sibafutukuri アニメとか音響音楽とか このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-04-07

現実の誤読

  2014年3月19日のツイートより。


  宮台真司さんの『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の第三章では現代人の現実の捉え方と嫌な現実への対処法が書かれている。対処法として分析されているのは二通りあり、非現実(フィクション)への逃避と現実を変えてしまう、というもので、後者はオウム真理教のやろうとしたことだという。


  ぼく自身は、現実から逃げてフィクションへと没入するタイプではある。そこは変わらないが、しかし、現実への対処法としてもう一つの手段があって、それは現実をフィクションに読み替えることだ。自分の中で現実をフィクション化するとも言える。一言で悪く言えば妄想。


  妄想と言ってしまうと目の前のピーマンから目を背けるような現実逃避と思いがちだが、現実のフィクションへの読み替えはあながちそうではないかと思いつつある。


  映画『マトリックス』の虚構世界の演出として、現実的な風景が蛍光緑の文字へと変化するものがある。あの文字列はプログラム言語を表しているのであり、プログラムを変換することでそのただの文字列が風景になったり生物に見えたりする。


  ぼくが頭の中でやっているのはその反対に近い。現実をプログラム言語の文字列としてそれを自分の頭で変換するのだ。そうすればピーマンがメロンになるしそれに手足さへ生えさせることもできる。誤読なのだ。言ってしまえば現実の誤読。


  でも、目の前のピーマンが誰しもただ同じピーマンと認識していると考えることが傲慢さによる思い違いだろう。ぼくらが雑草として見過ごすものでも、それには名前がありそれを生活に役立てる人がいてもおかしくない。ぼくらにとってそれは現実の誤読だが、虹の色は七色と決めて生きるのはつまらないだろう。


  座禅による瞑想のように現実のフィクション化は決して革命は起こせないが、つまらない現実をすこしでも楽に楽しく死ぬまで過ごす生活術にはなり得るとおもう。




  さいきん、ツイッターなどのネット上に書く文章でやたらと「フィクション」という言葉を連発している気がして、なんでかと考えたら以上のような発想に至った次第。


私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

2014-04-04

2014年3月の読書

2014年3月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3183ページ
ナイス数:121ナイス




■フィクション
新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)感想
  映画化されたジャック・リーチャーシリーズ『アウトロー』の原作一作目。しかしいきなり殺人罪で逮捕されるリーチャーに驚き。そしてまさかの兄が登場。リーチャーは警察や組織の外部から事件を追うキャラクターなので、探偵小説の内に入るのだろう。彼のクールでハードボイルドで冗談も言うキャラに憧れ、事件は謎に満ちているので文字を追うのが楽しい。『アンアン』2013年12月の本特集のインタビューで村上春樹もこのシリーズを読んでいると答えていて、なんとなく嬉しくなる。ただ邦訳されているものが少なく品切れもあるのが残念。
読了日:3月17日 著者:リー・チャイルド




新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)感想
  事件の謎が解ける寸前とその直後が頂点。極限のカタルシス。謎を追う過程、伏線の張り巡らし方、その答えの意外さ。すべての流れのバランスが良くなければ辿りつかない領域を体験した。その完璧さに感動さえ覚えた。しかし、犯行手口や犯人がわかってからの作戦の描写は結果がわかってしまっているから敗戦処理的なものになるのだが。本シリーズのジャック・リーチャーは完璧でもないし、大きな犯罪を潰すために小さな犯罪を繰り返し殺人までするが、その陰を背負った姿が格好良く見えるのか、実に魅力的な正義の味方だ。
読了日:3月25日 著者:リー・チャイルド




極北極北感想
  仮に数百年後を書いた物語だとしても、語り手が雪に覆われた陸の孤島の住人ならばその進んだ文明や時間が目立つことはない。文明の崩壊が彼女の周りでは起こっていて、それはディストピア的なSFらしく見える。舞台はロシアとその周辺というのは固有名詞が出てくるのでわかるが、時代は近現代か現代か未来か、その捉え方は読者次第。展開は意外だが終始暗い物語であり、文学ではあろうがストーリー重視なため楽しくはない。ただ、以上のような世界観が面白く背後にある原発、戦争などの社会的なテーマが興味深い。村上春樹のとても読み易い訳。
読了日:3月25日 著者:マーセル・セロー




