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今日もいい日(Fujii牧師の独り言)

2017-12-11

shuichifujii2017-12-11

[]イエスがキリスト

 さてこれは「『神』教入門」でも「『主』教入門」でもなくて、「キリスト教入門」なのだから、そろそろ「キリスト」に登場していただかなければなりませんね。

日本人の私たちでも「救世主」とか「救い主」という言葉くらいは聞いたことがありますよね。

この日本語で「救世主」と訳されるのが「キリスト」。これは新約聖書が書かれたギリシャ語読みですけれども、旧約聖書ヘブライ語では「メシア」ですね。

「メシア」も「キリスト」も要するに「救世主」。この世界、そしてあなたを救う「救世主」を「キリスト」といい、

約2000年前に、ユダヤ人としてガリラヤのナザレに生まれた「イエス」こそ「キリスト」と信じる人々を、

「キリスト教徒」とか「クリスチャン」というわけですね。


「なんだ、天地を造られた「主」を信じるだけじゃないんだ。わかりにくいなぁ」と思われるかもしれませんねぇ。

「「主」だけ信じればいいじゃん」と思うでしょうかねぇ。

「自分は別に救われる必要なんてないよ」って思うでしょかね。


もし「自分は、救ってもらう必要なんてないよ」って本気で思う方は、

同じ「主」を信じている、ユダヤ教とかイスラム教がおすすめですね。



ユダヤ教は「イエス」を「キリスト」とは信じないけれど、「主」は信じていて、

●イスラム教は、唯一の「主」を「アッラー」と呼んで信じていて、「イエス」は預言者の一人という理解。


そういう意味では、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、同じ神を信じているんですよ。だから、無益な争いはやめようね。ほんとに・・



キリスト教徒とは、「自分は罪深いので、「主」に救ってもらわなければ、だめなんです」と気づいて、

イエス・キリスト」を信じて、「主」に罪赦されて、救っていただいた人々のことなんですよ。


それは、人間の宗教的な努力とか、戒律や律法を守る人間の頑張りでは、どうにも実現しない「神の救い」。

「神の救い」。「神の救済」を扱っているんです。必然的に「キリスト」は神、「主」ということになる。

そこで「主イエス・キリスト」という言い方もするわけです。

つまり、

約2000年前にユダヤ人としてガリラヤに生きた「イエス」は、人間の姿をとって来られた「主」であり「キリスト」なのだ。


「イエス」は「人」であり「神」であると信じているのですよ。クリスチャンは。

「え、そんな馬鹿な」

「人でありながら神なんて、まったく理解できない」

はい、わたしも理解できません。いいんですよ。人間の合理をこえているんです。でも非合理ではなくて、超合理。

これを「はい、信じます」と、信仰によって受け入れさえすれば、

あなたも今、救われるんです。


「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

新約聖書 使徒言行録16章31節)


※マンツーマンのキリスト教入門クラス 募集中

http://d.hatena.ne.jp/shuichifujii/20171201


※あなたからコメントいただけたら嬉しいです。質問でもなんでもどうぞ

2017-12-09

shuichifujii2017-12-09

[キリスト教入門]<2>君(神)の名は・・・「主」

前回は聖書が伝えている「神」はこの宇宙(天と地)を造られた「神」である、という話をしました。

今まで便宜上「神」という言い方をしてきましたけれども、

日本人はちょっと凄いものなら、なんでも「神」と呼んで祀ってしまうでしょう。

最近は、すごい人を指して「神ってる」と言ったりしますしね。

なので「神」という言い方だけでは、ちょっと天地を造られた存在を言い表すには、足りない。

聖書のなかでは「主(しゅ)」という言い方をしているのですね。

旧約聖書ヘブライ語で書かれていますけれども、ヤハウェと発音され、日本語では「主」と訳されます。

ヤハウェ」とは「わたしはある(存在している)」という意味ですね。

旧約聖書の「出エジプト記3章13節〜15節」に、「主」ご自身がご自分について語っている箇所があります。

今までも、今も、これからも存在する、永遠の存在が「ヤハウェ」。「主」

キリスト教は、ちょっと人間を強くしたような「神っている」存在を信じているわけではなくて、

他に比べようのない永遠に存在する「主」との関係に生きるわけです。

具体的にはクリスチャンは「主よ」と神の名を呼んで、祈り始めるわけです。



さて一方で日本人が「神」をイメージするときに、この「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」

(どなたさまがいらっしゃるのかよくはわかりませんが、おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれ出て止まりません)

