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中西理の下北沢通信(旧・大阪日記) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2000-09-01 2000年9月下北沢通信日記風雑記帳 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 9月30日 おそるべし勘違い…。そもそもこの日は起きたらもう2時すぎで最初行く予定だったダンス公演に行くのはすぐに断念したのだが、夜7時に予定されていたトリのマークの公演には行くつもりだったのであった。そして、遅刻しないように少し早めに家をでて、6時20分にはちゃんと公演が行なわれると私が信じていた梅ヶ丘に着いたのであった。この後、不動産屋さんに聞いても、近所の人に聞いても「知らない」と言われながら、梅ヶ丘の駅前商店街を1時間以上彷徨うことになるのだが……。この後のことはあえて触れたくない。経堂と梅ヶ丘をなぜ間違えたのか。自分が信じられなくなっている今日このごろである。

 




 9月29日   




 9月28日 このところ毎晩五輪のマイナー種目を明け方まで見ていたりして全然更新してなくてすまない。




 9月27日 ヒラリー・ウォー「冷えきった週末」(創元推理文庫)を読了。  




 9月26日 若竹七海というミステリ作家の作品を先週の日曜日にまとめて買ってきて立て続けに読んでいるのだが、これがなかなか面白い。この作家、東京創元社から作者名と同じ名前の主人公が活躍する連作短編集「ぼくのミステリな日常」でデビューし、大学のミステリ研出身(立教大学ミステリ研究会)ということもあり、いわゆる「新本格」に入れられているようなのだが、この「新本格」という用語自体がほとんど意味のない言葉であることは別にしても、なかなか端倪すべからざる実力の

持ち主ではないかと感心させられた。もともと、デビュー作と「海神の晩餐」はかなり以前に読んでいて、特に後者についてはタイタニック号を舞台に思考機械と呼ばれる探偵を書いたミステリ作家ジャック・フットレルを登場させた女性作家には珍しい洒落っ気のある壮大の構想に驚かされ、半年ほど前に「火天風神」というパニック小説を読んだ時にはその骨太な書きっぷりに再び吃驚させられたのだが、この3作があまりに作風が違うこともあって、まだまだ作家としての認識ははっきりしていなかった。

 ところが最近、女子高を舞台にした「スクランブル」という作品が相当以上に面白かったので、「ヴィラ・マグノリアの殺人」「名探偵は密航中」「閉ざされた夏」「サンタクロースのせいにしよう」「八月の降霊会」「依頼人は死んだ」「水上音楽堂の冒険」と読んでもちろん作品ごとに出来不出来はあるのだけれど、そこに通底するプロットを組み立てていくうまさにこれはただものじゃないと思いはじめたのである。

 ここ何年かにデビューした若手ミステリ作家のひとつの特徴というのは海外、国内の過去のミステリ作品に造詣が深くて、そういう作品を意識して作品を書いているということが明確に分かるような作品が多いということがある。若竹七海の場合にもそういう特色はやはりあるのだけれど、彼女の作品が他の作家とちょっと違うのは海外ミステリの中でもクリスティやクイーン、カーといった黄金時代の作家ではなく、それ以降のしかも英国ミステリの匂いが濃厚にするというということにあるかもしれない。思いつくままに何人かを挙げるとパトリシア・モイーズ、ニコラス・ブレイクコリン・デクスター、ルース・レンデル、P・D・ジェームズ、クリスチナ・ブランド、といった作家たちである。



 9月25日 コリン・デクスターウッドストック行き最終バス」を読み直す。   




 9月24日 結局、前日は眠れず徹夜して女子マラソンを見てしまう。結果は高橋尚子が優勝したので、元は取ったのだが、いくらなんでも徹夜したままで「グリークス」を見る気にもならず仮眠を取って起きたらすでに夕方近くだった。しかたなく、この日、芝居を見るのは断念。第3部に行こうとしたのだけど、すでに開演後だったのでそれも諦め、書店でミステリを何冊か手に入れ、そのうち、宮部みゆきクロスファイア」上下を読了。これは普通推理小説ではなく、映画(未見)にもなった超能力者を主人公にした小説なのだが、これが予想以上に面白かった。というのは念力放火能力(バイロキネンシス)を持つという青木淳子というヒロインの人物造形も興味深いのだが、それだけではスティーブン・キングファイアスターター」の2番せんじじゃないかと思って読みはじめたのだが、放火係の女性刑事、石津ちか子や超能力の存在を信じて犯人逮捕に執念を燃やす牧原刑事ら、並行して描かれる捜査側の登場人物が魅力的で、しだいに物語に引き込まれてていったからである。




 9月23日 桃唄309「アイヌ ユカラ英雄伝」(2時半〜)を観劇。その後、家に戻って五輪サッカー日本対アメリカ戦を観戦。日本のPK戦による敗北を見届けた後、

観劇オフ会に出席。オフ会に参加の皆さんどうもありがとうございました。せっかくオフ会だったのに参加者の皆さんに愛想が悪くてすいません。実は平静を装っているつもりだったのですが、ひそかにメダルを期待していた五輪チームの敗北は相当ショックでこの日の私は完全に脳死状態だったので……。




