「The Price of Altruism」


これはプライスの共分散方程式(The Price Equation: プライス則とかプライスの公式などと呼ばれることもある)の導出で有名なジョージ・プライスの伝記である.プライスの共分散方程式とは以下のような形をしており,ある形質の進化速度は集団内の形質と適応度の共分散によることを示している.これは進化の基本方程式とも呼ぶべきものだが,ニュートンの運動方程式のような観測や実験により確かめられる法則と異なり,遺伝的性質とその適応度があれば必ず成り立つ数学の定理のようなものだ.
 

 
ジョージ・プライスはアメリカ生まれであり,英国でハミルトンやメイナード=スミスとかかわりつつ,この不思議な形の方程式を導き出した.その方程式は進化現象の本質を表していることからその後の行動生態学などの進化研究に大きな影響を与えた.しかし私生活では非常に過激なキリスト教信仰に走り,ホームレスやアルコール中毒者に自宅を開放し,財産を分け与え,できる限りの援助をすることなどの絶対的な利他主義を実践し,極貧のうちに最期を迎えた.その風変わりな人柄とあまりにも壮絶な死に様は,ハミルトンの自伝つき論文集の一節やセーゲルストローレによる社会生物学論争の本などの記述からわずかに知られているだけで,その人生の全貌がどんなものであったかについては紹介されたことがなかった.
本書は,そのような断片的な記述からプライスの人生に興味を抱いた著者オーレン・ハーマンが,遺族へ丁寧な取材を行い,残された手紙や論文,その草稿などから彼の人生を再構成したものだ.そして本書が面白いのは,単なるジョージ・プライスの伝記にとどまらず,ダーウィン以来の道徳や利他行為の起源や進化についての探求物語と合わせて構成しているところだ.



本書は第一部でジョージ・プライスの生い立ちと,利他行為や道徳の進化を巡る生物学の探究の物語が交互に語られる.
ジョージ・プライスは大恐慌時のニューヨークで育つ.数学のできる学生としてハーバードに進むが,そこがうまく合わずにシカゴに移る.シカゴにはフェルミがいて,マンハッタン計画に参加することになる.そこで後に妻になる女性と知り合い,戦後結婚し娘も生まれ,放射線や応用化学の専門家として順調な人生を歩み始めるが,いつしか妻とそりが合わなくなり,家庭生活は破綻する.しばらく自由主義と経済学,ゲーム理論と冷戦,コンピュータデザインマシン,最適化数理,スキナーの行動科学などの様々な分野に顔を突っ込むが,著作の出版,CADの特許取得,IBMの研究職への就職,再婚などの計画が,様々な巡り合わせの悪さからすべて失敗し,心機一転し大西洋を渡る決意をする.


片方で利他行為,協力行動の進化の探求の歴史は英国中心に語られる.それはダーウィンの思索の後,クロポトキンとハクスレーの対立に始まる.ハーマンは,クロポトキンは生物は厳しい環境に対して協力をするように適応するだろうと考え,ハクスレーは進化においては競争こそ重要な要因で,道徳は文明の産物だと考えたとまとめている.
次に進化の現代的総合の時代にはフィッシャーとホールデンが紹介されている.ハーマンによれば,フィッシャーは「自然淘汰はヒトの心の高潔さも生みだしうる」と考え優生学的な思考に傾き,ホールデンはどちらかといえば環境主義的でマルクス主義に染まっていた*1ということになる.彼等は包括適応度やゲーム理論の萌芽を表明していたが数理的に定式化することはなかった.
そして次の世代は,フィッシャーに深く傾倒したハミルトンとホールデンの直弟子のメイナード=スミスが描写の中心になる.このあたりの科学史の紹介は人物像も合わせて行われていて読み物としても面白いものだ.


ハミルトンが包括適応度の論文を出した直後にジョージ・プライスはロンドンに到着し,3人の思索が絡み合う.ここではハミルトンの包括適応度の考えがジョージに刺激を与え,いくつかのアイデアが結実する様子がうまく捉えられている.

  • 包括適応度理論に関し,遺伝子型の相関がどうなっているかが物事の本質で血縁はそれを高める一方法に過ぎないことを明確にした.(これはハミルトンによる包括適応度の拡張につながる)
  • 群淘汰が個体淘汰の影響より強いかどうかを見るには,進化速度を記述する式が必要になる.それはプライスの共分散式として現れる.さらにそれを再帰的に組み入れることによりマルチレベル淘汰を扱える基本方程式が生まれる(これはハミルトンの1975年論文の骨子になるものだ)
  • 冷戦時代からの思索は,動物の儀式的な対戦についてゲーム理論の応用というアイデアにつながる.(これはメイナード=スミスが定式化して,共著論文として結実する)


一方でジョージの極端な信仰に至る道(それはロンドンに来てからしばらくして突然の入信として現れる),それが絶対的な利他行為の実践となる様子も詳しく語られている.彼はホームレスやアルコール中毒者などの援助に尽くし,自ら消耗していく.このあたりの記述は強烈な人間ドラマとして胸を打つものだ.
本書はプライスの思考がいまも現代の進化生物学に影響を与え続けていることを概観した後で,1975年の彼の死を扱っている.彼の死は自殺で,鬱や妄想が原因とされている.ハーマンは「利他行為の進化はあり得るが,それは徹頭徹尾功利的なものだ.そして神の声に従い絶対的な利他を実践したが,それは何も生みださなかった.」という絶望が関連しているのではないか,それは利他行為の探求が科学と道徳の境界にあることをよく示しているようにも思われるとコメントして本書を終えている.本書の「The Price of Altruism」という題はプライスの本名とこのあたりの解釈にかけたものだ(文字通りには「利他主義の代償」という意味になる)ということが読み終わるとわかるという仕掛けになっている.


本書は伝記と科学史を合わせた読み物だが,ジョージ・プライスの数奇な人生と奇矯でジェントルな人柄をうまく描けていて,内容の濃いものに仕上がっている.その上で生物学的な説明も適切で的を射たものだ.1960年代から70年代の行動生態学勃興前夜の雰囲気もよく伝わる.このあたりに関心のある人には大変興味深い本だろう.
なお巻末に付録として「包括適応度の拡張」「プライスの共分散式の再帰的定式化としてのマルチレベル淘汰基本方程式」「フィッシャーの自然淘汰の基本定理と共分散方程式」*2にかかる解説が収められている.いずれも共分散方程式の真価を示すトピックについてのコンパクトで簡潔な資料になっていてなかなか嬉しい作りになっている.*3


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私がプライスのことを最初に知ったのは,このハミルトンの自伝エッセーにおいてだった.ハミルトンがプライスについて自分と同じような考え方をすることができる希有な思索家として認め,非常に深い絆を感じていた様子がわかる.


ここでもプライスについて簡単な紹介がある.


オーレン・ハーマンはこの本ではじめてプライスのことを知ったとあとがきで記している.随分前に読んだ本だが,進化生物学の紹介本としてはあまり深い本ではなかったように記憶している.

*1:ホールデンは一時ルイセンコにシンパシーを感じさえしていたらしい

*2:フィッシャーの「自然淘汰の基本定理」が何を意味するのかは永らく謎だった.それは自然淘汰にかかる相加的な遺伝形質についてのものだということがプライスの洞察によって明らかになった.

*3:私としてはiPadでいつでもアクセスできると思うだけで大変にうれしいものだ.