と詠んだ西行法師さんのイメージは、とても共感されるんじゃないかと、おもうんですよ。

日本人は昔から、自然の中にそういう神秘的で、なんだかわからない力を感じ取ってきたんじゃないかと思います。

山々を駆け巡って修行する山伏さんとか、そういう感覚がするどいのだろうなと思いますよ。

そういう神様にたいするイメージからすると、

「神様の名前とか、神様の説明なんて、野暮だねぇ」とおもうでしょうね。

神さまは、よくわからない、ことばにならないからこそ、神なんじゃないかと・・・・

わたしも日本人なので、そういう感覚は良くわかるんだけど、

でもそれじゃあ、その神様との関係が持てないじゃないですか。


よくわからない雲のような存在と、どうやってコミュニケーションするんですか・・でしょう。

ちゃんと名前を呼び合う関係のなかでこそ伝わる愛があるものじゃないですかね。


さて、天地を造られた「主」は、ご自分からその名を名のられたのだから、つまり

わたしたちから「主」と呼ばれることを望んでくださっている、ということじゃないですか。



それこそ、「かたじけなくてなみだこぼれる」というものです(涙)


さて、キリスト教の伝道者でパウロという人が、約2000年まえのギリシャのアテネで、

「主」を伝えときの言葉を、引用して今日は終わりにしましょう。


「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」>


※マンツーマンのキリスト教入門クラス 募集中

http://d.hatena.ne.jp/shuichifujii/20171201

2017-12-08

shuichifujii2017-12-08

[]<1>聖書の神様とわたし

 さて、「超わかりやすい」なんて大見得を切って始めたこの入門講義。


ふつうキリスト教入門というと、キリスト教の神様とはなにか、ということから説明を始めるわけです。

いわゆる「神論(しんろん)」といわれるものですね。

ただ、「キリスト教の神とは、創造者、絶対者、超越者」という説明を聞いても、面白くないし

「その神様がわたしと、なんの関係があるの」って、なるとおもうのですね。


だからここではいったん、神様から考え始めないで、

人間の避けられない現実から神様について考えるという方向で始めてみます。


考えるきっかけとして、「わたしは死んだらどうなるの」という問を取り上げましょう。

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「クリスチャンシオニズム

神がアブラハムと結んだ契約に基づき、地上の「エルサレム」がアブラハムの子孫に永久の所有として与えられたという教理を「クリスチャンシオニズム」と言います。

この教理を信じるクリスチャンはごく一部だと思いますが、米国の福音派の一部では熱心に信じられており、トランプ大統領もこれを信じるクリスチャンシオニストと言われています。

この立場の人々は、やがてキリストが再臨し「神の国」が実現するまえに、イスラエルの回復が起こると信じるので、現在のイスラエル国家を支援する立場を取ります。

トランプ大統領が、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転すると公言したのも、この理由からでしょう。しかし、もしそのようなことを行ったなら、パレスチナ人の強い反感を買うこととなり、混乱と新たなテロが引き起こされることが懸念されます。

わたしは「クリスチャンシオニズム」には懐疑的です。なぜなら「イスラエルの回復」が「神の国の実現」と考えることは、主イエスの時代のユダヤ人と同じ発想だからです。

主イエスは、ローマ帝国と戦い「イスラエルを回復」するメシアと誤解され、祭り上げられることを拒みました。

同様に、「イスラエルが回復」するために、ハルマゲドン(最終戦争)を引き起こしてくれるお方として、「再臨の主イエス」を祭り上げるわけにはいかないのです。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)

