2012-02-09
■寒い朝
凍りついたフロントガラスの雪を削ぎ落とすのも日課
2012-02-06
■たまたま
昨日は午前中山形教会で礼拝。今回は「たまたま」Hさんご夫妻とS君も同行。そして「たまたま」旅行中の東京からAさん夫妻も。
思い返せば去年、Hさんがわたしたちの教会に入会する日の礼拝に、「たまたま」旅行中のAさんご夫妻は出席されたのでした。本当に、「たまたま」
そして今回も、だれも意図したわけではなく、しかも山形教会で、このような形でまた「たまたま」再会するということは、確率的にはどの程度あるのでしょう。まあ、かなりありえない確率のような気がします。
わたしたちは、自分の意思と決断で行動しているだけだと思っていますけれども、でも、その背後には、わたしたちの思いをこえた神さまの御手があるのだなぁとあらためて思わされるのです。
*祈祷週間2日目
鮫バプテスト教会、小松ヶ丘教会、秋田教会を覚えます。
2012-02-04
■雪、雪、雪
朝、家の外に出ると、いつもそこは雪国なのでした。
明日5日(日)の午前中の礼拝は山形教会で捧げます。
午後4時から酒田にて礼拝です。(時間に間に合うように帰れますように)
今日から東北地方連合祈祷週間です。
今日は山形教会、吉岡バプテスト教会、のぞみ教会を覚えます。
2012-02-03
■子はかすがいか?
水谷先生のブログから
「子はかすがい、孫はちょうつがい」でいいのか?
昨日、ラジオを聴いておりましたら、一人の方からの投書がよまれておりました。それによれば、「子はかすがい、孫はちょうつがい」とはその通りとのこと。かすがい(鎹)とは、梁など二つの木材を離れないようにする釘のようなもの。つまり、子どもによって夫婦は離れられず不自由になるということ。それに対して、ちょうつがい(蝶番)とは扉を柱に固定し、扉などを開閉させるための金具。開いたり閉じたいと自由度は高いが、こき使われるとのこと。なるほど、現実の両親夫婦や孫と祖父母の関係を言い当てていると感心。
でも、聖書によれば、神が結婚する二人を結びつけるのですから、それは無媒介的。子どもの有無に関係なく、二人は一体になるわけです。むしろ、子どもにかすがいをさせてはならないでしょう。子どもが夫婦間で身を裂かれるような思いをさせてはいけません。「お母さんは、あなたがいるからお父さんと別れないのよ」と言われ、「自分がいなければ、お母さんはお父さんと別れられるのに」と自分を責めたり、自己存在価値を失う子どもいれば、稀に「自分さえいなければ、お母さんは自由になれる」と判断し、自らいのちを断つ子どもさえいます。
「子はかすがい」とは、事実を言い当ててはいても、実は悲しい言葉なのでは?かすがいいらずの夫婦になることこそ、子どもが安心して健全に育つ大前提でありましょう。
「孫はちょうつがい」についても、ちょっとツッコミ。別居であれば、一緒に暮さなければ自由さはあるもの、しかし、会えばこき使われるもの。「孫は一度で二度楽しい、やってきてうれしい、帰ってくれてうれしい」というのはその通りでしょう。
継続的ではない一時的な関係だけに、その場限りの無責任な愛情の注ぎ方をしてしまうのが、子どもにとっては、マイナス要因。娘や息子、嫁や婿に叱られながら、孫をスポイルしないかかわり方をするのも、高齢者の課題でありましょう。多分、理想としては、直接孫にかかわるよりも、子育ての先輩として、子どもの孫育てを見守りながら、「介入せずとも、支援する」という成熟した態度をとることなのでしょう。でも、自分が孫を持ったと想像すると、これが超難題なんだろうなと思います。
2012-02-02
■雪かき
それにしても毎日よく雪が降りますね。
雪が降ること自体は、いろいろ大変ですけれども、「また降りましたねぇ」なんて言いながら、お隣さんといっしょに雪かきをしたりするのは、楽しいひと時です。
寒い冬はどうしても家の中に閉じこもりがちになりますからね。
2012-02-01
■お祈り会
お祈り会はいつも恵まれます。心からの祈りを共にできるほど、幸いなことはありませんね。
本当の交わりとは、うわべだけのおしゃべりではなくて、心の通い合った、腹を割った分かち合い。
のぞみ教会の教会学校や祈り会には、いつもその交わりがありますね。
2012-01-31
■のぞみキッズパンフレット
のぞみキッズに来てくれる子どもさんの中で、おばあちゃんがすこし心配している(教会のことを良く知らないので)子がいるようなので、一年ののぞみキッズの活動を写真で綴ったパンフレットを作ってみました。
2012-01-30
■雪
毎日良く降りますね。
今日は、あさから、富士山の噴火があるのではないかとか、不安をあおるような扇動報道をマスコミがしていたなぁ。
次はなにをしようとしているのかな。
まあ、なにがあっても、結局最後は、身近に助け合い共に生きる共同体があるかないか、にかかっているでしょう。初代教会のように。
