶の時代』

一条真也です。

『断絶の時代』P・F・ドラッカー著、上田惇生訳(ダイヤモンド社)を再読しました。
1968年にアメリカで刊行され、日本でも大ベストセラーになりました。1999年には日本版新訳が出ています。


               歴史がこの本の正しさを証明した


本書はドラッカーの代表的なベストセラーですが、40年以上も前の本だとは思えないほど、タイトルといい、内容といい、昨日書かれたばかりのもののように読めます。
『マネジメントを発明した男 ドラッカー』の著者ジャック・ビーティも言うように、現代の思潮や感覚を理解するための概念として、『断絶の時代』という診断は的を得ていると思われます。ただ、ベトナム戦争学生運動公民権運動といった政治的な動きをすべて無視しているにもかかわらず、真実は隠れたところに存在するという信念が行間から伝わってくることを考えれば、きわめて60年代的な書物だと言えるでしょう。



ドラッカーは社会の根底で起こりつつある変化、すでに起こった断絶を明らかにしようとしました。その関心は、世界地図を変える戦争ではなく、大陸を変える地下のプレート移動にありました。
ドラッカーのいう「断絶」とは、社会と文明における根源の変化です。当時、「断絶」という言葉は非常に珍しい言葉でした。
「断絶」と「変事」の違いは何でしょうか。「変事」とはいわば地震や噴火であって、地形を変えます。でも、それは地殻の変動、ドラッカーの言う「断絶」によってもたらされます。
昨日と今日のきしみの蓄積としての断絶が原因となっています。変事が激しく目を引くのに対し、断絶は静かに進行します。地震や噴火として現われるまでは、気づかれることもありません。



本書は、第二次世界大戦は新しい時代の始まりというよりも、一つの時代の終わりであることを示しました。当時は、多くの人たちが、過去を取り戻そうとしていました。これに対し、本書は未来を見たのです。
すでに元に戻すことのできない変化が起こったことは、誰にもわかっていました。
少なくともそう感じられていましたが、当時叫ばれた多くのスローガンや政策は、いずれも昨日の現実からのものでした。
しかし、本書の刊行から今日にいたる間、歴史はドラッカーの分析の正しさを示しました。たとえば、マーガレット・サッチャーが推進した政府現業部門の「民営化」の構想も本書で発表されたものです。



本書は、4つの分野で断絶が起こったことを明らかにしました。
それは第1に、新技術、新産業の出現。
第2に、グローバル化と南北問題の顕在化。
第3に、政治と社会の多元化。
第4に、知識社会の出現と社会的責任への意識の高まりです。
ドラッカーは後に、人口構造の変化という断絶を加えたいと述べました。
社会の根底で起こっている断絶は現在進行形であり、本番はいよいよこれからです。



陽明学者の安岡正篤も、本書を読み込んだようです。
安岡はドラッカーの『The age of discontinuity』という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代である、と著書『論語に学ぶ』(PHP文庫)のなかで述べています。
そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表す文字こそ「孝」であると明言しています。老、すなわち先輩・長者と、子、すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのである。そこから孝という字ができ上がりました。
「老」+「子」=「孝」なのです。
そうして先輩・長者の一番代表的なものは親であるから、親子の連続・統一を表すことに主として用いられるようになったというのです。
安岡正篤は言います。
人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人の繁栄はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまいます。



革命のようなものでも、その成功と失敗は、すべてここにかかっています。
わが国の明治維新は人類の革命史における大成功例とされています。
それはロシアや中国での革命と比較するとよくわかります。
では、その明治維新はなぜ成功したのでしょうか。
その理由の第1は、先輩・長者と青年・子弟とがあらゆる面で密接に結びついたということです。人間的にも、思想・学問・教養という点においても、堅く結ばれています。
徳川265年の間に、儒教・仏教・神道国学とさまざまな学問が盛んに行われました。
またそれに伴う人物がそれぞれ鍛え合っていたところに、西洋の科学文明、学問、技術が入ってきたために、両者がうまく結びついて、あのような偉大な革命が成立したのだというのです。これこそ「孝」の真髄であり、すべてのマネジメントに通用するものです。
疎隔・断絶ばかりで連続・統一のない会社や組織に、イノベーションの成功などありえないのです。東の賢人・安岡正篤は、西の賢人・ドラッカーが現代の孔子であることをしっかり見抜いてくれました。
まだ読まれていない方は、ぜひ、お読み下さい。


