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2014-09-28

パンでもないコミュニケーションとかのはなし



■おにぎりとパンの食い違い




  おにぎり食ってるつもりなんだけど、パンを食ってるやつからおにぎりって美味いよなと言われるようなことが不思議にも現実にある。こいつなに言ってんだ?と思いながら臆病なのでイエスと言ったりとかパンも美味いよね、と自分はおにぎり食ってんのに言ってたりする。何かが間違ってんだけどわからない。


  なんでパン食ってんのにおにぎりの話をしだすのかが自分には理解できないのだろう。お前パン食ってりゃいいじゃん、っていう気分なんだよ。こっちはおにぎり食ってんだから話しかけるなよ、と思ってしまうな。それとも本当はおにぎり食いたいのか?深層意識とかなのか?ややこしいんだよ。


  「おにぎりを食ってる」っていう意識はふつうなら考えるまでもなく自明のこと。でも不思議にもパン食ってるやつにおにぎりのことを問いかけるられると、一瞬意味不明の状態に陥ってしまい、いま口の中で咀嚼しているものさえわからなくなる。リセットとかゼロの位置に思考が戻る。だからその問いかけはふつうじゃない。


  しかしまぁ、本人がどう思おうと「おにぎりを食っている」と考えながらも実のところパンを食べているかもしれないし、おにぎりでもパンでもどちらでもない得体の知れないものを食べている、という可能性もなくはないでしょう。


  とすると、私は何を食べていると考えているのか、ということと、私は何を食べているのか、のどちらが重要なのかがわからなくなってくる。しかもそこに他者の意識を含めると、彼は何を食べていると私は思っているか、ということと、彼が食べているものは何か、という新たな思考の枠組みが生まれる。非常にややこしい言い方だが、それぞれこの四つの言い方で別々の思考と言えるように思える。


  私はおにぎりを食べているという事実があるとする。が、それは神のみぞ知る、という事実というものだろう。事実とはそういうものだろう。その事実を、以上に記した私と他者が捉える四つないしはそれ以上の思考という捉え方で見なすことになる。だから話がややこしくなるのだろう。事実があっても、それをおにぎりを食べている私自身が考えるにしてもそれが事実と相違ないとは限らないのだし、当然、他者からすればもっとズレた捉え方になる可能性は高まるだろう。


  その上で、私は相手の考えている意図を汲んでそれを踏まえ、それに相応しい応答をしようと考える。その応答の選択が間違っているかもしれないし、それ以前に相手の意図の汲み取りが間違っているかもしれない。結果を見ると正解と不正解の二つしかないが、例えば不正解だと理解できたとしても、それがどこで選択を誤ったかをまた見定めなければ正解への選択肢は導かれない。


  ぐだぐだと書きに書いたが、突き詰めて簡単に言えばコミュニケーションって難しいよね、ということだろうか。こうして難しく考えるから難しいんだろうけど。でも、おにぎり食ってるのにパン食ってるやつにおにぎり美味しいよねと言われる、みたいなのは適当にうなずきつつも納得し切れないものが常に残っているのだからしかたがない。






■おにぎりでもパンでもいいし、ってかどちらでもなくてもいい




  いま書き連ねたおにぎりとパンの話は、いまの自分の中では意味が通っているのだけど他人には意味不明に思えるだろうし、自分さえ、一ヶ月後の自分さえ意味がわかるか妖しい文章だと残念ながら自分で思う。


  しかしまぁ、今の自分は自分をおにぎりだと思ってるかもしれないけど、人間の全身の細胞は一定周期ですべて入れ替わってしまうように、一ヶ月後にはパンである自分になっているかもしれない。だから、一か月前に書いた文章が一ヶ月後にわからないのは当然とも言える。


  自分がおにぎりかパンかどっちなんだ、と迷うことはあるかもしれない。でも、それって自分がそのどちらかだと思い込んでいたり決め付けなきゃいけないと思っているからこそ迷うんだろう。


  自分はおにぎりとパンである必要があるのか?どちらかでしか存在し得ないとしても、どっちでもいいんじゃないか?


