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2016-10-03

『君の名は。』の成功は、オタクの理想の女性像を封印したことにある。

新海誠監督作品を2002年の『ほしのこえ』から見続けている人間として、『君の名は。』は本来なら封切直後に見に行くべきものだったが、『秒速5センチメートル』以降の作品によるトラウマによって見るのが怖かったのと多忙とで、劇中で瀧くんが奥寺先輩とデートしていたとされる2016年10月2日にようやく見ることができた。

同じく『秒速5センチメートル』ショックを受けた友人たちから「今度は安心して見られる」という重要な情報と、ネットから否応なしに入ってくる「男女入れ替わりがモチーフである」という情報、そして興収100億円突破、つまり世の中的に作品として大成功をおさめたという情報以外の事前情報はなるべくシャットアウトして素直に見たのだが、これがとてもおもしろかった。

新海監督作品は前作の『言の葉の庭』で興収2億円弱、『秒速5センチメートル』で興収1億円程度でしかなく、それが日本のアニメ映画としてジブリ以外で初めて興収100億円を超える大ヒットとなった理由はなんだろうというのを見終えてからずっと考えていた。ネット上では「東宝が配給したから」「もののけ姫作画監督が携わっているから」「RADWIMPSのミュージッククリップとしてのデキがよかったから」という意見が散見されるが、僕は今作で新海監督が自らの理想の女性をキャラクターに投影することを封印したことこそに成功の本質があると思っている。

オタク特性として「理性の女性像を自らで構築して、それを追い求めている」というものがある。それは男性にとって都合の良いリアルには存在しない女性像である。こういった男性視点の女性像を求めることは童貞臭いとも言われ、女性から「気持ち悪い」と言われる一般的に非常にウケの悪いものだ。大抵のオタクはそれはあくまで「観念的なもの」であり、そんな自らにとって都合の良い女性が現実にいるわけもないことは分かっているので、その代償を二次元ヴァーチャルな世界に求める。新海作品は一見、キャラクターの造形によるオタク的な記号性(必要以上に大きい胸など)はないように見えるのだが、むしろキャラクターの内面の部分においては濃厚にオタク的な理想が追及されていると言ってもいい。新海監督作品はそういう理想の女性像を求めながら、それを「理想ゆえに決して手に入らないもの」と作品の中で明確に示してしまったこと、つまりあえて突きつめなくてもいい現実を突きつけてしまったことが、オタクたちに前述の『秒速5センチメートル』ショックを与えた大きな要因でもある。

今作の主人公である瀧と三葉は、キャラクター付けとして非常にフラットで一般的な存在である。東京という都会に暮らす高校生と、鄙びた地方に暮らす高校生に共通する性格づけはなされてはいるものの、キャラクターそのものの個性やそれを語るためのエピソードは極力排されている。またオタク特有の性的な嗜好性を感じさせる描写も極力排されている。(唯一あるとすれば口噛み酒なのだが、そこは今作における監督の最後の砦なのであろう)瀧が三葉に入れ替わって胸を自分でもむシーンは健康的な思春期の男子ならごく当たり前の行為であるし、瀧が憧れる奥寺先輩も思春期の男子が憧れるステレオタイプな女性像であり、オタクにはウケの悪いであろう煙草を吸う描写を見せることや黒の下着を身に着けていることは、むしろ奥寺先輩をリアルな女性として描くことに成功している。瀧においても過去作の主人公のような特殊な(得てしてオタクっぽい)スキルや能力は持ち合わせていないし、2人の友人たちも特にオタクでもヤンキーでもない。

瀧と三葉は最終的には恋に落ちるわけだが、最初からそうだったわけではない。もちろんお互い好みの顔であった可能性はあるのだが、作中で最初から相手を好意的には表現していない。それが最も分かりやすいのは、三葉が瀧に会いに行き、電車で出会うシーンで瀧が最初三葉を拒絶するシーンである。もちろん瀧が奥手で子供だからというのはあるだろうが、電車で女性から話しかけられて好意的な反応をしない、というのはリアリティがある。彼らは最初から理想の相手を求めていたわけでもなく、最初から惹かれあっていたわけでもなく、相手との接触時間が増え、相手が気になりはじめ、ドラマチックな体験を共有したからこそ恋に落ちたのである。(作品ではそれを結びと表現している)そこに理由はなく、これはあくまでもリアルの恋愛のプロセスそのものである。

新海作品の「男性と女性との心の距離」というテーマはほぼ全ての作品に共通しており、『君の名は。』でもそれは一貫している。『君の名は。』が大ヒットできたのは、「オタクの理想の女性像」を封印して誰もが感情移入できるメタ的なキャラクターで物語を展開することで、もともと持っていた新海監督の才能をうまく引き出し、客層を飛躍的に広げることに成功したからである。作画監督安藤雅司、「心が叫びたがってるんだ。」のキャラクターデザイン田中将賀、そしてRADWIMPSは、オタク的な要素を排除するために必要だっただけであり、マスに受け入れられると判断したからこそ、東宝が配給を決定したのに過ぎない。

新海作品では「喪失」がひとつのテーマであったが(ご本人にも以前直接確認したのだが、個人的には村上春樹的なこじらせ方をしていると思っている)、今作で瀧と三葉がお互いを見つけたように、新海監督も今作で喪った何かを見つけたのかもしれない。次回作が試金石になるだろうし、そのプレッシャーはものすごいとは思うが、今は「君の名は。」の大ヒットおめでとうございます、と昔からのファンとしてはお祝いを申し上げたい。もしこの作品を感受性豊かな10代の頃に見ることができたならば、それは一生心に残るようなものになるだろうし、そういう点で今の10代がうらやましいと思った。


−以下は、まとまりのないまま、思いついたことを書き並べていく。

新海監督の強みは客観的な現実を主観的に描くことである。目に見える夕陽や月の美しさをカメラで撮ったとき、あまりに目で見ている風景と異なるものが写っていることにガッカリした体験は誰しもがあるが、それらの美しい風景は目で見ているのではなく脳で見ているからである。新海監督はありふれた現実の風景を非現実的に描くことで、より脳や心に訴えかける作品作りをしてきたが、それがInstagramのフィルターや写真の画像加工で現実を非現実に加工している10代の心を強くつかんだのではないだろうか。僕は地方出身で大学に通うために上京してきたが、東京に出てきてまずしたことは完成直後の都庁を真下から見上げることだった。新宿高層ビル群は地方出身者にとって現実でありながら、非現実的なものの象徴であり、都会への憧れの象徴である。今作で新宿高層ビル群が登場するが、長野出身の新海監督にとってもそれは同じ存在だったのだろう。東京に長く住んでいるとそういうことを忘れてしまうが、改めて何気ない普通の風景の美しさというものを新海作品に気づかされた。そしてこれだけたくさんの人がこの映画を見たことで、今後はこの新海監督の絵(美術)を見るだけで「これは新海作品である」と認知されたことは、今後の彼にとって何よりの財産になったのではないだろうか。

男女の入れ替わりとタイムリープSFではよくあるモチーフだが、それらを組み合わせたことと、これはネタバレになるので伏せるが、瀧と三葉という主人公の2人が信じていたことはもちろん感情移入した視聴者も信じていたことで、それを同時に裏切って見せたことは仕掛けとしておもしろかった。一度見ただけでは情報量が多くて理解するのが難しく、何度見ても楽しめるつくりの映画が最近は多いが、今作もネタバレ前と後とで少なくとも2回は楽しめる作りだと思う。ただ、そもそもいろいろと矛盾のある設定だとは思うのでオタク的な追及に耐えられる作りにはなっていないし、それを求めるような作品ではない。

