子猫の夢

よしこの子猫を見に行った。アーティストである彼女の広くないアパートは、ダンボールとコーヒーの麻袋で作った「にゃんぐるジム」各種でいっぱい状態、それを縫って人間は歩く。ちょっと前までは話をすればアート一筋で近隣のカフェなどで華々しく個展を開いていたのが、現在は「ナイジョー」(Nagel)のことばかり。子供、というより孫に近いかわいがりようである。去年愛猫タイソンをなくしたのでBFの「隣の男」Justin君がバースデープレゼントにもらってきてくれた。外人らしからぬおしょうゆ顔、色は「ブロンド」で筋肉質(これは日々にゃんぐるジムでのワークアウト効果らしいが)。いろいろある手作りおもちゃのなかでもユニークなのは、黄色いコードの「へその緒」でコードの端っこをベルトに挟みナイジョー君をじゃらす。よしこ=ナイジョーにはすでに深い絆があるのでJustin君はこの「へその緒」で絆作りにはげんでいるのだそうだ。からだのおおきいハンサムボーイの彼が黄色いひもをおなかにつけてジーっと横たわり子猫と絆を結ばんとしてる図を想像してると、最近見た「アバター」をおもいだした。尻尾、あるいはお下げ髪の先っぽで、馬や鳥と交流して「絆」を作り、命の木の声を聞く。思うだけで、心が通じる。「もう、絵なんか描いてられへん」という彼女は、ひねもす子猫と遊ぶ。

荘子は夢で蝶になりきって飛び回り、夢から覚めて愕然としてしまう。蝶は夢なのか、それとも自分が蝶の見ている夢なのか。「アバター」では科学的にその二つの世界へ行き来できるようになるわけだが、主人公は、大いなる自然、命の母との絆を持って生きるほうを選択することになる。子猫と以心伝心で遊ぶよしこは、寝てもさめてもそこにいる子猫の夢になったように見えた。

何もない静かなクリスマス

5週間の日本滞在から帰ると、ハリソンからのサプライズ・プレゼントが待っていた。新しいカーペットと、新しく塗られた壁と。カーペットは曇り日の入り江のような少しくすんだ青磁色で、壁は明るい目のグレイ。目になれないうちは何だかくすんでるなという印象だったが、絵でも何でも色彩を際立たせて見せる効果があると説明された。なるほどなんとなく、かけてある絵の色がよく見えてくる。二階にあったすべての「モノ」は箱に放り込まれて階下のスタジオスペースいっぱいに詰め込まれてあった。で、帰国以来時差ボケしている暇もなくこれらの「モノ」たちと対決している。
なるべく何もない空間という要素をとっておきたい。
・・・物ひとつない空虚な部屋にはさんさんとした太陽の光が差してあのような明るさがあるではないか。幸福もまた、足掻きをやめた空虚な心にこそ、とどまり宿るのである。それを知りながらなおかつ足掻きをやめることを知らないものは、座ったままで走ることをやめないもの、永遠に休息を知らないものである。(荘子、内篇第四 人間世篇)
 と、荘子のいう「虚室」とまではとても無理だけれど、ちょっととっておくくらいはできる。どこに、どう「虚」をもってくるか。そんなことを考えて毎日楽しんでいる。こんなプレゼントなら、いつも自分に上げられるな、永遠の暇つぶしって感じだ。

クリスマスの朝はいつもとても静か。今朝は霜が真っ白におりて、たださんさんと陽がさしている。
 

かもになってもいいかも?

