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一条真也のハートフル・ブログ

2012-08-31

『柔らかな犀の角』

一条真也です。

『柔らかな犀の角』山崎努著(文藝春秋)を読みました。

日本映画界を代表する名優として知られる山崎努さんの読書日記です。

「週刊文春」に好評連載された「私の読書日記」6年分が収録されています。

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山崎努の読書日記



表紙には犀の部分イラストが描かれ、帯には「演じる。書く。受け入れる。こんな風に、生きている。」というコピーに続いて、「読書の歓びから演技論、生と死の『かたち』まで、『本』から広がる名優の随想ノート、待望の単行本化」と書かれています。



本書の存在を知ったのは、たまたま観たテレビで「山P(ヤマピー)」こと山下智久クンが愛読書として紹介していたからでした。著者と共演した山Pは、以来、著者が持つ教養と人間性に心酔しているそうです。それを知ったわたしは、ちょうどブログ『すべては今日から』で紹介した故・児玉清さんの著書を読書中だったこともあり、同じように俳優によるブックガイドである本書を読んでみたいと思いました。


もともと、著者はわたしのお気に入りの俳優の1人でした。

冠婚葬祭業界に身を置く者なら、著者の姿をスクリーンで見ていない人は少ないでしょう。なにしろ、「お葬式」(1984年)、「おくりびと」(2008年)という二大葬儀映画に重要な役で出演しているのですから。特に、「おくりびと」での納棺会社の社長役は素晴らしく、社長室でフグの白子を焼いて食べるシーンは最高の名場面でした。

でも、わたしにとっての著者は、わたしが誕生した年に公開された黒澤明監督の名作「天国と地獄」(1963年)での犯人の青年役や、泉鏡花の幻想世界を見事に再現した「夜叉ヶ池」(1979年)の主人公の旅の僧侶役のイメージが強いです。本当に、「この人がいなくなったら、日本映画はどうなるのか」と思わせる名優だと言えるでしょう。



タイトルの『柔らかな犀の角』ですが、これは「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉に由来します。ブログ『ブッダのことば』でも紹介しましたが、ブッダの思想を知る上で最重要テキストとして『スッタニパータ』という聖典があります。

そこには、「犀の角のようにただ独り歩め」というフレーズがたくさん出てきます。

著者は、このフレーズを若い頃から気に入っていたそうで、次のように書いています。

「何をするにも自信がなく、毎日が手探り及び腰、そのくせ鼻っ柱だけは強く、事あるごとにすぐ開き直る。そんな臆病な若造にとって『犀の角』や『ただ独り』は手軽で便利なキャッチコピーだったのだろう」



しかし、著者が「最後の賢人」として慕い、本書にも登場する哲学者・鶴見俊輔氏の著書『かくれ佛教』(ダイヤモンド社)を読んで、著者は以下の事実を知ります。

「ブッダの言う角はむろんインドサイのものだが、実はこの角、中はぶよぶよの肉で、とうてい闘争の武器にはならないヤワな代物なのだそうだ。

だから彼らはあまり戦わない。獰猛なのはアフリカの犀で、インドの連中はただ温和しく地味に密林を歩き回っているだけらしい。群れることもなく孤独にのこのこ山奥をうろついている。図体がでかいからむやみに攻撃される心配もないという」

『かくれ佛教』を読んでこの事実を知った著者は、次のように述べます。

「つまりあの勇ましい立派な角は、少なくとも喧嘩に関しては無用の長物。相手を威嚇するための張りぼてのようなものとか、まあ学問的にはそれなりの理由があるのかもしれないが、無用の長物としたほうが僕は愉しい」



ブッダといえば、「生老病死」の四苦を唱え、「老い」を苦悩として説きましたが、今年で75歳になる著者は、「老い」をけっして悲観的には捉えていません。

たとえば、養老孟司氏の著書について、次のように書いています。

「養老孟司が『養老訓』(新潮社)で、『年をとって良かったなと思うことがたくさんあります』と言っている。年寄りは上機嫌で生きましょう、『じいさんは笑っていればいいのです。先日亡くなられた河合隼雄さんは、いつもニコニコされて駄洒落ばかり言っていました。人の意見を訂正するなんてこともなかった』という。たしかに河合隼雄は、テレビでも活字の対談でも、他人の話をノーで受けることがなかった。いつも、まず『そうですね』『なるほど』とイエスで受けとめ、その上で穏やかに、相手の言葉に寄り添うように話し出す。あれは真似ができない。どうしても、思わず、『いや』『でも』と返してしまう。大人と小人、器が違うのだからしかたがないか。とりあえず僕は、話したあとに、ニコッと笑顔をつけ加えるようつとめている。それが気持悪いと言われたりするが」



「生老病死」の「死」についても、次のように書いています。

「映画『おくりびと』がなんとオスカーをとった。こいつぁ春から縁起がいい、何故か初雪まで降ってきた。お祝いの品もたくさん頂いた。その中に、『RFK』(Paul Fusco,Aperture Foundation)があった。あのロバート・ケネディの遺体を運ぶ葬送列車を線路端で見送る普通の人たち、その様を列車内からスナップした写真集。

100点に余るショットに写し出された何千何万の人々が全員打ちひしがれている。老若男女、皆、哀しみに打ちひしがれている。虚ろな目で1人ぽつんと立っている。『SO LONG BOBBY』と手書きした幕を掲げている3人。泣いている。唇を噛みしめ目をとがらせている。家族7人が背の順に整列し(きちんと等間隔に)気をつけをしている、父も母もずいぶん若い、端っこのちびは2、3歳、そいつも背すじを伸ばし葬送列車を凝視している・・・・・・。ゆっくりとページを繰った。死者を送る人間たちが美しい」

「死者を送る人間たちが美しい」とは名言ですね。まさに「おくりびと」の言葉。

わたしが思うに、「死者を送る人間たちが美しい」のは、それが人間の存在の本質に関わる営みであるからではないでしょうか。



また、「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二氏の著書も紹介されています。

「そこにいるだけで、何となく緊張が解け、リラックスできる所がある。旅に出ると、あちこちぶらぶら歩き回って、そういう場所を探す。ここだ、と手応えがあったら、その地点に居坐り、うつらうつらしたりしてのんびりと過ごす(以前、南の島でそれをやり、日射病で死にかけたことがあるが)。そんなスポットを僕はいくつか持っている。鎌田東二著『聖地感覚』(角川学芸出版)に依れば、そのような場は、その人の『聖地』なのだそうだ」

「聖地」をめぐって、著者は次のように述べます。

「人はなぜ聖地を求め、巡礼をするのか? そこに決まった答えはない。人生がそうであるように『巡礼』も各人各様の理由とかたちをもっている。これからもくりかえし実践され、つづいていくに違いないと鎌田は言う。そう、アキバも冬ソナも軽々に扱ってはいけない。鰯の頭も信心から、その人にとってそれがかけがえのない信仰の対象であるならば(よほど悪質なものでない限り)認めてやらなければいけない。そもそもわれわれの『信仰』は、立場を異にする者から見ればすべて鰯の頭なのである」

さらに、著者は次のように書いています。

「古くから聖地、霊場として崇められている土地には、人間の聖なる感覚を刺戟し増幅させる自然の霊気が強くあるのだろう。三輪山、熊野、出羽三山等々を巡り歩いた鎌田のフィールドワークの記録が興味深い。湯殿山での滝行の描写など、臨場感があって紀行文としても優れている」



著者は、鎌田氏にいたく興味を抱いているようで、次のように書いています。

「著者鎌田東二は、宗教哲学、民俗学、日本思想史と、幅広い分野で研究を続けている学者である。この本の最大の魅力は、彼の底抜けに奔放なキャラクターが存分に発揮されているところだ。巻末の略歴紹介の欄に、石笛、横笛、法螺貝奏者、フリーランス神主、神道ソングライターとあって、笑ってしまった。

おもむくままにやりたいことをやっている。

毎朝、祝詞、般若心経を上げ、笛、太鼓、鈴、その他計十数種類の楽器を奉納演奏するので『時間がかかり、忙しいのだ』とぼやいている。お子さんに『お父さんはアヤシすぎる』と言われるそうだ。カバー折り返しに、著者近影の全身写真が載っている。カメラを意識してやや硬くなっているポーズがチャーミング。しばし見惚れた。『スピリチュアル・パワー』がメディアで安易にもてはやされている当節、鎌田の仕事は貴重である。彼のユーモアを大切にする柔らかなセンスに注目したい」

わたしは、この文章を読んで本当に嬉しくて仕方がありませんでした。

わが義兄弟のことを日本を代表する名優がこれほど高く評価してくれたのですから。

また、著者の鎌田氏に対する分析はまことに的を得ており、著者の人間を観る目には只ならぬものがあります。ちなみに、この文章が「週刊文春」に掲載されたとき、鎌田氏は大変喜ばれ、わざわざメールで知らせて下さいました。



そして、本書の白眉は、何と言っても映画に関する発言でしょう。

俳優である著者は、こころから映画を愛しており、こんな言葉も綴っています。

「映像の仕事は何といってもロケが楽しい。その土地の情景に囲まれただけでふしぎと役の人物に成れたような気分が生まれ、弾みがつく。風も陽の光も地べたも快い刺戟を与えてくれる。自分を(幾分かは)役に明け渡す、その感じがこたえられない」



次の文章などは、きわめて映画作りというものの本質を衝いているように思います。

「撮影の現場で一番偉いのは監督である。ただ1人、神様の如く偉い。名うての脚本家も優れたカメラマン、俳優も監督にはかなわない。だから業界では各々のチームを『黒澤組』『小津組』と監督の名前を冠にして呼ぶ。『七人の侍組』でも『東京物語組』でもない。われら配下の者はひたすら組の親分に奉仕する。想像力、創造力等々、命以外は全てを監督に捧げる。俳優が自身でいくらいい演技をしたと思ってもそんなことは何程でもない。親分のメガネに適わなければ切り捨てられてしまう。われわれは僕なのだ。一時、スター俳優が大金を投じてプロデュースするのが流行った時期があった。武田泰淳はそれを奴隷の反抗と評している。三島由紀夫の俳優願望は当時悪ふざけの過ぎた奇行と騒がれたが、実は大まじめな奴隷志願だったのである。その三島の意図を泰淳は即座に言い当てている」



「週刊文春」2010年4月1日号に掲載された「小津と笠、黒澤、グルメ」では、著者の知り合いの女性がDVDを持って訪ねてきた話が書かれています。

その30代の女性は小津映画にはまっており、「父ありき」「晩春」「麦秋」「東京物語」などのDVDを持参したとか。彼女は、小津映画で笠智衆、原節子、杉村春子らの登場人物のレトロな言葉遣いが外国語みたいで新鮮で「ひきつけられる」のだそうです。

彼女と一緒に小津映画のDVDを鑑賞した著者は、次のように書いています。

「むろん僕も『晩春』以降の小津作品はぜんぶ見ているが、彼女のように何度も見返すほどの熱心な観客ではなかった。しかし今回は目から鱗、今までぼんやりと見えていたものが突然ピントが合ってくっきりと現れてきた感じ。『!』と前傾姿勢になった。おれはこれまで何をどこを見てたんだ。うかつ、鈍感、脳たりんであった」



何が著者をそこまで思わせたのか? 著者は次のように書いています。

「これは異界から見た現世の風景だ。いや、末期の眼で見た世界だ。

ここに登場する人たちは、お互いさり気なく助け合って生きている。

親子、兄弟、友人、師弟、それぞれが支え合って暮らしている。

そしてそういう人々もやがて時が来て死んでゆく。

そんな人間たちをカメラがいとおしそうに見つめている。小津は楽園を描いているのだ。浮き世に散在する楽園の破片を大切に注意深くピックアップしているのだ。そこにはただただ懐かしく美しい出来事があるばかり。それ以外の醜いものは一切見ない。断固無視する。その無視にめっぽう力がある。被写体との距離のとり方も絶妙。だからいわゆる人情劇特有の湿っぽさがない。代りに若い女が笑い転げるユーモアがある」

うーん、小津映画の本質が「末期の眼で見た世界」だったとは驚きです!

