「Faith versus Fact」

Faith Versus Fact: Why Science and Religion Are Incompatible

Faith Versus Fact: Why Science and Religion Are Incompatible


これは進化にかかる創造論者との激しい論争にコミットし続ける生物学者ジェリー・コインによる宗教についての本だ.コインの前著は「進化が確かに事実であることの証拠」についてのものだった.本書では「なぜ宗教と科学は相容れないのか」が取り上げられている.そして今回の攻撃対象は創造論者たちではなく,「宗教と科学は容れるものだ」と主張することにより(偽善的に)宗教をリスペクトする姿勢を見せる一部リベラル(彼らは妥協派 "accommodationist"と呼ばれる)とその背景にある今は亡きスティーヴン・グールドによる二つのマジェステリア論だということになる.


ではコインの議論をみてみよう.
冒頭でコインはある神学者と議論したときのことを語っている.神学者は「信仰はギフト(天からの贈り物)だ」と主張した.コインはその場ではうまく言い返せなかったがこう言うべきだったと書いている.「宗教にとっては信仰はギフトかもしれない.しかし科学にとってそれは毒だ」
コインの主張は,宗教と科学は事実の主張について競合し,異なるツールを使って「存在の主張」を行うということだ.要するにグールドの宗教の描写と宗教の実態は異なっているのだ.これは私がグールドの本を読んだときにまさに感じたことだ.
コインはさらにこう付け加える.科学と宗教は世界の中の真実を発見するというビジネスにおける競合者なのだ.それは理性と迷信の争いであり,あらゆる迷信の中でもっとも公共の害になるのが宗教なのだ,と.そしてこれはまさにコインが新無神論に大きく傾いていることを示しているだろう.



コインは最初にいくつかの前提をおいている.ごく一部の宗教の教義には全く事実の主張が含まれない.これらは本書の議論の対象外になる.また自分自身のバックグラウンド,想定読者層から議論は,アブラハム宗教(キリスト教イスラム教,ユダヤ教)を中心に行うこと,また科学と宗教が競合する部分は世界の真実のごく一部だということだ.

第1章 競合は確かにある

科学と宗教は真実を発見する試みにおける競合者なのだ.科学は宗教が真実だとする多くの主張を覆す能力を持ち,宗教は科学の主張を反駁する能力を持たない.このため過去500年間,両者の間にはコンフリクト(ガリレオの宗教裁判や創造論者によるモンキートライアルなどが引かれている)があった.そして宗教が科学の進歩を妨げた例も多数ある.
コインはこれを例証している本をあげ,宗教側のよくある反論「ガリレオダーウィンは希な例外であり,実際には政治社会的な動機に基づいていた」は成りたたないことを示す.さらに宗教と科学を巡る論争が激しさを増している現況こそグールドのいう妥協が成立してないことをよく示しているのだとする.
コインは続いて様々な近時の軋轢の側面を挙げる.

  • 科学者は,宗教に寛容な姿勢を示す方が好まれ,また宗教関連のリサーチファンドが得られる可能性を閉ざさないことからあまり攻撃的には振る舞わない.
  • 一方科学者は一般大衆よりも非宗教的で,無神論者の比率も高い.コインはこれは科学の原則と無関係ではあり得ないと評している.つまり科学を行う心は宗教から離れやすくなるのだ.そして宗教的な科学者はガンになっていない喫煙者のようなものだと皮肉っている.

ではなぜ最近特に軋轢が増しているのだろう.その理由についてコインは,宗教側の主張に対する科学の進歩が著しいこと,テンプルトン財団のファンドの影響(Nowakの名前が取り上げられている),新無神論の興隆をあげている.
第1の点については単にヒトの進化だけではなく,道徳,自由意思,意識の問題が科学の俎上に上ってきたこと,物理と宇宙論の進展が宗教の説明を圧倒的に卑小にしていることをあげている.コインはそういう言い方はしていないが,これは追いつめられた宗教側の苦境でもあるのだろう.
そして第3の点においてコインは新無神論に好意的だ.多くの(特にアメリカ人の多くが信じている)宗教側の実態は新無神論の言うとおりで,思い切り世界の現実について事実の主張に踏み込んでいるのだ.そしてその多くは途方もない主張を何の証拠もなく提示するものなのだ.
コインはここでは,彼らの主張は事実に基づかず,感情に基づいているにすぎないし,異なる宗教が異なる主張をすることについて何の解決もできないと厳しくコメントしている.