shokoza2007-02-08

麗江について三日目、ぶらりと二人で、朝の町を歩いていると、健康美人に声をかけられた。「郊外の自然公園にご案内しますよ。景色もすばらしく、納西族の村もごらんになれます。」という。遠いの?と聞くと、ほんの十分という。公園なら入場料は、いくらなの?といえば、私と一緒なら、30元の入場料はただになります。という返事なので、行ってみることにした。健康美人のご亭主が車で送り迎えして一人10元でいいという。結構な山坂を越えて、ついたところは、だだっ広い寒風吹きすさぶ、平原と湖と周りの山。小型の馬がたくさんつないである、集合場所に落とされるとそこが「自然公園」なのだった。オフシーズン観光客(カモ)は、観光専門の納西族の若者にひきわたされる。公園をお馬にのせてもらって一回りする80元コースから、40分馬の背に揺られて、山中のすばらしく神秘的な森や流れを案内するという800元コースまで、どれかを選びなさいと、厳しく迫られる。写真はどれもすばらしいけど、5月くらいに撮ったんだろうなあというものばかり。しかもこっちは風邪が治ったばかり。ひきかえそうとすると、納西族の村に馬でご案内プラス野生の鶴の群れ見物100元コースを20元まける、とねばるので、ちょっとお馬さんに乗ってみたかった私はやっとオーケーする。どのくらい乗るの、寒いのは嫌よというと、いやホンの十分だというのである。営業の若者は渋い顔で、私たちを案内係に引渡し二人はかくて馬上のひととなった・・・のはいいんだが、馬もおとなしくってかわいいんだけど、結構揺れるのね、馬って。上下動激しくって、小走りになると頭に響く。村は山の斜面にあり、滝があって水車があって、小高い丘に登ると水牛で畑を耕しているのどかさ。てっぺんの何にも無い平地は、文化大革命で壊されたお寺の跡地であった。
 民家を見せてもらえることになり、入った家はさっきの営業係の家(と、案内係がにやにやしていう)。なかなか立派な四方院で御嫁さんと、おしゅうとさんと、そのお母さん(100歳)が出てきて歓迎してくれる。20元も値切ったけちな客とはしらないから、みかんやピーナツまでご馳走してくれる。おばあさんが、元気で丈夫そうなのに驚いた。一緒に写真をとったが、肩に触れてその頑丈なこと、全身が、地に深く沈んでいるような気の沈みようにまた驚いた。結局一時間近く馬に乗って(寒いから、吹きっさらしの鶴のところは省略して)帰ったけれど,あのおばあちゃんにあえただけでもカモになってよかったかも。と思った次第である。

北京から成都までの汽車の旅

shokoza2007-02-04

12月25日、混んでいる北京駅で、携帯用魔法瓶を買い込んで列車に乗り込む。高いほうの寝台車(安いほうは3段ベッド)の下の席に落ち着き、道中は持参のかぼちゃの種と干し棗をかじり、ひたすら、お茶を飲む。お湯だけは常備なのだった。上の段の二人は、30そこそこのビジネスマン風。一人は布団に入りっきりで、たまに携帯をかたかたやっている。もう一人は通路にでて携帯。窓の外はずーっと農村、町、農村。四川省に入ると、山が多くなり河を挟んで美しい山の景色!と思うとトンネル、ア、綺麗!トンネル、の繰り返しであった。なんとなく風邪気味の私は、お茶の合間にとろとろと眠り続け、食堂車とトイレに行くほかは26時間中ほとんど寝ていた。
 かんしんしたこと。線路際すれすれまで、菜っ葉が植えてある。住宅の入り口、道路っぱた、菜っ葉だらけだ。おいしそうだな〜とおもってみていた。後は、だんだん畑がずーっと、山の上のほうまであること。断崖絶壁のさなかに、ひょこっと小さな建物がたっていたり、まるで山水画と同じ。どんなひとがすんでいるんだろう?
 

 

ペットとしてのこおろぎ

shokoza2007-01-30

許老人宅では、生きたこおろぎには会えなかったのが、数日後タクシーの中でずぃ〜ずぃ〜と妙な鳴き声がするのでハリソンが「ひょっとして,グオグオですか?(中国語では、虫偏に国と言う字をふたつでグオグオという)」ときくと、運ちゃんは得意そうに懐から出して見せてくれた。気温が下がるのか、すぐなきやんでしまうが、内ポケットに戻すと安心してまたなき始めた。こういう自然なバイブレーションを身につけるようにしていたら体によさそうだなあ・・・
 そして、ある日書画骨董を扱う店の並ぶ琉璃廠に友人を訪ねた折、ついに実物と対面したのである。北京ダックを食べに行って隣に座ったのが、30代の骨董やさんで彼が懐に持参していた。生野菜・果物ならなんでもたべるよ、というので人参のきれっぱしとパセリをやるとどんどん食べる。意外に大きく、色はブルーと緑。しばし北京ダックそっちのけで遊んでしまった。
 3〜4ヶ月の短い命なんだそうだ。すきなひとは、仲間内で闘鶏ならぬ闘グオグオをやったりもするらしい。お腹がいっぱいになるとちょっと羽をこすってないてみてくれたりした。愛いやつじゃ・・・と思いきや、手の上をどんどん歩き出したのでまた入れ物にもどした。
 もし私が北京に住んでたら、小鳥とこおろぎをやっぱり飼うな。毎日、鳥の散歩。ふところには、こおろぎ。凍てつく寒さも忘れてしまうかもしれない。

