昭和を振り返る日記

2005-07-31 満州事変への道

昭和4年アメリカウォール街で大暴落が起こり経済が逼迫してくる中、昭和5年ロンドン軍縮条約により海軍軍人の整理が始まります。これに陸軍が危機感を持ちます。

こうしたところに石原莞爾が登場します。彼は永田鉄山と並び称される陸軍の雄でした。

その彼が「世界最終戦総論」という構想をまとめます。大雑把に言うと世界が争って結果的にはソ連アメリカ日本が残るから、それまで日本は国力を整え潰しあうのを見ておればいい。ソ連アメリカが戦いアメリカが勝つから、その時点で日本アメリカと戦えばよいというものだったようです。さらにこのために、日本満州をしっかり管理する必要があります。そこで中国とは争わず、日中共同で満州を管理するというものでした。

ところで、この時期に「満州日本の生命線である」というスローガンが登場します。これは、松岡洋右満鉄の副総裁時代に言った言葉だそうです。これが日本国民にピッタリきたので国民感情がさらに高揚していくことになります。

2005-07-28 君側の奸

君側の奸。くんそくのかんと読みます。昭和歴史を語るときによく出てくる言葉です。

昭和天皇を取り巻く元老、内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣といった宮中のトップの人たちのことです。

元老とは、大正天皇の摂政の宮に昭和天皇がなられたときに、その補佐に山県有朋、松方正義西園寺公望を据えました。このうち山形と松方は亡くなってしまい、昭和には西園寺のみとなっていました。

内大臣は内務大臣とは異なります。内務大臣内閣の一員であって宮中グループではありません。内務大臣警察行政を掌握していました。

さて、内大臣ですが「内府」と呼ばれます。その役目は天皇の印の管理です。さらに天皇政治的問題に関しての相談役もつとめていたようです。

侍従長というのは、天皇のそばにいていろいろな相談の相手となる人です。一種の秘書のような務めですので、やり手の人は天皇との拝謁のスケジュール管理もしていたようです。

侍従武官長は、軍事問題に関する天皇の相談相手です。この侍従武官長は陸軍出身者が務めるのがしきたりになっていました。ちなみに侍従長は海軍出身者でした。

最後に宮内大臣です。宮内省のトップとして皇室全般に関する補佐を行っていました。

2005-07-27 張作霖事件

昭和3年6月4日のことでした。蒋介石国民党軍と衝突して破れた張作霖が北京から逃げてきます。

張作霖というのは満州の大軍閥です。当初日本軍は彼をおだてて満州を勢力下に置こうとします。張作霖としても日本軍を利用することで蒋介石との戦いを有利にしようと考えました。ところが、張作霖がだんだん日本軍の思うとおりにならなくなります。

このため、彼を亡き者にしようという考えが軍の大勢になり始めます。



昭和3年6月4日のことでした。蒋介石国民党軍と衝突して破れた張作霖が北京から逃げてきます。

張作霖というのは満州の大軍閥です。当初日本軍は彼をおだてて満州を勢力下に置こうとします。張作霖としても日本軍を利用することで蒋介石との戦いを有利にしようと考えました。ところが、張作霖がだんだん日本軍の思うとおりにならなくなります。

このため、彼を亡き者にしようという考えが軍の大勢になり始めます。

こうした状況下で張作霖は逃げてくるわけですが、これを利用して張作霖の乗った列車を爆破することを関東軍は考えます。もちろん関東軍は自分がやったことにはしません。

ですが、計画がずさんであったため関東軍の仕業であることは西園寺公望らにわかってしまいます。西園寺は当時の内閣総理大臣で元陸軍大将田中義一に厳密な調査と関東軍が事件に関わっていた場合の関係者の処罰を指示します。

田中は「わかりました」と言いつつなかなか実行しません。西園寺は田中をせっつき天皇にも報告させます。田中天皇の前で陸軍が関与している場合は厳罰に処すことを約束します。天皇は「しっかり実行するように」と言われたのですが、田中はなかなか実行しませんでした。

こうしている間に、だんだん関東軍のしわざであることが明白になってきます。そんな中で田中昭和4年5月6に天皇に事件が陸軍とは無関係であること、ならびに張作霖の警備をすべき陸軍に関してその警護ができなかった責任も軽い処分ですませたい旨を報告します。