第2章 どこが相容れないところなのか

最初にコインのハーバードでの経験が語られる.彼は最初ルウォンティンのラボに入ったのだが,そこでの発表は,徹底的に批判的な質問により信頼性に対するありとあらゆる精査がなされる.コインは最初ひるむが,後にその過程を楽しむようになる.そして(それにより得られる知識ではなく)その過程こそが科学の本質なのだ.

科学の特徴についてコインは次のようにまとめる.ある科学的な主張は科学の世界ではまず懐疑を持って検証され,それは反証があれば覆り,繰り返し再現されればより確度の高い知識となっていく(「反証可能性」「懐疑的精神」「再現性と品質コントロール」).さらにコインは「説明の最節約性」「わかっていないことを認める」「グローバルな単一のシステム」であることを特徴として追加する.

これに対して宗教の特徴は何か.これは宗教の定義が人によって大きく異なるのでちょっと難しい.一神教の世界の多くの人々が受け入れている素朴な宗教の定義に従うとすると,コインによる宗教の特徴は以下になる.

  • 世界と相互作用する「神」の存在を主張する.
  • 道徳システムをそのコアに抱く.
  • そして神が人々と直接コンタクトすると主張する.

すると(グールドの議論と異なり)宗教も(神の存在という)事実の主張を行っていることになる.神学者の一部はこれを否定するのでコインはここを丁寧に扱っている.なかなか噛み合わない議論で読んでいてもしんどいが,一般的に一神教では神の存在だけでなく世界の成り立ちや物事のあり方についても事実の主張をしている*1というのは確かだろう.
そして当然ながらここで「進化」の問題が取り上げられている.進化は聖書と相反する唯一の科学理論であるわけではないが,圧倒的な証拠が積み上がっている上に,(魂の存在をめぐる)物質主義,人間の特別性,道徳に大きな含意を持つので,多くの信者から拒否されている.一般的に信仰の深い人は科学を知れば知るほど進化を拒否するようになるそうだ.ハイトなどのリベラルによる宗教擁護論では,社会的感情的なメリットこそが信仰の真の動機であって,そのような事実の主張を信じる必要はないとするが,コインはここも深く踏み込む.多くの普通の信者の信仰は,神が実在するのか,宇宙がどうなっているかにかかる宗教的信念と切り離せないのだ.

そして科学と宗教の何が相容れないかの検討に進む.コインの主張は「両者は現実の知識の獲得にかかる手法が異なるので相容れない」ということだ.科学的知識は検証によって確度を高めていく.しかし宗教による知識は信仰・天啓・権威に依存し,それは反証を許さない.コインは宗教による真実の追究は,確証バイアスに深く侵されており,よりありそうもないことを信じることこそ信仰の深さをディスプレイでき,理由がないときこそ信仰が必要になるような構造であるとコメントしている.
このあたりは当たり前の議論だが,コインはここで「科学者も権威には従うのではないかという宗教擁護派の議論」「証拠が事実の主張と矛盾した場合の態度」「(すべての信者が聖書を文字通り信じていないとしても)聖書から都合のいい記述をチェリーピックする問題」「何故神は隠れているのか,何故悪があるのかなどの問題についての宗教側の説明」「多くの宗教がある中で,何故自分の信仰に基づく事実の主張のみが正しいと考えるのか*2」などについても粘着的に議論している.なかなか読んでいて面白いところだ.

そしてこのコンフリクトはどのような結果をもたらしてきただろうか.
科学は宗教による歴史的事実の主張を次から次に覆してきた.そしてコインは,科学は知識を積み上げ,その結果(超自然を懐疑的に扱う)自然主義に深く傾くことになったとする.そしてこれは妥協派にとっては厄介な問題になる.科学者は誠実に語るなら「科学と宗教は相容れない.どちらかを選ばなければならない」と言うべきだ.しかし多くの人は両方を認め,強制されれば宗教を選ぶだろう.妥協派は強制は社会的によくないとして黙り込む.コインは最後にこう締めくくっている.「もしあなたがこれまで世界についての知識を得てきた手法との一貫性を保つなら,そして既にESPやホメオパシーなどの証拠の無い主張を退けているなら,あなたは選ぶしかない.科学を.それは現在の科学的知識を不変のものとして信じよということではない.あなたは迷信や願望的思考より理性と証拠を選ぶべきだということだ.」