小津映画のほぼ全作品を観たわたしも、まったく気付きませんでした。


著者は、小津安二郎について次のように述べています。

小津安二郎は生涯独身だった。『秋刀魚の味』に『人間は独りぼっちだ』というせりふがある。笠は、『ひとつだけ、先生について口はばったいことを言わせていただきます。/ご結婚なさったほうが良かったんじゃないでしょうか。なんとなく、そう思います』と書いて思い出話を閉じている。2人の深い係わりからの言葉でドラマチック」


また、小津安二郎と並ぶ日本映画最高の巨匠である黒澤明については、「黒澤さんはよく『昔のシャシンを見ると撮り直したくなる』と笑っていた。『その時一生懸命作ったんだからあれでいい』とも言ってたな」と、著者はさらりと触れています。

実際に「天国と地獄」という黒澤映画で世に認められ、その後、日本を代表する名優になった著者の言葉だけに重みがありますね。



著者は、万人が認める最高の「演技力」の持ち主です。

その本人が、「演技」について次のように書いています。

「ときどき『あの映画のあの演技にはどんな狙いがあったのか?』と聞かれることがある。これがほとんど覚えていない。比較的うまくいった演技ほど覚えていない。撮影現場の情況は絶えず動いている。相手役や監督の調子、天候、暖かかったり寒かったり風が吹いたり。その変化する環境に身を任せるよう自分を仕向けるのが僕のモットー。その場に反応して思いがけないアクションが生まれると楽しいし出来もいい(ような気がする)。頭より身体、結果は身体に聞いてくれ、が理想、記憶にないのが僕としてはベストなのだ。それが僕の『自由』、多少脱線したっていいじゃないか。あらかじめのプランは所詮ひ弱なのである。プランにこだわると身体が萎えてしまう」

本書は、ユニークなブックガイドとして、極上の映画論として、また魅力溢れる1人の名優の人生論として、さまざまな読み方ができる好著だと思います。最後に、著者がいつまでもお元気で、1本でも多くの日本映画に出演されることを願っています。


*このブログ記事は、1999本目です。


2012年8月31日 一条真也

『すべては今日から』

一条真也です。

『すべては今日から』児玉清著(新潮社)を読みました。

2011年5月16日に逝去した俳優の児玉清さんの遺稿集です。

児玉さんは大の読書家として知られ、本への熱き想いを綴った著書『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)はわが愛読書でした。

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愛書家俳優の熱き遺稿集!



本書の表紙には穏やかな著者の肖像写真が使われています。

また、帯には次のように書かれています。

「もっと小説を読んで下さい。未来を築くために――」

「面白本を溺愛し、爽快に生きた“情熱紳士”が精魂込めて書き続けた日本人へのメッセージ!」「一周忌に贈る熱き遺稿集」

本書は、「本があるから生きてきた」「面白本、丸かじり」「忘れえぬ時、忘れえぬ人」「日本、そして日本人へ」という4つの章から構成されています。

また、巻末には息子さんである元タレントの北川大祐さんによる「父・児玉清と本――あとがきにかえて」が掲載されています。



本書には、基本的に児玉さんが読んで面白いと感じた本が紹介されています。

ミステリーが大好きで、英語の原書でも読んでいたほどの児玉さんだけに、紹介されている本はどれも魅力的に描かれています。

でも、やっぱりミステリーなので、ネタバレを避けるためにストーリーの核心部分には触れられておらず、その本当の面白さを知るには実際に読んでみるしかありません。

また本書には、児玉さんの本にまつわるさまざまな思い出が綴られていますが、中でも「本が産み出した家族の団欒」というエッセイが心に残りました。

著者が無理の本好きになったのは小学4年生のときで、教室で隣の席の男の子が「これ目茶面白いぞ!!」と言って、1冊の講談本を貸してくれたのがきっかけでした。

タイトルは『雷電為右衛門』。江戸時代に実在した最強の力士の物語です。

雷電の無敵とも言える強さと愛嬌溢れる人物像のもたらす面白痛快物語に夢中になってしまい、著者はいっぺんに本の虜にされてしまいました。

しかし、本当に嬉しかったのはその先で、著者は次のように書いています。

「それまでは、優しく温かい目で僕を見守ってくれていた父ではあったが、息子の僕との間には対話といったものがほとんどなかった。しかし、僕が読んでいる講談本を父が見た瞬間から、がらっと雰囲気が変ってしまった。実は父は無類の講談好きで、近所の寄席の高座などを聞きに行く常連客の1人だったのだ。

さぁ、それからは一気に父との会話が弾んだ」



雷電をきっかけに、千葉周作柳生十兵衛塚原卜伝などの剣豪物語を読み進むようになった著者は、父に質問を浴びせ、物語に登場する剣の達人をめぐって毎晩のように熱い議論を交すようになったそうです。晩御飯は父と息子の楽しい会話の時間となり、いつしか母と姉も話に加わるようになりました。1冊の講談本がきっかけで、著者の家の食卓は楽しく賑やかな一家団欒の場所へと変わったのでした。

著者は、このエッセイの最後で次のように書いています。

「そんな中で僕が一番感動したのは、父の本棚から自由に本を取り出して読んでいいという許可を貰えたことだった。時代小説を含めて書物好きだった父の本棚から、吉川英治の『神州天馬俠』や『宮本武蔵』、江戸川乱歩の『一寸法師』それに林不忘の『丹下左膳』などなど、本を通じて話ができることで、なにか男同士共通の秘密を分かち合えたような、一気に大人の男の仲間入りができたような誇らしい気持で胸が大きくふくらんだことが忘れられない。今は父との遠い思い出となってしまったが、佐々木小次郎の秘剣≪つばめ返し≫を父が木刀で、多分こうじゃないか、と僕に見せてくれたときの興奮、そのときの母の楽しそうな笑顔は僕の心の財産なのだ」

わたしは「本」と「家族」をめぐる、これほど幸せな文章を他に知りません。



そんな少年時代を経て、「本の虫」となった著者ですが、本書には息子さんの北川大祐さんとの本をめぐる心の交流も描かれています。

「父・児玉清と本――あとがきにかえて」で、北川さんは次のように書いています。

「僕自身は父のような読書家ではなく、子どもの頃に父から『本を読め』と言われた記憶もない。中学の頃に赤川次郎さんの本を読んで父に話したところ、『おまえが1冊読み終えたのか』と感動されたことだけはよく覚えている。大学生の頃からS・シェルダンなど海外の作家の作品も読み始めた僕は、やがて父の書棚からT・クランシー、P・コーンウェル、C・カッスラーといった作家たちの本を借りて読むようになり、父に『どうだった?』と聞かれるので感想を告げる。時折、そんな機会ができるようになった。ある意味で本は僕と父のコミュニケーションの道具になってくれていたのかもしれない」

この文章を読んで、わたしは自分のことをいろいろと思い出しました。

わたしの父も大の読書家でしたが、わたしが中学生くらいのときに『論語』の素晴らしさを教えてくれ、本居宣長平田篤胤柳田國男折口信夫南方熊楠といった人々の全集の前で、その偉大な業績について語ってくれたことを思い出したのです。

その後も、父とわたしの間では、いつも本はコミュニケーションの道具であり、考え方を伝授するテキストであったように思います。



本書で初めて発見したのは、著者の思想家としての顔です。

生前から保守的な考え方の持ち主として知られていたそうですが、第4章の「日本、そして日本人へ」に書かれた数々のメッセージには感銘を受けました。

「日本経済新聞」の夕刊に掲載されたコラムがもとになっていますが、そこには「日本人」としてのあるべき姿が説かれています。

たとえば、「マナーという言葉が眩い」では、次のように書いています。

「けたたましい若い女性の笑い声とともに仲間と思われる3、4人の男女の大笑いがどっと重なった。僕はそのあまりの凄まじさに思わず耳を両手でふさいだ。ある列車内でのことであったが、次から次へとゲタゲタ笑いと突拍子もない嬌声が続いた。

そのたびにこちらも耳をふさぐうちに、次第に腹も立ってきた。

なぜ彼らは近くに他人が沢山いることを気にしないのだろうか。

仲間同士はどんなに楽しいかもしれないが、事実、だから大笑いで笑っているのだろうが、あまりに事もなげなのだ。つまり傍若無人なのだ。

そういえば、こうしたことは最近ひんぱんに身近で見かけるのだ。

手をバシバシ叩きながら大仰に笑い、いかに面白いかを仲間たちに強調している若い男女のグループをいろんなところで見かけるのだ。心底楽しんでるんだから、といってしまえばそれまでだが、あまりにも慎みがない。他人の存在などてんから考えてないとしか思えないのだ。マナーという言葉が眩い」



「TPOはどこに」というコラムでは、服装について次のように書いています。

「異和感といえば、この夏、ある公共団体主催の表彰式に参列したときのことであった。表彰される者たちも、招かれた客たちもほとんど全員がネクタイ姿であるのに、表彰する側は皆クールビズということでノーネクタイであったことだ。

省エネのためのクールビズを徹底しようという、その心構えはわかるのだが、世にいうTPOではないが、社会の慣例として招かれた側が礼を重んじているのだから、表彰式という晴れの舞台であれば、贈る側のマナーとしてネクタイをつける洒落っ気もあってもなあ、とふと思ったのだ」



「我関せず人間」というコラムの冒頭では、次のように書いています。

「最近、車で走っていて気になることのひとつに、方向指示の明かりを点滅させないで、つまり右折か、左折かの信号を全然出さないで曲がる車が増えていることがある。その心を考えるに、それはおそらく≪どっちに曲がるかは、俺が、いや私がわかっているんだから、それでいいじゃないか≫ということなのだろう。ここで今さらいうまでもなく、方向指示の信号を出すのは自分のためではなく他の車に曲がる方向を教えることにある」



そして、このコラムの最後を次の文章で締めくくっています。

「ことは車に限らず、駅や空港や人の集る所、至る所で周りを気にしない我関せず人間が蔓延しつつある。改札口の手前で立ち話や挨拶をしていて、また空港の出口でツアー客に説明していて、人の流れを妨害しているのに、いささかも気付かない人。ちょっとした周囲への気配りさえあればなあ、と折にふれ考えてしまうのは、年寄りの小言幸兵衛的愚痴なのだろうか」



「髭剃りと幼児」の冒頭では、次のように書いています。

「国内線の早朝便でのことであった。着陸態勢に入った機内で突如ジョリジョリと髭を剃る電気カミソリの音が大きく響いた。僕は不快な音のする後の席を思わず振り返った。そこには無邪気に髭を剃っている中年の男性がいた。僕は耳を手でふさぎたくなる気持を押さえて、顔を元の位置に戻しながら≪せめてトイレへ行って髭を剃ってくださいよ≫と独り言ちた」

髭を剃っている自分は爽快かもしれません。しかし、他人の髭を剃る音は決して心地良いものではありません。他人のことを配慮しないデリカシーの無さも問題ですが、何よりも機内は公共の場であり、マナーの問題なのです。



続いて、「髭剃りと幼児」には次のようにも書かれています。 

「つい先だっても、東京へ帰る最終便の機内で、考えさせられる事態に遭遇した。2歳ぐらいの女の子を連れた30代前半と思える若き夫婦が、甲高い奇声を発ししゃべり続け、ときには歌も唄い出す娘に、≪静かにしなさい≫と制止しないのだ。いや、小さな声で何か父親が言っているのだが、制止どころかそれは恰も、自分たちの大事な宝物が喜んで話しているのだから、あなたがたも聞いてくださいね、といった感じなのだ。突拍子もない高い声が絶え間なく続く機内。一度気になり出したら、もうたまらない。しかし誰もそれを止める者がいない」



好感度の高いタレントが、全国紙に堂々とここまで発言するとは凄い!

「マナー」や「モラル」の問題はわたしの専門の1つでもありますが、著者の見識の高さと正義感の強さには心から感服します。

著者は世の中の無礼者に対して、ただ愚痴をつぶやいていただけではありません。

息子の北川大祐さんによれば、「ルールを守らないこと、礼儀やマナーに反することを何より嫌った父は、許せない態度に出会うと相手構わず喧嘩をしたり、容赦ない言葉を投げつけたりもした」そうです。うーん、児玉清さん、凄すぎる! 

そして、あまりにもカッコ良すぎる! 

