付加価値はいらない。

このあたりを読んで色々と思ったことをつらつらと。まあTwitterでつぶやいてたことをまとめるだけですが。

自意識に結びつける論に常に違和感を感じ続けている者として、強く同意。もちろん自意識に結びついて悪いということはないけども、そうじゃない人もいることを忘れないで。

こんな感じのブクマコメント書いてますが、逆に「ためになる」とか「教養として」とかいう理由をつけられるのもあまり好きじゃないんですよね。

 で、社会的評価が高い趣味ほどポジティヴ原因論で説明され、低い文化ほどネガティヴ原因論で説明されることが多い。

 たとえば漱石の『こころ』を読んでいたからといって、「あいつ、恋愛で悩んでいるんじゃ?」と心配されることはないでしょう。作品本体の価値が周知されているからです。

ポジティブ/ネガティブという言い方をされていますが、ここを対立する二元論で見られてしまうことはたぶん海燕さんの本意じゃないと思う。でも、ここで「ブンガクを教養として〜」みたいな文言が頭に浮かんだ人もいるんじゃないかな。僕はそういう意味での「社会的に」ポジティブな理由とされているものからも、できたら自由でいたい。
どう言ったらいいのかな……趣味に趣味以外の意味を付加されたくない。不純物をなるべく取り除きたい。ネガティブな意味でもポジティブな意味でも付加価値は無くていい。「教養になる」「人生が変わる」「承認欲求が満たされる」「逃げ場所になる」そんなもの全て、知ったことか! とか思う。
もちろん、他人にまでそうしろと言うつもりはないし、僕自身そこまで自由になれているとは思っていない。でも、方向としてはそっちに行きたいんだよね。


寄生獣最終巻のセリフでこういうのがありまして、

「道で出会って知り合いになった生き物がふと見ると死んでいた。そんな時何で悲しくなるんだろう」
「そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ」
「だがなそれこそが人間の最大の取り柄なんだ」
「心に余裕(ヒマ)がある生物」
「なんとすばらしい!!」

この一連のシーンが好きでねえ……。
僕にとって趣味とは心のヒマを注ぎ込む対象で、それ以上のものじゃない。いや、だからこそ価値があると思っている。
逆に言うと、「無意味」であることにこだわりすぎているのかもしれないなあと思ったりもします。「無意味」でなきゃ「意味」がないみたいな、なにやら本末転倒な匂いもする。人生の中で重要な位置を占めるほどのリソースを注ぎ込んでいるのに、それ自体は自分にとって無意味であってほしいという矛盾。


これは海燕さんの言う「積極的に趣味を楽しむ」という感覚と近いのか遠いのか、どっちなんだろうな。個人的にはだいぶ近いんじゃないかと思っているんだけど。

寄生獣(完全版)(1) (KCデラックス)

寄生獣(完全版)(1) (KCデラックス)