「ダーウィンと進化論の哲学」

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)

  • 発売日: 2011/06/22
  • メディア: 単行本


本書は「科学哲学の展開」というシリーズの第2巻で,日本科学哲学会の手による論文集である.大きく二部構成になっており,第A部はダーウィンの学説にかかるもの,第B部は進化生物学にかかる科学哲学の論文と分けられている.


A ダーウィンの哲学


巻頭の論文は内井惣七による「形質分岐の原理 ― ダーウィンとウォレス」
内容は,ダーウィンとウォレスの学説の先取権について様々な言説があるが,「分岐の原理」についてはウォレスにはなく,ダーウィンのみが主張しているので,仮に自然淘汰に主張についてダーウィンの先取権を認めないとしてもダーウィンのオリジナリティはあるのだというもの.
論文の中心は,ウォレスがサラワク論文,テルテナ論文でどのような論理構成を取っているかを吟味し,「分岐の原理」をダーウィンのテキストから導いていくところにある.テキストを丁寧に読み込んで論理構成を考察している部分が読みどころということになろう.
しかし論理構成の考察についてはいくつか違和感がある.

  • まず内井はダーウィンの最初の疑問を「生息可能な最大上限を超えて種が個体数を増やすにはどうすればいいか」に置いている.しかしこれでは「進化は種がその個体数を最大化するように進む」ということが前提になってしまう.これは近似としてはあり得ても正しくない.ダーウィンがそのように考えていたとは思えず,論理の前段が省略されているように思う.本来のダーウィンの問題意識は「自然淘汰により進化が生じるとすると,何故世界にはどこまでも中間的な生物が連続して分布しているのではなく,モザイク状に種が分かれているのか」にあったはずであり,そこから始めるべきであろう.
  • またウォレスとダーウィンの違いについて,ダーウィンは「環境が変化しないときにどう種が分岐していくか」を考えたのに対してウォレスは「環境が不変であれば進化しない」と考えていたとまとめている.テキストから導くとそうなるのかもしれないが,これはおそらくそれぞれの念頭にある文脈や時間スケールが異なっていることによるのであって,なお適応の余地があれば進化が生じるという点で両者に考えの違いがあったようには思えない.ウォレスには種分化をきちんと説明しなければという動機が欠けていただけではないかという印象だ.

内井は,分岐の原理が大変重要なものであると考えているようだ.確かにダーウィン自身はそう考えていたのだろう.しかし残念なことに現代的な理解の元での分析はなされていない.私の理解では,この「分岐の原理」は,生態的ニッチの概念を明解に述べた点では極めて先進的だと評価できるものの,種分化についていえばニッチごとに分断的な淘汰圧があれば同所的な種分化が生じうることを指摘しているだけで,結局どのように生殖分離が確立されるかについては未解決のままだという評価になると思う.また一部の昆虫などで同所的種分化の実例はあるものの,それは何らかの仕組みによる生殖分離が鍵になるのであり,生物種の多様性の説明としては異所的種分化の方がはるかに重要であるようだというのが一般的な理解だろう.だから内井が付録でダーウィンとよく似た分岐の説明としてラックによる「異所的」種分化の説明を挙げているところも違和感がぬぐえないものになっている.


青木滋之の「19世紀イングランドの科学哲学」は当時のヒューエルたちによるダーウィンの科学的方法論への批判,およびダーウィン自身の反論を解説したもの.矢島壮平の「ダーウィンのイギリス自然神学」は,アダム・スミス,ペイリーの自然神学を解説し,ダーウィンも途中までは(神がそれによって進化を可能にする自然法則を創造したという)その路線に乗っていたというもの.19世紀英国思想史哲学史に興味がある人向けという感じの論文になっている.


次は横山輝雄による「「ダーウィン革命」とは何であったか」.
コペルニクス革命に対してダーウィン革命はそのヒトへの適用,応用を巡ってなお革命が進行中だという内容.横山はここで,ヒトを自然主義的な解釈する問題と,(特に倫理を巡っての)ヒトの特権性を認めるかという問題を分ける議論を行っているが,事実と価値の話なのか,どこまで自然主義的に解釈するという話なのか私にはわかりにくい.前者は峻別し,後者はどこまでも自然主義的に解釈してよいということではないだろうか.
その後進化生物学について歴史性,目的論について様々なことが論じられているがやや雑駁な印象だ.*1


木島泰三による「現代進化論と現代無神論」はダニエル・デネットの「Darwin's Dangerous Idea」と「Breaking the Spell」*2の簡単な要約といった内容.最後に最近の欧米における宗教へのリサーチ動向やイーグルトンの議論に触れている.


B 進化論の哲学


西脇与作の「生命を自然的に捉える」
生物を自然淘汰の産物として理解する際に生じる哲学的な論点に関する考察ということらしいが,観念的で,論拠もよくわからない断定調の文章がひたすら続く.このようなスタイルになれていない私のような読者にはよく理解できない論文というほかはない.


森元良太の「進化論の還元不可能性」
まず進化生物学が量子力学的非決定論を含むのかどうかが議論される.次にそもそも物理学に還元できるのかが議論される.森元はまず別の物理的な実体が同じ適応度値を持ちうるので,進化生物学は物理学に還元できないと議論しているようだが,これはまったく理解できない.この議論では別の物理的な実体が同じ質量を持てば物理学は物理学に還元できなくなることになるのではないだろうか.次に進化生物学や統計力学は,集団的な性質を「粗視化」することによっているので物理学には還元できないという議論を行っているようだ.これも理解できない.個別の粒子をすべて物理的に捉えれば,後は計算によって統計的な性質も把握可能ではないのだろうか.*3
論文全体がある学問領域が別の学問領域に還元できるかどうかを問題にしているものだが,そもそも「還元できるかどうか」を何のために議論しているのかがよくわからない.「化学や生物学を物理学に『原理的に』還元できるのは自明で,ヒトの認知能力の制約を考えると『実務的には』まず還元できないということではないのだろうか,であれば還元可能性を議論することにどんな意味があるのか」という感想から抜け出せなかった.


戸田山和久の「「エボデボ」革命はどの程度革命的なのか」
これは現代思想のダーウィン特集号に掲載された論文の再掲.「エボデボは進化の総合説に対して革命的だ」と主張する一部の論者がどのような主張を行っているのかの分析を行い,論争の背景を解説してくれている.発生学がしばらくドイツ風観念論にとらわれていた経緯や,研究者がエボデボ革命を吹聴する一部の過激な哲学者を迷惑に思っている様子などは学説史として読んで面白い.
なお最後のまとめで戸田山はエボデボは一部総合説に修正を迫るものだと評価しているようだが,その評価にはやや違和感がある.単にこれまでブラックボックスとして扱ってきた発生の詳細がわかってきて大変興味深いというだけであって,総合説の根本はまったく揺らいでいないと思う.


松本俊吉の「進化生物学と適応主義」
グールドとルウォンティンによるスパンドレル論文による適応主義への批判とその後の論争,および社会生物学論争の一部としての適応主義にかかる論争の解説.もはや過去の歴史という感じだが,論争を振り返って俯瞰してみたということだろうか.
なお松本はスパンドレル論争にはグールドの主張にも見るべき点があると評価しているようだが,私の感覚とはやや異なる.私の評価では適応主義にかかる論争はデネットの議論がディベートストッパーになっている.グールドの指摘は普通の進化生物学者にとってわかりきった話であり,(適応主義そのものではなく)一般的なリサーチにおける注意事項を勘違いしている一部の研究者にとっての教訓に過ぎないだろう.