じつは、わたし自身も何度かそんな経験をしています。

それだけに、児玉さんの益荒男ぶりが目に浮かぶようです。



「読書」と「常識」。これが本書の二大テーマであると言ってもよいでしょう。一見あまり関係がなさそうな2つのテーマですが、「詐欺」というコラムで見事に結びつきます。

振り込め詐欺の被害者が絶えない現状に対して、著者は次のように書いています。

「騙された方々には同情を禁じ得ないが、どうして、こうも簡単に騙されてしまうのかという不思議さも大きい。巧妙な手口を考案する悪辣な騙し屋の増殖する日本に危機感を抱き、猛烈に腹が立つのはもちろんだが、それにしても、ちょっとした大人の智恵があれば、相手のレトリックの疑わしさや齟齬に気付くはずだと考えてしまうのは酷だろうか」



そして、この「詐欺」というコラムの最後に、著者は次のように書くのでした。

「事件や事故を解決するために直ぐに金を振り込め、直ぐに儲かるから金を出せ、こうした不自然な話に疑うこともなく乗ってしまう、素朴さというのか幼稚さは一体どこからくるのか。読書離れの激しい国の特徴的傾向と考えてしまうのは僕の偏見であろうか」

これも、なかなか言えるセリフではありません。でも、わたしはまったく同感です。

「すごい、児玉さん、よく言った!」と快哉を叫んだ人は多かったのではないでしょうか。



何よりも読書を愛し、高い道徳性を持った著者は、真の教養人だったと思います。

本当のインテリジェンスは、大量の本を読むだけでは身につきません。

実際に体験し、自分で考えて、初めてその人の教養になるのです。

インテリジェンスには、さまざまなな種類があります。

学者のインテリジェンスもあれば、政治家や経営者のインテリジェンスもある。冒険家のインテリジェンスもあれば、お笑い芸人のインテリジェンスもある。

けっして、インテリジェンスというものは画一的なものではありません。

しかし、すべての人々に必要とされるものこそ、「心のインテリジェンス」であり、より具体的に言えば、「人間関係のインテリジェンス」ではないでしょうか。

つまり、他人に対して気持ち良く挨拶やお辞儀ができる。

相手に思いやりのある言葉をかけ、楽しい会話を持つことができる。これは、「マネジメントとは、つまるところ一般教養のことである」というドラッカーの言葉にも通じます。

マネジメントとは、「人間関係のインテリジェンス」に関わるものだからです。

いくら多くの本を読んだとしても、挨拶ひとつ満足にできない人は教養のない人です。

わたしは、読書という営みは、「人間関係のインテリジェンス」につながるべきだと思います。そして、その達人こそが著者・児玉清さんではなかったでしょうか。



わたしの妻は生前の著者の大ファンで、著者の声が好きと言っていました。

でも、わたしは著者の考え方と生き様が好きです。できることなら、わたしもいつの日か、著者のような「頑固爺さん」もとい「情熱紳士」になりたいと心から憧れています。

著者は「オリンピックおたく」と自称するほど五輪の開催を楽しみにしていたそうです。

2004年のアテネオリンピックでは、念願かなって現地で観戦したそうです。

今年のロンドンでの日本勢の活躍を見せてあげることができなかったのは残念ですが、きっとあちら側で応援していたことでしょう。

それにしても、本書に書かれた名調子がもう読めないとは残念です。

永遠の情熱紳士・児玉清さんの御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


*このブログ記事は、1998本目です。


2012年8月31日 一条真也

『読書の技法』

一条真也です。

『読書の技法』佐藤優著(東洋経済新報社)を読みました。

著者は、「知の怪物」として知られる作家・元外務省主任分析官です。

ブログ『野蛮人の図書室』で紹介した本の著者でもあります。本書には、「誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術『超』入門」という長いサブタイトルがついています。

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熟読術・速読術「超」入門



帯には目玉をギョロッと剥いて腕組みをした著者の上半身の写真があります。

背景には書架が並んでいるので、著者自身の書庫で撮影したと思われます。

「佐藤流 本の読み方 初公開!」というコピーに続き、次の言葉が記されています。

「月平均300冊、多い月は500冊以上」「基本書は3冊買って、真ん中から読め」「1冊5分で読む『超速読』と30分で読む『普通の速読』を使いこなせ」「読書の要『基礎知識』は、高校の教科書と学習参考書で身につけろ」

惜しむらくは、書架に入った本の書名とかぶって帯のコピーが読みにくいこと。

書庫の写真は表紙に使って、帯は文字だけにするとか出来なかったのでしょうか。



ただ、本書の冒頭に掲載された8ページにわたるカラー写真は圧巻です。

「書斎と仕事場」「佐藤流 本の読み方」「佐藤流 ノートの作り方、使い方」などが写真とともに紹介されており、非常に興味深かったです。

著者の蔵書は自宅、自宅近くの仕事場、箱根の仕事場に分かれており、合計4万冊が収められているそうです。いずれの書架もきれいに整理されて並べられています。

収納スペースは、全体で約7万冊分確保しているそうです。これは、うらやましい!

わたしが将来、自分の書庫を作る際の参考にしたいと思います。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「はじめに」

第1部 本はどう読むか

第1章:多読の技法〜筆者はいかにして大量の本を読みこなすようになったか

第2章:熟読の技法〜基本書をどう読みこなすか

第3章:速読の技法〜「超速読」と「普通の速読」

第4章:読書ノートの作り方〜記憶を定着させる抜き書きとコメント

第2部 何を読めばいいか

第5章:教科書と学習参考書を使いこなす〜知識の欠損部分をどう見つけ、補うか

    【世界史】【日本史】【政治】【経済】【国語】【数学】

第6章:小説や漫画の読み方

第3部 本はいつ、どこで読むか

第7章:時間を圧縮する技法〜時間帯と場所を使い分ける

「おわりに」

[特別付録]本書に登場する書籍リスト



第1章「多読の技法〜筆者はいかにして大量の本を読みこなすようになったか」の冒頭で、著者は「佐藤さんは、月に何冊くらいの本を読みますか?」という質問に対して、「献本が月平均100冊近くある。これは1冊の例外もなく、速読で全ページに目を通している。それから新刊本を70〜80冊、古本を120〜130冊くらい買う。これも全部読んでいる」と答えています。この驚異的な著者の読書量は、「熟読」「超速読」「普通の速読」と使い分けた読み方によって可能となっています。

本書のカバーの折り返しに掲載されている読み方の要点を以下に引用します。



佐藤流「熟読」の技法

1.まず本の真ん中くらいのページを読んでみる【第一読】

2.シャーペン(鉛筆)、消しゴム、ノートを用意する【第一読】

3.シャーペンで印をつけながら読む【第一読】

4.本に囲みを作る【第二読】

5.囲みの部分をノートに写す【第二読】

6.結論部分を3回読み、もう一度通読する【第三読】

▼熟読の要諦は、同じ本を3回読むこと

基本書は最低3回読む

  第1回目  線を引きながらの通読

  第2回目  ノートに重要箇所の抜き書き

  第3回目  再度通読

  熟読できる本の数は限られている

  熟読する本を絞り込むために、速読が必要になる



佐藤流「超速読」の技法(1冊5分程度)

1.5分の制約を設け、最初と最後、目次以外はひたすらページをめくる

▼超速読の目的は2つ

 本の仕分作業と本全体の中で当たりをつける



佐藤流「普通の速読」の技法(1冊30分程度)

1.「完璧主義」を捨て、目的意識を明確にする

2.雑誌の場合は、筆者が誰かで判断する

3.定規を当てながら1ページ15秒で読む

4.重要箇所はシャーペンで印をつけ、ポストイットを貼る

5.本の重要部分を1ページ15秒、残りを超速読する

6.大雑把に理解・記憶し、「インデックス」をつけて整理する

▼普通の速読は、新聞の読み方の応用

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わたしなりの「読書の技法」を示しました



本書は、非常に具体的なアドバイスが満載された実践的な読書術の本だと思います。

わたしには、『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)という著書があります。

「万能の読書術」というサブタイトルがつけられた同書の第1部「技術篇」は、まさに、わたしなりの読書の技法について書きました。わたしの読書術は、本書『読書の技法』に書かれた佐藤優氏の読書術と重なる部分が多々ありました。もちろん全部がそうではありませんが、だいたい8割ぐらいは著者の読み方と共通していると思います。



その中でも、わたしが初めて触れた読み方もありました。熟読の技法の最初に紹介されている「まず本の真ん中くらいのページを読んでみる」という部分です。

著者は、何かを勉強するとき、まず基本書を3冊使うことを提唱します。

最初に、この3冊の基本書のどれから読み始めるかを決めなければなりません。

それにはまず、それぞれの本の真ん中くらいのページを開いて読んでみることだとして、著者は次のように述べています。

「なぜ、真ん中くらいのページを開くのかといえば、本の構成として、初めの部分は『つかみ』と言って、どのように読者を引き込むかという工夫を著者と編集者がしており、最終部の結論は、通常、著者が最も述べたいことを書いているので、読みやすいからだ。翻訳書の場合、そのような本自体の構成に加え、真ん中くらいになると緊張が続かなくなり、翻訳が荒れてくることがある。

真ん中くらいというのは、実はその本のいちばん弱い部分なのである。あえて、このいちばん弱い部分をつまみ読みすることによって、その本の水準を知るのである」



また、最終章である第7章「時間を圧縮する技法〜時間帯と場所を使い分ける」の以下のくだりも非常に参考になりました。

「筆者は1日2回、まとまった読書の時間を設けている。13時半〜19時の間の数時間と、24時〜26時だ。合計すると1日約6時間だが、どんなに忙しくても4時間を下回ることはない。少なくとも4時間というのは、自分の中で絶対に守らなければいけない読書のための時間だと考えている。

このときには、現在仕事で必要な本は極力読まないようにしている。本を読んでから、その情報が頭の中で整理されて、きちんと引き出せるようになるためには、一定の時間が必要になる。これには個人差があるが、筆者の場合、だいたい3カ月から6カ月とすると、新しい知識が『発酵』して頭に定着し、自分で運用できるようになる」

これまた、わたし自身と重なる部分が多くて、よく理解できました。



本書の第1部「本はどう読むか」は、『あらゆる本が面白く読める方法』の第1部「技術篇」の内容と重複します。しかし、本書『読書の技法』には第2部「何を読めばいいか」があり、そこで多くの名著が紹介されていますが、『あらゆる本が面白く読める方法』にはそのような読書案内のページがありません。ぜひ今度は、わたしも名著案内の役割を果たすブックガイドを書いてみたいと思います。

本書『読書の技法』は「知の怪物」の秘密を解き明かす好著ですが、わたし自身も大いにインスパイアされました。わたしも以前は著者に負けないほどの大量の本を読んでいた時期もありましたが、ここ最近はブログを書くこと、特に長文の書評ブログを書くことに時間を取られ過ぎてしまい、読む本の冊数がすっかり少なくなってしまいました。

もちろん書評ブログを書くことも大切なのですが、これまでの自分の姿と比べてみると、インプットに対してアウトプットの比重が高くなり過ぎた気がしています。

ブログばかり書いていないで、もっと本を読まなければと強く思いました。


*このブログ記事は、1997本目です。


2012年8月31日 一条真也

2012-08-30

読書コミック

一条真也です。

ブログ「図書館コミック」で、図書館をテーマにしたさまざまなコミックを紹介しましたが、本そのものをテーマにしたコミックも存在します。

わたしは「読書コミック」と呼んでいるのですが、なかなかの名作です。

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運命の本との邂逅を描く傑作漫画


まず、ご紹介したいのは『本棚の神様』深沢かすみ著(集英社)。

帯には「――人生を変えた1冊との邂逅を描く珠玉の読み切り漫画作品集――」と大きく書かれており、続いて「読書ガイドとしても最適!!」「元となった文学作品の解説コラム+BOOKガイド付き」と記されています。

また、カバー裏には次のような内容紹介があります。

「娘を兄に預け歌手の夢を追った母親、ちゃんと理解し合えぬまま姿を消した友人、互いの感情のすれ違いで崩壊寸前の家族・・・・・。さまざまな人生のさまざまな瞬間に訪れる、1冊の本との出会い、ふれあいを描いた漫画作品集」