想像ラジオ想像ラジオ感想
  『文学界2014年1月号』の柄谷行人いとうせいこうの対談で強く興味を持った本だが、残念な出来だった…。明らかに3.11被災者たちを中心に語っていながら、地震津波原発放射能という単語を全くあるいはほとんど使わない。それは当事者の意識としては半分正しいが、はやり不自然さはあってそれが痛々しくもある。この本は津波や戦争の被災の話でしかなく、彼らの新興宗教的かつ感傷的ななぐさめにしかならず、ただただ生温い。この本の話題性というのは3.11的なパニックと同様で、一冊の本としての価値はゼロに近い。
読了日:3月15日 著者:いとうせいこう




永遠の0 (講談社文庫)永遠の0 (講談社文庫)感想
  戦争はいやだなぁ、と思わせる小説。それを伝えるには十分な出来だろう。これから戦争を起こさないためにはどうすべきか、せめて加担はしたくないと考える。加担するくらいなら、座禅を組んで瞑想をし続けたほうがいい。それが何を生み出さないとしても、無とか無駄という美徳がある。特攻隊員のエピソードは実に悲惨でその物語に夢中にさせる。でも、現代の子孫たちの話は蛇足に思えるし、全体的に無駄に長すぎる。半分読んだらそれ以降は10倍の速さで読んでいいくらい。この本は面白いし好きだが、長すぎるところだけが残念。
読了日:3月11日 著者:百田尚樹




文学界 2014年 01月号 [雑誌]文学界 2014年 01月号 [雑誌]感想
  読んだ:柄谷行人いとうせいこうの対談「先祖・遊動性・ラジオの話」、藤沢周「化野(あだしの)」、穂村弘「も詩も詩」など。柄谷×せいこうの対談、面白い。柄谷『遊動論』おすすめ。はやく『想像ラジオ』を読みたい。穂村弘さんはここでくらいしか読まないが、毎回地味におもしろい。詩とその解説によって、常識とか現実とかを別の角度から見せてくれて、ハッとする瞬間がある。文芸誌を読むと当然知らない作家の方がたくさん載っていて、奇跡的な巡り合いもあれば、こんなにも自分に響かないつまらない小説もあるものかと不思議にもなる。
読了日:3月11日 著者:




タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫 SF 262)感想
  ユーモアがありニヒルで厭世的で荒唐無稽でスペースオペラで幻想的でSFで。爆笑問題太田光さんが紹介していて気になっていて読み始めたが、彼の解説が付いていない古い版というのが残念。時間も宇宙の移動距離も壮大で、キャラクターがばらばらに生きていて、追いつこうとしたが途中で断念した。
読了日:3月10日 著者:カート・ヴォネガット・ジュニア




タイム・パトロール (ハヤカワ文庫 SF 228)タイム・パトロール (ハヤカワ文庫 SF 228)感想
  「西暦19352年、ついに時間航行の方法が発見された」。そして始まる人類の時間旅行。なんだか「タイム・パトロール」という名前が『ドラえもん』でも出てくるし、カバーのイラストも「正義の味方」っぽいので小馬鹿にしつつ読み始めたが、中身は凄く真面目で歴史の知識がないと分かりづらい。時代は遥か未来から紀元前へと振り幅が大きいし、世界の様々な土地を舞台としている壮大なタイムトラベルもの。こんな縦にも横にもキャラクターが文字通り縦横無尽に移動できる小説を書こうとする意志が凄い。難しいが面白い。
読了日:3月2日 著者:ポール・アンダースン




