sibafutukuri アニメとか音響音楽とか このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-05-01

AI囲碁 - 『WIRED』Vol.22 「人類と人工知能の頂上決戦:目撃者4人の証言」

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

ヒカルの碁 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


  囲碁と言えば、昔マンガのヒカルの碁にはまって、ちょっとかじってみたくらいでまったくの素人だ。

  でも、2016年3月12日のDeepMindGoogleが買収)のAlphaGo対イ・セドルの対局で、AI側が4勝1敗と勝ち越したニュースは衝撃だった。

  それは、この対局の2か月ほどまえに、『WIRED』Vol.20AI特集でAI囲碁で人間に勝つにはあと10年くらいは掛かるんじゃないか、みたいな記事を読んでいたからだった。



  そして、2016年4月刊行の『WIRED』Vol.22の記事で3ページだけだが、「GO: THE ULTIMATE MATCH 人類と人工知能の頂上決戦:目撃者4人の証言」で、3月の対戦について書かれていたのを読んだ。

  「証言」をしているのは、マイケル・レドモンド棋士。今回の決戦の実況中継を担当)、宮内悠介SF作家)、高木秀和(囲碁ライター)、北川拓也(理論物理学者)の4人。それぞれの文章は短めだが、立場のちがう4人の視点のちがいがおもしろい。


  その中でも、実況中継を行ったマイケル・レドモンドの発言をここで引用していきたい。


「DeepMindの研究者たちと接するなかで、AlphaGoは芸術作品であるという確信をもつに至った。」

「彼らは、わたしが思いつきで提案したような考えはすべて検討済みで、大変な作業の結果、この人工知能が生まれたのがわかったからだ。」


  人間に勝ったあるいは越えた(と自分は考えているが)AlphaGoが「芸術作品」なのかも、という視点はもしかしたらそうかも、と思える。「芸術」とか「芸術作品」っていう定義が至極あいまな世界なわけで、個人的主観にすぎないが、AlphaGoの勝利から感じる気持ちには特別なものがある。

  だが、マイケル・レドモンドが「AlphaGoは芸術作品である」という根拠を、研究者たちの試行錯誤や努力に定めている点が不可解でならない。


  ゴッホが凄いから「ひまわり」が芸術なのか?モネが凄いから「睡蓮の池」が芸術なのか?ルノワールが凄いから「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」が芸術なのか?

  自分の思考の限界からか、なぜか画家と絵画作品ばかり挙げてしまったが、作り手が凄いから作品は芸術だ、という論理は至極つまらない、としか言えない。


f:id:sibafu:20160501102233j:image:w500
ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」)




  上に引用したマイケル・レドモンドの発言と思考もこういうつまらないものでしかない。

  このつまらなさの原因は、マイケル・レドモンド自身が棋士であり、AIに負ける側あるいは飛び越される側だから、という面が強い。彼は、AI研究者とかプログラマではなく、言い方を変えれば芸術家だ。彼は囲碁をする者は棋譜や独特の定石や布石を作りだす芸術家、と考えているのかもしれない。その辺りがマイケル・レドモンドAIに対する限界だった、と思える。


「わたしは、AlpaGoが人間を超えたとは思っていない。」


  ただの棋士として、人間としての負け惜しみにしか聞こえないが。この後に続く言葉は興味深い。


「誰も予想できない手がもっと頻繁に出なければ、『布石の革命』は起こらないだろう。」


  「布石の革命」という言葉の意味がいまいちわからないが、囲碁の進歩という意味で捉えると、AIの打つ囲碁にも人間の打つ囲碁にも、もっと広げるべき余地があるというようなことだろうか。

  AlphaGoが人間を超えたか否かは別として、AI囲碁がもっと進化すべきで、その余地がある、というのはその通りだろう。

  その進化で自分が思うのが、AIAI囲碁の対局をしなければならない、ということ。今までは人間に勝つことが目標だったから、人間と対局していたのはわかるが、目標を達成したいま、AIAI囲碁を作り上げていけばもっとおもしろいことになるのでは、と楽しみになる。