本書の「目次」は、以下のようになっています。

BOOK  芥川龍之介「杜子春」

BOOK  太宰治「黄金風景」

BOOK  T・ウィリアムズ「ガラスの動物園」

BOOK  野上弥生子「山姥」

BOOK  堀辰雄「風立ちぬ」

BOOK  八木重吉「定本 八木重吉詩集」

BOOK  イプセン「人形の家」

「BOOKガイド」



『本棚の神様』というタイトルから、わたしは最初、図書館の司書か書店員の物語なのかなと思いました。でも、それは勘違いで、この漫画には主人公はいません。それぞれの物語では、さまざまな人物が登場して、さまざまな人生の辛苦を味わい、そしてさまざまな本と出合って生きてきます。

ブログ『論語』ブログ『ネクスト・ソサエティ』にも書きましたが、文学作品ではないにせよ、わたし自身も本との出合いで人生の活路を得たという経験があります。

人生を変えた1冊というのは確かに実在します。もし、「自分には、そんなものは関係ない」と言う人がいたら、その人はまだその1冊に出合っていないだけでしょう。

その運命の1冊に邂逅するために、人は読書を続けるのかもしれません。

本書に収められた7つの物語は、いずれも読む者の胸を打ちます。

なんというか「人間が生きる意味」のようなものを問うているような気さえします。

これほどの名作が現在絶版中というのが本当に残念です。

本を愛するすべての人におススメしたいと思います。

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読書の歓びを繊細華麗に描き出す



続いてご紹介したいのが、『草子ブックガイド』第1巻、玉川重機著(講談社)です。

帯には「青春は、一冊の本からはじまった。」と大きく記され、続いて「読書の歓びを繊細華麗に描き出す幻の漫画家12年ぶりの新作」と書かれています。

アマゾンには、以下のように本書の内容が説明されています。

「内海草子(うつみそうこ)は本を読むのが好きで好きでたまらない中学生。いつも本を読んでいて、本の中の世界にひたっている。内気で、他人と打ち解けるのが苦手な草子にとって、古書・青永遠屋(おとわや)の店主は良き理解者。読んだ本の感想を描いた草子の『ブックガイド』が、店主を喜ばせ、さらには周囲の人々に本を読むことの素晴らしさを伝える。濃密な絵柄で、読書の魅力を最大限に表現する」



どこにも居場所がない草子は、東京の小さな古書店で万引きを繰り返します。

その行為そのものは立派な犯罪行為であり、けっして許されることではありません。

しかし、草子の孤独に気づいていた店主は、彼女の良き理解者となります。

草子は、青永遠屋を通じて出会った本を、ひたむきに読み解きます。そして、その感想をメモに記すことによって、徐々に人々や世の中と結びついていきます。

草子独自の「ブックガイド」は、読んだ本のポイントを繊細にすくいあげ、イメージ豊かに語り尽くします。それも、草子が本の中に登場するキャラクターに毎回なりきるのです。本の登場人物になるきることによって、草子は鮮やかな「読み」を披露します。



この第1巻には、『新約ロビンソン漂流記』『ティファニーで朝食を』『山月記』『名人伝』『山家集』などが登場します。いずれの話もそれぞれ面白いのですが、その中でも特に興味深かったのは、『ティファニーで朝食を』のエピソードです。

草子は、この本でブックトークに挑戦するのです。

ブックトークとは、テーマを1つ決めて、それに関連した本を数冊選び、それぞれの本につながりを持たせながら紹介していく方法です。

語りのうまい司書が話術を駆使して本を紹介していきます。

司書の代わりに、児童や生徒がやることもあります。



このブックトークの場面を読んで、わたしは現在流行中の「ソーシャル・リーディング」の原点であると思いました。「ソーシャル・リーディング」というのは、インターネットなどで多くの人と本の感想などを共有する読書法です。

本好きの人は1人で読書をしますが、それだと寂しくて、普通は何か共感したいという欲求があるものです。ということから、現在はいくつかのソーシャルリーディングサイトがインターネット上に作られています。その原点こそ、本書で草子が行ったブックトークなのです。読書というと、なんだか孤独な行為のように思いがちですが、読書によって他人とつながることもできるのです。本書は、そのことを教えてくれます。

第2巻の刊行が「待ち遠しい」と心の底から思います。


*このブログ記事は、1996本目です。


2012年8月30日 一条真也

図書館コミック

一条真也です。

いま、コミックの世界では「図書館コミック」というジャンルが生まれつつあります。

ブログ『鞄図書館』で紹介したコミックもそうですが、その他にもあります。

その代表作ともいえる名作が、『夜明けの図書館』埜納タオ著(双葉社)です。

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ほんのりあったか、図書館コミックの誕生



帯には「その疑問、新米司書がお手伝いします。」と大きく書かれ、続いて「利用者の調べものをサポートする『レファレンス・サービス』。難問・奇問の裏に隠された真実とは・・・!?」とあります。

そう、本書は市立図書館で働く新米司書・ひなこの物語です。

日々、ひなこは利用者からはいろんな質問を投げかけられます。

それも、「ある写真を探している」「光る影の正体が知りたい」などの難問ばかりでした。

こうした疑問に対し、適切な資料を紹介するのも図書館員の仕事なのです。

ひなこは、迷宮入りしそうな利用者の疑問に敢然と立ち向かっていくのでした。

まさに、新感覚の「ライブラリー・コミック」の誕生と言えるでしょう。



本書には、次の4つのエピソードが収められています。

第1話「記憶の町・わたしの町」

第2話「父の恋文(ラブレター)」

第3話「虹色のひかり・・・」

第4話「今も昔も・・・」



いずれのエピソードも、読者の知的好奇心を刺激し、最後はじんわりと感動させてくれるハート・ウォーミングな話ばかりです。そして、そこには少しのヒントでも見逃さずに、なんとか利用者の力になりたいという主人公ひなこのプロ根性があります。

わたしは、ひなこの情熱に「ホスピタリティ」を強く感じました。

そう、ホスピタリティとはけっしてホテルや飲食業だけのものではありません。

お客様のいる仕事なら、どんな仕事にだって求められるものなのです。

若い女性をはじめ、いろんな仕事に就いている人がいるでしょうが、本書を読めばきっと自分の仕事に前向きになれるのではないでしょうか。



本書のアマゾン・レビューの中に、こんな意見がありました。

「こんなに一生懸命になって、本を探してくれる司書がいたら、本を探してもらった人は、どんなにうれしいと思うだろう・・・。この作者さんの描き出す繊細な絵も、紡ぎだす言葉も、一つ一つの人生も、どれもが美しく、この本が好きになりました。『図書館に行きたいな』そう思ってしまう、暖かい物語でした」

わたしも、このレビュアーの方にまったく同感です。

こんなに読後爽やかな気分になったコミックは久しぶりです。

著者には、ぜひ続編を書いていただきたいと思います。

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「児童書のソムリエ」の物語



次に紹介する図書館コミックは、『図書館の主』1・2巻、篠原ウミハル著(芳文社)。

ある私立の児童図書館に勤める名物司書・御子柴の物語です。

彼は地味なメガネをかけた無愛想な男ですが、仕事は一流です。

図書館を舞台に「児童書のソムリエ」が活躍します。



この漫画には、「うた時計」「宝島」「幸福の王子」「少年探偵団」「ニルスのふしぎな旅」「貝の火」「クリスマス・キャロル」などの児童書が続々と登場します。

どれもが子どもの頃に夢中になって読んだ本ばかりで、とても懐かしかったです。

子どもの頃、本は魔法のじゅうたんでした。本を開けば、どんな場所にだって、どんな時代にだって、自由自在に飛んでいけました。

本書には翔太という少年が登場します。最初は本などに興味を示さなかった翔太ですが、御子柴のすすめで『宝島』を読み始めます。その面白さのとりこになった彼が「なんか全部読んでしまうのがもったいねーんだよなー」と言う場面があります。

その言葉、涙が出るほど、よくわかりますね。

でも、御子柴は「安心しろ」とひとこと言います。

そして、「『宝島』を読み終わったら、また新しい本を借りに来ればいい。ここには、こんなにお前を待ってる本があるんだ」と言うのです。いやあ、素晴らしいセリフですね。



本書の主人公である御子柴は「児童書のソムリエ」ですが、じつはわたしも「本のソムリエ」と呼ばれることがあります。というのも、新聞や雑誌で「ハートフル・ブックス」および「一条真也の読書塾」といった読書案内を連載しているからです。

これまで、じつに多種多様な本を毎月紹介してきました。時々、北九州の飲食店をはじめ、理髪店とか立体駐車場などに行くと、「この前紹介されていた本を読みました。とても面白かったです!」などと言われることがあるのですが、本当に嬉しいですね。その方の心の養分をプレゼントしたような気分になってきます。



もちろん、わたしが紹介する本の中には児童書も含まれています。

児童書といえば「童話」が思い浮かびますが、わたしには『涙は世界で一番小さな海』(三五館)という著書があります。この本では、アンデルセンの「人魚姫」「マッチ売りの少女」、メーテルリンクの「青い鳥」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、そしてサン=テグジュぺリの「星の王子さま」といった童話の読み方について書きました。

まだ読まれていない方は、どうぞ御一読下さい。

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世界で最初の本を読みたい



最後に紹介したいのが、『永遠図書館』1・2巻、赤星治人著(講談社)です。

ちょっと絵柄が萌え系で、正直言って、わたしの趣味ではありません。

しかし、「図書館」がテーマということで読んでみた次第です。第1巻の帯には「世界で最初の本を読みたい。」と大きく書かれ、「少女は幼い頃からの願いを胸に、『永遠図書館』の白道司書(ベルベット)を目指す」と続きます。



アマゾンでは、第1巻の内容を次のように説明しています。

「『宇』とは空。『宙』とは時。そこは宇と宙の狭間に在るコネプルシア図書館。そこには全宇宙の歴史と英知が集まるが故に、通称『永遠図書館』と呼ばれています。そして、本が大好きな少女メシェは、幼い頃からの憧れだったその図書館の『白道司書<ベルベット>』を目指しています。いつか、『世界で最初の本』を読む日を夢見て──」

また、第2巻の内容は次のように説明されています。

「全宇宙の歴史と英知が集まるが故に『永遠図書館』とも呼ばれるコネプルシア図書館。その禁断の中央書庫塔の深奥にあるという『世界で最初の本』を 読む夢を抱く白道司書<ベルベット>メシェは、未だ見習いの身。そんな彼女に、白道司書<ベルベット>として独り立ちできるか否かを決する試練の 時が訪れようとしていました──」



まず、『永遠図書館』というタイトルが素晴らしいですね。

わたしの敬愛する作家であるボルヘスの『バベルの図書館』を連想させます。

また、本書のストーリー自体もボルヘスの世界を彷彿とさせる神話とファンタジーの融合のような幻想的な物語になっています。あまりにも超現実的な世界を描いていて、舞台は図書館というイメージを超越してしまっています。

まるで「図書館星」とでも呼ぶべき惑星の歴史を読んでいるようです。

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前代未聞! ワンダーランドのカタログ



わたしの監修書に『よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典』(廣済堂文庫)という本があるのですが、その本の中に紹介したいような図書館でした。

もともと、本とは「ここではないどこか」に連れていってくれる魔法のじゅうたんであり、その本が集まった図書館とはワンダーランドに他なりませんが、本書のようにここまで図書館という場所をファンタジーにしてしまったのは凄いと思います。


*このブログ記事は、1995本目です。


2012年8月30日 一条真也

2012-08-29

『鞄 図書館』

一条真也です。

『鞄図書館』第1巻、芳崎せいむ著(東京創元社)を読みました。

ブログ『金魚屋古書店』シリーズで紹介したコミックと同じ作者による作品です。

主役は、あらゆる書物を所蔵するという、幻の「鞄図書館〉」です。

不思議な鞄と司書の2人が世界を巡り、出会った人々と温かな交流を繰り広げます。

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あらゆる本を揃えるという、幻の「鞄図書館」



現在、コミックの世界には「図書館もの」というジャンルがあるようで、本書をはじめとして、『夜明けの図書館』とか『図書館の主』とか『永遠図書館』といった作品がよく読まれているようです。大の本好きであるわたしは、もちろん図書館も大好きですので、こういったジャンルが育ってくれることは何とも嬉しい限りです。でも、本書『鞄図書館』は単なる図書館ものというよりも、摩訶不思議なファンタジーの部類に入るでしょう。

なにしろ、ひとつの鞄の中が途轍もなく広い空間になっていて、その中に、この世のありとあらゆる本がすべて納まっているという話なのですから・・・・・。



本書の帯には「出会いと知識を詰め込んだ、不思議な鞄の物語。」と大きく書かれ、「あらゆる本を揃えるという、幻の『鞄図書館』。あなたのお探しの本も、ここにあるかもしれません・・・・・」と続きます。鞄図書館の司書を務めるおじさんは、世界中いや、あるときは異世界にまでも足を延ばして本を貸し出します。

貸与期間は1年間で、そこにさまざまなハートフルなドラマが展開していきます。

それぞれのエピソードは約10ページ前後と短いですが、どれも内容が濃いです。

そして、登場する本たちのラインナップの渋いこと!