第3章 妥協派は何故うまくいかないか

コインは「妥協派は認知的不協和を解消しようとしているだけだ」と手厳しく始める.彼等は,自分たちが科学肯定論者でありかつ宗教にも融和的だと思われたいのだ.そして実際に多くの妥協派は実は無神論者や不可知論者だ.つまりこれは彼らの政治的なディスプレー戦略でもあるのだ.
コインはここでよくある妥協派を分類している.コインによると妥協派には次のカテゴリーがある.

  • 論理的両立派:科学と宗教が相容れない論理的な理由はないとする.
  • 心的両立派:多くの科学者は信仰を持っているので,心的に両立可能だとする.
  • 融合主義派:両者は真実を発見しようとする同じ実践の異なる側面に過ぎないとする.

コインはそれぞれどう破綻しているかを厳しく指摘している.「論理的両立は神が世界と相互作用しないとする以外は矛盾してしまう」「相容れない信念を持っている(混乱した)科学者がいることが科学と宗教の両立を証明するはずがない」など.融合主義の主張は特に科学者として許し難いということだろう,反論も手厳しい*3.ここも読んでいて面白い.

そして妥協派の中でも影響力が大きなものとして,ここでまとめてグールドのNOMAの主張が批判される.

  • グールドは2つの点で誤っている.彼の主張が成り立つためにはまず宗教をホメオパシーのように薄めた上で超自然の主張を取り除かなくてはならない.さらに彼は宗教にモラル問題の唯一の権威を与えている.
  • グールドは「宗教と科学が適切に(properly)遂行されるなら共存できる」と説くが,「適切」は怪しい言葉だ.実際の宗教はしばしばそして極めて強固に「不適切」なのだ.それは創造論者の進化教育への抵抗で明らかだし,彼等は宗教による事実の主張の上にモラルがあると信じてもいる.
  • 宗教にモラル問題の権威を認めるのは,賢明でもないし,歴史的にも誤っている.

さらにコインはNOMA主張の1つ「科学は超自然に踏み込むべきではない」にもついても「科学はある現象が自然現象として説明できるか,超自然に属するかを調べることができる」と批判し,「祈りが効果を持つか」などのリサーチを紹介し,「何があれば超自然があることの証拠になり得るか」「奇跡をどう考えるか」などを議論している.
奇跡については,キリスト教の例を取り,宗教側の証拠を無視する理由について特に粘着的に議論していて面白い.最初の例は全人類の唯一の祖先としての「アダムとイブの存在」だ.これは原罪と関連するために信者にとっては重大な事実の主張になる.しかしDNAの証拠はそれを否定する*4カトリック教会は,それは原罪とキリストの贖罪に関わるとして,なお人類の多人数祖先性を否定している.ここは曖昧にごまかす神学者や,原罪の遺伝性まで話が広がって楽しい.
もうひとつの例は「神による世界の創造」だ.これは進化と大きく関わる.妥協派はこれを「神が何らかの形でソフトにガイドする進化」として解釈し直そうとする.これは信者からは魂の存在や道徳の由来と絡んで譲れないところとなる.しかしこのバージョンは進化に目的や前もって定められた方向を認めてしまうことになり,科学を歪めてしまうとコインは批判する.そしてこれは「ヒトの進化は不可避だったか」という論争に影を落とす.ここはコインによると,科学がヒトの進化の不可避性を説明できれば妥協派はあからさまな直接的な神の介入を必要としなくなるのでそう主張したがるということになる.*5コインはそれはありそうもないと厳しく批判している*6.またここでは進化に関連して,何故神は多くの絶滅を生じさせているのかなどの問題も取り扱っている.また妥協派の進化理論は「一部は証拠に基づき,一部は信仰に基づく」という混乱したものにしかならず,大衆の科学の理解を歪ませるとも批判している.

