007 ここがヘンだよ俺以外(ベーシストOさんの話)

先日実家に帰った時に、部屋の本棚に置きっぱなしにしてあった漫画版グミ・チョコレート・パインを読んだ。確か初めて読んだのが中学3年生くらいの頃で、その時はまだ2巻までしか出ていなかったので、小説とは違う話の展開に、この先どうなるんだろうとワクワクしていたものだ(ちなみにこの時はパイン編がギリギリ雑誌での連載が始まったか始まらなかったかの頃だったと記憶している)。
2巻の後半で、主人公である大橋賢三が「山月記」を読むシーンがある。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

ここで賢三は初めて「自分は虎だ」という事に気づき、涙を流すのであるが、果たしてこのシーンを目にした中学3年生の僕はどう思ったか。はっきり言ってよく覚えていないのだが、よく覚えていないという事はつまり、「へえ、そういう事もあるんだな」くらいにしか感じ取らなかったという事なのだと思う。愚かな中学生だった。

10代の記憶はなるべく思い出したくないが、特に10代中盤、つまり中学生から高校を卒業するくらいまでの時期の事は本当に思い出したくない。というより、あまりに嫌すぎて記憶のほとんどが消し飛んでおり、例えば高校3年生の頃はほとんど学校に行かず、毎日川越のツウな古本屋「ほんだらけ」に入り浸って毎日100円の文庫本を買って読んでいたはずなのだが、一体何を読んでいたのかが全く思い出せない。思い出そうとすると謎の偏頭痛に襲われて頭がキリキリと痛み出す。これは僕の記憶力が極端に悪い事も原因だと思うけれど、おそらくあの頃の記憶を、脳が思い出すことを拒絶しているのだと思われる。
10代半ば、僕は本当に愚か者だった。
中学生頃から所謂サブカルチャーの世界に没入し出し、当然周りの同級生とは話が合わず、少しずつ友達は減り、高校に入った頃には完全に話し相手がゼロになっていたのだけれど、むしろ当時の僕はそれを誇らしげに思っていた。
「俺の事を『理解』してくれる奴はこの学校には居ない」
「それは俺の周りが俗世間に流されている愚か者ばかりだからだ」
「俺は『わかってる』から君たちが175Rとかに夢中になってる間にもせっせとディスクユニオンに通っちゃうもんね」
という辺りから始まり、無意味に自意識は肥大し、プライドだけは山のように高くなり、最終的には
「俺以外皆愚民」
「ここがヘンだよ俺以外」
という結論に達していたのだった。書いているうちに胃が痛くなってきたけどまだこの話は続く。
友達が居ないという事はどういう事かというと、学校が終わって放課後の時間がまるまる空くということで、僕はこの時間で古本屋で買った本を読んだり、となり町の中古CD屋で買ったあぶらだこの釣盤を聴いたり、そしてこの頃バイト代を貯めて買ったリッケンバッカーのベースを抱え、汚い6帖の部屋で黙々と練習に励んでいたのだった。そんな生活が3年間も続いた事を改めて考えるとゾッとする。よくあんな環境で生きていけたものだと思う。
こう書くと人によっては「孤立無援の精神を貫き通した筋の通った人だ」といいように解釈してくれるのだけど、実際はそんな事はなくて、それはもう毎日毎日孤独感に襲われて死にそうになり、こんな生活がずっと続くなら俺は死ぬ!とでんぐり返ったり、でも死ぬのは怖いし痛いし、何より今ヤンマガで連載してる「シガテラ」の続きが読めなくなっちゃうしなあ〜、と思い、とりあえずシガテラの連載が終わるまでは生きていこうという結論に軟着陸したのだけれど、つまり何が言いたいのかというと、あの3年間淋しくて淋しくて死にそうだったんだよおれは。
そんな寂しがり屋がどうやって3年間過ごしたかというと、安易な結論だがインターネットを支えにして、無理やり日々を乗り切っていたのであった。
学校ではハイスタ大好きっ子だとか、シャカラビのUKIちゃんかわいい〜女とか、学園祭でブルーハーツコピーバンドをやってる割には休み時間僕の椅子を蹴っ飛ばしてくる全然人に優しくないクラスの人気者とか、そんな奴ばっかりで辟易していたのだけれど、インターネットには僕と同世代で、尚且つ趣味が似通っている人々が沢山いた。そういう人の書いた日記(まだブログなんてものがなかったので、当時はみんなレンタル日記と呼ばれるものを利用していた)を読んだり、BBSに書き込んだりして文字だけではあるが意思の疎通を図り、時にはそこで知り合った方にレアな音源とかビデオ等をダビングさせて頂いたりとか、そういう風にしてどうにかやり過ごしていた。
「世の中には色々な人がいるんだなあ。生きてればこういう人とも会えるのかな」
という事ばかりをあの頃は考えていた。
しかしそれと同時に、僕は「俺は同じ87年生まれの中で一番サブカルチャーに詳しいもんね」などという不遜な事を思っていたのも事実であった。
その頃僕は高校2年生で、埼玉の片田舎に住み、偏差値の高くない公立高校に通い、クラスメイトは愚か者ばかりだ俺は凄いんだこんなもんじゃないと思っていたのだけど、片やその環境を一般化していたフシもあって、つまり「俺の周りは愚民だらけ=87年生まれはクズばかり=でも俺は違うもんね=俺は87年生まれの星」などという完全に破綻しきっている理論を振りかざしていたような気がする。
「俺は色々な音楽を聴いてる。本も読んでる。楽器も弾ける。俺は同世代の中で最もトンガッている。今はまだ何もやってないけど、きっと俺がバンドとか始めたらそれはもう凄い事になっちゃうんだもんね。友達がいないからバンドが組めないけど、きっといつかわかってくれる人がいるはずだ!」
みたいな事を本気で思っていた。恐ろしい話だ。