名作絵本の『ぐりとぐら』にはじまって、英国人エドワード・ウエバリーを主人公とする歴史小説『Waverley』、谷川俊太郎訳の『マザー・グース』。

アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』、ダシール・ハメットの『血の収穫』。

ラヴクラフトの『ネクノロミコン』、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』、大阪圭吉の『とむらい機関車』、日本聖書協会の『聖書』、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』。

レイ・ブラッドベリの『10月はたそがれの国』と『スは宇宙(スペース)のス』。

本書の版元が東京創元社で、もともとが同社のミステリ専門誌である「ミステリーズ!」に掲載されていたためでしょうか、創元推理文庫とか創元SF文庫が多いのが目につきますね。でも、それぞれの本たちはじつに魅力的に描かれ、なんだか読みたくなってきます。また、鞄はことあるごとにゲーテの言葉を持ち出しますが、これも味わいがありました。本好きには、たまらない短編集でした。早く、第2巻が読みたいです。


*このブログ記事は、1992本目です。


2012年8月29日 一条真也

『金魚屋古書店』シリーズ

一条真也です。

『金魚屋古書店出納帳』上・下巻、芳崎せいむ著(小学館)を再読しました。

知る人ぞ知る「漫画」がテーマの「漫画」です。

現在も月刊「IKKI」に連載中の「金魚屋古書店」が有名ですが、本書はその前に発表された、いわば序論であり、前奏曲です。こちらを先に読んだほうが登場人物の関係などが理解できて、「金魚屋古書店」のほうも楽しめます。

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登場するのはすべて実在の漫画



巨大な地下倉庫を持ち、「ないものはない」ほどの品揃えを誇る、伝説の漫画古書店の物語です。石森(石ノ森ではありません)章太郎の『サイボーグ009』にはじまって、水木しげるの『河童の三平』、手塚治虫の『キャプテンKen』、大城のぼるの『火星探検』、さいとうたかおの『ゴルゴ13』、あだち充の『タッチ』、田淵由美子の『フランス窓便り』・・・・・とにかく、実在する漫画作品が続々と登場します。

さまざまな漫画を中心にして、人々の心の交流が描かれます。

共通しているのは、けっして漫画の内容そのものには入っていかないこと。

あくまで、漫画は人間たちの繰り広げるドラマの脇役なのです。

これが続編の「金魚屋古書店」になると、漫画のほうが前面に出てくる感じで、ウンチクも多くなります。こちらの「金魚屋古書店」のほうはあくまで人間が主役なので、漫画に詳しくない人でも安心して読めます。



本書の下巻には、2つの漫画の神様の記念館が紹介されています。兵庫県宝塚市にある「手塚治虫記念館」と鳥取県境港市にある「水木しげる記念館」です。

この両記念館は、わたしも訪れました。考えてみると、わたしも結構な漫画好きかもしれませんね。本書に収録された作品の中では、個人的に、『火星探検』の登場する第6話「さらば火星よ」が一番好きです。また、『タッチ』をめぐって初恋が展開される第8話「青い空、白いボール」にはちょっと胸がキュンとしました。

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実在の漫画を素材にした古書店物語。



さて、『金魚屋古書店出納帳』の続編が、『金魚屋古書店』第1〜13巻、芳崎せいむ著(小学館)です。さまざまな漫画を取り巻く一話読みきりの作品が揃っています。

『金魚屋古書店出納帳』に比べると、一話の長さは短くなっています。

そのため、人間ドラマを描く余裕がなくなって、漫画のほうが主役になってきた感があります。金魚屋で働く人々やその周囲の人々のキャラクターは魅力的なのに、ちょっともったいない気がしました。それと、どんな人間ドラマでも強引に取り上げている漫画のテーマに合わせようとしている作品がいくつか目につきました。

もちろん、「漫画」をテーマにした漫画というアイデアは素晴らしいのですが、毎回そのテーマで感動させようというのは無理があるように思います。

1巻から13巻までを続けて読むと、ちょっと飽きてきます。



ただ、作者の漫画に対する愛情と知識には感服します。

わたしも、なつかしい漫画にたくさん再会することができました。

第1巻に出てくる『もーれつア太郎』(赤塚不二夫)、第2巻の『アドルフに告ぐ』(手塚治虫)、『宮澤賢治・漫画館』(手塚治虫ほか)、『銀河鉄道999』(松本零士)、第3巻の「楳図かずお」作品、第4巻の『デビルマン』(永井豪)、『怪奇ロマン傑作選』(わたなべまさこ)、第5巻の『あしたのジョー』(高森朝雄作・ちばてつや画)、第8巻の『ぼのぼの』(いがらしみきお)、『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)、第12巻の『キャプテン』(ちばあきお)、『ミステリアン』(西岸良平)、『MMR マガジンミステリー調査班』(石垣ゆうき)、そして第13巻の『MASTERキートン』(浦沢直樹)などが登場したときには感激しました。それぞれの作品に思い出がたくさん詰まっていることを確認しました。

思えば、わたしも、これまでに多くの漫画を読んできたものです。



本書では、実在する漫画をもとにストーリーが進んでいきます。

ですので、自分の思い出の漫画が登場すれば、間違いなく楽しめるでしょう。

でも、これまで漫画をあまり読んでこなかった人にとっては、面白くないかもしれません。そう、本書は徹頭徹尾、「漫画」の漫画なのです。各巻の終わりには、登場した漫画作品についてのウンチクが書かれており、これも漫画好きにはたまりません。


*このブログ記事は、1991本目です。


2012年8月29日 一条真也

2012-08-28

『テレキネシス』

一条真也です。

テレキネシス』全4巻、東周斎雅楽作、芳崎せいむ画(小学館)を読みました。

「山手テレビキネマ室」というサブタイトルがついていますが、山手テレビというテレビ局で「金曜深夜テレビキネマ館」という番組を作る人々の物語で、古今東西のさまざまな映画の名作が紹介されています。

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山手テレビキネマ室



関東最大の民放局である山手テレビの裏側には、昭和30年代に建てられた旧社屋があります。その古いビルの地下には、「テレキネシス」と名づけられた小さな映写室があります。この作品は、そのテレキネシスの番人である山手テレビの超問題社員・東崋山と、正義感いっぱいの新入社員・野村真希乃が繰り広げる「映画」をめぐる物語です。

グータラ社員と真摯な若手女子社員のコンビは、同じ小学館の人気漫画である『美味しんぼ』を連想させますね。



ハリウッドの伝説的映画監督であるエリア・カザンにちなんだ名前を持つ華山は、かつてはヒット・ドラマを連発する名物プロデューサーでした。

しかし、ある不祥事をきっかけに深夜の映画番組担当という閑職に回されます。

ところが、崋山がセレクトして放映する「金曜深夜テレビキネマ館」は、観ると元気になれるという不思議な番組でカルト的な人気を誇っていました。

テレキネシスでは、基本的に古い名画が上演されます。CGを駆使した最近の映画に押されて埋もれつつある昔の映画を思い起こさせてくれます。そして、古き良き時代の精神を現代人たちに教えてくれる作品ばかりです。これまで古い映画を見なかった新入社員マキノも、徐々に映画の力に魅了されていくのでした。


最初に、紹介されるのが「風と共に去りぬ」です。主人公スカーレットがすべてを失うという大作ですが、これを会社にも妻にも見捨てられた同僚に見せるのです。

その同僚は、「何もかも失った人間が観るのに、これ以上の映画はなかったよ」とつぶやき、「ありがとう! スカーレットを観ていたら、とにかく根拠のない勇気が湧いてきた!」と他局に移って新しい人生を始めることを決心するのです。

小学3年生とのときにテレビの「水曜ロードショー」で観て以来、この「風と共に去りぬ」はわたしが一番好きな映画なので、最初に登場して嬉しかったです。



さて、謎が多い華山ですが、彼が山手テレビに入社したのには理由がありました。

彼の亡くなった父親は、映画監督でした。生前最後の作品のフィルムは行方不明とされていましたが、華山は山手テレビにフィルムが隠されていると推測するのです。

この漫画では、ずっと古い名作映画の紹介が続きますが、3巻の途中ぐらいから崋山の父親が遺した幻の映画フィルムをめぐって物語が大きく動きます。

3巻の後半から4巻のラストまでは息をもつかせぬ物語の展開があり、そこに名画の紹介もしっかり絡ませて、見事な構成でした。

この漫画の画を担当した芳崎せいむには、『金魚屋古書店』という作品があります。

漫画専門古書店の店員が、悩みを持った人に対して、その人にふさわしい漫画を紹介し、生きる活力を与えるという話の短編集です。

この『テレキネシス』はまさに『金魚屋古書店』の映画版で、仕事や人間関係で困難にぶつかった人が崋山おススメの映画をみて活路を見出すのです。


最初に登場する映画は「風と共に去りぬ」でしたが、最後に登場する映画は「オズの魔法使い」でした。亡くなった崋山の父親の遺作は、この名作ミュジージカル映画へのオマージュだったのです。この「オズの魔法使い」もわたしの大好きな映画です。

思えば、この映画を観てから、わたしはファンタジーの世界に魅せられたのでした。

主演のジュディ・ガーランドが歌う「虹の彼方へ」も素晴らしい名曲でした。

後に、あれは実際に彼女が歌ってはいなかったと知りましたが、そんなことは関係なく、「虹の彼方へ」は、今でもわたしにとって最高の「こころの歌」です。



それにしても「風と共に去りぬ」で始まり、「オズの魔法使い」で終わるというところが泣かせます。幼いわたしに「愛」と「夢」の素晴らしさを教えてくれたこの二大名画は、ともに1939年に公開されています。

そう、この二作は同じ年のアカデミー賞を競ったのでした。

さらに、1939年にはアメリカ映画最大の名匠ジョン・フォードの西部劇の最高傑作「駅馬車」までも公開されています。まさに「奇跡の1939年」ですが、日本との開戦直前にこのような凄い名画を同時に作ったアメリカの国力には呆然とするばかりです。わたしは、アメリカという国があまり好きではないのですが、ハリウッドから多くの名画を日本にプレゼントしてくれたことだけは感謝すべきであると思います。

最後に、この『テレキネシス』には「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使い」といった超有名な作品ばかり紹介されているわけではありません。

あまり知られていない名作や、わたしが未見の作品も多数ありました。それぞれの作品には、詳細な解説コラムもついており、本書は映画ガイドとしても大いに使えます。



いま、わたしの目の前の4冊のコミック本には、大量のポストイットが貼られています。

これからDVDを注文して観賞したいと思っている映画たちのコラムのページです。

「エルマー・ガントリー」「大いなる勇者」「アスファルト・ジャングル」「ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦」「ミスタア・ロバーツ」「砂漠の戦場 エル・アラメン」「パットン大戦車軍団」「シェナンドー河」「俺たちは天使じゃない」・・・・・これらの映画を観れば、だいたい本書に登場するすべての作品はカバーできると思います。

もちろん、わたしが未見の映画で、DVDも発売されていない作品もありますが。

それらの作品は、「縁」があれば、ぜひ観賞したいものです。それにしても、これから観るべき多くの映画が残されているなんて、なんて幸せなことでしょうか!



