あらきけいすけの業務日誌(2009.3.6(金))

http://150.55.136.37/d200903.htm#306

大学に限らず「学校」というものの本来の社会的役割は「就職予備校」なのではないの?いろんな仕事に就くための「リテラシー・読み書き算盤」を身につけるための。

大学は、就職予備校という機能も持つと思います。でもそれだけでは説明できません。大学は、学問をすることころです。少なくとも理念上はそうであるべきかと私は思います。



学問をする過程で多くの物に対するliteracyが身についたりすることもあるでしょう。それが就職というか仕事につくさいに役に立つこともあります。


「就職予備校」の意味をどうとるかという問題なのかもしれません。私はちょっと狭く取りすぎているかな? 仕事にすぐに役に立つこと、仕事をする上で最低限知っておくべき事、そういうのを教えるというイメージがあるかな。


そして、「学問」というものの意味を私は広く取りすぎているのだと思う。

昔書いたのだけど・・・。
http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20071012/p8

学問はマニアックな人たちのおもちゃという側面も持つ。でもそれだけではない。自由に生きるための、幸せに生きるための、迫害されないための、強く生きるための、騙されないための力。強力で、愛しく、決して裏切らず、いつも伴にあるもの。価値がある道具。道具というのは適切な表現ではないかもしれない。生きていくことは学んでいくことで、その学んだ軌跡が、自分自身を表すものなのだと思う。

アイデンティティとは何か?って難しい問題だと思う。でも、こういう切り分けをしてみよう。「何ができるか?」と「何が価値だと思うか?」だ。学ぶということは、あきらかに、これらを拡張する。(大腸菌アイデンティティとかだって考えることができる。)

学ぶっていうのは、別に特別なことじゃなくて、当たり前のことだと私は思う。

一般的に、「就職予備校」という言葉の中に、価値観の拡張という側面が含まれているとはどうも思えない。もちろん、どこで学ぼうと、価値観の拡張はあるわけで、就職予備校と一般的にされるところでもそれは変わらないけど。程度の問題ということになるのかな?