キルギスの馬

先日、岩波ホールキルギス映画「馬を放つ」を見ました。キルギスの映画自体も初めてでしたが、3年前にキルギスを歩いているのでどんな情景が出てくるかという興味もありました。映画は遊牧文化を深く感じさせる内容でしたが、ここでは旅行の時感じたことを記してみます。
首都のビシュケク、ここはソ連時代はフルンゼと呼ばれていて成田からの預けた荷物の札にFRUと書かれてあるのはそのためだと言うことでした。首都の中心部の道路整備は立派で、巨大な街路樹の並木が続いています。
走っている車に日本車の多いのが目を引きます。中古車の輸入が多く、日本車は十万キロ程度しか走っていないので人気が高いと言うことでした。
案内してくれたガイドの車もスバルで、彼は「スバル」がどういう意味かと聞いてきました。彼の家(部族)の紋章(記号)は北斗の七つ星だと言っていました。キルギスには40いくつかの部族があって、それぞれを表す記号が決まっているそうです。走っている日本車は皆右ハンドルですが、ここの交通ルールは左ハンドルの国で、どちらも半分ずつ走っている感じです。
やはり馬の国だと感じたのは、公園に並んでいた絵のバザールの中に馬を描いた絵が非常に多かったこともあります。買って行く人が多いと言うことでしょう。もう一つは街を歩いて犬はたくさん見かけるけれども猫を全く見かけないことです。これも犬を大事にする遊牧文化なのかと思います。あとで聞いたことですが、この地に暮らすロシア人は割合よく猫を飼うということでした。

ジョージアの桃源郷

日本も桃の花の季節で、山梨あたりの見事な桃畑の写真が見かけられますが、ジョージア(グルジア)の田舎の山岳地帯でも桃源郷のような風景を見ることが出来ました。スワネティ地方の山岳道路をメスティアという町を目指し走ると、初めは日本でも見慣れた山の風景でしたが、いくつか峠を越え次第に雪山が近くなると道は荒れてwindingを繰り返すようになります。深い渓谷沿いに小さな村々が点在し、桃か杏に似た花が咲き誇って本当に桃源郷のたたずまいでした。
ただ、その途中でガイドが気になることを話してくれました。
『このあたりに山賊がしばしば出たことがあるんだ』
聞けばこのあたりの村に住む母親と息子が組んで、通行人を殺し持ち物を奪うことが頻繁にあったというのです。結局その二人は逮捕され死刑になったということですが、それはわずか六年前のことだと聞かされて驚きました。
またもうひとつ、険しい山の途中に一カ所、西の方面に分かれて行く道があり、洞窟の中をくぐるように細く曲がりながら続いていました。
『あの道はアブハジアの紛争が起きた時、たくさんの難民がここを通って逃れてきた道だ』
とガイドが言っていました。今から十数年ほど前のことです。イスラム系民族とキリスト教ジョージア人の間の争いにロシアが介入して戦闘になったと言うことです。アブハジアはロシアといくつかの国だけが認めた独立国となっています。
『難民たちは何日も食料もなしに歩き続けてジョージアに逃げてきた』
話をする若いガイドも辛い思いを抑えるような表情をしたのをよく覚えています。

ジョージア(グルジア)について

先日の大相撲初場所ジョージア(グルジア)出身の力士・栃ノ心が優勝しました。4年前ジョージアを旅行した時、現地のガイドがこう聞いてきました。
『日本の大相撲にジョージア出身の力士が3人いるのを知っているか?』
 当時私は知りませんでしたが、ガイドはすらすらと3人の名前を挙げました。
 『黒海栃ノ心臥牙丸
 黒海という力士はすでに引退しましたが、あとの2人は大抵の人が知っています。もともとコーカサス地方は格闘技の盛んな地域で、レスリングや柔道に強い選手をたくさん輩出しています。大相撲もかなりの人気らしいのです。ガイドは鼻をうごめかしていました。

