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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2000-01-29 コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」

[]コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」

名古屋愛知県芸術文化センター小ホールで、コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」を観劇。その後、東京に戻って、「ロード・オブ・ダンス」を観劇。

 コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」は愛知芸術文化センターの自主企画公演で、伊藤キム大島早紀子、山崎広太、笠井叡の4人の振付家の作品を一度に見られるという東京でもちょっと得がたい機会ということで、名古屋まで出掛けて見ることにした。上演されたのは以下の4作品。


 伊藤キム+輝く未来「生きたまま死んでいる人は死んだまま生きているのか?」

 大島早紀子+平山素子「死の舞踏

 山崎広太+井神さゆり「Oblique line」

 笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」


 フルオーケストラによるH・アールカオスの「春の祭典」などを上演した話を以前に聞いて、その時から気になってはいたのだが、今回の公演はこの劇場ダンスに関する熱意を感じさせる意欲的なラインナップで、地方の劇場にこういうところがでてきているのは頼もしく思った。

 個々」の作品内容については後で別途書き込みことにしたいがなんといっても最大の収穫は大島早紀子の振付でH・アール・カオスでも活躍するダンサー平山素子のソロ作品「死の舞踏」を見られたこと。平山が99年第3回バレエモダンダンス・コンクールに参加し、金賞とニジンスキー賞をダブル受賞した作品の再演だが、この作品は東京ではまだ上演されたことはなく、今回がコンクール以来初めての上演となった。上演時間8分程度の小品ながら、大島の振付・構成、それを具現化した平山のパフォーマンスともにドラマティックでスケールの大きさを感じさせるもので、例えばこれがそのまま世界バレエフェスで上演されたとしても見劣りしないと思われるほど完成度の高い作品であった。一方、仰天させられたのは笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」。元気ジジイ(失礼)のはじけぶりにはいったいなんなんだこの人はと唖然とさせられた。この2作品と出会えただけでも名古屋までわざわざ行った甲斐はあったと思ったのである。

2000-01-23 弘前劇場「召命」とク・ナウカ「オイディプス・レックス」

[]弘前劇場「召命」

弘前劇場「召命」(2時〜)、ク・ナウカ「オイディプス・レックス」(6時〜)を観劇。

 弘前劇場「召命」について書くことにする。この舞台弘前劇場俳優である畑澤聖悟の作・演出による。この芝居でも登場する俳優らはそれぞれ普段使っている日常語(主として弘前地方の方言)を劇中で話し、その意味で現代口語津軽弁演劇という長谷川孝治の提唱する弘前劇場のスタイルは一応、守られてはいる。けれども、これは長谷川が作演出する時の弘前劇場とは全く毛色の違う芝居である。長谷川の作品が日常的な関係の微細な描写から、それぞれの登場人物の間に生じている様々な隠れた関係性を浮かび上がらせていくの対して、畑澤聖悟は全く違う演劇的アプローチで作品を作り上げているように思われるからである。

 「召命」で描かれるのは近未来の中学校である。その時代の中学校は授業崩壊などと言われる昨今の情況をはるかに超えた荒廃ぶりとなっている。そうした情況下で中学校の校長の死亡率は自衛隊員、原発職員に匹敵するほど高い。そこで校長のなり手がいないため、くじで選ばれた「当該学校の教職員による民主的な話しあいに決定する」ことになっている。だれも自から希望しては校長になりたがらないからだ。その話しあいの場所となる校長室にベテランの学年主任から、新採用の教師、校務員、一般社会人から期間限定で採用されたレンタル教員まで8人が集まってくる。このうちだれが校長に選ばれるのかがこの物語の焦点になるわけだ。

 畑澤は校長選びの話しあいを喜劇的なタッチで描いていく。冒頭いきなりギター弾き語りで校務員が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を吟じるほか、駄洒落を連発する教頭、学校の中ですぐに道に迷ってしまう赴任したばかりのレンタル教師らリアルというよりはコミカルにデフォルメされた人物が多数登場し、スラップスティック調で展開していく。

観客は笑っているうちに、いつのまにか重いテーマに引き入れられていく。これが畑澤の狙いである。というのはここでの校長選びは実は8人の中から1人生贄としての犠牲者を決めるということ。ここには「校長選び」=「生贄の王(カミ)選び」という神話的構造が隠されているからである。「生贄の王」とはある共同体を安定化させるために、なにかことがあった時にその首を「供犠」としてさしだす存在である。この物語での校長は「学校でなにかことがあった時にその首をさしだす人物」として生贄の山羊そのものなのである。

 この物語の中には新任の国語教師が使っている教材に出てくるという仕掛けで瓜子姫やオウゲツヒメのことが出てくる。これらの神話はその死によって、その死体から農作物が発生するという形を取る。これは「姫」の死により発生したとされる特定の食物(瓜子姫の場合はソバ)の起源を説明する食物起源神話であると。さらに、底で引用される書物ではその「死」が豊穰を約束するという意味で、隠ぺいされた「供犠」についての物語でもあるとの説が紹介される。

 この物語でのテーマはこの「生贄の王(カミ)」がいかなる構造において誕生するのかということだ。長谷川の場合にはこうしたテーマは作品には直接登場せずに暗示されることが多いのだが、畑澤は「校長選び」という表のテーマが直接的にこうした構造を提示するという意味でこうした構造を明示するところにその作劇の特色がある。

 「生贄となる王」は瓜から生まれた瓜子姫が川を上流から流れてくるように、共同体の外部ないし周縁のマージナルな部分からやってくるものが選ばれる。民俗学者折口信夫はこれを称して「マレビト」と呼んだ。この芝居は芝居の形式を踏んだ畑澤聖悟の「マレビト」論なのである。もちろん、この芝居での「マレビト」は中学校という運命共同体において外からやってきたレンタル教師仰木であり、そのためにラストシーンにおいて「マレビト」たる仰木は「生贄の王」として校長を引き受けるのである。