中尾央の「文化の進化可能性」
まず文化進化に関するボイドとリチャーソンの二重継承説(権威による伝播と模倣による伝播の二重構造を考えるモデル)と文化疫学(普遍的な心がアトラクターを作っておおむね似たような文化を形成する)の2つのアプローチを整理して,互いに排他的ではないとしている.さらに様々な考察がなされているが,どちらがどのように重要かはフィールドのデータで示すほかはないだろうというのが素朴な感想.
また続いて文化のビッグバンと呼ばれる5万年前の出来事が急速な認知能力の向上という遺伝的変化を伴っていたとは限らないという考察がなされている.*4


田中泉吏の「生物経済学 ― もうひとつの統合」
ヒガラの採餌最適戦略にかかる数学的手法と,ミクロ経済学の数学的手法が似ていることから,これはリソースの希少性からうまれる普遍経済学に還元できるのだという議論がなされているようだ.
やはり還元に関する哲学的議論はよく理解できない.上の数学的手法が似ているのは,単に「適応度」や「効用」という変数値を最大化する問題を解いているからというだけではないのだろうか.


最後は網谷祐一の「頻度仮説と進化からの論拠」
ヒトの認知はパーセント表示よりも頻度表示に適応しているという仮説を巡る考察.ギゲレンツァの議論に対する批判という形をとっている.ギゲレンツァの議論が網谷の紹介の通りだとすると,確かに突っ込みどころ満載で網谷の批判も成り立つのかもしれない.しかしヒトの認知に関する「頻度表示をインプットとして受け入れて何らかの計算するモジュールが適応として生じていて,それは確率表示にはうまく作動しない」というごくありそうな仮説に対する有効な反論には(どのような状況でそのような淘汰圧が生じたのかをきちんと示していないという点を除けば)なっていないように思われる.


以上が本書に収録されている論文の内容だ.冒頭の内井論文は初出が1993年とやや古く,大御所の歴史的論文という位置づけだろうか.そのほかはここ10年以内のものが中心になっていて,スタンスも内容も様々なものを集めた論文集に仕上がっている.私のような進化生物学に興味がある読者にとっては取り立てて斬新な論文があるわけではないが,科学哲学の初学者にはちょうどよいのかもしれない.良くも悪くも日本の生物学哲学の現状を示している一冊だろう.



関連書籍


内井によるダーウィン本.ライエルの影響,自然淘汰,分岐の原則,自然淘汰とデザイン・機能について,道徳の進化についてを扱っている.本書掲載の論文がこの本の分岐の原則のところの基礎になっているということだろう.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090829



横山論文が収録されている本.未読



デネットの新無神論本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070218,読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061023以降に掲載している.


Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon

Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon



戸田山論文の収録されている現代思想.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090505



若手科学哲学者によるアンソロジー.本書と執筆陣がやや重なっている.
私の印象ではこちらの方が充実して読み応えのある寄稿が多いように思う.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100920

*1:ここでドーキンスの「ブラインドウォッチメイカー」をペイリーの自然神学の議論を自然淘汰説の立場から論難したものだと紹介しているが,本の趣旨としてはやや的外れのように思われる.この本は,一見そうではないと考えられる性質も自然淘汰で説明できるものだということを解説しているのであり,ペイリーへの反論ではなく出版当時の創造論者の「生物学者の間にも異論があるから進化論は単なる仮説だ」という議論に対して反論を行っているものだ,

*2:Dangerous Ideaの方は邦訳書「ダーウィンの危険な思想」を紹介しているが.Breaking the Spellの方は本文中で「呪文を解く」という題名で紹介しており,邦訳「解明される宗教」が紹介されていない.これは書き下ろしだけにちょっと残念だ.原稿執筆時点でまだ出版前だったのかもしれないが,読者にはわかりにくいだろう

*3:なお冒頭でニュートン力学が3体問題を解析的に解けないからこれは1つの対象を基本に物理現象を表現する理論だとも議論している.ここも理解できない.問題の解が複雑系のカオスになるということとそれが対象として扱えないというのは別の話ではないだろうか.

*4:中尾は触れていないが,現生人類のユニバーサルを前提にし,5万年前に認知能力が急速に向上したとすると少なくともサブサハラアフリカの人類とその他の人類で偶然同じような認知能力の向上があったことになる.これはかなりありそうもないシナリオであって,私としてはこの年代こそが5万年前認知能力向上説をかなり怪しいと考えるべきポイントだと思う.