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Paradism このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-09-24 お知らせ このエントリーを含むブックマーク

はてなダイアリーで立て続けに不備がおきたためこちらのブログに移転します。

http://shirooo305.hatenablog.com/

以降更新の際はこちらで行うと思われますので、宜しくお願い致します。今までこちらのブログでご観覧頂きましたみなさまには深く御礼申し上げます。 

2016-09-22

『迷宮物語』 『走る男』 のハーモニー演出について

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個人的にハーモニーはキャラクターの感情が臨界点に達したり、とても決定的な出来事や感情の芽生えが起きた際に遣われる (キャラクターや物語の “激情” や “生” の高鳴りを描くための) 演出というイメージを持っていて、それは本作においても同じような扱われ方をしていたように思うのですが、ただ今作において驚きだったのは、その “ハーモニー演出がほんの僅かの瞬間しか映らなかった” というところにあって、それが自分にとっては余りにも衝撃的だったんですよね。

それこそ、今まで私が体験してきたハーモニー演出って “一瞬であるからこそ、その瞬間を画に起こし止め絵として切り取る” ことにその役割があったように思うのですが、それをせずしかも一枚の絵としても見応えのあるカットを一秒も経たない内に通常のセルカットに戻す。その心意気もなんかクールで格好良いし、凄いなぁと感じたというか。とても贅沢なことをしているように感じられ、一連のシークエンスにはかなり惹かれるものがありました。それこそ私が観ていないだけで、以前からこういう手法のものはあったのかも知れませんが、個人的には初めて観る一瞬だけのハーモニーだったので 「こういう遣い方もあるのか」 となんだかちょっと感動してしまった次第です。

あと、『走る男』 はその他の演出も好きでした。透過光をもちいてぼんやりと照らしながら画面の明度は低めで、どことない “暗さ” を出していたのも好みでしたし、終盤はレース狂の男が自分自身の限界を越えようとしていく様がとてつもなく狂気的でちょっとした怖さも感じました。そもそも 『迷宮物語』 三部作がホラーチックなところはありますよね。反射光の感じとか爆発のエフェクトも格好良かったです。また、幻視した相手をレースで捉えた瞬間に燃え尽きるというのもなんだか侘び寂び的な哀愁があって良かったです。そういう物語的な意味でもあのハーモニー演出の遣い方は凄く真っ当なんですよね。やっぱり今回のカッティングはめちゃくちゃ格好良いなぁと思います。

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2016-09-18

“声” の波紋と遅れて響く “聲” の輪郭 / 『聲の形』 感想

本日公開された劇場作品 『聲の形』。率直に言えば本当に素晴らしかったです。正直、ああいうテーマの作品は苦手ではあるし、主題的にも安易に感動したとか泣いたとかは言いたくないんですけど、それでも思うところはあったしラスト近辺のシーンで自然と泣いてしまったのもやはり事実で。なんというか上手く言葉に出来ないんですけど良かったと思う気持ちには嘘はつきたくないというか、本当に心からじんわり多くのことを感じ取れた作品であったことが凄く素敵で、好きだなって思えたんですよね。まぁ総括的にはそんな感じで凄くふわふわしてるんですけど、以下では少しばかり気になったことや鑑賞してなんとなくこうかなと感じたことをつらつら書いていきたいと思います。

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主題的にも色々な想いが込められているようには感じたんですけど、個人的に一番刺さったのは “聲は遅れて聴こえてくる” という部分であったように記憶しています。もちろん、それは聞こえる方の声ではなくて、有り体に言えば “心の声” のこと。

それこそ、言葉って感情の延長線上にあるものだと思うんですよね。こういう風に思ったからこう言おうとか、こういう風に感じたからこう書こうとか、そうやって私たちは常日頃からコミュニケーションを取っているわけなんですけど、恥ずかしさや面倒くささ、それこそ本当の気持ちを隠すために敢えて遠回しの表現になることもあって、その真意を真っ直ぐ相手にぶつけられる機会って実はとても少ない。で、そういう言葉の本意って大抵あとから知ることが多かったりするんですよね。あの時、どう思ってたとか。あの時、どう感じてたとか。