 9月22日 演劇についても少しは書かないとと反省。超歌劇団「超リーグ」の感想を書くことにする。昨年の東京公演「どらえも のびと肉体奴隷」を見逃しているので、これがガーディアンガーデンで1昨年に見た「鬼の一休」以来超歌劇団観劇2本目となる。無駄に熱い演技となんだかなあの無理やりな設定がこの集団の持ち味といえるだろうか。「超リーグ」は「超高校野球」「絶・超高校野球」に次ぐ野球3部作の第2弾だとか。いきなりサッカー全盛の世の中だが、私は野球のこだわるというような口上があったが、静岡の劇団だけに台詞に託してうるけん氏の野球に対する熱い心がうかがわれる。もっとも物語の設定自体はなんじゃそれとのつっこみを入れたくなるもの(笑い)。超能力を駆使し、文字どおりに死闘を繰り広げる三人制野球「超リーグ」についての物語というのだが、そもそも三人制というのが、最初の説明台詞に出てくるだけで、芝居の中では投手と打者の1対1の戦いに終始する。一体どこが三人制なのか。さらに三人制の野球「超リーグ」というのはいったいどういうものなのか。芝居を見終わっても全然分からない。(笑い)

 この当りの荒唐無稽さを含めて、超歌劇団の芝居はある種の少年漫画的な魅力を存分に匂わせている。もちろん、野球といえば少年漫画モチーフの王道だし、この芝居の中でも「巨人の星」の引用があったり、超能力+野球といえばそれだけであの幻の名作「アストロ球団」が思いだされたりするが、それだけではない。

 「トルネードボール」「幻影ボール」「アイアンボール」「ブラックホールバスター」など名前だけで一応、説明はされるのだけどほとんどなにがかなんだか分からない必殺技、魔球の数々。渡辺裕介の演じる主人公、情熱と努力の超リーガー明日香紅のいかにもアナクロな人物造形。さらにそれを支える渡辺の無駄に熱い演技がかもしだす雰囲気は少年ジャンプ全盛時代の一群の傑作スポーツ漫画(?)「リングにかけろ」を思いださせる。

 最近東京でよく見られる精緻に構成された群像会話劇が、同じ漫画でもある種の少女漫画を連想されるのと好対照であろう。登場人物の名前といい、人物造形といいうるけん一郎太の描きだす世界は一時期の少年漫画パロディーというよりはむしろ正統的にその系譜をなぞろうとしたものとうかがえるのだが、すでに「巨人の星」がある時期から以降はその熱血ぶりを笑う対象として、再解釈することによってしかまともに受け取ることはできなくなったように、あるいは大映テレビが視聴者につっこみを入れられるようなクサイ演技、クサイ設定を自己パロディー的に展開していったように、超歌劇団の熱血芝居は現代の観客にとっては作り手側の意図とは無関係に「笑ってしまうしかない」対象としてしかもはや受け取りようがない。

 そして、結果的には舞台に備え付けられたいろいろなしょぼいとしかいいようがない仕掛けとか、渡辺佑介に代表されるおせじにもうまいとはいえない役者たちの熱血演技といい、それがおおいに笑えるのも確かなのである。

 こうした野放図は野育ちの魅力は東京や関西の劇団には珍しくそれはそれで評価しなければならないとは思ってはいるのだが、それでも私の心の中ではこういう芝居を表現としてことさら称賛するのはいかがなものかという気持ちが消しされない。それはうるけんの表現には猫ニャーやロリータ男爵には感じられる、あるいはかつての遊気舎や大人計画に感じられた作家の「確信犯としての悪意」が感じ取れないからだ。

 以前、ゴキブリコンクリートについて書いた時も表現の方向性としては違うのだけれど実は同じようなところで疑問を持った。これは「作者が表現しようとしているようにこちらが想定できるもの」と「結果としての表現」にズレを感じるということである。もちろん、「作者が表現しようとしているようにこちらが想定できるもの」には作者だけでなくこちらの読み取りの問題が入ってきているので、ゴキコンにせよ、超歌劇団にせよもう何作が実作を見てみなければ判断できないところがあるのは間違いなく、それゆえ、引き続き注目していきたい集団であることは間違いないのだが、いまのところそのずれに座りの悪さ、気持ちの悪さを感じてしまうのも正直なところなのである。

  




 9月21日 23日に予定の観劇オフ会(桃唄309プロデュース「ユカラ アイヌ英雄伝」)。そろそろ最終集約です。まだ、申し込みは可能ですが、これまでのところ参加表明はおくむらさん、きいちゃんさん、HARUさん、石森さんの4人でチケット幹事確保はおくむらさんだけということでいいでしょうか。人数を少ないようなので宴会場所は特に前もって予約しません。終演後劇場ロビーで集合ということでお願いします。おくむらさんは受け付けで分かるようにお願いしておきますので直接会場でチケット受け取って下さい。

 ところで当日の私の観劇スケジュールなんですが、当初、マチネで新国立劇場マクベス」を見てから夜、観劇オフ会なので、「ユカラ アイヌ英雄伝」を見る予定だったのですが、夜の観劇する人が少ないようなので、私も昼見ることにします。どうしても五輪のサッカーが見たいからなんですが、終演後ロビーに現れますので、今回だけは許してください。参加者の皆さん。




