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2016-07-23

アニメにおける脚・足先描写の素晴らしさについて

『NEW GAME』3話を観て衝撃を受けました。それこそあの挿話は全体的に観ても大変素晴らしく、キャラクターたちの感情の乗り方やその想いを映して描かれる細部の仕草への拘りが非常に色濃く出ていたわけなんですが、特にその中でもBパート終盤のベンチに腰を掛けてからの一連のシーンはもう溜息が出る程に凄く丁寧に描かれていたと思います。

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あの時、友人と嬉々として話す青葉がどういう感情を芽生えさせていたのかということが端的に読み取れるフィルム。自分の好きな作品を語っている内にどうしようもなく楽しくなってしまうその心の変遷を、言葉ではなく、彼女の仕草で表現することでその想いが決して嘘ではないことを寡黙に伝えてくれる足先の表情。

それこそ四肢の表情づけって見た目よりもずっと大変な作業で作画的なカロリーもかなり高い難しいものですから、無理にそういうカットを入れる必然性って実はないんですよね。でも、ああいうカットを入れる必要性はあったりして、それこそ楽し気に語り合う会話と青葉の表情だけでは決して語れない彼女の “好き” の気持ちってあの足のカットがあるからこそ伝播するものであるはずだと思うんです。

言葉だけで表現する “好き” より、自然と動いてしまう身体や四肢の挙動で楽しさや愛情を表現することの意味。それは私たちが日常生活を送っている中でも時に遭遇することの出来る感情の伝染に他ならないものでもあるはずで、むしろそういったシーンの積み重ねが物語へ感情移入するための切っ掛けにすらなっていくものなのだと私は思います。

[参考記事] キャラクターの細部から溢れ出す楽しさの感情、その伝染

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そしてその仕草は時に憂いや寂しさ、悲しみの象徴としても描かれたり、女性的のものの象徴として可愛らしさや淫靡さをそれとなく含ませ描かれることも少なくはありません。前者で言えば特に素晴らしかったのは 『アイドルマスターシンデレラガールズ』 17話。赤城みりあ城ヶ崎美嘉とベンチに腰掛け会話をするシーンです。

妹のために色々なことを我慢しなくてはならない姉としてのちょっとした寂しさをその足先で表現したあの描写は個人的にもかなり良いなぁと思ったシーンで、あのカットがあるのとないのとではやはり彼女の心への寄り添い方も違ったものに変わっていたのではないかと思います。

それもまだ幼さの残るみりあだからこそ、その感情は言葉よりその身体での表現を是とし、うまく伝えられなかった心のもどかしさをあの足先は言葉の替わりに私たちへと伝えてくれる上に、そうして訪れる余韻の数々はその心を想像する余地すらもしっかりと我々に与えてくれるのです。

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そして女性的な表現としての脚と足先の表現。可愛らしさや美しさを結晶化したような女性特有のシルエットとその挙動はまさに男性である私の心を潤してくれる心のオアシスです。

もちろんそうしたフェティシズム的な部分以外でも、音楽に合わせ描かれる軽やかなステップや足先の挙動を観ているとそれだけで楽しくなれますし、そういう描写に出会えただけでもう満足出来てしまうのだから面白いですよね。単純だなぁと思いますけど、でも楽しそうにしている人を見ているとなんだかそれだけでこちらまで楽しくなってしまう感覚なんかもあるように、単純なことこそがやはりダイレクトに感情を伝える役割としてはとても優秀なんじゃないかなとも思うんです。

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何より単純なこと、単純な動きであるからこそ、その動きや描写へ感情を乗せるとなればそこに割かなければいけないリソース量は必然と上がっていくのだと思います。

そして、それは作画や影指定にレイアウト、色彩指定にタメツメにおけるコンマ数秒単位の拘りにまでことは及ぶわけで、その苦労を思うとこういう丁寧な芝居付けや作画には余計ありがたみを感じてしまいます。それこそTVアニメという媒体においてはその全てを拘り抜くことなんて早々に出来ることではないわけですから、やはりどうしたってそうした目を見張るシーンがあれば心踊らずにはいられないですし、それこそテープが擦り切れるんじゃないかってくらい何度も何度も繰り返し観てしまったりするわけで。