日本人が知らない日本
2012-01-27
■水谷先生のブログから
小さな命を守る会の水谷先生のブログの記事に、考えさせられました。
以下、ブログ記事
感動はするものでなく、強制するもの〜感動がもたらすファシズム(上)
以下のブログ記事を読み、感動について考えさせられました。
「松ちゃんの教室ブログ」より「今一度宗教者の姿勢を問う(6)」
http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/976
もちろん、宗教者の応答責任についてチャレンジを受けたのですが、それとは別の面で触発されたことで記事にします。それは「感動が時に有するファシズム性」であります。30代イケメン編集長の松ちゃんは以下のように記しています。
森村氏は、「『宮崎アニメを観ない』ことによって育つ感受性もあるに違いない」との理由で、「観れば感動してしまうのかもしれない」 と思いつつ、あえて「観ない」という選択を固持する。
「みんなと同じアッチじゃなく、誰もが興味を示さないコッチを向く姿勢にこそ、芸術家のあるべき姿を見る思いもする」という。 果たして、氏のような生き方は、浮世離れした芸術家の単なる
ヘンクツやアマノジャクとして切り捨てられるべきものだろうか。
私が抱いてきた違和感の一つは、ボランティア至上主義とでも言うような震災後の「空気」である。 まるで、被災地に行かない人間は「人でなし」とでも言わんばかりの、重く冷たい「空気」。
「宗教者として震災に向き合う」方法は、決して一つではないはずだし、 「みんなと同じ」でもないはずだ。
以上が引用。感動は時に応答を画一化させます。特定のある応答以外の応答をしてはならないムードを作り上げることがあります。ここに記されているように、3.11以降は、「現地に向かいボランティア」だけが真実な応答でそれ以外は、「本気でない応答」のようなムードが日本中にあるのを私も感じています。
かつて島田紳介プロデュースの番組の一部が、「感動の押し売り」と批判されたことがあります。確かに感動の押し売りは迷惑で不快でしょう。それでも「感動がもたらすファシズム」よりはましです。押し売りは嫌なら何とか断れますから。そう、押し売りには、断るという選択肢があるのです。
しかし、ファシズムにおいては断るという選択肢は極めて厳しいものとなります。感動に対して特定の応答をしないと「人間でない」「冷たい」「非国民」などのレッテルを貼られかねません。感動に対して「みんなと同じ画一的な応答をするのが日本人」とばかりに、最初から外国人を排除した発想で、なおかつファシズム的な発言を時に耳にします。
「感動は大切」、「感動をありがとう」と私も思います。そんな感動からファシズムを生み出したり、画一化によって異なる人々を除外しかねないのが、私たち罪人が形成するこの社会であります。
最近、渋谷陽一の本を購入しました。彼は著書の中で、泉谷しげるのこんな発言を紹介しています。
「感動はするもんじゃなくて、強制するもんだ」
これは3.11以前に泉谷が発していた言葉です。どういう意図での発言かは不明ですが、日本社会が3.11以前からもっていたある体質を言い当てていたのかもしれません。そう、感動が強制されているのが、日本社会。感動の強制は、感動が持つ負の力を呼び起こします。
感動は時に、人を思考停止状態に陥れます。
そして、群衆心理状態を作り上げます。
それは、感動に対して画一的反応をしない異質者を排除します。
結果として、ファシズムと呼ばれるにふさわしい状態が訪れます。
このことを熟知しており、金儲けする者もいれば、政治利用する者も。
感動の強制、それへの画一的応答の要求、異質者の排除・・・・。
キリスト者が群集のごとくが踊らされていてはならないでしょう。神と出会い神を知り、真の感動を体験しているキリスト者こそが、こうした感動の強制が持つ危険性と負の力を見抜き、日本社会にあって、賢い発信と着実な歩みをしたいと願うのです。
2012-01-25
■執筆者会議
23日〜25日まで浦和にて「聖書教育」誌の執筆者会議に出席していました。
来年1月〜3月号の「聖書の学び」の執筆のためです。
初日の夜、東京にかなり雪が降り、会議に参加された皆さんは、久しぶりの雪に少し興奮しておられて、初々しいなぁと思いました。
空から雪が降ってくるって、本当は、感動することなんだよなぁ。
「聖書教育」HP
■
「わたしのために命を失うものは、それを得る」とイエスは言われます。
喪失なしに過ぎる日はありません。もし自分の内面生活に注意を向けさえすれば、すぐに次のことに気づくでしょう。「多くのことが自分の望んだふうには起きなかった」「期待した言葉を人からかけてもらえなかった」「願ったように物事が進まなかった」等々
