『盆まねき』

一条真也です。

今年のお盆も終わりですね。
『盆まねき』富安陽子著(偕成社)を読みました。
児童文学作家である著者が、お盆をテーマに書いたファンタジーです。
表紙に描かれている大きな満月が印象的ですね。


                 ご先祖さまと家族のものがたり


物語の主人公は、小学3年生の女の子・なっちゃんです。
7月の半ば、なっちゃんの家には毎年、笛吹山に住むおじいちゃんから1通の手紙が届きます。なっちゃんのパパとママは、その手紙を「盆まねき」の手紙と読んでいました。
「盆まねき」というのは、8月のお盆の3日間に、ごちそうを用意して親戚の人たちを家に招待して、みんなでご先祖さまの供養をするという行事です。笛吹山を訪れたなっちゃんは、親戚の人々に囲まれて、いろんな不思議な経験をするのでした。



本書の目次は、次のようになっています。
「盆まねき」
1章:おじいちゃんの話――八月十二日――ナメクジナメタロウ
2章:フミおばあちゃんの話――八月十三日――月の田んぼ
3章:大ばあちゃんの話――八月十四日――かっぱのふしぎな玉
4章:――八月十五日――盆踊りの夜
「もうひとつの物語――さいごにほんとうのお話をひとつ」



最後の盆踊りの夜、不思議な男の子に出会います。十五夜の満月の中に入っていく多くの人影を目撃して驚くなっちゃんに、男の子は言います。
「みんな、もう、あの世にかえるんだ。きょうはお盆の十五日だからね」
なっちゃんが「この人たち、みんな幽霊ってこと?」と質問すると、男の子は「こわがらなくてもだいじょうぶだよ」と答えて、次のように言うのです。
「こわいことなんて、ないんだ。みんな、いつかは、あっち側にいかなくちゃいけないんだからね。この人たちは、ただ、ちょっとなっちゃんより早く、あっちへいった人たちで、盆まねきにまねかれて、こっちにあそびにきてただけなんだよ。
盆がもうおわるから、あの世へかえるんだ。あそこをとおって、月がしずむころには。
ずっと西のほうへかえっていくんだよ」



「あなたも幽霊なの?」とたずねるなっちゃんに、男の子は「人間は、二回死ぬって、知ってる?」とたずねかえし、首を横に振るなっちゃんに「一回目は、心臓がとまったとき。二回目は、みんなにわすれられたとき・・・・・。」と言います。
男の子は、まだ一回しか死んでいません。
なぜなら、お盆に自分を思い出して、こっちに招いてくれる人がいるからです。
「わすれられちゃったら、どうなるの?」
たずねるなっちゃんに、男の子は静かに次のように答えました。
「みんなが、ぼくの顔も思いだせなくなって、いつか、ぼくの名前もわすれてしまったら、ぼくの顔はぼやけて、体の輪郭もうすれて、ぼくはすこしずつ消えていくんだ。それで、すっかり、ぼくが消えちゃったら、ぼくは、もうぼくじゃなくて、なっちゃんのご先祖さまになるんだよ。ぼくよりまえにわすれられてしまった人たちとまざりあって、とけあって、ひとつのキラキラした大きなかたまりになるんだ。それも、わるくないよね」



本書の物語は、ブログ『先祖の話』に書いたような柳田國男らの日本民俗学が明らかにした日本人の祖霊観をベースにして描かれています。
また、男の子の「人間は二回死ぬ」という言葉は、わたしの口癖でもあります。
この言葉は、ブログ『赤い鯨と白い蛇』で紹介した本の内容にも通じます。
『赤い鯨と白い蛇』には、終戦の直前に特殊潜航艇に乗り込み帰らぬ人となった青年が登場しますが、この『盆まねき』にも片道だけの燃料を積んで戦闘機に乗り込み、敵機に体当たりをした特攻隊員の青年の話が出てきます。
物語では、その特攻隊員の青年はなっちゃんの亡くなった親戚である「シュンスケおじさん」でしたが、そのモデルは著者の父の兄である「俊助おじさん」だということが「もうひとつの物語――さいごにほんとうのお話をひとつ」に書かれています。