  とは言ってもだ、誰だって、こう言っている自分だってそんな簡単に意識の変革はできないだろう。でも、究極に行き詰った時の解決策はそれしかないんじゃないのか。


  おにぎりかパンか、人間かアンドロイドか。そういう区切りを付けないことで、意識の混乱は避けられるのだとおもう。だってどっちでもよくね?と。


  悪く言えば現実逃避とか思考停止だろうが、概念的に見たときの「自己というカタマリ」から一歩引いて見る、あるいは形而下の一段上から見てみる思考と言えばまだ聞こえはいい。いわゆる悟りというのはそういうものかもしれない。



2014-09-14

SFの国でのSFの日

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)




  昨日、京王線芦花公園駅で降りた。世田谷文学館で開催している「日本SF展・SFの国」という企画展に行くためだ。




「日本SF展・SFの国(2014年7月19日(土)〜9月28日(日))」




  中に入ると、なかなかの盛況ぶりだった。なんどかここには来ているが、今までで一番賑やかに見えた。見るからにオタクな大学生グループもいれば、おじさんおばさん、キャピキャピした10代の女の子、子連れの親子と、よくわからない客層だったが。


  そして、展示の内容もなかなかよかった。SFは好きなつもりだが、「日本のSF」と限定して考えてしかも古典的なものがメインとなると、あまり興味はないのであまり期待はしていなかったのだけれど……。でも、入ってみるとワクワクしてくるのだった。


  『SFマガジン』の歴代の表紙が飾られていたり、SF作家の原稿や手紙、マンガの原稿、ハヤカワ文庫や『SFマガジン』の表紙になったイラストの原画などなど。


  『ウルトラマンシリーズ』の「タロウ」か「エース」の隊員が身につけているヘルメットと銃の実物まであって、銃は特に握ってみたくなった。ガラスケースの中に置かれていたので当然無理なのだが。握ってみると、ほんとうに光線でもでそうな気分になる。




  最も印象的なのは、『SFマガジン』の表紙の原画だ。画家の方の名前は忘れてしまったが、確かに思わず見入ったのは創刊号のものだとおもう。何枚も最終稿に至るまでの作品があって、どうにか試行錯誤して「SF」らしい絵にしようという気持ちが伝わってくる。


  しかも、その絵には絵以外にも針金か糸みたいなものが貼り付けてあり、立体感を出している。原画を見てみるとどうも絵としては異物の存在が気になるのだが、実際の雑誌の表紙を見ると気づかないくらいのものになっている。


  展示されている他の絵にもそういうものがあった。確か真鍋博さんのものだった。絵と言っても、写真が切り貼りされていたりいろいろな紙が紙の上に貼られているものなど。


  そういった工夫は「SFらしさ」を表現するための工夫なのだろうか。ジャンル固有のものと言うと言い過ぎかもしれないが、ふつうの「絵」からは外れたものを目指す故の工夫に思える。


  絵画における立体感というのは、印刷物を見るだけでは気づきにくい。そう、なんどか展示を見ていくうちにわかった。油絵だって実物を見るとごつごつと固まった絵具が立体的なのだ。


  その立体感の極端な例でぼくが思い出すのは、2013年の「アメリカン・ポップ・アート展」で見た作品群だ。そこには平面的な絵ももちろんあったが、絵の上にラジオやら家具やらが飛び出すようにくっ付けてあるものがあった。あれは、絵画=平面、という固定観念を崩すために画期的なアイデアだろう。




  絵の方に話が偏ってしまったが、もちろんSF作家についても多く扱われている展示だった。いろいろと読みたくなった。星新一さんや筒井康隆さんなど。


  日本のではないが、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を自室の本の山から引っ張りだしてきた。映画『ブレードランナー』も観て、一度読んだ本だ。でも、展示で飾られていたイラストを見て、なんでこの「電気羊の夢」についての問いかけなんだ?という疑問が沸いてその答えがみつからなかった。だから、また読みたくなったのだ。


  そして、前に読んだ時に思った疑問も解決されず頭の中に淀んで漂っている。それは、アンドロイドはそんなに悪い奴らなのか?というものだ。作中では、どうもアンドロイド=悪という見方しかされていないように思えて、なんだか納得できなかった。


  この二つの疑問のどちらかでも、二度目の読書で見つかればいいものだが、どうだろう。




2014-09-09

マンハッタンへと思っております



エスパニョールの世界まで読んだ。

このこと言えないんじゃないの。

サイコパスまではミリオンです。

ヒューマン鉈は入ってるのがな。

ラザール前にしましょう。

バージニアで時間ありました。

やはり山手線で時間あり。

347ですね。

マンハッタンへと思っております。

退会希望することがこんなに泣いております。

そしてね立ち読み立ち上げ立ち回りしない?