これらすべての小さな「喪失」によって、人生の不公平を嘆く、苦々しい人間になる人もいます。しかし、もしそれらのそれらの喪失をイエスのために生きるなら、すなわち、イエスのあがないの死と深く結ばれて生きるなら、自己中心性から徐々に解放され、神からくる新しい命に向けて心を開くことができます。
真に問われているのは「喪失を自分のために生きるか、それともイエスのために生きるか」です。その選択は生死を分ける選択です。
Henri Nouwen
2012-01-23
■内なる力
私たちが霊的に健康であるなら、世界に仕えることができます。大切なことは「どれだけのことをするか」でも、「何人の人をたすけるか」でもなく、「私たちの内に平安はあるか」です。祈りと行動を切り離した考えは危険です。
イエスの行動は、神との内なる霊的交わりから流れ出たものです。イエスの存在自体に癒す力があるのであり、それが世界を変えました。ある意味、彼はなにもしなかったのです。「ふれた者が皆いやされた」のです。
Henri Nouwen
2012-01-22
■今日の礼拝
今日も実に幸いなる礼拝を捧げることができました。Iさんと二人のお子さんが礼拝にこられたことも大きな喜びでした。
礼拝を通して生き生きとした命の喜びが注がれた感じがいたします。
感謝します。
2012-01-19
■弱さを知る強さ
キリスト教信仰は弱者の宗教だと批判されることがあります。なにかあるとすぐ神にお願いする、祈る、自分で救いを達成し得ないために、神にすがることしかしない。そういう意味で弱い者の信仰だと言われます。
はたしてそうでしょうか。
自分で自分の救いを成し遂げるということは、カッコよくはあっても、これほど不安定で危なっかしいことはありません。
わたしたち人間の中に何一つとして救いに関する確かなものはありません。なぜ生きるのか、何のために生きるのか、なぜ死ぬのか。そして、自分を死から救うことができる確かなものを何一つ自分自身の中に備えていないのが人間です。
その現実を「知る」とは決して弱い生き方ではありません。その弱さを知るゆえにキリストの強さにゆだねるのです。
弱さを知ることによって、キリストにある希望と力に満ちた生き方が始まるのです。
2012-01-18
■見わける力
最近、「知る力」と「見抜く力」を身に着けられるように、とよく祈ります。
この前の日曜日の説教の御言葉でもあったからです。
フィリピ1:9-10
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
本当に重要なことを見分けられるように。」
本当に重要なことがわかったなら、そこに向けてチャレンジできますし、大胆に変革することもできるでしょう。
しかし重要ではないことにとらわれると、変化を恐れ、後ろ向きになります。
たとえば、お金の問題は大切ですが、お金のあるなしで物事を発想すると、本質を見誤ります。
神の国と神の義を求めるなら、必要なものは備えられるというのが、聖書の原則です。
本当に重要なことに力を注ぐなら、必要は必ず満たされるでしょう。なにが神さまの御心なのかを知る力、見抜く力、見わける力を頂くことができますように。
2012-01-17
■生みだす喜び
今日は、2013年の聖書教育誌の「聖書の学び」の執筆会議が来週あるので、その準備の一日でした。
去年も今頃の時期執筆したものが、今、活字になっています。生み出す作業は編集に携わる方々とともに、実に産みの苦しみを経験するのですが、その分、喜びも大きいです。
さて、21日から、近くのフルゴスペル教会もキッズブラウンの英語教室を開始することになったそうで、今日の夕方、そこの先生がわたしたちのこども英語教室の見学に来られました。
2年前、わたしたちも、なんにもないところから始めましたが、今に至る2年間の経験とノウハウが、こうやってお役にたてて嬉しいです。お働きが祝福されますようにとお祈りいたします。
なにもないところから、新しく生み出していくという作業は、どのような分野でもしんどいものです。しかし、どんなに小さなことでも、新しい価値が生み出され、創造されるたびに、この世界は神さまの意図したものへと、少しずつ良くなっていくのだと思うと、生み出す苦しみの中にも、静かな喜びを感じるのです。
ヘブル
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
2012-01-16
kumi
新しい年が明け、はや半ばが過ぎようとしています。重苦しい空気の中から私達の主に祈りつつ、全ての人の目から涙を拭い去っ
て下さる様に祈り続けています。そして苦しい中でも一つ一つ主が目を留めて下さっておられるのを感じます。感謝です。そして「希望は失望に終る事が無い」、事を信じて歩み続けます。御教会の尊いお働きと先生ご一家の上に主の御祝福をお祈り致します。北国生まれ、と聞いて親からいろいろと習わしや風土について聞いていましたので、お写真の数々を懐かしんでおります。主にありてお祈りしつつ。
