ユダヤ文化について

 ユダヤ人思想家エマニュエル・レヴィナスを師と仰ぎ、その哲学を翻訳紹介してきた、神戸「凱風館」道場主内田樹(たつる)氏の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)は、「ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない」という基本的立場で書かれていて、アクロバット的な論理を追っていくと眩暈を覚える書である。現代の各ジャンルにおいて数えきれないほどの天才を輩出しているユダヤ人の「たいへんイノベーティヴ」な特性、つまり「ユダヤ的知性」とは、内田氏によれば、「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知」しつづける「知的拷問」に耐える能力なのである。ユダヤ人のみが何ゆえ「行動する自分を見つめ、思考する自分を見つめるように」生きるかといえば、それは、造物主の天地創造の以前にこの世に存在してしまった彼らの「霊的尊属」としての有責性の自覚にもとづく。(ユダヤ人にとっては、天地創造神話はsequential{シーケンシャル=始めから順を追った}な物語として捉えられていないようである。)
『実際に罪を犯したがゆえに、有責性を覚知するのではなく、有責性を基礎づけるために「犯していない罪」について罪状を告白すること。それが「私は自分が犯していない罪について有責である」という言葉にレヴィナスが託した意味である。
 この偽造記憶は外部に投射された自責のための擬制としてではなく、まぎれもない事実として受け容れられなければならない。にもかかわらず、罪深い行為は事実としては決して存在してはならない。なぜなら、事実として存在した瞬間に、私の有責性は私の外部に実定的な根拠を有することになり、それは倫理の問題ではなく、単なる、「復讐」と「損害賠償」の法的問題に転化されるからである。』
 このような「自分には真似のできない種類の知性の運動」に、非ユダヤ人側はユダヤ人に対する激しい欲望を喚起され、「その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意が道具的に要請された」ところに、「特別な憎しみ」にもとづく反ユダヤ主義が成立したのだというのが、内田氏の分析である。反ユダヤ主義が、現実には実体として存在しないユダヤ人を創設したのだとのサルトル流の社会構築主義に、敬意を払いつつも氏は組みしない。同じように現代フェニミズムが、差別の実体的根拠を欠いていることをあげつらい「シニフィアン(=意味するもの)はただのイデオロギー仮象である」としてすませてしまうことは、問題なのである。
ラカンの言うとおり、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立は現実的な世界から導き出されたものではない。そうではなくて、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立の方が「現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ」たのである。
 この二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何かを言うことができるようになった。けれども、その「何か」は現実界に実体的に存在するものではない。それはある「隠されたシニフィアン」を言い換えた別のシニフィアンに他ならない。けれども、「ユダヤ人」というシニフィアンを発見したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである。』
 スコットランド宣教師ノーマン・マクレオドに始まり、中田重治、佐伯好郎、小谷部全一郎らに継承された、日本人の祖先はユダヤ人であるとの「日猶(にちゆ)同祖論」が近代日本思想史にはあって、このロジックとは、「一言にして言えば、西欧において『罪なくして排斥せらるゝ』ユダヤ人とわが身を同一化することによって欧米諸国の犯罪性を告発する側にすべり込むというもの」ということだ。ここはとりわけ面白い。
ビル・エヴァンストリオの「イスラエル」。ビル・エヴァンスユダヤ人ピアニスト。)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上ルリタマアザミ、下ネムノキ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