本書には、名画の紹介だけでなく、心に残る名セリフもありました。

第3巻の「シェナンドー河」のエピソードで、崋山がマキノに「何のために映画はあるのか」という本質論を語る場面があります。

そこで崋山は、「映画はな、現実に潜むドラマを見逃すな! 感動を見逃すな! そのための仮想現実として、感受性を磨く道具なんだって今は思ってる」と語ります。

そして、それ以上の意義が映画にはあるとして、「涙」という言葉をつぶやきます。

「涙?」と不思議そうに問い返すマキノに対して、崋山は言います。

「不幸じゃないのに、なぜか悲しい夢を見て、号泣して目が覚めたことってないか?」

「あるある、あります! なのに、どういう夢を見たか忘れていたり・・・・・そのくせ妙にさわやかな感じがしたり・・・・・」と言うマキノ。「大地に雨が必要なように、人には定期的に涙が必要なんじゃないかなあ」と言う崋山。

そして、「定期的に泣くこと?」と問うマキノに、崋山は「きっと映画は、実際の人生でなかなか泣けない人のために存在しているんだよ」と語るのでした。

わたしは、この崋山のセリフを読んで、なぜ自分が忙しい時間をやり繰りしてまで映画を観続けているのか、その理由がわかったような気がしました。

たしかに、暗い映画館で、さまざまな映画を観て、わたしは涙を流しています。

映画館の闇は、その涙を隠してくれるためにあるのかもしれません。そして、映画で他人の人生を仮想体験して涙を流した後は、心が洗われたようになるのです。

涙は世界で一番小さな海』(三五館)に書いたように、わたしは人間にとっての涙の意味を考え続けてきましたので、崋山の「きっと映画は、実際の人生でなかなか泣けない人のために存在しているんだよ」というセリフはとても納得できました。



もう1つ、本書で心に残ったセリフがあります。

第4巻の「ジキル博士とハイド氏」というエピソードに出てきます。ドラマの売れっ子プロデューサーだった崋山が、ある俳優を重要な役で起用しようとします。

しかし、その俳優は小劇団で悪役を演じるだけの無名な人物で、しかも重病を抱えていて、余命いくばくもありませんでした。

その俳優の実力を見抜いていた崋山は、テレビに出演するように説得します。

体調を理由に断る俳優に崋山は、こう言うのでした。

「オレの仕事はドラマです。いいドラマを作って、テレビの向こう側の何万人もの視聴者を感動させることです。でも、もう1つ使命がある! ドキュメンタリーです」

「ドキュメンタリー?」と聞き返す俳優に対して、崋山は言います。

「すごい役者達を記録する。記録して視聴者の記憶に残す! オレはあんたのために出演をお願いしてるんじゃない! オレ自身のためです!」

この言葉に心を打たれた俳優は結局、崋山のテレビ・ドラマに出演を果たすのですが、わたしも感動しました。

ブログ「ヘルタースケルター」で、わたしは次のように書きました。

「この作品は、映画というよりも人類の『美』の記録映像としての価値があるとさえ思いました。沢尻エリカの人生には今後さまざまな試練が待っているとは思いますが、こんなに綺麗な姿をフィルムに残せたのですから、『これで良し』としなければなりませんね」

この言葉は、崋山のセリフから影響を受けたことを告白しておきます。

このようなセリフを崋山に吐かせた原作者の東周斎雅楽氏は、心の底から映画やドラマを愛しているのでしょう。


*このブログ記事は、1990本目です。


2012年8月28日 一条真也

『映画は父を殺すためにある』

一条真也です。

『映画は父を殺すためにある』島田裕巳著(ちくま文庫)を読みました。

これまで、このブログで著者の本を何冊か紹介してきました。正直言って批判した本もありましたが、本書はまことに読み応えのある好著でした。

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通過儀礼という見方



サブタイトルは「通過儀礼という見方」で、帯には「ローマで王女は何を知った? 寅さんは、実は漱石だった?」と書かれています。

またカバー裏には、次のような内容紹介があります。

「映画には見方がある。“通過儀礼”という宗教学の概念で映画を分析することで、隠されたメッセージを読み取ることができる。日本とアメリカの青春映画の比較、宮崎映画の批判、アメリカ映画が繰り返し描く父と息子との関係、黒沢映画と小津映画の新しい見方、寅さんと漱石の意外な共通点を明らかにする。映画は、人生の意味を解釈する枠組みを示してくれる」



本書の「目次」は、以下のようになっています。

「予告編」

1.『ローマの休日』が教えてくれる映画の見方

2.同じ鉄橋は二度渡れない――『スタンド・バイ・ミー』と『櫻の園』

3.『魔女の宅急便』のジジはなぜことばを失ったままなのか?

4.アメリカ映画は父殺しを描く

5.黒澤映画と小津映画のもう一つの見方

6.寅さんが教えてくれる日本的通過儀礼

「総集編」

「文庫版あとがき」

「掲載映画一覧」

解説「僕の通過儀礼、そして再会」(町山智浩



本書で、著者は映画のテーマとは通過儀礼に他ならないと主張します。

「通過儀礼」という概念は、ブログ『通過儀礼』で紹介したアルノルド・ヴァン・ジェネップによって使われました。同書は、1909年にパリで書かれた儀礼研究の古典的名著です。誕生、成人式、結婚、葬式などの通過儀礼は、あらゆる民族に見られます。

ジェネップは、さまざまな儀式の膨大な資料を基にして、儀礼の本質を「分離」「移行」「合体」の体系的概念に整理しました。そして、儀礼とは「時間と空間を結ぶ人間認識」であると位置づけ、人間のもつ宇宙観を見事に示しています。


本書の著者である島田裕巳氏は、ジェネップの『通過儀礼』の理論を紹介しつつ、第1章「『ローマの休日』が教えてくれる映画の見方」で、次のように述べます。

「映画の重要なテーマが通過儀礼を描くことにあるとするなら、映画はじゅうぶんに宗教学の研究の対象となるはずだ。あるいは、宗教学の観点に立つことによって、映画のテーマやおもしろさがよりよく理解されてくるのではないだろうか。さらに、映画は通過儀礼が僕たちにとってどういう意味を持っているかを教えてくれるのではないか」

ちなみに本書は、1995年に刊行された『ローマで王女が知ったこと――映画が描く通過儀礼』(筑摩書房)を加筆修正して文庫化したものです。


本書で取り上げられている『ローマの休日』とか『スタンド・バイ・ミー』が通過儀礼の物語であることは著者に指摘されなくても理解できますが、興味深かったのは日本映画についての著者の見方でした。通過儀礼とは、試練を乗り越えて成長していく物語でもあります。第5章「黒澤映画と小津映画のもう一つの見方」で、著者は黒澤明が通過儀礼の試練を「水」として表現したとして、次のように述べています。

「黒澤映画の登場人物たちは、つねに自分の前に立ちはだかる、水とかかわるものと戦っている。彼らにとって、水との戦いが試練としての意味を持っている。三四郎は、自らの心の迷いを象徴する蓮池から自力で飛び出してこなければならなかった。『羅生門』の登場人物たちは、激しい雨によって視界がさえぎられたような戦乱の世の中で、真実を見いだしていかなければならなかった。『酔いどれ天使』の真田や松永たちも、彼らの行く手をはばむ水、この場合にはメタンの泡立つ汚れた沼からぬけだしていかなければならなかった。雨のなかの合戦のシーンは、『七人の侍』が世界の映画史上はじめてのこととされるが、黒澤がそういった新奇なアイデアを思いついたのも、彼の映画において、雨が試練に直結していたからにほかならない」



黒澤映画と水の関係については、ブログ『「百科全書」と世界図絵』で紹介した本にも登場しました。さらに、黒澤映画について、著者は次のように述べています。

「黒澤は、アメリカ映画とはことなり、あまり家庭を描くことはなかった。そのため、父親と息子との葛藤がテーマとなることはまれで、例外はシェークスピアの『リア王』を土台にした『乱』くらいである。この映画にしても、中心は父親の方で、その狂気が描かれるが、息子たちはひ弱な人物としてしか描かれていなかった。

したがって、黒澤映画の主人公は、父親というのりこえるべき明確な目標を持ちえなかった。むしろ、彼らは社会の退廃や人間の心の弱さといったとらえどころのない抽象的な敵を相手に戦っていた。そこで黒澤は、そういった姿の見えない敵を水として表現することによって、映画に登場させたのではないだろうか。黒澤映画は、水に注目することによって、通過儀礼としての性格がはっきりとしてくるのである」



また、黒澤明と並ぶ日本映画史を代表する巨匠である小津安二郎については、著者は次のように述べています。

「小津もまた通過儀礼の問題に強い関心を示した監督であることはまちがいなかった。それは『生れてはみたけれど』について考えてみればわかる。

ただし、小津映画における通過儀礼は、黒澤映画における通過儀礼のように、主人公が水によって象徴される過酷な試練をのりこえて、精神的な成長をとげていくといった典型的なパターンをたどってはいかない。むしろ、その過程は穏やかに進み、主人公の変化もかなり微妙なかたちでしか描かれていない。

たとえば、小津が自らのスタイルを完成させた作品として高く評価されてきた『晩春』は、そういった小津的通過儀礼の典型を示している」

ブログ「小津安二郎展」に書いたように、小津の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。言うまでもなく、結婚式や葬儀こそは通過儀礼の最たるものです。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。


小津映画の最高傑作といえば『東京物語』ですが、この作品は一種のロードムービーでした。著者は、「老夫婦の東京行きは、自分たちが安らかに人生をまっとうしていくための準備の旅であり、それは彼らにとっての生の世界から死の世界に移行するための通過儀礼だった」と分析した上で、さらに小津映画について次のように述べます。

「家庭劇が家庭のなかでだけ展開されるのであれば、そこにはドラマは生まれない。アメリカ映画では、父親と息子との葛藤や夫婦のあいだの不和という要素を導入することによって、矛盾を作りだし、その矛盾を解決する方向に物語を展開させていくことで、家庭をドラマの舞台へと変えていった。小津の方は、片親を残しての娘の結婚といった要素を使ってドラマを作り上げるとともに、旅という要素を導入することで、日常と非日常の世界を対比させ、その対比からドラマが生み出されていくように工夫をこらした。旅という非日常においては、日常では知ることのない事実に直面することになるからである」



本書を読んで興味深かったのは、小津映画の代名詞ともなっているローアングルが性的な欲望に通じていたのではないかという指摘です。

小津のほとんどの作品では、原節子をはじめとする女性の登場人物が、カメラに尻を向けて畳みの上に腰をかけるシーンが見られます。

著者は、執拗に繰り返される小津のローアングルについて、次のように書いています。

「小津には、女性の後ろ姿や尻に対するフェティッシュな欲望があったのではないかとさえ邪推したくなる。撮影所の所長でのちに松竹の社長になった城戸四郎は、小津の映画の試写を見て、『また小津組はしゃがんだ位置か』といい、『女のあれをのぞくようなことをやっているのか』と評し、小津の心証を害したというが、案外、城戸の見方は当たっていたのではないだろうか」



そして、著者は次のように小津安二郎の秘密に迫るのです。

「小津は、生涯独身を貫き、母親と暮らしたが、女優たちとの噂は絶えず、とくに原節子との関係は、小津の死後においてもとりざたされた。小津の死後に、原が映画界を引退したことも、その噂に真実味を与えることになった。噂に、どれほどの真実が含まれているかはわからないが、小津映画における原は、周囲から美しいといわれ、結婚相手として求められつつも、操を守り通す女として描かれている。原は“永遠の処女”と呼ばれたが、小津は、映画のなかで、原を“永遠の貞女”にとどめてしまった。あるいはそこに、小津の原に対する独占欲が働いていたのかもしれない。

女性に対して恥ずかしがり屋で、生涯独身を通した小津は、むしろ性に対して過度の関心を持っていた。しかし、彼には一方で性に対する関心を不潔だと思う倫理観が存在し、心のなかでは、性への関心と倫理とがはげしく葛藤していたのではないだろうか。しかも、女性に対しては貞淑さを求め、たとえやむをえない理由があったとしても、操を守れなかった女性にはスクリーンのなかできびしい罰を与えた」

わたしも小津映画はほぼ全作品を観ていますが、著者のこの見方は鋭いと思いました。まさに「うーん、一本取られたなあ!」という感じです。


さらに、わたしを唸らせたのは、『野菊の如き君なりき』と『男はつらいよ』という松竹の歴史を代表する名画を結びつける推理でした。

そこには、松竹映画のアイコンともいえる笠智衆の存在があります。

笠智衆といえば、『男はつらいよ』シリーズの御前様役で知られます。『男はつらいよ』といえば柴又ですが、文豪・夏目漱石が柴又を訪れたときに渡ったのが矢切の渡しです。この矢切の渡しは、寅さんもとらやへ帰ってくるときに第1作をはじめ何度か渡っています。ところが、この渡しは、伊藤左千夫の『野菊の墓』で、主人公の政夫が千葉の中学に行くために、幼い恋心を抱いた民子と涙の別れをする場所でもありました。



これらのエピソードを踏まえて、著者は次のように大胆な推理を行います。

「『野菊の墓』は、1955(昭和30)年に木下惠介監督によって『野菊の如き君なりき』の題名で松竹で映画化されている。このときには、東京と川1本隔てただけの矢切を舞台にしたのではリアリティに欠けると判断されたのか、物語は信州に移されていたが、大人になった政夫の役を演じていたのが笠智衆であった。『野菊の如き君なりき』と『男はつらいよ』が同じ松竹の製作であることからも考えて、僕は、2つの作品をつなぎ合わせ、自分の写真と手紙を枕の下に敷いて死んだ民子のことを忘れられなかった政夫が、その苦しみから出家し、民子の菩提を弔うために題経寺で住職をつとめてきたという連想をしてみたくなった。漱石が柴又に出向いたとき、矢切の渡しで、『野菊の墓』のことを思い起こしたにちがいない。あるいは、『野菊の墓』の記憶が、漱石を矢切の渡しへと誘ったのかもしれないのである」

『野菊の如き君なりき』の政夫が長じて『男はつらいよ』の御前様になっていたとは!



