「おくりびと」と「関係の癒し」と「福音」

 映画「おくりびと」が、なぜ多くの人の心に受け入れられたのかなと、自分なりに考えてみました。


 物語は、納棺の式を中心に、いくつかのエピソードが綴られていくのですが、そこの「死者」を囲んだ人間関係の中で、何が起こっていくのかというと、人間関係の心の傷がいやされていく出来事であったり、家族の葛藤の和解の出来事であったり、親に捨てられた子の赦しという出来事などが起こっていくわけです。


 いくつかのエピソードのなかには、きっと今の自分の状況(家族の葛藤状態、近親者のとの死別における心の傷などなど)とオーバーラップするエピソードがあり、癒されないまま心の中にわだかまっていた心の痛みに触れられて、癒される思いがする、ということがあるからではないかと推察しています。


 自分自身の場合、父親との関係が、主人公とその父との関係と似ていたこともあり、普段はふたをして見ないようにしていた、父に対する自分の心の傷や感情に触れられるような、そんな体験をしたわけでした。



 そして、どのエピソードにおいても、その中心には、「死者」が横たわっています。「死者」はもう、口を開きません。たとえ、生前、その人との関係において、複雑な感情や心の傷を抱いていたとしても、死を契機に、そのすべては吸い取られていきます。


 そして、納棺師の鮮やかな所作を通し、「死者」はまるで「まだ寝ているだけ」の「生者」のような存在へと蘇らせられることで、その方との美しく、かつ楽しかった過去の思い出が蘇り、その方との関係の癒しが起こっていくのです。


 このいきにくい時代に、私たちが切に求め、あえいでいるところの、「関係の癒し」。それがこの映画が、多くの支持を受けた一つの要因ではないかと思っています。



 しかし、逆を言えば、この「関係の癒し」の出来事が、究極的には、「死」を通さなければやってこないほど、私たちの身近な「関係崩壊の傷」は根深いのだとも思います。そんな今の時代のもつ痛みが、この映画のヒットによって、浮き彫りにされているのかもしれません。



 さて、牧師として伝えたいことがあります。それは、聖書の伝える「福音」とは、まさにその「関係の癒し」をもたらす力なのだ、ということです。


 私たちが互いに関係を壊してしまうのは、究極的には人はだれしも自己中心であるからです。神中心にいき、他者と愛し合う関係に生きるべき人間が、自己中心に生きてしまう。これを聖書は罪といいます。この罪の性質から逃れるためには、自己中心の自我に「死」ぬしかありません。


 しかし、それはどだい無理なことです。人は自分の力で自我に「死」ぬことはできません。それは自分で自分を持ち上げるに等しいことです。不可能です。それこそ、口をひらかない「死者」になるまで待つしかありません。



 しかし、自我に「死」ねない自分の代わりに、キリストが十字架の上で死んでくださった。ここに神の愛があります。このキリストの身代わりの死を、自分のこととして受け入れ、神の愛に感謝していきるとき、自己中心から神中心へと生き方が神によって変えられていく。これは神秘ですが、クリスチャンの現実の体験です。


 神との関係が回復するなら、神の愛が私たちの心に注がれるようになります。神の愛は、自分のことばかりに捕らわれている私たちを解放し、自分を愛するように他者をも愛する関係へと生きる力を与えてくれます。


 そこから、もつれてしまった人と人との「関係の癒し」も始まっていきます。




 死によって「関係の癒し」が起こるのが、「おくりびと」の陰のテーマだとしたら、キリストが身代わりに死んでくださったことを信じて、生きている今、「関係の癒し」の世界を味わい生きる。それが「福音」。


 夫婦の関係の癒し、親子の関係の癒し。互いの関係の平和。それをもたらす、福音の力。神の愛。


 映画「おくりびと」が必要とされるこの時代に、本当に求められているのは、やはりこの「福音」なのではないかと思うのです。



「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」
新約聖書 エペソ2章13節〜14節)