三度目の北京

はじめてきたのは1993年の暮れ、二度目は2003年の暮れ、そして三度目再び師走。この前の時は10年ぶりだったので、ハイウェイを走るVWの小型車とか林立する高層ビルに驚いて写真を撮ったりしたが、今回はそういうビルの14階に泊まらせてもらい、窓下の朝晩の渋滞を目にしてもごく自然の成り行きとしか思わなくなった。エレベーターに乗ると14階はFと表示されている。14はヤオス「要死=死にたい」という意味なので避けられているのだそうだ。

 ついた日は夜遅かったので隣にあるセブン・イレブンで菓子パンとカップラーメンを買ってしのいだが、昨日は近くの市場へ買出しに行く。古い目の集合住宅の広場に屋根付きで仮設されていてうす暗い屋台の裸電球の下に野菜や卵や果物がならんでいる。こういう市場は十年前とまったく同じで、安いし質もいい野菜や肉がある。晩のおかずの算段をして買い物をするとやっと足が地に付いて人間に戻った気がする。よその土地に行くと必ずこれでオックスフォードでもニューヨークでもそうだった。北京の市場はオリンピック前の日本の商店みたいでノスタルジーに浸ってしまう。
 肉やは豚や・牛や・鳥やと別れていて、いろんなパーツを台に並べて客の注文に合わせて切ってくれる。暇なうちは売りながら家族でトランプなんかしている。スープにする骨を買ったら肉より高かった。片隅に漬物屋を発見、高菜漬けと麻豆腐を買う。(麻豆腐というのは、北京の食べ物で緑豆を発酵させて作る豆汁の絞りかすなのだが、チーズみたいでおいしく先回来たときにすっかりファンになってしまった。)真っ赤な人参、いろんなきのこ、白菜や春菊や山芋等両手に買い物をぶら下げて暗い中家路を急ぐ。


本日はコンピューター用品を求めて外出、近くに住む許老人を訪問する。許さん宅は外見は古いアパートで中身は古い家具や透かし彫りの窓などで飾られていて素敵だ。こおろぎや小鳥を飼うのが趣味で、そのこおろぎ入れや鳥かごがまたアンティークなのだった。携帯用こおろぎ入れは、型にはめていろんな形に育てたひょうたんに精巧な彫りをいれ、象牙のふたをつけた手の込んだもの。清朝貴族の趣味だったのが革命後庶民も楽しめるようになったのだそうだ。みせてくれた本には、目の覚めるような美しい色合いのこおろぎがのっていてそれもピンクやブルーや紫なのでびっくり。今は絶滅しているのも多いのだそうだ。こういう宝石のようなのを大事に入れ物に入れ、手編みの袋に入れこして懐中に暖めながら同好の集いにでかけていくものらしい。写真を見ているとこおろぎが、だんだん猫並みにかわいく見えてくる。こおろぎなら飼ってもいいかなあ・・・なんて。
 許さんのもうひとつの趣味は書道である。満州人なので満州の字=満字の書道。サンスクリットを立てにしたみたいなすっきりとしたラインの文字でたとえば「寿」という漢字をとっても、実に抽象的なおもしろさがある。こうして,半分もいってることがわかったかおぼつかない私に親切に教えてくれる許さんをなくなった奥さんの引き伸ばした写真が見下ろしている。長男と二人でさびしくは無いだろうけれど夫婦仲のよさをしのばせる、そういう飾り方だった。





にわか女優業、顛末記

1950年代にシアトルのジョン・オカダという人が、「ノーノー・ボーイ」という一篇の小説を発表した。この本は1970年代に(作者の死後すぐに)ベストセラーになり、確か日本でも晶文社で翻訳が出ていたような気がする。今は大学の教科書にもなっているのに、ジョン・オカダ氏の生存中はまったく日の目を見ず、彼は、ボーイング社のテクニカルライターとして47歳の生涯を終えた。内容は、シアトルの日系人の戦後の一風景である。「日本帝国は戦争に負けていない。連合軍勝利は、プロパガンダに過ぎない」と狂信する母親を持ち、そのため戦中の収容所で徴兵拒否をして、2年間刑務所暮らしをしてきた長男がシアトルに帰ってくるところから、話は始まっている。こういう青年たちは「ノーノーボーイ」とよばれて蔑まれたのだった。自分は、アメリカ人なのか、日本人なのか。アメリカ兵として戦ってきた、ほかの日系青年からは、つばを吐きかけられるほど軽蔑されるが、いまさら、日本人としての誇りを持てといわれても母親のように狂っていない以上日本が敗戦したのは明らかな事実なのである。こうして二つのアイデンティティを持つ25歳の青年が揺れ動く、ストーリー。市民運動の高まり、ベトナム戦争の終焉とともにやっと日の目を見たのは、時代の成り行きだった。生前に彼は、もう一作日系一世のことを書きかけていたのだが、未亡人の手で焼かれてしまったのだそうだ。
 
