書物蔵

古本オモシロガリズム

本の研究はあっても、本棚の研究はきはめてすくない、ってか(゚∀゚ )アヒャ

本来の意味でも法的な意味でも著作権を放棄されている(まるでヤギリトメオぢゃ)内田たつる先生の本にオモシロなことが書いてあった。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

  • 作者:内田 樹
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2010/08/17
  • メディア: 新書

でも、僕は書籍というのは「買い置き」されることによってはじめて教化的に機能するものだと思っています。

これとそっくりなことを、一度エントリにしたことがあったなぁ(*゜-゜)トオイメ

紙資料に残る効用:自称フツーのねーちゃんが有能な調査員になったハナシ. -- 書物蔵
http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20091021/p2

びっくりしたデス(*´д`)ノ

電子書籍の、紙媒体に対する最大の弱点は、電子書籍は「書棚を空間的にかたちづくることができない」ということです。その前を歩いたり、こたつで昼寝をしていて、ふと目を覚ますと背表紙と目が合うというようなことが起こらないことです。「まだ読まれていない書物」が日常的に切迫してこないなら、それは「理想我」としては機能できません。「私はこれらの本を読んでいる人間である」ということを人に誇示することもできないし、「私はこれらの本を(いずれ)読み終えるはずの人間である」と自分に言い聞かせて、自己教化の手がかりとすることもできない。(p.159)

文中の「人」とは他人の場合もあるし、なんとまぁ、自分の場合もあるというわけ。

紙の本が電子書籍に対して持ちうる最大のアドバンテージは、電磁パルスは「自我」の幻想的な根拠を構成することができないがゆえに、他者の欲望を喚起することができないということです。でも、紙の本を並べた書棚はそれができる。

ほへー( ・ o ・ ;)
Reference toolを中心に、かなりの部分が電子ファイルへ移行していく図書館においても、紙資料の「教化力」は残しておくべきということが、内田先生のエッセイから得心できる。ってか、セドリ師(自称)わちきがゆーのもなんだが、司書はこの本、必読だね(o^ー')b

さういへば似たような事象を社会科学的に。。。

内田先生の記述は書斎の人文学的分析ということになるけれど、ふと思ひだして、こんなもんをひっぱりだしてみた。

  • 情報探索と情報利用 / 田村俊作編. -- 勁草書房, 2001. -- (図書館・情報学シリーズ / 津田良成編 ; 2)

これに収録されとる

個人の情報世界 越塚美加

が、近似の事象(大学教員の研究室で書類や図書がごちゃっとある有様)を社会科学的にまとめている。
んー(  ̄▽ ̄)
オモシロげ。
ってか自分ではよーやらんけどね。
でももう10年もまへの本だったとは( ・ o ・ ;)
いやサ、

あとで読もうっと

と書棚に放り込んで、気づいたら10年…(*´д`)ノ
今度こそ読むのかすらわちき(^-^;)
でもじつは、この日この時この場所に、この論文の書誌をバ紹介できたことダケでも十分意味があるやうな…(*゜-゜)

ウチダ・ジュの云ってることサぁ、あれって、ただのエセーだよねぇ。ただの思いつきだから、無意味だよ。

と、思ったり、云ったり、いはれたりしたときに、

ん?(・ω・。) さうかな? 個人にとっての本棚(本の集積)の意味を研究した論文があってしかるべきでは

と思った人がいたら、それは、図書館情報学の入口に居るということなのではあるまいか、
などと、云ってみる。
まぁ、図書館情報学は補助学問ないし応用ジャンルなのだけれどね。ハマればオモシロい側面もあり。
書誌をしへる友はよきともなりっ!`・ω・´)o

ん?(・ω・。) まんまとウチダ先生の術中に…

かように書棚にほうりこんであった本が、ウチダ先生のエッセイによってわちきの意識に前景化する、っちゅーのはまさしく!`・ω・´)o
ウチダ先生のこの本に書いてあったことでは(^-^;)

おーこわ

なんとなーく中流階級幻想のなかで戦後日本人は生きてきたけど、紙の本も手に取れる階層と、PCやケータイしか手に取れない階層にはっきりわかれていきそうな希ガス。。。