 さて、ここまではこの芝居において畑澤聖悟が仕組んだ構造の説明なのだが、これだけでは芝居の骨格にすぎない。この芝居が面白いのは共同体において存在する「生贄の王」という厳しい現実をシリアスな会話劇の形で提出するのでなく、あくまで喜劇として提出していることである。劇作として考えると「校長選び」が最後の「生贄の王としてのマレビト」につながっていくプロセスにおいて、この芝居ははっきり言って強引なむりやりな展開が目立つ。これは平田オリザがどこかで言っていたような「演劇は嘘であるのだから、どうせ嘘をつくなら、うまい嘘をつく」という考え方とは正反対といってもいい。人の出入りを無理やりに作るために議論が煮詰まるとすぐに休憩をいれる司会役を用意してみたり、本来緻密さが要求されるシテュエーションコメディーとしてこれを見たら到底評価に値するものではないともいえる。

 こうした無理からの展開をなんとか流れとしての芝居に引きとどめているのはちょっと普通じゃない人物を演じさせても、それゆえにこそ光る弘前劇場俳優陣の力であろう。

 駄洒落を連発し一見、軽薄な人物に見えながら、実は謀略家であり、熱情家でもある教頭を演じる福士賢治。やはり、どこかずれた人という軽めのキャラクターを楽しそうに演じながらも「召命」というこの芝居のテーマであるラストシーンの微妙な表情をみごとに演じきってみせた後藤伸也。長谷川演出では最近は物語のキーポイントとなるシリアスな役柄を演じることの多いこの2人の看板男優をあえて一見、軽めの性格のキャラとして起用し、自由に遊ばせながら、後半2人が対立するシーンではちゃんと俳優としての凄みも引きだすなど、畑澤聖悟という演出家はなかなかの戦略家だと感じさせたのである。もっとも、これは持ち駒があってのことで、この芝居俳優がだれでも成立するものではないとは思ったのだが。

 スラップスティックないしはファルスの衣をまとった重厚な思想劇。これが「召命」において畑澤が見せてくれたもうひとつの弘前劇場である。

[]ク・ナウカ「オイディプス・レックス

 ク・ナウカ「オイディプス・レックス」について感想を書く。表題の「オイディプス・レックス」のレックスというのはラテン語の王ということで、そういえばティラノサウルスレックスというのは恐竜の王という意味だったような。この公演はク・ナウカ若手新人公演として企画され、劇団入団1、2年目の若い俳優らによって上演された。本公演ではなかなか大きな役がつくことの難しい若手の鍛練の場とともに、この「オイディプス王」は5月の利賀フェスにおいて、本公演においての上演が決まっているということもあり、この劇団がこれまで本公演の前に小さなスペースで行ってきた実験公演と同様、本公演に向けてのブレーンストーミングの役割も果たしている。

 さて、これまでの実験公演では舞台の完成度において、若干不満を覚えることが多かったのだが、今回の公演では俳優キャリアの少ない若手だということを勘案すれば演出や演技の面で意外といっていいほど完成度が高かったのに感心されられた。特に主要は配役であるオイディプス、イカオステ、クレオン、ティレシアスといったところスピーカー(語る俳優)はところどころは気になるところがないではないながら、語りのスタイルが多様で、かなりの技術が必要となるところをうまくこなしていた。本公演への出演経験もあるクレオン萩原ほたか、イカオステの吉田桂子は安定していて当然としても、98年入団で若手公演とはいえオイディプスのスピーカー役に抜擢された本多麻紀の頑張りが目についた。今後が楽しみな存在である。一方、ムーバー(動く俳優)の方はさすがに本公演と比べるとビジュアルはともかく、演技の深みの点でかなり差がるのは否定できない。とはいえ、ムーバーは最近のク・ナウカにおいては美加理が完全に中心になって、特に「エレクトラ」や「王女メディア」などではほぼひとり舞台に近い印象もあり、それと比べれば影が薄く見えてしまうのはいたしかたないかもしれない。

 一般に身体的表出を表現の中心に置く、「身体性の演劇」においてはその舞台を担いうる身体というものは一朝一夕に得られるものではなく、それぞれの集団が葛藤の末に獲得したある種の様式性とでもいうものを担いうる身体を持つ俳優を育成するには時間がものすごくかかるのである。その意味ではク・ナウカの場合、ことスピーカーについてはある程度のレベルにまで最初は素人に近い俳優たちを段階を踏んで訓練するためのメソッドが確立しつつあることを感じさせたが、ムーバーについてはその具体的な技術のありようが見えにくいだけに新人の育成ということに関してはかなり厚い壁があることを感じさせた。

 ただ、今回の舞台においては宮城聰ソポクレスによるギリシャ古典悲劇を今、日本で上演することにおいて持ち込んだ「東洋人的な権威としてのオイディプス王」という解釈のフレームが芝居を持ちこたえさすということにおいて有効に作用していたことは認めざるをえない。簡単に言えば、解釈から導きだされるそれぞれの人物像といったような知的な面白さが芝居において大きな比重を持っていたということである。

 この芝居におけるオイディプスは僧衣のような服装を着て、あたかも能楽のシテのようにしずしずと舞台に登場して、テーバイを覆う穢れについて静かに語りはじめる。ここではオイディプスのムーバーも女性(寺内亜矢子)が演じていて、その存在における女性的な部分が強調されている。ク・ナウカで「王女メディア」の次に「オイディプス」をやるという話を聞いた時にはでは美加理はどうするのと思ったのだが、この解釈はおそらく本公演での美加理=オイディプスを踏まえてのことで、これまでの私のイメージではオイディプスはベテラン男優が演じることが普通なので、リア王と重なる部分があったのだが、考えてみれば実の母親(イオカステ)と結婚できるほど若いわけで、こうした解釈もなりたつ余地があるわけだ。

 実はこの芝居とは直接関係はないのだが、ソポクレスには盲目になったオイディプス王が長い放浪の旅の末に娘、アンティゴネーに手を引かれながら、アテナイ郊外のエウメニデスの禁制の神域にやってくるという後日譚を描いた「コロノスのオイディプス」という作品がある。先にあげたオイディプス=リア王のイメージは私にとってはどうもこの芝居の方でのオイディプスから連想されたイメージがまとわりついているというのがあることに気がついた。