もちろん、手先の描写なんかにも拘ってる作品はあって同じように素晴らしさを感じるわけですけど、やはり個人的には脚や足先の方に目がいってしまうのはどうしても否めず、だからこそ余計に記憶にも残りやすいっていうのはやはりあると思います。他にも 『血界戦線』 EDのステップや 『けいおん!!』 20話や最終回の脚の作画と表現なんかかなり素晴らしいものがありますよね。そこにはアニメならではの少し現実より過大な、けれど確かに感情が込められていると読み取れる動きの数々が散りばめられていて、ああいう描写を観る度に私は 「アニメって本当に良いな」 とその素晴らしさをどうしても肌で感じてしまうのです。

[参考記事] 『ご注文はうさぎですか?』 の手の表情が素晴らしい

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というわけで、少し長くなりましたが最後にどうしても紹介したかった脚・足先の描写をいくつか紹介してこの記事の締め括りとさせて頂こうと思います。こちらは 『言の葉の庭』 の一幕ですが、新海監督自らが 「この作品唯一の濡れ場」 と語るだけあって、この足先に漂う色気からは他の作品の追随を許さない凄みを感じます。

他にも足先の描写などは本編でもかなり多用されています。梅雨アニメであると同時に足アニメとしても本当に素晴らしい作品だと思います。

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脚アニメの権威 『あいうら』。この作品の脚の描写とその作画・影づけに対する拘りは本当に凄いものがあります。健康的な女子校生の肉感を大事にしつつ、それでいてエロい。膝裏や脹脛 (ふくらはぎ) などの筋肉のつけ方、筋に対する線や影の寄せ方なんかはもう素晴らしいを通り越してなんだかもうよく分かりません。

作品自体も大変素晴らしいですが、やはり脚アニメと言えばこの作品、というくらいにはかなりの脚密度だったと思います。11話で雨に濡れたソックスをさきちゃんが脱ぐシーンは永遠に語り継いでいきたいですね。

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また、上記でも一つ紹介したように 『アイドルマスターシンデレラガールズ』 もかなり足元を意識した作品になっていたと思います。主題歌で謳われていた 「10センチの背伸び」 の意味を模索するかのような作劇に、ガラスの靴、魔法といったモチーフの数々。そしてその魔法は 「自分の靴で今、進んで行ける勇気」 なのだと語るその意味の全てを作中では彼女たちの足元に託していたのではないかと思います。13話で渋谷凛が見せたあの背伸びはその象徴なんだと思います。またあのカットはあの年一番の足首作画でもあったんじゃないかと感じましたね。

その他にも素晴らしかった作品として 『城下町のダンデライオン』 4話なんかも紹介しておきます。脚・足先の名話としてこちらも語り継いでいきたい挿話です。

[参考記事] 『城下町のダンデライオン』 4話の脚の表現について

最後にフォロワーの方が教えて下さった素晴らしい脚描写を紹介して終わりたいと思います。



今年観た中でもかなり高いレベルの脚描写です。こういう仕草や描写と出会う度に感謝せずにはいられなくなりますし、そういった描写一つだけで作品の印象をも変えてしまう力を持っているのだから堪らないですよね。本当に脚・足先の描写が素晴らしいアニメって素敵だと思います。

今年も残すところあと半分ですが、今後も出来るだけ多くの素晴らしい脚・足先の描写に出会えるようにと今は心待ちに願うばかりです。

2016-07-14

映像と音楽、物語の息吹 ―― ストーリー型OPと新海誠監督の親和性

先ず一つの記事をご紹介させて頂きます。

じゅじゅるさん。 『ストーリー型OPのすすめ』

こちらの記事を読んで真っ先に思い浮かべたOPがこちらの映像でした。

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(minori works 公式チャンネルより)

『OPは作品の紹介の場である』 という当該記事での見方には大きく頷くばかりで、まさにOPの役割はそうした作品のメインテーマや登場するキャラクターの特徴を大きな括りで紹介するところにこそあるのだと思います。それは原作を持つアニメオリジナルアニメに限らず、まだその物語に触れたことのない視聴者を巻き込んでいく上で非常に重要な出会いの場であり、興味を引くための “あらすじ” にも成り得ると思うからです。

