帰還

検査などが滞りなく進み、当初の予定よりだいぶ早く退院できた。

久々のマイPC、久々の執筆、久々の我が家。嬉しい限りである。

本来であればその病名を告知された時、嘆き悲しみ半狂乱になってもおかしくない病気なのだが、今までの人生が過酷すぎたせいで、個人的には今まで受けてきた不条理な苦難の一つでしかないという認識であり、その心理はごくごく落ち着いている。

「またか・・・」という感じである。

神は、私にいくつの試練を用意すれば気が済むのか。

ネットと隔絶された状況の中、唯一の繋がりであった面会室のフリーパソコンでヤフーニュースだけチェックしていたのだが、退院当日に飛び込んできた障害者施設襲撃の一報。

退院当日で少し浮かれていたのだが、強烈に現実に引き戻された。

こういう時に思い出す言葉は、“たまたま勝ってきたに過ぎない”というフレーズ。

私は今までの人生で、自分が勝ち組であるなどと思ったことはただの一度もないが、この勝ってきたというのはそういう次元の話ではなく、様々な命に関わるアクシデントを日々潜り抜け、今日まで生き長らえることが出来たことについて、「勝ってきた」という表現を用いている。そしてそれは、あくまでも「たまたま」であると。

昨日で死んでいたかも知れない。一昨日で死んでいたかも知れない。無数の死に繋がる網の目を、今までは運よく通り抜けてこられた。けれども、それが明日以降もそうである保証など存在しない。

たまたま自分の命が生まれたように、死ぬ時もまた、たまたまなのである。

あなたの命、あなたの健康、それはいつか当たり前の顔をして終わる時が来るのです。何気なくクズをゴミ箱に投げ捨てるかのように、何の躊躇いもなく終焉の時を迎える。

たまたま勝ってきた・・・私はあまり感謝という言葉が好きではないが、まだ自分が死んでいないということに関して、少なからず謝意を抱くというのは、ごくごく自然なことなのかも知れない。

生きてさえいればいいというのは、本当に本当に綺麗事です。けれども、それ以上に美しいことがあるだろうか。

すべての命は、生きたいと思って生まれて来るのではないのか。

短くても、長くても、最期まで命が生き長らえようとするのは本能だろう。

自分に赤い血が流れていると知るのは怪我を負った時だけだが、自分の中で確かに生きるための血が流れているというのは、体が生きようと願う証に違いない。

人生は単なる苦難の連続でしかないけれど、少しでも少しでも、面白おかしく生きようじゃないか。

一つでも笑えることを見つける。

一つでも楽しめることを見つける。

私は、見いだすという言葉がとても好きです。

理由や意味というのは初めから用意されている訳ではなく、自分で見いだすのです。

それは新しい発見であり、尊い気付きであり、僥倖ともいえる天啓です。

今日もまた歓び一つ見いだして、長く険しい道を行く。