■ノンフィクション
私たちはどこから来て、どこへ行くのか私たちはどこから来て、どこへ行くのか感想
  講演、講義などを基にしてまとめられた本。サブカルについて語られている部分も少ないがあって、そこらへんは付いていけるが政治になってくるととても難しい。でも、社会学としてしっかりとした内容になっていて勉強になる。宮台真司の思想として偏っていそうだが、そこは第三者的な注釈によってある程度中和されている。この本の刊行を記念した講演も聴かせていただいたのだが、その話にしても本にしても知らないことも聴いても一度ではわからないことも多々あり、未知の領域の広さを実感した。やはりサブカルを語っている第三章がお気に入り。
読了日:3月25日 著者:宮台真司




森の食べ方―熱帯林の世界〈5〉森の食べ方―熱帯林の世界〈5〉感想
  東南アジアボルネオ島の奥深くの森に住む焼畑稲作民のイバン。イバンの農業や食生活などが、(このシリーズの他の巻と比べて)わりとしっかりと記録されている。分析的な目線が強いが、他の巻にあるようなエッセイ的な面が弱いので面白味に欠ける。組立てが簡単なロングハウスに住んでいるのが特徴で、ある程度の範囲を周期的に移住しつつ暮らす。
読了日:3月10日 著者:内堀基光




読書メーター


アウトロー 上 (講談社文庫)

アウトロー 上 (講談社文庫)

新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)

新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

2014-03-30

フィクションとしてのファッション


  2014年3月19日のツイートより。




  今月のファッション誌『GINZA』(2014年4月号)は「ファッションが恋したアートの話」という題の特集で、つまりファッションとアートなんだけど。店頭で開いた瞬間、まさにアートな写真が出てきてこれはヤバいと思った。目が見開いて目が覚めた(帰りの電車で寝たけど)。『GINZA』を初めて買った。


  岡本充男という方の撮った写真が特にいい。ポーズはジョジョを思い出す。そして顔面は髪の毛の残像のようにメッシュで覆われることのように、モデルの顔面がフィクション化されている。人間と人形の中間的存在で、かつ美しい。




f:id:sibafu:20140330170457j:image:w360
(Photo by Mitsuo Okamoto)




  そして書店のコミックスコーナーに行ったら『ジョジョリオン』6巻が出てて驚き、そして買う。しかも4月から三部アニメ放送開始と知り、嬉しい。


  『ジョジョ』は例えばモデルのポーズを丸パクリしていたりするほどファッションから影響を受けているわけだけど、逆に『ジョジョ』からファッション方面への影響も出てくるのかな、と思い想像してみると楽しい。


  すでに『ジョジョ』はファッション誌とかのコラボをたまにしているが、やはりまだファッションという文化に従属して内包されているだけの印象を受ける。マンガを超えたオリジナリティを期待してしまうのだ。


  ファッションはフィクションなのだ、と気づかせてくれた人がいて環境があり、前まで苦手でむしろ毛嫌いしていたが今では興味が湧いてくる。直接言われたわけではないがファッション好きの知人に影響されて、「ファッションはフィクションである」という持論を密かに持つようになった。


  実用性、利便性、日常性にこだわらず、フィクションあるいはアートあるいは物語として、ファッションを見る。それでやっと自分に合った見方を見つけられた気がする。極端に言えば絵画、写真、映画とファッションは変わらないのだと。というかそれらを見ればファッションを見ることにもなるのだから。




f:id:sibafu:20140216135251j:image:w500
(Photo by Mitsuo Okamoto)




http://twilog.org/sibafu_gokyo/date-140319


http://www.mitsuo-okamoto.com/index.html


http://mitsuo-okamoto.tumblr.com/




ジョジョリオン 6 (ジャンプコミックス)

ジョジョリオン 6 (ジャンプコミックス)