そしてねハンティング大好きだなと、日本産。


予測変換の世界より



2014-09-06

2014年8月の読書

2014年8月の読書メーター
読んだ本の数:13冊
読んだページ数:3813ページ
ナイス数:84ナイス





■フィクション


ギフテッドギフテッド感想
  一気読み系の面白さ。謎の臓器を持った少数の子供たちが見つかり「ギフテッド」と名付けられ、しかも超能力を使えるんじゃないかと噂されるようになる。気味悪がられて差別されるようになる。良い具合にエンターテイメント。人類を「ニュータイプ」と「オールドタイプ」に二分してそこに差別問題が生じる展開は『X-メン』のミュータント問題と同じで、超能力を持った少年たちという設定は『AKIRA』(そのオマージュ映画である『クロニクル』も思い出す)みたいだ。そういうコミカルな設定でありながら『ギフテッド』はシリアスで説得力もあって巧く書かれている。いいものを読んでいい気分です。
読了日:8月31日 著者:山田宗樹


映画「クロニクル」予告編
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悪の法則悪の法則感想
  リドリー・スコット監督によって映画化された脚本。映画は万人受けはしないが個人的にはハマった。悪の法則に巻き込まれていく理不尽さと無情さが見事。この脚本は映画と異なる部分もあるが大筋は同じ。セリフが哲学とか心理学めいていて好みだったので、こうして文章で読めるのはよかった。弁護士と有力者の会話が独特で凄い。「みんなは待ってる。何を待ってるんだろうな。ある時点でこの新しい世界がついに世界そのものになったってことを認めざるを得なくなるだろうに。ほかに世界はない。この新しい世界はただの中断じゃない」。
読了日:8月18日 著者:コーマックマッカーシー


映画『悪の法則』予告編
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妖精たちの夜〈1〉妖精たちの夜〈1〉感想
  理解や常識の外にある小説だった。自動車が魔術みたいになくなり、恋愛の話かと思っていたら戦争や政治の話になり、空襲に巻き込まれ女スパイが出てきて自分もスパイ容疑で尋問にかけられて、一巻目の最後は痴話喧嘩で終わる。一体なんだったんだこの本は、と理解が追いつかない。おそらく現実的に戦争が日常と溶け込んでいた時代、土地。1941年頃のロンドン空襲(通称、ザ・ブリッツ)の場面はその破壊と恐怖と現実逃避にとてもリアリティがあって読みごたえがあった。戦争の物語ではないが日常を書くことが戦争を書くことなのだろう。
読了日:8月9日 著者:ミルチャエリアーデ





封神演義〈上〉妖姫乱国の巻封神演義〈上〉妖姫乱国の巻感想
  児童書版。読みやすくておもしろい。読むきっかけは三田誠さんの『クロス・レガリア』の元ネタにちょくちょく『封神演義』が出てくるようなので。藤崎竜さんのマンガはまだ読んでいないけど、それを原作としたアニメを見ながらなので二つの相違を見比べる面白さもある。中国古典文学としてはなかなか評価してもらえない作品らしく、確かに荒唐無稽な部分はあるが民話も混ざったりしているようでそんなに悪いものではないとおもう。
読了日:8月31日 著者:許仲琳





レンタルマギカ  魔法使いの妹 (角川スニーカー文庫)レンタルマギカ 魔法使いの妹 (角川スニーカー文庫)感想
  <アストラル>現社長の妹がついに登場する話もあって、シリアスな本筋からは離れた短編集ではある。と思っていたら、最後の一話が意外な人物を主人公にした話で不意を突かれる。その人物とは吸血鬼のツェツィーリエ(名前覚えられない)。<オピオン>の一員であり、数巻前で<アストラル>に入社したオルトヴィーンの元師匠でもある。殺し屋が要人を暗殺しにアジトへと潜る、といようなサスペンス映画風のストーリーでツェツィーリエがダークヒーローにさえ見えるシリーズ異色の短編。たまにはこういうのもいい。
読了日:8月31日 著者:三田誠