shuichifujii
Kumiさま コメントありがとうございます。今年は日本海側の積雪量が例年より多いようですね。大人は雪かきで大変ですが、こどもは雪遊びで楽しんでいます。いろいろな出来事を、神さまの愛の御手の中のこととして、楽しみ、感謝して過したいと思います。
教会の交わりの中で祈り合い、心励まされ、主の平安に守られながら、心穏やかに黙々と日々の生活を送っていきたいと思います。
2012-01-15
■主の選び
Hさんご夫婦、Mさんとともに礼拝。外は雪が降り寒いですが、礼拝を捧げるわたしたちの間には、同じ神さまを信じ、分かち合う温かなぬくもりが溢れます。
先週、Hさんが4月のイースターにバプテスマを受ける決断をなさいました。すでに半年以上かけて、キリスト教の入門クラスをしてきましたが、もうすぐそのクラスも終わり、バプテスマに一歩踏み出されることになりました。
踏み出すというと、人間の決断だけのようですけれども、踏み出させるのは神さま。すべては神さまの恵みなのですね。
ヨハネによる福音書15章16節〜17節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
2012-01-14
■かまくら
連日雪。酒田は海沿いなのでそれほど積もらないはずなのですが、今年は多めです。
教会の庭で、こどもたちが「かまくら」をつくっていました。
東北の雪は、湿って重いので、かまくらができるのだそうですね。
2012-01-06
■もっと神に近い場所は
今週水曜日の日程を変更して今日がお祈り会。
今日は「神の親友となる」というテーマでみ言葉の学び。学びといっても、お勉強ではなく、一人一人の言葉に耳を傾けるなかで、互いに励まされるひと時です。
テキストの中の言葉に「神はいつもあなたと共にいてくださいます。それゆえ、あなたが今いる所以上に神に近い場所はないのです。」とありました。
いろいろ考えさせられる深い言葉です。
■[社会]食べログ
「食べログ」のやらせ問題を、全局あげてあれほどしつこく糾弾するのは、大手メディアがインターネットの口コミサイトを潰しにかかっているということだな。
「インターネットなど信用ならないから、テレビを見ろ」というメッセージがありあり。
しかし、すでにテレビショッピングの視聴者の反応とか、口コミ情報番組なんて、だれにも信用されていないことは、棚上げしていますなぁ。
テレビはすっかり大衆の扇動装置に成り下がって久しいです。いい加減、どのチャンネルも同じニュースを垂れ流しているおかしさに、気がつかないとね。
ちなみに、戦前に民衆を戦争へと扇動した一番のメディアは、朝日新聞だったことを聞いた時は意外だったなぁ。いつでも悪い人間ほど、善人のふりをするものなのだなぁ。
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。」2コリント11章14節
2012-01-04
■感謝
午前中は加茂水族館にいき、午後遠くから訪ねてくださっていたSさんと息子さんを、家族みんなでお見送りしました。
三日間、とても楽しい時間を共有させていただきました。神さまの祝福とお守りをお祈りしています。
それにしても、家族がいてくれて、本当に感謝です。
妻の母が年末年始と酒田に来てくださっていて、食事の準備や様々なことを手伝ってくださいました。感謝します。
3人のこどもたちがいてくれて、家庭の中がどれほど明るく楽しくなっているでしょう。感謝します。
妻がいてくれて、本当に感謝です。妻にどれほど助けられているか、わかりません。感謝します。
でも、いつも、かけの多いパパで、ごめんなさい。ゆるしてね。
父なる神さまの憐みと助けと守りが、いつも我が家にありますように。
「わたしとわたしの家は主に仕えます。」ヨシュア記24:15
2012-01-03
■スキー
郡山から友人がお子さんと一緒に来てくださったので、家から一時間ほどの羽黒スキー場に。
出発前に、事故なく無事に過ごせますようにとお祈り。スキー場にいく途中で、面倒でもチェーンをまきました。案の定、その先の山道の途中で、タイヤがすべり、前にも後ろにも行けずに立ち往生している車が何台もいて、その横を通り過ぎながら、こんな状態になったら、スキーどころではないなぁ。かわいそうだなぁと思いつつも、チェーンを巻いておいて良かったと安堵したわけでした。
さて、うちの子どもたちは、生まれて初めてのスキー。何度も転びながらも、リフトに乗って、なんとかボーゲンで降りてこられるようになって、楽しそう。
小さな冒険(ボーゲン?)を無事クリアしたね(笑)。
「わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも」詩編46:3








「たまたま」は良いですね。神さまの香りがします。