そんな高校2年生の冬であった。僕はこの頃ゆらゆら帝国が好きで、何度かライブに足を運び、ネット上で知り合った同世代のゆらゆら帝国ファンの方とも仲良くなったりしていた。この年の終わり頃、恵比寿のリキッドルームゆらゆら帝国のワンマンライブが行われ、僕はその時チケットを取り損ねてしょぼくれていたのだけど、前述のゆらゆら帝国ファンの人に(当時この方も高校3年生とかだった気がする)「友達がチケット1枚余ってるって言うから、欲しいようであれば話しておきますよ」という連絡を頂いた。すぐさま僕はお願いしますの連絡をし、チケットを譲って頂ける方のアドレスを教えてもらい、連絡を取ったのだった。
その方はOさんといい、年は僕と同じ17歳で、当時は女子高生だった。
何度かのメールのやりとりをした結果、Oさんはゆらゆら帝国村八分が好きで、またベースもやっており、実際にバンドを組んで既にライブ活動も行っている、という事がわかった。古い音楽にも詳しく(確かSSを薦めてもらったと思う)、僕は同い年でこういう人がいる事に多少なりともショックを受けた。
そして年末のゆらゆら帝国のライブ。リキッドルーム付近で待ち合わせをし、チケットを受け取るためにOさんと待ち合わせをした。一体どんな強烈な人が来るんだろうと思っていたが、いざ会ってみるとOさんは、小柄で可愛らしい普通の女子高生であった。
確かこの時は時間の関係と、あの頃僕は極端な人見知りと対人恐怖症だったのであまり会話ができず、また会場に入ったらあまりの人の多さにすぐ離れ離れになったので、この日はライブを見ただけで家に帰った。最後に名曲「星になれた」が聞けて感動した事を覚えている。
それから年が明け、あれはまだ肌寒い3月頃の事であったか。どういった経緯でかは忘れたけど、僕はOさんの所属しているバンドのライブが行われるという事を知り、電車を乗り継いで会場である赤坂へと向かった。確かこの日はCMディレクター、中島信也氏が主催のイベントで、トリを務める中島氏のバンドのベースを栗コーダーカルテットの栗原正己氏が担当していてびっくりした。
何組かのバンドが出演し、いよいよOさんのバンドの出番である。確かこの日は舞台進行を務めるMCがいて、まずはその人のバンド紹介が始まる。
「このバンドはみんな若くて、まだみんな高校生なんですねえ」
という説明を聞き、僕は驚いた。年上の人に混ざってバンドをやっていると僕は勝手にずっと思っていたからである(後にボーカルの方だけ少し年上であるという事を知るが、それでも楽器隊が当時まだ高校生だったという事には変わりない)。
そして演奏が始まったのだが、僕はこの時の衝撃をなんと言って良いのかわからない。とにかく目からウロコ、といった具合だった。
音的には所謂村八分直系の日本語ガレージ・ロック。編成はボーカル、ギター、ベース、ドラムのシンプルなもので、ギターとベースが女の子、そしてベースがOさんであった。太いベースとタイトなドラムがしっかりと土台を支え、がなるボーカルにギャンギャン弾くギター。よくわからんロック親父に「若い子がね、古いロックをやってておじさん嬉しいヨ」みたいな寝言を言わせる隙もないほど研ぎ澄まされた演奏と完成度の高さに、僕は文字通り打ちのめされた。
僕が汚い6帖の部屋に閉じこもって、やれ俺は凄いとか、やれ周りが悪いとか、そんな事を言っている間にも、僕と同い年の女の子は、グウの音も出ないほど圧倒的なバンドを結成し、ライブを行っているのだ。「俺は同世代の誰よりも音楽を知っている」などというふざけた自惚れに甘んじて何もせず、古本とCDの山の中でうっとりしている間にも、僕の何倍の量の知識をインプットしていたOさんは外の世界へ飛び出し、自分の音をアウトプットしていたのだ。
ここでまず、僕はその伸びに伸びた鼻っ柱を、完全に叩き折られたのであった。
そして家に帰った僕はさらに驚愕の事実を知る。件のバンドのホームページを見ていたら、プロフィールの欄にこういった事が書いてあった。