この大胆推理には大いなるロマンがあります。

わたしは、すっかり著者を見直しました。「葬式は、要らない」とか「人はひとりで死ぬ」などの物言いから、著者のことをニヒリストとばかり思っていましたが、こんな発想ができるということは意外とロマンティストなのかもしれませんね。

いずれにしても、これだけの発想力、筆力を持った著者が、葬式無用論を唱えたり、孤独死を肯定するような著作を書くだけではもったいないと思いました。まさに、宝の持ち腐れですね。このことは、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」で書いたように玄侑宗久氏や島薗進氏と京都の百万遍で飲んだときにも話しましたが・・・・・。



わたしは、本書を優れた映画論として読みました。

現代の日本で映画論の第一人者といえば、ブログ『トラウマ映画館』で紹介した本を書いた町山智浩氏でしょう。その町山氏は、解説「僕の通過儀礼、そして再会」で、『映画は父を殺すためにある』という刺激的なタイトルに触れつつ、次のように述べています。

「父との相克をアメリカ映画が繰り返し描く理由には、大きく2つあると考えられる。ひとつはユダヤ・キリスト教の伝統。本文中でも『エデンの東』と旧約聖書の関係が論じられているように、聖書は「神」を父、キリストをその息子、というイメージで描いており、その父子関係が世界理解の基本になっている。もうひとつはアメリカという国独自の歴史。イギリスに対して反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得なかったのだ。

ただ、アメリカと違う歴史と文化を持つ日本では、物語も当然違ってくる。アメリカ映画が描く厳しい成長物語や激しい父と子の相克には違和感を持つ日本人も多いだろう。だから、本文で「寅さん」シリーズに日本人独特の成長物語を見出す章は興味深い。僕自身も寅さんのように、通過儀礼に時間がかかった」



町山氏は、本書の中で紹介されているさまざまなイニシエーション(通過儀礼)について、次のように書いています。

「イニシエーションを最も自覚的に行ってきたのは、宗教だ。どの宗教も入信の儀式が最も重要だ。特に新興宗教において、イニシエーションはより強烈になる。信者として完璧に生まれ変わらせるために、相手の内面にまで入り込んで、それまでの彼(彼女)を完璧に殺す。それはしばしば『洗脳』と呼ばれる。

それを教え子たちに実体験させようとしていた教授がいた。東大で宗教学を教えていた柳川啓一教授は、ゼミ生に、実際に宗教に入信することを勧めていた。島田先生も柳川啓一教授のゼミ生だった。ほかには、中沢新一、植島啓司、四方田犬彦、それに映画監督の中原俊などがいる。中原監督が『櫻の園』でイニシエーションを描いたのは偶然ではないのだ」



かつて編集者であった町山氏は四方田犬彦氏の担当だったそうで、島田氏が柳川ゼミ生としてGLAという宗教団体に入った話も聞かされたとか。

その後、島田氏はヤマギシズムに入りました。そして、かのオウム真理教を認める内容の発言によって、世間から猛烈なバッシングを浴びます。

じつは、島田氏がオウムと接触するきっかけとなった仕事こそ、編集者である町山氏が持ちかけた仕事だったのです。町山氏は、自分が紹介した仕事が原因で社会的に抹殺されたも同然の島田氏に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったそうです。


解説の最後には、次のような一文が書かれています。

「2011年、震災後の4月、石原都知事の花見自粛発言に反発した僕はツイッターで都庁前での花見を呼びかけた。集まった300人の有志のなかに島田先生を見つけた。16年ぶりの再会だった。その間、地獄も見たであろう先生はただ笑って握手してくれた。本当にありがとうございます」

『野菊の墓』の少年が『男はつらいよ』の御前様になるという物語に劣らず、島田氏と町山氏の現実の関わりもドラマティックです。

人生も映画のようなものなのかもしれない。

本書の解説を読んで、そのように思いました。


2012年8月28日 一条真也

『雪男は向こうからやって来た』

一条真也です。

『雪男は向こうからやって来た』角幡唯介著(集英社)を読みました。

著者は、1976年北海道生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業ということで、わたしの後輩に当たります。また、早大探検部のOBということで、辺境作家にしてUMAハンターの高野秀行氏の後輩に当たります。

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謎の生き物とそれを追う人間たちの真正面ドキュメント!



本書の帯には、以下のように書かれています。

「デビュー作『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』で、2010年第8回開高健ノンフィクション賞、2011年第42回大宅壮一ノンフィクション賞、2011年第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。気鋭の探検作家が放つ受賞第一作!」

「2012年第31回新田次郎賞受賞! 祝」

「謎の生き物とそれを追う人間たちの真正面ドキュメント!」



また帯の裏には、次のような内容紹介があります。

「いったいソイツは何なのだ? なんでそんなに探すのだ? 

2008年10月22日、われとわが目を疑った人は、日本中に大勢いたに違いない。『ヒマラヤに雪男? 捜索隊が足跡撮影、隊長は“確信”』の見出しとともに、雪男のものとされる足跡の写真が新聞を飾った。まさに、それを撮った捜索隊に加わり、かつて雪男を目撃したという人々を丹念に取材した著者が、厳しい現場に再び独りで臨んでえぐり取った、雪男探しをめぐる一点の鋭い真実とは?」



本書の「目次」は、以下のようになっています。

「プロローグ」

第一章:捜索への正体(2008年3月17日 日本)

第二章:シプトンの足跡

第三章:キャラバン(2008年8月17日 カトマンズ)

第四章:登山家芳野満彦の見た雪男

第五章:密林(2008年8月26日 アルチェ)

第六章:隊長高橋好輝の信じた雪男

第七章:捜索(2008年8月30日 タレジャ谷)

第八章:冒険家鈴木紀夫だけが知っている雪男

第九章:撤収(2008年9月26日 コーナボン谷)

第十章:雪男単独捜索(2008年10月15日 ポカラ)

「エピローグ」



著者は大学卒業後、朝日新聞社に入社しますが、08年に退社します。

同じ年にネパール雪男捜索隊隊員となるのですが、本書はそのときからの長期取材によって書かれました。雪男といえば、早大探検部の先輩である高野秀行氏もブータンで雪男探しに挑みました。しかし、ブログ『未来国家ブータン』に書いたように、高野氏は本気で雪男の存在を信じていなかった感があります。

その点、本書の著者である角幡唯介氏の立場はちょっと違います。

著者は、「雪男の存在に触れることは、ある意味で恐ろしいことだった」といいます。もし本当に雪男の痕跡を見つけ、その存在を本気で信じてしまったら、その後の人生にいかなる展開が待ち受けているのかと考えてしまうというのです。

「プロローグ」で、著者は次のように書いています。

「わたしは論理的なものの考え方をする質の人間なので、たとえこの目で何かを見たとしても雪男のような非論理的な存在を容易に受け付けることはないだろう。だが、雪男には見た者を捉えて離さない魔力があるらしく、わたしのそのようなつまらぬ良識など吹き飛ばしてしまうかもしれない。足跡を見ることによって、自分の人生が予想外の方向に向かうことは十分考えられた。例えば、アルバイトで細々と資金を貯め込み、毎年双眼鏡を片手にひとりでヒマラヤの山中にこもるというような人生。世間から浴びる、ともすれば嘲笑的な視線。もしくは滑稽な人間という不本意な烙印。自分はそういう人生を望んでいるのだろうか。たぶん望んではいないだろう。しかしそうなる可能性もないとはいえない。それが雪男というものなのだ。足跡を期待する反面、わたしはそれを確認することに変なためらいも感じていた。二律背反的な奇妙な感覚・・・・・。

雪男の足跡を見てしまうのが、わたしは怖かった」



本書には、数多くの文献や雑誌記事などの引用があります。

著者は、雪男探しの先達たちの証言を丁寧に紹介してくれます。

それにしても、世界的な登山家たちの多くが雪男を目撃していたという事実には驚かされました。今井通子田部井淳子といった人々をはじめ、雪男の目撃者は他の未確認生物に比べて信用できそうな人が多いです。

そう、インチキくさい怪獣やエイリアンの目撃者とは信用度が違うのです。

特に、冒険家の故・鈴木紀夫などは、フィリピンで旧日本兵の小野田さんを発見した人です。その晩年は雪男探索に情熱を注いだそうですが、彼の死の真実というか「最期」に関する著者の考察には感銘を受けました。



雪男の正体については、さまざまな説があります。

ネアンデルタール人の生き残り、ゴリラ、ヒグマ、ユキヒョウ、カモシカなどなど。

雪男の捜索を終えた著者の雪男に対する認識はどうなっているのでしょうか。

著者いわく、捜索に参加する以前の、雪男がいるとは考えにくいという常識的なものに再び戻りつつあるとして、次のように述べます。

「捜索に関わったひとりとして、わたしがそう思う根拠を挙げてみよう。わたしは生物生態学や古人類学、動物学、サル学、植物学などに関しては素人で、ここに述べるのは専門的な見地からではなく、あくまで捜索現場の印象をもとにした個人的な感想に過ぎない。そのような立場から、わたしが雪男の存在を肯定しにくい最大の根拠は、ある種の解釈の問題につきると言える。足跡にしろ、雪男の目撃談にしろ、これまで報告されたほとんどの雪男現象は、客観的には、例えばカモシカやクマといった従来の四足動物の見間違えで説明できてしまう気がするのだ。それらの報告が四足動物のものかどうかは不明であり本当に雪男のものかもしれないが、ここでわたしが言いたいことは、雪男の正体がカモシカやクマなどの四足動物であるということではなく、カモシカやクマなどの四足動物でその現象を説明しても説得力を持ち得るという点にある」



この文章を読んだだけでも、著者が非常に論理的な思考をする人物であることがよくわかります。でも、常識的な考えに戻りつつあるという著者は、こうも書いています。

「しかしわたしは、現在のところまでのこの差し当たっての自分の結論が、何かを体験したら一瞬で吹き飛んでしまうガラス細工程度の強さしか持ち合わせていないことも分かっている。それらしい推論など事実の力強さの前には常に無力だ。わたしは事実を知らないので推論に頼らざるを得ないだけなのだ」



そして、最後に著者は次のように述べるのです。

「わたしは自分が行った捜索や客観的な目撃談、あるいは足跡の写真の中に雪男の論理的な存在を認めることはできなかった。

わたしは雪男の存在を、実際の捜索現場ではなく、接した人の姿の中に見たのだ。

考えてみると、彼らとて最初から雪男を探そうとか、死ぬまで捜索を続けようとか思っていたわけではなかった。さまざまな局面で思ってもみなかったさまざまな現象に出くわしてしまい、放置できなくなったのが雪男だった。人間には時折、ふとしたささいな出来事がきっかけで、それまでの人生ががらりと変わってしまうことがある。旅先で出会った雪男は、彼らの人生を思いもよらなかった方向に向けさせた。そこから後戻りできる人間はこの世に存在しない。その行きずりにわたしは心が動かされた。

雪男は向うからやって来たのだ」



『雪男は向うからやって来た』という書名について、わたしはてっきり未確認動物としての雪男が雪山の向こうから二本足で歩いてこちらにやって来たという意味だと思っていましたので、この一文には「うーん」と唸りました。

