コンヴィチュニー演出の『サロメ』








 2/22(火)に、新宿紀伊國屋サザンシアターで、文学座のマチネー公演『美しきものの伝説』(西川信廣演出)を観劇。昔観た同じ文学座公演は、加藤武(四分六)、江守徹(早稲田)、菅野忠彦(クロポトキン)、石立鉄男(暖村)、吉野佳子(野枝)、細川俊之(幽然坊)、小川真由美モナリザ)、太地喜和子(突然坊)などのキャスティングであったから、同じレベルでの舞台はのぞめないところ。演劇評論家渡辺保氏によれば、かつての文学座では、久保田万太郎の指導のもと、日常語を演劇の言語として語る訓練がなされていたので、断片化された場面ごとに語りの魅力が散りばめられた、この宮本研の作品を舞台化するに適していたとのことである(NHK・BS「昭和演劇全集」での高泉淳子さんとの対談で)。しかし新たな意欲で取り組まれたこの舞台は、祝祭性も感じられ、面白く観劇した。白いパラソルをさした野枝役の荘田由紀は、印象的であった。
  http://simmel20.hatenablog.com/entry/20101224/1293165294蜷川幸雄演出『美しきものの伝説』観劇記)
 さて幕間狂言として、浅草で上演されていた「サロメ」が演じられた。井村君江氏の『「サロメ」の変容』(新書館)によれば、「こうした舞踊や音楽を付けて改作されたサロメが、浅草の舞台でひんぱんに上演されるピークは、抱月と須磨子が相次いで世を去った大正七、八年頃から十二年の関東大震災の前後である」(126頁)から、「サロメ」劇の挿入は唐突ではないのだ。

 2/26(土)に、上野の東京文化会館東京二期会公演オペラ、ペーター・コンヴィチュニー演出、シュテファン・ゾルテス指揮の『サロメ』を鑑賞。(競馬「東京新聞杯」「共同通信杯」と重賞3連複連続的中の払い戻し金で、S席前列5列のチケットを入手したのであった!)核シェルターのような閉鎖的な空間で繰り広げられる倦怠と頽廃(輪姦・屍姦・人肉食その他なんでもあり)、つまり「欲望の飽和(純化学用語のsaturationは比喩としても使用しないほうがよいようだ)」の状態が現代であるとし、サロメの愛の真実を希求する生き方こそが、そこを脱出できる可能性であり、希望であるとの、演出家のメッセージである。
  http://www.nikikai.net/enjoy/vol283_02.html 
  http://www.nikikai.net/enjoy/vol284.html
 いままでオペラの『サロメ』の舞台は、レオニー・リザネックがサロメの「ウィーン国立歌劇場」公演(NHKホール)と、田月仙=チョン・ウォルソンがサロメの「東京オペラ・プロデュース」(PARCO SPACE PART3)の二つだけ。演劇では、スティーブン・バーコフ脚色・演出のもの(銀座セゾン劇場)と、美加理がサロメの、宮城聰構成・演出の劇団「ク・ナウカ」公演(日比谷公園・草地広場)を観劇。アイーダ・ゴメスがサロメの、カルロス・サウラ演出の舞台は、「アイーダ・ゴメス スペイン舞踊団」による舞踊劇。いずれも力を感じた面白い舞台であった。今回は、異色すぎる演出であったが、「異化効果」のブレヒトと、演劇の壁を取っ払う寺山修司ブレンドの演出であり、「西洋の没落」というすでに旧くして新しい主題の提示と考えれば、それほど衝撃的ではない。むしろサロメがまったく脱がず、死なないことが驚きである。
 ともあれ魅力は、終幕の「愛の神秘は死の神秘よりも深い」などと独唱する、大隅智佳子(サロメ)のソプラノの美しさである。心地よい興奮を覚えた。最後に観客席から「あの女を殺せ!」と日本語で怒鳴らせた演出にも、とくに戦慄することなどなかった。舞台と客席との壁を壊す試みは、すでに宮本研のときから日本演劇で企てられてきたことである。
⦅写真(解像度20%)は、千葉県九十九里の民家に咲く菜の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