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2014-10-20

猫の実験

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  「猫は名付けられた名前によって鳴き声が変わることが実験によってわかった。当初は性格や行動まで変化することが予測されたが、そこまでの変化は確認できなかった」、という架空の実験と結果を考えていた。


  しかし、現実として名付けられた名前で猫の鳴き声が変わることが実際にあったとしても、客観的に科学的に事実だと証明することは到底不可能だろう。猫には個体差というものがあるのだから、一匹の人生には一つの名前しか通常与えられない。猫が複数の名前を持ったところで、その猫と鳴き声は結果的に一つきりなのだから。


  同一の猫で別々の名前を与えた結果を観察できるとしたら、それこそ『シュタインズ・ゲート』の電話レンジを使ったタイムリープを行うくらいしか方法はないかもしれない。


  と言っても、タイムリープ毎に世界線は変わってしまうのだから、観測者が魔眼「リーディングシュタイナー(運命探知)」*1の能力者であり、複数の実験結果を体感として実感したところで、他の人類全体は唯一の世界線を生きる者たちに過ぎず、観測者が客観的に結果を証明するのはやはり不可能に思える。変性した猫の鳴き声は孤独な観測者の記憶にしか残らず、実験結果にも歴史にもならない。


  以上のことからわかるように、「猫は名前によって鳴き声が変わるか」という誰しも頭に浮かぶであろうこの素朴な疑問は決して証明不可能であり、人類にとって永久に抱え続ける猫の七不思議になるのだとおもう。




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STEINS;GATE

STEINS;GATE

*1: 「■運命探知(リーディングシュタイナー)●岡部が日常で感じた違和感をこの特殊能力で感知した…という厨二病設定。魔眼の能力らしい。●物語中盤以降は岡部倫太郎が発現した特殊な能力を指す。世界線変動率が変化し世界が再構築された事を知覚し、前の世界線の記憶を維持できる。そのメカニズムは不明。発動すると眩暈や発熱等の症状が出る。」(「用語集 - Steins;Gate/シュタインズ・ゲート 攻略・考察Wiki」より、http://masterwiki.net/steinsgate/index.php?%CD%D1%B8%EC%BD%B8#m2fd4e66

2014-10-19

ザ・フィールド、差異の快楽

The Field - 20 Seconds Of Affection
D




きれいはきたない、きたないはきれい

ニワトリの突き合い序列

AはBに勝りBはCに勝りCはDに勝りDはAに勝る

最上位でもあり最下位でもあるニワトリ群

トリックスターの神話を跨いだ跳梁跋扈

ときに英雄でありときに戦犯者であることの繰り返し

ルーティンとルーティンのルーティン

しかし、ここにあるのは差異の隙間に見出す快楽

差異の快楽




レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』(渡辺公三・木村秀雄編)

を読みながらのThe Field




CUPID'S HEAD +1

CUPID'S HEAD +1




関連エントリー

「The Field - Cupid's Head(2014.06.19)」

2014-10-18

AM9時の瞬間夢


  金曜日の朝。いつも家を出る三分前に目が覚めた。焦った。なんとか支度して5分で家を出て、いつもの電車に乗れた。


  その目が覚める寸前まで見えていた夢があった。おそらく寝ている間見ていて、覚めると同時にその夢は終わったのだ。


  死んだ兄に殺される夢だった。夢だが、実際あったできごとに非常に近い夢であった。気が狂って細かい思考も手作業も苦手になった兄の代わりに、パソコンのインターネットの設定をいじっていた。だがぼくだって専門家でもないし、ひとの記憶は曖昧なもので体感的には正しくても他人からしたらなんの根拠もないようなあやふやな指示を出していて、そんなところまで夢のくせに忠実であった。


  そして、気が狂った男は気が触れやすく、なにかしらのきっかけで怒りのスイッチが入ってしまって感情は爆発し、それをぼくは避ける余裕がなくなって、自暴自棄な気分であったのだろう。気狂いは伝染するのだ、と気狂いになりそうになって身をもって知った。相手の怒りを不毛にも受けてやろうという気持ちになってしまい、兄は包丁を持ち出して襲いかかってくる。それまではこっちだって殺してやる、くらいの気概でいたのだが自分も相手も傷つけてはまずいだろう、という冷静な意思が甦り、ぼくは後じさる。


  玄関のドアのところまで我々は向き合ったままで、追いつめられる。幸い不用心ながらもドアには鍵がかかっていず、背中に押され扉が開いていく。そしてぼくの身体は転げ落ちるように内から外へ重力に運ばれ、目の前には包丁の切っ先が銀色をして過ぎ去っていく。もしかしたら前髪くらいはハラりと分断されたかもしれない。が、そんなことを確認しておく余裕もなく、しかし意外と避けるのは余裕だなと思っていたのだった。