君の名は。』と同名の『君の名は』という1950年代を代表する映画がある。こちらも男女が不都合が起きてなかなか会えない、という話で、この「会えそうで会えない」という繰り返しはその後の恋愛ドラマでよく使われた演出の古典のひとつであるが、携帯電話の普及によって演出の難易度が格段に上がった。新海監督は一作目の『ほしのこえ』から、携帯メールを地球と宇宙でやりとりするのには時差があるということで果敢にこの演出に挑戦していたが、今回はタイムリープによって実現していた。男女がなかなか会えないというすれ違いをストーリーの軸にするためには、SFの力を借りないともう無理なのかもしれない。

これは完全に余談だが、糸守町は岐阜県の飛騨地方にある設定ということで僕の出身県と同じ岐阜県ではあるが、出身の大垣市(聾の形の舞台)と高山市とでは100km以上離れているため同じ県という認識が薄い。ところが使われている方言がほとんど同じであることに驚いた。中身が三葉の瀧が「なんか訛ってない?」と友人に突っ込まれるが、東京人は100%地方人にそのように突っ込んでくるのでリアルだった。(地方出身者のトラウマのひとつ) あとなぜか瀧くんの部屋に名古屋城プラモデルがあるのが気になる。なぜ名古屋城

2015-01-15

なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。

先日nanapiの海外向けメディアである「IGNITION」に表題のインタビュー記事が掲載された。このブログでもたびたび書いているように一昨年から昨年にかけて海外で絵文字の利用が爆発的に広がって、日本では今頃と感じるだろうが、海外で絵文字はまだホットな話題だからだ。

海外向けメディアということで全文英語の記事なので、以下に日本の方向けとして日本語訳を記載しておく。


なぜ、そしてどのように絵文字はつくられたのか。
栗田穣崇へのインタビュー

emoji 名詞 (複数形 emojiまたはemojis)

小さなデジタルイメージまたはアイコンでデジタルコミュニケーションにおいて感情や考えを表現するもの。
笑った顔の絵文字を使うとメッセージが楽しくなる。

由来
1990年代の日本で生まれた。e=絵+moji=文字、文という意味
(オンラインオックスフォード辞典より)

20世紀の終わりに日本で生まれた絵文字の原型。その最初の絵文字を生み出したのが、世界初のモバイルインターネットプラットフォームの立ち上げに関与していた、栗田穣崇だ。

1999年、日本で生まれたこのモバイルインターネットプラットフォームは、iモードという。栗田は日本最大手の携帯通信事業者であるNTTドコモiモードプロジェクトチームに所属していた。iモードは当時日本で広く使われていたフィーチャーフォンインターネットサービスを提供しようとするものだった。1999年当時のフィーチャーフォンの液晶画面はモノクロでとても小さく、48文字しか表示できない程度の大きさだった。

栗田は、このフィーチャーフォンの限られた画面スペースで情報やコンテンツを届けるには、絵文字がないと正直きびしいと思ったという。「iモードに先駆けて、AT&Tがテキストオンリーの情報サービスを携帯でやっていたので使ってみたら、天気予報も全部文字でfineとかって表示されていたので、分かりにくい!と思ったのです。日本のテレビでは天気予報が絵で表示されていて、それに慣れていたので、太陽の絵の晴れマークとかが欲しいと思いました。」

栗田はNTTドコモで店頭での販売経験があった。「僕がポケベルを売っていた時、ハートの絵文字を使うことがポケベルユーザーの間でとても人気だったのです。だから、ハートみたいな感情を表現できるものを追加することが、iモードではキラーになるんじゃないかなと思って。だから僕のほうからどうしても絵文字が欲しいと提案しました。企画者も当時は少なかったので、じゃ作って?っていう感じで僕が作ることになりました。」

とはいえ、iモードのリリースまでの時間は限られていたため、栗田は1か月の間に、人類史上最初の180の絵文字をすべて考えることになった。まず、最初の10日間、人間にどんな感情表現があるか知るため、街に出て人間ウォッチングをした。また、街にあるもので記号としてあったほうがいいのはなにかをリストアップするため、街にあるものもウォッチングした。

「最初は、いわゆるにこにこした顔とか5、6種類くらいの顔を考えつきました。最終的にはデジタルにするためドットをうたなくてはいけないので、デザイナーに依頼するのですが、絵文字自体が世の中になかったのでこちらからこういうのでつくってくださいと、自分で実際に絵をかいて、デザイナーさんにお願いしていました。」

絵文字の原案をつくるにあたって、なるべく多くのひとに使ってもらえるよう、わかりやすさや普遍性を意識したという。「新しく文字を作ろうと言う意識ではやっていました。どちらかと言うと絵というよりも文字を作るつもりでやっていました。」

栗田が絵文字を考案するため、お手本にしたアイデアソースは大きく2つある。一つはマンガだ。マンガの中には、「漫符」という、独特の記号表現がある。汗を表した水滴のマークを顔に描くことで「焦り」や「困惑」を表現したり、キャラクターの頭の上に電球マークを描くことで「ひらめき」を表現したりというものだ。栗田は、iモードユーザーとなる人たちが共通して理解できるような漫符を、マンガの中からピックアップしていった。

もう一つはピクトグラムだ。ピクトグラムは公共空間で情報や注意を促すために表示されるサインのことだ。男性・女性を記号化したトイレのマークや、走って逃げる人の非常口のマークなどが代表的だ。栗田によれば、ピクトグラムが広まった一つのきっかけは、1964年東京オリンピックだという。東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた美術批評家の勝見勝氏は、日本語の表示しかなかった各施設を、外国人にもわかるようにどうやって表示したら良いのかということが論議された際、絵で表示することを提案した。この提案を受けて、勝見氏のもとで、多くのピクトグラムが若手のデザイナーたちによって考案された。東京五輪の各競技種目も、このときピクトグラム化され、五輪競技がピクトグラム化される先駆けとなったという。

日本に生まれ、日本に縁が深いと思われる絵文字だが、日本的というよりもネット的なものだと、栗田はいう。「ネット上でテキストを使ってコミュニケーションするにあたって、やっぱり絵文字があると便利ですよね。テキストだけだとどうしても感情がみえないので。いままで手紙があって、次に電話があって、その次に電子的なメッセージが増えてきて、その流れで、感情が表現できる文字が必要になったということだと思う。ただ、日本には漢字という、表意文字がもともとあって、そういう土壌があったのだと思う。」

日本では、iモードの誕生で、絵文字は2000年頃から広く親しまれていた。それから遅れること約10年、iPhoneなどのスマホの普及で海外でも急速に広まった。このタイムラグは、ハード面の展開の違いが影響しているという。「日本でフィーチャーフォンと言われている物の海外版には、絵文字は入っていなかった。絵文字が搭載されている端末が無かったのが理由で、海外の人たちは、スマホで絵文字デビューしたのだと思う。日本人がiモードで絵文字使い始めたときに、何これ!って思った感覚を、海外の人はここ数年で体験をしているのじゃないかなと思います。絵文字を楽しんで使ってもらいたいですね。」