それは作品内のモチーフで言えば波紋であったり、花火であったりして、目に見えるものが全てではなく、そこで生まれる “音色” が遅れて聞こえてくることって、やっぱりこの作品においては凄く大切なことでもあったと思うんです。それこそ対象との距離が近づけば近づくほどにそうした遅れも少しずつ取り除かれるというのは確かにそうなんですが、でも人間関係ってそんな簡単にいくものではないし、近くへ行こうとすればするほどに遠ざけられることもあれば、鬱陶しく思われることだってある。誰だって自分の心は安易に覗かれたくないし知られたくない。そういう気持ちはやっぱりあるんじゃないかって思います。

けれど硝子の場合はそうすることでしかコミュニーケーションをとることが出来なかった。だって彼女にはその声が “遅れてでさえ聴こえて来ない” から。それは元を辿れば、波紋を起こすためのあらゆる “始めの声” が彼女には届いていない、ということでもあるんです。乱暴にされれば辛いとか、冷たくされれば悲しいとか、そういう目に見える情動は確かにあるのだけれど、それより以前の言葉や空気感から生じる波紋 (感情の広がり) というものを彼女は感じることが出来なかった。それがようは、「そこにあるはずの “聲” を聴くことが出来ない」 という残酷さでもあるんですよね。

でもだからこそ、彼女は自らの足で真っ直ぐ、相手の前にまでその “聲” を聴きに行くのだとも思うんですよね。何を喋っていたのって。何を感じていたのって。それは彼女なりの誠実さでもあるし、むしろ行動を起こすこと、一生懸命伝えよう、聴き取ろうとすることで彼女は自分の気持ちを相手に届け、また相手の気持ちをしっかり受け止めようとしてくれる。けど、そういうことを包み隠さず伝えてくれる人って実はとても少ないし、その伝え方だって人によって本当に様々なんです。伝え方が歪なものになってしまう人も居れば、その言葉が凄く鋭利な形を象り時に相手を傷つけてしまう人だって居る。もちろん、将也たちの過去の行いがそれで正当化されるわけじゃ決してないし、あんな酷いこと、それとこれとは限りなく別の問題なんだとも思いますけど、でもやはりそういう部分って人それぞれであることなんじゃないかって思うんです。

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それこそ硝子だって再び将也たちの仲がぎこちないものになってしまったことへの自責を強く感じてしまったからこそ自ら命を断とうとしてしまったわけで、逆に将也たちは誰一人としてそんな風には考えていなかったわけですよね。故に硝子は自らの行動でも証明してしまった節もあるんです。その声は届いても本当の聲は届かないのだということを。誰がどう思っていたのか、誰がどう受け取ったのか。その真意を読みとることは本当に、とても難しいことなんだということを。

けれど何かを伝えようとしなければ何も始まらないと最初に語ってくれたのもまた彼女だったはずなんですよね。そしてその “最初の音” があったからこそ将也だって彼女に再び会いに行くことが出来た。遊びに誘うことも。友達になろうなんて言えたことも、全ては小学校の頃の彼に硝子が “波紋” を打ったからこそ起きた出来事なんです。まただからこそ、彼女の “聲” は雄弁にこうも語ってくれる。言葉や想いが相手の心に打たれ、波紋が生じ、やがてその胸の内に反響すればその真意の輪郭ぐらいは掴めるのかも知れない、と。それは、自分の娘を傷つけられ怒りに震えた母親が、今度は逆の立場になった時にやっとその痛みにさえ気づけたように。いじめた側がいつの間にかいじめられ、周囲の世界との繋がりを断った時にようやく “聲のない世界” の辛さに気づけたように。

自分がやられて嫌なことは相手にもしてはいけない――。それはもちろん正論ではあるんですけど、でもこの作品がここで描こうとしたのはそういうことじゃないような気がしていて。伝えることの難しさとか、そもそも伝えて貰えることだってなかなかないんだよっていう厳しさというか。でも、それでも少しづつ相手に対しその耳を傾けてみるということ。たった一つ、その波紋にすら心を寄せてみるということ。またそれは相手に向けてのみではなく、自分自身に対してももちろん同じで、そうすることで分かることってきっとたくさんあるはずなんだと思います。銀行でお金を受け取る母親を見て痛みを知ったことや、傷ついた母親を目の前にして自分がしていたことの辛さを知ったことはきっとそうしたこととも同じはずですよね。

そしてそれは、手話という言語そのものが相手と向き合わなければ伝わるようには出来ていないのと同じように。「西宮には西宮のこと好きになって欲しいよ」と彼が語るその理由でさえ、きっとそういうことなんだろうと思います。傷つくかもしれない。痛みに泣く日もあるのかもしれない。でも、一つ何かアクションを起こさなければ波紋すら生まれはしないのだと。そして、その波紋の行方にこそ “聲” が届く未来はあるのだと。