でもだからこそ、時としてそうした映像群はそれを手掛ける者の作家性や強過ぎる物語の匂いをフィルムそのものへと反映し、まるでその “あらすじ” が広大な物語そのものを捉えてしまうかのような現象を起こすことも少なくはないのです。上記に紹介したデモムービーはその一例であり、所謂ここで語られる 『ストーリー型OP』 の代表的な作品であると私は考えています。

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(minori works 公式チャンネルより)

そしてそれを手掛けたのはあの新海誠監督。氏の映像作品の特徴と言えば作品とそのテーマソングとのシンクロ率を極限まで高めたフィルムに美しい背景、あとはその作品世界における広大な景色を遠望することの出来る映像の奥行きの深さにあるわけですが、そのどれもが結局は一つの主体的な物語を描くためのパーツに過ぎないのではないかと最近は感じていたりもしていて。むしろ氏の手掛けた映像に堪らなく良さを感じてしまうのはその透き通るように美しい映像美の向こう側に、氏が意識的に埋め込んだ物語を我々が無意識の内に感じ取ってしまうからなのだとも思うんです、

他にも同メーカーの作品で言えば 『Wind - a breath of heart -』 『eden*』*1 などのOPは同様にしてその作品が一番大切にしているメインテーマを核に据えた上で創られているような印象を受けますし、特に天門さんとタッグを組んだ新海監督の映像はまさに物語そのものと呼べるものが多く、それは美少女ゲーム界を去ったあとも数多くの劇場作品に引き継がれているもはや新海監督の代名詞的な表現方法でもあるのだと私は強く感じています。

それこそ作中における劇伴と映像の親和性を高めることに関しては並々ならぬ熱量を費やす新海監督です。それは氏が手掛けたアニメーションの多くの劇伴を担当された天門さんが 「新海監督からの依頼は(良い意味で)大変」*2 だと語ったことからも分かりますし、またそれは 『言の葉の庭』 の劇伴を担当された KASHIWA Daisukeさんに新海監督が宛てたコメントからもよく感じ取ることのできる部分なのではないかと思います。

雨の音も鳥の声も、母の足音もドアが閉まる音も、そういえば幼い頃は音楽のように心を乱すものだった。そういえば世界の全ての音は、かつて音楽のようだった。(中略) KASHIWA Daisukeの耳があれば、僕もきっと世界中の音という音に新たな意味を見つけることができるのに。そこから新しい物語を紡ぐことができるのに。そんな詮のないことをつい考えてしまう。


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(minori works 公式チャンネルより)

音楽と映像、物語の息吹。その全てをフィルムに込め、それこそが映像の主体となるように一つ一つのパーツを組上げていく新海監督の持ち味は多くのストーリー型のOPを手掛けたことでより洗練された強さを身につけていったのではないかと思います。それも 「音楽に合わせて映像を組み立てていくPV制作はとても楽しい」*3 と語る氏の原点的な作品群でもあるというか。だからこそminoriで新海監督が手掛けた映像作品は今観ても尚感動が出来るのだと思いますし、氏の映像を観ては物語が宿らされたオープニングってやっぱり本当にいいものだなと感じ入ることが出来るのだと思います。

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というわけで少し当初の話題から新海監督の話へと話の軸がシフトし過ぎてしまったので、最後に幾つかストーリー型のOPとして素晴らしいものを挙げた上でこの記事を締めさせて頂こうと思います。

一つは『ef a tale of melodies.』のOP。上記で挙げた原作のOPとは趣向が大分違うのですが手掛ける監督の色が変わればこうもフィルムは変化するのかと思い知らされたOPです。しかしながら、そこに宿る物語の強靭さは新海監督の映像にも引けを取らない素晴らしいものに仕上がっていたと思います。大沼心監督快心のOPだと思います。

そして次に挙げるのは『失われた未来を求めて』のOPです。こちらもストーリー型という点では本当に素晴らしいものに仕上がっていたと思います。放課後から向かう天体観測、そして朝日を見るまでの時間経過を丹念に描いた上で、夜明けというモチーフに失われた未来への到達を予見させる辺りが最高に物語してるなぁと思います。こういう映像を観てると改めて物語の組み込まれたOPの良さを実感させられますね。ストーリー型のOP、本当に素敵だなぁと思います。