2017-12-07

shuichifujii2017-12-07

[]「キリスト教入門」じゃ、実はつまらない

さてすでに、「キリスト教入門」という言葉を使ってしまった時点で、わたしはある壁を作ってしまっているんですよね。

なぜなら、「そんなものわたしには興味も関係もないわ」と思う人がいるでしょう。

まあ、そういう人に語っても、難しいんですけど、でもそれでも、本当はこういいたい。

「これって、あなたにもかかわりがあることなんですよ」

だって、すべての人にとって、

「自分は何のために生きているの」

「自分はどこからきて、どこにいくの」

「この自分には価値があるの。愛されているの」

という問いは、みんなが抱いている「問い」のはずだし、

気が付いていないとしても、実はすべての人にとって、必要なこと、求めていることのはずなんです。

だれもが、この大切な問いに「蓋」をして考えないようにしていたり、

お金とか仕事の成功とか、幸せな家庭とか、健康長寿とか・・・

そういう目の前の必要だけで十分だとおもっているけれど、

その内側というか、奥深くには、気づいていない(潜在的)な必要を、みんな抱えているんですよ。

なので「キリスト教入門」といっても、宗教の説明ではつまらないし、あんまり意味がない。

どうしたら、「あ、それ、わたしにも関わりあることじゃない」と思ってもらえるんだろうってなやみながら、書いていこうと思います。

2017-12-06

shuichifujii2017-12-06

[]超わかりやすいキリスト教入門クラス

これからしばらくこのブログで、


「超わかりやすいキリスト教入門」的な内容を投稿していくことにしますね。

Q&Aなどのコーナーも考えていこうとおもっています。

初めて教会に来られた方にも、このブログを紹介して、読んでいただきたいですしね。

とにかく、教会は、入り口が狭くて、敷居が高く、

「わかるやつだけ、わかればいい」という

「伝統芸能」化してしまっているので、

なんとかそこを打破ていくことに、チャレンジします。

「超わかりやすい」って書いてあるけど、わかりにくいぞ・・・

というご意見、質問を、どんどんコメントしてくださいませ

また、少し経ったらメールマガジンも始めたいと思っています。

この素晴らしい「福音」という宝を伝えるためなら、なんでもしましょう。

よろしくお願いします。

2017-12-05

礼拝の配信を考えています

 教会の礼拝をインターネットで配信する実験を始めようとしています。

実際の配信は、花小金井キリスト教会のフェイスブックページからになる予定です。

高齢になられ、教会に体を運ぶことができなくなる方が増えてくることを見越しての対応です。

もちろん、人との出会いも、テレビ電話よりも、直接顔を会わせることに勝るものがないように、

礼拝も体全体で、その場の空気を共にすることが一番望ましいのですけれども、

それがかなわない人ともつながる手段として、利用できれば、っと思っています。

その配信が始まって軌道に乗ったら、説教原稿のアップはやめる予定です。

2017-12-03

shuichifujii2017-12-03

「大いなる光を見るようになる」(2017年12月3日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

イザヤ8章23節〜9章6節

2017年最後の月になりました。今日から救い主イエス・キリストの降誕を待ち望むアドベントです。

アドベントは4週、その後にクリスマス礼拝が順当なのですけれども、今年の暦では4週目が24日。5週目が31日ですから、31日にクリスマス礼拝となるので、プロテスタント教会の多くは、前の週の24日にクリスマス礼拝をします。

ですから、アドベントの4回目がクリスマス礼拝当日になるのですね。1週早まります。

予定日よりちょっと早く、イエス様がお生まれになるわけですけれども、早く来てくださる分には、感謝なことかもしれません。

救い主が、メシアが来てくださるなら、わたしたちは救われるのだ。

その昔、イエス・キリストがお生まれになる前の時代。

天地を造られた神が選ばれた、イスラエルという小さな民族が、

大きな大国に占領され、苦しんでいるその苦難の中で、

やがて我々を救う、神の救いが、救い主がやってくると、

神の言葉を語る預言者が、なんどもなんども語ってきた、その約束が、

時満ちて、今から約2000年前、ガリラヤのナザレに生きていた、マリアという女性の中に、救い主が赤ちゃんとして宿られた。

何百年も前から、預言者が語ってきた、救いの約束、メシア、キリストの約束が、

このイエスというお方において、実現しました。

わたしたちは、そう信じさせていただいて、救いの喜びをいただいて、今、ここに集っています。

そして主イエスによって始まった救い、神の国の種は、どんどん広がり、

やがてこの世界のすべてを、神の国へと救い出す、究極的な平和に至る救い。

その救いの完成する日が来ることを信じて、今、この苦しみ多い世界のなかで、わたしたちは天を見上げて生きています。

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2017-12-02

shuichifujii2017-12-02

「待つことの価値」(2017年12月3日週報巻頭言)

今年も主を待ち望むアドベント待降節)に入りました。アドベントという言葉は、「到来(アドベントス)」というラテン語がもとの言葉だそうです。


旧約聖書の民が待ち望んでいた救い主(メシア)として主イエスはクリスマスにこの世にお生まれになりました。そして救い主イエスと出会ったわたしたちは、この罪と暴力にまみれた世界に、神の救いを完成する方として、主イエスが再び来られる日を待ち望む意味で、アドベントを過ごします。


今、なにかを「楽しみに待つ」経験をすることが少なくなりました。

調べ物はインターネットですぐに答えが得られ、ほしいものもネットで注文して「待つ」ことなく、手に入れることができます。「待つこと」に積極的なイメージはなく、「時間の無駄」という否定的なイメージが強い時代です。

