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2014-06-22 書評 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」

[] 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」 11:27  「社会はなぜ左と右にわかれるのか」を含むブックマーク


本書は,社会心理学者でありポジティブ心理学で有名なジョナサン・ハイトによる道徳についての本である.前著「しあわせ仮説」においては,心の二重過程を「象と象使い」と極めてうまく表現し,しあわせとは何か,どのようにしてしあわせになれるのかを解説していたが,本書においては道徳を取り扱っている.背景には現代アメリカで進行している政治過程の極端な二元化への憂いがある.原題は「The Righteous Mind」.このRighteousという単語には「唯我独尊的な」「自分だけが正しいと感じる」というニュアンスがあって,その背景とあわせると絶妙な題になっている.


構成としては大きく3部にわかれ,ハイトのいう道徳心理学の3原則がそれぞれ扱われている.3原則とは「まず直感,それから戦略的な思考」「道徳とは危害と公正だけではない」「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」というキャッチーな言い方で表されている.また叙述はハイトがそれぞれに開眼していった経緯も含めて書かれており「物語」的にもよくできている.


第1部は「まず直感,それから戦略的な思考」


第1章は「道徳の起源」と題されている.ここでは「道徳とは何か」についての学説史そしてハイト自身の探求史が語られている.ハイトが研究生活に入った1987年当時はなお社会生物学論争の影が残る進化心理学勃興前の時代であり,道徳心理学は発達心理学の一分野としてしか扱われていなかった.そこではピアジェやテュリエルの考えが支配的であり,道徳は生得的でも教示で教え込まれるのでもなく,子供が自分で合理的なルール(他人への危害を与えないなど)を見いだしていくものだ(合理主義)とされていたし,それはリベラルの価値観とも整合的だった.それに疑問を抱いたハイトは文化人類学のリサーチによると道徳は通文化的に「危害」がキーになっているわけではないことを知る.文化によっては「嫌悪」や「不敬」もキーになっているのだ.これは道徳の内容は子供が合理的に推論した結果ではないことを示している.


第2章では,道徳が発達的な合理的推論でなければいったい何かが取り扱われる.ハイトはまず道徳の本質について,プラトンやカントの理性主義,ヒュームの感情主義,ジェファーソンの理性と感情の共同統治論を三つのモデルとする.そこからダーウィンの思索,E.O.ウィルソンの初期の考察,リベラル知識人のブランクスレート論,ダマシオの発見を解説し,その後ハイト自身の取り組みを説明する.まず道徳判断は意識的な熟考(理性)が中心なのかどうかを調べるため,意識的に行う認知タスクを与えて道徳判断が遅くなるかをみる.するとそれは影響を受けない.また人々はモラルジレンマを問われるとすぐに判断するのにその理由を説明できないことがあること(ハイトの有名なmoral dumbfounding,本書では「道徳的に唖然とすること」と訳されている)があることがわかる.次に視覚的認知やコスミデスのチーターデテクターに関するモジュールの説明が入り,道徳判断の大きな部分はモジュール的な素早い直感的な判断によっていて,意識的な熟考(理性)はそれを後付けで説明しようとしているという「象と象使い」モデル*1が提示される.このあたりは前著でも触れられているし,かなり有名なところだろう.ここで「しあわせ仮説」執筆時点から少しモデルを進めていて,熟考から直感への影響度を点線にして弱め,さらに他者と意見交換する際の社会的な影響を入れ込んでいる.後者のポイントは,「他者の道徳的な意見に影響を与えるには,他者の理性に話しかけても効果は薄く,象に話しかけなければならない」*2というところだ.これはなかなか実践的で良いアドバイスのように感じられる.心の二重過程モデルに納得しているような人であっても実際の場面ではつい相手を言い負かそうとしてしまうことはよくあるだろう.


第3章は象について.私たちの道徳的な直感判断モジュールは,常に作動し続け,素早く善悪を判断し,様々なキューに影響を受ける直感的なものであることが暴走トロッコ問題などに触れながら解説される.このあたりは進化心理学モジュールの議論を知っているとわかりやすいところだろう.ここで面白いのは,象は理性の声を聞くこともあるという部分だ.象は相手に愛情や敬意を抱いていれば歩み寄るのだ.