*1:『eden*』は新海監督の関わった作品ではありませんが、その影響を大きく受けた作品として挙げています。

*2アニメスタイルイベント 新文芸坐 新海誠監督作品オールナイトでのコメントより ※正確なコメントではなくニュアンスを含みます

*3:新海誠監督HP Other voices -遠い声- minori OP WORKS 前説より

2016-06-14

赤い傘、心の壁、牧穂乃果曰く / 『キズナイーバー』 7話

物語もいよいよ佳境に差し掛かってきた 『キズナイーバー』 7話。語られたのは常にポーカーフェイスを決め込む牧穂乃果の過去と今の彼女に至るその出生の秘密だったわけですが、その軌跡に描かれていたのはやはり辛く険しい物語そのものでした。

信じたい気持ちと信じた先に幻視してしまう絶望の未来。誰だって傷つきたくない、傷つけたくないと願う中で、それでも自らの心を守る判断を下した穂乃果の決断は決して咎められるものではないと私は思います。だって、失うことは誰だって怖い。いっそのこと最初から 「無い」 方が良かったなんて思う程に持っていたものがその手の内から消えていくことって凄く恐ろしいことで、だからこそ突き放してしまった彼女の気持ちも痛い程に伝わってくる。

それこそ彼女自身、その心の距離感に苦痛を感じていなかったはずがないし、むしろ 「瑠々と距離を置く」 という決断は彼女が痛みを押し殺しながら刻んだ傷でもあったはずなんです。裏切ったとか、見捨てたとか、そんな単純なことじゃない。決してそんな風に割り切っていいことじゃないんですよ。

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けれど仁子の言う通りそれは “穂乃果だけの気持ちであり、彼女自身にしか分からない【痛み】” でもあるわけで、その真意も伝えようとしなければ誰かに伝わることは決してない。

それは瑠々がどういうつもりで穂乃果を押し倒したのかが分からないことと同じように。つまりは人が他人の感情を完全に掴むことって絶対に出来ないんだってことをそれは逆説的に証明してしまうんですよね。本当に仲が良ければその輪郭くらいは掴めるのかも知れない。でも、その内情は分からない。そしてそれはあのキズナシステムをもちいても実現には至っていないわけで、云わばそういう “心の壁” とさえ呼べる強靭なバリケードを人間は抱えている。

自分の明かしたくない気持ち、想い、感情。そんな抽象的で曖昧なものを外に漏らさないために打ち付けられた心の壁。けれど、その壁は外に出したくない気持ちを心の外に漏らさずに済む替わりに、外へ押し出さなければ心が壊れてしまう感情の濁流をも押し留め、その内側から人を蝕んでいく諸刃の剣。だからこそ、ようはバランスが大切だと思うんですが、穂乃果の場合はその全てを堰き止め何もかもを自らの内に閉じ込めてしまったことが今の状況に繋がる最悪の形を象ってしまったのだと思います。

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故に彼女は素直になれない。自分自身に正直になれない。彼女自身は正直に生きているつもりでも、時折崩れるそのポーカーフェイスから滲むように感情が溢れ出し、彼女の “心” が何処にあるのかを分からなくしてしまう。

分からないから進めない。分かりたくないから進まない。前へ出そうとする足はその場を空転するばかりで、あの日から穂乃果は一歩たりともその場を離れることが出来ていないんです。抜け出すことも出来ず、突き進むことも出来ずにただ漠然と過ぎたであろう彼女の月日。もはや彼女にとってシャルル・ド・マッキングとは呪いの言葉でしかなくなっていたのでしょう。

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もちろん、二人の過去が “呪い” になってしまったことの原因の一端は瑠々にもあるのだと思います。彼女の言葉が穂乃果を苦しめ、その思考に下方修正を加えていったのはまず間違いない。

けれど穂乃果自身も瑠々には “言えなかった” 言葉が確かにあったわけで、その点を鑑みれば瑠々だって同じように “進めなくなって” いたのかも知れないんですよね。二人揃ってのシャルル・ド・マッキング。あの漫画がもし大団円を迎えるのならそれは二人の手によるものでなくては成立しない。

また、だからこそ頷けるのは 「最終話の評判が悪かった」 という世間の一説。だって一人じゃ描けるわけがない。二人で築き上げてきた物語は決して一人の筆先では埋まらない。一筋縄じゃないんです。そんな簡単に突き放せるわけないんですよ。