そのような今の時代だからこそ、この「アドベント」という主の到来を「待ち望む」教会の信仰、「待ち望む」生き方、文化の大切さを思います。


こどもの成長も、新入社員の成長も、「信じて待つ」ことが必要です。「待つ」ことができなくて、傷つけ合ってはいないでしょうか。

「待つ」こと。「待ち望む」ということは、決して時間の無駄ではなく、むしろ、忍耐し希望しつつ待つことでしか味わえない実りがあるのです。

人は「待つ」あいだ、無力にさせられます。種をまき、水をあげるまではできても、その種を成長させることはできません。あとはただ待つのみのです。

「待つ」とは、人間が無力にさせられることで、神が働かれ、この世界に神によるよい実りがもたらされると、信じて委ねることなのです。

2017-12-01

shuichifujii2017-12-01

[]キリスト教入門クラス 受講者募集中

 最近、教会の礼拝に新しくきてくださる方が増えているのですね。

それは嬉しいことなのです。なにかわたしたちの教会に魅力を感じてきてくださっているわけですからね。

時には、まだ一度も聖書を読んだことのない方も来られます。

そういう方は、もしかしたら牧師が礼拝の中でお話することが、チンプンカンプンかもしれませんね。

せっかく教会の礼拝に行ってみたけれど、牧師のお話がよくわからなくて、つまらなかった、ということにならないように、

「個別のキリスト教入門クラス」もしているんですよ。

昨日もある方と1時間いたしました。

テキストを使い、マンツーマンでするのが基本ですけれども、牧師と数人で行うこともあります。

場所は花小金井キリスト教会でしています。

内容は基本的なキリスト教の信仰、聖書の読み方などです。

たとえばこんな感じです。


第一課 聖書の神の名前

第二課 イエス・キリスト

第三課 聖霊

第四課 祈りの世界へようこそ

第五課 旧約聖書の大切な部分

第六課 新約聖書の大切な部分

第三十課まで

一課につき、週に一度、一時間が基本です。

第三十課すべてを受けなくてもいいし、毎週かならず継続しなければならない、ということもなく、

その人のペースに合わせて、自由にやっています。

また、普通は一般のビジネスの個別コンサルティングとか、塾の個別教授を受けるためには、高いお金を払わなければなりませんが、

これはわたしの開いている時間と、あなたの時間が合うときに行いますから、無料です。

(教会への感謝としての献金ならお受けします。ただ、私の都合によっては、対応できないこともありますのでご了承ください。)


対象は、「最近教会に行き始めた方」。「行ってみたいと思っている方」です。


この入門クラスで学ぶことで、今までよくわからなかった、教会で聞くお話が、よりよく分かるようになります。

また、祈ることや信じることなど、生きていく上で力と助けになることも、身についていくことでしょう。


興味のある方は、まずは「入門クラスを受けてみたいのですが・・・」と、ご遠慮無くメールをください。

メールは、このブログの右端の「メール」とあるところを、クリックするか、

http://hanakoganei-church.com/contact/

をクリックすると、問い合わせメールのページが開きます。

それでは、お待ちしています。

2017-11-30

shuichifujii2017-11-30

神の愛によって守られる

人は自分の命の短さに気が付いて初めて「今日も生かされている」と実感するのでしょう。

「お金は」人に多少の自由を与えてくれますが、寿命を延ばすことはできません。

命は自分で作りだしたものではなく、与えられたもの。

だれもが日々、与えられている命を生きているのです。

そして、今日も命を与えて下さった天の親である主が、

この上もなく、子であるわたしを愛していることを想い

祈りのなかで主と交わることによって、

心は守られ、

今日、新たにあたえられた命を、活き活きと生きていく力をいただくことができるのです。


「聖霊の導きのもとに祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる、わたしたちの主イエスキリストの憐みを待ち望みなさい」(ユダの手紙20-21節)