 宮城の今回の解釈ではイカオステとオイディプスの関係というのは実際にインセストタブー(近親相姦の禁忌)を犯しているという事実の以前から疑似的な母/子関係であって、そのことは芝居の後半に薄い幕を通して、映しだされる2人の情交シーン(象徴的に様式されたセックス)に感じられた。当日配られたパンフにおいて宮城は「もし、オイディプスに救済が訪れるなら(中略)、その救済のきっかけを「母性」に見いだしているのですが」と書いている。だが、「母性=妣なるもの」に向かっての救済というのは永遠子宮願望ともいえるわけで、スフィンクスの謎を解いた最初の探偵でもある知性の人オイディプスの「子宮への退行」を暗示させもし、それが果たして救済たりえるのかという問題は依然、残るような気がする。

 実は「コロノスのオイディプス」におけるオイディプスというのは典型的な「マレビト」であって、タブーを犯した穢れた存在である(しかも、近親相姦と神の神域を犯すという2重のタブー)とともにそれゆえにこそ「死」を媒介にして、アテナイの守護的存在となるべく、聖域の森に消えていく。もちろん、これは同じ作者の別の芝居での話なので、「オイディプス」自体とは直接関係はないのだが、ちょうど直前に弘前劇場の「召命」を見たばかりだったので芝居を見ながら、頭の片隅でこんなことも連想してしまった。 

2000-01-13 音楽座ミュージカル「アイ・ラブ・坊っちゃん」

[]音楽ミュージカル「アイ・ラブ・坊っちゃん

 日本のオリジナルミュージカルを作っている集団の中で、私が唯一、評価しているのが音楽座なのである。この集団の作品としてはなんといっても、土居裕子が主演した「マドモアゼルモーツァルト」が傑作で、音楽TMNを解散した直後で、現在のように大御所的存在になっていない小室哲也を起用。曲としてモーツァルト音楽小室音楽を両方使っているのだが、これが渾然一体となっていて、素晴らしい出来栄えなのである。「マドモワゼル・モーツァルト」は私の中で自由劇場の「上海バンスキング」やアトリエダンカンの「阿国」(こちらは上々颱風音楽を担当している)と並んで国産ミュージカルのベストを争うものとなっているので、なかなかこれを超えるという印象にまでいかないが、今回上演された「アイ・ラブ・坊っちゃん」もこうした作品に近いレベルに迫る好舞台であった。

 「アイ・ラブ・坊ちゃん」はだれでも知っている夏目漱石小説坊っちゃん」をモチーフにしている。こう説明すると単純な痛快活劇をイメージする人も出てくるかもしれないが、そういうものとは違う。「坊っちゃん」を執筆している漱石自身と「坊ちゃん」の作品世界が交互に進行するという構造になっている。ここでは「坊っちゃん」を手掛かりにして漱石の評伝劇を描こうとしているわけだ。

 ミュージカルと評伝劇とは奇異な取りあわせのようにも思えるが、考えてみるとミュージカルには意外と評伝劇が多い。「ジーザス・クライスト・スーパースター」が評伝劇といえるかには問題があるとしても「エビータ」は明確にそうだ。作家セルバンテスとその登場人物ドン・キホーテを2重映しにしながら、ちょうど本作のように入れ子構造を多用した傑作「ラ・マンチャの男」があるではないか。そう思って考えてみると「アイ・ラブ・坊ちゃん」はひょっとしたら、日本版「ラ・マンチャの男」を意識したのではないかと思われてきた。

  この舞台では進行につれて、「坊っちゃん」の作中人物である山嵐がしだいに漱石の親友であり、夭折した歌人正岡子規の姿と重なっていく。「坊っちゃん」で描かれる舞台漱石が英語教師として赴任した松山だが、そこはまた子規の故郷でもある。この舞台には漱石を訪ねる編集者として、高浜虚子が出ているが、「坊っちゃん」が掲載された「ホトトギス」はもちろん子規が創刊した雑誌であり、もちろん、漱石英国留学中に急逝してしまった子規はここにはいないのだけど、この「アイ・ラブ・坊っちゃん」の中では山嵐と子規を1人の俳優佐藤伸行)が演じることでこの作品における子規の存在感は漱石に迫るものとなっている。そういえば、ここまで考えてうかつなことにあらためて気が付いたのだが、このミュージカル群像によるダンスシーンでここには「吾輩は猫である」の猫をはじめ、漱石作品に登場するキャラクターが次々に登場してダンスを踊るのだが、その中になぜか場違いにドン・キホーテサンチョ・パンサのコンビがいたのである。しかも、このサンチョもこの舞台では佐藤が演じているのである。

 これほど明確な証拠が提示されていながら舞台を見ていた時には「知ったかぶりの世間智に挑んでいく主人公、坊っちゃんにはなんとなくドン・キホーテを思わせるところがあるし、その象徴かな」ぐらいにしか理解してなかったのだが、こうなればこの舞台と「ラ・マンチャの男」の間には明確な関連があることは間違いない。子規=山嵐サンチョだとすれば当然、その同士であるのは漱石坊っちゃん=キホーテということになるではないか。もちろん、漱石自身はこの小説の中に出てくる人物としては悪役となっている帝大出の教頭赤シャツの立場に松山赴任当時は近かったわけで、そう簡単に等号で結べるものでもないのだが、そういう風に考え始めると「坊っちゃん」という作品と「ドン・キホーテ」には重なりあう部分も多い。

 狂気のドン・キホーテ妄想の中でラ・マンチャ周辺のなんの変哲もない人たちを騎士道物語のなかの人物のように名付けるように「坊っちゃん」という小説では主要登場人物が皆、主人公のつけたアダナで呼ばれる。中でも注目すべきは「マドンナ」の存在である。ドン・キホーテが宿屋の娘、アルドンサを理想に姫「ロシナンテ」と呼んだように婚約者であったうらなりから、赤シャツに乗り換えてしまったように美貌の持ち主ではあってもおそらく凡庸な女性だったと思われる人間が「マドンナ」と呼ばれた時、よくも悪くも文学史に残る存在となったからである。