画面的なこと


またそういう作品のスタンスというか、一つのテーマ性みたいなものは感情を乗せたレイアウトへの気遣いやカッティング、丁寧な作画・芝居にもたくさん込められていたように感じました。例えばそれは、手話の動き一つとってもそう。言葉を身体性で表現する作品にあって手の芝居に対しては真剣に、誠実に向き合うことを徹底してる。むしろこれまでの山田尚子監督から観れば大胆さが削ぎ落とされたと言ってもいいくらいに手の芝居は洗練されていたように思いますし、それは動きから物語が生まれるアニメーションという媒体の本分そのものでもあったように私には感じられました。

またそれとは逆に、感情とは身体性だけで語れるものではないということも知っていたからこそ表情はとても優しく、決して手のアップショットに固執した作品にはならなかったのだと思いますし、むしろそうした二つの演出的な意図が巧く組み合わさったからこそ、こんなにも感情表現に機敏で、とても鋭利なフィルムに仕上がったのではないかなと思います。

最後に


というわけで、なかなか上手く纏まらないですけど今回はこの辺で。またなにか思うことがありましたら何か書くかもしれませんし、書かないかも知れませんし、それは今は分かりません。それこそこの作品を観て今回書き記したこと宜しく、一度目の鑑賞で得た波紋が今後どういう形で自分の中に広がっていくのかはまだ分からないですから。でも一つだけ、この作品に出会えて本当に良かったと。今は心の底からそう思えています。本当にありがとうございました。

2016-09-09

『機動警察パトレイバーアーリーデイズ』 演出メモと備忘録

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特車二課隊長の後藤さんが喋り終えてから南雲さんが顎をくいと上げ 「私は何も見なかったし聞かなかったわよ」 と言うまでの間尺の遣い方。全体的にカメラはfixで撮られている場面が多い印象でしたが、こういった何気ない会話やある程度の状況把握として語られるセリフも長回しで撮られることが多かったように思います。

中々こういうことは出来ないというか、こういう間を作らず別のカットへと繋げていく作品も多いなかにあって、敢えて耐え忍ぶようにカメラを動かさない美学というか。まるで会話の途中にふと訪れる沈黙にこそカメラは向けられるべきなのだと語っているかのようで、観ていて本当に格好良いなぁと思える演出でした。この作品に漂う独特な雰囲気もそういった間尺の遣い方あってのものなのではないかと感じます。

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このカットも同様です。上司にあたる人物が画面右手に捌けていくとそれを見送ってから顔を合わせるまでの間に絶妙な尺が設けられています。これが例えば捌けてから後藤さんのバストショットとかにカッティングされたりしていた場合、この重厚な雰囲気はなかなか出せないのではないかと思います。また実際の映像ではこの辺りのシーンに劇伴はついていません。環境音と芝居、そしてこの間尺だけでこれほどの雰囲気を作り出してしまうのは、まさに手腕だなぁと思わずにはいられませんでした。

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このカットも良いですね。警官とのやり取りを終えてから再度電話に出るまでの間の置き方にとても痺れました。この辺りの感覚はなかなか言葉にし難いんですが、とにかく観ていて良いなぁと思えてしまうというのはやはりあります。上記で書いたような理由ももちろんありますけど、まず先行して感じるのは直感的な良さというか。敢えて言葉にするとすれば “侘び寂び” 的な静けさ、時代背景的な重い空気感をこういう演出に感じるからなのかも知れません。

もちろん長回しをすると言ってもそれには色々なパターンがあるわけで、表情をじっと捉え感情を探ろうとするものもあれば、その圧縮せずに描かれた “時間” にこそ意味を置く場合もあると思います。近年の作品で言えば 『サムデイインザレイン』 とか。それこそなんでもかんでも長回しすればいいというわけでもないと思いますけど、ビジュアル的にも意味づけ的にもやはり格好良い長回しはあるんだよなぁと再確認できた作品でもあったように感じています。それ抜きにしても 『パトレイバー』 物凄く面白かったんですけどね。プラスαでこういうのあると強く記憶に残るような作品になりますよね、本当に。

機動警察パトレイバー アーリーデイズ [Blu-ray]

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