第4章 宗教の逆襲

(リベラルの政治的ディスプレーとしての)妥協派の方策が失敗する一方,宗教側は別の方策を採る.彼らは宗教的に世界をリサーチする方法を試し(新自然神学),それが失敗すれば科学をすべて否定する.よくある言い方は「科学は神の不存在を証明できない」「科学も宗教と同じように間違いうる」というものだ.

ここではコインがこの手の宗教側の主張を順番に取り上げて料理する.創造論者との論争で鍛えられているだけあってなかなかの手練れだ.


<神の存在の証明(の試み)>
自然神学は(科学が解明できていないと彼らが想定する)「生命の起源」や「意識の生物学的基礎」あたりをターゲットにし,神の実在を証明しようとする.これはウィリアム・ペイリーにみられるように17世紀以来の伝統があるが,近時IDとして復活している.コインに言わせると要するに「何かわからないギャップがあればそれは神によってのみ説明できる」と主張する試みだ.(また妥協派には物理定数の決定を神の存在に帰する向きもあるようだ.)
コインは,まず(ベイズ的に)よりありそうな私たちの無知の説明を探求すべきだと主張する.さらにコインは仮に無知を神に帰するとしてどうしてそれがあなたの信じる神であって他宗教の神でないと言えるのかと皮肉っている.その上で最近の生命の起源や意識についての科学の知見の大幅な進展や,物理定数の解釈についてもコメント*7して補強している.
コインはここで宗教とモラルの問題も取り扱っている.これは宗教,そして一部の妥協派が,ヒトに道徳があることを神に帰する議論を行っているからだ.コインはピンカーの著作やトロッコ問題を引きながら,道徳そして利他的行動を自然主義的に説明できることを解説し,さらに道徳が時代とともに変遷しているのは神由来の道徳にとって不都合な真実であることも指摘している.このほか神の実在の証拠として持ち出されるものには「真実を知ることができること」「理性があること」などもあるそうだ.なぜこんなことが神の存在の根拠となると考えるのか理解に苦しむところだが,コインは丁寧に宗教側の言い分とそれへの批判をコメントしている.

続いて有名なウォレスの議論「ヒトの能力には進化的に考えて不要な高度なものが含まれている,これは神に由来するとしか考えられない」という主張が扱われる.コインは言語習得や社会生活に必要な認知能力は非常に高く,数学などの能力は副産物として十分に説明できるとし,実際このような自然下では不要としか思えない高度な認知能力はほかの動物でも見つかっており,神学的には説明できないだろうと皮肉っている.


<「科学だけが真実を知る方法か」という問題>
宗教側は「宗教的な世界観は真理を発見する別の方法だ」と主張することになる.ただしこれらが主張されるときに宗教側が通常持ち出すのは宗教そのものではなく人文学,芸術,哲学,数学などだ.
コインは,ここではかなり科学哲学的な議論に踏み込んでいて,なかなか読ませる.まず最初に論争が混乱する原因である「知識」とか「事実」とかの言葉の定義をはっきりさせる.そしてまず啓示などの個人的経験によって得た「個人的知識」は実証やコンセンサスがなく知識とはいえないのだと整理する.
次に歴史学,考古学,言語学,心理学,経済学などを通じて知識がもたらされるときにはそれらはまさに科学の手法を使っているのだと指摘する.*8
数学は自然の知識を得るものではなく論理的な帰結を示すもので,哲学は考えのフレームワークをテストし,ロジカルなエラーを発見することができるものだとする.さらに芸術が真実を知る方法とはいえないということもコインはかなり丁寧に論じている.
驚くべきことに宗教側はこの文脈で,モラル自体が真実を知る道だと主張することもあるらしい.コインはモラルに客観的な真実はないだろうとコメントしている.(ここでは帰結主義自然主義的誤謬,科学でモラルに到達できるかなどの話も振られていてなかなか深い記述になっている)


<「科学が道を踏み外している」という非難*9
自然科学は越境して哲学,人文学,倫理学,神学の領域を犯しているという主張だ.実際にグールドは,人間の考え,愛,創造,倫理判断,なぜ人は神を信じるかなどの問題について自然科学側の越境を主張していた.
コインはこれらの非難はあまりにも誇張されていて,実際に科学主義とされるものにほとんど弊害はないとまず指摘する.その上でコインは彼らの批判を丁寧に扱っている.ばかげた批判にうんざりしている様子がうかがえる.

