Fragmentoj pri akcepto de Esperanto en Japanio

Troviĝas disertaĵo de S-ro NOZAKI-Koiĉi, titolita "Akceptado kaj turniĝado de la Kristanismo en la Meiĵi-Epoko (Japanlingve)". Ĝi mencias pri la akceptado de Esperanto, ĝia historio estas tre interesa.
Mi ne havas scion pri tiama atmosferon de pensujo (ideologi-ujo) kaj nek la pens-historio de Meiĵi-Epoko. Sed ŝajnas al mi: ke en la epoko de la Japan-Qin-milito (1894-95) kaj la Japan-Rus-milito (1904-05), tiamaj inteligentuloj pri la vastiĝo de japana kolonia teritorio senhezite ĝojis aŭ post-konfirmis kaj pravigis, kvazaŭ la koloniado estas natura fenomeno. Esperantistiĝintaj homoj tiamaj ŝajne nenion diris pri la koloniigado de Hindio, Tajvano, Ĉino, Korea-duon-insulo rilate Esperanto. Tiama "Esperanta Paco" esence ne estis en Azio, sed inter Eŭropoaj grandpotencaj landoj kaj Usono (kun Japanio).
Ekzemple, NITOBE-Inazo tiam "vere" klopodis por monda paco en la Ligo de Nacioj. Sed li regardis Koreion "ankoraŭ ne evoluinta", "dekadenca", "malprospera" kaj "zorg-bezona". Do, pravas tio, ke "por koreoj ne sonas trafe nomi tiun simpozion Nitobe, ĉar Nitobe Inazo en la Ligo de Nacioj kontraŭis ke Koreio, tiam japana kolonio, resendependiĝu".
Dum Eroŝenko estis rimarkinda, ĉar kvankam li ne apartenis specialan sekton, li povis vidi la mondon kaj homrilatojn laŭ espranta spirito fidele.

FUTABATEI-Ŝimei 1864-1909

Futabatei unuafoje prezentis Esperanton al Japanio. Li lernis Esperanton dum 1902 en Vladivostoko (Rusio). Lia celo de lia loĝade en Rusio kaj lernado de Esperanto estis spiono pri militaj informoj de Rusio. Li nenion gajnis per Esperanto kaj Esperantistoj, do li tuj forĵetis Esperanton. Li estis naciisto, kiu ne havas demandon pri la imperiismon de sia lando.


TAKAKUSU Zyunziro 1866-1945

TAKAKUSU estis scienculo pri budhismo. Li akompane japanan politikiston vizitis eŭropon dum Rusa-japana milito, kaj propagandis la pravecon de Japanio kaj ĝia milito. Poste li fondis Japanan Esperanto-Instituton kun aliaj, sed li ne dubis japanan imperiismon. Kaj li pensis, ke Hindia civilizacio stagnas pro sia lingvo(, do ĝia koloniigo estas senevitebla kaj prava).
Ĝenerale, tiamaj multaj inteligentuloj ŝajne pensis, ĉiuj aziaj landoj estas stagnantaj kaj tro malfortaj kaj sovaĝaj, krom Japanio kiu venkis Ĉinon kaj Rusion. Do malsaĝaj landoj devas koloniiĝi por/pro si mem.


