「人間進化の科学哲学」

人間進化の科学哲学―行動・心・文化―

人間進化の科学哲学―行動・心・文化―


本書は若手科学哲学者中尾央によるヒトの行動や文化の進化研究にかかる科学哲学書である.内容的には,ヒトの行動進化にかかる研究プラグラムの評価,文化進化の研究プログラムの紹介と評価,罰の進化と教育の進化にかかる最新学説という3部構成になっている.

第1部

人間行動進化学の研究プログラム.ここでは進化心理学,人間行動生態学,遺伝子と文化の二重継承説の3つがそれぞれ検討される.


最初は進化心理学.ここはやや詳しくレビューしておこう.

まず歴史的な経緯として学説史が扱われる.コスミデスとトゥービイ以外の初期の文献やカンファレンンスも紹介されていて詳しい.一般には更新世のEEA,領域特殊モジュール,ヒューマンユニバーサルがこの分野の本質と思われているが,多様性の説明などの広がりもあることがコメントされている.

続いて進化心理学の基本構造とそれへの批判が解説される.中尾のまとめでは批判は次の3つになる.

  • 領域特殊モジュールが進化するためには更新世のEEAは安定した環境であることが必要だが,実際には変化の激しいものだった.
  • 過去の複数の適応課題があったからといって,適応がモジュール的になるとは結論できないはずだ.
  • リサーチは過去の適応課題をまず推測し,それに対応するモジュールを仮定し,それを検証するという形式(前向き推論)をとっているが,過去の適応課題の推測は困難である.

中尾は批判の紹介のところで,モジュール概念を巡る混乱(哲学者フォーダーが最初に提唱したモジュール概念があり,それは実は進化心理学者が想定しているものより狭い概念だったが,同じ単語を用いたために混乱がある)を整理して無用の誤解を避けている.またリサーチ方式に関しては,後ろ向き推論も可能であることを断り,前向き推論検証の成功例として4枚カード問題と騙し検知リサーチを紹介している.また検証の方法論についてもいくつかの検証方法を解説し,前さばきで処理している.これはグールドのような「進化心理学はなぜなに物語で検証ができていない」という批判はもはや的外れであることが明瞭であり,あえて細かく吟味する必要もないという中尾のスタンスなのだろう.

続いてこれらの批判に対する中尾のコメントがある.そのポイントは以下の通りだ.

  • 環境が変動しているからといって安定した適応課題がないことにはならない.
  • 「心がモジュールの集合体である」という主張は進化心理学の前提ではなく仮説の一部であり,きちんと検証されるなら問題はない.また経験的事実としても複数の適応課題に対する進化産物はモジュール的であることが一般的で,それは効率性,進化容易性から容易に説明できるだろう.
  • 確かに過去の状況を正確に知ることは難しいが,この推論に進化心理学全体の妥当性がゆだねられているわけではなく,それは仮説構築のための発見法の一部なのであり,その後仮説がきちんと検証されるならそれは有用なリサーチプログラムの一部と考えることができる.そもそも正確に知ることができなければだめだというなら考古学,先史学,古生物学という学問自体成り立たなくなってしまう.


これらのコメントはおおむね妥当な印象を与える.

  • 最初の点については,そもそも更新世の環境が安定していたというのは進化心理学の強い前提としては考えられていないし,更新世が特に強調されることがあるのは,チンパンジーとは異なるヒトのユニバーサルが,エレクトゥス以降に主に進化したと考えるならこのあたりということであって,最近はそれほど強調されていないことも付け加えておいた方が良かったように思う.
  • 科学哲学としてはコメントしにくいだろうが,何故進化心理学が筋悪な批判をされやすいのかについても解説があった方がわかりやすかっただろう.それは遺伝決定論と誤解されやすく,人種差別,優生学への連想を生み,リベラルを自認する学者であるなら,保守反動の学問として特別に批判的に対処すべきものとして扱われ,「検証ができていない(主張している事実は誤りだ)」「すべての学習と文化で決まる」「生得的にあるのは汎用知性のみで十分」という主張に流れやすいのだ.
  • また中尾はそのような進化心理学批判の急先鋒であるブラーの究極の筋悪批判に関しては簡単に「したがって,進化心理学が全面的に誤っている(e. g. Buller 2005)というようなことはありえず」とすましている.これは哲学者としての主張なのだから,同じ哲学者として中尾にはもっと厳しく吟味してほしかったというのが私の素直な感想だ.