本書の最後に、著者は次のように書いています。
「このごろ、『お盆』というのは、一度死んだ人を、心のなかで生きつづけさせるための行事なんだな、と思うようになりました。大勢の親戚や家族がよりあつまって、お仏壇に手を合わせ、遠い日の思い出話に花を咲かせるとき、わすれかけていたなつかしい人の記憶が、みんなの胸のなかによみがえり、そのときたしかに、死んだ人びとの魂は、この世で暮らす人びとのまえに忽然とたちあらわれるのです。戦争の記憶をとどめる人が、たとえ一人もいなくなってしまっても、わたしはわすれないでおこうと思います。
物語なんかではなく、この国はたしかに戦争をしたんだということを。作り話なんかではなく、俊助おじさんは、その戦争で命を落としたんだということを。おじさんのほかにも、かぞえきれないほどの人たちが戦争で死んでいったんだということを。戦争で死んだ人たちが、もう一度死んでしまわないように、ずっとおぼえておこうと思います」



本書は、子どもたちにお盆の意味、そして血縁というものの大切さを伝える物語です。
そして、戦争の悲惨さと平和の素晴らしさを気づかせる物語でもあります。
日本において、終戦記念日とお盆の最終日が重なっていることの重要性を本書ほど見事に描いている作品は他にないと思います。
お子さんだけでなく、ぜひ多くの大人たちにも読んでほしい本です。


2011年8月16日 一条真也

『蜜姫村』

一条真也です。

『蜜姫村』乾ルカ著(角川春樹事務所)を読みました。
帯に大書された「すごい すごい すごい!」という書店員の言葉に圧倒されたからです。
著者は、北海道在住。2006年に『夏光』でオール讀物新人賞を受賞しています。


                  人里離れた村の秘密とは


東京の大学で講師を務める山上一郎は、東北の山村に迷い込みます。
彼は昆虫学者で、変種のアリを追って来たのですが、遭難状態になったのです。
しかし、瀧埜上村の仮巣地区の人々に助けられ、命をとりとめます。
翌年、山上は1年間のフィールドワークのために、妻の和子を連れて再び仮巣地区を訪れました。和子は医師でしたが、この村には医師がいませんでした。無医村で診療を行うことは、彼女にとってもそれはやりがいのある仕事に思えたのでした。
村の人々は、みんな優しくて、親切でしたが、何日かすると、和子は違和感を覚えます。この村には、病人がまったくいないのです。医師もいないのに、みんな健康すぎるのです。これ以上書くとネタバレになってしまうので、ここまでにしておきます。



前半ホラー、後半ファンタジーといった感じのライトノベル風の作品でした。
正直な感想を言うと、「惜しいなあ!」です。
前半の緊張感はなかなかのものなのですが、後半の展開がちょっと安易過ぎるように思いました。アマゾンのレビューなどを見てみると、やはり物足りなさを訴える人が何人かいました。その中の“ちきん”さんという方が非常に良いコメントを残されています。
「ウソを吐き通す為の作法」というレビューで、冒頭に「スティーブン・キングを始めホラーで良くある設定だが、この手のものは現実社会からありえない世界に読者を連れて行き、読者自身も『逃げられない』心持ちへ追い込んでいく手腕が、作者の見せ所だ思う。フィクションという『ウソ』の世界に読者をグイグイ引っ張っていく力がどれだけ発揮されているかが、本を面白くするかどうかの分かれ目のはず」と書かれています。
「ウソ」をつき通すことは並大抵のことではありません。
作者は、「ウソ」をつき通す為にさらに周到にウソを張り巡らせます。
そして、「ホント」の様に感じさせる作業を積み重ねていくわけです。
“ちきん”さんによれば、本書はそこのところが端折られているというのです。
読み手を「ウソ」の世界へ誘うにはそれなりに作法がありますが、本書は「こんな話がありました」という程度のところで終わっているとして、さらに 、「例えば、S・キングや京極夏彦は、壮大な『ウソ』を読者の心の中で『ホント』にするために登場人物の心理描写を使いウソの為のウソを執拗に書き綴ります。他の作者も作法が違ってもその為の作業を丁寧に行う。少なくとも自分はストーリーのみならず、その部分にこそ酔わせて貰いたくて本を手に取ります。 ウソを吐き通した後に残る作者の表現したかった事。それにどれだけ真実を感じさせるか・・・その作者の手腕こそ見所のはず」と書いています。
まったく同感です。キングや京極夏彦の名前が出てきましたが、この方は相当にホラーを読み込んでいる「ホラー通」であると感じました。