 9月20日 サッカー日本五輪代表VSブラジル代表をテレビ観戦。というか、会社で仕事をしながら見た後、夜中に家に帰ってもう一度見る。とりあえず、日本決勝トーナメント進出おめでとうなのだが、やっぱりブラジルは強い。中田英がいないと前線の高い位置でキープができないので、セットプレー以外ではなかなかチャンスにならない。とはいえ、セットプレーとはいえ、いくつかチャンスができたつまり高い位置までボールを持っていけたというのはアトランタ代表と比べて、今回の代表のレベルの高さを証明するものだった。ブラジル代表も最初に1点を取るまでは凄い迫力だったのだが、中盤以降しだいに攻撃は単発のしりすぼみに。1点リードしていたとはいえ、イタリア代表とは違って取れる余裕があるのなら本来2点目を狙ってガンガンくるはず。1点だけではいくら余裕を持って守って、日本には決定的なチャンスを作らせていないとはいえ、同点にされたら予選落ち濃厚なのだから、これはブラジルにはそれほどの余裕はなかったということだと思う。前線にキープ力のある中田英が加わればひょっとすると力の差はもっと接近するかもととの予感を感じさせた試合ではあった。

 もっとも、残念ながら中村俊輔ブラジル相手の激しいプレッシャーのもとではそんなに才能を感じさせられるプレーをできわけではないという限界を露呈させたし、酒井などの中盤でのキープ力にすごく不安を感じたのも確かなのだが。次に対戦するのはアメリカで、このチームは組織的によく動くし、整備された好チームではあるのだけれど、それほど天才的な才能を感じさせるプレーヤーはいないし、身体能力もアフリカのチームみたいに1対1でどうしようもなく、振りきられるというようなこともないはずで、日本の五輪代表がノーマルに戦えば確実に勝てる相手だと思う。




 9月19日 メールギリシアの神話に関係する芝居を見てみたいのだけど近日中になにかないかという質問があったので、メールで返事を出してもいいのだけどせっかくだからここで答えることにしたい。まずは現在、シアターコクーンで上演中の「グリークス」。これはギリシア神話(悲劇)を3部、全部で上演時間10時間半の芝居にまとめたもので、ギリシア神話についての芝居ということであればこれに尽きるともいえるけどいかんせん今週日曜日(24日)までなので当日券があるのかどうか。私は24日に昼から夜までたっぷりとこの芝居につきあうつもりなのだが。その他では青山円形劇場ク・ナウカが上演するエウリピデスの「王女メディア」。質問してくれた人は初めての観劇ということなので2人1役というク・ナウカスタイルになじむかどうか躊躇するところはあるのだが、この芝居は初演で美加理が好演した作品の再演なためお薦めであることは間違いない。 




 9月18日 オリンピックが始まったため、それにかまけて更新がすっかり滞ってしまっている。それにしてもなんという不条理。日本チームは予定通り2勝したのにもかかわらず早くも決勝トーナメント進出ピンチを迎えてしまった。本当にブラジルにも困ったものだ。南アフリカなどに負けてしまうとは……。私は個人的には今回のオリンピックの場合、日本はメダル(といっても銅)を取る可能性は少ないけれどあるかもしれないと思っていたのだが、その最大の根拠は1次リーグを突破してしまえば日本が勝つことが一番難しいチーム(つまりブラジル)と決勝まで当たらないということにあったのだ。さらにブラジル以外に日本が勝つのが相当難しいチーム、イタリアスペインナイジェリアも決勝トーナメント1回戦では当たらないため、ベスト4までは勝ち抜ける可能性が高く、さらにブラジル以外のチームはフル代表とは違いまったく手も足もでないということはないと考えられるので、やや格上チームとの対戦とはいえ、2試合のうち1試合を勝つという可能性はないとはいえないと考えていたからだ。もちろん、今回の五輪チームのレベルがこの年代で見れば世界的に見てもかなりいいところまでいっており、これまでの2試合の内容を見るかぎり、南アフリカスロバキアより1枚も2枚も上というところを見せての勝利だったことから考えて、この可能性はかなり高くなってきたかもしれいとほくそえんでいたのだ。

 ところが、それでもここで引き分けても予選落ち(すなわち、ルシェンブルコ代表監督の首は間違いない)という手負いのブラジルとやって勝つことができるかというとこれはちょっと厳しいと思わざるをえない。アトランタの時と比べれば実力差は狭まっているとは思うが、あの時はまだ初戦ゆえのアップセット番狂わせ)という面があった。南アフリカ戦を見るかぎりブラジルはお世辞にも調子がいいとはいえないが、ブラジルはアンダー16とかは分からないが、オリンピックやW杯で予選落ちというのはおそらくないはず。それだけにもし万一これに勝つようなことがあれば金メダルも夢じゃないというのは現実のものになってくるが、そんなに甘くはないと考えざるをえないのである。しかも、ここまでは不調とはいえ、ブラジルのもし勝つことがあるとすればこの人の超人的な働きによるしかないはずの中田英の出場停止があまりに痛い。こうなったら、スロバキアの頑張りに期待するしかないという他力本願の気分についついなってしまうのである。

 それにしても、シドニーの場合、種目のほとんどが会社にいる時間帯に行なわれてなかなか集中して観戦できないこともあるのだけど、以前はサッカー以外の競技についてもいろいろ事前に情報を集め、関心を持っていたのにサッカー日本代表が出場するようになってついついサッカーだけの大会のようになってすまうのはなぜだろうか。まだ、陸上とかが始まってないというのもあるのだけれど。

 

 




 9月17日 ネザーランドダンスカンパニーlll(3時〜)を観劇。




 9月16日 仕事のため観劇はできず。

 ヒラリー・ウォー「失踪当時の服装は」、コリン・デクスター「キドリントンから消えた娘」、馳星周「虚の王」、若竹七海「閉ざされた夏」を読了。




 9月15日 仕事が早めに終わったこともあり、超歌劇団「超リーグ」(7時〜)を観劇。




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 9月14日 家に帰ってから五輪サッカーの日本の初戦、南アフリカ戦をはじめ何試合かを明け方までみてしまう。 




 9月13日  青年団プロデュース「月の岬」について感想を書こうと思う。もっとも、今回の舞台は初演の後深読みレビューで書いたことがはたして的をえていたのかというのを考えながら見ていたのだけど、これはやっぱりそうなんじゃないかという確信を強く持った。ただ、芝居を見てちょっとびっくりさせられたのは

この芝居では私が深読みレビューでこの物語の核と考えた深層(佐和子と亡くなった父親の関係)どころか、そこで表層的フェーズと考えていた姉弟の疑似近親相姦的な関係性さえもこの芝居では明示されてはいないということに気が付いたことだ。

 もちろん、このフェーズでの隠された関係性が明示ではなく、暗示的な描写で提示されるということはやはり以前いくつかのレビューをこのページで書いた岩松了の作品(「スターマン」「虹を渡る女」など)にも見られることで、なにも松田の専売特許というわけでもない。「月の岬」の特徴はその隠された関係がさらに物語に基調低音のように流れている神話的な構造と呼応するようなメタ構造を持っていることで、

こうした趣向により「現代における神話」を構築しようとしたところにあるのではないかと思う。

 長崎から少し離れたところにある島を舞台に設定したところにもそういうことがうかがえるし、直子に佐和子が憑依したかに見えるラスト近くのシーンなどにそういう意図を色濃く感じさせられるところがある。平田オリザによる演出はこの芝居の日常性を強調した散文的なものとなっており、神話的な側面を隠ぺいするような形で上演されるので、それはこの芝居ではそれほど目立ったものとしては提示されないのだが、例えば宮城聰など「神話的なるもの」により親和性の高い演出家が演出したらどうなるだろうか。芝居を見ながらそんなことも考えてしまった。

 青年座によって上演された松田正隆の新作「天草記」はこれまでの松田作品とはかなり毛色が違うために「静かな演劇」を創作してきた松田が新境地に挑戦したなどと表層的には捉えられがちだが、「現代における神話」の構築という切り口で考えるのならば「月の岬」と通底している。もっとも、「月の岬」では隠ぺいされていた神話性はここではだれの目にも露わな形で表れている。実はこの2つの物語にはモチーフやそれを扱う筆致があまりにも違うので見過ごされがちだが、閉塞された場所にいる家族共同体が外部からの侵入者により崩壊し、その後、そこには新たな共同体が誕生するという同じ構造を持っている。ところがこの2つの作品が大きく違うのは「共同体」を基準に考えた時に「月の岬」が内部(信夫)に近い視点で描かれ、

直子の視点では描かれていないのに対して、「天草記」の方は現代日本からのエグザイル逃亡者)として、この土地に現れる3人の侵入者の視点によって描かれていることである。もちろん、基本的には芝居は小説とは違い厳密にいえば視点というものがあるわけではないのだが、全体の構造として、芝居に入りこんでいく際にそちらの視点に近い視線で物ごとを眺めることを誘導されるような仕掛けがあるということをいいたいのである。

 閉ざされた家族共同体の共通点は「月の岬」ではインセストタブー、「天草記」ではカニバリズムあるいは殺人と通常の社会における禁忌にかかわることが行なわれている(あるいは少なくとも行なわれているかもしれないと暗示される)ことにある。すなわち、通常の社会規範から排除されるようなことがそこでは許容されるということにあって、それは当然、外部の目から見たらある種のグロテスクとなる。「月の岬」ではそういうことは感じられないのだが、それはあくまで内部の視点で見ているからである。

 もっとも「天草記」を見て感じるのは同種の構造を持っていても切り口の違いにより、語り口つまり芝居のスタイルの違いは現れてくるわけだが、表層の部分で日常会話劇というスタイルを持つ「月の岬」が表現として陶冶され、松田正隆作品としての完成度の高さを感じるのに対して、「天草記」では「月の岬」「海と日傘」などで一応の完成の域に達したと思われる会話劇ほどの方法論に対する確信が感じられず、手探り状態の苦吟を感じてしまうことである。

 劇作家に限らず作家(表現者)には大きく分けて2種類のタイプがあるのではないかと以前から考えている。ひとつは若くしてひとつのスタイルを確立して同工異曲などと陰口をたたかれながらも、自己の表現を深化、完成させていくタイプ(小津安次郎などはこのタイプの典型だと考える)、もうひとつは自己の表現のたえざる否定により常に新たな表現を追い求めていくタイプである(典型的にこのタイプと思われる芸術家パブロ・ピカソである)。

 私は松田正隆という劇作家は典型的に前者のタイプだと考えていたので、最近の松田のもがきぶりにはちょっと当惑させられているところがある。おそらく、枠を破りたいというやむにやまれぬ内的衝動のようなものがあるのだろうというのは想像できるのだが、自己の心情を露わに表出するような芝居においては台詞における微妙な手触りとか、一見いわゆる劇的なシチュエーションからはほど遠い日常的な描写の底から立ち上がってくる心理のドラマ性といった松田戯曲の持つ最良の資質(と少なくとも私が考えているもの)が生きてこない感じがしてしまうからだ。もちろん、「天草記」のようなこれまでの枠組みをはみだす作品は新たな演劇の可能性を内包していることも確かで、先の書いたように「現代の神話の構築」という側面から言えばこの作品にも松田の表現の特徴はしっかりと刻印されてはいる。

 特に若くして「海と日傘」「月の岬」という小津の例えるならば「麦秋」「東京物語」にも匹敵すると思われる現代演劇の古典を書いてしまった松田にとってはそれを乗り越えてより高みに達するためには一見、回り道とも思われるような苦難の道をあえて 歩まねばならないのかのかもしれない。だから、松田の今後がどうなるのか期待をもって見守っていきたい。 




 9月12日 若竹七海スクランブル」を読了。




 9月11日 7日の日記に来週は土曜日に新国立劇場マクベス」を見た後、夜は桃唄309「ユカラ・アイヌ英雄伝」(観劇オフ会)の予定などと書いてあるがまる1週間予定を飛ばしているのに気が付く。固有名詞は覚えられないは財布はなくすわほとんどナイロン100℃の芝居に出てきた「プランB」状態である(と書きながら正確にこの名称でよかったか全然自信が持てない)。ちなみに今週は15日の敬老の日が休みなのでこの日に演劇バンソウコウ「ホテルマーズフロンティア」(2時〜)、birds eye's view「ELLE deco」(7時〜)あたり。16日は出社だが仕事が早めに終われば超歌劇団「超リーグ」(7時〜)、17日はネザーランドダンスシアターlll(3時〜)。

 村上龍「希望の国のエクソダス」を読了。面白い話なので一気に読んでしまったが、これが「愛と幻想のファシスト」を書いた人と同じ作家の書いたものかとちょっとびっくりさせられた。というのは村上龍得意のディストピア小説と思って読みはじめたのが、これが意外にもユートピア小説だったからである。こういう疑似ユートピアに希望を託さざるをえないほど現代日本の現状は絶望的だということなのかもしれないのだが、ネット社会、金融市場、教育問題などを背景にしたシミュレーションとしては面白く読めるのだけど、ここに描かれた中学生が現実の中学生とはほとんど関係ないということが分かっていても、この結末はちょっと楽天的すぎやしないだろうか。小説として面白ければそれでいいということはあるのだが、ちょっと肩透かしを食った感じがしなくもないというのが読後の印象である。





 9月10日 新国立バレエ白鳥の湖」(2時〜)、夜はreset-N「Lock」(7時〜)を観劇。なんということだ財布を落としてしまいこの日買おうと思っていたチケットなど全て断念せざるをえないことに。お金がないのでreset-N「Lock」観劇後もすごすごと家に直行する。

  




 9月9日 土曜日は昼に青年団プロデュース「月の岬」(3時〜)を見た後、夜はナイロン100℃「ナイス・エイジ」(7時〜)を観劇。「月の岬」の会場で偶然、故林広志氏と会い、彼も下北沢の芝居ともはしごだというので下北沢の喫茶店で少し話す。彼は大学院ベケットの研究をしているのだが、ちょうどこの日はベケットの原書を手に入れたところということで、ベケットのことや彼の舞台活動の来年の予定のことなど話を聞く。

  




 9月8日 今日はちょっと演劇の作品などの直接の感想を離れて伝言板(BBS)などでのネタバレ発言などについて考えてみたい。この問題は最近えんげきのページの1行レビューなどでも問題となっていたようだが、人によってかなり感覚が違うようだ。世の中には私がどうでもいいと思うようなささいなことでもネタバレだということで騒ぎだす人がいるようなので、この問題についての私の考えはかなり甘めになっているかもしれない。というのはミステリ劇なのに犯人役の○○は好演していたなどと書いたらそれはちょっと非常識で許されない行為だとは思うが、そういう顕著な例以外は以前は取材などであらかじめストーリーを知ってしまってから見ていたことが多かったためそれほど気にならないということがあって、他人がなんでそれほど神経質になっているのかというのを理解できないところがあるからだ。要するに常識の問題であって、基本的にはOKというのが私の(だからつまりこのホームページの)基本的な立場である。だから、まず、ミステリ劇など特殊なものを除けばこの日記コーナーやレビューではネタバレはいっさい気にしてない。感想などで結末やストーリーを書いてないことが多いのは大抵は面倒だからで、けっしてネタバレ回避のためではない。

 基本的には伝言板も同じと考えている。だから、ネタバレとかを気にせずに書きたいことをどんどん書いてほしいのだ。その意味ではネタバレですと断りながら、少年王者舘の感想を書いてくれたkikukoさんの文章などすごく嬉しかったのだ。こういうことには大抵いつのまにか決まったローカルルールがあって例えばニフティの某会議室などは地方公演などが終わるまでネタバレ発言はいっさい禁止ということになってるようだが、こういうのを以前から不満に思ってきたのだ。なぜなら、スープは熱いうちに飲まなきゃ美味しくないのと同様、芝居は見てからすぐに話さないと面白くない。だから、それが終わるまで待ってたら実のある話などできないからである。

 ここからは私の個人的な希望というか要望なのだけど、感想を書いた後、まだ公演があるのでこれ以上は詳しいことは書けないですがと書く人がいて、おそらく、照れ隠しのようなものでネタバレについての深い意思はないことが多いのだと思うけど、

できればあれは避けてほしいのだ。というのは、ひとつそういう発言があると確実にその芝居についての内容に触れた感想はでにくくなるんじゃないかと思うからだ。

 これはこのページのローカルルールはそうだよという表明であって、外のことについてはなんともいえないし、いうべきでもない。しかし、1行レビューに関していえば「キレイ!」で松尾スズキが歌を歌っている奥菜恵の前で彼女が隠れるように踊ったことについて少し触れた発言があって、それについてネタバレだとかみついていた人がいたことにはアゼンとしてしまった。それってネタバレなんだろうか。というより、そういうことも言ってはいけないというのが世間の常識なんだろうか。だとしたら、伝言板の類がネタバレ禁止を基本にしてるとすればほとんど芝居の中身について抽象的なことしか書けないと思うんだけど。例えば女優○○の演技が素晴らしかったとか、照明がよかったとか。本当は○○の演技がどうよかったのか、照明もどんなところがよかったのか。それはどのシーンだったのか。そういうことが大事だと思うのだ。

 もちろん、これはおもしろかったですという類の感想を書き込むのがいけないといっているのではない。このページの伝言板は書き込みがまだまだ少ないのだけれど

いろんな人にその人ならでは感想を書き込んでもらってそれを読みたいという夢(というと大げさだから目標といった方がいいかも)があるからだ。あーいかん、こういう理屈っぽいこと書いてると嫌われてまたアクセスも書き込みも減ってしまうだろうなあ。

 




 9月7日 9月のお薦め芝居に記事を追加。

今週末は土日ともに休み。土曜日は昼に青年団プロデュース「月の岬」(3時〜)を見た後、夜はナイロン100℃「ナイス・エイジ」(7時〜)の予定。日曜日は昼は新国立バレエ白鳥の湖」(2時〜)、夜はreset-N「Lock」(7時〜)を観劇の予定。来週は土曜日に新国立劇場マクベス」を見た後、夜は桃唄309「ユカラ・アイヌ英雄伝」(観劇オフ会)の予定なのだが、やはり反応がないのが哀しい。このままじゃ、私とおくむらさんの2人で観劇オフ会をやってもそれってただ芝居を見た後、単に知りあいと飲みにいっただけじゃん(笑い)ということになり、情けない。そういうわけで特に初めての人に来て欲しい。




 9月6日 お薦め芝居9月分を一部掲載。9月4日の日記コーナーに少年王者舘「自由ノ人形」の感想を追加。 




 9月5日  伝言板BBSに書いた通りに桃唄309プロデュース「ユカラ・アイヌ英雄伝」(作演出橋本健)で観劇オフ会を正式に募集したいと思います。観劇オフ会とは芝居をみんなで見た後、その芝居について飲みながら歓談しましょうという会で、このページの主催で過去にも何度かやってるので興味のある人はこの日記コーナーの過去ログでも見てください。

 観劇オフ会 桃唄309プロデュース「ユカラ・アイヌ英雄伝」
       9月23日(土)7時半開演 中野ポケット 前売り2800円
       当日3000円 小中高生2000円

        終演後中野周辺のどこかで宴会を予定

    「ユカラ・アイヌ英雄伝」は明治時代北海道を舞台に「日本人」と
   して同化されることを拒んで闘ったアイヌの英雄を描いた作品。97年
   高円寺明石スタジオで初演。作演出の橋本健は桃唄309の中心俳優とし
   て活躍する一方で、盟友ともいえる直塚和紀主宰のLEDでミステリ作家
   、西澤保彦作品を舞台化した「麦酒の家の冒険」「彼女が死んだ夜」に
   も出演。西澤作品のシリーズキャラクターであるボアン先輩役を演じ
   大好評を受ける。劇作家としては今回上演する「ユカラ・アイヌ英雄伝」
   の他、「貝殻を拾う子供」などを上演。この作品は研究と人間としての
   良心に引き裂かれていく核物理学者たちの葛藤を群像会話劇の形で描い
   ていく好舞台であった。桃唄309は代表である長谷基弘の作演出により
   短いシーンをつないでいく独特の作劇術で日本現代演劇の中でも異彩
   を放っている劇団。長谷作品の上演は長谷の米国留学のため2002年ま
   でないが、その間は橋本健が桃唄第2の劇作家としてその穴を埋めるこ
   とになる。

    群像会話劇として交錯する登場人物の複数の視点を短いシーンをつ   
   なぎながら、それが最後に俯瞰されて、ある種の共同体の全体像が浮か
   び上がってくるという桃唄ならではの実験性を維持しながら、長谷とは
   また違う観点から物語を紡いでいくのが橋本の特色。さらにこの芝居で
   は会話劇という側面を守りながらも、花組芝居の山下禎敬を殺陣指導に
   迎え「娯楽性」と「実験性」の融合に取り組むという。これは必見とい
   えそうだ。
   
  

 観劇オフ会参加希望者は伝言板BBSへの書き込みあるいはこのページの表紙からのメールで表明して下さい。チケットは幹事確保するつもりですが、自力での確保や他の回の観劇後、宴会のみの参加もありとします。

   




 9月4日 少年王者舘「自由ノ人形」の感想の続きを書く。天野天街の芝居はほとんどの場合、死者の目から過去を回想し、死んでしまったことでこの世では実現しなかった未来を幻視するという構造となっている。この「自由ノ人形」も例外ではなく、過去の私/現在の私/未来の私の三位一体としての私が登場して、失われた過去、そして未来がある種の郷愁(ノスタルジー)に彩られた筆致で描かれていく。この芝居ではひとつの街自体が姿を消してしまった情景が幻視され、失われた夏休みのことが語られるのだが、劇中に登場する言葉の断片から予想するにそれはおそらく原爆投下によって一瞬にして失われた命への鎮魂ではないかと思われるふしが強く感じられる。もっとも、天野はこの芝居でこの芝居の隠された中心点であると考えられる「死の原因」についてはほとんど迂回に次ぐ迂回を続けてそれをはっきりと正面からは明示しない手法を取っていく。この芝居では言葉の氾濫とも思われるほどの言葉が提示しながらも「中心点」にあえて直接は触れないことで、その不在の中心に陰画として、「原爆による死」が浮かび上がってくるような手法を取っているのである。

実はこの描かないで描くという手法(省筆といったらいいのか)は90年代演劇のひとつの特色ともいえ、松田正隆平田オリザといった90年代日本現代演劇を代表する作家が使ってきた手法でもある。それは現代人のリアルの感覚にも関係があることだと思われるが、本当のものをただ直接見せるのがリアルなのかに対いての拭いきれない懐疑がその根底にはあるからである。1例を挙げよう。これはテレビというメディアにも関係してくることなのだが、ニンテンドーウォーとも一部で言われた湾岸戦争テレビ映像あれは日本に住む我々にとってリアルだっただろうか。阪神大震災の映像、オウムによるサリン事件の映像はどうだっただろうか。現実でさえ、テレビブラウン管を通して見るとそこにはなにかリアルとはいえないものが張り付いてくるのだ。ましてや直接描かれるのがはばかられるような大問題をそのまま舞台に挙げて、それをそのまま演じるのは例えそれがリアルなものであっても、あるいはリアルなものであるからこそ現代人にとってはそこに張り付いた嘘臭さを見ないですませることは不可能なのである。

 もちろん、この種の表現というのは現代人の専売特許というわけではなく、古代人にとって人間の力を超えた「神」というものがそれでそれは寓話か隠喩の形を取ってしか語られ得ぬものであった。あるいは「死」というものもそういう側面を持っている。それは不在という形でしか語られ得ぬものである。その意味では天野の作品がこういう手法を取るのは「原爆による死」というものじゃなくても、それが「死」を中核に抱える演劇だからということがいえるかもしれない。   




 9月3日 青年座「天草記」(2時〜)、パーソンズダンスカンパニー公演(7時〜)を見る。




 9月2日 仕事が早めに終わったのでキブツコンテンポラリーカンパニーウイングド・ドリームス/エイド・メモア」(7時〜)を見にいく。 




 9月1日 少年王者舘「自由ノ人形」について遅ればせながら感想を書くことにしたい。その前に伝言板BBSにkikukoさんが詳細な感想を書いてくれて、それがすごく刺激的だったので、このページに再録させてもらうことにする。ここではいくつか質問のようなものも書かれているので、まずはそれに対して答えるような形でもって、私自身の感想を述べていくことにしたい。

「まずは、音楽と照明、スピーディーな展開で、引き込まれました。 しかし、途中まで、音楽とかぶる台詞をほとんど聞き取ることが出来ず、全く意味不明のまま進んでいくのがかなり辛かったです。面白そうな世界が目の前にあるのに、ただ過ぎるのを見送るしかないという状況が。子供の集団が出てきた辺りから、ようやく話を追うことができました。 ただ、その段階でも、まだストーリーに確信が持てず、もしかしてこういう事かな?と思いはじめ、ようやく話が繋がったのが、"過去の私・現在の私・未来の私"、"楽しくなるはずの夏休みだった"辺りです。ほとんど最後ですよね。(情けない〜) そして、観劇後色々考えてみて、だんだん"そういうことだったのか・・・"と思い始めて、 悔しい思いをしています。 細かい台詞や時間軸の辺りに注目しながら、再度見てみたいです。こぼすように溢れ出る言葉ですが、いつも、このようなテンポなんでしょうか?少々、1つ1つを味わいたいのにな、という気持ちにもなりました。ですが、芝居のあの速度が、滑空感や疾走感を感じさせたのだと思います。そこら辺が、 胸高鳴る原因だったのかな。

 あおいそら、入道雲、照りつける日差し、にじむ汗、ぬるい夜の空気、夕方の薄気味悪 さ・・・ そんな空気のようなものが、いろいろ感じられました。

夏の多面性は、そのまま状況(世界?)の多面性につながり、明るさ、悲しさ、衝撃、恐 怖、みたいな感情が伝わって来ました。

慣れない状況(2度目の自由席の芝居、少年王者館もザ・スズナリも初めて、連れもなく1人での観劇、等々)もあって、キンチョーしていたせいもありますが、気持ちが高揚するような経験でした。しかし、話を味わえなかったのは、かえすがえす残念です・・・」(以上カッコ内がkikukoさんの文章の再録)

 少年王者舘は私の好きな劇団であり、天野天街が才能のある劇作家であることに疑いを持ったことはないが、これまでこのページではまとまった形では天野作品についてコメントしたりするのは、役者評判記的なコメント(今回の公演では水谷ノブの存在感が抜群だったとかその手のもの)を除けば、あえて、避けてきた。それには理由があって、私の作品へ対するアプローチが分析的なものである限り、方法論的な限界を感じたからである。いきなり、白旗を掲げたような状況だがそれはどういうことなのかというと、天野作品に対して、その構造とか天野がその作品にちりばめている言葉の羅列なのから、なんらかの意味性ないし解釈の枠組みを読み取り、それを書くことはもちろん困難ではあっても可能なのだが、こと少年王者舘についていえばそうそた分析から抽出された解釈の枠組みは作品自体の魅力とほとんど関係ないゆえに、ことさらにそういうことを書きならベても無意味ではないのかと感じていたからなのだ。

 天野節(天野語)と称せられる独特の台詞回しによる台詞が俳優たちの群唱のような形で、重なりあい交錯しながら、短いシークエンスの場面がまるで早回しの映像のように次々と転換していくのが少年王者舘天野天街)の芝居なのだが、単位当りの情報量(ビジュアル、言葉ともに)が他の芝居と比べて圧倒的に多いのが天野の作劇の特徴である。ここには一見天野の芝居に託した様々なメッセージが含めれているかにも見え、事実、もし戯曲というテキストの形式にそれを落として、分析を行うとすれば確かに情報は含まれている。ところが、ここで上演された芝居自体をテキスト

考えるならばそうした情報は意味性という観点からすれば意味がない。なぜならば、それは情報としては人間というハードウエアの処理能力の限界をはるかに超えているがゆえに「意味性」は無化され、分節言語的な「意味」としてではなく、イメージの断片としてしか意識には届かずサブリミナルに意識の底に澱のように留まるだけだからである。

通常芝居の構造というのはそれが従来の演劇のおける起承転結のような枠組みを無視したようなもの、例えば平田オリザ、長谷基弘の演劇や断片的なテキストコラージュしていく山の手事情社のような手法であっても、ある程度持続した時間の流れのなかで進行していくもので、観客はそこに物語の構造を読み取る(通常ストーリーとも呼ばれる)わけだが、天野は通常の時間の流れを切断し、これをシャフリングしていくような操作を通して、物語の枠組み(意味性といってもいいかもしれない)を脱構築してしまう。もちろん、このバラバラにされた枠組みをジグソーパズルを組み立てるように組み立て直し、再解釈をほどこすのは可能ではあるのだが、そうすることで作品がより受容できるのかということについてはこと天野の作品については懐疑的にならざるをえないのだ。

 むしろ、少年王者舘の魅力は凄まじいばかりの情報の洪水、過剰性から起こる眩暈感に伴ういわば脳内麻薬的な快感にあるのではないか。人間の認識能力を超えた身体運動の過剰性によってやはり脳内麻薬的な快感を引き起こす作品を作っている表現者にフランフフルトバレエ団の振付家、W・フォーサイスがいるが、演劇、ダンス、そして言葉、身体言語という違いはあっても、フォーサイスダンス少年王者舘の芝居が観客の与える快感にはどこか同種のところが潜んでいるのではないかと思われるのである。だから、上記の感想で、kikukoさんが「まずは、音楽と照明、スピーディーな展開で、引き込まれました。 しかし、途中まで、音楽とかぶる台詞をほとんど聞き取ることが出来ず、全く意味不明のまま進んでいくのがかなり辛かったです。面白そうな世界が目の前にあるのに、ただ過ぎるのを見送るしかないという状況が。」と書かれているのは私には少年王者舘の本質に迫るまことに啓発的な感想だと思われ、興味深かったのである。

 さて、私の場合、「関係性の演劇」など作者の提示する作品の構造そのものが問題になってくる演劇においては隠された関係性、あるいは重層的にさまざまなレベルで提示されている関係性(つまり意味性)を読み取ることがその作品を楽しむための重要なファクターだと考えているわけなのだが、こと少年王者舘に関しては作品に対して向き合うアプローチをまったく変えてしまっている。というのは、そこに含まれる全ての情報にアプローチしようと生理的にそもそも不可能なことに拘泥することは当然それは出来ないというフラストレーションにつながり、生理的な不快につながるもとになってしまう。それで、本来得られるはずの快感が失われてしまうのはあまりにももったいないからである。

 もっともだからといって、そういう快感にゆだねるという作品と私との関係があるからといって王者舘の作品はどれも同じなのかといえばそういうわけではない。ここでようやく、少年王者舘論ではなく、「自由ノ人形」についての本論に入ることができる。(はずなのだが、時間が尽きてしまったのでこの続きは後日)。


 










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中西

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