  こんなところで言われるまでもなく、DeepMindの研究者の方などはもう研究を始めているのかもしれないけど。


  人工知能にも人間にも打てなかった、(人工)超知能同士でしか打つことができない定石が生まれるかもしれない。

  超知能を作りだしてしまうことは危険性もあるのだけど、囲碁という人間の作ったルールの中限定の知能ならまだ安全そう。AIたちの生み出すAI囲碁によって、人間の棋士たちのプライドや常識は打っ飛んでしまいそうなものだけど。



  今回の『WIRED』Vol.22の記事を読んでいてそんなことを考えた。

  『WIRED』Vol.20のAI特集はかなりおもしろいのでオススメです。


関連エントリー

『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読みながら考えたこと(16.04.17)

2016-04-30

『亜人』から考える生と死の境目

TVシリーズ「亜人」PV
D



  定期購読してる『ナショナルジオグラフィック』の最新号2016年5月号の「自然と人間」特集が先日届いてしまったけど、先月の4月号「生と死」特集を読んでなかったので焦って読み始める。


亜人(1) (アフタヌーンコミックス)

亜人(1) (アフタヌーンコミックス)


  最近見たアニメの亜人は死を軽く扱っているというような感覚を受けることも多く、例えば『ドラゴンボール』も近い意味で、子供に見せるのを躊躇するような面があるアニメ。この二つは年齢対照が全然違うけど。『亜人』は過保護的に考えれば高校生にも早い。


  『亜人』を連載してる『good!アフタヌーン』は読んだことないけど、『ヤングジャンプ』とかと同じ読者年齢層の青年誌かとおもう。『ヤングジャンプ』と言えば『ガンツ』が連載されていて、あれも描写のグロさもあるが、終盤では『ドラゴンボール』的な命の軽さがあった。


  でも、『亜人』の軽さはそれらの比ではなくおもえる。亜人として熟達した佐藤の戦いっぷりを見てわかるように、ゲーム的な生死の観念が強い。良くも悪くも、作者もそこらへんがちょっと超越しているんじゃないかと思えてくる。


  でも、『亜人』の死の軽さもそうだし、「亜人は人間ではないのか」とか「じゃあ人間ってなんだ」とか「亜人は死ぬのか?」みたいな諸々。そこらへんは突き詰めて考えるきっかけとして強く作用しそうで。


  『ナショジオ』4月号の「生と死その境界を科学する」の記事に、「脳死を『人の死』と思えるか」という見出しがある。脳死亜人の死、この二つは死の考え方と深く繋がっていて、現代人の考えられる死の観念や死の感覚で、首とか頭とか脳の喪失は、なかなか越えがたい一線でもあるようにおもえる。


「凍った川から奇跡の生還」

「死の世界から誰かを連れ戻すのが奇跡だとすれば、それは時として現実に起きる」

(『ナショナルジオグラフィック』2016年4月号、p.45)


  蘇生がばかげてマンガちっくなことと思いがちだけど、事実は小説よりも奇なり、奇跡的という枕詞がつくほど稀だとしても、実際に起こり得るからあながちばかにできない。


  また、医療技術の発展により人の命を救えるのはいいとしても、脳死みたいな現象が起こることになって、それによって結局死と生の境目が曖昧になっていく。しかも用語としの脳死が使われ始めたのは1960年代後半で、たかだか50年でそれまで何百年も引き継いできた人間の経験は覆らないから困る。


「『カウボーイの精霊』が怖がらなくていいと励ましてくれた。」(同誌、p.44)


  臨死体験をした人の発言はスピリチュアルじみてはいるけど、それが科学的に突き詰めていけばただの錯覚だとしても、人間が見る光景としてそれは現実だし、その人は蘇生後はその影響を受けて生きていくことに変わりはない。


  臨死体験をした少年が日本の特攻隊員のオバケが見えるようになり、他人の葬式で出会った少女の死を見届けることになる。ガス・ヴァン・サント監督の『永遠の僕たち(Restless)』は神秘的な死にまつわる不思議な映画だった。


