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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

0000-00-12 岡田利規と三浦大輔

[]岡田利規と三浦大輔

 平田オリザや岩松了、長谷川孝治、松田正隆ら九〇年代の「関係性の演劇」の影響を受けながらも、先行する作家たちと志向性の異なる若手劇作家が今世紀に入り、相次ぎ登場している。そうした「ポスト平田オリザ」世代の劇作家のなかでももっとも目立つ存在でもあり、ここ一、二年私が「今もっとも刺激的な演劇を見せてくれる」といい続けたのがチェルフィッチュの岡田利規とポツドールの三浦大輔である。「悲劇喜劇」の「今年の収穫」特集でも連続して取り上げたが、周囲の批評家らの取り上げる舞台とあまりに場違いな感もあり、肩身の狭い思いもした。ここに来て昨年の岡田に続き、今年は三浦が岸田戯曲賞を受賞。年末には岡田は新国立劇場での新作上演もひかえており、ようやく表舞台でも注目されてきたのは喜ばしいことだ。

 「悲劇喜劇」の読者層にはまだ彼らの試みている演劇的実験がどのようなものなのかがぴんとこない人が大多数とも思う。そこで今回は特集の場を借りて、本格的な論考というよりは「試論」の形に近くはなるが、彼らの舞台について簡単に紹介してみたい。

 平田オリザが自らの演劇を「現代口語演劇」と名づけたように岡田利規の場合も現代口語を舞台にのせるという意味では先行する平田、岩松らと共通する問題意識から出発している。先行世代が舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形で追体験されていくような「リアル」志向の舞台(いわゆるリアリズム演劇ではないことには注意)を構築したのに対し、チェルフィッチュの岡田のアプローチは会話体において「ハイパーリアリズム」、演技・演出においては「反リアリズム」というところに違いがある。

 チェルフィッチュはハイパーリアルに既存の演劇が捉えることができなかったような現代の若者の地口のような会話体に迫っていく。そのせりふ回しは渋谷の若者がそのまま舞台に出てきてしゃべっているような伝統的な劇言語の常識からすると許しがたいほどに冗長きわまりないものだ。以前、平田オリザは「現代口語といっても現実に交わされる女子高生の会話などはそれだけではあまりにたわいがなくて、芝居にはならない」と発言したことがあったが、岡田のアプローチはそのままでは芝居にならないようなたわいないせりふを拾い上げて、舞台にのせるための戦略だといえる。

 第一の特徴は岡田の芝居が現代口語演劇の劇作家たちがそうであったような群像会話劇ではないことである。それはモノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがない独自の方法論により構築されるまったく新しいタイプの「現代口語演劇」なのである。

 チェルフィッチュでは役者が舞台に登場して「これからはじめます」と客席に向かって語りかけるところから舞台ははじまる。この客席に向かって語りかけるモノローグはブレヒトの異化効果やシェイクスピアの傍白を連想させるが、こういうモノローグ的なフェーズと会話(ダイアローグ)を自由自在に組み合わせてテキストを構成していくのが大きな特徴だ。作品のなかで提示される出来事は多くの場合、伝聞ないし回想として語られ、リアルタイムにいまそこで起こっていることとしては演じられない。断片化されたエピソードは実際に出来事が起こった時系列とは無関係に行きつ戻りつしながら、ループのような繰り返しを伴い、コラージュされたテキストのアマルガム(混合物)として観客に提示されていく。

 ここでブレヒトの例を出したのはおおげさな物言いに聞こえるかもしれない。しかし、実は岡田自身も刺激を受けた劇作家として、平田オリザと一緒にブレヒトの名を挙げており、平田の方法論と対峙し、それを超克するためのモデルのひとつがブレヒトだったことも確かのようなのである。

 もう少し具体的に説明したい。岸田戯曲賞を受賞した「三月の5日間」を例にとる。そこでは米軍によるイラクのバグダッド空爆と同時進行する五日間の出来事がその間ずっと渋谷のラブホテルにこもりっきりになってセックスしていたある男女のことを中心に語られる。だが、そのカップルをはじめとする主要人物を通常の芝居のように1人1役で特定の役者が演じるわけではない。例えばある場面をある俳優が語るとすると、そこには「その時の自分」と「その時の会話の相手」、さらにそれに加えて「その両方を俯瞰する第三者としての自分」という小説でいう地の文的のような階層の異なるフェーズが岡田のテキストには混在している。これをひとりの俳優が連続して演じわけていく。そうすることで演じる俳優と演じられる対象(役柄)との間にある距離感を作るのが、岡田の戦略で、さらに舞台では同じエピソードを違う俳優が違う立場から演じ、それが何度も若干の変奏を伴いながらリフレインされる。

 岡田の舞台のアフタートークでク・ナウカの宮城聰はチェルフィッチュのスタイルをピカソのキュビズム絵画の傑作「アビニョンの娘たち」になぞらえた。その発言は本質を鋭く突いており、非常に興味深かった。ピカソは「アビニョンの娘たち」本来は同時には見えないはずの複数の視点から見た対象の姿をひとつの画面に同時に置いてみせた。岡田の舞台では複数の俳優が同じ人物を演じることで、それぞれの人物について、複数の視点を提供し実際に舞台上で演じられている人物の向こう側に自らの想像力である人物像を再構成する作業を観客にに要求する。それはある時は上から、ある時は横からと見え方を変えてリピートされ、それを見る観客はインターテクスト的な読み取りによって「そこで起こったことがなんだったのか」を脳内で再構築することになる。これが岡田の作る舞台がそれまでの演劇と決定的に異なるところだ。

 チェルフィッチュのもうひとつの特徴は舞台のなかで演じる俳優がたえず手や足をぶらぶらさせたり、落ち着きなく動き続けているという独特な演技スタイルだ。ダンス的とも評されるところで、一見無造作にだらしなく動いているように見えて、実は細かく演出された動きであり、そこには日常の身体の持つ不随意運動のようなノイズを俳優の演技にとりいれようという狙いがある。これは日常的な身体のあり方を舞台に取り入れようと試行錯誤してきた最近のコンテンポラリーダンスの成果の演劇への応用と見て取ることも可能で、そこにこの集団が演劇よりも先に一部の舞踊評論家により注目され、ついにはトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされるなど評価された理由がある。ノイズ的な動きもこれまでの演劇だったら、やってはいけないことの典型なのだが、そこには現代人の身体と言葉の乖離という現象への岡田の鋭い問題意識がうかがえる。

 一方、ポツドールの三浦大輔は舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築していく。その意味では平田らの方法論を批判的に継承した岡田と異なり、三浦はその正統な後継者と考えることができるかもしれない。「覗き見させるような」と書いたが、これは平田が90年代に登場した時によく冠せられていた言葉でもあり、ポツドールの場合はその覗き見する場所を風俗のような悪場所に設定することで一層、「覗き見」の快楽をピュアに追求しようという確固たる意思が感じられる。

 例えば岸田戯曲賞を受賞した「愛の渦」。そこで三浦が描き出すのは見知らぬ男女が集まって乱交パーティーをする場所を、会員制のクラブとして提供しようという風俗店での一夜の出来事だ。

 芝居がはじまると上手にフロアに低い机とゆったり座れるソファが置かれている。下手にはどこかの部屋に通じていると思われるドアと2階に通じる階段。舞台の奥にはカウンター席、上手寄りに狭い通路があり、その先に店の入り口が見える。セットは相当に緻密に作られたリアルなものだ。一見ラウンジにも見えるこの空間が乱交パーティーを目的とした風俗店であることがしばらくすると分かってくる。店内には大音響でBGMが流れていて(今回はダンスミュージック)、上手側には四人の女性、下手側には四人の男性が座っているのだが、音楽のためにそれぞれの会話はほとんど聞き取れない。

 このいろんなものに邪魔されて聞き取れない、あるいは聞き取りにくい会話というのが三浦演出のひとつの特徴である。それが極限的に展開されたのが、大音響のヒップホップ音楽のために劇中の会話が一切聞き取れなかった「ANIMAL」。岸田戯曲賞受賞後第一作となった「夢の城」ではさらにこの方法論を一歩推し進め、舞台上には登場人物同士のセックスや食事などのやりとり以外には一切の言語的コミュニケーションがない無言劇も試みた。

 こういう既存の演劇スタイルに対する挑発性が三浦の特徴である。しかし、その奇異なスタイルはただ奇をてらっているわけではなく、観客の舞台への構え方をお茶の間でテレビ番組を見ているような受動性からある種の能動性に変えようという明確な狙いがある。その意味では三浦の無言劇には平田オリザが始めて一般にも普及し、最近ではそれほど珍しい演出でもなくなっている「同時多発の会話」と似たようなところがあるかもしれない。

 平田は同時多発会話により、同時には聞き取れない会話のうちのどちらかを観客が主体的に選択することで、舞台に対する受動的な構えを突き崩し、それぞれの場面で観客が注意深く、その会話を聞き取ることによって、発話で直接的に提示される内容だけではない発話の構造が提示する登場人物相互の関係性に観客の目が無意識に向くようになる仕掛けをつくった。三浦の場合も意図的に会話を聞き取れなくし、会話以外の仕草や役者の視線や表情のようなビジュアル情報を総合することで、その場面で展開されていることを観客が解釈や想像力がおぎなうことを要求する。

 このように書くと観客に無理難題を強いているように感じる人もいるかもしれない。だがそれはこれまで演劇が制度的に行ってきたことに縛られているだけで、これは日常生活では特別なことではなく経験していることなのだ。会話の全体が聞こえないとしても、人はそこで直面している状況に合わせて聞こえた部分の断片をつなぎあわせて解釈することができる。クラブや昔でいえばディスコのような喧騒空間のなかでも仲間内のコミュニケーションがある程度成立するのはそのためだ。

 「激情」「ANIMAL」など直近の作品ではしばらく遠ざかっていたが、いくつかの作品で三浦は「身体検査」(抜きキャバ)、「騎士倶楽部」(AVの撮影現場)、「メイク・ラブ」(ラブホテル)などと性風俗の世界を好んで取り上げた。そこにはある種のスキャンダリズムのような側面もあって、そういう特異性がこの劇団の知名度をサブカル的に高めてきたが、それだけではない。

 この「愛の渦」で三浦は風俗店を舞台にしてセックスを前提とした場に集まる人間を描くことで、好んで描きつづけた性の欲望に支配された性的動物としての人間を赤裸々に描きうる場を選択する。そこにはそれ以外のそれぞれの背景を意図的に捨象することで性という主題に特化した人間の姿を描き出す狙いもあった。

 これは本来は複雑な関係性をフラットなものに還元するため安易に見えかねない危険も含んでいるが、三浦が巧妙なのはこういう設定においても人が優れて関係的な生き物で性欲だけで生きているわけではないことをきわめて冷徹な筆致で提示していくところだ。平田の演劇について以前、「あたかも動物を観察するかのようにある空間で登場人物に起こる出来事を観察させるような演劇」と書いたことがあったが、三浦のこの芝居にも作演出の三浦と舞台の間の俯瞰的な距離感に同じような印象を感じる。

 それがもっともよく表れたのは途中で会話が途切れて気まずい雰囲気が漂いだした時に明らかに不適な会話なのに登場人物がそれぞれの職業とか出身地を聞き始める場面だ。これで思い出したのは平田オリザの「冒険王」という芝居。こちらは日本を捨てた放浪者的旅行者が集まる安宿に自分の夫を探しに日本から主婦が訪れる場面。ここでこの主婦だけが会う人会う人に「なにをなさっている人ですか」のような職業や出身などを聞くので、その場の雰囲気がしだい険悪なものになっていく。ここで平田は日本人の他者との関係のとり方を描写したわけだが、三浦のこの場面も日本人によくある状況を取り入れた会話で、観察眼鋭い切り口に感心させられた。

 もうひとつは後半の登場人物それぞれの本音が爆発して、一触即発になりそうな場面で、これはこういうフラットな関係にも当然、登場人物にはそれぞれの思惑があって、この場がけっして、性のユートピアのようなところではありえないということが、明らかにされるところだ。モチーフに直接的に暴力やセックスなど、人間の抱える暗部をもってくるためにどうしてもサブカル的な方面から興味本位に紹介されることの多いポツドール(三浦)だが、会話の緻密な構築やそれをあえて捨て去った無言劇など、そのラジカルな前衛性はチェルフィッチュ同様に「今もっとも刺激的」なのである。

 平田に代表される前世代の作家たちもそのラジカルな実験性においては岡田や三浦に劣るものではないが、岡田・三浦の舞台の魅力は彼らが公演ごとに自らのスタイルを変貌させ、その可能性を追求している模索の段階にあることにもある。それは極端なもの言いをすればそこから、これまでの日本演劇の歴史を変えるような新たな地平が誕生する期待をいままさに孕んでおり、実験性ゆえに見慣れぬスタイルへの激しい拒絶が起こることや、公演ごとに毎回賛否両論に評価が割れることも含め二人の舞台はスリリングで目が離せないのだ。

(「悲劇喜劇」2006年8月号原稿)