2014-12-03

着メロ15周年に寄せて。

2014年12月3日は携帯電話向け着メロ(着信メロディ)サービス開始から15周年である。奇しくもプレイステーションの発売も20周年だが、いまだPS4として健在であるプレイステーションと比べると着メロはすでに過去のものとして忘れ去られてしまった感がある。だが着メロなくして今の日本のネットサービスは語ることはできない。着メロ15周年の日にあたり、着メロについて改めて振り返ってみたい。

着メロとは携帯電話の呼び出し音をカスタマイズする機能および、呼び出し音の配信サービスの総称である。古くは留守電の保留音やポケベルの呼び出し音などにそのルーツを求めることができる。世界で初めて着メロサービスを開始したのはPHS事業者のアステル*11997年のことだった。テレホンダイヤルに電話してプッシュ操作でいくつかある楽曲の中から選曲すると、単音の着信メロディのデータがダウンロードされる、というもので、配信楽曲は定期的に更新され通話料のみで利用ができた。ただ、アステルそのものの利用者が少ないこともあってほとんど認知はなかった。

むしろ当時は携帯電話に自分でデータを打ち込んで着メロを自作することが流行っていた。自作といっても譜面を知らないと作ることができないので、「着メロ本」という本が本屋やコンビニに大量に並んでいた。タブ譜のように機種ごとに着メロを作成するための数字キーの入力方法が書いてある本をみんながこぞって買って、1音1音数字キーで地道に入力して着メロを作るという、今から考えると嘘みたいに面倒なことをしていた。

iモードの開発でサービス企画をしていた僕はそういった流行りを見て「着メロがiモードキラーコンテンツになるのでは」と考えていたが、iモード端末そのものの開発が大変だったため初号機で実現することはできなかった。iモードが成功して、弐号機つまり502iの仕様の検討に入るときに着メロを売りの機能として搭載することを改めて提案した。折よく三菱電機、チップメーカーのロームと音源技術のフェイスという3社から着メロの提案があったため、これを502iで採用することにした。端末台数に応じたフィーで提案してきたフェイスの中西専務に、夏野さんが「そんな儲けなんて大したことがない。自分たちで着メロのサービスをやった方が儲かるよ」と話したことで、数か月後、中西さんはエクシングの鈴木さんを連れてきて、ポケメロJOYSOUNDというサービスを発売とともに開始する、ということになった。当時の着メロはMIDIをカスタマイズしたコンパクトMIDIという仕様で開発することになっており、MIDIデータをたくさん有しているカラオケ会社であるエクシングは格好のパートナー先であった。*2

iモードのコンテンツで最初に成功したのは待受画面サービス「キャラっぱ」を提供したバンダイだが、7月にギガネットワークスが着メロ入力データのサービスをはじめたところ、またたく間に10万人のユーザーが登録した。当時iモードが200万ユーザー程度だったので驚くことに全ユーザーの5%が利用していたことになる。着メロ入力データといっても、当時のiモード機はマルチタスクではないので、画面に表示された着メロ入力データを紙などに自分で書き写した後に携帯電話でそれを見ながらキー入力する、という当時でさえ面倒だと思っていたサービスにそれだけのユーザーがついたことで、間違いなく着メロサービスは流行ると僕も夏野さんも確信した。

502iの発売は1999年12月3日となり、売りはカラー液晶と3和音着メロサービスだった。最初に着メロをサービスしたのはエクシングギガネットワークスの2社が行った。それまで手入力されていた着メロは単音であり3音になっただけでもリッチな印象があったのだが、好きな曲を手軽にダウンロードできるということで、iモードの普及を決定づけた。もし502iに着メロ機能がなかったら、ドコモに先駆けてKDDIなりJ-PHONEが着メロサービスをはじめていたら、iモードがあそこまで順調に普及することはなかっただろう。その後、N502iにはヤマハの4和音の音源が採用されて人気機種となり、着メロを提供するサービスもどんどん増え続け、2001年には16和音専用サービスとしてドワンゴの「イロメロミックス*3がスタートする。

着メロ本を買って多大な労力をかけてまで着メロが欲しかった多くのユーザーにとって、100円や300円で着メロが簡単に手に入る、という分かりやすい価値はデジタルコンテンツに対する小額課金への抵抗感を乗り越えるモチベーションとなった。着メロはいわば音楽ダウンロードサービスである。着メロがきっかけで有料コンテンツへの課金をはじめたという人は多かっただろう。iモードが成功するまで「ネットで有料コンテンツは成功しない」というのが常識だった。ネットのコンテンツはタダであり、広告モデルでないと成り立たない、という状況を変えたのが着メロである。しかも当時ドコモは従量課金を採用しておらず、すべて月額課金(サブスクリプションモデル)だったこともコンテンツプロバイダに幸いした。欲しいものだけワンタイムで購入するという従量モデルは一見ユーザーにとってメリットが高そうに見える。しかし従量モデルがコンテンツプロバイダにもたらす利益は大したことがない。

スマホアプリを例にとってみよう。100円のアプリが10万ダウンロードされても上代はわずか1000万円である。個人の小遣い稼ぎや個人商店のビジネスならともかく、会社が事業として行うには人件費、固定費のことを考えると売上としては少なすぎる。そもそも10万ダウンロードからして決して少ない仮定の数字ではない。ところが、これが月額モデルならば年間1億2000万円もの売上になるのである。しかも月額会員にはいわゆる休眠会員、幽霊会員というユーザーが一定数存在するため、利益ベースではさらに大きくなる。そして、いきなり会員がゼロになることもないので事業計画も立てやすくなり、経営基盤も安定して投資も行いやすくなる。着メロの成功をきっかけに上場した会社が数多くあった。こう書くと、それはあくまで提供者側のメリットであって、ユーザー側は不当に搾取されているだけではないか?と思う向きもあるだろう。しかし市場が1社の寡占状態ならばともかく競争状態であるならば、提供者側が潤えばサービスのクオリティやボリュームが向上して、結果ユーザーにフィードバックされるものである。たとえユーザーにメリットがあっても提供者側が儲からなければサービスそのものが終了してしまうのだから。

どうしてここまで着メロが流行ったのだろうか。ひとつ言えるのは「音楽CDの売上が1998年にピークだった」ということである。1991年頃から番組タイアップをきっかけにミリオンが連発し、小室ブームがあり、2000年には宇多田ヒカル浜崎あゆみらがしのぎを削り、世の中において話題の中心が音楽だった、という背景が影響していたことは間違いない。着メロは単なる音楽ダウンロードにとどまらず、学校や飲み会などでのコミュニケーションツールになっていた。着メロサービスはサブスクリプションモデルだったことで、単なる楽曲のダウンロードだけにとどまらず、運営サービスとしてユーザーのニッチタイムの受け皿となった。CDの新曲が発売されて新しい着メロがダウンロードできる水曜日に着メロサイトへのアクセスは急増した。SNSもなく、掲示板やブログがまだPCユーザーのものだった時代に、着メロサイトは多くの人にとって総合エンターテイメントだったのだ。

そんな着メロも着うたを経ていつの間にか下火になり、まだ存続はしているものの世の中の表舞台から消えていった。着メロという機能そのものはスマホになっても引き続き存在しているのに話題になることはないのは、着メロが単なる機能として需要があったわけではないことの証左だろう。当時着メロが担っていた役割はSNSやゲームアプリ動画共有サイトなどに引き継がれている。