『永遠の僕たち』(Restless)の感想(追記、2012.01.02)



  『亜人』はまだテレビアニメ版しか見てないから、まずは原作のマンガを読んでみたい。作者の桜井画門さんのツイッターを見たら、制作中やイラストなどを結構アップしているみたいで興味が増した。


2016-04-29

はてなブログへの移行について

はてなブログへ移行しようと思い、ページを作ってみた。

「sibafutukuri」
http://sibafu.hatenablog.com/

しかし今有料オプションの「はてなダイアリープラス(1年更新)」に入っているわけだけど、はてなブログの方の有料オプション「はてなブログPro」に引き継ぐ、みたいなことはできないみたい。

納得いかない。

しかも、はてはブログProはダイアリープラスに比べてだいぶ割高。一番安い2年コースでも「600円 /月(税込)」。1ヶ月コースだと「1,008円 /月(税込)」

オプション内容として、自分が一番魅力と思えるのは独自ドメインを作れるってとこだけど。

ということで、はてなブログを作ってはみたけれど、ダイアリープラスのことなど諸々あってひとまずは、ダイアリーもブログも両方更新していこうかな、と思っております。

めんどうくさくなったらどっちか片方になりそうなもんですが。

方針が固まったときにはなるべくまた報告したいとおもいます。

2016-04-24

藤沢周が語る「なぜいま武蔵無常を論じるのか」

武蔵無常

武蔵無常


  よく行く紀伊國屋書店に行ったら、藤沢周さんの新刊『武蔵無常』が何か所かに面陳されていて意外だった。けっこう注目されているのかな。


藤沢(ふじさわしゅう、1959年1月10日 - )は日本の小説家、法政大学教授。

  新潟県西蒲原郡内野町(現・新潟市西区)出身。新潟明訓高等学校、法政大学文学部卒業。書評誌『図書新聞』編集者などを経て1993年『ゾーンを左に曲がれ』(『死亡遊戯』と改題)でデビュー。1998年『ブエノスアイレス午前零時』で第 119 回芥川賞受賞。日本文学協会に所属する研究者。2004年より母校・法政大学経済学部の教授に就任し、「文章表現」「日本文化論」などを講じている。直木賞作家の藤沢周平とは、名前は似ているが無関係で、藤沢周平がペンネームであるのに対し、藤沢周は本名である。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E5%91%A8


  芥川賞作家でもある藤沢さんは今まで純文学の場で書いてきた人だけど、『武蔵無常』は純文学風に書いた時代小説、みたいな作品かとおもう。分かり易い宮本武蔵という人物を主人公に置いた小説にも関わらず、武蔵の芸術的な面や武芸の中の哲学面が強く前面に出ているので、モチーフの割にはかなり読むのに苦労するものになっている。


文芸 2016年 02 月号 [雑誌]

文芸 2016年 02 月号 [雑誌]


  ちなみに『文藝』の2016年2月号(春号)に「武蔵無常」は一挙掲載された。『文藝』は普段読んでいないんだけど、一時期は『文學界』や『新潮』をよく読んでいた。『文學界』、『新潮』、『群像』は純文学色が強いけど、その三誌に比べれば『文藝』はもうちょっとエンタメ色が強くなった文芸誌という印象。同じ『文藝』2016年2月号には、『野ブタ。をプロデュース』(第41回文藝賞受賞作)の著者の白岩玄さんの「ヒーロー!」という作品も載っている(読んでないけど)。


  そういった掲載紙の特色を鑑みれば、悪い言い方をすれば純文学と時代小説の中途半端なもの、であって、良い言い方をすればその中間となった画期的な小説、という出来なのが納得できる。純「純文学」でもないし、純「時代小説」でもない。まぁ、そんなジャンルの話ばかりもしてても上っ面だけの世界でつまらないですが……。


