コペンハーゲン August Blom

一時帰国していたが、コペンハーゲン経由でベルリンに戻った。
10日程度で東京にいたのは4日ほど。その割にはいろいろな人と会えてありがたかったが、とんぼ帰りという感じはぬぐえない。
次は発表なども入れて、もう少しゆっくりしたい気もする。

コペンハーゲンでは、時差ボケでもうろうとしつつも映画アルヒーフに行ってきた。コペンハーゲン到着が既に17時だったので、資料調査などはせず場所だけ確かめようと思ってふらりと立ち寄ったら、この日はたまたまサイレント映画の上映だという。生伴奏も入るとのことで喜んで入場したものの、一向にピアニストは現れず、結局伴奏なしでサイレント映画をそのまま上映し始めた。ピアニストのドタキャンとかあるのか。しかも、15人くらいいた観客は特に文句も言わず、ため息だけついてしょうがないかという感じ。

とはいえ、映画『Verdens Untergang』(監督:August Blom、1916年)はなかなか迫力があった。さすがはAsta NielsenとDreyerの国。サイレント期のデンマーク映画が比較的豊富に見れるのもこのアルヒーフのおかげだ。(http://www.dfi.dk/English.aspx)
盲点だったが、調べてみるといろいろ面白いものも見つかりそう。ドイツやフランス、イギリスあたりの初期映画業界とどれくらい繋がりがあったんだろうか。上映会もかなり盛んな模様で、年始から意外な出会いであった。

年の瀬

昨日フンボルト大のコロキアムでの発表を終え、今年の授業は終了。
発表内容は映画『4億人』でのハンス・アイスラーによる映画音楽に関するもので、発展させて何らかの形で人の目に触れるものにしたい。アイスラーが初めて12音技法を映画音楽に用いた作品です。監督はJoris Ivens。

夜は季節柄《ラ・ボエーム》を聴きに行く。もちろん、プッチーニの方。

タンホイザー@ドイチェ・オーパー・ベルリン、演出:Kirsten Harms、指揮:Constantin Trinks

豪華な歌手陣に惹かれ、原稿書きの合間にドイチェオーパーの《タンホイザー》を聞きに行く。
TannhäuserはPeter Seifert、Wolfram von EschenbachはChristian Gerhaherだった。期待に違わぬ好演で満足。
ネタばらしになってしまうが、Elisabeth/VenusはPetra Maria Schnitzerの一人二役で、他にもClemens BieberやAin Angerなどが登場。

指揮のConstantin Trinksは、ドイチェオーパー初登場だったがオケを良くまとめていた。現在の本拠地はダルムシュタットの歌劇場のようだが、パリ、ミュンヘンなどへ活動範囲を広げている模様。来年1月には東京の新国立劇場でもタンホイザーを振るらしいので、在京の人にはおすすめです。

DVD 《今日から明日へ》@Teatro la Fenice、指揮:Eliahu Inbal、演出:Andreas Homoki

雪が積もったベルリンで、今学期2度目の風邪でダウン。不摂生には気をつけねば。

外出して悪化させるのもなんなので、夜は購入してあったDVDを見る。

Von Heute Auf Morgen [DVD] [Import]

Von Heute Auf Morgen [DVD] [Import]

2008年、ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場での《今日から明日へ》。演出は今シーズンからチューリッヒ歌劇場の監督となったAndreas Homokiである。昨シーズンまではベルリンのKomische Operの監督で、日本でも上演されたプッチーニラ・ボエーム》を始め、ヴァーグナー《マイスタージンガ―》、スメタナ売られた花嫁》、R.シュトラウスばらの騎士》、ヴァイル《マハゴニー市の興亡》、そしてプロコフィエフ《三つのオレンジの恋》などなど、魅力的な舞台を多く残してくれた。ベルリンの財産である。