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でも逆に、だからこそ彼女は最終話を一人で描くことへと踏み切ることが出来たんじゃないかとも思うんです。だってあれは物語の続きじゃない。漫画という媒体の最終話。その体を成して描かれたあれは間違いなく “穂乃果と瑠々が辿り歩んだ物語の最終話” に他ならないからです。

瑠々が精一杯の気持ちを込めて紡いだ言葉。いつか穂乃果がもし、このページを読むことがあればその言葉があなたの心へと届き、その支えとなるように――。「あなたの笑顔が、大好きだから」。

一番伝えたかった言葉を、一番伝えたかった人へ向けて描いた最終回。それは進むことが出来なくなってしまった瑠々がそれでも前へと進もうとした証に他ならず、形容するならそれは決して “呪い” などではなく、むしろ “希望” とも呼ぶことの出来る言葉だったのではと思うのです。そしてもし、穂乃果と瑠々の間に違いがあるのだとすればきっと “そこ” なのでしょう。

相手の本心が分からない中にあって、それでも私には伝えたいものがある。傷つくかも知れない。嫌われるかも知れない。けれど伝えなければ何一つ前へは進めない。心の壁を破り、たった一言伝えてみるだけでいい。「笑って」って。「大好きだよ」って。たったそれだけのことがこんなにも眩しく前を照らしてくれる。だから進んでいける。歩いて行ける。“伝える” ということがいつの日かの道標になる。

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悲しみは其処此処に積もる。それは時に激しく、時にしたしたと降り注ぐ雨のように、心の底に溜まり辛かった記憶を映し出す鏡にもなる。だから、傘は必要だ。こんな薄暗いどんよりとした天気の日にはいっそ真っ赤な長傘を差して一人歩くのもいいかも知れない。もちろん気分は晴れない。けれど、これ以上悲しみに晒されずに済むから。ああ、なんて便利な傘。心の壁。我が心の壁。

けれど、少しそこから顔を覗かせてみるとそこには “友” と呼べるか呼べないかまだ分からない奴らの顔があって、実は雲間にもたくさんの星々が輝いて居ることを知って、降り注ぐ雨にも意外と嫌な気持ちを抱かないことを彼女は知るわけです。

それは “伝えてみなければ分からない” ことと少し似ていて、だからこそあの瞬間、彼女は自らの心の壁を少しだけ取り除き 「キズナイーバーから始めませんか?」 と、彼らに伝えることが出来たのだと思います。誰に諭されるわけでもなく、誰に従うわけでもない。傘を持つ手を自ら降ろすことの意味は、見た目以上に大きい勇気ある “あの日” から前へ進むための一歩に他ならないのでしょう。

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そして、それは伝えることの大切さを語ると同時に “他人の感情を完全に掴むことは出来ない” という一つの事実に対する “それでも人の感情はどこかで交わるのだ” という希望をも雄弁に語り掛けてくれているのだと思います。

感情と感情、痛みと痛みの交錯の物語。心の完全な通いを否定しておきながら、しかしそれらが象る感情の曲線は必ずどこかで交わるのだと力説する 『キズナイーバー』。何より、その交錯する点こそが “絆” であり “希望” に他ならないということをこの作品は伝えたかったのでしょうし、今回の話で言えば穂乃香と瑠々にとって 「あなたの笑顔が好きだから」 というそのたった一つの心の通いが “希望” であり、“交錯点” だったということを描きたかったのかも知れません。

最後に、願わくば彼女の零した言葉がどうかあの人の元にも届いていますようにと祈りつつ。「私も――」 と伝えることの出来た彼女の成長とその大きく踏み出された一歩に今はただただ心を寄せていたいなと思います。

2016-05-11

痛みを知るということ、知られるということ / 『キズナイーバー』 5話

傷の絆の第二フェイズ。物理的な痛みによって生じた繋がりが今度は精神的な痛みを介しても生じ始めたと言うのだから驚きで、正直私はそうした “心の痛み” といった部分までこのキズナシステムが介入してくるとは考えていませんでした。

物理的な痛みを介して心の痛みにも気づき始めていくストーリーライン。そんな物語を想定していたものだから、勝平が感じていたものが 「心の痛みだ」 と気付いた時にはそこまで踏み込みこの作品は彼らの背中を押していくのかと感嘆とさせられてしまった程で。

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心と心の葛藤、感情と感情がぶつかり合い想いを少しずつ他者に接続していく物語のスタンスはそれこそ『B★RS』を筆頭に幾度か目の当たりにしてきたフォーマットだったわけですが、この作品は遂に “登場人物が抱く心の痛みを同じレベルで共有させる” という新たな境地を描いてくれました。

そしてそれは 「心の痛みが分かる」 なんていう不安定な言葉よりも一層の強靭さを獲得した 「心の痛みが流れ込む」 という次のフェイズへの飛躍であり、実験でもあったのだろうと思います。心の中を覗くわけでもなければ、心の中を探るわけでもなく、ただ淡々と痛みを伴う感情の奔流が流れ伝わっていくという “実感” の獲得をこの作品は徹底して描こうとしている。

あの日、あの瞬間。どれだけ “あなた” の心が傷ついたのかという事実がどれだけ人の意思決定に影響を与えるものなのか。それこそ今回の一件でキズナを埋め込まれた男子生徒は 「なんで俺ばっかりこんな目に...」 と嘆いていたわけですけど、そんな言葉が出てしまうことこそがそもそも彼自身が人の心を汲み取れていないことの証左として描かれていたということなのでしょう。

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けれど、だからこそ他者の痛みに敏感であるということはとてつもないアドバンテージにだって成り得るんです。それは何をしていなくとも相手の痛みが伝わって来てしまうからとか、痛みを共有できるからとか、そういうことでは決してなく、どれだけ他者から自分という存在が思われていたのかということの気づきにも “その痛み” は繋がっていくんだってことなんですよね。

自分自身では気づけなかった自分自身の存在価値。自分なんかどうなったって構いはしない、殴られようが傷つこうが誰にも関係はないと思っていた日々の幻想がキズナシステムの力によって 「そうじゃないんだ」 と暴かれてしまうことの是非をこの作品は問いただしてる。

それこそこれから物語が進み続けていけば 「こんな気持ち知らなきゃよかった」 と思うことだって少なからずあることだとは思います。痛みを絆に変えてなんて言葉にするだけなら簡単なこと。必ずしも痛みが通じることがプラスに働くことばかりではないし、それは物理的なものであれ、精神的なものであれ同じことです。だからこそ決してキズナシステムは万能な存在とは言えないし、このシステムの構造に憎悪を抱く者が現れてもなんら不思議はないのだろうと思います。“痛みを知る” “知られる” ということはそれ程までに繊細でいてデリケートで、人の価値観と関係の成り立ちにおいて大きな影響を及ぼすことだから。

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まただからこそ、今回の出来事はそれこそほんの一例なんだろうとも思うのです。痛みの伝播が一人の少年の価値観を大きく揺るがしたという一例が描かれただけで、それこそこれは勝平と千鳥二人の物語にのみ適応されたキズナシステムの有効例でしかない。故に今回の一件でキズナシステムに全幅の信頼を置くということも決してありはしないし、勝平と同じように自分自身の存在価値を捨てていた穂乃果が同じようなストーリーテリングを迎えるとは全く限らない。

けれど、キズナシステムの傷の奔流により一つの夜が明け、彼らの前にとても綺麗な朝焼けが現れたという事実はこの物語においてとても重要なターニングポイントにも成り得るものであると私は考えます。傷の絆のリスクの高さはきっと彼らを惑わせ、より一層その心を傷つける。けれど今日この日に見た朝日の美しさがその物語の先にあることも僕たちは知っている。

そして “知っている” ということはやがて “強さ” にさえ繋がっていく。それは痛みにしても、経験にしても。だからこそ今回のような一件や深まり続けるキズナシステムへの理解を通し、彼らがこれまでの価値観や考え方をこれからどう変化させていくのかといった点が楽しみで仕方ありませんし、そうして彼らが辿るこれからの物語をそれぞれしっかりと見届けていきたいと今は強く願っています。それこそ個人的には今回の朝焼けのようなスッキリとした終幕を期待してはいますが、いやはや、どうなることやら。本当に今後が楽しみな作品です。