  • 科学主義の批判の内容は以下のようなものだ.「科学者たちは,科学は事実を知る唯一の方法であり,社会科学は自然科学に吸収されるべきであると主張する.さらに歴史や芸術は科学的視点からのみみられるべきであり,科学で答えられない疑問は考察するに値しないと主張する」.要するに科学者は傲岸であるという批判だ.
  • 確かに客観的な真実を知る唯一の方法は科学的手法だが,それはむしろ福音というべきだろう.そして「社会科学が自然科学に吸収されるべきだ」とか,「価値観に依存する問題は議論するに値しない」とかの主張に賛同している科学者はほとんど存在しない.
  • 確かにいくつかの人文科学,社会科学の分野,さらになぜ人は芸術を好むかなどの問題については進化生物学や神経科学が我々の理解を深めるだろう.そしてそれ自体に何ら問題はないはずだ.

そしてコインは返す刀で宗教側を切る.

  • そしてそれをいうなら宗教主義religionismこそ非難されるべきだ.宗教こそ越境しがちなのだ.宇宙について何ら検証のない内容をふれ回る,そして倫理について宗教側に権威があると主張するのだから.


<「科学は神の不存在を証明できない」という主張>
これはドーキンスが延々と「確かに火星軌道のティーポットや妖精やユニコーンの不存在証明と同じように神の不存在を証明することはできない.しかし確率論的に議論すればそれはほとんどあり得ないと容易に主張できる」という議論をしていたことが思い出される.コインはまず神の特性について前提があるなら(特定の特徴を持ち,特定の仕方で世界と相互作用するなど)反証は可能だと主張し,続いて,厳密な証明ではなく,日常生活でそれを信用してよいという意味での証明なら簡単だと議論する.議論の最後に,なぜ悪の存在は(慈悲深い)神の反証にならないのだろうかとコメントしているのはなかなか皮肉が効いているところだ.


<「科学もFaithに基づいている」という主張>
これは宗教側だけでなく極端な文化相対主義者やポストモダニズム論者が科学を貶めるときに使う議論とよく似ている.
コインはこの手の批判はこの「Faith」に二義を持たせて,宗教側には証拠がない中で信用する「信仰」の意味を,科学にはこれまでの有用性や証拠からそれを信じるという「信念」の意味で用いて混乱させているだけだと手厳しい.
このバージョンの中では,「科学が真実を知る唯一の方法だということは論理的に証明できないはずだ」というものもあるそうだ.コインは科学は論理的哲学的に真実に迫る唯一の方法なのではなく,それまでの経験からの有用性がそれを示しているのだとし,さらに,こういう議論は宗教側の信念にまさに跳ね返るはずだと反撃している.


<「科学は宗教(特にキリスト教)から生まれた」という主張>
これにはいくつかの派生型があって,「科学は自然神学から派生した」というもの,「科学の基礎たる倫理はキリスト教からきた」というものなどがあるそうだ.コインは,そもそも科学のルーツは古代ギリシアまでさかのぼりキリスト教より古いこと,そしてキリスト教は科学の発展には何ら寄与せず,阻害ばかりしてきたと指摘する.教会の権威主義は自由な思考を妨げ,「異端」という概念自体が反科学的だ.科学倫理の基礎にキリスト教があるという指摘は疑わしい,そしてさらに科学のルーツや基礎に何らかの宗教が絡んでいたとしても,それが宗教が真実に迫れることにはならないと畳みかけている.
同じ文脈でもう一つ「信心深い科学者が実在する」と主張がなされることがある.コインはだからといって科学がキリスト教から生まれたことにはならないし,20世紀以降のほとんどの科学の進展は非宗教的な信念からなされていると指摘している.


<「科学も悪をなす」という主張>
ケネス・ミラーは「優生学や原爆や人体実験は科学がなしたのだ」と指摘する.これはもう「悪いのは僕だけじゃないもん」というかなり恥ずべき主張だが,コインは,そもそも科学がもたらした知見自体は価値中立であり,科学と宗教はその誤用において大きな違いがあると議論している.科学の知見を悪用するのは悪用する主体に問題がある.しかし宗教の場合にはその悪用は信仰自体に根ざしている場合があるのだ.宗教は,絶対的真理を標榜し,モラルコードと結びつき,死後の報酬を約束することができる.それは信者が特定の価値観を持つだけでなくそれを他人に強制することにつながる.証拠なしの信仰は善人に悪をなさしめることができるのだ.