2番目は人間行動生態学.これは行動生態学の手法をそのままヒトの行動に応用しようとして始まった学問分野だ.私は「ヒトの場合行動を大きく決めている心理メカニズムを無視して直線的に行動と適応価だけ調べても実りのある分野は限られるだろう」というだけの認識だったが,中尾のまとめによると,引き続き人間行動生態学の主要研究者たちは心理メカニズムへの言及をかたくなに拒み,さらにそれだけではなく,適応が生じる理由を遺伝的進化に限定せず文化的な学習まで含めてあいまいに議論しているようだ.
そしてキッチャーとステレルニーに「心理メカニズムが特定されていない」「遺伝的進化を前提にしないなら何を議論しているかわからない」と批判されている.そしてこれら批判に対してオルデン・スミスやウィンターホルダーたちは行動生態学の「Phenotypic Gambit」を持ち出して正当化しようとしているそうだ.中尾はこの正当化に対して,そもそもPhenotypic Gambitで簡略化しようとした対象が異なっている(もともとは遺伝的基盤が表現系に与える至近メカニズムの簡略化だが,人間行動生態学者は心理メカニズムを簡略化しようとしている)うえに,簡略化に対する頑健性についての経験的な支持のあるなしが異なると手厳しい.中尾はしかし最適化モデルの使用は発見的な手法としては擁護できるとしていくつかの示唆を行っている.

発見的手法として擁護できるという主張もわかるところはある.ただ,人間行動生態学がもはや遺伝的進化だけに焦点を置いていないというのには驚いた.遺伝的進化を前提にして行動生態学の手法を応用するなら,何が最適化されているのかについて明快に議論できるし,心理メカニズムで歪むこともあるだろうが,歪まない事象も発見できるかもしれない.しかし遺伝的進化を前提にしないのなら,何が最適化されるかのところがぐずぐずになるのではないだろうか.私としては「もはや何を議論しているのかわからない」という第2の批判が最もしっくりくるような印象だ.


3番目は「遺伝子と文化の二重継承説」.私にはこれは文化進化研究プログラムのように思えるところだが,中尾は行動進化研究プログラムだと位置づけてこの第1部で議論している.

中尾はまずミーム論の失敗について,ミーム論が失敗したのは「突然変異率が高すぎて遺伝子と類似の進化プロセスが期待できなかった」からだと整理している.私にはやや違和感の残るところだ.この後中尾が見ていくように実際に文化進化は生じているし,それをミーム的にとらえることも可能なはずだ.私の理解では,ミーム論は,一部の論者が理論構築のみに夢中になり一部の無理筋の主張(意識をミームで説明可能だなど)が現れ幻滅を誘い,片方でそれ以上の実りあるフィールドリサーチが出なかったことにあるのではないかと思う.ミーム論の最も有望だったところは,「ミームの利害は,文化の主体とされているヒトの利害とずれ得るものであり,パラサイトのようにヒトを操作しうる」ことが明快に示されるところで,実際に宗教をミームの複合体ととらえる見方は今でも興味深いところがあると思っている.

そして中尾の整理では,二重継承説の成功要因はこの突然変異率の低下を「模倣バイアス」を持って説明したところにあるということになる.この後中尾は,模倣バイアスの細かな議論,模倣バイアスによる文化進化が働く条件(ある程度の個体群サイズと協力的社会),模倣バイアス自体の進化(不安定な環境では試行錯誤より模倣が有利になる)を解説し,さらに行動の進化に与える影響を「学習によって得た行動習慣がグループ淘汰により強化される」例,鏃の形態(作成行動ということになろうか)や魚食のタブー習慣が権威バイアスに導かれる例を挙げている.

行動進化ということだが,鏃や魚食は単に文化進化として扱えば良かったのではという感想を拭えないところだ.「行動習慣とグループ淘汰」はまさに提唱者のボイドとリチャーソンのグループ淘汰に関する理論的スロッピーさがでているところで,私としては全く評価できない.ピンカーのエッジの記事に端を発する論争を見ると,彼らが全くマルチレベル淘汰理論の細部を理解せずにナイーブグループ淘汰の誤謬に陥っているのは明白*1で,科学哲学者としてはここに思いっきりつっこみを入れるべきではと思ってしまう.中尾はかなりこの二重継承説について好意的だが,私は,ボイドとリチャーソンの主張は,集団内にコンフリクトの無いような単純な文化進化についてはいろいろな示唆を与えることもあるだろうが,利他性の要素がある社会行動についての分析は基本的に信用できないと思う.