2010年9月4日 一条真也

『イノベーションと起業家精神』

一条真也です。

執筆中だった『隣人論』(仮題、三五館)をついに脱稿しました。
全部で426枚。「無縁社会」や「隣人祭り」についての考えはすべて書きました。
昨年から準備をしていたのですが、ここ最近の高齢者の所在不明や幼児置き去り死事件などに触れ、「一刻も早くこの本を世に出さねば!」という想いが強まり、今月に入ってから一気に書き上げました。ここ数日は平均4時間ぐらいの睡眠時間でしたが、なんとか脱稿できて安堵しています。
これまでは本を書き上げるたびにハリーとフリスビーをしてきました。
その儀式ができなくなり、「そうか、もう君はいないのか」という心境です。
せめて、今夜はもう一つの儀式であるシャンパンを飲みたいと思います。



さて、『新訳 イノベーション起業家精神』P・F・ドラッカー著、上田惇生訳(ダイヤモンド社)を再読しました。1985年に刊行され、1997年に「ドラッカー選書」として日本版新訳が出ており、わたしはこれを読みました。
ただし、現在では2007年に「ドラッカー名著集」としてさらに新版が出ています。
新版では、タイトルも『イノベーションと企業家精神』に変更されています。


                     その原理と方法


本書は、今やイノベーション起業家精神についての最高のバイブルです。
ドラッカーによれば、イノベーション起業家精神には原理と方法があり、才能や気質ではないといいます。その原理とその方法を示しているわけですが、起業家の性格や心理についてではなく、その姿勢と行動について述べています。
ドラッカーは、経済と社会の歴史において、アメリカにおける起業家経済の出現こそは最も希望に満ちた現象だととらえました。
イノベーション起業家精神は、才能やひらめきなど神秘的なものとして議論されることが多いようです。しかし、それは体系化することができ、しかも体系化すべき課題、すなわち体系的な仕事としてとらえることができるのです。
そして、ドラッカーは組織に働く人たちの仕事の一部として提示します。



ドラッカーは、本書の「まえがき」で次のように述べます。
「本書は実践の書である。ただし、ハウツーではない。何を、いつ、いかに行うべきかを扱う。すなわち、方針と意思決定、機会とリスク、組織と戦略、人の配置と報酬を扱う」
本書はイノベーション起業家精神を、イノベーション、企業家精神、戦略の3つに分けて論じています。これらは、いずれもイノベーション起業家精神の「側面」であって、「段階」ではありません。
イノベーションの部では、目的意識にもとづいて行うべき一つの体系的な仕事としてイノベーションを提示します。
起業家精神の部では、ドラッカーイノベーションの担い手たる組織に焦点を合わせます。そこでは、3種類の組織、すなわち既存の企業、社会的機関、ベンチャー・ビジネスにおける起業家精神を扱います。
戦略の部では、現実の市場において、いかにイノベーションを成功させるかについて述べています。市場で成功しなければ、いくら新奇性、科学性、知的卓越性があっても意味がありません。



ドラッカーは、次のように述べます。
起業家精神は、科学でもなければ技でもない。実務である。もちろん知識は不可欠である。本書はそれらの知識を体系的に提示する。しかも、医学やエンジニアリングなどほかの実務の知識と同じように、起業家精神にかかわる知識は、目的を遂行するための手段である。したがって、本書のような著作は実例による裏づけがなければならない」
この言葉の通り、本書はさまざまな実例に満ちています。まさに「実践の書」です。
この他に、ドラッカーイノベーション起業家精神を経済との関わり、および社会との関わりにおいても論じており、読み応え満点です。
わたしは、かつて世界初の複合高齢者施設をつくるというイノベーションに際して、本書を熟読した思い出があります。
まだ読まれていない方は、ぜひ、お読み下さい。


2010年9月4日 一条真也