  だが、右から切りかかってきた、向こうからすれば左手に握っていた刃物が振り下ろされた直後、どうして気づかなかったのか不思議でならないが、兄の右手にはもう一本の出刃包丁が握られているのに気づく。体勢を立て直してすこし前のめりになった勢いが過ぎ去らないまでのその間に、ちょうどよく脳天の左上あたりにスコンともグサリとも言い切れない、ともかく薪でも鉈で伐り落とそうというくらいの力加減と角度でもって、この意思を持った肉体の思考部品は破壊から消滅へと当然遺書も書く暇すらもなく、遺言も、最後の酒も、晩餐も、セックスも、キスも抱擁も握手も目配せもなにもする暇さえなく、プツンとプレイステーションの電源が落ちたみたいにこの身体もこの意思も、もはやこの、がどういう位置か、意思か、時空もなにもなくなるくらいに寸断された。


  どうして、死ぬと目が覚めるのか。映画のインセプションもそうだったろう。夢のくせに意外と想像力が足りないのだ。意外にも夢でありながら、常識の規範にしたがって世界を作っていて、そこで規範にしたがった生活をしたがるのだろうか。たしかに、規範もなにも時空もなにも枠がなくなってしまえばナメクジを通り越してプランクトンを通り越して海にさえ私というものがなってしまいそうにさえ思えるのだから。だから、死んだ先の夢というのはそうそう見られないのだろう。仮に見られたとしても、それは私というものが海や空や宇宙だから、当然そこに思考はないのだから、仮に見られたとしても記憶としてこの身体とこの意識に刻まれないだけなのだろう。仮に見られたとしてもそうなのだろう。意識に刻まれないのだろう。体験は既に終わっているが、それを誰も認めないとなればそれは起こらなかったことと同じなのかもしれない。一度観たことのある映画だが二度目に始まった時にも、その映画が終わった時にさえ、一度観たことがあるという事実に気づかなかったら、と考えるとそれは奇妙で面白味があるとも思えるが、やはり話の芯のところでそれは恐怖なのだ。しかも、恐怖さえ観た映画を忘れた私にとって体感する感覚としては永久に訪れない恐怖という感覚であり、だから恐怖なのだ。それは恐怖だ。ゾンビにならず、夢から覚めた。