2014-03-02

2014年2月の読書

2014年2月の読書メーター
読んだ本の数:11冊
読んだページ数:2667ページ
ナイス数:48ナイス





■フィクション


オラクル・ナイトオラクル・ナイト感想
  貴重で新鮮な読書体験をした。物語内物語が大好きなオースター。今まで読んだ『ムーン・パレス』、『幻影の書』でもよく登場した手法だが、本書でもいくつものフィクションがこの本の中にありそして最も巧く物語に絡み合っていて見事。物語の中の物語は複雑で頻繁で混乱をもたらすが、それらは全て主人公を通して存在し、しっかりと結末に繋がり整合性もある。ぼくはどこが現実か見失った。虚構性を強調し尽くすことで現実性を得ることがあるのだと気づかされた。主人公が自分のように感じそこにある一次世界までが現実と思える。今までにない感覚。
読了日:2月13日 著者:ポールオースター


「ポール・オースター 『オラクル・ナイト』 ―n次世界の氾濫による一次世界への自覚―」(2014.02.24)





ジップ&キャンディ―ロボットたちのクリスマスジップ&キャンディ―ロボットたちのクリスマス感想
  キングコング西野亮廣さんの絵本で、読むのは三冊目。これは一冊で一つのお話。主人公が新型ロボットでヒロインは旧型ロボット。やはり西野さんはSFが好きなのだろうか。ヒロインのキャンディは性能の低いロボットで記憶できる容量が限られていて、そこが切ないロマンスのキーとなっている。なんとなく『メメント』や『博士の愛した数式』を思い出す。主人公ジップはピノキオみたいに人間になるのかと思ったが……。絵は相変わらず濃密で巧いが、白の装丁のせいかやや開けている印象。ストーリーは他と比べて典型的で少し物足りない。
読了日:2月13日 著者:にしのあきひろ





オキナワの少年 (文春文庫 ひ 3-1)オキナワの少年 (文春文庫 ひ 3-1)感想
  1971年下半期芥川賞受賞作。上原隆さんのルポ『友がみな我よりえらく見える日は』で知った作家。ホームレス同然の生活をしていたとか。アメリカ占領下の沖縄に住む小学校高学年くらいの少年が主人公で、彼の主観で語られるわけだがその文体がすごくよくて話にも合っている。沖縄のたまに全く意味不明なほどの方言まじりで売春宿の実家などへの不満など、感受性という液体を一粒も漏らさず生々しく綴る。この物語にこの文体は完璧とさえ思える。読んだ甲斐があった。この独特の日本でもありながらの異文化性は思い出してまた読みたくなりそうだ。
読了日:2月13日 著者:東峰夫





虹の岬の喫茶店 (幻冬舎文庫)虹の岬の喫茶店 (幻冬舎文庫)感想
  『あなたへ』小説版の著者。岬にあるお婆さんが経営している小さな喫茶店を中心とした六つの物語。キャラクター、物語ともに典型的で、物語の構造やテンプレートの存在を気にしてしまう。だから純粋に読書を楽しむには至らなかったが、逆に考えれば物語のテンプレを改めて意識するには良い機会だった。それに、テンプレ通りに書くのも技術がいるだろう。例えは悪いが「職業軍人」的意味で「職業作家」という印象を受ける。
読了日:2月28日 著者:森沢明夫





15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)15×24 link one せめて明日まで、と彼女は言った (集英社スーパーダッシュ文庫 し 5-1)感想
  ネット心中を企む少年をきっかけに始まる15人の24時間。海外ドラマの『24』などに影響されていそうな、ライトなサスペンス。『サマー/タイム/トラベラー 』はとてもよかったのだが、こちらは何かが物足りない。スピーディーさや展開が気になる点は良いんだが。6巻中の一巻目。読んでいて思ったが、ミステリーとかこういう話は誰かが死んだりするわけだが、死を物語の目的にしているためなぜか全体としては結局軽い印象を受ける。良くも悪くも。そもそも、人の死をフィクションで「使う」ということが悪く言えば「遊び」になるのだろう。
読了日:2月13日 著者:新城カズマ