第4章は象使いたる理性について.象が善悪を素早く判断するなら象使いは何のためにいるのか.ハイトは「自然淘汰はなぜこのようなデザインを作り上げたのか」という進化生物学的な視点から考察している.そして理性は「真実を知るためにある」のか「誰かを説得するための社会的戦略ツール」なのか問いかけ,それは後者であると主張する.ハイトは根拠として,「ヒトは他人からの評価を気にする」「ヒトは確証バイアスを持つ」「ヒトは自らの正しさについて自己欺瞞に陥りやすい」「ヒトは信じたいものの証拠,信じたくないものの反証を見つけることに長けている」などの社会心理学的な知見をあげ,これらは理性が「自己正当化のための象専属の報道官」*3の役割を果たすべくデザインされていると考えるとつじつまが合うことをあげている.報道官モデルはクツバンの著作で示されている進化心理学的な考えと同じだが,直線的に適応度的な考察をせずに手持ちの知見からリバースエンジニアリング的に考察するところはいかにも社会心理学者らしくて面白い.またハイトはさらに脳の領域活性にかかるリサーチの結果や,倫理哲学者が必ずしも道徳的に振る舞うわけではない*4ことも,理性が報道官にすぎないことの傍証としてあげている.


第2部は「道徳とは危害と公正だけではない」ことについて.第1部で道徳判断のメカニズムが明らかになったが,そのコンテンツはどうなっているのかがテーマになる.


第5章は,道徳が,よく心理学リサーチでデータ対象として用いられるWEIRD(欧米の,啓蒙化され,産業化された社会で暮らす,裕福で,民主主義を信奉する人々*5)の間で信じられているものだけではないことを扱う.ここはハイトの開眼物語として構成されている.ハイトはニューヨーク市の郊外で育った典型的なWEIRDで,ブルーステーツのリベラルなインテリで,「道徳とは,他人に危害を加えないこと,すべての人を平等に扱うこと」がすべてであり,保守主義はばかげた道徳的にさげすむべき考え方だと信じていた.しかし文化人類学者のリサーチを読み,インドで自分もリサーチするにつれて,世界にはほかの道徳次元があることを肌で感じるようになる.それは共同体を優先する倫理,神聖なものに敬意を払う倫理だった.そして初めてアメリカの保守がなぜ国旗の冒涜を問題視するのかを理解できるようになった.道徳には互いに垂直に交わるいくつかの軸があるのだ.ハイトはこれについて「私は道徳について相対主義はとらないが,多元主義をとる」と説明している.


第6章では具体的な道徳次元の中身を吟味していく.最初に人々の道徳判断が主流西洋哲学の伝統的な立場であるベンサム流の功利主義あるいはカント流の義務論だけで説明できないことを解説する*6.この二つの考え方はいずれも「道徳はどのようであるべきか」を問題にしているが,実際の道徳はそのような中身になっていないというわけだ.

そして実際に観察できる道徳次元をまず5つ(後に6つに拡張される),それぞれの適応課題とともにあげている.それらを順にあげるとケア/危害,公正/欺瞞,忠誠/背信,権威/転覆,神聖/堕落になる(それぞれの適応課題は子供の養育,互恵的協力の維持,強い連合の形成,階層性の中での有利さ,汚染や感染を避けるというものになる).


第7章ではこの5つの軸についての細かな解説がなされている.そして進化環境でのオリジナルトリガーと現代環境でのカレントトリガーが異なっている問題を解説している.このあたりは進化心理学では現代環境へのミスマッチとして説明されるところに近い.ハイトの進化的な視点が生かされているところだろう.ここでのハイトの説明の特徴は,公正を互恵的協力のTFT的なもの,忠誠をグループ淘汰的なものと考えているところだ.私的には納得できない部分が含まれているところだが,この問題については第9章で詳しく取り上げられるので私の感想もそこで触れよう.ハイトの説明の中で面白いのは,神聖について雑食動物には特に新奇性好みと新奇恐怖のジレンマが重大であり,汚染恐怖という行動免疫につながると解説されている部分で,説得的だ.


第8章は前章の知見をアメリカの政治に応用して考察し,一部拡張を行う経緯が描かれる.

前章の道徳の軸はアメリカの政治過程でどうなっているのだろうか.著者は(リベラルの民主党支持者からみて説得力を持ちそうな)民主党のキャンペーンがなぜ共和党支持者に効果を与えないのかについて,リベラルにはケアと公正の軸しかないが,保守にはその他の軸もあり,キャンペーンはそれを無視しているためではないかと推測し,広範囲の対象者を用いてアンケートリサーチをしてみる.すると自分を政治的にどう定義づけるかによって,ケア,公正の軸,その他の軸の評価に明確な差が現れる.実際にこの両者には軸の数の違いがあるのだ.