今日から明日へ》は、登場人物が5人(1人は子役で歌唱なし)で、Homoki演出の特徴である舞台を縦横無尽に掛け回る合唱団はいない。舞台装置は、舞台中央に置かれた白地のソファーのみ。舞台背景となる黒地の壁には「現代人って何?」というラストでの子供のセリフが数ヶ国語で書きつけられ、冒頭から強調されている。文字のフォントは様々だが色はすべて白。大きな白地のクエスチョンマークが特に目を引く。

 夫と妻の会話が続く前半は、舞台上の動きが少なく、Homokiが《マイスタージンガー》や《売られた花嫁》で生み出していたようなキネティックな演劇性には欠ける。歌手陣はレチタチィーヴォ風の箇所と旋律的な個所をきちんと歌い分け、なかなかの好演。オーケストラも、アクセントや特殊奏法、金管の鋭い響きなどをコミカルに強調してクリアな響きである。後半の4重唱ではダイナミックな動きも加わり、Homoki演出の魅力の片鱗も見ることができた。
 主人公の二人も歌唱からSprechgesangに切り替わる最後のシーンでは、背景の黒字の壁が最終的に解体され、ソファーに乗ったテノール歌手と妻の友人は舞台の外へ追いやられる。壁のクエスチョンマークすらばらばらに千切れてしまい幕切れ。何とも言えない余韻が残る。作品の構造上、Homoki演出の魅力がすべて発揮されている訳ではないように見えるが(あるいは、ヴェネツィアで実際に見てた人がいたら、生の舞台では歌手陣の動きにどれぐらいインパクトがあるのかぜひ教えて欲しい。)、このオペラの魅力の中心が、作品が聴衆に残す「クエスチョンマーク」にあることを改めて実感。そこを上手く引き出している点で明快な演出である。あるいは、そうした問いそのものを問うているのか?とも考えさせられる。

ストローブ/ユイレの映画化(指揮:ミヒャエル・ギーレン)と並ぶ重要な上演資料で、ありがたい限り。ベルリンの州立歌劇場でも再演されないかなぁ。

ドイチェ・オーパー100周年記念演奏会@ドイチェ・オーパー

ドイチェオーパー100周年記念コンサートに行く。

Alberto Zeddaは、きびきびとした強奏から、大胆に歌い回す旋律まで、ロッシーニの魅力を最大限に引き出してくれた。
1月のTankrediで再びドイチェオーパーのプルトに立つようだ。聞き逃せない。登壇時も演奏後も一際大きな拍手に包まれていた。

市長のWoweleitも出席しており、ベルリンで三つの歌劇場を維持しつつ、一つ一つの歌劇場が個性を出し競い合いながら共存していくことを宣言。これにも大きな拍手。本人は西ベルリンの出身で、子供のころに良く来たのはやはりドイチェオーパーだったとのこと。ただ、先生のつてで、壁の向こうにあるコーミッシェ・オーパーに行って、そのスタイルの違いに驚いたそうだ。

ドイチェオーパー、日本との関係の深さ(この劇場の来日公演のおかげでベルク《ヴォツェック日本初演はかなり早い段階で実現している)はもちろん、ベルリンで演奏会、劇場に通う身にも大切な劇場の一つ。オーケストラの出来には波があってひどい時はひどいのだけれど、2012年のシュノーポリの命日に演奏された《ラ・ボエーム》の演奏などは忘れられない。今シーズンのラッヘンマン《マッチ売りの少女》もとても良かった(http://www.youtube.com/watch?v=RngQlsWbbGE)。

フィガロの結婚》や指輪などはフリードリヒの演出などがかかっており、Stölzlのヴァーグナーは今後も期待大だ。DVD出版も充実しているし、今後も楽しみである。

創造的な研究とは

 ドイツでは今週が冬学期の学期初め。ベルリンのフンボルト大に留学して、諸事情による一学期間の帰国を挟み、通算で4学期目を迎えた。そろそろ慣れてきた…と言いたいところだが、未だにドイツ語も音楽学もまだまだ学ぶことばかり。日暮れて途遠しなどと言っている場合ではなくなってきた。