  そして、9時ちょうどに起き、あと3分で家を出なければならないことに恐怖したのであった。

2014-10-12

Zoo


Zooという動物の鳴き声を考えていた



zoo

ozoo

ezoo

aozoo

benzoo

dzoo

zerozoo

animalzoo

ozoo

gzoo

izoo

bigzoo

doubzoo

logicalzoo



アメリカの動物園はZoo

そこにZooという動物がいるかと思っていたが

ゾウはいたけどZooはいなかった



Zooという動物さえいる気がした

でも考えてみれば動物園という動物はいないだろう

すくなくともぼくは見たことがない

でも見たことがないだけでアマゾンの奥地にはいるかもしれない



多摩動物園にはたまたまたまさんという名前のお婆さんなんかが

来ていてたまさんがいるから多摩動物園だとその時には納得できそうだ

上野動物園なんかは一日にどれだけの来場者がいるかは知らないけど

百人とか千人とかもっとか

それだけいれば上野さんは何十人もいてもおかしくない

そしたらゾウなんて数頭しかいないのだから上野さんの方が多い

だから象動物園でなくて上野動物園なのだと納得できる



アメリカの動物園にもZooさんという人が来ていれば納得できそうだ

でもZooさんという名前の人は聞いたことがない

知り合いに外国人はほぼいないしハリウッド映画とかドラマ

くらいでしか判断できないけれど、Zooさんは知らない

だって日本でだって動物園太郎さんとか動物園幸彦さんとか

そんな人見たことないのだからなあ



「熱帯林の世界」というシリーズで刊行されている本が好きでよく読んでいる

そこには今まで見たことも聞いたこともない動物がたくさん登場する

でも、そこには今まで見たことも聞いたとともある普通の動物もたくさん登場する

いったい、知らない動物と知っている動物という区別はなんなのだろうか

それは考えてみると生活している環境にいるかどうかということと、

もう一つは動物園にいるかいないか、

という違いに大きな原因があるのだとおもう

でも、動物園という名前なくらいだから知らない動物はいない、

というのは変じゃないのか

まるで動物園にいない動物は動物でないみたいだ



「熱帯林の世界」にはオカピカピバラウーパールーパーも出てきた

でも、ぼくはこの三種類の動物を知っている

なぜならテレビや本などでその動物がキャラクターであるみたいに

扱われて、ある意味可愛がられているからだろう

それ以外に具体的には思い出せないのだけれど

知らない動物はいろいろと出てくる

例えばダイカーがそうだ

トラのタイガーではなくて、ダイカーだ

ダイカーはウシ科で、見た目は体毛のない羊に馬を混ぜたみたいな感じだ

もしかしたらぼくが無知なだけかもしれないけれど、今まで知らなかったし

日本の動物園にはいないんじゃないだろうか



べつに動物園を責める気はないのだ

ただZooという動物はやはりいる気がしてしまうのだ

その原因というのはたぶんわかっている

メソポタミア神話に登場するズーという怪物のせいだ

ZuあるいはAnzu(アンズー)

絵画などではライオンの頭を持つワシの姿で描かれがちだそうだ

鳥類の上半身と馬の下半身を持つグリフォン

ちょうど反対のような格好になるのかな

どちらも想像上の生き物だ

彼らは想像の中でしか生きられない

どうやらぼくの勘違いというか空想はこういうところから

出てきてしまっているようだ

Zooなんてものはいないのかもしれない

いや、べつにいなくてもなんの問題もないのだけれど

ぼくは宇宙人の存在を主張する人みたいに

意固地になっているわけではないのだし



よし、Zooはいない

そう一旦決めてしまっていいだろう

何もぼくが決めつけて世界が変わるわけでもないのだし

そんな世界を変える権利も力もないわけだけど



ただまぁ、Zooみたいな

動物園にいない動物という存在には夢があると思うのだ

見たことのない動物は見たいと思うでしょう

特別動物が好きなわけではないのに不思議にそうなのだ

それだけ、ぼくらは動物園という檻の外に興味があるのだと思う

もちろんぼくらは物理的に檻に入っているわけではない

でも、ぼくらの頭の中には檻があるのでしょう

それがZooと言うもので、そう言うべきなのかもしれない

Zooという檻はぼくらを守る家でもある

でも、家は檻でもありぼくらを縛りもする

だから、時にはZooの外に出て

空想のZooという動物でも見たいと夢想するのではないかな


2014-10-06

検索という物語製造装置

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅


  検索というのは、自分に都合のいい物語を引き出すのに最適な手段です。検索ワードごとにさまざまな物語が生まれるからです。

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』、p.98)




  批評家は引用したような文脈での意味で「物語」という語を多用する。自分もそれにかぶれたところがあるのでたまに使うんだけど。手短に意味を込められるので非常に便利でもあるので。ただ門外漢としての大多数の人からすれば意味不明だったり違和感を受ける言葉でもあるのかもしれないけど。


  さきほどのように、例えば検索結果という現実さえも「物語」と言い切ってしまえるのは、批評家が事実に即した真実など空想であって、人それぞれの認識や解釈による物語でしかないとわかっているからだろう。


  批評家がなぜその「真実」をわかっているかと言えば、逆説的に批評家が常日頃行っている仕事こそが事実の意図的読み替えによる「物語」の創作だからだろう。例えば小説を批評するにしても、読者が納得しようとこじつけだと憤慨しようと、その批評という結果は批評家による物語にすぎない。


  東浩紀さんの『弱いつながり』を読んでいて、特に98ページの引用した部分を読んでいて、東さんが言いたいことがすんなりわかった気がした。人は見たいものを見ようとするし、その悪い癖を悪化させるのが検索というツールだと。だがそのツールも使い方によっては世界を広げられる、みたいなことかと。




  東さんには興味が以前からあり、手にしやすい物からいろいろと読んできた。その意見に当然ながら全面的に賛同できないとしても、刺激は受けるし世間的な知名度も高かったりして。だから批評家としては大塚英志さんの方が個人的に好きではあるのだけど。


  いままで東さんの著書では、『動物化するポストモダン』、『ゲーム的リアリズムの誕生』、『セカイからもっと近くに―現実から切り離された文学の諸問題』などを呼んできた。でもやはり、『存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』を一番読みたいとここにきて思うのだった。




  と、ここまで『弱いつながり』を読み終わるまでに書いていた。そして読み終えるにあたり、あとがきのような役割を持つ「おわりに」という章に辿りつく。最後に、そこに記してある言葉を引用して終わりたい。




現実を知る。

でもそれは記号を離れることではありません。

現実に戻ることではありません。

戻る現実などありません。

わたしたちは記号しか知らない。

だから記号を旅するためにこそ、現実を旅する。

(『弱いつながり』、pp.163-164)




存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて