「立憲主義」をめぐって


 篠田英朗東京外国語大学総合国際学研究院教授の『集団的自衛権の思想史』(風行社)は、国際政治学者として、わが国憲法学のいわば〈家元制度〉的に継承されている思考法に異議を唱えている。
「国際協調主義にしたがった行動が憲法の理念に合致し、国際協調主義に反することが憲法の理念に反する、といった議論を進める余地が全く」なくなっているのみならず、軽武装路線の継続で高度経済成長を達成できたという「1960年代の成功体験に浸かった発想からどうしても抜け出すことができない」で、「なおベトナム戦争に巻き込まれないように、繰り返しベトナム反戦運動を再興することを目指すような発想」で国際協調主義の可能性を軽視している、現代日本の現状があるとしている。
……こうした事態は、安保法制をめぐって高まった「立憲主義」をめぐる議論に対して、大きな意味がある。しばしば立憲主義とは権力に制限を課すことだ、と論じられた。しかし「(Constitutionalism)」とは、社会の構成原理は簡単に変更してはならない根本規範であるという信念のことであり、本来であれば、その根本規範には権力行使者だけではなく、一般国民も、服することになる。根本規範は、「我が国の存立」でも、永久継続革命でもない。憲法が定める根本的な社会構成原理、たとえば「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を擁護すること、である。政府は国民の信託を受けて、そのために最大限の努力をする義務を負っている。
 今回の安保法制に、立憲主義的な論理の基盤は存在している。政府が安全保障上の措置をとることの説明として、憲法一三条に言及することは正当なものであろう。ただし、「我が国の存立」自体が、あたかも重要原理であるかのように錯覚するだけでは、あるいは主権者・国民がどこまでも権力者を制限していく物語を夢想するだけでは、日本国憲法が規定する社会構成原理は溶解し、立憲主義の危機が訪れるだろう。……(p.174 )