天皇はお怒りになられます。田中は6月27日に最終報告をすることになるのですが、この席で天皇田中に辞職してはどうかと言われます。

さらに、28日に白川義則陸軍大臣天皇陸軍の処分案を提出するのですが、この内容は陸軍が張作霖を守れなかったことへの行政処分でした。天皇はこれを聞かれて田中を呼び寄せて辞職を勧告します。田中は7月2日に辞職します。

こうして天皇総理大臣を辞めさせるという事態が発生しました。

2005-07-17 軍法会議

日本人軍人軍属、軍学校生徒等に関する刑事裁判を取り扱う特別裁判所です。軍人犯罪は、陸海軍刑法違反に限らずに、軍事機密保護の観点から通常の裁判所ではなくすべて軍法会議において裁かれました。

軍法会議には常設軍法会議と特設軍法会議がありました。

常設軍法会議は、陸軍の場合には陸軍高等軍法会議(長官は陸軍大臣)・軍法会議師団軍法会議・があり、海軍の場合には海軍高等軍法会議東京軍法会議・鎮守府軍法会議・要港部軍法会議艦隊軍法会議がありました。

特設軍法会議は、戦時・事変に際して臨時に特定部隊・地域に設立されるもので、常設軍法会議とは異なって非公開、弁護人なし、上告なしでした。

相沢三郎中佐の場合は第1師団軍法会議による公開であったが、226事件の裁判は緊急指令による特殊な特設軍法会議でした。

2005-07-14 蹶起趣意書

2・26事件を起こした青年将校たちが蜂起に際して配布した檄文です。

元老・重臣・軍閥(統制派)・財閥官僚政党国体破壊の元凶であるとしています。

また、ロンドン軍縮条約の締結および真崎甚三郎教育総監の罷免を統帥権干犯と断定しています。

天皇をないがしろにする「君側の奸臣軍属を斬除」することが自分たちの任であると論じています。

青年将校らはこれを陸軍首脳に示して昭和維新の断行をせまりました。

みんなのプロフィールみんなのプロフィール 2005/07/15 22:58 ブログ開設おめでとうございます!

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2005-07-12 2・26事件将校の遺書公開

死刑を執行された19人のうち17人の遺書が公開されたそうです。

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

この17人は西田税と北一輝以外ということなので

 昭和11年7月12日に処刑された

 香田清貞(元歩兵大尉、34歳)

 安藤輝三(元歩兵大尉 32歳)

 竹島継夫(元歩兵中尉 30歳)

 対馬勝雄(元歩兵中尉 29歳)

 栗原安秀(元歩兵中尉 29歳)

 中橋基明(元歩兵中尉 30歳)

 丹生誠忠(元歩兵中尉 29歳)

 坂井直 (元歩兵中尉 27歳)

 田中勝 (元砲兵中尉 26歳)

 中島莞爾(元工兵少尉 27歳)

 安田優 (元砲兵少尉 26歳)

 高橋太郎(元歩兵少尉 23歳)

 林 八郎(元歩兵少尉 22歳)

 渋川善助(民間協力者 32歳)

 水上源一(民間協力者 31歳)

 の15名と

 昭和12年8月19日に執行された

 磯部浅一(元一等主計 33歳)

 村中孝次(元歩兵大尉 35歳)

 の2名だと思われます。

 この両名は士官学校事件後の軍部批判のため免官になっていたので執行当時は民間人となっています。

2005-07-05 教育総監

教育総監というのは陸軍教育を統括する教育総監部の長官のことです。元来は陸軍大臣の下に位置していました。

1900年(明治33年)以後、天皇直隷となり、陸軍大臣参謀総長とともに陸軍三長官を構成します。

教育総監は中将大将があたるものとされ、総監部本部長、騎兵監・砲兵監をはじめ陸軍士官学校中野学校など軍関係学校の校長も監督しました。

昭和20年10月に廃止されています。

2005-07-04 教育総監更迭問題

皇道派と統制派の対立はますます激しくなっていきます。

その中で士官学校事件を契機に真崎甚三郎教育総監の更迭が浮上してきます。真崎は天皇機関説問題に関して在郷軍人を煽動したり、機密事項を若い将校に漏らすなど行動に問題があったとされています。