 ジョージアの産業は農業(ワイン、野菜、果物・・の輸出)、水力によって発電された電気の輸出、ミネラルウォーターの輸出等が主ということでしたが、以前は最大の輸出先だったロシアが関係悪化のため頼れなくなり、今は多方面に広げる努力をしているそうです。そう言えばジョージアのワインは日本に少しづつ入ってきています。我が家の近くの生協にも入っていますから。

 若い人の仕事探しが困難なことはいずこも同じ様相ですが、その当時タクシーの運転手はほとんど大学出だと言っていました。

 クタイシという街で市場を歩いていると、タマネギを売っていたおじさんが
 『ヤポネ(日本人)か?』
と声をかけてきました。そして
 『漁船に乗っていた時、サハリン、稚内あたりへ行ったことがある』
と言っていました。田舎の人々は非常にフレンドリーで、よく一緒に写真を撮らせて貰ったことを記憶しています。

アイラ島を前に

長い間(本当に長い間)ブログの更新を怠っていましたが、しばらくぶりに(本当にしばらくぶりに)再開しました。間を空けてしまいましたこと、申し訳ありません。

 最初に書くことは、昨年夏のスコットランド行きのことです。
 スコットランド北端の島をいくつかまわる計画でした。最初にアイラ島へ行くつもりでしたが、のっけから躓きました。グラスゴー空港から小さな飛行機に乗って飛び立ったまでは予定通りでしたが、2時間弱のフライトでアイラ島上空に到達したものの、いつまで経っても着陸する様子がありません。何度も着陸を試みてはまた上昇して旋回を繰り返したのです。結局悪天候という理由で引き返す羽目になりました。こちらはアナウンスがよく聞き取れず、やっと着陸したのでてっきりアイラ島に降りたのだと思っていましたがよく見ると元のグラスゴー空港に戻っていたのです。
 さてそれからが大変でした。まずその航空会社のデスクの人たちの言葉が聞き取れません。普通の英語と言うよりゲール語の発音が混じっているのか、説明されてもよく分からないのです。業を煮やした担当の職員が空港の案内所まで連れて行ってくれ、そこでやっとフライトのキャンセル、島に予約してあったホテルのキャンセル、料金返還の手続き、そして押さえなければならないグラスゴーでのホテルの手配等を済ませました。会議や何かの行事の集中のため、グラスゴーのホテルを探すのにも難渋しましたが、最終的にかなり高いホテルに連泊することで何とか決着しました。
その後の旅程のこともあり、結局楽しみにしていたアイラ島へは行けずじまいだったわけです。

 アイラ島には知られたウィスキー蒸留所がいくつもあり、バスや徒歩でそこを巡って歩くのを楽しみにしていました。少し癖のあるシングルモルトウィスキーの銘柄が揃っています。だから三日間もかけてゆっくりとまわるつもりでいたのですが。
 いつかまた訪れる、とそういう気分です。

 付け足しながら、予定外の宿泊をすることになったグラスゴーの街は思いの外良かったという印象です。建築・家具デザインのマッキントシュ関連の建物、そしていくつかの古いパブ。

世界で最も美しい書店

 最近テレビの番組の中でもやっていましたが、世界で最も美しい書店という触れ込みの書店。ポルトガルポルトの街にありました。教会へ向かう坂道の途中、気をつけていないと見過ごすような入り口ですが、中へ入ると確かにこれはと思わせるたたずまいでした。最も目立つのは中央の装飾を施した緩やかならせん階段。まるで天国へ上ってゆくような作りです。天井、内装も木の教会のように見えます。フロアは三階までだったと記憶します。本の数がそれほど多いとは思わなかったのは並べ方のせいだったのでしょうか。日本の三島、川端といった本も見かけました。夏休みだったせいか、あまり本とは縁のなさそうな観光客も多く、落ち着いた雰囲気とは言えませんでしたが、これが秋から冬だったらまた全く感じが違ったのかもしれません。三階のフロアにはカフェがあって、ワインも飲めました。
 土産にと買ったのは表紙がコルクで出来た厚めのノート。コルクがポルトガルの特産だったことは行ってみるまで知らなかった。汽車から見るとコルクの木の畑が延々と続いています。教えられるまではそれと分かりませんでした。何年かに一度、木の皮を剥いで使うのだそうです。もちろんメインはワインの栓として。
 本好きは美しい書店のイメージをそれぞれ持っているのだろうと考えます。日本の古い小さな街で、若い人がそういうものを少しずつ作り上げてゆくような気もします。屋敷跡や蔵などを利用して。希望的観測です。