2017-11-29

shuichifujii2017-11-29

わたしがメッセージ原稿を掲載する理由

人は一度聞いただけでは、なかなか記憶に残らないものですね。

ですから語学学習も繰り返し聞くことが基本となっています。

本も一度読んだだけで、その内容を誰かに伝えることはなかなか難しいものです。

大切な本は、何度でも読み返すことで、しっかりと記憶に定着するでしょう。

聖書を何度も読み返したり、毎週教会で礼拝メッセージを聞き続けることで、

しっかりと記憶に定着していくことでしょう。

ただ礼拝メッセージについては、毎週違うメッセージがなされるので、記憶するという点では弱いのです。

そういう理由もあって、このブログにメッセージの原稿を掲載しています。

記憶に残らなければ、行動も変わりません。

ここでもう一度読み返し、メッセージを記憶にとどめることで、行動に変化が起こるなら、

その人自身はもちろん、周りの人の人生にも、よい影響が波及していくことでしょう。

それなら、礼拝には行かずに、このメッセージの原稿を読んでいればいいのでしょうか。

そうではないのです。

なぜなら礼拝という場において、キリストを信じる人の口からメッセージが語られ、キリストを信じる人の、目と耳によって受け止められることによって、

「言語」では伝わらない部分が伝えられ、それぞれの心の中に「想い」や「気づき」や「感情の変化」を生み出すからです。

その「言語」にならない部分が、その人の生き方や行動に働きかけてる力を持っているからです。


これは、音楽に例えるとわかりやすいでしょう。

「メッセージ原稿」は、いわば「楽譜」です。

「楽譜」がどれほど素晴らしい「音楽」を記していても、「楽譜」を読んでいるだけでは、人々にその「音楽」がもたらす「力」「感動」は伝わりません。

「楽譜」は人間の手や口によって「演奏」され、人間の目や耳を通して「聞かれ」て初めて「音楽」となるのです。

礼拝メッセージも、その言葉としての内容が、語る人の想い、感情、霊性を通して、言葉となり、

聞く人々の想い、感情、霊性をとおして聞かれることで、伝わり、響き合うものだからです。

同じ曲を演奏しても、その時の演奏者と聴衆の状態が違えば、伝わり方も違うように、

毎週の礼拝は、毎回毎回が、もう二度と同じ伝わり方をすることのない、一度きりのメッセージを分かち合う現場なのです。

そういう意味で、まずメッセージの原稿は、一度聞いただけでは忘れてしまいやすいし、聴き逃してしまいやすいときの、助けとして利用してくださったらと思いますし、

もちろん、礼拝に参加することができなかったときの、補完として利用してくださっても感謝です。

2017-11-28

shuichifujii2017-11-28

出会いと交わりの豊かさを味わいたいから

人生の時間には限りがありますから、できるだけ日々の時間を有意義に過ごしたいものですね。


人それぞれに、なにを有意義と感じるかはそれぞれだと思います。


一人だけでゆっくりと過ごす時間が有意義に感じる時もあるでしょうし、誰かと一緒に語り合い、心を通わせる時間を大切に感じる時もあるでしょうね。

しかし、一人で過ごしている時にしていることをよく考えてみると、たとえば、誰かが書いた文章をネットや本で読んでいたり、誰かの歌や映像をテレビやラジオで楽しんでいたりすることも多いのではないでしょうか。

つまり一人でいる時でさえ、自分とは違う誰かとのコミュニケーションを、楽しんでいるものなのです。

今、このブログを読んでいるということも、まさにそういうことですね。この文章を読むということは、実は、これを書いている私との出会いと交流を楽しんでいる(どう感じるかはそれぞれですが・・)ということなのです。

そういう意味で、私たちは常に誰かと出会い続けていますし、誰かとの交流を必要としているのです。

一見「ネットばかりして、一人で引きこもっている」ように見える人がいるとしても、実は、人との出会いと交流を欲しているからこそ、ネットの世界でツイッターとかブログとかを書いたり読んだりして、またオンラインのゲームでだれかと繋がったりするのでしょう。

人は一人では生きられないし、一人で生きてはいけない。人は他者と出会い、交流し、影響を与え合う中で、本当の自分へと成長していくものなのでしょう。

ですから人との出会いと交流は、まさにお金には変えられない宝なのですね。



先週の土曜日の朝、私のフェイスブックを何気なく見たら、友人の具志堅先生が沖縄から東京に来ると書いてあったので、とっさに「あいたいですねぇ」と書き込みました。

そうしたらすぐに「そうですねぇ」と返事が来たので、「日曜日の夕礼拝でお話できますか」とお願いしたわけです。

突然のお願いでしたのに、具志堅先生は快く引き受けてくださいました。

そのやり取りをフェイスブックで見ていた何人かの方が、夕礼拝にきてくださいました。

その中にはたまたま、花小金井の隣の駅に、その日宿泊していたゴスペル歌手の方もいて、夕礼拝に駆けつけてきてくださって、一曲賛美を歌ってくださったのでした。

このような、思いもしなかった出会いと交流が与えられるとき、人生の時間が豊にされたことを感じます。

土曜日の朝、わたしがフェイスブックを見たその場で、すぐに声をかける決断をしなかったら、この出会いはなかったことでしょう。

人生はそういう出会いの豊かさを体験するチャンスが、神様から沢山与えられているのだと思います。

一歩踏み出してみれば、失敗することや傷つくリスクも増えるわけですし、

「出会い系サイト」のような、人を利用しようとする人との出会いは、避けたほうがいいわけですけれども、

一方で、なにも自分からは動かず、あらたな出会いも交流もないままに、限りある人生を終えてしまうのも寂しい。

神様が与えてくださる新しい出会いと交流へ、

今日もちょっと勇気を出して、小さな一歩を踏み出してみたいものです。

2017-11-27

ゲストに具志堅先生

25日の土曜日の朝、沖縄の友人の具志堅正都先生が東京に来ることを知り、急遽、花小金井教会の夕方の礼拝でお話をしてくださるように、お願いしました。

ご無理を言いましたのに、快諾してくださり、感謝です。

「出会ってくださるイエス・キリスト」ヨハネによる福音書4章6節〜

D


つづき

https://www.youtube.com/watch?v=kuUhK-uON88&t=72s

2017-11-26

「神は人を分け隔てしない」(2017年11月26日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

 今朝は、長い聖書の箇所が朗読されましたね。

実は、まだこのペトロとコルネリウスの出会いの物語は、この後も延々と続くのです。

ペトロが、このあとコルネリウスたちに主イエスの福音を伝えて、彼らが信じてバプテスマを受けるところまでが、この物語のすべてなのですが、あまりに長いので、今は前半だけを朗読したわけです。

これを書いた「ルカ」という人は、このペトロとコルネリウスとの出会いので出来事を、実に詳細に、長々と書き残しているのですね。

それは、この出会いの出来事が、教会にとって実に重要な出来事であったからこそ、ルカは長々と書いているわけです。


最初に、エルサレム、そしてユダヤから広まった主イエスの福音が、サマリアの町にとどき、そしてこの福音に敵対していたサウロさえ、回心させ、ついに、ユダヤ人の壁をこえ、異邦人へと、主イエスの福音が広まった、いわば世界宣教の最初の一歩として、記念すべき出来事であるからですね。


今日、わたしたちの教会が、国外に出て行った宣教師の方々のために、祈り、捧げる、世界祈祷週間礼拝を捧げるのに、この聖書の箇所は、実にふさわしい箇所と言えます。


そもそも、わたしたちも聖書の世界からいえば、異邦人なのですから。

ユダヤ教の信仰も、伝統も、文化も、神の祝福の約束も、なにひとつ、関係のなかった異邦人のわたしたちが、

今、この聖書の信仰の世界につながることができるのも、

神に愛されている平安と、喜びに生きることができるのも、

ユダヤから始まった、主イエスの福音が、異邦人のコルネリウスへと伝わった、この出来事があったからこそ。


今日は、この長い物語を、細かくたどる時間はありませんので、

いくつかのポイントだけを、心に留めたいと思っています。

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2017-11-24

生きるという苦役

「人は死んでしまえば

もう生きなくてもよいのです。

苦役のようなわたしの人生ですから

交代の時が来るのをわたしは待ち望んでいます」(旧約聖書 ヨブ記14章14節)


生きることが苦役に思えるときがだれにもある。

体や心が苦しいとき。

死を苦役からの解放と信じて、憧れるもの。

そんなときに

「死ぬな」と、無理解に突き放されるよりも

生きることの苦役に痛んでいる心の傍らで

そっと寄り添い、共に痛む存在がいてくれたなら

きっと、人は生きていける。

2017-11-21

友を想う

 病の友を思い祈る。

 何かを成し遂げなくていい

 ただ、存在していることの重み

 流す涙の尊さ

2017-11-20

「背負い、救い出す神」(2017年11月19日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

イザヤ46章1節〜4節

今、イザヤ書から、短い箇所が読まれました。

イスラエルの民が、新バビロニア帝国に捕囚されてから、数十年。

1節にでてくる、ベルとか、ネボというのは、バビロニア帝国でまつられていた、神様。偶像の名前だそうです。

そのような偶像が拝まれているなかで、ながいこと生活をしていくなかで、イスラエルの人々の心の中にも、バビロンの神にすがる思いが、入り込んでいったと言われます。

いつの日か、この苦しい捕囚という現実から、解放される。ふるさとに帰ることが出来る。そうイザヤが神の言葉を語っても、イスラエルの人々はその言葉を信じきれなかったのでしょう。目にみえる力、偶像の神に心引かれていく人もいたのだと思われます。

なのでイザヤは、イスラエルの人々にこう語り始めたのでしょう。

1節

「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。

彼らの像は獣や家畜に負わされ

お前たちの担いでいたものは重荷となって

疲れた動物に負わされる。」

2節

「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。

その重荷を救い出すことはできず

彼ら自身も捕らわれて行く。」


ベルもネボも人間が作り出した偶像。ただの置物に過ぎない。自分で動くことさえ出来ない。動物たちに担われて移動するしかない。

そんなものを、持ち運んでも、ただ重いだけのお荷物、重荷でしかない。

倒れてしまえば、その重荷で、自分を救うことも出来ない。そんなものにすがるなというメッセージでしょう。

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2017-11-19

shuichifujii2017-11-19

「主に選ばれて」(2017年11月19日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

使徒言行録9章1節〜22節

 今週と来週は、女性会のリードで、海外の宣教師の方を覚えて、祈り捧げる、世界祈祷礼拝ですね。

 わたしたちの教会が加盟しているバプテスト連盟からは、今、カンボジアに嶋田宣教師ご夫妻、インドネシアに野口宣教師ご夫妻。そしてルワンダに佐々木和之ご家族。シンガポールに伊藤よりえさんを送っています。

来週は、その方々の現状について、女性会からアピールがありますよね。

その方々の働きを支えるために、特に女性たちが旗振り役をしてくださって、こうして教会でアピールをしてくださり、こつこつと、年に何回かバザーを開いては、皆さんの祈りと献金を、拾い集めるようにして、宣教師の方々へと、届けてくださっています。かんしゃです。

教会の仲間たちの祈りと献金を拾い集めて、福音の働き人を支える、と言う意味では、

私自身が、山形の酒田で、家族だけの開拓伝道をしていた8年半を、沢山の有志の方々による祈りと献金によって、生活を支えられてきた経験を思い起こすのです。

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2017-11-18

悩んでいないでやってみよう

どうしたらうまくいくのだろう、と

考えて悩んでいても

うまくなどいかない。

うまくいくと信じて

なにか行動を始めれば

うまくいくもの。

2017-11-17

shuichifujii2017-11-17

楽しかったなぁ 総会

 去年のバプテスト連盟の総会で、次年度の総会議長に選ばれてしまい

「議長」というものを、生まれてこのかた一度も経験してこなかった私は

「えー」という感じだったのですが

まあ、選挙を通して、私を選んだのは神様なのだから、なんとかなるでしょう、と楽観的なまま、この日を迎えました。

そんな私を、本当に様々な方が支えてくださって、無事にお役目を終えることができました。

その素晴らしいチームとともに、記念撮影。

実は、このみんなとの記念撮影が、今回の総会で一番したかったことだったんですよ。

感謝。

2017-11-15

2017-11-14

天城山荘紹介

D

15日から始まる日本バプテスト連盟の定期総会のために、天城に来ています。

天城山荘をご紹介しましょう。

2017-11-13

shuichifujii2017-11-13

「一人を救うために」(花小金井キリスト教会2017年11月12日主日礼拝メッセージ)

使徒言行録8章26節〜40節


今日、教会の建物に入ったとき、においませんでしたか。バーベキューの。

昨日、晴れ渡った空の下で、教会の入り口付近で、肉を沢山焼いたときに、煙が会堂にもはいりましたからね。

昨日、来られなかった方は、匂いだけでも味わってくださいね。

昨日のバーベキューで嬉しかったのは、小学生の息子の友達が、ひとり、来てくれたことでした。

今、地域の子どもたちが、教会にやってくる機会が、なかなかなくなってしまいましたからね。うれしいことです。

2年前から、月に二回、土曜日に、小学生の子ども会「はれるやキッズ」を始めましたけれども、

看板を出したからと言って、すぐに地域の子が来るもんじゃないですね。

前回の「はれるやキッズ」は、いつも日曜日の朝に、受付に立っているOさんが、子どもたちに勉強を教える会をしてくれましたけれども、この前は、わたしの小学生の息子一人だけでした。

でも約2時間、みっちり彼に付き合ってくれて、彼がこの礼拝堂の正面の上に、登ってみたいというので、登らせてくださったみたいです。また、一緒にレゴで家を作ったり、その作品が、教会の入り口に飾ってあったんですよ。

お気づきでしょうか。

彼だけは、この「はれるやキッズ」をとても楽しみにしているわけです。そして、その彼が友達をバーベキューに誘ってくれたり、次の「はれるやキッズ」に誘ってくれているわけですね。

教会は、1人が大切にされることで、その喜びが広がっていく現場なんですね。

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2017-11-12

教会は高齢化しているとか、新しい人がなかなか来ないとか言われることがあるけれど、

大切なことは、神様に愛されている喜びが、教会に集う一人ひとりの中に満ち溢れて、外に現れていくことなんだとおもうんだよね。

その内側から溢れ出てくる喜びの力に引き寄せられるようにして、人は教会に導かれてくるはずなのだから。

2017-11-11

shuichifujii2017-11-11

教会バーベキュー

 天気予報では雨と風の一日のはずでしたが、素晴らしい秋空のもと、今日は予定通り「教会バーベキュー」ができました。

小学生の息子が、友だちを誘ってきてくれたことが、嬉しかったです。

小学生たちに、バーベキューグリルで肉を焼く体験をさせてみると、「はじめてやった」と大喜び。

いい体験ができたね。

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2017-11-10

shuichifujii2017-11-10

明日はバーベキュー

 今日は明日のバーベキューのための買い出しと準備を、教会の女性の方々がしてくださいました。

2017-11-08

「約束の道」(2017年11月5日花小金井キリスト教会 夕礼拝メッセージ)