これを発表した後,一部の保守主義者はこれに納得できず,様々な議論が生じた.その中でハイトは軸を一つ増やして補正することになる.これまで公正としてきた軸には,保守派の重んじる「比例配分としての公正,自己責任,因果応報」とリベラルが重んじる「誰からも自由を抑制されないこと,平等な権利」という二つの異なる軸が含まれていたのだ.ハイトは後者を自由/抑圧の軸とし,その進化的な根拠についてベームたちのいう,狩猟採集社会における「アルファメイルを統制する」順位制の逆転においている*7.オリジナルトリガーは恣意的なアルファメイルで,カレントトリガーは政治権力の濫用,富の蓄積だ.また公正/欺瞞の軸を比例配分の公正と考えるとより互恵的状況における裏切りの抑制や罰を与えたがる心理をうまく説明できることもここで補足されている.


第3部は「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」ことについて.


第9章は驚いたことにまるまる1章を使ってグループ淘汰の擁護論が繰り広げられている.ハイトの道徳心理学は基本的に人々の心の中にある道徳がどのようなものかという記述的な試みであり,その進化的な理由付けが理論的にどう説明されるべきかはそれほど重要には思えないところだ.しかし(ピンカーのエッジ記事へのコメント*8でもわかるとおりの)生半可な理解の上で特定の理論の擁護を熱烈に押し進めるのは奇異というほかないというのが正直な感想だ.

ハイトは自分自身9.11の時にとにかくアメリカを応援したいという気持ちが沸き上がったことに触れて,私たちの中には「ミツバチスイッチ」があってキーになる刺激を受けると所属する集団への忠誠心が高まりグループのために行動しようとする心理があると解説する.そしてそれはグループ淘汰でしか説明できないと(なぜか)誤解してこのグループ淘汰擁護をぶっているらしい.そしてその根拠として次の4つをあげる.

  • 進化における主要な移行はグループ淘汰産物である
  • 類人猿と異なるヒトの認知能力に「意図の共有」がある
  • 遺伝子と文化の共進化という現象がある
  • 進化は迅速に生じ,農業革命以降でもヒトは進化している可能性が高い.

正直言ってどこからつっこんでいけばいいか迷うほどのダメダメぶりだ.私のコメントは以下の通り

  • そもそもハイトはある現象を説明する理論としてマルチレベル淘汰による説明と包括適応度による説明が数理的に等価であることがわかっていない.ミツバチスイッチがマルチレベル淘汰で説明できるなら,それは包括適応度的にも説明可能なのだ.だからそもそも何が問題なのかわかっていないというべきだ.(あるいは筋悪のノヴァクの説明に影響されているのかもしれないが,ここにあげた4つの根拠はノヴァクのものとは異なっている)
  • そしてハイトの説明は,マルチレベル淘汰という用語を使えばナイーブグループ淘汰が成立するとしていいと誤解しているようにしか読めない.マルチレベル淘汰というフレームによるならば,どんな条件下でグループ内淘汰よりグループ間淘汰が強くなるかの条件の考察こそが重要なのだが(そしてそれは包括適応度におけるハミルトン則と等価の条件になる),そこを考えている様子はない.
  • 4つの根拠がなぜグループ淘汰を支持すると思うのか全く不明だ.
  • 「主要な移行」は共生体同士が運命共同体になるなどして互いの戦略共有確率が高くなる仕組みをどう作るかがポイントなのだ.それが生じたことがナイーブグループ淘汰が成立する証左になるわけではない.
  • 「意図の共有」とグループ淘汰も論理的必然の関係は何もない.そもそも相利的な協力が有利ならグループ淘汰などなくても協力が進化する.そこで重要になるのは裏切りの防止の仕組みというのは確かだが,それは全く個体淘汰的に説明可能だ.「意図の共有」はそう解釈する方が自然だ.
  • 遺伝子と文化の共進化も農業革命以降の進化もグループ淘汰が成立する証拠と何の関係もないだろう.これはリチャーソンとボイドに影響を受けているのかもしれないが,なぜグループ淘汰擁護の論拠となると信じるのか全く理解できない.*9
  • ハイトは説明の上では相利的状況における協力と利他行為を区別しているように見えるが,その実際の適用例をみていると相利的状況を狭く解釈しすぎているように思われる.ハイトがあげている「グループ淘汰でしか説明できない例」の多くは「相利的状況で個体淘汰的に協力が進化した」と解釈できるように思われる.
  • 具体的にはミツバチスイッチがなぜグループ淘汰でないと説明できないと思うのかの根拠がない.要するに代替説明に全く考慮が払われていない.裏切りが有利そうであっても,周りの男たちとの同盟の重要性,臆病者とされ名声が傷つくのを避けるための心理的適応,裏切り者を罰する傾向に対する適応,など裏切りを行わないことを個体適応度的に「結局その方が有利だ」として説明できる可能性はいくらでもあるだろう.
  • 全体としてはハイトはまさにある特定の理論(グループ淘汰)にそれをきちんと理解できないまま夢中になって,代替説明が思い浮かばなくなっている状況にあるとしか評価できない.