 脱線はこのくらいにして、「アイ・ラブ・坊ちゃん」に戻ろう。実はこの作品は初演、再演を見ていて、今回が3回目なのだが、音楽座でいつも感心させられるのはキャストのよさである。特に今回のキャストは坊っちゃん役の中村繁之漱石の浜畑賢吉が予想以上の出来栄え、役へのはまり方であった。特に浜畑の演じる漱石漱石という人物の複雑さをよく表現していて、子規=山嵐を好演した佐藤伸之と相まって、芝居としての奥行き、深みを感じさせてくれるものであった。演出面では初演、再演では漱石のあこがれの存在であった登勢と妻、夏目鏡子をどちらも土居裕子が演じていてどうもこれを同じ人物が演じてしまうと鏡子の存在がぼやけてしまう気がして釈然としなかったのだが、今回は別人が演じていたのですっきりした。

 鏡子役の今津朋子は土居裕子のダブルキャストに文字通り抜てきされたデビュー時から見ているので、若手の印象があるのだが、ベテランの浜畑とやりあっても貫録負けしない女優ぶりでこの集団の看板といえる存在感を見せてくれた。

 相変わらずの健在ぶりを見せてくれたのは嬉しいのだが、一度、事実上解散して、やっとここまで復活したとはいうものの、新体制になって以来は新作がないのが残念で、今度はぜひ新作を見たいと思った。 

2000-01-01 2000年1月下北沢通信日記風雑記帳 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 1月30日 「ルグリ、ルディエールと輝ける仲間たち(III)」、東京タンバリン「盆と正月」を観劇。芝居がはねた後、タイニイアリスに行きタイニイアリスの丹羽氏、ディー・プラッツの真壁氏、プロトシアターの大橋氏、ストアハウスの木村氏らによる最近の演劇状況と小劇場テーマとする座談会に参加する。

 1月29日 名古屋愛知県芸術文化センター小ホールで、コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」を観劇。その後、東京に戻って、「ロード・オブ・ダンス」を観劇。

 コンテンポラリーダンスシリーズ3「ボーダレス時代の個性たち」は愛知芸術文化センターの自主企画公演で、伊藤キム大島早紀子、山崎広太、笠井叡の4人の振付家の作品を一度に見られるという東京でもちょっと得がたい機会ということで、名古屋まで出掛けて見ることにした。上演されたのは以下の4作品。

 伊藤キム+輝く未来「生きたまま死んでいる人は死んだまま生きているのか?」

 大島早紀子+平山素子「死の舞踏」

 山崎広太+井神さゆり「Oblique line」

 笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」

 フルオーケストラによるH・アールカオスの「春の祭典」などを上演した話を以前に聞いて、その時から気になってはいたのだが、今回の公演はこの劇場ダンスに関する熱意を感じさせる意欲的なラインナップで、地方の劇場にこういうところがでてきているのは頼もしく思った。

 個々」の作品内容については後で別途書き込みことにしたいがなんといっても最大の収穫は大島早紀子の振付でH・アール・カオスでも活躍するダンサー平山素子のソロ作品「死の舞踏」を見られたこと。平山が99年第3回バレエモダンダンス・コンクールに参加し、金賞とニジンスキー賞をダブル受賞した作品の再演だが、この作品は東京ではまだ上演されたことはなく、今回がコンクール以来初めての上演となった。上演時間8分程度の小品ながら、大島の振付・構成、それを具現化した平山のパフォーマンスともにドラマティックでスケールの大きさを感じさせるもので、例えばこれがそのまま世界バレエフェスで上演されたとしても見劣りしないと思われるほど完成度の高い作品であった。一方、仰天させられたのは笠井叡+笠井端丈「Ymir(イーミル)」。元気ジジイ(失礼)のはじけぶりにはいったいなんなんだこの人はと唖然とさせられた。この2作品と出会えただけでも名古屋までわざわざ行った甲斐はあったと思ったのである。

 1月28日 99年ベストアクトダンス編をもう少し書き足す。明日は早起きして名古屋にいかなきゃならないのにこんなことを書いていて大丈夫なのか。アクセス数あまり伸びなくてジタバタするのにも疲れたが気が付いてみればもうすぐ4万アクセスである。しかし、このところ1日100アクセスもいってないから達成はいつのことになるか。この日記の更新も先月中ごろから滞っていたりしたので、あまり強いこともいえないところだが、最近は新しい読者からのはげましのメールもなくて寂しい。「だれか、お便り下さい」とすっかり弱気になっている私なのだった。

 1月27日 2月の仕事のスケジュールが少しだけ判明してきた。そこで、観劇スケジュールを練り直してみた。2月5日、6日はどうやら両方休めそうなので、公演が完全に重なっているダンスのCRUSTASEA「ISH vol.4 MU-」とトリのマーク「ゆるやかな家、虹が流れる」、バニョレ国際振付賞ヨコハマプラットフォームを全部見ることができそうでひと安心。いまのところ、 5日にトリのマーク(3時〜、ザ・スズナリ)、バニョレ国際振付賞(6時〜、ランドマークホール、北村明子出演)、6日にCRUSTASEA(3時〜、スフィアメックス)、バニョレ(6時〜)の予定である。



 ク・ナウカ「オイディプス・レックス」について感想を書く。表題の「オイディプス・レックス」のレックスというのはラテン語の王ということで、そういえばティラノサウルスレックスというのは恐竜の王という意味だったような。この公演はク・ナウカ若手新人公演として企画され、劇団入団1、2年目の若い俳優らによって上演された。本公演ではなかなか大きな役がつくことの難しい若手の鍛練の場とともに、この「オイディプス王」は5月の利賀フェスにおいて、本公演においての上演が決まっているということもあり、この劇団がこれまで本公演の前に小さなスペースで行ってきた実験公演と同様、本公演に向けてのブレーンストーミングの役割も果たしている。