ノマドの国

 アルジェリアでの大変な事件が起きてからもう日にちがたちましたが、それらのニュースの中で、サハラに住むトゥアレグの人たちが分離独立運動をしているということがありました。どこからの独立を目指しているのか、アルジェリアから?マリやチャドから?。はっきり伝わってきませんが十数年前からと言っています。トゥアレグはサハラのノマドで、確か家畜や塩などの交易で砂漠を自由に行き来する人々です。自治を求めているだけなのか、本当に国というものを作ろうと考えているのかはっきりしませんけれど、あの人々に国という概念が本当に合うのだろうかというのが最初に浮かんだことです。
 三十数年前、アルジェリアのサハラにあるタッシリという古代の岩絵で有名な場所へ行ったことがあります。フランス人のグループに入り、トゥアレグのガイドに連れられて十日ほど砂漠と大地溝帯と言われる岩山の地帯を歩きました。トゥアレグの人々は皆、黒または青の衣装にすっぽりと身を包み、非常に精悍な感じでまた高貴な印象を抱いたことを記憶しています。厳しい自然の中で生きることで刻みつけられたものという印象でした。サン・テグジュペリの「人間の土地」にも出てくる人たちです。
 国というものがいったい何なのか、境界を引くという行為はほとんど不可能に見えますが、有効なシステムというものは果たしてあるのでしょうか。ノマドの国という言葉自体が矛盾を含んでいますから。

エスペラントと猫語

 インターナショナルな言葉としての英語については様々な議論があります。確かに現在、英語を話さなければあらゆる分野で世界と渡り合ってゆけないのは確かです。何故日本人がこんなに英語を(あるいは英語以外の外国語でも)苦手とするのかよく分かりませんが、複数の言葉を話すのはこれからもう当たり前のことになって行くのだろうと思います。ネイティブのように話す必要は全然ないわけですから。フランス人も割合英語の苦手な人たちだと思っていますが、さすがに若い人たちはかなり話せるようになっています。昔、フランス人は分かっていてもわざと英語を話さないのだというような言われ方をする向きもありましたが、あれは間違っていると思っていました。フランス人は本当に英語が話せなかったのです。ある年代以上の人たちは、例外を別として皆恐ろしく下手でしたから。今の若いフランス人たちが、フランスでの英語の教育がなっていないと言って怒っているのを聞いたことがあります。

 ところで、インターナショナルな言葉が何故英語でなければいけないのか。歴史的な経緯は別として、人工的な国際語を作ろうという発想は出てきて当然でしょうね。エスペラント宮沢賢治も習得しようとしていたようです。ただ、エスペラントラテン語の系譜を引いているように感じますから、我々に対する壁はあまり変わらないかもしれません。それならいっそ猫語でも持ってきたらどうかな。あれならどこへ行っても同じようだし。(本当は結構違うのかもしれないけれど)

 最近、母国語ではない言葉で小説を書く人が多くなっていると感じますが、作品がわかりやすく、その分、清明なあるいは大きなものが見えやすくなるような気がすることがあります。自分の意識下の構造とそれを表現するときの言葉の構造の関係はどうなっているのでしょうか。猫語で書けるようになったらユニークなものが書けるかもしれない。(また)。