 今学期の授業のなかでも、ヘルマン・ダヌーザー教授によるコロキウム「創造的研究Creative Research」は、ともすれば細かい議論に拘泥しがちになる博論執筆に凝り固まった(もちろんそれはそれで良い面もある)日常を根っこから揺さぶられるような内容である。
 コロキアムの進行は、The Aritistic Turというとある音楽研究センターの試みをまとめた文献を皆で購読するという極めてオーソドックスなものなのだが、テーマが芸術の実践と研究はどのような相互関係にあるのか?とか、実践的な演奏家による学術研究の意義は?とか、そもそも芸術になんの意味があるのか(文化論的に、あるいは社会的に)といったでかい問題を扱っている文献なので、考えさせられることが多い。芸術活動に現在どんな意義があり、それを研究することにどんな意味があるのか、あるいは「意味があるのか?」という問い自体を再検討に付すような、一種の「マニフェスト」として書かれている文献なのである。

 ちなみに、その音楽研究センターとはベルギーのGentにある「オルフェウス音楽研究センター(http://www.orpheusinstituut.be/en/home)」。1996年に、学部修了生向けのコースを、2004年からは演奏家と作曲家のための博士課程のコースを開設したようだ。コロキウム全体の問題設定は、こうした実践に根差した研究への注目が高まり、実際に予算なども付いている現状を踏まえ、ドイツに多い、大学の哲学科の一学科として開設されている音楽学との接点探り、Artistic Researchと総称される研究の方法論的新しさや限界を見極めようというものになっている。

 初回に読んだのは「なぜ芸術が問題となるのか Why art matters」という章で、60年代以降の人文学における言語論的展開からカルチャル・スタディーズ(その影響を受けたNew Musicology)などの歴史的展開を踏まえつつ、現在、「言説」や「文化」などを政治的、経済的力学から解明し批判する視点に対して、再度、「個人」が「特異な」「出来事」によって得た経験に目を向けようとする「Artistic Turn」が起きていると述べている。その中で、芸術家に求められるのは、その活動によって社会に新たな「認識knowledge」を提示していくことである。その「認識」とは、芸術家個人の精神と身体の自由で、時に偶発的な運動「play」のなかで生み出されるものでありながら、他者と共有可能な、ある種の「客観性」を帯びたものでなければならない。それを実現するのが「芸術的研究Artistic Research」である。

 以上の主張自体はそれほど新味があるものではないし、当日の議論はやや拡散気味だった。ただ、こうしたArtistic Researchという動向、あるいは研究と実践の相互参照という現象は必ずしも新規なものではなく、1930年代にスイスで設立されたSchola Cantorumでの古学に関する試みとも共通しているといった指摘や、作品を完成した結果としてではなく、作品の成立・演奏・受容の「プロセス」に目を向けさせる点は意義がある、といった指摘などが初回でとりあえず参加者全員の共通意識になった。その他、こうした創作のプロセスに目を向ける動向が、流行している受容史研究とは異なる、新たな視点からの研究を開きうるといった指定も面白かった。

 次回以降は、そうした実践をより具体的に検討する章を読み進めることになった。バーンスタイン、グールド、クレー、アラン・カプローらの名が見えるが、今後の進行も楽しみだ。

自分の研究に引きつけて考えると、アドルノ=アイスラーによる40年代の映画音楽に関する実践が、とりあえず「創造的研究」の素直な例ではないかと思う(それを文献学的手法で再構成し、DVD化したGallの研究もまさに創造的研究。ハンブルク大に提出された彼の博論も近日出版予定らしい)。コロッキウムでも話題にはなったのだが、さまざまなオペラの演出を、そうした「研究」として捉えることができるかどうかは、ケース・バイ・ケースであり、今後も考えていかねばならない。

The Artistic Turn: A Manifesto (Collected Writings of the Orpheus Institute: Orpheus Research Centre in Music)

The Artistic Turn: A Manifesto (Collected Writings of the Orpheus Institute: Orpheus Research Centre in Music)

Komposition fuer den Film. Mit DVD: Hanns Eislers Rockefeller-Filmusik-Projekt 1940-1942, ausgewaehlte Filmklassikern und weiteren Dokumenten

Komposition fuer den Film. Mit DVD: Hanns Eislers Rockefeller-Filmusik-Projekt 1940-1942, ausgewaehlte Filmklassikern und weiteren Dokumenten

Musikfest とりあえずまとめ

ベルリンのMusikfestもほぼ終わりを迎えている。
今年はアメリカ特集で、アイヴズ、エリオット・カーターアメリカ出身の作品に加え、シェーンベルク、アイスラー、ヴァレーズらアメリカへ亡命した作曲家の在米中の作品も聴ける機会が多かった。貴重。

いくつか印象に残っている演奏を挙げると…

9月4日 シェーンベルクワルシャワの生き残り》、ヴァレーズ《アメリカ》 演奏:コンセルトヘボウ、指揮:ヤンソンス

アメリカ》は、非常に大きな編成で和声的には不協和音の連続なのだが、そのぶつけ方もきっちりぶつけると美しく響くのが不思議。
ヴァレーズの作品では9月16日のパユのフルート独奏《Density 21.5》も秀逸だった。

9月6日 モートン・フェルドマン《ピアノとオーケストラ》独奏:Emanuel Ax,管弦楽:London Symphnoy Orchestra、指揮:Michael Tilson Thomas

生誕100年のケージの作品が多く取り上げられるなかで、フェルドマンの一味違う繊細を持つ沈黙と音響が光っていた。

9月7日 ハンス・アイスラーヴァイオリン・ソナタ《旅のソナタ》、弦楽四重奏、《雨を描く14の方法》

演奏:Christoph Keller(ピアノ), Peregrini Quartett, Andre Koll

アイスラーは今年は没後50周年の記念年。東ドイツの国家の作曲家として「赤い作曲家」としてのイメージが先行しがち(実際、ブレヒトとの歌曲などとてもすばらしいものも多く残っているけれど)、シェーンベルクの弟子のなかではベルクとウェーベルンの陰に隠れている感はある。しかし、室内楽作品の持つ緻密な対位法が帯びる何とも言えない陰影に魅せられてしまった。今回のMusikfestの一番の収穫かも。《雨を描く14の方法》は、シェーンベルクに捧げられたもので、Joris Ivensの記録映画《雨》の伴奏音楽として作られた作品でもある。本人によればブレヒトのお気に入りの作品だったらしい。「雨」とは、「喪の悲しみ(trauer)」の表現でもあるとのこと。

9月9日 アイヴズ交響曲第4番 演奏:ベルリン・フィル、指揮:メッツマッハー

9月16日 カーター、チェロ協奏曲 独奏:ヴァイレンシュタイン、演奏:シュターツカペレ・ベルリン、指揮:バレンボイム

カーターって、どれを聞いても完成度高い曲で良いな。まだ存命中とは脅威。しつこいが、通して聴いてみても9月5日のセントルイス交響楽団の演奏(指揮:David Robertson)も非常にインパクトが強かった。それ以降の、ベルリン・フィルバーンスタイン(指揮:メッツマッハー)やガーシュイン(指揮:ラトル)が物足りなく思えてしまうほど。

Musikfestは全体的に非常に充実していたが、9月2日の《モーゼとアロン》やアイスラーの演奏会など、集客がいまいちだったのは非常に残念。

備忘のため、アイスラーとアメリカ関係でいくつか参考文献を挙げておく。アイスラーに関しては、全集刊行も進んでいるようで若手研究者も粒がそろっている。

Making Music Modern: New York in the 1920s

Making Music Modern: New York in the 1920s

Charles Ives and His Music

Charles Ives and His Music

Hanns Eisler: Eine Biographie in Texten, Bildern und Dokumenten

Hanns Eisler: Eine Biographie in Texten, Bildern und Dokumenten

Horst-Weber教授の近著→
http://ecx.images-amazon.com/images/I/41kZnH-PDRL._SL500_AA300_.jpg
Schweinhardt氏は全集編纂にも関わっている→
http://ecx.images-amazon.com/images/I/31k3z7sEhHL._AA115_.jpg