この章では,続いて「模倣バイアスの進化」と「信頼性判断研究による拡張」について中尾自身の吟味がある.まずボイドとリチャーソンはこの模倣バイアスが更新世に進化したと主張しているが,様々な動物の観察や実験を見るとそうとは限らないと分析されている.また模倣バイアスは信頼性判断に基づくバイアスと共通性が高く,それを取り込んで拡張できる可能性が指摘されている.どちらもその通りということだろう.

第2部

文化進化が取り扱われる.ここは大きくプロセスへのアプローチとパターンへのアプローチに分けられている.


最初に「よくある誤解」が整理されている.哲学学界周辺では様々な進化を巡る誤解に遭遇するのだろう.文化進化は文化の「進歩」を意味しないとか,文化進化は生物進化とは異なる要素を強調すべきだと考えるべきではない*2とか,文化進化研究はすべての人文社会文化を生物学に統合しようとするものではないとかが力説されている.著者のくぐってきた苦労を忍ばせる部分だ.


プロセスとしてはスペルベルたちの文化疫学モデルと言語進化研究が取り上げられる.


文化疫学モデルは,(二重継承モデルが累積的進化が可能になるための要因として模倣バイアスという情報の信頼性を問題にするのに対し)累積的文化進化の可能性を否定し,文化要素の内容がヒトに普遍的にある心理メカニズムが形成したアトラクターに誘引されて類似した文化が形成されることを説明しようとする.
中尾は,文化の疫学モデルは文化の累積的進化を否定することには成功していないが,文化進化の適応度を考察する上で重要であると評価している.アトラクターは進化心理学のモジュールに重なり,文化要素の適応度の考察はミーム論にもつながる.ここも(文化の疫学モデルの内容が中尾の紹介通りだとすると)妥当な評価のように思える.


言語進化研究についてはその構成論的アプローチと生成文法アプローチを吟味する.構成論的なアプローチは,エージェントや生物を想定し,全く何もないところからほかのエージェントと何らかの情報伝達をしなければならないという課題を負うなら,どのような伝達手段が編み出されるかを(シミュレーションなどで)考察するというものだ.これに対して生成文法アプローチはヒトには何らかの普遍文法を生得的にもっていると考え,その中身を探るアプローチであり,言語進化には生物進化より文化進化が重要であったという前提を持つ.
中尾は,構成論的アプローチ論者は,生成文法アプローチを生物決定論だとして忌み嫌って仮想敵にするが,生成文法論でもミニマリストアプローチならばかなり構成論的アプローチに近く,人間言語の最適性をキーにして,両者は歩み寄れるだろうと整理している.

このあたりにはかなり違和感がある.まず「ヒトは,普遍文法あるいは生得言語モジュールを適応産物として持っている」というのはほぼ確実に正しい主張のように思え,中尾のいう構成論的アプローチはその前提が破綻しているようにしか思えない.また仮に歩み寄るにしても「人間言語の最適性」という場合,それがヒトの包括適応度を最大化させるのか,情報伝達の効率性を最大化させるのかでは全く異なる議論になるように思われる.またここで人間行動生態学のアプローチが文化進化にとっても発見法として有効であろうということがコメントされている.中尾はいろいろ書いているが,文化進化の場合には「誰にとっての何の最適化なのか」という議論が明晰になされない限り発見法としてもかなりスロッピーなものに止まるのではないかという印象だ.


続いてパターン研究.系統学の基礎講座をおいた後,文化系統学の学説史,いくつかの興味深いリサーチ例を紹介している.ネットワークとツリーの問題以外にあまり哲学的な分析はないが,なかなか楽しい部分だ.

第3部

第3部では具体的な人間行動進化リサーチの実例を取り上げる.テーマとしては罰と教育だ.


まず罰の進化.罰を行動的機能的に定義した上で様々な罰の形を提示する.ここで中尾は罰の進化に対する仮説として「行動修正仮説」を取り上げ,批判的検討を加えている.行動修正仮説とは,まず罰は与え手に短期的なコストがあるのが普通だが,「長期的に与え手が罰戦略を採ることと与え手が受ける協力のメリットに正の相関があることが進化のための条件になる」ことを前提として,その相関は「受け手の行動が(罰を避けるように)将来的に修正される」ことによって可能になるという仮説である.実際に受け手が行動修正しなくとも与え手に利益があって罰が進化している動植物の例,ヒトにおいて直接受け手が行動修正することが期待されていない罰があることなどをもって,これは唯一の説明ではなく,それらは損失削減戦略(罰を与える方が,罰を与えない場合より損失を減らすことができる.つまり単純な利己的行為として説明できる),損失負荷戦略(受け手に罰を与えることにより,与え手やその血縁者に損害を与える能力を失わせる)として説明できるとする.そしてヒトの罰も損失削減,損失負荷の観点から説明できる場合が多いとする.