 さて、これまでの実験公演では舞台の完成度において、若干不満を覚えることが多かったのだが、今回の公演では俳優キャリアの少ない若手だということを勘案すれば演出や演技の面で意外といっていいほど完成度が高かったのに感心されられた。特に主要は配役であるオイディプス、イカオステ、クレオン、ティレシアスといったところスピーカー(語る俳優)はところどころは気になるところがないではないながら、語りのスタイルが多様で、かなりの技術が必要となるところをうまくこなしていた。本公演への出演経験もあるクレオンの萩原ほたか、イカオステの吉田桂子は安定していて当然としても、98年入団で若手公演とはいえオイディプスのスピーカー役に抜擢された本多麻紀の頑張りが目についた。今後が楽しみな存在である。一方、ムーバー(動く俳優)の方はさすがに本公演と比べるとビジュアルはともかく、演技の深みの点でかなり差がるのは否定できない。とはいえ、ムーバーは最近のク・ナウカにおいては美加理が完全に中心になって、特に「エレクトラ」や「王女メディア」などではほぼひとり舞台に近い印象もあり、それと比べれば影が薄く見えてしまうのはいたしかたないかもしれない。

 一般に身体的表出を表現の中心に置く、「身体性の演劇」においてはその舞台を担いうる身体というものは一朝一夕に得られるものではなく、それぞれの集団が葛藤の末に獲得したある種の様式性とでもいうものを担いうる身体を持つ俳優を育成するには時間がものすごくかかるのである。その意味ではク・ナウカの場合、ことスピーカーについてはある程度のレベルにまで最初は素人に近い俳優たちを段階を踏んで訓練するためのメソッドが確立しつつあることを感じさせたが、ムーバーについてはその具体的な技術のありようが見えにくいだけに新人の育成ということに関してはかなり厚い壁があることを感じさせた。

 ただ、今回の舞台においては宮城聰ソポクレスによるギリシャ古典悲劇を今、日本で上演することにおいて持ち込んだ「東洋人的な権威としてのオイディプス王」という解釈のフレームが芝居を持ちこたえさすということにおいて有効に作用していたことは認めざるをえない。簡単に言えば、解釈から導きだされるそれぞれの人物像といったような知的な面白さが芝居において大きな比重を持っていたということである。

 この芝居におけるオイディプスは僧衣のような服装を着て、あたかも能楽のシテのようにしずしずと舞台に登場して、テーバイを覆う穢れについて静かに語りはじめる。ここではオイディプスのムーバーも女性(寺内亜矢子)が演じていて、その存在における女性的な部分が強調されている。ク・ナウカで「王女メディア」の次に「オイディプス」をやるという話を聞いた時にはでは美加理はどうするのと思ったのだが、この解釈はおそらく本公演での美加理=オイディプスを踏まえてのことで、これまでの私のイメージではオイディプスはベテラン男優が演じることが普通なので、リア王と重なる部分があったのだが、考えてみれば実の母親(イオカステ)と結婚できるほど若いわけで、こうした解釈もなりたつ余地があるわけだ。

 実はこの芝居とは直接関係はないのだが、ソポクレスには盲目になったオイディプス王が長い放浪の旅の末に娘、アンティゴネーに手を引かれながら、アテナイ郊外のエウメニデスの禁制の神域にやってくるという後日譚を描いた「コロノスのオイディプス」という作品がある。先にあげたオイディプス=リア王のイメージは私にとってはどうもこの芝居の方でのオイディプスから連想されたイメージがまとわりついているというのがあることに気がついた。

 宮城の今回の解釈ではイカオステとオイディプスの関係というのは実際にインセストタブー(近親相姦の禁忌)を犯しているという事実の以前から疑似的な母/子関係であって、そのことは芝居の後半に薄い幕を通して、映しだされる2人の情交シーン(象徴的に様式されたセックス)に感じられた。当日配られたパンフにおいて宮城は「もし、オイディプスに救済が訪れるなら(中略)、その救済のきっかけを「母性」に見いだしているのですが」と書いている。だが、「母性=妣なるもの」に向かっての救済というのは永遠の子宮願望ともいえるわけで、スフィンクスの謎を解いた最初の探偵でもある知性の人オイディプスの「子宮への退行」を暗示させもし、それが果たして救済たりえるのかという問題は依然、残るような気がする。

 実は「コロノスのオイディプス」におけるオイディプスというのは典型的な「マレビト」であって、タブーを犯した穢れた存在である(しかも、近親相姦と神の神域を犯すという2重のタブー)とともにそれゆえにこそ「死」を媒介にして、アテナイの守護的存在となるべく、聖域の森に消えていく。もちろん、これは同じ作者の別の芝居での話なので、「オイディプス」自体とは直接関係はないのだが、ちょうど直前に弘前劇場の「召命」を見たばかりだったので芝居を見ながら、頭の片隅でこんなことも連想してしまった。 

 1月26日 99年ベストアクトダンス編を掲載する。といっても、これもまだ書きかけの中途半端な状態でもうしわけないのだが、あまり遅れてもなんなので、とりあえずの掲載である。

 今週末は土曜日に名古屋に行き、お薦め芝居コーナーにも書いたダンス公演、名古屋愛知県芸術劇場小ホールでの「コンテンポラリー・ダンス・シリーズ3」(1時〜)を見る予定。日曜日東京に戻って、「ルグリ・ルディエールと輝ける仲間たち・」(1時半〜)、ソワレ東京タンバリン「盆と正月」(6時〜)。 

 1月23日 弘前劇場「召命」(2時〜)、ク・ナウカ「オイディプス・レックス」(6時〜)を観劇。

 弘前劇場「召命」について書くことにする。この舞台弘前劇場俳優である畑澤聖悟の作・演出による。この芝居でも登場する俳優らはそれぞれ普段使っている日常語(主として弘前地方の方言)を劇中で話し、その意味で現代口語津軽弁演劇という長谷川孝治の提唱する弘前劇場のスタイルは一応、守られてはいる。けれども、これは長谷川が作演出する時の弘前劇場とは全く毛色の違う芝居である。長谷川の作品が日常的な関係の微細な描写から、それぞれの登場人物の間に生じている様々な隠れた関係性を浮かび上がらせていくの対して、畑澤聖悟は全く違う演劇的アプローチで作品を作り上げているように思われるからである。