イザヤ40章1−8節

 夕礼拝では11月いっぱい、旧約聖書の預言者イザヤの言葉にふれていきます。

この時期に、旧約聖書の預言者イザヤの言葉にふれるのは、12月に迎えるクリスマス。救い主イエスキリストの降誕を、預言者イザヤが預言していくからでもあります。

さてそもそも、預言者とは何なのかと言えば、神の言葉を預かって、その時代の王様や民衆に向かって、語る人のことです。

天地を造られた神は、イスラエルという民族を選んで、この民に語りかけ、律法という教えを与え、この民を通して神の愛の業をこの世界に現そうとなさいます。

神は人を通して、この世界で働かれる。それが天地を造られた神様のやり方。そしてイスラエルの民は、そのために神に選ばれたわけです。

しかし、イスラエルの民は、神の与えた律法から離れて、神ではない偶像、軍事力、経済力に頼り、神を無視するような生き方へと、どんどん傾いていく。

特に、王様が立てられて、南と北の二つの王国に分裂した頃から、王様が率先して、偶像礼拝をしていくような状況になってしまう。

そこに現れてきたのが、預言者なのです。エリヤとかエリシャとか、イザヤとかエレミヤ、エゼキエルという預言者はよく聖書で名前が出て来ます。

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2017-11-06

2017-11-05

「神の賜物は金で買えない」(2017年11月5日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

11月になりましたね。今年も残すところ2ヶ月です。

「もういくつ寝るとお正月」ではありませんが、あと何回かここで顔を会わせたなら、もう「クリスマス」です。

 主イエスが招いて下さっている、一回一回の礼拝の時間に感謝です。こうして顔をあわせられることも、決して当たり前のことではありません。

週報の個人消息に、書きそびれてしまいましたけれども、教会員のNさんが、先週から入院しておられますから、どうぞお祈り下さい。

水曜日のお祈り会では、教会の様々な課題や、人のことを覚えてお祈りしていますから、お祈りに覚えてほしいことがありましたら、ロビーのコミュニケーションカードに書いて、箱に入れてください。

主イエスの名で、二人、三人の人々が共に集まる時、そこに主はいてくださいます。祈りを必ず聞いて下さいますから、互いのために、祈り合いましょう。

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2017-11-04

「わからないことがあっても大丈夫」(2017年11月5日花小金井キリスト教会 週報巻頭言)

 先週日曜日の宮田四郎さんのコンサートに参加された方から、演奏はもちろんのこと、宮田さんのお話がとてもよかったという感想を、何人もの方から伺いました。

 木曜日の教会カフェには、最近教会の礼拝に来られるようになり、コンサートにも参加してくださったある方が来られて、キリスト教の信仰についていろいろとお訪ねくださいました。

 その方は当日配布された宮田さんの「信仰体験」「証し」の文書に、ご自分で沢山の線を引いておられました。宮田さんのストレートで分かりやすいお話が心に響いたようです。

 また、その方は正直にこういうことを言ってくださいました。

「わたしは初心者なので、礼拝で伺うお話や、歌っている讃美歌の意味がよくわからないのです」「パンとジュースのようなものが配られる時も、どうしていいのかわからなくて・・」あらためて、何度でも丁寧に説明することの大切さに気づかされます。

 さて礼拝のメッセージは、膨大な聖書の言葉からほんの一部だけを読みあげ、その個所が語っていることを短い時間で語ります。ですから知識として理解できないことがあるのは当然です。それでも礼拝に参加しつづけて、み言葉を聞き続けることが大切です。  

 それは、生まれたばかりの赤ちゃんに、ママが「かわいいね。大好きよ」と語りかけることと似ています。ママの言葉の意味を赤ちゃんは理解できません。でも赤ちゃんはママに抱っこされつづけ、ママの愛の言葉を聞いて心に蓄え続けて成長していくことで、やがてママの愛の言葉の意味が分かるようになり、さらに自分自身も、愛の言葉を語る人へと成長していくのです。

 「礼拝」とは、いわば神様に抱っこされるひと時です。わたしたちは、神様に抱っこされている神の子なのだから、多少「わからない」ことがあっても大丈夫なのです。

2017-11-02