現在シアトルの映画作家、フランク・安部氏がPBS(公共テレビ)のために「ノーノーボーイを探して」というドキュメンタリー+ドラマを作っていて、助監督のキャロル・長谷川女史から友人を通じてこの母親役をやるという話が来た。
はじめは座ってるだけせりふ無しということだったので気軽に引き受けたのだが、読み合わせをしたところ、あなたの声を使いたいということになり、せりふ、プラス長文の手紙を、天皇陛下みたいに朗々と読み下すというのまでやることになってしまった。18年こっちにいてもアクセントばっちり、アールとエルが聞き取れないのが幸いしてしまったのである。
 外のシーンは、ワンダーブレッドという古い工場跡の坂道を重い足を引きずって登り、また両手にパンのいっぱい詰まった袋を下げて降りてくる。というもので、キャロルが古着屋で調達してきた50年代風ウールのワンピース(古い「伊勢丹」のレーベルが着いていた!)に10年物の猫用カーディガン黒、ロレットのコレクションから40年代製のだぶだぶコートと帽子をかぶり、午後の光を背に受けて歩いた。私の後ろには、天皇陛下が約束してくれた、輝かしい軍艦(戦勝国日本が軍艦で各国の忠誠なる移民たちを迎えに来てくれるという手紙が、当時南米発で流布していたらしい。)をひきずり、息子にもすでに信じてもらえないという心の悲しみを抱いて疲れ切っている。そういうアイデアを持つように、というのがキャシーからのアレクサンダープラス演技指導であった。10回くらいおんなじことをくりかえしやって一時間ほどで撮影終了。フランクが、「よかったねえ、歩き方。足首が微妙に震えてるとこなんか、特に。」というので、びっくり。自分では、足首の震えている感覚はゼロだったからだ。いつもキャシーに「感覚は当てにならないからTHINKINGさえしっかりしていればいいのよ。」といわれてきたのが、納得できた一瞬だった。

撮影二日目は、インターナショナル地区の1910年からある食料品店のなか。大昔のだるまストーブのほかは暖房も無い。全てが時に忘れられてしまったような店内で、いろいろな年代からあるいろいろなものが、ほこりをかぶってじっとしている。店主のアンクル・ジミーは92歳というが75ぐらいにしか見えない。ジミーの父親がこの店を始めてから、ずっとここで育ち本土からの中国人をたくさん店内に住まわせて働かせていたので戦前は、ダイニングテーブル8台、二回にはお蚕棚のように何台もベッドをしつらえてあったそうだ。日本街とは隣同士だから友人も多く、強制収用の悲劇も目の当たりにしている。ジミーはシアトルでヨーロッパ戦線に徴兵された第一号だそうだ。彼の誇りがストレートに私に伝わってきた。ドアが開いて黒人のあんちゃんが、「いつもの」というとジミーはよごれきって中身が良く見えないビンからまっくろなフィリピン産「レモンの砂糖煮」を日本の駄菓子やで使ってた袋に入れてふちをきゅっとねじってわたし、あんちゃんは10セントだまをじゃらりとジミーの手の中に入れて「さいなら」。こ、これが21世紀か。
 9時〜1時までの間に短いシーンとはいえ、これも20回くらい撮りなおしたかしら。相手の男の子もシロトの大学生なので、なかなか大変。しかし若いのでせりふもちゃんと覚えてるし、何回もやってるうちにあやふやになったりする、此方とは大違いだ。頭はかなり白くして、顔もしわを寄せたメークをして、疲れーた怖い50代の母親。最近あんまり怒らないので、「怒り」の感情を演技というのがむつかしかった。時間が無くてこっちのシーンはキャシーに見てもらえなかったのが心残りだが、来年もしこのプロジェクトが軌道に乗れば、もっと撮りたいという話なので、その時は演技指導をお願いしようと心に決める。ちなみに今回撮った分は、トレーラー(予告編)になるのだそうだ。