レンタルマギカ  ありし日の魔法使い (角川スニーカー文庫)レンタルマギカ ありし日の魔法使い (角川スニーカー文庫)感想
  <アストラル>先代社長・伊庭司の頃の過去編。<オピオン(螺旋なる蛇)>が本格的にストーリーに絡んでくる巻と言えるのかな。<オピオン>の構成員はネクロマンサー、幽精(ジン)術の使い手、密教僧など<アストラル>と同じく多彩な魔法使いがいて、敵であり凶悪でもあるが魅力的なキャラクターが多い。こうして分かり易いストーリーを読みながら、いろんな魔術関係の説明を読めるのはなかなか稀有な本で個人的に嬉しい。
読了日:8月31日 著者:三田誠





レンタルマギカ―魔法使いの記憶 (角川スニーカー文庫)レンタルマギカ―魔法使いの記憶 (角川スニーカー文庫)感想
  短編集。この巻くらいから<アストラル>の面々過去が明らかになっていく。猫屋敷も柏原も多重人格かってくらいに時間と状況で人格が変わる。時間という縦軸に広がりが出てきたことで物語に更なる深みが生まれるようだ。
読了日:8月31日 著者:三田誠





レンタルマギカ―魔導書大全 (角川スニーカー文庫)レンタルマギカ―魔導書大全 (角川スニーカー文庫)感想
  11巻『妖都の魔法使い』と12巻『魔法使いの記憶』の間に刊行された本編とはあまり関係のないファンブックのようなもの。イラスト多数、短編と絵本調のお話、ラフ集。イラストは綺麗で『レンタルマギカ』の世界観が詰まっていていい。今はなき『ザ・スニーカー』に載って文庫に収まってないものもあるんじゃないかな。猫屋敷と四匹の猫たちの出合いから始まる絵本みたいなお話がなかなかよかった。
読了日:8月31日 著者:三田誠





精霊の守り人 (新潮文庫)精霊の守り人 (新潮文庫)感想
  神山健治監督のアニメは良い出来でストーリーは知っていたが、原作も面白かった。というかアニメが全26話なのにこの一冊で完結していることに驚く。異界も含めて創造された世界観が味なのだろうが、シリーズものと言ってもオリジナルの世界というのはどこか読むにあたって虚無感が残る。上橋さんの場合は経歴による説得力もあり、民族・民俗学的な深みが多少はあるが。朝鮮文化をアレンジしたような作品内の文化は少し嫌悪感もあるがやはり新鮮。機会があればつづきも。
読了日:8月31日 著者:上橋菜穂子





GOTH 夜の章 (角川文庫)GOTH 夜の章 (角川文庫)感想
  初乙一。単行本を二分冊した文庫の一冊目。エグくてグロい。ライトノベルともミステリーともホラーとも言い切れない、良くも悪くも中二病小説。これを純粋に楽しめるのは、リアル中二病世代くらいじゃないのか。悪趣味な少年と少女はダークヒーローとヒロインとも呼べそうで、そうやって一歩引いて構造的に見れば面白くもあるが。これを読んだきっかけは『ミステリーの書き方』で触れられていて面白そうに思ったから。
読了日:8月22日 著者:乙一




GOTH 僕の章 (角川文庫)GOTH 僕の章 (角川文庫)感想
  単行本二分冊の二冊目。人間の振りをした妖怪少年と霊感が強いために妖怪が近寄ってくる女の子の妖怪大激突(作者談。半分冗談)。猟奇的な事件だらけ。読んでいないけど、乙一さんが『JOJO』の小説を書いているのが納得できる。犯罪者たちの猟奇的な行動や心理、残酷さの描写など。ミステリー自体がそうだけど、度を越すがゆえに殺人や殺戮行為のリアリティを欠いていて時に滑稽にさえ思える。「声」では主人公の「僕」が殺したと思っていガッカリしていたがちがったのかな。しっかり読み込む気が起こらない話だったが。
読了日:8月22日 著者:乙一





■ノンフィクション


2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)  2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)感想
 2045年テクノロジカルシンギュラリティ技術的特異点)を超えることによってコンピュータの能力が人類を超えるという説をテーマに、人間とコンピュータの在り方について。雑誌『WIRED』と映画『トランセンデス』の影響で読むことに。普段触れない分野だから知らないことだらけだったが、そういう人向けに解説も多く映画を例えにしたりして書かれているので面白く読める。しかし、2045年問題が本当に起こるとしたら深刻な問題だが、無知でそしてのんびりしていいいのかと不安に思う。常識というのは可塑性なものとは言え。
読了日:8月31日 著者:松田卓也