なぜいま武蔵無常を論じるのか【1】 藤沢周×黒鉄ヒロシ×西部邁
D


  「武蔵無常」でググっていたりしたら上の動画を見つけてびっくりした。藤沢さんをゲストに迎えたトークの動画。数年前から藤沢さんのファンになった人間だけど、たぶん喋ってるのは初めて見た。今作もそうだけど、ハードボイルドな小説ばっかり書いてる人なのでもっととっつきにくそうな人かと思ってたけど、声が思っていたより高いし冗談も言いそうな人柄だった。これは第一回目みたいで、続きも楽しみ。


「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」 ゲスト:藤沢周、黒鉄ヒロシ 〜西部邁ゼミナール〜 - sakurajimaoyuwariのブログ
  こちらのブログでは動画の音声がテキスト化されている。


  1分10秒辺りで、司会の人が「剣道の四段だとお伺いしたのですが、いつぐらいから始められたんですか?」という質問をするけど、その藤沢さんの返答は「これがですね、今、ぼくは57歳なんですけども、46歳から始めたんです」というもの。


  これには驚いたね。普通剣道を何歳から始めるか知らないけど、だいたい学生の頃からやってたりするものという認識があった。でも、藤沢さんは46歳から。襲ない頃から柔道はやっていて、剣道のきっかけは子供の付き添いで始めたのがそうらしい。うーん、柔道も意外だけど、きっかけも子供の付き添いという「良い父親像」が、失礼ではあるけどまた意外だ。


  藤沢さんはエッセイとかでもほとんど奥さんや子供について書いていないけど、エッセイか小説家忘れたけど、ほんの一部の文章に子育てかなにかについて書いていて、けっこう良いお父さんなのかもな、と思った記憶がある。


  「46歳から始める剣道」という話を聞くと、自分もまだまだ遅くはないんだな、と思うところ。剣道やりたいし(藤沢周さんの影響)、卓球やりたいし(『ピンポン』の影響)。普段自覚してないけど、漫画とか小説にけっこう影響されるミーハー性質。


武曲 (文春文庫)

武曲 (文春文庫)


  藤沢さんの作品の中で剣道と言えば、2012年頃の『武曲』が青春剣道小説ですごくオススメだけど、ほかにも短編集でよく剣道をしている主人公の話があって、その頃からこの人の書く剣道が好きだった。


  前に書いたエントリーで、武蔵自身の『五輪書』や吉川英治の『宮本武蔵』を読まなきゃ分かり切ることは難しい内容だなーというようなことを書いたけど、その後、吉川版の『宮本武蔵』を電子書籍の一冊にまとまったやつを買って読み始めた。けど、現在は挫折中……。でも、基本的にエンタメな時代小説だと思うけど、意外にも禅とか仏教っぽい静かさもあって意外だった。一方、藤沢さんの『武蔵無常』に至っては、その静かさが度を越してて付いていけない世界が濃いものだから、紙の上で己は迷子、という感覚。


  『武蔵無常』は、とりあえず『文藝』で読んで、単行本も買ってあってまだ読んでいないから、自分の知性も感性も磨き直してから、また再挑戦したい作品。


  上の動画と関連して、この『表現者』2016年5月号の座談会に藤沢さんも参加しているみたいです。


サラバンド・サラバンダ

サラバンド・サラバンダ

  4月27日発売。「芥川賞作家が円熟の筆で描く珠玉の短篇小説集」。発売もうすぐか、たのしみ。


■「藤沢周関連エントリー

藤沢周による宮本武蔵 「武蔵無常」(16.03.14)

藤沢周さんの新作 「武蔵無常」と「或る小景、黄昏のパース」(16.02.23)

藤沢周 「物狂」 - 飽食の認知症系介護小説(15.04.25)

藤沢周 『武曲』 - 殺し合い生かし合う剣道(15.04.11)

藤沢周 『幻夢』 - 現実と妄想のクロスフェード(13.11.06)

藤沢周 『さだめ』 - AV女優スカウトマン視点(13.07.14)