その中で最も着メロの遺産を引き継いでいるのはドワンゴのニコニコだろう。ドワンゴの着メロサイトである「イロメロミックス」は着メロサイトの中で最も実験的な試みを多く行っており、着ボイスではGacktや吉本の起用で話題を作った。サイト運営や著作権ノウハウや、芸能事務所との関係性などは着メロサービスをきっかけにして蓄積されていったものである。姉妹サイトのアニメロミックスアニメロサマーライブを大きくしていったことも今につながっている。そもそも最初から無料サイトではなくサブスクリプションモデルがベースであるという点が、同じ動画共有サイトであるYoutubeと思想面で全く違うのである。クリス・アンダーソンが書いた悪書「FREE」のせいで、「ネットコンテンツはやはり無料だろう」という反動が起きたが、世界的にもサブスクリプションモデルへの回帰が起きている。世界のスマホアプリマーケットの市場規模において日本が世界最大の市場規模であることも、着メロが築いたネットコンテンツにお金を払うという土壌あってのことだ。

ということで着メロの歴史とその果たした役割についてつらつら書いてみた。歴史の徒花(あだばな)とは片付けられないほど、日本のネットサービスに影響を与えた「着メロ」というものがあったということを記憶の隅にでも留めておいていただけたなら幸いだ。

*1:「着メロ」の商標登録を行ったのもアステル東京で、ゆえにiモード時代に各社は「着メロ」というワードを公式に使うことができなかった

*2:とはいっても機種ごとのカスタマイズも大変で、MIDIデータがあれば着メロがすぐ作れるというわけではなかった

*3:16和音のサービスだからイロメロ(16メロ)というネーミングだが、このセンスは超会議で見て取れるようにドワンゴDNAのような気がする

2014-12-02

夏野さんがやってきた。

iモードの開発をはじめて3か月経った97年7月、夏野剛さんがチームに加わる。夏野さんと初めて会ったのは広尾イタリアンレストラン「イル・ブッテロ」でだった。最初から最後までまくしたてるように自分のアイデアを話し続ける夏野さんは、真理さんとはまた違った意味で今まで出会ったことのないタイプの人で、ただただ圧倒された。新入社員に毛の生えた僕ですらそうだったのだから、ドコモのほとんどの社員の人は夏野さんにカルチャーショックを受けたに違いない。夏野さんは今のような毒舌キャラではまだなく、眼鏡をかけた細面で柔和な人だが話し出すと止まらない、という感じだった。

夏野さんはハイパーネットというインターネット広告会社の副社長をしていた。インターネットに接続するにはプロバイダ契約が必要だが、ハイパーネットはユーザー属性を把握しユーザーにあったターゲティング広告をブラウザに表示することで無料でインターネットを使える、というビジネスモデルを構築し、ニュービジネス協議会から「ニュービジネス大賞」および「通商産業大臣賞」を受賞したサービス「HotCafe」を展開していた。今も続くネット広告の先駆けであり画期的なサービスだったのだが、残念ながらあまりにも早すぎた。まだまだネット広告市場は小さく成長も緩やかだったのだ。また、ハイパーネットのブラウザをユーザーが自らインストールしなければいけない、という点でユーザーのハードルも高かった。奇しくもマイクロソフトWindowsにInternet Explorerをプリインストールすることで一気にNetscape Navigatorを駆逐している時期でもあった。もしハイパーネットのブラウザOSプリインストールされることがあれば話は違っていたかもしれない。

ハイパーネットはその後97年12月に倒産することになる。ハイパーネットについては社長の板倉雄一郎氏が『社長失格 〜ぼくの会社がつぶれた理由〜』を書いており、おもしろいので興味ある方は一読されたし。

社長失格

社長失格

夏野さんはハイパーネットで苦労していただけに、携帯電話インターネットネットサービスという着想は目からウロコが落ちる思いだったらしい。つまり、まだまだ普及していないPCに比べて携帯電話は1人1台持っていること、常時接続でありネットにつなぐのにいちいち回線接続しなくてよいこと、ブラウザOSプリインストールされていること、ドコモというキャリアが行うことで回線から端末、サービスまで垂直型のビジネスモデルが構築できること、料金を電話代と併せてユーザーから徴収できることでユーザーのエントリーバリアが低いこと、などなどハイパーネットでの課題をすべて解決できる可能性に充ちていたからである。

夏野さんはもともと新卒東京ガス入社していただけに社会インフラを構築したい、という思いが強い人である。出会ってすぐに「ハイパーネットでビルゲイツに会ったときに、ウォレットPC(つまりオサイフPC)をやるべきだという話をしたのにいまいちウケが悪かった。俺は携帯電話でウォレットケータイを実現したいんだ」「ゆりかごから墓場まで。生まれた時に携帯電話の番号が振り当てられて、死ぬ時にオールリセットできたらおもしろい。」といろいろ夢を語ってくれた。それから7年後の2004年、おサイフケータイで夏野さんはその夢を見事に実現する。

夏野さんというビジネス戦略とアライアンスの達人がチームに加わることで、iモードの開発はいよいよ本格的に動き出した。

2014-11-13

iモードのロゴにまつわる話。

iモードというネーミングの話を書いたついでにiモードロゴについても触れておく。

f:id:sigekun:20141113102146j:image:w360

ネーミングが決まれば商標を登録する必要がある。この頃はネットで商標登録されているかどうかを即座に調べられるような便利なものはないので、まずは知財経由で商標登録できるかどうかを確認しなければならなかった。せっかく考えたネーミングもどこかで使われていたら水の泡だ。運よく出願したい分類にかぶるようなものはなかったのだが*1弁理士から「そもそも「i」という一般的なものに「モード」をつけて「iモード」と登録することそのものが難しいかもしれないので、ロゴも作って意匠登録も並行した方がよい」とのアドバイスがあり、商標登録の出願手続きをしながらロゴを制作することになった。*2

ロゴもネーミングと同じように当時(今も?)のドコモセオリーである代理店のコンペという正攻法からはじめたが、真理さんと代理店にどうオリエンしても男性的、未来的、機能的なロゴばかり出てくるので早々に見切りをつけた。これは代理店が悪いというよりも、今までドコモからの発注依頼がそういったタイプのものばかりで、iモードが目指しているようなタイプのサービスが彼らにとって初めて、ということが大きかったのだろう。

そこで真理さんとは旧知の仲である、サン・アドデザイナーであるナガクラトモヒコさんに依頼することになった。真理さんとはリクルートの「とらばーゆ」ロゴや表紙のデザインなどを通じてのお付き合いである。ナガクラトモヒコ氏の名前は知らなくても彼のアートワークであるおかいものクマ西武百貨店のおかいものクマを知る人は多いだろう。当時サン・アドは改築前のパレスホテルに入っていて、そこで出会ったナガクラさんは理知的でとても穏やかな方でこちらのオリエンもすんなり理解していただけ*3、「なんかすごいものが出てくるに違いない」とワクワクしたことは今でもよく覚えている。

そうして出てきたiモードのロゴは4種類。しかもどれも甲乙つけがたいデキ。これはうれしい悲鳴ともいうべきで、メンバー内で多数決をしても完全に票が割れてしまいほど、どれも素晴らしいデザインだった。数日間ずっと悩んだ真理さんが最終的に決めたのだが、決め手は「プルプルしていてカワイイから」とのこと。僕がいいと思ったロゴはもう少し男性的だったので、今から思えばやはり真理さんの見立てがよかったのだと思う。真理さんは上層部には「この曲線が無線の揺らぎを表現してまして」なんてもっともらしく説明していたが、そのあたりはうまく言ったもので結局「プルプルしていてカワイイから」決まった。