チベットのシャーマン探険チベットのシャーマン探険感想
  写真家によるチベット仏教圏のシャーマンへの取材と旅行記。エリアーデの『シャーマニズム』で様々なシャーマンや巫術を知ってはいたが、現代でも神憑りやエクスタシー(忘我)などの儀式が行われ、なおかつ病気治療、相談事などの依頼者である一般人もそれを信じていることに驚く。記録として貴重なものだろう。写真が豊富なのもいい。明確な年代が一切記されていないのが疑問だが、おそらく1970年代から90年代くらいの記録。この本の写真で見る限り、チベットは風景が綺麗で壮大なもので一度は行ってみたくなる。
読了日:8月22日 著者:永橋和雄





読書メーター





ギフテッド

ギフテッド

2014-09-03

つぎのまえの文学界

文学界 2014年 09月号 [雑誌]

文学界 2014年 09月号 [雑誌]


つぎの『文學界』が出るまであと数日だ。

ちなみに文芸誌の発売日はわたしが知るところ毎月7日。

ということで、焦って読み終わっていなかった

2014年9月号の『文學界』を消化しようとするここ数日。

挟まった紀伊國屋のレシートによると買ったのは8月8日。

ハハ。


順調に読んでいって最後の方に載っている、

円城塔さんの『プロローグ』。

これは、買ってからすぐに読んでおいてので飛ばそーっと。

っと、思ったが中をちらりと覗くとあまり見覚えのない文章ばかり。

焦る。


読んだはずなのに。

ちなみに第五回目の連載。

もしや、わたしが読んだ後に内容が書き変わってしまったのか。

それともわたしが読んだと思い込んでいるだけなのか。

とうぜん、後者だろう。

わたしの勘違いだ。

決して、『プロローグ』の第五回目にAとBというような

二つのパターンがあるわけではないだろう。

ましてはAKB商法みたいに48通りの種類があるわけもあるまい。

ランダムで選ばれた小説を読む読者の気持ち。

考えたこともない。

書く側とすれば、それこそ機械に書かせたいところだろう。


しかし、この『プロローグ』というのは面白い。

真面目にふざけているような内容だ。

私小説にクエスチョンの付く類のものだ。

面白い、が先が気になる話ではないし、

そもそも話が繋がっているのか五回目にしてよくわからない。

登場人物も多い、というか忘れていることもあって把握しきれていない。

だから、仮にこの五回目を読み飛ばして永遠に気づかずとも

なにも問題ない気もするのだった。

でも、そういう感覚になる小説も悪くはない。

『プロローグ』自体がそういう小説であり、そういう考え方をさせられる。


そうして五回目を頭の中では二度目の気分で読み始める。

やはり読んだことはなかった。

すくなくとも、わたしがこのわたしである限りでは。

そして、相変わらず狐につままれたような気分になる読後感だ。

そういう感覚はそうそうない。

小馬鹿にされている気がするけど怒る気はしない。

知的なイタズラだ。


一冊を通して最後の方に来たので読み終わった気分でもあるのだが、

なんだか消化不良な気もする。

雑誌なのですべての掲載物を読むわけではないが、

なにか読みたいもの、読むべきものがなかったか探す。

文學界』で言うと、創作小説は連載にしても短編にしても飛ばしがちだ。

読みたいとおもう小説は限られているのだ、意外に、残念ながら。

藤沢周さんと円城さんを読むために買っているようなものなのだ。

そうして、まだ読みたいものがあったのを見つけた。

これを読んで9月号は読了としよう。

小谷野敦さんの中編(?)小説「ヌエのいた家」。


そして毎回読んでいる穂村弘さんの連載コラム「も詩も詩」は

あいかわらず今回も面白かった。

言葉を意外な視点から切り取って取り上げてくれるので、

言葉の面白さを度々再認識させてくれる。

穂村さんのものはまだ一冊の本を読んだことはないので、

近々なにか読みたいとおもう。



前号が消化しきれていないせいで

数日前まではつぎの『文學界』の刊行がゆううつだったが、

いまでは楽しみになってきている。

7日以降の書店へ早く行きたくなっている。