 「召命」で描かれるのは近未来中学校である。その時代の中学校は授業崩壊などと言われる昨今の情況をはるかに超えた荒廃ぶりとなっている。そうした情況下で中学校の校長の死亡率は自衛隊員、原発職員に匹敵するほど高い。そこで校長のなり手がいないため、くじで選ばれた「当該学校の教職員による民主的な話しあいに決定する」ことになっている。だれも自から希望しては校長になりたがらないからだ。その話しあいの場所となる校長室にベテランの学年主任から、新採用の教師、校務員、一般社会人から期間限定で採用されたレンタル教員まで8人が集まってくる。このうちだれが校長に選ばれるのかがこの物語の焦点になるわけだ。

 畑澤は校長選びの話しあいを喜劇的なタッチで描いていく。冒頭いきなりギター弾き語りで校務員が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を吟じるほか、駄洒落を連発する教頭、学校の中ですぐに道に迷ってしまう赴任したばかりのレンタル教師らリアルというよりはコミカルにデフォルメされた人物が多数登場し、スラップスティック調で展開していく。

観客は笑っているうちに、いつのまにか重いテーマに引き入れられていく。これが畑澤の狙いである。というのはここでの校長選びは実は8人の中から1人生贄としての犠牲者を決めるということ。ここには「校長選び」=「生贄の王(カミ)選び」という神話的構造が隠されているからである。「生贄の王」とはある共同体を安定化させるために、なにかことがあった時にその首を「供犠」としてさしだす存在である。この物語での校長は「学校でなにかことがあった時にその首をさしだす人物」として生贄の山羊そのものなのである。

 この物語の中には新任の国語教師が使っている教材に出てくるという仕掛けで瓜子姫やオウゲツヒメのことが出てくる。これらの神話はその死によって、その死体から農作物が発生するという形を取る。これは「姫」の死により発生したとされる特定の食物(瓜子姫の場合はソバ)の起源を説明する食物起源神話であると。さらに、底で引用される書物ではその「死」が豊穰を約束するという意味で、隠ぺいされた「供犠」についての物語でもあるとの説が紹介される。

 この物語でのテーマはこの「生贄の王(カミ)」がいかなる構造において誕生するのかということだ。長谷川の場合にはこうしたテーマは作品には直接登場せずに暗示されることが多いのだが、畑澤は「校長選び」という表のテーマが直接的にこうした構造を提示するという意味でこうした構造を明示するところにその作劇の特色がある。

 「生贄となる王」は瓜から生まれた瓜子姫が川を上流から流れてくるように、共同体の外部ないし周縁のマージナルな部分からやってくるものが選ばれる。民俗学者折口信夫はこれを称して「マレビト」と呼んだ。この芝居は芝居の形式を踏んだ畑澤聖悟の「マレビト」論なのである。もちろん、この芝居での「マレビト」は中学校という運命共同体において外からやってきたレンタル教師仰木であり、そのためにラストシーンにおいて「マレビト」たる仰木は「生贄の王」として校長を引き受けるのである。

 さて、ここまではこの芝居において畑澤聖悟が仕組んだ構造の説明なのだが、これだけでは芝居の骨格にすぎない。この芝居が面白いのは共同体において存在する「生贄の王」という厳しい現実をシリアスな会話劇の形で提出するのでなく、あくまで喜劇として提出していることである。劇作として考えると「校長選び」が最後の「生贄の王としてのマレビト」につながっていくプロセスにおいて、この芝居ははっきり言って強引なむりやりな展開が目立つ。これは平田オリザがどこかで言っていたような「演劇は嘘であるのだから、どうせ嘘をつくなら、うまい嘘をつく」という考え方とは正反対といってもいい。人の出入りを無理やりに作るために議論が煮詰まるとすぐに休憩をいれる司会役を用意してみたり、本来緻密さが要求されるシテュエーションコメディーとしてこれを見たら到底評価に値するものではないともいえる。

 こうした無理からの展開をなんとか流れとしての芝居に引きとどめているのはちょっと普通じゃない人物を演じさせても、それゆえにこそ光る弘前劇場俳優陣の力であろう。

 駄洒落を連発し一見、軽薄な人物に見えながら、実は謀略家であり、熱情家でもある教頭を演じる福士賢治。やはり、どこかずれた人という軽めのキャラクターを楽しそうに演じながらも「召命」というこの芝居のテーマであるラストシーンの微妙な表情をみごとに演じきってみせた後藤伸也。長谷川演出では最近は物語のキーポイントとなるシリアスな役柄を演じることの多いこの2人の看板男優をあえて一見、軽めの性格のキャラとして起用し、自由に遊ばせながら、後半2人が対立するシーンではちゃんと俳優としての凄みも引きだすなど、畑澤聖悟という演出家はなかなかの戦略家だと感じさせたのである。もっとも、これは持ち駒があってのことで、この芝居俳優がだれでも成立するものではないとは思ったのだが。

 スラップスティックないしはファルスの衣をまとった重厚な思想劇。これが「召命」において畑澤が見せてくれたもうひとつの弘前劇場である。

 1月22日 ランニングシアターダッシュ「風のピンチヒッター」(2時〜)、弘前劇場「召命」(7時〜)を観劇。

 1月19日 99年ベストアクト演劇編を掲載する。

 1月18日 蜷川幸雄「唐版 滝の白糸」について簡単に感想を書く。シアターコクーンというけっこう大きな劇場の後列の方から見たということは差し引いて考えなければいけないのかもしれないが、ひとことで言ってものたりなかった。唐の芝居にしてはひどく散漫で密度が薄い感じがしてしまったのである。藤原竜也舞台で見るのははじめてでいいと聞いていたので期待が大きすぎたせいもあるのかもしれないが、この芝居では舞台に立った時のオーラとでもいうようなものは感じることができなかった。富司純子の演じるお甲の水芸が一番の見せ場というんじゃ蜷川得意のスペクタクルという面からもものたりない。昨年は「かもめ」「パンドラの鐘」など好舞台が多かっただけに久々に上演するという蜷川版の唐十郎の世界がどうなのかという期待はあったのだが、今ひとつピンとはこない感じだったのである。

 真島恵理ダンスステージ「Bitter Sweet Dances」について。アメリカ人のダンサー・振付家クロディン・ナガヌマ、ホセ・イヴァン・イバラと真島の3人のよるコラボレーションとというような形の公演。

 ソロの作品が4つほどあった後で、娘道成寺を原案にしたらしいクロディン・ナガヌマ「きよひめ」という作品が3人によって踊られた。真島も含めていずれもアメリカダンス教育を受けた人たちでアメリカモダンダンスの要素が強いダンスなのだろうが、どうも私には面白いと思われるようなものではなかった。最初にソロで踊った「囲い」という作品が太平洋戦争時代の日系人の収容所のことをテーマにしていたり、最後の「きよひめ」が娘道成寺モチーフにとっているように日系というルーツにこだわった作品が多く、そのことはアメリカ人の彼女にとって意味があることなんだろうなというのは作品からうかがえるのだが、ダンス表現としてはどうも私が刺激を受ける種類のものではなかったのである。

 1月16日 蜷川幸雄演出「唐版 滝の白糸」(2時〜)観劇。

真島恵理ダンスステージ「Bitter Sweet Dances」(セッションハウス、6時〜)で観劇。

映画エリック・ロメール「緑の光線」を高田馬場のアクト・ミニシアターで見る。

 1月15日 まだコメント部分は途中だけどあまり遅くなるのもなんなのでとりあえず99年ベストアクト演劇編を掲載する。

 1月14日 今週は土曜日は仕事。日曜日にはシアターコクーン蜷川幸雄演出の「唐版 滝の白糸」観劇の予定。

 1月13日 音楽ミュージカル「アイ・ラブ・坊っちゃん」の感想。日本のオリジナルミュージカルを作っている集団の中で、私が唯一、評価しているのが音楽座なのである。この集団の作品としてはなんといっても、土居裕子が主演した「マドモアゼルモーツァルト」が傑作で、音楽に TMNを解散した直後で、現在のように大御所的存在になっていない小室哲也を起用。曲としてモーツァルト音楽小室音楽を両方使っているのだが、これが渾然一体となっていて、素晴らしい出来栄えなのである。「マドモワゼル・モーツァルト」は私の中で自由劇場の「上海バンスキング」やアトリエダンカンの「阿国」(こちらは上々颱風音楽を担当している)と並んで国産ミュージカルのベストを争うものとなっているので、なかなかこれを超えるという印象にまでいかないが、今回上演された「アイ・ラブ・坊っちゃん」もこうした作品に近いレベルに迫る好舞台であった。

 「アイ・ラブ・坊ちゃん」はだれでも知っている夏目漱石小説坊っちゃん」をモチーフにしている。こう説明すると単純な痛快活劇をイメージする人も出てくるかもしれないが、そういうものとは違う。「坊っちゃん」を執筆している漱石自身と「坊ちゃん」の作品世界が交互に進行するという構造になっている。ここでは「坊っちゃん」を手掛かりにして漱石の評伝劇を描こうとしているわけだ。

 ミュージカルと評伝劇とは奇異な取りあわせのようにも思えるが、考えてみるとミュージカルには意外と評伝劇が多い。「ジーザス・クライスト・スーパースター」が評伝劇といえるかには問題があるとしても「エビータ」は明確にそうだ。作家セルバンテスとその登場人物ドン・キホーテを2重映しにしながら、ちょうど本作のように入れ子構造を多用した傑作「ラ・マンチャの男」があるではないか。そう思って考えてみると「アイ・ラブ・坊ちゃん」はひょっとしたら、日本版「ラ・マンチャの男」を意識したのではないかと思われてきた。

  この舞台では進行につれて、「坊っちゃん」の作中人物である山嵐がしだいに漱石の親友であり、夭折した歌人正岡子規の姿と重なっていく。「坊っちゃん」で描かれる舞台漱石が英語教師として赴任した松山だが、そこはまた子規の故郷でもある。この舞台には漱石を訪ねる編集者として、高浜虚子が出ているが、「坊っちゃん」が掲載された「ホトトギス」はもちろん子規が創刊した雑誌であり、もちろん、漱石英国留学中に急逝してしまった子規はここにはいないのだけど、この「アイ・ラブ・坊っちゃん」の中では山嵐と子規を1人の俳優佐藤伸行)が演じることでこの作品における子規の存在感は漱石に迫るものとなっている。そういえば、ここまで考えてうかつなことにあらためて気が付いたのだが、このミュージカル群像によるダンスシーンでここには「吾輩は猫である」の猫をはじめ、漱石作品に登場するキャラクターが次々に登場してダンスを踊るのだが、その中になぜか場違いにドン・キホーテサンチョ・パンサのコンビがいたのである。しかも、このサンチョもこの舞台では佐藤が演じているのである。

 これほど明確な証拠が提示されていながら舞台を見ていた時には「知ったかぶりの世間智に挑んでいく主人公、坊っちゃんにはなんとなくドン・キホーテを思わせるところがあるし、その象徴かな」ぐらいにしか理解してなかったのだが、こうなればこの舞台と「ラ・マンチャの男」の間には明確な関連があることは間違いない。子規=山嵐サンチョだとすれば当然、その同士であるのは漱石坊っちゃん=キホーテということになるではないか。もちろん、漱石自身はこの小説の中に出てくる人物としては悪役となっている帝大出の教頭赤シャツの立場に松山赴任当時は近かったわけで、そう簡単に等号で結べるものでもないのだが、そういう風に考え始めると「坊っちゃん」という作品と「ドン・キホーテ」には重なりあう部分も多い。

 狂気のドン・キホーテが妄想の中でラ・マンチャ周辺のなんの変哲もない人たちを騎士道物語のなかの人物のように名付けるように「坊っちゃん」という小説では主要登場人物が皆、主人公のつけたアダナで呼ばれる。中でも注目すべきは「マドンナ」の存在である。ドン・キホーテが宿屋の娘、アルドンサを理想に姫「ロシナンテ」と呼んだように婚約者であったうらなりから、赤シャツに乗り換えてしまったように美貌の持ち主ではあってもおそらく凡庸な女性だったと思われる人間が「マドンナ」と呼ばれた時、よくも悪くも文学史に残る存在となったからである。