中尾の定義に従えばそれはその通りだろう.ただここで挙げられているクラットン=ブロックやガードナーたちの主張の力点は前段の「罰戦略採用と長期的利益の正の相関」にあるのであって,行動修正はその例示ということではないのだろうか.彼らは喜んで利己的行為としての罰や損失負荷(これも定義によっては一種の強制的行動修正ともいえるのではないだろうか)を認めるだろう.

またヒトにおいては罰はある種の見せしめ(あるいはルールが実行されることの教示)として機能し,受け手当人の行動修正よりも,ルールを理解した周りの人間の行動修正が主眼になっている場合が多いように思う.これについて「周囲の行動修正を含む」と定義を拡張すればヒトにおいても行動修正で説明できる罰はかなりあるだろうと思われる*3.中尾はこれについて「脅威として機能する罰」として扱い,地域間に多様性があるので,これが重要な淘汰圧になったとは考えにくいとしているが,やや納得感がない.罰は報復されるリスクがあってコストが非常に大きいことがあるし,そのコストはただ乗りの問題を生じさせる.様々な罰のエスカレーション戦略があり,状況によって最初の一手は様々になりうる.また人々が罰を受けて,あるいはルールを知ってどう行動するかは通常非常に複雑で微妙だ.これらのことは,罰を非常に文脈依存的現象とするだろうというのが私の認識だ.そしてそれは単純な地域間比較で諸条件をコントロールしたりランダム化したりすることが困難であることを予想させる.そのほかにもヒトの罰についての中尾の整理にはいろいろと突っ込みどころがあるような気がする*4.罰は非常に複雑な現象であって,単純に論じるのは難しいという印象だ.


最後は教育の進化.最初にカロとハウザーの行動的機能的定義を紹介し,ヒト以外でミーアキャット,シロクロヤブチメドリ,ある種のアリで実例が見つかったことが紹介されている.これが研究者間の合意ということなのだが,ヒトの教育の起源や適応価を考えるならやや定義が広いのではないかというのが私の感想だ.教師側が生徒側の学習進捗についてフィードバックを受けることや血縁者以外にも進んで教えたがることなどはヒトの教育において重要な特徴だろう.このあたりは中尾も同感と見えて,生徒の意図の把握,血縁者以外への教育,広い教育内容をヒトの教育の特徴として挙げている.

ここではシブラたちのナチュラル・ペタゴジー説が批判的に検討される.これはヒトには教育のための認知適応があるという考えで,いかにも進化心理学の応用のような内容だ.中尾はこのナチュラル・ペタゴジー説の中の,適応形質の記述について批判的に検討し,その中でも教える際の明示的なシグナルとそれに対する反応などを反証を挙げつつ否定する.私にはあまり知識がないエリアで,なるほどと読むしかないところだ.もっとも適応形質の詳細には議論があるにしても何らかの認知的適応があるのは相当確かそうだという印象だ.今後のリサーチの進展が楽しみなエリアであるということだろう.


というわけで本書は人間行動や文化の進化リサーチに興味を持ち続けてきた中尾のこれまでの業績の集大成ともいえる一冊だ.一部批判的な部分もあるレビューになったが,全体としては,バランスのとれた学説の紹介と哲学的な問題点についての丁寧な分析がなされており,力作だと評価できるだろう.特に文化進化や罰や教育のリサーチについては様々な学者がどのような立ち位置にたってどう主張しているのかがよく整理されて,コンサイスな総説としての価値も高い書物だと思う.



 

*1:リチャーソンのスロッピーな主張についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120726あたりを参照

*2:従来の社会進化研究では単系進化と多系進化,特殊進化と一般進化,文化進化と熱力学エネルギーの関係など独自の内容が強調されるものであったそうだ.

*3:中尾は村八分は行動修正罰ではあり得ないと書いているが,定義拡張すればそういう意味では十分行動修正をねらう罰と考えることができるだろう.

*4:ゴシップが罰であれば隠された罰になるのを予想できないと書いているが,報復リスクを考えれば,こそこそとゴシップするのは当然であり,進化環境では当人の耳にも入る可能性がそれなりにあると考えても何らおかしなことはないと思う.また公共財ゲームで罰を与えられたプレーヤーが報復行動を示したことがあることをもって行動修正機能から予想できないとしているが,問題は平均した利得相関なのであって,より広い進化的な文脈で罰戦略を採った場合の相手の平均的な反応を定量的に考察すべきだと思われる.