<「科学も間違うことがあるし,信用できない」>
これはまさにポストモダニズムの議論だ.コインは,もちろん科学も間違うことがあるが,それは自動修正システムを内包しているのであって,誤りがあればそれを科学自身が訂正できるし,実際にしてきたと指摘する.
そして返す刀で,宗教は訂正メカニズムを持たないし,宇宙についての説明は正しかったことがないとコメントしている.

第5章「何が問題か」

ここでコインは宗教の害悪を議論する.そしてコインは害悪は宗教そのものからくるのではなく「証拠なしに何かを信じること」からくるとする.

  • 宗教は必ずと言っていいほど現実について誤った主張を断言する.グールドは「アブラハム宗教は歴史や科学についての事実の主張はしない」といったが,これは明白な誤りだ.もっとも害が大きいのは「ギャップの神:god of the gaps」の議論だろう.科学ではわからないことがあると指摘し,それを神に帰する.それは大衆を誤りに導くだけでなく科学ストッパーとしても作用する.確かにハードプロブレムはある.しかしそれまでハードブロブレムだと考えられてきたがその後科学によって解明された問題は数知れない.


コインはここから個別の宗教の害悪についての議論を進める.


<子供の虐待>

  • 証拠に基づかない誤った信念とモラルコードは自分たちの子供の医療を拒否し,祈りや超自然的な治癒に頼る態度につながる.子供は悲惨な状況に陥り,しばしば死亡するが,両親はそれを受け入れ後悔も見せない.そしてほとんどの場合刑事罰は課せられないままだ.

コインは実例を挙げてこれでもかこれでもかと書いている.怒りが伝わるようだ.
そして宗教的信念からの子供への予防注射の拒否の許容(アメリカの50州のうち48州で認められているそうだ)も取り上げている.これらはポリオの根絶を困難にし,出産死亡率を上昇させている.(ここでは同じ問題として代替医療への証拠なしの信用も挙げている.このあたりは日本でも同じ問題があると思われるところだ.)
コインは,なぜこんな馬鹿げたことが継続しているのかについて,デネットのいう「信仰への信仰」があるのではないかと指摘している.信仰自体をよいものだと考える態度が宗教的信念からの医療拒否法制を認めてしまう土壌となるのだ.


<リサーチの抑制>

  • まずES細胞だ.ブッシュ大統領は明らかに宗教的信念からこのりサーチを抑制する政策をとった.
  • そして現在HPVワクチンへの反対運動には宗教的な理由が大きく影響を与えている.カトリック教会は最大の反対勢力の一つだ.それは性交渉へのバリアを一つ取り去り,若年層のより自由な性交渉の増加に結びつくという憶測(そしてリサーチはそのような増加がないことを示している)から反対しているのだ.

コインはそもそも宗教は災害は神の意志であると考え,病気の治療や予防に関して消極的だと指摘している.


尊厳死の抑圧>
コインは人間の尊厳死が認められない大きな要因として神から与えられた魂の尊厳という考え方があると議論している.もっともそれは日本でも抵抗があるから,単にキリスト教的なドグマだけの問題ではないような気もするところだ.また殺人の偽装を容易にするという観点も合わせて議論が必要だろう.


地球温暖化の否定>
これもコインによると神の摂理という宗教的な感覚が大きく関わるということになる.関連がやや明確でないのでコインはかなり丁寧に論じている.
まず進化,ビッグバン,地球の年齢,人間の活動による地球温暖化を否定するかどうかはすべて宗教心の強さと相関する.そして基本的には「神による世界についてのスチュワードシップと,復活するまでそれを保つ約束」が背景にあると議論している.さらにそれに加えて,アメリカでは宗教心と政治的態度(保守)が結びついているので,宗教心の厚い人は彼らのコミュニティでの意見に同調してしまいがちになるという問題もあり,さらにニセ科学が宗教と収斂しやすいことが問題を悪化させると指摘している.なかなかアメリカの保守とキリスト教の結びつきはやっかいなようだ.