というわけでこの第9章は評価できない戯言になり果てている.なぜハイトは専門でもなく,本筋でもないグループ淘汰擁護に入れ込むのだろうか.ハイト自身「人は私がグループ淘汰に入れ込みすぎだ」と感じるかもしれないと書いている.どうやらそれはD.S.ウィルソンのDarwin'sCathedralを読んだ影響ということらしい.ということでこの話は第11章につながる.


第10章はミツバチスイッチの詳細について.ハイトはまずヒトはある条件が満たされると集団のために行動する傾向が強くなり,それはまるであるスイッチが入るとヒトはモードが切り替わるようだと描写する.そしてその詳細を説明している.ここは読んでいて面白いところだ.スイッチが入る例として自然への畏敬,一部の薬剤,レイブをあげているのにも注目される.ただ至近的メカニズムについてオキシトシンとミラーニューロンをあげて説明しようとしているが,ここはかなりこじつけ気味で説得力はないように思う.

なおこのミツバチスイッチはグループ淘汰でなければ説明できないというのがハイトの考えだが,前章へのコメントで述べた通り,ここは考えが浅いとしか評価できない.

後半ではミツバチスイッチの入った社会をデュルケーム的だと賞賛しながら,全体主義社会もそうなることも指摘していてやや叙述は揺れている.ヒトが本来進化してきたような集団規模を大きく越えるような社会では支配階層側の操作の問題が生じて全体主義になりうるという理解のようだ.


第11章は宗教について

最初にアメリカにみられる大学スポーツへの熱狂が宗教と似ていることに触れてから,新無神論の批判にはいる.ハイトの主張はふたつあり,まず,新無神論は宗教を「信念体系」としてしかみていないがそれは皮相的であり,行動や帰属(道徳共同体の構築),そして「象」の問題に目が向いていないというもの,そして新無神論は「宗教はヒトの認知傾向の副産物であり,寄生ミームであり,それは悪いものだ」と主張するが,宗教はグループ淘汰産物でありヒトにとって有用なものではないかというものだ.特に後者はD.S.ウィルソンの主張の影響を受けており,特にこれまで道徳共同体として機能してきたものを単に捨てるのはどんな結果を招くか不確実であり危ないという主張を含んでいる.

私の感想は以下の通り.

  • 宗教を信念体系だけからみると論点が抜け落ちることがあるというのは傾聴すべき部分だ.また現在何らかの機能を持つものを捨てるときには影響をよく考えなければならないということにも同意できる.しかし後は余りにD.S.ウィルソンを信用しすぎのように思える.
  • ハイトの新無神論の理解は不正確だ.まず新無神論者は「宗教は寄生ミームだから悪い」とは言っていない.寄生でも相利的であることはあり得るし,実際デネットはリサーチすべきだと言っている.ドーキンスは,「宗教は悪い」という主張に近いことも言っているが,その主眼は,「宗教擁護者は『宗教なしでは道徳がなくなる』と言っているがそれは間違いだ」,「宗教による事実の主張には間違いが多く含まれている」というところだ.また彼等は宗教を全部捨てようと主張しているわけではない.「無神論者がカミングアウトしても差別されるべきではない.宗教者の意見に倫理的な優先権を与えるべきではない,子供の洗脳は認めるべきではない」というのがコアの主張だ.
  • そしてここでもハイトのグループ淘汰主張はナイーブグループ淘汰的であり,グループ間淘汰がグループ内淘汰より強い条件を考える姿勢は全くない.そもそも宗教を信じることが常に利他的であるとは思えないのでグループ淘汰で説明しようとすることにあまり説得力はないし,上記条件を考えると難しいと考えられる.また宗教指導者が宗教を通じて人々を操作して利益を得ようとした「操作」の観点が全く考慮されていない.
  • ハイトは,ここまでは道徳を多元主義で記述してきたにもかかわらず,宗教が話題になったとたん道徳システムを「協力的社会の構築を可能にするもの」と定義し,グループ淘汰産物である宗教を価値的に「良いもの」だと主張する姿勢を採っているかのようだ.これは叙述の流れからいっても奇異だ.さらに価値観の主張としてみると,「それならファシズムも善になるが本当にそれでいいのか」という点が曖昧であり,首尾一貫していない.

本章はD.S.ウィルソンの宗教,グループ淘汰がらみになったときのスロッピーさが乗り移っているようでちょっと残念なところだ.


第12章は道徳と政治的な立場の関係,そして再びアメリカの政治的二極化について.

なぜある人はリベラルに,別のある人は保守になるのだろうか.ハイトは行動遺伝学にちょっと触れてから,人がある道徳マトリクスを獲得する経路,その遺伝と環境の相互作用について,まず遺伝があり,そこに適応性格が乗り,さらに人生の物語が乗るというマクアダムズの3つの人格レベルを用いた説明を行う.最後の人生の物語というのは,自分自身がその歴史をふまえた上で自己規定する部分だということになるのだろうが,なかなか面白い説明だ.このように人はそれぞれ異なる道徳マトリクスを持つようになり,リベラルや保守になるわけだ.そしてお互いを理解するのが難しくなる.

ここでハイトは自分自身が「保守」についての理解が浅かったこと,社会科学の本を読んで保守の根幹は「物事は複雑であり,これまでうまく機能したものは簡単に捨てるべきではない」という部分にあることを知ったことを告白している.これは政策を考える際にここまで機能している道徳共同体についてどうするかという態度に関連するのだ.

その上でリベラルと保守,そしてリバタリアンの道徳マトリクスを整理し,それぞれの立場,道徳マトリクスからは盲点になりやすいいくつかのポイントを並べて本書の結びにしている

  • 政府は企業という超個体を抑制可能であり,実際にそうすべき時がある.規制によって解決できる問題は実際にある.
  • 自由市場は政府にはできない奇跡のような解決をもたらすことがある.
  • 政府も規制もない世界はすぐに地獄に化す可能性が高い.

これらは余りに初歩的な当たり前の内容に思え,それぞれ盲点になりやすいということ自体ある意味驚きだが,アメリカの二極化はそこまで深刻だということだろう.

日本ではコアな保守も,コアな革新派もそれほど数が多くなく,様々な道徳マトリクスを持つ中間層が似たような主張しかしない政党のどれを支持するかで右往左往しているという状況なので,アメリカとは相当異なっているのだろう.それでもいろいろな意見を眼にしていると,応酬している人々の道徳マトリクスが異なっていて意見がすれ違っている状況を見ることはまれではなく,本書の知見が当てはまる部分は大きいように思う.


というわけで本書はヒトの道徳がどのようなものであるかについてのなかなか面白い知見を縦軸にハイトの開眼履歴を横軸に展開されていて,分厚い道徳の本にしては大変興味深く読み進めることができるように工夫されている.象と象使いのアナロジーは何度読んでも適切で膝を打つ感じだし,道徳のコンテンツについての6次元の解釈は説得的で興味深い.D.S.ウィルソンに影響されたグループ淘汰と宗教についての2章はスロッピーでいただけないが,その他の章の内容は論理的にはこの2章とそれほど深い関連はなく本書全体の価値を損なうものではないと評価できるだろう.政治過程の部分はアメリカの現状を知るという意味で面白いし,日本ではどうなっているのかを考えることでより楽しめることができると思う.一部残念な部分はあるが,それでも読むに値する力作だと評価したい.


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前著.私の書評http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120129

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Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind

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*1:前著「しあわせ仮説」では「象と象使い」という訳語になっていたところ本書では「象と乗り手」と訳している.元々はan elephant and a riderだから本書の訳し方の方が字義として正確なのかもしれない.本書ではriderが象を巧みに操っている主人であるという印象を避けたかったので訳を変えたとしている.しかし乗り手というと今度は象との関係が希薄すぎる印象を与えないだろうか.何とか象を思い通りに操ろうとしているニュアンスからいって「象と象使い」という訳の方がいいのではないかと思う.(象使いには主人というニュアンスは薄いように思う)いずれにしても(ハイトはrider's job is to serve the elephantと言っているが)象がプリンシパルで象使いがエージェントであることを的確に示す訳語は難しいのかもしれない.本書評では私の好みに従って「象使い」の訳語を用いる.

*2:相手を論理的に言い負かすのではなく,敬意,思いやりを相手に伝え,議論についてオープンなスタンスを取ることが有効ということになる

*3:前著ではハイトは象使いについて弁護士というアナロジーを使っていた.本書ではより象のプリンシパル性を強く示す「報道官」に変更している.前著の説明はモジュール的に考えると一部混乱しているように感じられたが,そのあたりも改善されているようだ.

*4:何十もの図書館の紛失図書のデータからのリサーチが引かれている.なかなか傑作だ

*5:それぞれの頭文字(Western, Educated, Industrialized, Rich, and Democratic))をつないだ頭文字略語(acronym)になっている.なお英単語でweirdというのはとても奇矯な振る舞いをすることを表す形容詞でもあって,そのあたりがこの用語の面白さを形成している

*6:ここでは最初に自閉症スペクトラムの話を振って,この西洋倫理哲学の2大潮流がいずれも(自閉症スペクトラムの端に位置する)システム思考に優れ低い共感能力を持つ哲学者によっていると皮肉っている.

*7:よく考えてみなければならないが,ややこじつけ気味のような気がするところだ.

*8:詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120723http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120801を参照

*9遺伝子と文化の共進化と農業革命以降の進化で何か説明できるとしたら,それは道徳心理がユニバーサルでなく文化特異的になっているということだ.しかしハイトはそういう結論を主張しているようでもない.

高橋洋高橋洋 2014/06/22 20:00 訳者です。一つだけ。*1に関して、変えた理由はもう一つあって、「象使い」と訳すと「乗っている」という重要なイメージがわかない読者もいるのではないかと思ったことがあります。もちろん、「象使い」という表現で、乗っているイメージを抱く人もいるでしょうが、「ライオン使い」などをイメージして脇に立っているところを想像する人もいることが考えられます。これは「象を巧みに操っている主人であるという印象」に関しても同様で、そうとる人もいれば「何とか象を思い通りに操ろうとしている」ととる人もいるでしょう。そのために、原文どおり中立的な「乗り手」を採用しました。ちなみに、編集者は「何とか象を思い通りに操ろうとしている」という意味で「象使い」でいいのではと言われていましたが、人によって解釈やイメージは変わるであろうと考えた私が、中立的な「乗り手」にすることを押し通した次第です。

shorebirdshorebird 2014/06/22 22:16 高橋さま
訳者直々のコメント恐縮です.
なるほど,脇に立っている人物をイメージするリスクまでは気づきませんでした.どちらにしても誤解のリスクがあるということであれば字義通り訳するというのは一つの見識ですね.

高橋洋高橋洋 2014/06/23 00:01 やはりキータームであるだけに、訳語の選定には苦労します(翻訳者としてはまだ新米に近いということもあるかもしれません)。版元の紀伊國屋さんは、かつて人類学叢書シリーズ(だったか?)を刊行していた頃と違って、専門家よりもむしろ一般読者をメインのターゲットにしているようです。なので、「象使い」とした場合、(知識レベルの高い専門家ではなく)一般読者が、たとえばインド象に乗る少年のようなイメージを持つかどうかはわからないところがあります。ちなみに私の「rider」のイメージは、Basic Booksのペーパーバック版の表紙に影響されているかもしれません(もちろん、それがハイト氏のイメージとイコールだとは言い切れませんが)。また映画の見すぎということもあって、「象使い」とすると必ずしも「主人」ではないとしても「猛獣使いのプロフェッショナル」を想像してしまうのですね。そういうわけで、特に解釈を加えずある意味で無難に「乗り手」と訳した次第です。最後にこの本と若干関係があるので、お報せしておきますと、shorebirdさんがレビューされているクツバン(と発音するのかな?)の本は、私が翻訳しています。しばらくは刊行されませんがすでに出版社(紀伊國屋さんではありません)には提出しました。

shorebirdshorebird 2014/06/23 19:46 重ね重ねのコメントありがとうございます.
Kurzbanの邦訳出版は楽しみです.Kurzbanの発音は当時ちょっと調べてみたのですがよくわからず,クルツバンとした方がいいのかとも思いましたが,自分の脳内ではこの学者のことをずっと「クツバン」と呼んでいたということもあり,さしたる根拠もなく「クツバン」と表記することにしています.

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