ちなみにナガクラさんが持ってきてくれたロゴはすべて黄色だった。こちらから黄色を特に指定したわけでもなく、ナガクラさんも「別に他の色に変えても構いません」とおっしゃっていたのだが、あまりにも黄色のiモードロゴがしっくりしていて誰も変えることが想像できず、そのまま採用になった。先進的なイメージといえばブルーに代表される寒色系だが、親しみやすいイメージといえばやはり暖色系だ。真理さんが「i」をひっくり返せば「!」になるわよね、とよく言っていたが、黄色は注意・注目を表す色だからそういう点でもしっくりきていたのかもしれない。さらに当時のドコモCIが赤・緑・青だったので黄色とのバランスもよかったし、当時黄色をイメージカラーにしているサービスもほとんどなかった。なるべくして黄色になったのだと思う。

こうしてできたiモードロゴ。フランスブイグテレコムでサービスが始まってパリの街中で見かけたり、F1マシンのルノーの車体やドライバーにデザインされたときは本当にうれしかった。ドコモにとってもずっと大切に育てていくべきブランドだったと思うが、それを自らの手で捨ててしまったのは本当に残念でならない。

*1HOYAがEYEMODEという商標を登録していたが、対象の分類が眼鏡に限定されていたので問題なかった

*2:最終的にiモードの商標はアイモードとi-modeとで登録されている。英字ではハイフンをつけることで登録が可能になった。

*3:真理語を解する方だったからかもしれない(笑)

2014-11-07

『iモード』ネーミング秘話。

1997年4月に開発がはじまったiモードだが、ネーミングは難産となった。サービスのネーミングについてはまず社内でブレストをして、「モバイル」の「モバ」を使ってみてはどうか、というアイデアが出た。サービスそのものは「モバ」という接頭語に何でも置き換えられるという意味で「*(アスタリスク)」をつけ「モバ*(モバスター)」という名称にして、モバイルバンキングを「モバンク」、ゲームを「モバゲーム」*1といった具合に派生させていく、というもの。今改めて考えてみるとそんなに悪くないのだが、今と違って当時「モバイル」という単語は世の中にほとんど認知されていなかった。また「モバイル」も「スター」も単語として男性的、先進的で堅いイメージがある。女性やネットを使ったことのないユーザーにも受け入れられるような柔らかいネーミングに真理さんはしたいと思っていたため、とりあえず商標登録出願だけして*2引き続き考えることにした。この頃97年の10月ぐらいである。

社内の次は電通博報堂といったいわゆる広告代理店にアイデアを出してもらうことにした。何案も何案も出してもらい、代理店と幾度となくブレストをしたが、真理さんが首を縦に振るようなアイデアはついに出てこなかった。代理店から出てきたアイデアで覚えているのは「ダイナリー("大なり"から)」「AZBY("AtoZ、BtoYから)」「オスカル("ベルばら"から?)」といったようなもの。確かに今見てもいまいちだ。そうこうしているうちに年が暮れてしまった。

社内やコンテンツプロバイダへの提案資料では「携帯ゲートウェイサービス(仮称)」というのがずっと使われていた。夏野さんは提案先から何度となくサービス名を聞かれいい加減シビれをきらしながらも、真理さんが納得するまでやってください、と一任して、真理さんと僕とでうんうん考える日々が続いた。

真理さんがニューヨーク出張から帰ってきたある日。確か98年の2月か3月ぐらいだったと思うが、虎ノ門にある本社から神谷町のオフィスまで真理さんと歩いている時に、突然「栗ちゃん、アイよ!やっぱりアイがいいわ!」と真理さんが言った。真理さんは自分の頭の中ですべての世界が完結しているので脈絡なく唐突に話がはじまるのだが、この1年真理さんとずっと一緒に仕事をしてきた僕はさすがにこれに慣れていた。これを夏野さんは「翻訳スキル」と呼んでおり、真理語の翻訳スキルゲートウェイビジネス部ではかなりの必須技能である。ドコモの他部署の人やメーカーの人はこの真理語に相当悩まされた。それはさておき、ネーミングのことだ。聞けば真理さんは海外出張でインフォメーションカウンターに「i」のデザインがアイコン的に使われていることに着想して、新サービスのネーミングは「i(アイ)」がいいと言うのだ。もうすでに真理さんの中では「i」をアイコン化したイメージまで浮かんできているらしい。

確かに「i」にはいろんな意味が込められるし、コンシェルジュというサービスコンセプトにもしっくりくる。端末に「i」のアイコンが入っている姿も想像できる。僕は諸手を挙げて賛成したのだが不安もあった、というのもドコモはもともと通信キャリアで伝統的にセンスがない部類の会社である。サービス名を「i(アイ)」にしたら間違いなく「iサービス」と言ってしまうだろう。それはちょっとダサい。それに百歩譲ったとしても「i(アイ)」だけではあまりにも一般名称かつ短いため、現実的に商標が取れないのである。ということを真理さんに伝えたところ、「じゃあ、栗ちゃんが考えて」となった。

「i」は決まった。あとは「i」という単語に何かしらプラスすればいいのだ。それから毎日、ネット、広辞苑、英和辞典などから単語を拾い出しては「i」と組み合わせて検討する日々がはじまった。毎日、その日考えた中でベストな案を真理さんに提出していく。2週間ぐらいボツを食らい続けただろうか。飲み会で聞いた「お疲れモード」という「モード」と「i」を組み合わせたものを真理さんに提出した時、初めて真理さんが首を縦に振ったのである。ネーミングの検討を開始してから半年以上経っていた。

iモードの名称の由来は後に真理さんが「私(I)のi、インフォメーションのi、インタラクティブのi、インターネットのi、に由来している」と語っているが、経緯的にはこのようにして生まれた。ネーミングには「濁点」か「半濁点」が入っていると引っ掛かりがあって印象に残りやすい、日本人は俳句短歌文化由来で5文字か7文字が馴染みやすい、と真理さんが教えてくれたネーミングのコツに「iモード」がともに当てはまっているところもよかったのだと思う。それに加えて、真理理論によれば名前から受けるイメージはその「音(おん)」によるところが大きいとのこと。具体的な例を挙げてみると、

子音がmの擬音には
まんまん
むんむん
むくむく
めろめろ
もりもり
などがあるが、共通するイメージは「肉感的」である。

子音をsにしてみると
さらさら
さくさく
しんしん
すやすや
そよそよ
で「爽やか」「静的」なイメージを受ける。

rだと
らんらん
りんりん
るんるん
など「弾んだ」「丸い」イメージがする。

真理さんはiモードのコンセプトとして「デジタルだけどあたたかいもの」とつねに言っていた。iモードという名称に肉感的な「m音」が入っているというのもポイントだったのだろう。いずれも後付けといってしまえば後付けかもしれないが、「とらばーゆ」を初めとする真理さんのネーミングノウハウの蓄積が真理さんの「直感」という形で働いて生まれたものなのだ。

iモード」という名称が決まって数か月後、僕は真理さんの「直感」の凄さに驚愕することになる。1998年5月11日、アップルが『iMac』を発表したのだ。その後『iPod』を経て『iPhone』になったのは周知のとおり。全く同時期に生まれた2つの「i」、今振り返ってみると非常に感慨深い。