■ノンフィクション


移動祝祭日 (新潮文庫)移動祝祭日 (新潮文庫)感想
  晩年に書かれた小説風エッセイ、ヘミングウェイのパリ時代。フィッツジェラルドジョイスエズラ・パウンドガートルード・スタインなどが親しい友人として登場。(実は金があったという説もあるが)貧困さは意外で驚いたが幸せそうなパリでの結婚生活。ヘミングウェイの作家修業時代でもある。フィッツジェラルドがとても阿呆な人物として描かれていて、ヘミングウェイはたまにキレているんだけど二人の関係が滑稽で面白かったり。ここで語り切れないほど面白くて名著。ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』の原案のようなもの。
読了日:2月13日 著者:アーネストヘミングウェイ





遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)感想
  『文学界 2014年1月号』の柄谷行人いとうせいこうの対談で興味を持った本。『遠野物語』や民俗学者として知られる柳田国男だが、それ以前に東大で農政学を学び農商務省官僚として働いていたというのが意外だった。その頃の柳田は真摯に国の未来について考え、農業によって変えようと活動していたようだ。「山人」(山に住む天狗のような人々?)や狼が残存しているなどのトンデモ論を持ち出して嘲笑されていたりするのも面白い。短い文章に色々と情報が凝縮された本で、読み切れたとは言えないので、もっと理解できるようになりたい。
読了日:2月28日 著者:柄谷行人





話す写真 見えないものに向かって話す写真 見えないものに向かって感想
  石灰石鉱山の発破の瞬間の写真集『BLAST』や東京の半地下の川の写真、東京の俯瞰写真などを撮る写真家、畠山直哉さんの講演集。そのテーマは自身の作品について、写真の歴史、光と写真について、写真と建築物、アートとはなにか写真はアートかなど。とりあえず漠然と写真というものに興味のあったぼくにはちょうど良かった。良い写真を撮るために写真家がいかに苦労していかに創意工夫しているかがわかる。畠山さんの写真をもっと見たくなり、自分でも写真を撮りたくなる。しかし写真というものへの意識のハードルが上がってしまうのも事実。
読了日:2月2日 著者:畠山直哉





人は死なない−ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索−人は死なない−ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索−感想
  医者による医療(前半)とスピリチュアル(後半)な本。「人は死なない」とは医療的に考えれば間違いだが、スピリチュアルとか神秘学的に考えれば正しい。著者はある意味で医療を究め人に施せる医療の限界を知り、神秘の世界に方法を求める。マッドサイエンティスト的。一歩越えればあぶないオカルト本になりかねないが、この本はぎりぎりマジメな本になっている。でも、この手の本は受け手にとっては誤解を生むだろう。神秘学とかに興味があるので面白かったが、例えば「人は死なない」という言葉の危険性は無視できない。登山の話が特に好き。
読了日:2月28日 著者:矢作直樹





L.A. (文春文庫PLUS)L.A. (文春文庫PLUS)感想
  イラストレーターの佐々木悟郎さんによる自伝的小説。主にアメリカでのアートスクール時代の話。エピソードの間に、たまにパステルカラー彩られた輪郭のぼやけたイラストが挟まる。古本でジャケ買いしたが、なかなかよかった。ふとした時間の隙間に読むのにちょうどいい。「昭和のアメリカ」と言えるような文化の混在した雰囲気が、わたせせいぞう村上春樹に近いかもしれない。
読了日:2月28日 著者:佐々木悟郎





映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)感想
  映画や写真に関するバルトの文章をまとめた本の文庫版。バルトの本の中でぼくはこれが一番嫌いで一番の駄作の失敗作だとおもった。非常にもったいない。なにより蓮實重彦という人が大嫌いなのだと自覚した。嫌いな人が訳したり書いた文章をまじめに読む気になれるだろうか?蓮實重彦という人は難しい文章を難しくしか書けない人だ。紙の上に権威としてしか存在できない。実にくだらない。もう一人の訳者、杉本紀子さんの「文庫版訳者あとがき」は個人的なバルトのエピソードがあり好きだったが。
読了日:2月9日 著者:ロラン・バルト