また、天皇にも嫌われていた様子です。

昭和10年林陸相は定期異動で真崎の更迭を決めます。陸軍では将官の異動に関しては陸相参謀総長教育総監と相談することになっています。当然、真崎は猛反対しますが、閑院宮が真崎の更迭を主張したため真崎は破れることになります。

ところで、林陸相の後を押して真崎を更迭させたのは永田鉄山ということになっています。

この更迭に関する不満を真崎は将校に語ります。かくして将校の間には「永田憎し」の雰囲気ができあがっていきます。

この問題もまた相沢事件の引き金であったと思われます。

2005-07-03 士官学校事件

士官学校事件の結果、村中、磯部は証拠不十分として不起訴処分となります。同時に行政処分としてもっとも重い停職処分を受けました。停職処分を受けると6ヶ月は復職できず、そのまま1年たつと自動的に予備役にまわされます。

一方、辻は重謹慎30日の処分を受けます。その後、水戸の歩兵第2連隊に天人となりました。もちろん処罰的左遷です。

彼は水戸に発つ前に真崎のところへ挨拶に行きます。この挨拶の際に真崎は辻の軍刀が指揮刀であることを確認して安心したとのことです。このことは後の相沢事件を思い起こさせます。相沢も辻も剣道の達人だったとのことです。

さて、永田鉄山の態度ですが、彼はこの事件については厳罰主義でのぞんでいます。この結果永田は皇道派からうらまれることになります。

永田にしてみれば3月事件、10月事件の際に処分があいまいだったことが青年将校をいつまでもはびこらせる結果となっていると思っていたのかもしれません。

いずれにせよ、永田による処罰への恨みが後の相沢事件への流れになっていたということでしょう。

2005-07-02 士官学校事件

ここで士官学校事件について書きます。

辻正信の中隊佐藤勝郎という長崎出身の生徒がいました。この佐藤が辻のところへ次のような報告をします。

「自分の隣の中隊にいる武藤与一というものが村中大尉や磯部一等主計、西田税らの影響を受けて国家改造理論研究グループをつくり何事かを画策している様子で自分も誘われている。」といった趣旨です。

これを受けて辻は佐藤にさらに偵察するように命じます。

佐藤の報告によると村中らの計画の概要は皇道派青年将校による元老、重臣および警視庁襲撃の計画でした。

 襲撃目標

  1.斎藤実首相、牧野伸顕内大臣後藤文夫内相、岡田啓介首相鈴木貫太郎侍従長、西園寺公望公爵警視庁

  2.一木喜徳郎枢密院議長、高橋是清蔵相、清浦奎吾前首相、貴族院議員伊沢多喜男、湯浅倉平宮内大臣、財部彪元海相、幣原喜重郎元外相

 クーデター

   荒木、真崎大将を中心とする軍政府を樹立して改革を実行。(しかし、両大将には事前の承諾は得ていません。)

辻が佐藤の報告う受けこれを橋本虎之助少将陸軍次官)に報告します。橋本は憲兵隊と協議し、憲兵隊は村中、磯辺の両大尉と片岡太郎中尉らを逮捕します。

2005-07-01 辻正信

ここで辻正信の士官学校時代のエピソードを書きます。

初冬の寒い日に辻が中隊を率いて演習を始め、夕方に最後の突撃を命じたときのことです。

先頭のほうがかたまって動かなくなります。幅5メートルほどの溝川に泥水がたまっているため、跳躍できずにいたのでした。近くに橋もありません。深さもわかりません。皆が躊躇していたのでした。ここに駆けつけた辻は「こうするんだ」と生徒の腕をとってスクラムを組み、溝川の中へ跳び込みます。水深は1メートルもなかったのですが、泥にはまり胸のあたりまで気味悪くつかってしまいました。それでも生徒は這い上がりましたが、体中悪臭がしていました。

辻は生徒を並ばせ

「他を救おうとすれば自らその中に入れ。岸に立って自分は濡れずに助けようとしても助けられるものではない。渦中に入って助けられなければ自分もともに死ぬ。」

と訓示したとのことです。

辻は生徒の写真を全部見て、顔の特徴を覚えたとのことです。そして、初対面の生徒の名前をいきなり呼んだとのことです。これが辻の部下掌握術でした。

辻の中隊は他の中隊からもうらやましがられてとのことです。

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