*1:あれれ?どこかで聞き覚えのある名称だ(笑)

*2iモードが決まったのでその後手放したと思う

2014-10-29

ドコモでスーツを着なくなった日。

真理さんがドコモに吹き込んでくれた外の風に僕もひとつ便乗することにした。社会人になって3年も経つのににスーツに馴れず、特にネクタイの窮屈さが苦手だった僕はこの機会にスーツを着なくて済むようにならないかと考えたのである。真理さんのいたリクルートは営業はともかく編集や企画は私服での勤務がOKなはず。緊張しながら真理さんにそのことを告げると「いいんじゃない。」とこちらが拍子抜けるほどあっさりとOKしてくれた。念のため、榎さんにも確認したところ「早速、真理さん効果かね。本社とはロケーションも離れてることだしいいよ。」とのこと。こうしてスーツが当たり前のドコモにTシャツにジーンズにスニーカーという社員が誕生したのだった。

とはいえ本社に行くときなどはスーツに着替えられるようにオフィスに置きスーツをしていた。特にお堅い部署である経理のハンコをもらいに行くときなどに、服装がやぶ蛇で面倒なことになることを恐れたからだ。とはいえ置きスーツも1年ぐらいで終わる。うまく榎さんが取り計らってくれたからだ。

あるとき、大星社長が榎さんを招集したミーティングに同席することになった。社員数1万人規模のドコモという会社でぺーぺーが社長とのミーティングに同席する機会なんて滅多にあるものではない。ボストンコンサルティング堀紘一氏がカプコン辻本憲三氏を大星社長に引き合わせるということで、ゲームのことを分かる人間がいないからという理由で榎さんに同席を命じられた。さすがに社長と外部のお偉いさんの前にジーンズにスニーカーで出ていくことは憚られたので「置きスーツに着替えましょうか?」と榎さんに確認したのだが、榎さんはそのままの格好でよいとのこと。ただでさえ緊張するのに余計に緊張することになった。さらに大星社長と堀紘一氏の対面である。榎さんに「絶対に笑ってはいけない」と固く戒められた*1ので緊張もひとしおである。

当時バイオハザードが大ヒットしたカプコンドコモが何か協業できるようなことはないか、という趣旨のディスカッションだったが、大星さんにバイオハザードを見てもらうため僕が辻本会長の前でバイオハザードをデモプレイするといういささか不思議なことになった。「まさかドコモに私服の社員がいらっしゃるとは」と辻本社長。それに「ドコモにもそういう多様性があっていいですなあ」と堀氏も同調されたことで気をよくした大星さんは「ドコモNTTのようにお堅いだけではダメだとつねに私は言っとるんです」とさも自分が指示したかのように発言され、これによって私服は社長公認となった。榎さんは隣でニヤニヤしている。榎さんはある程度こうなることを予想していたのだろう。万が一社長から突っ込まれても榎さんがうまく言い返してくれたに違いない。

私服で仕事をしたからといってクリエイティビティが身につくわけでは決してない。それでもドコモに私服が認められる部署がある、というのは社内から人をリクルーティングするにあたっての道具になり得た。自由な雰囲気で仕事をしたいと思う人の方がiモードの開発に適正がある、それは言い過ぎでもモチベーションが高いのは明らかだからだ。エンタメ系のコンテンツプロバイダと交渉するときも私服の方が相手も身構えたり気を遣われることがなくてメリットがあったと思う。クールビズ導入以降、ノーネクタイが一般的になってカジュアルな傾向が強くなったが、当時のNTTドコモというのはそれほどまでにガチガチに堅い会社だった。

そんなわけで榎さん、真理さんのおかげでドコモ14年間の勤務の支店時代をのぞいた12年間、苦手なスーツを着ずに私服で通すことができた。ジーパン課長と揶揄されたりもしたけれど(笑)


D
バイオハザードはビビりの僕には本当に怖かった。

*1:理由はここでは書かない。

2014-10-28

松永真理さんとの出会い。

97年4月。公募によって晴れて僕は法人営業部ゲートウェイビジネス担当に配属された。この部署に配属されたのはNECから出向の川端正樹さんというシステムの部長と同じく公募で採用された矢部俊明さんらシステム担当の2名、マーケティング担当は我妻智さんと同期の笹川貴生くんと僕のたった6名の部隊だった。しかも法人営業部の一角を間借りしたスペースにひっそりとお邪魔するというなんとも寂しいスタート。榎さんは法人営業部から専任になるまで数か月かかるということで非常勤。われわれの上司にはリクルートの女性編集長が転職してくる、ということは榎さんから聞いていたが、当面は上司もおらず、4月いっぱいは常駐していたマッキンゼーコンサルからロジカル思考を学んだりサービスのブレストをする、といういきなりの放任状態からはじまり、気楽な反面これで大丈夫なのかなあという得も言われぬ不安の中、iモード開発への第一歩がはじまった。

とらばーゆ編集長からまさしくとらばーゆされた松永真理さんと初めてお会いしたのは、銀座の研修施設でブレストをしていた4月14日のことだ。夜にゲスト参加で榎さんがわれわれに真理さんを紹介してくれたのだが、真理さんは開口一番「ウッズ見た!?ウッズ!すごいわよね!」と出てくる言葉はとにかくウッズウッズと大興奮。ちょうどタイガーウッズが史上最年少でマスターズ・トーナメントを史上最年少の21歳3か月で優勝した日だったのだ。その場にいた誰もが真理さんのペースに飲まれた。今までに接したことのない全然違う業界の人というのが僕の第一印象だった。おかげで真理さんと話すにはつねに話題のニュースを仕入れておかなければならず、そういう真理さんの感度みたいなものから学べたことは大きかった。

そして5月の連休明け。地下鉄神谷町駅直上に位置する神谷町森ビル4Fに新オフィスに移転しゲートウェイビジネス部が発足、真理さんも合流する。真理さんの上司としての最初の指示は「絶対に真理部長と呼ばないでちょうだい。まり、の後にぶちょうという響きが続くのは私の美的感覚に合わないの。これからは真理さん、と呼ぶように。」というものだった。だだ広いオフィスの1/3しかまだ机が埋っておらず残りのスペースで笹川くんが本社までの行き来のために購入した自転車を乗り回していたのが印象的だった。これは真理さんも印象深かったらしく『iモード事件』にも書いている。

iモード事件 (角川文庫)

iモード事件 (角川文庫)

同時に真理さんのオーダーで革張りの応接ソファに間接照明、木目調の箱に収納された冷蔵庫やバー設備を備えたおおよそNTTらしくない接待応接部屋兼ミーティングスペース「クラブ真理」が開設される。ちなみに同期の笹川くんは笹川財団の御曹司で、今後その御曹司キャラをiモードのために最大限活かしてくれるのだが、まず彼の最初の仕事はクラブ真理にサントリーのお酒を完備することだった。神谷町への移転やクラブ真理の設置などは総務の曽根一泰さんが剛腕を発揮。曽根さんは一見、任侠映画に出てきそうな強面の出で立ちで、敵に回せば怖いが味方になればこんなに頼もしい人はいない、という人である。笹川くんとクラブ真理でよく鳥羽一郎の『兄弟船』をデュエットしていたのが思い出深い。クラブ真理にはタイトードコモが共同開発したモバイルカラオケSASAが設置されカラオケスペースにもなった。ドコモというお堅い会社にクラブ真理という夜っぽい施設がある、というギャップはかなりの評判となり、コンテンツプロバイダをはじめ、各業界の方が一度は来てみたいということで高い集客効果を発揮。十二分に元はとれたと思う。革張りのソファは寝心地バツグンで個人的にも会社に徹夜の際はお世話になった。

