香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

決まってる?決まってない?


↑佛山市の南海区にある食堂街
今日は、日本の銀行の人がうちの工場を視察に来る

というので、佛山と香港を案内して回った。

僕の仕事は、人事総務/財務/法務の管理系なので、

外部の人を接待する、ということは滅多にない。

銀行の人と言うので、自分の本音は絶対言わない

お堅い人を想像していたのだが(チョー意味づけ)、

普通に「僕、いま上海支店赴任を狙ってるんです。」

と、本音を語る人で楽しかった。

このときも、ずっと、前側ではなく、背後のその人、

と話すような感じで、聖霊兄貴に委ねながら話した。

多分、何千年にもわたる僕の夢のサイクルの中で、

この接待の別バージョンを、配役を入れ替えながら、

何千回も繰り返してきたのだろう。それを今にいて、

この何千バージョンの幻想を削除依頼して過ごした。


↑初日は日本炉端で接待
〝起こる事しか起こらない。元々起きてもいない。〟

〝これはもう、設定として決まってたんだね。〟

〝全ては、いまのままで最良なんです。〟

〝そのままの自分を受け入れる。〟

〝他者なんていない。全部自分なんだ。〟


あまりにステレオタイプ過ぎて、最近では悟り系でさえ

口にするのがちょっと恥ずかしいフレーズではある。


でも、なんで、何も起きていない、と解かるのだろう。

なんで、いま起きていることが最良だと言えるのか。

よく考えてみると何の根拠もないし、何の証明もない。

敢て言うなら、何か超常的な悟りの体験をした人が、

「私はその時、一瞥体験をして全てが解ったんです。」

という体験を語り、それを信じるか、信じないか、

ただそれだけにかかっている。

そして、どうして多くのスピリチュアル実践者が、

彼らと同じ体験をしたいと、彼らが推奨する(笑)

メソッドを実行しても、その体感が得られず

〝ああそれ、知ってる、知ってる。誰々も言ってた。〟

状態に陥ってしまうのか。


自称悟った人(笑)と、ああそれ知ってるの人

との違いは何なのだろうと考えてみると、

それは明確な〝体感〟があるかないか、の違いだと

いうことに気づいた。

実験をして物理的に証明することはできないけれど、

これは絶対に真実だ、と断言できる確固とした体感が

悟ったと言っている人にはあるのだ。


そこで、僕の場合であるが、

〝個の自分〟というものを放棄し始めてから、

聖霊って本当にいる、という体感が起き出した。


例えば、仕事がなく、どこかに就職したいとする。

心の中に潜む神から離れたという欠乏感を赦し、

聖霊に明け渡して、お任せします、とやりながら、

ハローワークに行って、人材会社に登録して、

ネットの何々で検索して、と、いろいろやる。

そして、ヒットして出てきた会社について、

ここは給料がどうのこうの、勤務地がどうのこうの、

この労働条件では割が合わないからどうのこうの、

と頭であれこれ裁定し、それでも、ここならいいかな、

と判断した会社に応募して面接に行く。

しかし、結果は不採用だった。(採用かもしれない。)


そして、この結果を指して、これは決まってたんだ、

もともとこういう設定だったんだ、

これが今の自分には最善なんだ、

これも聖霊の導きだねえ、

ということではない、と最近(昨日)気づいた。


個の自分がエゴで判断し、意味づけし、裁定して、

自分で、せんど、あれこれやりまくった結果、

これも決まってたんだねえ、これが最善なんだ、

って…。

それっておかしい。



それでも、聖霊に委ねきって不採用だったときは、

これが最善なんだ、と心底そう思えるから不思議だ。

ていうか、根底に恐怖がないので、何とも思わない。

そこには、分離の世界はもううんざりなんだ、

自分にはもう何にもわからないし、できないんだ、

だから兄貴に全部委託するんだ、という降参がある。

兄貴が願いを叶えてくれたら信じる、ではないのだ。


なので、これは決まってた、今が最善、という体感は、

あれこれ自分で算段して、動いた結果のことを指して

いるわけではなく、どこまで自分の意味づけや判断を

手放して動いたか、の結果だと思うのだ。


とは言っても、初期の段階で兄貴に繋がろうとすると、

どうしても、自分をぐっと踏みとどめて待ちに入る、

という時期が必要となる。

自分で動かず、何もせず、

我慢して聖霊の声だけにじっと耳をすませる時期だ。

これがなかなかできない。

不安と恐怖で、いてもたってもいられなくなる。

兄貴に委ねたのに就職は決まらない、

面接には落ちる、所持金も心もとなくなってくる、

来月の家賃の支払いはどうなるのだ?電気代は?

いるかどうかも分からない兄貴になんかに、

任せてはおけない。それで、自分で奔走を始める。


ここの表現は難しいのだが、

別に兄貴に委ねながら奔走したっていい。

面接を受けまくってもいい。

ただ、兄貴に対する深い信頼があるかどうか。


僕の場合、いまは仕事があり、収入もあるが、

たとえ失業しても、無一文でホームレスになっても、

別に構わないと本当に思っている。これはマジだ。

よい意味で「どーでもいい。」

(まだまだデイヴィッドのように、腐った牛乳を飲んで

 も平気とまでは行かないけれど…。)


しかし、

ホームレスになってもいい、天国以外要らない、

永遠に父のもとに帰ることしか望まない、

と真に幻想世界を放棄し、心底兄貴に委ねると、

逆に、豊かさが入ってくるから皮肉である。


だから、デイヴィッドのような人に対して、

〝お前も失業してみろ!〟というのは、

はなからナンセンスなことなのだ。