 脱線はこのくらいにして、「アイ・ラブ・坊ちゃん」に戻ろう。実はこの作品は初演、再演を見ていて、今回が3回目なのだが、音楽座でいつも感心させられるのはキャストのよさである。特に今回のキャストは坊っちゃん役の中村繁之漱石の浜畑賢吉が予想以上の出来栄え、役へのはまり方であった。特に浜畑の演じる漱石漱石という人物の複雑さをよく表現していて、子規=山嵐を好演した佐藤伸之と相まって、芝居としての奥行き、深みを感じさせてくれるものであった。演出面では初演、再演では漱石のあこがれの存在であった登勢と妻、夏目鏡子をどちらも土居裕子が演じていてどうもこれを同じ人物が演じてしまうと鏡子の存在がぼやけてしまう気がして釈然としなかったのだが、今回は別人が演じていたのですっきりした。

 鏡子役の今津朋子は土居裕子のダブルキャストに文字通り抜てきされたデビュー時から見ているので、若手の印象があるのだが、ベテランの浜畑とやりあっても貫録負けしない女優ぶりでこの集団の看板といえる存在感を見せてくれた。

 相変わらずの健在ぶりを見せてくれたのは嬉しいのだが、一度、事実上解散して、やっとここまで復活したとはいうものの、新体制になって以来は新作がないのが残念で、今度はぜひ新作を見たいと思った。 

 1月10日 流山児★事務所「完璧な一日」を観劇。

 1月9日 音楽ミュージカル「アイ・ラブ・坊ちゃん」観劇。日記のコーナー更新しますと書きながら、このところ毎晩、サッカー世界クラブ選手権を明け方まで見ているとなにもできない。

 1月8日 レニングラード国立バレエ白鳥の湖」観劇。

 1月3日 「ニューイヤー 華麗なるバレエワルツの夕べ」観劇。レニングラード国立バレエレニングラード国立歌劇場管弦楽団によるコンサート/ガラ公演である。正月にはあまり芝居もないので、どうしようかなと迷った揚げ句当日券で見てきたのだが、これが意外と拾い物だった。このバレエ団の公演はこれまで何度か見ていてそれほどいい印象が残っていないので、それほど期待はしていなかったのだが、今回のこの公演には生きのいい若手ダンサーが何人も登場していてさすがにロシアバレエ団と思ったのである。演目は次の通り。演奏だけのものとバレエがついたものが交互に上演される形だが、★のついたものがバレエである。

 第1部 1、「くるみ割り人形」から花のワルツ

コール・ド・バレエ 2、「皇帝円舞曲

 3、「ショピニアーナ」★ イリーナ・ペレン/デニス・モロゾフ

 4、「南国のばら」

 5、「ばらの精」★ アナスターシャ・ロマチェンコワ/ロマン・ミハリョフ

 6、「春の声」★ エルビラ・ハビブリナ/ユーリ・ペトゥホフ

 7、オペライワン・スサーニン」からワルツ

 8、「ぺテルブルグの別れ」★ タチアナ・ミリテェワ

 第2部 1、「仮面舞踏会」★ オクサーナ・クチュルク/アンドレイ・メルクリエフ/ウラジミール・リョートフ

 2、「演奏会用ワルツ第1番」

 3、「セレナーデ」からワルツ★ ガリーナ・ラリチェワ/ヴァチェスラフ・イリイン

 4、「コッペリア」からワルツ

 5、「悲しいワルツ」★ オクサーナ・シェスタコワ

 6、「シンデレラ」からワルツ

 7、バレエ組曲第3番より「ワルツ」★ ドミトリー・ルダテェンコ/マイレン・トレンバエフ

 8、「ドン・キホーテ」からグラン・パ・ド・ドゥ★ 草刈民代/イルギス・ガリムーリン

 レニングラード国立バレエの場合、このところこの季節になると毎年来日して、長期の日本ツアーを組んでいるものの、動員の関係からか外部からのゲストダンサーが出演して、全幕ものではこれが主役を務めるケースが多いため(特に東京での週末の公演では)、これまで少し気になる存在だったハビブリナと確か以前に「白鳥の湖」を見た記憶のあるオクサーナ・シェスタコワ以外はほとんど知らないダンサーだった。シュエスタコワは一昨年12月に「白鳥の湖」で見た時と同様、私には相性が悪いのかぜんぜんいいとは思えなかったのだが、ハビブリナはコミカルでコケティッシュな役柄が似あってこの日もなかなかよかった。昨年1月9日の日記でこのバレエ団の「白鳥の湖」の感想を書いていて、読み返してみるとパ・ド・トロワを踊ったハブリアナを評価しているのだが、やはりなかなかの雰囲気を持ったバレエダンサーだと再確認した。

 冒頭に書いたように他で印象に残ったのが「ショピニアーナ」を踊ったイリーナ・ペレンと「薔薇の精」を踊ったアナスターシャ・ロマチェンコワ。いずれも技術が確かなのはもちろん、容姿が整っていて、舞台での華を感じて、将来が楽しみだと思わせられたのだが後でバレエ団のパンフを手に入れて驚いたのはこの 2人がいずれも98年にワガノワバレエ学校卒業して、入団2年目という新人に近いキャリアだということ。他にも他にもこの日は見られなかったけど名古屋公演ではこの日の草刈に代わってキトリを踊ることになっているオリガ・ステパノワというダンサーがいて彼女も同期みたいだから、このバレエ団将来が楽しみである。男性ダンサーでは「薔薇の精」を踊ったロマン・ミハリョフがなかなかに妖しい存在感を示して目だっていた。振付作品としては軽い感じがしたが、テニスラケットを持ってコートで対戦するプレーヤーをダンス化した作品に出たドミトリー・ルダテェンコ/マイレン・トレンバエフのふたりのダンサーもアクリバティックな振付をこともなげにこなして、ジャンプ、身体の切れともになかなか見せてくれた。

 1月2日 猫のホテル「白衣」観劇

 1月1日 サッカー天皇杯 名古屋グランパスVSサンフレッチェ広島観戦。