個別の問題をみた後でコインは全体的な議論にはいる.


<宗教だけでなくすべての「証拠なしの信仰」がない世界はどうなるか>
怪しげな代替医療地球温暖化やワクチン注射の否定論,中絶や皆保険制度についての反対*10はなくなり,政策はよりエビデンスベースになる.
コインは続ける.神から与えられたと主張される道徳律は意味をなくし,中絶,尊厳死ES細胞リサーチへの反対はなくなり,同性愛者が罪深いとも考えなくなるだろう.カトリックのドグマがなくなるだけで,避妊やHPVワクチンへの反対,そして子供を地獄の業火で脅すこともなくなるだろう.
ここでコインは踏み込んで,イスラム教は政教分離がないためによりリスクが大きいとコメントしている.イスラムの証拠なしの信仰の内容は法になりやすく,聖典は同性愛と背教を死罪と定めている.
そして最後に宗教の違いに起因する争いもなくなる.


<信仰がよいことはないのか>
コインは誰にとって「よい」のかには注意すべきだと前置きしてから,「時には,しかしまれだ」とコメントする.まれなケースの代表例としては死の床にある老人の心の安らぎ(もうすぐ天国に行って死別した愛する人々に会える)を挙げている.しかしそれが信仰が社会にとってよいものであることを意味するわけではない.物事にはトレードオフがあるのだ.
よくある宗教擁護論は「仮に証拠がなくても信仰は社会の紐帯となり,人々に希望と生きる意味を与える」というものだ.コインは手厳しく非難する.

  • これはまさにデネットのいう「信仰の信仰」であり,これらの論者は要するに「私たちは洗練されているから証拠なしの信仰は抱いていないが,庶民には有益だ.彼らは合理的な議論などできないが,信仰で満たされるのだ」と言っているのだ.
  • そしてそもそも「社会の紐帯」という主張自体疑わしい.まず北欧諸国はここ数世紀で非常に宗教色が薄れたが,社会はきちんと機能している.そして様々な証拠は,不確実性と生活の厳しさが社会の宗教色を強める効果を持つことを示している.

コインはさらに宗教は社会問題を解決しようとするインセンティブを失わせているとみることができると主張している.


<では科学と信仰は会話可能か>
科学者と宗教家の対話はしばしば試みられる.そしてそれは建設的になりうるだろうか.コインは何か有益なことがあるとするならそれは対話(ダイアローグ)ではなく,モノローグだとコメントしている.科学者が宗教家に話し,宗教家が耳を傾けるなら,宗教家にとって有益になりうるだろう,そして宗教が科学に伝えうる有益な内容はないというものだ.かなり傲岸な感じだが,コインは詳しく説明している.

  • 科学は原理的には少なくとも進化的,文化的,心理的になぜ宗教があるのかを説明できる.(ここではかなり詳しくボイヤー的な考察が述べられている)
  • また科学,特に歴史学聖典の成立を説明できる.
  • 最後に科学が宗教に与える真の貢献はいくつかの宗教側の主張が正しくないことを示すことができるという部分だ.宗教はそれを認め,事実と思われていたことはメタファーだったと修正することができるのだ.


コインはこうまとめている.

  • 科学と宗教の非両立性は宗教が科学にとっては迷信にすぎないというところに原因があり,特に世界についての事実の説明を証拠なしの信仰から行おうとするからだ.そして宗教を科学的に見せようとする態度はニセ科学につながる.
  • 我々はいまこそ使徒パウロのコリント人への手紙に従うべきではないか:「成人し,幼きことは捨てたり」.信仰をよいもののように扱うことは止めるべき時期ではないか.
  • 宗教は科学と両立しないだけではない.科学の発展の障害となっているのだ.
  • 宗教がなくとも芸術も正義も法も同情も消えはしない.道徳も消えないのだ.北欧の歴史はそれを示している.

コインは最後に現代医療の進展によって命を救われた人のエピソードを振って本書を終えている.彼らが助かったのは奇跡ではない,それは現代科学の成果なのだと.


