須賀敦子『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』

トリエステに行ったこともあって(2014-09-30),須賀敦子のエッセイ集『トリエステの坂道』を買った.この方の著作は,随分前に,エッセイ集『ヴェネツィアの宿』を読んだことがある.

須賀氏は1929年(昭和4年)生まれで,エッセイ集はいずれも60歳を超えてから出版された.『ヴェネツィアの宿』は1993年に,『トリエステの坂道』は1995年に刊行されている.wikipedia より須賀氏の経歴を簡単にひくと,1951年に聖心女子大学第一期生として文学部英文科を卒業,1953年に慶応大学の修士課程を中退し,パリ大学に2年間留学する.この留学中にイタリアに次第に惹かれるようになる.日本に帰国したのち,1958年に奨学金を得てローマに渡る.1960年に夫となるペッピーノに出会い,1961年に結婚しミラノに居を構える.しかし,1967年に夫が急逝し,1971年にミラノの家を引き払って日本に帰国する.帰国後は,大学の非常勤講師などを勤め,1979年に上智大学専任講師(のち,上智大学比較文化学部教授).1998年に亡くなる.

須賀氏のエッセイは,須賀氏の経験したある出来事を書いているのだけど,その出来事から連想して須賀氏の過去の出来事に移り,さらに連想して須賀氏の別の過去の出来事に移ってと,過去の出来事が幾重にも重なり合う.そして,それらの出来事を書いている須賀氏(60歳位!)は,透徹して超越的に存在している.あまり上手な表現が思いつかないのだけど,さまざまな出来事が時間を行き来して語られるが,それはすべてお釈迦様の手のひらの中で(ここで,お釈迦様は60歳位の須賀氏)行われている感じ.



例えば,「大聖堂まで」(『ヴェネツィアの宿』所収)では,日本への帰国を前にした1971年の7月に須賀氏がパリを訪れるところから始まる.そして,場面は,須賀氏のパリ大学留学時代の1954年へ.当時は学生を中心にシャルトルの大聖堂への巡礼が大きく盛り上げっていて(1954年は高校生と大学生を合わせて3万人が参加したそうだ),須賀氏も参加する.パリから列車でランブイエまで行き,そこからシャルトルへの30kmの道を歩き出す.

シャルトル巡礼の道すがら,須賀氏はさらに過去のことを想い出す.

東京で大学院にいたころ,ふたりの女ともだちと毎日のように話しあった.ひとりは経済学を,もうひとりは哲学を専攻していたが,私たちの話題は,勉強のことをのぞくとほとんどいつもおなじで,女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには,いったいどうすればいいのかということに行きついた.私たちは三人ともカトリックで,家族のつよい反対をおして大学に行き,大学院に進んだので,だれに対してかはっきりわからない負目を感じることがよくあった.(中略)そのころ読んだ,サンテグジュペリの文章が私を揺りうごかした.「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ,意味がない.できあがったカテドラルのなかに,ぬくぬくと席を得ようとする人間になってはだめだ」シャルトルへの道で,私は自分のカテドラルのことを考え,そして東京にいるふたりの友人はどうしているだろうと想った.

シャルトル巡礼のときの須賀氏は24歳でどんな未来が待ち受けているかをもちろん知らない.一方で,このエッセイを書いている須賀氏は60歳位で,24歳から自分の歩んできた道を,自分がどんなカテドラルを建ててきたのかを知っている.......

(「大聖堂まで」のパリの描写は私はけっこう分かって少し嬉しい.昔のことだけど,シャルトルにも行った(もちろん電車で)ので,そのときの画像を一枚.)



あるいは,「ヴェネツィアの宿」(『ヴェネツィアの宿』所収)では,1992年に須賀氏がヴェネツィアで開かれた文学のシンポジウムに参加するところから始まる.フェニーチェ劇場近くの宿への帰りすがら,劇場前の広場で,音楽が奏でられているのを耳にする.劇場で行われているガラ・コンサートが中継されていて,広場のスピーカからコンサートの音楽が流れているのだった.

あっと思った次の瞬間,オーケストラの音を縫うようにして,澄んだ力強いソプラノが空を舞った.(中略)魔法のように目前にあらわれたその光景と,それを包んでいる音楽が,忘れかけていた古い記憶にかさなった.ある夏の夕方,南フランスの古都アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると,ロマランの茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで,若い男女が輪になって,古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた.(中略)あ,中世とつながっている.そう思ったとたん,自分を,いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった.ここにある西洋の過去にもつながらず,故国の現在にも受け入れられていない自分は,いったい,どこを目指して歩けばよいのか.ふたつの国,ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは,どこを向いても厚い壁ばかりのようで,ただ,からだをちぢこませて,時の過ぎるのを待つことしかできないでいた.とうとうここまで歩いてきた.ふと,そんな言葉が自分のなかに生まれ,私は,あのアヴィニョンの噴水のほとりから,ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を,ほこりまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った.

そして,場面は,生活費をきりつめてピアノ演奏会に出かけたパリの留学時代から,さらに過去へ,父親のことへと向かっていく.

(10年以上も前に友人たちとヴェネツィアに観光旅行に出かけたときの写真を一枚.)





トリエステの坂道」(『トリエステの坂道』所収)では,1987年頃に須賀氏が一人でトリエステに訪れたときのことが書かれている.2泊3日だけど,夜遅くにミラノから飛行機で到着して朝早くに列車でヴェネツィアの出発するので,実質的には1日しかトリエステにいないという窮屈な日程.亡夫とふたりで読んだ,詩人ウンベルト・サバの故郷トリエステを訪れたいというのが動機だった.

サバの書店が《ふたつの世界の書店》という名前であったこと,トリエステがイタリアでありながらドイツ(オーストリア)の文化が色濃く残っていることが書かれている.上の「ヴェネツィアの宿」にあるように,須賀氏自身が,イタリアと日本のふたつの文化を生きたことを重ねているのだろうか.

ネオンの文字はフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア空港,とこの地方の行政上の名をつげているにすぎなくて,「トリエステ」の表示はどこにも見えない.(中略)行政名のいかめしさとは反対に,空港の建物はまるで片田舎の停車場ほどの大きさしかなかった.入口を入ったかと思うともうそこが出口で,それを出ると壁のような暗闇が立ちはだかった.エンジンをかけたバスが二台,黒い木立を背に客を乗るのを待っている.

私が飛行機でトリエステに到着したのも夜遅くだったので,この描写は分かる気がする.でも,空港の建物は停車場よりは大きかったと思うし,出口は暗闇というほどではなくて,多少のライトがついていたように思う.フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア空港とい名前がついているのは,場所がトリエステのずいぶん北でウディネとトリエステの中間くらいにあるので,トリエステ空港という名前は変だからかな.(海岸通り沿いでたまたま入ったカフェに,ウンベルト・サバの記念プレートがあった.)