さて、この“ちきん”さんをはじめ、多くの読者は本書が「読売新聞」2010年12月13日朝刊の書評欄に取り上げられていたので購入して読んでみたそうです。
その書評には、「読売」の書評委員である井上寿一氏が、本書の物語の展開に「価値観が揺さぶられる」と書かれていたそうです。これはちょっと、本書のストーリーのどこに価値観が揺さぶられたのか、興味が湧いてきます。そもそも井上寿一氏といえば、政治学者・歴史学者で、専門は 日本政治外交史・歴史政策論のはず。
そんな方が、なぜホラー小説の書評を担当したかも不思議ですが、あまりに過剰な絶賛は逆に作品や作者のダメージになることもあると感じました。
日本では、こういうのを「ほめ殺し」と言うのでしょう。
過剰といえば、「すごい すごい すごい!」という書店員のコピーも明らかに大袈裟で、わたしは「そんなにすごいのか!」と思って、本書を購入したほどです。
この人は、「読書で鳥肌がたったのは初めてです。読み終わった今でも、手から汗が止まりません」とも書かれています。
映画の感想でよくある「一生分、泣きました」とか「わたしは、この映画を観るために生まれてきた」といったコメントを連想してしまいます。本屋大賞などが注目されて、書店員のコメントというのが影響力を持ってきましたが、せっかくの流れを過剰な絶賛が水を差してしまいます。バナナの叩き売りではないのですから・・・・・。



わたしは、もともと広告業界にいたので、煽るようなコピー・ライティングというのは慣れています。若い頃には、それが良いコピーだと思った時期さえありました。
しかし、広告する商品の内容を正確に伝えておらず、いたずらに煽るだけのコピーは逆効果になることに気づきました。
最近、ある東急エージェンシーの先輩が「広告臭とかマーケティング臭がする商品を消費者が嫌うようになった」と言っていましたが、その通りだと思います。
わたしの本でも、版元に扇情的なコピーをつけたがる人がいるので(笑)、気をつけなければならないと思いました。



本の内容というより、書評とかコピーの話題になってしまいましたが、本当に前半は面白かったです。一気に読ませる著者の筆力も、なかなかのものでした。
後半も、マンガやアニメの原作としてなら読めるかもしれません。
じつは本書を読んだのは今年の1月で、このブログで紹介する気はありませんでした。
ちなみに、わたしは読んだ本のすべてをブログに取り上げているわけではありません。
あくまで、読んだ本の中の一部です。しかし、ちょうど今読んでいた本がすべて山深い村の話だったので、『蜜姫村』のことを思い出したのです。
その本とは、『ぬばたま』あさのあつこ著(新潮文庫)というホラー短編集です。
山深いといえば、ブログ『山妣』で紹介した坂東眞砂子の大傑作が思い出されます。
北海道で小説を書き続けているという著者は、間違いなく豊かな才能を持った作家だと思います。ぜひ、坂東眞砂子に負けない小説を書いてほしいものです。
いつか、著者の他の作品も読んでみたいと思っています。


2011年8月16日 一条真也