真理さんの発案で銀座のホテル西洋のスイートルームを借りテレビ業界や出版業界たちを招待してブレインストーミングをする、みたいなことも行った。放送作家小山薫堂さんなど著名な方がいらっしゃって携帯電話でどんなことができたらおもしろいか、というテーマで話し合ったりした。榎さんの記事によればその後、国税対策などが大変だったようである(笑)。
クラブ真理でのブレストの日々

真理さんによっていい意味で「ドコモらしくない」「NTTらしくない」風が吹き込まれ、自由な発想からサービスのコンセプトが徐々に固まっていった。それまでこんな新技術があるからサービスを作ろう、といういわゆる技術オリエンテッドでサービスを企画・開発してきたドコモで、初めてユーザーオリエンテッドなサービスが生まれようとしていた。

余談だが、真理さんと本屋に行って大量に購入した企画資料の中に占いのソフトウェアがあった。(さらに余談だがこの資料を買うにあたっていかにもNTTらしい事件があり、それは榎さんの記事に詳しい)「栗ちゃん、早速やってみましょうよ!」と真理さん。といっても真理さんはまったくの機械音痴なので僕がPCにソフトをインストール、「真理さん、生年月日を教えてください」と聞いて入力しながらはたと気がつく。「真理さん、この間教えてもらった年齢と違いませんか!?」そう、真理さんは部下の僕にまでサバを読んでいたのだ。「人間って占いだと正確な生年月日を伝えるのね。発見だわ。」そう、個人情報の生年月日を正確に確実に取得できるのは占いコンテンツなのだ。こういうところにすぐに気づいて切り返すのがいかにも真理さんらしい。

2014-10-25

ドコモ新入社員時代 後編

お客様対応に明け暮れているうちに新入社員1年目はあっという間に過ぎた。入社2年目となる1996年には販売代理店であるドコモショップの展開がかなり進み、支店の窓口には多少の余裕が出てきた。そこで僕は支店の法人営業担当に異動となった。法人営業担当といっても兼務の部長1人に定年間近の課長1人、僕と同期の女の子、たった4人の小さな部署だ。そこでは社用車を使って官公庁や大口顧客の御用聞きやドコモショップの支援をするという日々が待っていた。ドコモに入るまで千葉県とはほとんど縁がなかったが、法人営業に配属されて千葉がとても広い県であることを知る。銚子館山に出かけるとほぼ1日終わってしまうからだ。

それはさておき、ドコモの初代社長大星公二さんは先見の明の持ち主で、携帯電話が普及し始めた96年の時点ですでに「ボリュームからバリューへ」というスローガンを掲げ、携帯電話市場が飽和する前に当時の収入のほぼ全てであった音声収入とは別にデータ通信という新たな収益源を生まなければならないと考えていた。好業績時の利益を内部留保や配当に使ってしまうような短期的な視野の会社が多い中、未来への投資をしようとしていたのだ。そのため本社に「モバイルコンピューティング部」という部署が新設されデータ通信用の機器やサービスを開発するとともに、支店に対しても9600bpsのデータ転送を活用したモバイルFAXやデータ通信用のモデムを、まずは法人に対して売り込めという指示が飛んだ。

Windows95が発売され、なんとなくインターネットという存在があるということは知られてきてはいるものの、支店にあるWindowsマシンはたった数台。仕事はほとんどオアシスというワープロ機とFAX、固定電話でする時代。当然電子メールなんてない。パソコンを使いこなせる社員も支店にほとんど存在しなかった。こんな状況で本社の指示に対応できるはずもなく、そういうことは若い人間がいいだろうから新人社員にやらせよう、ということになり僕に白羽の矢が立った。僕が支店で抜群の働きをしていたから、とか将来有望そうだから、という理由では決してない。千葉支店の四大卒で法人営業の男性が僕1人だけだったからだ。

パソコンやインターネットに関することに予算がつき、僕はネットと遭遇することになる。僕はゲーム大好き少年だったがファミコンを買ってもらえなかった。ただ家が自営業ということもあってPC-9801VM*1が家にあった。もともと戦略系のゲームが好きだったこともあって大戦略や光栄の歴史シリーズなどで遊んでいたのだが、大学生で上京後はパソコンが高価だったことや一人暮らしでコンシューマーゲーム機を買ったこともあってパソコンから遠ざかっていた。パソコンが使えます、と言ってもできるのはゲームとフロッピーのフォーマットである。

ドコモがアップルになれなかった理由とは
ファミコンを買ってもらえなかった件はカドカワドワンゴの川上会長との対談に詳しい

最初に買ったパソコンはシャープメビウスだった。シャープのパソコンといえばX68000という世代であり*2なんとなく選んだ。NIFTY SERVEにも加入してパソコン通信にもチャレンジしてみた。パソコンについて教えてくれる先生もいないのでほぼ独学である。ところがこのパソコンやインターネットという代物と縁のなかった文系の僕にとってはとにかくチンプンカンプンなのである。まず最初に分からなかった用語は「プロトコル」だった。パソコンの解説書で意味が分からない用語を調べるとさらに意味の分からない用語にぶち当たるという有様で、それなりに使いこなせるようになるまでにはずいぶんと時間がかかった。サイトを見るのにはブラウザが必要でブラウザを立ち上げてヤフーなどの検索エンジンで検索しなければならない、と今では笑ってしまうほど当たり前のことすら分からなかった。そういえば当時はホームページ*3を紹介したムックが本屋に並んでいて、そのサイトを見るために記載されているURLを直打ちするという今では信じられないような時代だった。

そんなこんなでパソコンやネットをそれなりに使えるようになったのだが、ネットとメール、そしてNIFTY SERVEのフォーラム(コミュニティ)は目からうろこが落ちるほど新鮮な驚きだった。こんなに便利で楽しいものは必ずみんなが使うようになるに違いない、と学生のとき携帯電話に感じた可能性と同様な思いを持った。パソコンに詳しくなったからといってデータ通信関連の商品やサービスが売れるわけではなかったのだが、会社のお金と勤務時間でネットに遭遇させてくれたドコモ千葉支店には感謝しても感謝しきれない。

その後、本社から支店にLANを構築すべしというお達しがきて僕が担当することになり、多少なりともお返しをすることができた。その頃、学生時代のバイト仲間で一年留年して後からドコモ入社してきた親友の伴拓影くんが「これ知ってる?」と僕に教えてくれたのが「ゲートウェイビジネス部の社内公募」のお知らせである。

榎さんの記事から公募文書を以下引用。

マルチメディアインターネットの時代には、ユーザーとコンテンツやアプリケーションの仲立ちをして情報流通を促進するサービスとして『ゲートウェイビジネス』のマーケットが出現してきます。モバイルの世界でも同様です。例えば、高機能携帯電話を用いたショートメールによる情報提供イントラネットとの接続等です。このようなモバイル・コンピューティング・マーケットの創出とそれに伴うトラフィック増進を図るため、法人営業部では、今春ゲートウェイビジネス業務を新規に立ち上げます。そして、本業務を成し遂げるためにはチャレンジブルな人材を必要とするため、今回、広く社内から人材を公募することとしました。志のある社員の皆さん、老若男女、職位を問わず活発なご応募をお待ちしております!