良く言えば含蓄のあるタイトルですが、悪く言えば確信犯的な勘違いの誘発。

しかし、秘境ともいえる山の奥に入り、未知の生物についての思いをめぐらせる著者は、この上なく哲学的であったと思います。彼の思考は雪男の実在など超えて、おそらくは「存在とは何か」といったレベルにまで達していたのではないでしょうか。

わたしは、矢作直樹氏、稲葉俊郎氏という2人の山男を知っています。両氏とも東大病院の医師にして、人間の「こころ」の秘密を見つめる哲学者でもあります。

昔から山男に対して、「なぜ、山に登るのか」という質問があります。

それに対して、「そこに山があるから」という答えが有名ですが、おそらくは「人間とは何かを知るため」ということもあるのではないでしょうか。

わたしは山男ではありませんので、本当のところはわかりませんが・・・・・。

最後に、矢作先生、稲葉先生にも、ぜひ本書を読んでいただきたいと思います。



2012年8月28日 一条真也

2012-08-27

『未来国家ブータン』

一条真也です。

『未来国家ブータン』高野秀行著(集英社)を読みました。

著者は、ブログ『幻獣ムベンベを追え』ブログ『怪獣記』で紹介した作家です。

UMA(未確認動物)を求めて、世界中を駆け巡る人物です。

最新作である本書は、「世界でいちばん幸せな国」とされるブータンの紀行本です。

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「世界でいちばん幸せな国」の秘密



本書の帯には、「わが国に未知の動物はいません。でも雪男はいますよ」「そのひと言にのせられて、私はヒマラヤの小国に飛んだ」「GNPよりGNH、生物多様性、環境立国・・・・・、今世界が注目する『世界でいちばん幸せな国』の秘密を解き明かす!!」といった言葉が書かれています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「はじめに」

第一章:ブータン雪男白書

第二章:謎の動物チュレイ

第三章:ラムジャム淵の謎

第四章:ブータン最奥秘境の罠

第五章:幸福大国に隠された秘密



著者は、「誰も行ったことのない場所に行き、誰も書いたことのないものを書く」を信条とし、これまで過酷な条件で未知の土地に足を踏み入れてきました。

ところが今回は、なんと、「ブータン政府公認プロジェクトで雪男探し」です。

とある企業の調査員としてブータンに入国した著者は、政府の随行員と一緒に決められた日程で薬草やフォークロアを調査します。これまでの著者の旅とはまったく違う異色な旅となっているのです。「あの国には雪男がいるんですよ!」とのひと言に乗せられて、著者はブータンヘ飛びました。



「はじめに」で、著者は次のように書いています。

「私は20年前から世界中の未知の動物(未確認動物)を探し回ってきた。コンゴの謎の怪獣モケーレムベンベ、中国の野人、トルコの巨大水棲獣ジャノワール、ベトナムの猿人フイハイ、アフガニスタンの凶獣ペシャクパラング・・・・・。

1つも見つかっていないから自慢にもならないが、私ほど、未確認動物を客観的かつ徹底的に探してきた人間は日本にはほかにいない。世界でもいないんじゃないか。もちろん、雪男のことも話としてはよく知っているが、“本場”はネパールである。ブータンの雪男は初耳だった」



第一章「ブータン雪男白書」で、著者は雪男について次のように書いています。

「『雪男(スノーマン)』は外国の登山家がつけた名前だ。雪山でよく足跡が発見されたからそう呼ばれたのだが、雪男自体は森の中に棲んでいると(ネパールでもブータンでも)思われている。当然だ。雪の上では食べるものがないし寝るところもない。だから最近では世界中どこでも『スノーマン』でなく、ネパールの呼び名である『イエティ』と呼ぶのが普通だ。もっともブータンではイエティとは言わない。一般的に『ミゲ』だが、東部では『ドレポ』とか『グレポ』などとも呼ぶらしい。

イエティもミゲもドレポもみな同じものを指すわけだから、いっそのこと日本語では『雪男』に統一してもいいんじゃないかと思ったのだが、困ったことに、ときどき『雌の雪男』というのが登場する。『雌の雪男』は変だ。じゃあ『雪女』かというと、それは別物である」



「雪女」といえば、日本の妖怪です。妖怪を扱う学問は民俗学ということになりますが、日本の民俗学を確立したのは柳田國男であり、彼の著書『遠野物語』ということになっています。じつは本書『未来国家ブータン』の冒頭には、「願わくばこれを語りて平地民を戦慄せしめよ」という『遠野物語』の一句が記されています。つまり、著者は岩手県遠野村のフォークロア=民間伝承を集めた『遠野物語』のように、ブータンのフォークロア、特に雪男についての伝承を集めた本書を執筆したことがわかります。

ということは、かつてのモケーレムベンベやジャノワールのように実在する怪獣としてではなく、著者はフォークロア的存在としての雪男を求めたのかもしれません。実際、本書を読むと、著者がそれほど本気で雪男の存在を信じてはいないように思えます。


さて、雪男を探しながら、著者は次第にブータンという国の実情を掴んでいきます。

「世界でいちばん幸せな国」は、国王を中心に小さく巧妙にまとめられていることに著者は気づきます。ブータン国内での国王の人気は驚くほど高いそうです。

昨年、ブータンの第5代国王であるジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王夫妻が来日され、爽やかな印象を残されました。日本では、ちょっとしたブータン・ブームが起きました。第4代国王のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王ですが、親子で大変な人気だとか。

その人気の凄まじさについて、本書には次のように書かれています。

「ブータンの国王、恐るべし。この国では国王は『尊敬の対象』どころではない。

日本で言うならジャニーズ事務所所属の全タレントと高倉健とイチローと村上春樹を合わせたくらいのスーパーアイドルである。

4代目は先代の急死により16歳で即位。『世界で最も若く最もハンサムな国王』と騒がれた。50代の今でも十分にハンサムだ。稀にみるほど賢い人で、若くしてGNH(国民総幸福量)の概念を考え、環境立国の道を切り開いた」


現在の第5代国王も若くてハンサムですが、昨年は日本の国会で素晴らしいスピーチをされました。わたしたち日本人は、国王のスピーチを聞きながら、「さすがは、世界一幸せな国の国王だ」と感心したものでした。

本書で著者も書いているように、国王を求心力としたブータンのシステムは国内では非常にうまくいっているようです。しかしながら、著者はブータン社会の問題点(一種のカースト制度)にも国王が自ら取り組んでいることも紹介しています。

ブータンには「ネパール系住民」という最大の内政問題が存在します。これは隣国のシッキムがインドに吸収された最大の原因であり、人権問題にも発展しています。ブータンが今後存続していく上で最大の問題であると言えるでしょう。



第五章「幸福大国に隠された秘密」では、著者は「ブータン方式とは国民の自発性を尊重しつつ明確に指導すること、もう1つは巧みな補完システム」であると述べます。

著者がブータンを1ヵ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことでした。著者は述べます。

「何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は『自由』はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だから個人に責任がなく、葛藤もない」



著者は、ブータンのインテリについて、次のように書いています。

「アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくなる。教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。

でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこの国にはできあがっている。

ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。

それこそがブータンが『世界でいちばん幸せな国』である真の理由ではないだろうか」


「上から下まで自由に悩まないようにできている」国家ブータン。

ある意味で超管理社会ともいえるブータン社会に、著者は未来を感じるそうです。

かつて、「未来惑星ザルドス」というSF映画がありました。

「猿の惑星」シリーズと同じ20世紀フォックスの名作ですが、未来の超管理されている惑星の物語でした。ザルドスで反乱を起こす主役は、「007」シリーズで初代ジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーが務めています。わたしは、『未来国家ブータン』という書名を最初に見たとき、「未来惑星ザルドス」を真っ先に思い浮かべました。

著者は、もしかしたらブータンとザルドスを重ね合わせているのではないでしょうか。

ザルドスは強大な石像の頭部が空中を飛ぶ世界でしたが、本書の表紙には空を飛ぶ王宮の絵が描かれており、どうしてもザルドスを連想してしまいます。



「――未来国家。またしてもこの言葉が頭に浮かんだ」と、著者は書いています。

どうして著者はブータンに未来を感じるのでしょうか。

それについて、著者は次のように述べています。

「自分で旅してみれば、特に田舎に行けば、ブータンで感じるものは過去であり、未来ではない。多くの土地ではまだ電気も水道も通っていない。

高度な教育や医療、福祉の恩恵にあずかれる人はごく一部だ。

反面、建物も人の服装も伝統がきちんと守られている。人々は信仰に生き、雪男や毒人間、精霊や妖怪に怯え、家族や共同体と緊密な絆で結ばれている。

人情は篤く、祖父母から受け継いできた文化や言い伝えを次の世代に伝えようとしている。『未来』でなく『古き良き世界』である。

特に顔や文化の似通った日本人はノスタルジーをかき立てられる。

だから、ある人はブータンのことを『周回遅れのトップランナー』などと呼ぶ」



著者が見たブータンは、「伝統文化と西欧文化が丹念にブレンドされた高度に人工的な国家」でした。それは「国民にいかにストレスを与えず、幸せな人生を享受してもらえるかが考え抜かれた、ある意味ではディズニーランドみたいな国」でした。著者は、ブータンに「私たちがそうなったかもしれない未来」を感じるといいます。

というのは、アジアやアフリカの国はすべて同じ道筋を歩んできました。

その道筋について、著者は次のように説明します。

「まず欧米の植民地になる。ならないまでも、経済的・文化的な植民地といえるほどの影響を受ける。独立を果たすと、政府は中央政権と富国強兵に努め、マイノリティや政府に反対する者を容赦なく弾圧する。自然の荒廃より今の景気を優先し、近代化に邁進する。たいてい独裁政治で抑圧はひどいが暮らしは便利になる。やがて、中産階級が現れ、自由、人権、民主主義などが推進される。迷信や差別とともに神仏への信仰も薄れていく。個人の自由はさらに広がり、マイノリティはよりきちんと理解されるとともに、共同体や家族は分解し、経済格差は開き、治安は悪くなる。政治が大衆化し、支配層のリーダーシップが失われる。そして、環境が大事だ、伝統文化が大切だという頃には環境も伝統文化も失われている――」



国や地域によって差はあっても、大まかにはこういう徹を踏んでいるわけです。

しかし、後発の国は先発の国の欠点や失敗がよく見えるはずであり、それを回避できるはずです。それなのに、なぜわざわざ同じ失敗を繰り返すのか。

考えてみれば、不思議な話です。著者によれば、ブータンだけが例外だそうです。

ブータンだけは、まるで後出しジャンケンのように、先進国の長所だけを取り入れて、短所はすべて避けているというのです。その結果、ブータンは世界のほかの国とはまるで違った進化を遂げました。「まるで同じ先祖をもつとされるラクダとクジラを見比べるようだ」という著者は、次のように述べています。

「日本だって、明治初期まで遡ればブータン的進化を遂げる可能性があったのではないか。今でも国民はちょんまげに和服で刀を差し、伝統的な日本家屋に住み、神仏を固く信じ、河童や神隠しを畏れ、天皇を尊び、自然環境を大切にする。自分の収入が減るより国のことを案じ、でもどう生きるかという葛藤はなくて、おおむね幸せである。いっぽうで、行政は地元住民の幸せを真剣に考え、人権や民主主義は行き渡り、一部のエリートが国のために尽くそうと心から願っている。高度な医療はないからちょっと難しい病気にかかったら諦めなければいけないし、贅沢どころか、職業選択の自由もないが、生物資源の開発でそこそこ生活は成り立つ。休みの日にはエリートも庶民も、みんながお洒落をして高僧の説教にキャーキャー言って押し寄せる――」



日本もそんな社会になっていたかもしれないと、著者は推測します。

そして、「SFでいうところの『平行世界(パラレル・ワールド)』だ。宇宙のどこかにはそんな日本があるのではないか。そんな妄想にまで駆られてしまうのである」と書きます。

そう、未来国家ブータンも、そして未来惑星ザルドスも、もう1つの日本だったのかもしれません。最後に、わたしは雪男探しの興味から本書を読み始めました。その意味では、肩透かしの感もありました。しかし、文明批評の書としては優れており、本書を読むことができて非常に満足しています。


2012年8月27日 一条真也