ドーキンスは若い頃から創造論者たちとの論争を経験し,9. 11を契機に宗教の一部の主張の問題性について深く論じる本「God Delusion(邦題:神は幻想である)」を書き,デネットやハリスと共に新無神論者と呼ばれるようになった.後に(特に創造論者との論争で最大のバトルフィールドである)進化の証拠のついての本「The Greatest Show on Earth(邦題:進化の存在証明*11)」を書いた.コインは種分化についてのリサーチで著名な生物学者で,やはり若い頃から創造論者との論争に関わり,まず進化の証拠についての本「進化のなぜを解明する」をまさにドーキンスの進化の証拠本とほとんど同じ時期に書いている.だから本書はコインにとって残されたエリアについてのもので,いわばもう一つの「God Delusion」ということになるのだろう.
コインはかつてドーキンスの「還元的姿勢」や進化心理学についての批判者だったが,ここ数年で進化心理学ドーキンスの主張を受け入れる様になっている.それは宗教に絡んで新無神論関連の本を読み,さらにドーキンスもきちんと読んでみて,それまでリベラルのドグマに影響されていた自分の姿勢を見つめなおし,考えを変えたということなのだろう.そして本書の主張はほとんど新無神論そのものになっている.科学者として(自分のリベラル的な評価を気にすることなく,偽善や自己欺瞞にも陥らずに)客観的に考えるとこういう結論になるということを示しているようでもある.
本書は内容的には現在アメリカで問題になっている宗教と科学に関する論点が網羅され,コインによる丁寧な解説と粘着的な議論が展開されている本ということになる.ドーキンスほど真っ正面から宗教を論じているわけではないが,十分ぴりっとした皮肉もあるし,偽善的なリベラルの議論を特に手厳しく非難しているところが特徴ということになるだろう.ねじれきった論争の裁き具合の技が読みどころだ.
そして日本人読者としてこの手の宗教に関する本を読む度に思うことにまたも触れると,日本の主流の宗教が事実の主張や道徳の主張でアメリカの宗教家たちほど積極的でないことに本当にほっとさせられる.とはいえカルトやニセ科学の問題がないわけではないわけだから,そういう意味で読む価値のある本だと思う.


関連書籍


コインによる進化の証拠本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100302

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コインがここで批判しているグールドのNOMAの主張.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

神と科学は共存できるか?

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*1:基本的にキリスト教では,神の存在,神による世界の創造,アダムとイブが実在し全人類の祖先であること,神の子(キリスト)を処女懐妊という形で使わしたこと,キリストの磔による死と復活などの事実の主張がある.一部の神学者たちはこれらは寓話であり事実の主張ではないと主張する.コインは,少なくとも多くの普通の信者は事実の主張と受け取っていることを,様々な例を引いてかなり丁寧に指摘している.また事実の主張が反証されたときに科学はそれを誤りとするが,宗教では寓話になるのだとも指摘している.なかなか手厳しい.

*2:コインはこれは幼少時の洗脳とその後の確証バイアスによるところが大きいのだろうとしている

*3:ここではアインシュタインについてもいろいろと解説されている.アインシュタインはよく持ち出されるのだろう

*4:全人類の祖先が12000人を下回ることはないし,出アフリカのグループでも2000人を下回ることはない

*5:実際にコンウェイ=モリスは収斂を扱った書物でそう主張している.

*6:コインは「何故オーストラリアではヒト型生物が進化しなかったのか」とも問いかけている.

*7:定数そのものを神に帰しても,結局神はどこから来たのかのいう問題にすり替わるだけだ.ヒトの存在が可能になるようにファインチューニングしたという議論に対しては人間原理で説明可能だし,マルチバースという理論すらある.そもそも(キリスト教の)神にとっては地球の存在さえあれば十分なはずなのにヒトの居住不可能な広大な宇宙があるのは逆に神のチューニングに疑念を抱かせるのではないか

*8:ここで社会科学は(仮説検定や実証が甘く)それより少し非科学的だとコメントしているのはコインの感想ということだろうが,なにかあったことを思わせてちょっと面白い

*9:しばしば科学主義scientismの批判と呼ばれるそうだ.科学帝国主義とでも訳した方がいいのかもしれない

*10:皆保険制度への反対と宗教の結びつきについてはあまり詳しく説明されていない.病気は神が与えた試練ということから消極的になりがちだということだろうか.しかし治療とは別の話であってややわからないところだ.

*11:邦題は「証明」になっているが,これは証拠についての本である.