  ほかにもいろいろ書いていますが、リンク貼るの意外と面倒だと気づいたので最近のだけ。気になるひとは「日記の検索」っぽい部分で「藤沢周」と入力して「一覧」で検索してみてください。

2016-04-17

『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読みながら考えたこと


■人間とクローン人工知能

  クローンを作るのは宗教的な倫理観とかで咎められるのは心情として理解できるけど、将来的には人間と同じかそれ以上の知能と成り得る人工知能の開発が咎められないのはなぜなのか。AIは進化すべきと考えているけど、クローンAIのちがいを考えてみれば頭が混乱してくるし、AIも許されていいものなのかと疑問に思えてくる。

  最近、AIを使った株の高速取り引き(高頻度取引)の「規制を検討する」みたいなニュースを見たけど、人間には財産権というのがあるらしいけど、AIにも財産権を認めるべきなのかと考えると、高頻度取引ではないにしても巧みなトレードで自分が使っているAIが自分より金持ちになるのか、とか考える。


「株の高速取引検証へ審議会 金融庁、実態を調査」(日経新聞)


  マレー・シャナハンシンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読んでいると、そういうことを考える。AIの財産権もそうだし、投票権とか。しかし投票権にしてみると、人間には年齢制限があるけどAIの年齢ってなんだよ、とか考える。

  AIに反対している著名人も結構いるとかで、それは分かる。でも、おそらく大抵の人の理由は漠然と社会に悪い影響を与えて人間の利益にならない、みたいなことなのでは。AIに人間が支配される危惧とか。やっぱそれはクローン反対の場合と理由が全然違うようにおもえる。

  AIに支配される人間たち、は想像できるけど、クローンに支配される人間たち、は想像しにくい。クローンたちに支配されちゃうほど人間はマヌケではない、という驕りかもしれない。自分のクローンに自分の権利を侵される、みたいな映画はけっこうある気がするけど、そういう物語は「種」の問題ではない。


■ペンキの刷毛と計算機違い、自分と自分でないものの境目

ペンキの刷毛を使いこなす人が、その刷毛が体の一部のようだというのと同じように、計算機を使う人でその計算機が自分の精神の一部のようだという人はいないだろう。ユーザーには計算機の仕組みは見えず、ただその結果を所与のものとして受けとるだけだ。」

「われわれは、不完全ながらも、自分の頭の中で起こっている論理的思考のプロセスに緊密にアクセスでき、この緊密さこそが内省、そして認識の統合を助けている。」(p.205)

  だんだんと言っていることが難しくなっていき、理解が追い付かないがペンキの刷毛と計算機の違いというのは分かり易くて面白い。中身の違いというか、そもそも計算機の中身は考えるかもしれないけど刷毛の中身は考えない。

  ペンキの刷毛と同じような意味合いではないけど、パソコンや携帯・スマホは自分の一部、もしくはそれ以上に自分でもあるだろう。分身というか、デバイスに記録されたテキストや画像は外部にある自分を自分として侵略しつつある。とは言え、やっぱりペンキの刷毛とは別の文脈だろう。その違い。

  ペンキの刷毛とか野球選手が愛用しているバットとかサッカー選手のサッカーボールとかと、パソコンやスマホは、どっちも自分であると言えるだろうけど、きっとその二種類の意味合いは違う。サッカーボールはネットに繋がらないけど、スマホなどは繋がる。同じモノでも、その違いは大きい。

  パソコンが自分だ、と言っても昨今はなんでもかんでもクラウド化される時代。個人的な体験としては、DJ方式でMIXした音源はファイルで持ってるにしても、曲の情報などのプレイリストを知りたいなるとネット上に上げたものを参照するのが一番手っ取り早かったりする。自分の記憶もツールも当てにならず、ネットの情報にすがることになる。

「sibafu - Mixcloud」

  余談ですが、MixcloudにアンビエントやエレクトロニカのDJ MIXをアップしているので、よかったらこれを読みながらでもどうぞ。

  自分だと思っていたパソコンも結局空っぽになり、ネットを参照するヒモでしかなくなってしまうと、自分はどこへ行ったのかと迷子になることになる。結局、クラウド化された社会というのは攻殻機動隊で描かれていたというか予測されていた、シェアされた自分が他者と統合することになる社会。

  ペンキの刷毛と自分は「繋がり」が重要な点なのに対して、計算機と自分とでは「中身」が重要な点となるのではないか。ペンキの刷毛に中身も内容もない。ただ、自分とペンキの刷毛がどう繋がっていくか、それが「自分の延長」という感覚を強めているようにおもえる。

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス


■「自分」は肉体に宿るのか、ネットに宿るのか

  自分とパソコンは、もはや繋がりとかそんなレベルではなく、自分をパソコンに吸い取られている。自分をパソコンに委任、委譲している。パソコンが自分に被さってきているイメージ。パソコンに食われる自分。だから、パソコンを失った自分は空っぽだと、道に迷うことになる。何も残らない。食いカスな自分。

  最近、電車の中でよく見かける光景。ガタガタ揺れる車内で、両手でスマホをいじるのに夢中でよろよろして倒れかけたりしている女性。ヒールを履いていたりする。バカじゃないかとおもう。というかバカだろ。なんかの修行かなんかか。

  まぁでも、こじつけて考えれば電車内でよろよろしながらスマホをいじる女性の姿は面白い。如何に自分がその体に宿っていないか、ということと自分がスマホに振り回されているという現状を体現しているからだ。

  片手で扱えるスマホってあるのかもしれないけど、もっと普及させてあげなよ、とおもう。

  電車内でイヤホン付けて両手でスマホいじる女、最高にバカな人間像だとおもう。

  自分も人のこと言えないけど、そういう姿を見ていると社会の中とか電車の中でとかいう文脈を付け加えるにしても、自分はどこにあるのかってことを考えさせるシチュエーションなわけだ。


■ポストヒューマンな人工知能と人間の共生

「保守的な人間中心主義とポストヒューマン原理主義とのあいだに妥協点はあるのだろうか?」(p.209) ※ポストヒューマン=人間の後の人間像を示唆する概念。トランスヒューマンとほぼ同義。

トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。 ポストヒューマンの形態として、人間と人工知能共生、意識のアップロード、サイボーグなども考えられる。」(「ポストヒューマン (人類進化) - Wikipedia」)


  江戸時代の人々からすれば、パソコンやスマホを使いこなす現代人も十分ポストヒューマンなんじゃないか。


「(本)ジャック・アタリ「21世紀の歴史」—「ノマド」よりも「トランスヒューマン」に注目 : まだ東京で消耗してるの?」

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界


ニーチェによれば、人間とは、動物と超人とのあいだにある深淵を渡るにすぎない。」(p.207-209)

  すごいこと言うな、ニーチェ。人間=橋。『ツァラトゥストラかく語りき』に書かれているらしい。読んだことないし難しそうだからニーチェの言う「超人」ってよくわからないけど、ポストヒューマンに近いものなのかな。ガンダム世界で言う「ニュータイプ」を思わせるワードでもある。

「この視点の難しいところは、言うまでもなく、ニーチェ的なビジョンがナチス的な狂言と紙一重であることだ。」(p.209)

  初代『ガンダム』のちょっと前の時代にジオン・ズム・ダイクンが提唱したニュータイプ論が、作中の一年戦争時にギレン・ザビ選民思想の主義として利用されている。言うまでもなく、これはナチズムをモデルとしたストーリーだろう。



  つらつらとツイッターでつぶやいたことをまとめました。まだ途中だけど、マレー・シャナハン(ドミニク・チェン監訳)の『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』を読んでいるといろいろと考えさせられます。内容が難しく集中しづらい部分も多いけど、なぜか個人的には200ページ辺りからすごくするすると頭に入ってきて刺激を受けた。オススメの人工知能本。


電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

シンギュラリティ』で監訳を務めたドミニク・チェンさんの著書。こちらも気になる。