2003年6月、村八分のカヴァーバンドとして高校内で結成。
同年9月、文化祭で初ステージを2daysこなす。

つまりこのバンドは、元は高校の仲間で結成されたものだったのだ。それも村八分のカヴァーバンドとして。それを目にした時の衝撃を、僕は今でも忘れない。
僕が「ここがヘンだよ俺以外」と思い込み「まあ君たち愚民どもはハリーポッターでも見ていてくれたまえ」などと根拠もなく他人を見下しにかかり、「俺はきっと凄いんだ!今は何もやってないけど」とクネクネと日々を過ごしている間にも、Oさんは高校入学直後に同志を見つけ、バンドを結成し、学校の文化祭というステージで村八分を演奏し、その後も精力的にライブ活動を行い、常に「戦って」いたのだ。
そこで僕は、漫画版グミ・チョコレート・パインの、あのシーンを思い出す。賢三が山月記を読む場面だ。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如き、内心にふさわしいものに変えて了った訳だ。今思えば、全く、己は、己の持っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

「あ……俺、虎だ……」
この時僕は、確かにそう思った。

さて、それからである。現実にぶち当たり、その山よりも高いプライドを木っ端微塵に打ち砕かれてゲロを吐きそうになっていたその後の僕は何をしていたかというと、これが驚くべき事に特に何もせず、強いていうなら知人の紹介でアニソンのコピーバンドに参加しここで人間性のリハビリを図り、高校を卒業し、無事志望校に落ちてウソみたいな大学に入学し、そこで紆余曲折あり、19歳の終わり頃に初めてオリジナル曲を演奏するバンドに加入する。そこでまた色々揉まれ、技術的にも精神的にもだいぶタフになり、まあ色々あってバンドは2年間活動した後解散するのだけど、その後も僕はあちこちのバンドに首を突っ込み、常識的な生活と人格を破壊しながらバンド活動に邁進していくわけである。その過程で色々な人と出会い、僕と同じ1987年生まれの素晴らしいバンドマンのライブを見てやはりそこでも打ちのめされ、でもおれだって頑張るもんねとへこたれずバンドを続け、自分でも曲を作ったり歌うようになり、気づいたらいつの間にかかつての恐怖の選民意識は綺麗さっぱり消滅していた。そんなものこの年まで残ってたらただのヤバい奴だけどさ。
一方Oさんはというと、僕がライブを見た年の秋にバンドは解散。その後、現在は例のKでファズベースを弾いており、曇ヶ原ではギタリストとして参加して頂いているヤミニさん(本当は10月末で脱退という話だったのだけれど、後任が見つからず、未だに色々お世話になっている。申し訳ない)と共にハードコアバンド「断絶間」を結成する。僕はこのバンドが大好きで、過去2009年にはピノリュック企画、2010年にはぐゎらん堂企画、2011年には曇ヶ原の企画で出演していただいている。
過去あれだけ衝撃を受けたベーシストが参加しているバンドを自分のバンドの企画に呼べるようになって、その度に僕は「少しはOさんに近づく事はできたのかな」と思うのだけど、やはりライブを見る度に「負けた!」と思う。何度も企画に呼んでいる割に、未だにOさんと話す時ヘコヘコしてしまうのは、そういうわけなのです。
しかしあの時Oさんに出会わず、Oさんのバンドを知る事なく人生を過ごしていたらどうなっていただろうか?恐らくプライドの肥大化は止まらず、根拠なく鼻は伸び続け、かといって自分では何もせず、周りを見下しにかかっているからいつまで経っても友達はできず、その結果バンドも組めず、人間性は悪化する一方で、大した人生経験も積む事なく年を取り続け、目出度く最終的には2ちゃんねるあたりに匿名で偉そうな小理屈を垂れ流すインターネットおじさんになっていたのだろうと考えると背筋が凍る。そういう意味では、僕の鼻っ柱をへし折ってくれたOさんは「恩人」なのかもしれない(ちなみにこの話はOさん本人にはしていない。気持ち悪がられるのが自分でもちゃんとわかっているからである)。
現在Oさんはバンドをやっていないそうなのだけれど、またいつか、あの小柄な身体で抱えるジャズベースから放出する太い低音を聴いて「また負けた!」と圧倒されたいものである。そしていつかは僕も、他人を圧倒するような演奏をしなくてはならないのだと固く決意したところでこの話終わり。お粗末!