【業務内容】

  1. 事業企画業務:事業コンセプト作りや事業計画の作成や管理。
  2. マーケティング業務:サービスやコンテンツの企画、コンテンツ・プロバイダーや広告主の開拓。
  3. プラットフォーム業務A:ドコモ網の改造仕様、課金、端末仕様の設計。
  4. プラットフォーム業務B:サーバーのシステム設計

この公募文書には衝撃を受けた。読んだとき「これしかない!」と思った。”携帯電話とネット”僕をワクワクさせてくれたこの2つを結びつける仕事。こんな仕事がはじまるなんて願ったり叶ったりだ。なにはともあれ選考にはまず小論文審査があるということで小論文を書いて提出した。伴くんは技術系で本社の通信技術部配属だったこともあり本社の発信情報に対して感度が高かったことが幸いした。千葉支店の僕までその情報は入ってこなかったので、彼が教えてくれなかったら間違いなく今の自分はない。半沢直樹でいえば渡真利忍的なグッジョブであり、本当に感謝している。

小論文は自らの体験から、ネットを初心者が使うにはとにかくハードルが高いのでもっとエントリーバリアを下げて誰でも使えるようにしたい、というようなことを書いた。小論文の考査に通って面接があるということで本社まで出かけた。当時ドコモの本社は虎ノ門新日鉱ビル(現虎ノ門ツインビル)にあった。私の恩師となる榎啓一さんは大星社長からiモードの立ち上げを命じられるとともに本社の法人営業部長となっており同じ法人営業ということもあって初対面ではなかったが、面接は榎さんの隣に座るエリートサラリーマン然とした眼光鋭い男性とのやり取りに終始した。彼がマッキンゼー横浜信一さんということは後で知る。榎さんの記事ではこれが「圧迫面接」だったと書かれている。確かに話した内容から次の質問、次の質問と矢継ぎ早にされたことは覚えているが、圧迫面接というストレスを感じた自覚はなかった。榎さんのメモによれば映画の上映情報やオリコンチャートなどを携帯端末に流すことを提案したらしい。榎さんに聞くまですっかり忘れていた。

何日かたって直属の上司から呼び出されて「どうして勝手に公募なんてしたんだ」と叱責された。ドコモでこの手の社内公募は例がなく、プロジェクトが社長直轄ということもあってかなり絶対的な人事異動だったということだが、いきなり何の相談もなく若手を本社に奪われることは支店としてはかなり不本意だったらしい。特に支店から本社への配属は最低でも入社3年目以降というのが通例でこの手の慣例を重んじるNTTの体質的にこの公募は社内ではかなり不評だったようだ。とはいえ、あくまで前例がないということへの反発であって僕をどうしても手放したくない、ということではない。支店にとって僕はなんとなくパソコンには詳しいが、何をやっているかよく分からない新入社員、という評価でしかなく、最終的は新設されるゲートウェイビジネス部へ配属されることになった。

ゲートウェイビジネス部に配属されて榎さんに「どうして僕は受かったんですか?」と聞いたところ、「君はNTTグループ社員らしさということでは標準偏差のカーブのどちら側かは分からんが間違いなく平均的な社員ではないだろう。ドコモの本業はNTTグループらしい社員にしっかりやってもらわないと困るからだよ」とニヤリと笑って言った。

D
織田裕二を起用した当時のドコモモバイルコンピューティング推しのCM。正直こんな使い方をしている人はほとんどいなかったと思うw

*1:PC-9801VMは名機と言われかなり寿命の長い機種だった

*2コンプティークを愛読していたのだ

*3:本来ホームページとはブラウザでホームに設定したページであって、サイトそのものを指す用語ではないのだが「ホームページビルダー」などのせいでホームページ=サイトと認識されていた

2014-10-24

ワクワク感と飽きについて考えた。

おもしろいことが減った、という話を最近よく聞く。昔のテレビはおもしろかった、昔のゲームはおもしろかった、昔のケータイはおもしろかった。人は好奇心の塊なので、好奇心を満たしてくれるような未知の刺激に対してビビッドに反応する。それが自らも成長している思春期に接したものであるならばなおさらだ。さらに人は「成長するもの」に接したり、見たりすることが大好きだ。映画でも小説でもマンガでも人の成長は大きなメインテーマだし、ゲームでキャラクターやユニットを育てていくことに多くの人が熱中する。エッチすることを楽しいと感じなければ人類が絶滅してしまうのと同じ本能のレベルで、人は成長することを楽しいと感じるがゆえに子供を育てられる。

テレビやゲームやケータイを楽しいと感じたのは、それぞれが持つエンターテイメント性や個々のコンテンツを楽しいと感じたのはもちろんだが、その業界が成長する様そのものに触れることにワクワクしたのではないだろうか。ただ残念なことにこれらの業界は成熟してしまった。今までにないおもしろさの個々のコンテンツが登場することで盛り上がることはあっても、成長する業界が放つ眩しいばかりの魅力を感じることはできない。

未知の刺激に対して人間は慣れてしまって最終的には飽きる。人間が飽きる時というのは「知識と経験の蓄積によって対象を理解した時」である。人間は分からないことに対して「それはどういうことなんだろう」と好奇心を持つ。分からないからこそ気になるしおもしろい。分かってしまえば好奇心を失って飽きるのである。だいたい名作と言われるコンテンツは人間の本能を忠実にくすぐる王道のタイプの作品とよく分からないタイプの作品の2つのタイプにわかれる。そういう点で『エヴァンゲリオン』は分からないからこそおもしろい作品の代表例だといえよう。*1最近だと『進撃の巨人』もまさにこのタイプだ。男性が女性に、女性が男性に惹かれるのも「分からないから」であり、「相手のことが分からない」といって相手を責めるのはお門違いだといえよう。*2

ネットの普及によって業界が成長して成熟するスピードは格段にあがった。ネットを介して大量の情報を得ることができるので多くの人が「分かってしまう」もしくは「分かった気になってしまう」からだろう。だからこそ、これからはより「分からない」もしくは「ままならない」ということがキーワードになっていくと思う。

僕が何十年と続けていて飽きない趣味のひとつが「スノーボード」でもうひとつが「競馬」だ。スノボは当初はオーソドックスに自分の技術が上達することが大きなモチベーションだったが、今は最高なコンディションで滑ることに変わっている。新雪のパウダーをよく晴れた早朝に滑り降りることが最高の喜びなのだが、こんなによい条件に出会うことは1シーズンに1回あるかないかであり、まさにままならない。競馬は馬が仔馬から成長して親になり子孫に繋がっていくのを楽しめるという点では成長ドラマなのだが、馬券を当てるということになると予想という知的ゲームであり、当てるだけでなく儲けるということになると投資である。どれだけデータを集めても当たらないときは全く当たらない。まさに「分かる」に永遠に至らないゲームである。

おじさんの趣味といえば昔から野球観戦に釣りが定番だが、どちらも結果が分からなくてままならないものだ。*3自身が成長してしまった後に、スポーツや自然相手の趣味に行きつく、というのはひとつの真理なのかもしれない。

*1:ここまでいくと作っている庵野監督自身ですら分からないのではないかとさえ思える。

*2:僕は最高の女性というのは一緒にいてもいつまでも飽きない女性だと思っている。

*3野球と釣りが趣味といえば糸井重里氏が真っ先に思い浮かぶ。