Socialisto antaŭ bolŝevismo kaj anarkiisto

SAKAI Toŝihiko
OOSUGI Sakae

Eroŝenko

ASADA Eiĵi



野崎晃市氏という人に、『明治キリスト教の受容と変容 : 浅田栄次の目を通して (PDF)』という論文がある。これはエスペラントについて非常に興味深い歴史について言及している。
私は、当時の思想的雰囲気や思想史についてもほとんど知識がないのだが、どうも日清・日露戦争前後、それ以降の知識階層の人たちは日本の植民版図の拡がりについては手放しで喜ぶか、自然現象のように手放しで追認し正当化するかしか考えてなかったのだろうか。エスペラントを獲得した人たちの多くはインド・台湾・中国・朝鮮半島の被植民地化についてエスペラントとのかかわりでは、発言していないようである。彼らの言う「エスペラント的平和」の対象は、インド・中国・朝鮮に言及されることがあっても、本質的には欧米の列強に限られているようである。
例えば、新渡戸稲造国際連盟で平和のために奔走したというのは、そうかもしれない。しかし、彼も朝鮮については後進国・衰退国・要保護国としてしか認識していないようで、「新渡戸シンポジウム」という名称に韓国のエスペランティストが異議を唱えたのも道理あることである。
そうしてみると、エロシェンコが特別の政治的思想も持たずに(追記:特別の政治的思想を持っていなかったかどうかは不明。ただ特定のセクトに属した人物ではなかったように思われる。)(彼はロシアの富農の出身)、エスペラントの願いに忠実に当時の情勢や人間関係などを見ることができた(盲人だが)のは、日本にあって彼が「外国人」だったからかもしれないが、大変刮目すべきことと考える。



キリスト教の受容」については当該論文をよく読んでいただくとして、「第五章エスペラント」から簡単に抜書き・要約して紹介したい(引用符がついていても文体などは自由に変更してある)。


二葉亭四迷 1864-1909

二葉亭は1902年に東京でエスペランティストのポストニコフ(Feodor Alekseyevich Postnikov)の訪問を受け、エスペラントの教科書を日本語で出版する合意をし、資金も受け取った。(ポストニコフはその後ロシア革命が始まると「私は両方の側に友人が居たので、兄弟殺しに参加することを欲せず、こうして私はカリフォルニアに移住した」。)
同年二葉亭は日露戦争直前の緊張した状況の下、ハルピンに向かう。ハルピンへ向かう途中ウラジオストックでポストニコフに再び合い、エスペラントを学習する(1902年5月-6月)。二葉亭はエスペラントを通じて、「ウラジオストックの築港や要塞建設に携わっていたポストニコフから軍事情報などを得ることを期待して接触した」という。しかし二葉亭はポストニコフからもウラジオストックエスペラント協会からも二葉亭の期待するようなロシア帝政打倒のための情報も協力も得ることはできなかった。
二葉亭は滞在先のハルピンでは期待していた翻訳や通訳の仕事もなく、1903年に帰国、1904年-1905年9月の日露戦争の後、1906年になりようやく教科書を出版した。
二葉亭にとってエスペラントは単なる余技、「ロシアの内情を探るために利用した道具であり、エスペラントに潜む脱国家性はロシア帝国を弱体化させるという目的にのめたに注目されたに過ぎなかった。二葉亭の危機感はあくまでロシア帝国に向けられており、二葉亭は自国に成長しつつあった帝国主義には何の疑問も抱くことがないナショナリストであった。


高楠順次郎 1866-1945

首相桂太郎と外相小村寿太郎によって日露戦争の目的や外交政策を諸外国に説明するため、金子堅太郎はアメリカへ、末松謙澄(1855-1920、1904年までに逓信相、内相を歴任、伊藤博文の長女の夫)はヨーロッパへ派遣された。高楠順次郎はこうして1904年2月、日露戦争の広報活動として末松に随行し、英独仏で日本の事情を説明する演説や論文の発表に従事した。高楠は1905年の日露戦争終結により一応の任務を果たし1906年に帰国した。
この高楠の歓迎会が東京外国語学校の職員会で行われ、そこで浅田栄次(後出)がエスペラントで挨拶した。浅田はエスペラントを平和な国際語として紹介しながら高楠の帰朝を歓迎したのだが、高楠は対ロシア戦争の正当性をといて回った平和とは反対の血なまぐさい任務からの帰国であった。
後に高楠は日本エスペラント協会の創設にも関わっている。
仏教学者でもある高楠にとってエスペラントの意味とは何だったのか。「中国とインドは言語のために文明が停滞したと言われている。…今後の文明人はできるだけ簡単で平易な言語を用いるのが自然の流れであり、これにもっとも適したものはエスペラントである」という(1917年)。
高楠はインドの言語に文明停滞の原因を帰すことによって、イギリスのインド植民地支配を正当化しており、このような論理にあってはエスペラント帝国主義を補完する道具となってしまっている。エスペラントに内在する脱国家思想が本来持っている帝国主義への批判はまったく抜け落ちている。
こうして「世界」語として受容されたエスペラントは高楠や浅田にあっては、植民地主義を正当化する論理と不可分の関係にあった。


堺利彦 1871-1933、大杉栄 1885-1923

彼らはなぜエスペラントを学んだのか。「世界の交通が日にまして頻繁になるにつれ、各国言語の相違より来る不便と不愉快とがいよいよ切実に感ぜられてきた。外国語を知らぬ者の不自由、外国語を学ぶ者の苦痛、いずれにしてもほとんど耐えがたき事実である。…そこで世界中で同一の言語を用いるという世界語の思想が起こってきた」。ドイツやフランスでの社会主義の動静を知り、社会主義理論の研究をするためには、どうしても外国語の知識の習得が必要であった。この状況に合って、黒板勝美エスペラントの話を平民社に持ち込んだ。これが彼等のエスペラント学習のきっかけであった。
日露戦争の勝利で世界の列強の仲間入りをした、という雰囲気の中で、日本ではエスペラント学習者が増加したという。しかし大杉らがエスペラントを学んだ動機はこうした帝国主義的風潮に真っ向から反抗する精神によって形成されていた。後に大杉は1906年日本エスペラント協会第一回大会でエスペラント版「桃太郎」を朗読したという。これは日本軍国主義の略奪と残虐さとを童話をもって批判したものであった。
ちなみに、大杉は1907年5月に再び検挙され、刑務所にあったが、1907年7月発行の『日本エスペラント』第2巻第4号には大杉の「ザメンホーフ博士とエスペラント」という訳文が署名入りで掲載された。同巻には天皇・皇后の写真と教育勅語エスペラント訳も掲載されていたという。当時の協会は社会主義にも寛容で、大杉の記事の掲載は、彼の逮捕に抗議する意味合いもあった可能性もあるという。
後に(か初めからか)アナキズムに傾いた大杉はアナキズムの国際的な連帯や交流にエスペラントを役立てることを展望していたようである。


エロシェンコ 1890-1952

エロシェンコ自身については Wikipedia などで。
1916年横浜でのエスペラント普及講演会「世界における新しい精神」と題して。「エスペラントは、ほかの言語と同様、平和にも憎しみにも役立てることができ、知恵を表現することも、おろかなことを言いあらわすこともできる言語です。…しかしエスペラント主義は遠い昔に人類が理屈の上だけで考えてきた(諸民族の友愛・融和という)思想の実現を可能にするものです。エスペラント主義の精神なくして、人類の友愛だとか国際融和だとか書き散らしても退屈な言葉でありタワゴトにおわるでしょう」。
第一次世界大戦中日本で生活していたエロシェンコは新聞の書きたてる「世界」平和などの言葉がいかに空虚であるか、エスペラントという言語も「新しい精神」が伴わなければ意味がないことを理解していた。


浅田栄次 1865-1914

浅田は1906年「何故にエスペラントを学ばざるべからざるか」で次のように述べた。「現今の日本人は国際語を要する。日露戦争におけるわが国の勝利は世界列強の地平線にわが国を引き上げたので、われらはもはや東洋の島国にあらずして、実に西洋諸国の友邦となった。…戦争の武器は剣に弾丸である、しかし平和の武器は言語である。…戦争の勇者であった日本はまた平和の女王でなければならない」。
また1914年?に英語での演説では、「言語の多様性が国家・民族間の対立や戦争の原因の一つになっているので、国際語が必要であるが、それには英語ではなく簡明で規則的なエスペラントが適当である」と述べた。