「読書メーター」


オラクル・ナイト

オラクル・ナイト

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

話す写真 見えないものに向かって

話す写真 見えないものに向かって

2014-02-24

ポール・オースター 『オラクル・ナイト』 ―n次世界の氾濫による一次世界への自覚―

オラクル・ナイト

オラクル・ナイト




  ポール・オースター『オラクル・ナイト』。中盤か後半まで退屈でうんざりしていたけれど、それ以降は本当に凄かった。個人的な体験としてだけ、かもしれないが。アトラクションやインスタレーションアートみたいに、一つの身体的な「体験」としての読書がそこにあって、こんな読書もあるんだと驚いた。


  突き詰めれば一般的に言われているフィクションも現実の内なのだと。それは当然で、便宜的に現実とフィクションを分けているにすぎなくて、考えてみればそれは当然なんだけど。


  でも、それを気づく過程が、物語の一次世界から並立されているいくつものフィクション=二次世界を読むことによって物語内の一次世界を現実の一次世界として錯覚してしまう、というそういう一連の体験というのがかつてないもので、嬉しくもあり不気味でもあった。


  『オラクル・ナイト』の作中後半で、小説などでも発した言葉でも、それが発せられたことでその言葉を現実にしてしまう、という意味のことが悲観的に語られている。つまり物語を書くという行為は、フィクションを作っていながら未来に繋がるこの現実を作っている、ということでもあると。いくら拒んでも、発言をすれば未来の生成は免れられない。


  フィクションは現実である、という結論は当たり前のことで面白くもなんともない。でも、『オラクル・ナイト』によるその結論に至らせるまでの読者に与える読書体験というのは類稀なものと言っていいだろう。逆説的に、物語の中へと深く入っていくことで物語の外へと越えて、開かれていくとも言える。


  読者である私の身体が、『オラクル・ナイト』を読むことでどこの世界にも行けるのだ。現実をも含めて、この小説の物語も物語内物語もn次世界と一言で言うことができ、私がどこか一つの世界に留まることは許されない。この潜る行為と超えるというメタ的な行為の同居性を持ったこの小説は、「作品」という概念を懐疑的に広げていくインスタレーションアートの形に近いと思うのだ。


http://twilog.org/sibafu_gokyo/date-140213




  はい、以上がツイッターで連続投稿した感想ををまとめたものです。改めて、付け加えを以下に。




  2月に発売されたばかりの宮台真司さんの『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という総合的な評論の本を読んでいる。その中に、上に書いたオースターの小説によって考えた、現実と虚構の関係性に関連のあるように思える記述があった。


  それは、現代の日本人にとって現実と虚構は同じくらいの価値のものになっている、ということ。かつて現実は至高であり絶対的な概念だったが、オウム真理教や『エヴァンゲリオン』が登場した90年代半ば、そしてセカイ系が流行ったゼロ年代初頭頃、という時代の流れで私たちは現実と虚構を並べて考えるようになった、と宮台さんは書いている。


  そんなこと考えたことなかったが、言われてみればそんな気もする。例えばインターネット。ここは仮想空間だろうが、延長した現実とも言える。そして、ゲームはポリゴンなどの発達した技術でリアリティを増し、映画は3Dによって客席との距離は縮まった。


  なぜ現実と虚構を等価に考えるか、という宮台さんの分析が当たっているかはわからないが、等価に考えている、あるいはそれに近い思考をしていることは事実だろう。でなければ、オースターの小説の物語も物語内物語も現実だとは間違いなく思わないだろうから。


  現代人の思考が現実と虚構の区別をしなくなっていることを踏まえて、『オラクル・ナイト』を考えると、実にこの今の時代に合っている作品であり、成功した試みと思える。


  ひたすら物語内物語を書き続けている印象のあるオースターだが、私はやっと彼のクセのある作法によって書かれた小説に追いつけたような気分だ。あるいは、『オラクル・ナイト』によって彼の執着した演出方法が成功による帰着を迎えた、というとでもあるかもしれない。




私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか